後漢

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後漢の噂(一般)

  1. 五感成立
  2. 強姦ではない
  3. 光武帝が博多の酋長を倭人の代表と承認し、「漢委奴国王」の金印を与えた。
    • 仲良くしようという意味ではなく、家来という意味らしい。
    • 「カンのワのナの国王」「カンのイドの国王」の二通りの読み方が考えられる。
      • 「ナ」は博多周辺にあったことが確実視されている国。「イド」は魏志倭人伝に出てくる「伊都国」(糸島半島にあった?)と同じところと思われる。
  4. 金印を送る。

後漢の皇帝

  1. 光武帝、明帝を除くと全員10代以下で即位、40歳以上まで生きた皇帝は献帝だけだった。
  2. 歴代皇帝は病弱という以前に、ほら、後宮って常に女ばかりだからさ(以下略)
    • 女ばかりの後宮は別に後漢だけの話ではないぞ。
    • どうやら、服用していた薬がいけなかったようです。水銀や砒素などが調合されていたので……
    • 不老不死夢見て水銀飲んだ挙句、早死にした。

光武帝

  1. 前漢の宗室の出ではあるが、皇族というほど近い関係ではない。無数に居た子孫のひとり。
    • 大丈夫!後の自称「中山靖王の子孫」よりは身元がしっかりしているから。
    • 他の皇族たちは考えもなく挙兵→返り討ち。劉隆、劉嘉は主体性なくていつの間にか配下に。劉玄はアル中。劉子興は偽物。劉永は奮闘したものの、二十八将の中では有数の頭弱い蓋延に討ち取られる始末。まあ戦後の適任がいなかったからとも。
  2. だから別の国号を称しても良いくらいだったが、人心を安定させるため漢の継承をとなえた。
  3. これでわかる通り、王朝の創始者にしてはけっこう保守的な人。
    • 奴隷解放令を度々出し、税金を3分の一にする大減税を行い、役所の大幅リストラをした人を保守的というのは違うかと。
    • 雲台二十八将という中ニ病ネームくさい戦隊を結成。予言書(赤伏符)の運命に従って集まったらしいが、特に合体技とかは無い。
    • ↑のメンツは。鄧禹、呉漢、賈復、耿エン、寇恂、岑彭、馮異、朱祐、祭遵、景丹、蓋延、銚期、耿純、臧宮、馬武、劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂、傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、萬脩、ヒトウ、劉植
  4. 若い頃の口癖「官に就くなら執金吾、妻をめとらば隠麗華」
    • 「陰麗華は俺の嫁!」発言が歴史に残ってしまった。
    • 望み通り隠麗華と結婚でき、地位は執金吾(警視総監)を遙かに超えて皇帝になってしまった。
    • 想い人のあの子は10歳年下。嫁発言は劉秀20歳ごろ、陰麗華10歳。重度のロリコン趣味であった。
  5. 性格は、温和で質素。挙兵した時に馬を買う金が無いので牛に乗って戦場に行った
    • 姉と姪っ子を殺した岑彭を許して配下に加え。兄を殺した敵将・朱鮪を許し。敵はジェノサイド主義の呉漢が大司馬。これを温和とみるか、薄情と見るかで印象変わる。裏表の顔の使い分けはご先祖さん(劉邦)並にパネェ。
  6. よく冗談を言って家臣を笑わせていたが、嫁の陰麗華にはウケがよくなかったらしい。オヤジギャグ?
  7. 夜遊びしていて城門が閉まってしまい、朝まで城の外で過ごしたことがある。門番に皇帝であることを告げて顔を見せても開けてもらえず。
    • 頻繁に夜遊びして諌めても聞かないので怒った家臣がわざと閉め出したらしい。しかも複数回。本当に偉大な皇帝なのか・・・。
  8. 美人の姿を描いたお気に入りの屏風を会議中にチラ見して、家臣に「ちゃんと聞いてください」と怒られた。
  9. 宴会の席で美人画の屏風コレクションを並べて自慢していたら、家臣に叱られて慌てて撤収。
  10. おそらく中国の歴代皇帝ではピカ一。あまりに偉大で欠点がないため、却って小説のネタにならず、知名度が低くなってしまった。
    • 匹敵できるのは唐王朝の太宗ぐらいしかいない。また、袁紹にせよ曹操にせよ、やっていることは彼の猿真似だったりする。
    • 風見鶏のような諸豪族をまとめ上げたカリスマ性、生涯一度も功臣を粛清しなかったと言われる知己。ほぼ完璧に近い。
  11. 出自が極道上がりの劉邦・劉備と比べると育ちはよいが、若いころに長安で運送業を営んでいたりする。
    • 県令の三男坊→漢朝あぼーんして没落貴族→執金吾になるため長安留学→学費足りなくて蜂蜜売り、運送業のバイト始める→留年するし。執金吾の審査に落第続きで傷心帰郷→劉嘉に使われて荘園経営&自分で売り子も兼ねる。アニキの劉伯升が「俺は劉邦になる」と抜かしてニートを止めない。将来に不安を覚える。→アニキの挙兵失敗に巻き込まれ、自分も反乱軍の仲間にされる。育ての叔父さん泣く。挙兵するまでかなり職を転々した皇帝。
  12. 「お爺さん、かくしゃくとしていますねえ」の「かくしゃく」は彼が考案した単語だったりする。
  13. 数十万を号する敵兵にわずか数千で挑み完勝した猛将でもある。でも本人は基本的に戦争の話題は嫌い。
    • 統一までに。萌え萌え男の娘将軍、祭遵・有能なヒキコモリ将軍、馮異・仁将に転向してから呉漢の後始末任せてた、岑彭など、二十八将の大半と、親兄弟の死に目に会えば、ねえ……。生き残ったのは、ろくでもない連中が殆どなのは世の常。
  14. 晩年は怪しげな占いに傾倒。でも政務は疎かにしていないので周囲は黙認。
    • 自分や首脳陣が若かったので、権威付けに利用しただけ。戦後、光武帝の偉業で甘露が降ったと讃える群臣を「何でもかんでも俺のせいにすんな」と却下してる(^^;。

明帝

  1. 国境封鎖をゆるめ、西方への影響力を行使し始めた。
    • その結果、「西域の鬼神」と呼ばれる班超将軍が台頭した。
  2. 皇后は馬氏。建国の元勲・伏波将軍馬援の娘。稀に見る賢夫人でした。
    • 馬援は建国の最後の方の敵だった隗囂が元主君。公孫述が友人だったので、直接天下統一事業には参加してない(引き抜き外交のみ協力)。彼の活躍は、外国遠征。
    • 馬氏を推薦したのは皇太后の陰麗華。晩年の馬援は、彼のバカ真面目さにムカついてた人の悪口で光武帝と仲たがいしたまま逝ったので、子供の代で仲を修復するよう、取り持ったもよう。

章帝

  1. 後漢がいちばん安定した時期の皇帝。
  2. 皇后は竇氏だが、しゅうとめの馬氏に較べると、権勢欲が強くて嫉妬深い女で、皇子を産んだ側室をふたりも殺害した。
    • 次の和帝が幼少だったので、その時期も権勢をふるい、兄の竇憲を大将軍に取り立てて専横をきわめた。

和帝

  1. 宦官・鄭衆と図って竇一族を粛正。鄭衆自身は有能な人格者だったが、これ以後、宦官がのさばりはじめる。
  2. この時代、蔡倫が紙を現在ある形に改良。
    • 「発明した」とまで言うのは言い過ぎ。似たような物はそれ以前からあって、蔡倫はそれを作りやすく使いやすいものに改良したのだった。
  3. 西域ではまだ班超が大活躍。一方その兄・班固と妹・班昭により「漢書」完成。すごい兄妹である。

殤帝

  1. 生後百余日で即位、半年後に崩御。
    • 和帝の皇后・鄧氏の差し金。もっと年上の息子も居たのに……

安帝

  1. 殤帝の従兄にあたる人で、やっぱり鄧氏の差し金で即位。
  2. 鄧氏は皇太后として、兄の鄧隲を大将軍に起用し政務を専断。
    • とはいえ、他の外戚に較べると、節度ある態度だったらしい。
    • それでも安帝は成長するに従って煙たく思い、皇太后が死ぬと皇后・閻氏および宦官・李閏と図って鄧一族を粛正。
    • ようやく実権をつかんだかと思いきや、今度は閻一族に牛耳られてしまった気の毒な人。

少帝

  1. 殤帝・安帝の従弟にあたる人で、閻氏の差し金で即位。
  2. 閻氏は少帝を担いで、一族で政務を専断しようとしたが、宦官・孫程たちに阻止され、一網打尽。少帝も廃位・暗殺された。

順帝

  1. 宦官たちに擁立されたので、お礼に宦官を諸侯に封じ、養子をとって家産を相続できるようにした。
    • この皇帝が居なければ、「宦官の孫」である曹操は出現し得なかったであろう。
  2. 皇后は梁氏。この兄が、跋扈将軍として専横の限りを尽くす梁冀。

冲帝

  1. 2歳で即位、半年後に崩御。

質帝

  1. 7歳で即位、8歳で崩御。
  2. 大将軍の梁冀によって、だいぶ遠い皇族の中から擁立されたが、案外と利発で、扱いづらくなりそうだったので、あっさり毒殺された。
    • 梁冀を見て「跋扈将軍」と言って怒らせたという。8歳の子供にしては言うことがませていた。

桓帝

  1. 大将軍の梁冀によって、だいぶ遠い皇族の中から擁立されたが、こちらはあんまり利発そうでなかったので21年間の治世をまっとうした。
  2. とはいえだんだん梁冀がうっとうしくなり、梁皇太后が死ぬと、宦官・単超らと図って梁一族を粛正……って、何度おんなじパターンを繰り返せば気が済むんだ?
  3. お礼に宦官を諸侯に封じた。
    • 宦官がわが物顔に官職を独占しているので、あぶれた知識人たちが「宦官追放」「俺たちにも官職よこせ」キャンペーンを張る。宦官も負けてはおらず、やかましい知識人たちを投獄する。世に言う党錮の禁。
  4. 自称ローマ帝国の使いが来たのはこの人の代。テストに出ますよ!

霊帝

  1. 桓帝に子がなかったので、だいぶ遠い皇族の中から擁立された。
  2. 官職を売りに出す。
    • 野にあった時だいぶ貧乏していたので、皇帝になったら贅沢ができるかと思って即位したところ、財政難で自由に使えるお金があんまりなかった。
    • 失望した霊帝が思いついたのが官職の販売だった。けっこうアイディアマン。
    • また、後宮内で模擬店を開き、みずから屋台のオヤジに扮して麺などを売り、小銭を稼いだ。一人前の麺を取り分けるのがものすごく上手だったらしい。
      • 皇帝になるより、商人にでもなっていたほうが、本人にとっても後漢王朝にとっても幸せだったに違いない。

廃帝

  1. 言語不明瞭な人。
  2. 袁紹たちが宦官討伐のため宮廷に攻め込んだ時、弟の劉協(献帝)と共に宦官たちに付き添われて逃げ出す。董卓に拾われるが、ろくろく返事もできなかった。
  3. 結局董卓によって廃位、その後殺される。
  4. 字だけ見るとかなりひどい名前な気がする。帝・・・
    • 「廃された皇帝」ってだけの意味ですから。

献帝

  1. 兄の廃帝より賢そうだったので董卓に擁立される。田舎者の董卓は、バカ殿を担いだほうが何かと便利だということを知らなかったらしい。
  2. 董卓やその部将たちの思惑のままに、あっちへ行ったりこっちへ行ったり転がされていたが、曹操に保護されて一安心。
  3. しかし、曹操が強くなりすぎたので、バランスをとろうと他の連中に肩入れし始めるが、失敗。
  4. 曹操の息子の曹丕に帝位を禅譲するが、その後破格の厚遇を受ける。献帝の側から要求したのかも。
    • 山陽公に封じられ、「朕」の一人称も認められ、日々の生活で使うものなどもすべて皇帝並みでOKだったのだから大したもの。
    • 帝位から下りてよほどのびのびしたのか、曹丕よりだいぶ長生きした。
  5. 諸葛亮と生まれた年と死んだ年が同じだったりする。
  6. 帝の地位を献上したので献帝と諡号された。
    • 蜀では愍(びん)帝と呼ばれた。
      • 「愍」は、天寿を全うできなかったような気の毒な皇帝に贈られる諡号。
      • 実は蜀には献帝が曹丕に弑されたと誤伝され、劉備はその後継者として帝位に就いてしまった。あとで献帝が生きていることがわかったが、今さら劉備の即位を取り消すわけにはゆかず、蜀では献帝の生存は触れてはいけない話題となった。
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