武将伝/中国

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バカ人物志/中国

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春秋戦国の武将

楽毅

  1. 燕の昭王に仕えた武将。
  2. もともとは中山という小国の宰相の息子だったらしい。
    • 中山が趙の武霊王に攻め滅ぼされると、諸国を転々とするが、とりあえず魏で就職。
    • 魏の使者として燕に行った時に、楽毅の器量を見込んだ昭王にヘッドハンティングされて転職。
  3. 昭王の悲願であった、南の大国・斉への復讐戦を、ごくわずかな期間で成し遂げる。
    • 楽毅に攻められた斉は、2つ3つの城を残して全部燕の版図になってしまう。
    • しかも占領地での住民の叛乱が一度も起きなかった。行政官としても卓越していたようだ。
  4. 昭王が没すると、次の恵王には嫌われ、召還される。
    • 楽毅は身の危険を感じて、趙へ逃亡し、恵文王に仕えるようになる。
    • 後任の将軍は、斉の諸城をたちまちとりこぼして元の黙阿弥に。楽毅の優秀さを皮肉な形で証明してしまった。
    • 孟嘗君は恵王を名指しで、「こんなバカな王は見たことがない」と批判したとか。
  5. のち、漢の高祖、諸葛孔明などに崇拝された。
    • 諸葛孔明は管仲・楽毅に憧れ、自分をそのふたりに喩えていた。ふたりとも軍事と行政に共に秀でていた。孔明は行政については管仲や楽毅に並ぶだけの才能を発揮したが、軍事に関しては残念ながら遠く及ばなかったようだ。

白起

  1. 秦の昭襄王に仕えた武将。
    • 昭襄王というより、宰相の魏冉に仕えていたと言える。魏冉が失脚すると、昭襄王の言うことを一切聞かなくなり、そのうち抗命罪により自殺に追い込まれる。
  2. とにかく戦争に強かった。どんな膠着した戦場でも、白起が参戦すれば必ず勝った。
    • ただし戦後の占領行政などに対する配慮は無かったらしい。そのため不必要なほどに人を殺し、街なども荒廃させた。
      • 長平の戦いで趙軍45万人を皆殺しにした話は有名。
        • 他にも万単位の虐殺はちょくちょくやっている。まあ、数字には誇張がありそうだが。
        • 昭襄王の命令で自殺する時、「俺はなんでこんな目に遭うんだ?」と自問。
          「そうか、敵を殺しすぎた酬いか」と自答して、納得して剣に伏した。最後でようやく気がついたらしい。

廉頗

  1. 趙の武将。刎頸の交わりの逸話で知られる。
    • 藺相如という成り上がり者の大臣を憎み、「顔を合わせたら必ず恥をかかせてやる」と息巻いていたが、その後藺相如の力量と忠誠心を知って大いに反省、謝りに行って意気投合し、「互いに頸をはねられても変わらぬ友で居よう」と誓い合った。
  2. の執拗な侵攻を巧みな用兵で妨げていたが、決戦を避けて秦軍の退却を待つ戦法を王様にじれったがられ、若手の将軍と交代させられてしまう。
    • その若手将軍は功にはやり、秦の白起の誘いにはまって、死者45万という大敗北を喫してしまう。
      • 数字は眉唾だが、趙軍がほとんど壊滅したのは確かだろう。
    • 白起は廉頗の交代後に着任したので、この両将の対決は微妙なところで実現しなかった。実現していたら戦史に残る名勝負になっていたかもしれない。
      • ……が、名将同士の戦いというのは、意外と地味なものかもしれない。

李信

  1. 秦の武将。近年漫画で株を上げつつある。
    • まあ史記だと王賁の引き立て役だしね。
  2. 子孫に詩人の李白がいる。
    • 粛清が多かった時代に唐代まで子孫を残すあたり、強運を持っていたに違いない。
    • 李広や李陵も彼の子孫。

秦漢の武将

章邯

  1. の二世皇帝の時、全土で蜂起した反乱軍を向こうに回して奮闘した武将。
    • もともとは財務官僚で、各地からの年貢などを集計する役職だったため、首都・咸陽でひた隠しにされていた反乱の実相をかなり正確につかんでいた。
    • 二世皇帝を籠絡して実権をふるっていた宦官・趙高に志願して将軍となる。趙高が軍事に疎かったため、配下の軍団も全部自分で作り上げた。
      • その際も首都に溢れていた無駄に厳しい法で罪人された者たちに「敵を倒せば罪は許され帰れるぞ」と言い、あっという間に十数万の死を恐れぬ兵を得る辺り、やはり名将。
  2. 函谷関突破を狙っていた陳勝の部将・周文の軍団を撃破。これが主力部隊だったため、陳勝はほどなく没落した。その後各地に転戦し、反乱軍を叩き潰しまくった。
  3. 連戦連勝だったが、鉅鹿を包囲している時に項羽軍に叩かれて大敗。
    • 本来まだまだ余力があったはずなのだが、咸陽に援軍を頼みに行った使者が、逆に趙高の指図で逮捕されそうになったことを知って落胆、項羽に降伏する。
    • 項羽は章邯の降伏を受け入れたが、配下の秦兵たちが不穏だったので(かつ、食糧が不足していたので)穴埋めの大虐殺。
  4. 項羽によって雍王に封じられる。「雍」はもと咸陽のあった関中台地を三分した地域。
    • が、漢中から噴出してきた劉邦の軍に押し潰される。
      • 将才は劉邦の比ではなかったはずなのだが、関中の住民には章邯を恨む者が多く、結局満足に戦うこともなく没してしまった。
      • そりゃあ、自分達の知人多数を見殺しにして、自分達の国を滅ぼした者に王にしてもらったなんて、恨まれない方が無理。

韓信

  1. の高祖(劉邦)に仕えた武将。
  2. もともとは淮陰という町のゴロツキ。
    • 他のゴロツキに因縁をつけられ、そいつの股をくぐったそうな。
      • 志が高かったので無用の争いを好まなかったのだと言われている。しかし単にヘタレなだけだったのかもしれない。
      • 後々も「股夫」とバカにされるが、それで敵が侮って油断してくれる面もあった。
  3. 項羽軍に属するが、鳴かず飛ばず。咸陽陥落の際、漢中に向かう劉邦軍に鞍替え。
    • 劉邦軍は人材が少なかったのでそこそこ出世。でも満足できなかった。
    • どこか見所があったらしく、蕭何、夏侯嬰など劉邦の側近に見込まれ、劉邦に推薦される。
      • 「国士無双」というのは、蕭何が韓信を高祖に推薦した時の言葉。
  4. あっという間に関中を陥として将才を証明し、劉邦配下の最強将軍と認められる。
    • 続いて項羽の本拠地だった彭城も、留守を狙ってあっという間に陥とす。ただし、激怒した項羽によりあっという間に奪い返される。
      • 彭城の時は諸国連合軍で韓信が率いていたわけではないのでノーカン。
    • 大将軍に就任した際に述べた現状分析は凄まじく的確。劉邦始め誰もが「なるほど、この男なら」と思われ、実際にそうなる。
  5. 彭城の潰乱後は、主に北方戦線を担当し、趙、代、斉などの国々を攻略。
    • 「背水の陣」や「半渡の計」など、兵法史に残る奇略を次々に編み出し、僅かな期間で巨大な版図を得てしまう。
    • 劉邦から離れ、第三勢力となるべきだと説く者も居たが、根が小心者だったようで、その戦略には乗らなかった。
    • 敵より少数であること多々、ごく少数であることも有。更に敵地に入る侵攻戦で敵将も戦慣れしたもの多数。それで全勝だから。
  6. 漢帝国成立後は王に封じられるが、功績が大きすぎて警戒され、しょっちゅう謀反説がささやかれて居心地悪いこと甚だしかった。
    • ついに淮陰侯に格下げされてから、ガチで謀反を企むが、すでに遅すぎた。捕らえられて処刑される。
      • それも捕らえたのが韓信を見出した蕭何だったというのがまた運命の皮肉すぎる。
    • 劉邦が困っている時に韓信が自分を高く売りつけたが、その恨みを劉邦が忘れていなかった説もある。
  7. 将棋以上の競技人口を誇る中国のボードゲーム「シャンチー」は韓信が発明したと言われている。

李広

  1. の文帝・景帝・武帝の三代に仕えた武将。
  2. 後に呂布の呼称にもなる「飛将軍」は、元々彼の二つ名である。
  3. 大きな岩を虎と思い込んで矢を打ち込んで、見事に刺さってしまった。思い込みってすごいね。
  4. 晩年は自分より年下の大将軍衛青の配下で匈奴討伐に出るが、ちょっとした行き違いから失敗し責任をとって自刎してしまう。

周亜夫

  1. の景帝に仕えた武将。
  2. 高祖の配下で、恵帝の時に丞相を務めた周勃の息子。二世武将としては出色と言うべき。
  3. 景帝に叛旗を翻した「呉楚七国の乱」を丹念な戦略で平定する。

衛青

  1. の武帝に仕えた武将。
  2. 武帝の皇后だった衛氏(衛子夫)の弟。霍去病は彼の甥にあたる。
  3. 幼少期は父親(とされる人)の家で奴隷のように扱われていたのが、姉の七光り+実力で大将軍までのぼりつめた。
    • そのため腰が低く卑屈な性格であったようで、武帝に媚を売っていると思われて当時の人には受けがよくなかった模様。
    • 対照的に霍去病はそういう出自ではなかったのも下にあるようなキャラに育った一因と思われる。
  4. 李広が自殺したのは自分のせいでもあるという自覚があり、親を殺されたと恨みに思った李広の息子に殴られても何も言わず秘密裏に処理しようとするが、甥っ子が黙ってなかった。

霍去病

  1. の武帝に仕えた武将。
  2. 武帝の皇后だった衛氏の甥。ちなみに衛氏の弟(衛青)も優秀な武将だった。
    • 性格は正反対であったが、かえって二人の仲は良かった模様。
  3. 匈奴の軍団を完膚無きまでに撃破。漢帝国成立以来の快挙を成し遂げる。
    • この頃、鏃(やじり)に鉄が使われ始めたということも大きかったらしい。
    • また叔父の衛青は若い頃国境付近で牧童をしており、匈奴の実情をよく知っていた。
  4. 没年24歳。青年将軍というよりほとんど少年将軍だった。これはもう天才であるとしか。
    • 兵糧不足で飢えつつある兵士たちを尻目に豪食していたり、しょっちゅうポロにうつつを抜かしていたり、わりと傍若無人なキャラだったらしいが、その天才ぶりで許されてしまっていたようだ。
      • 寧ろ彼の場合は長生きしなくてラッキーだったのではないかとも思う。
    • おそらく霍去病に罹患していたのだろう。

李陵

  1. の武帝に仕えた武将。
  2. この人も匈奴を相手に戦うが、以前の衛青や霍去病の大活躍に較べると、その活動は地味。
    • というか、衛青や霍去病の後任はみんな見劣りする。まあ仕方がない。
  3. 孤軍奮闘するも力及ばず、匈奴に降伏。
    • どっちかというと援軍を送らなかった武帝が悪い。いや、すでに国庫が傾きつつあるのにいい気になって軍事行動を繰り返させていた武帝が悪い。
    • 武帝も自分の落ち度をちょっと反省していたのかもしれない。李陵を弁護した司馬遷のち*こを切り落とすような極端なことをしたのは、痛いところを突かれたからだったかも。
  4. 中島敦の小説になったので、古代中国の人としては、日本での知名度はかなり高い。
    • 「史記」を訳しただけなのに、なんでこれが小説なんだ、といぶかしんだ人も居た。

馬援

  1. 後漢の光武帝に仕えた武将。
  2. もとは牧場主。
    • もっと前はの小役人として囚人護送をしていたが、囚人達を逃がしてしまい、自分も逃亡して北方で牧畜を始める。
    • 経営の才能と気っぷの良さで、多くのカウボーイに慕われる親分となる。これが馬援の自前の軍勢となる。
  3. 群雄のひとり隗囂の配下となるが、使者として訪ねた光武帝と意気投合して乗り換える。
    • 厳密には、隗囂を光武帝の軍門に下らせたが、そののち隗囂と光武帝が不仲になると光武帝についた。以後、光武帝の片腕として活躍する。
    • 光武帝は馬援の娘を自分の息子の嫁にする。後漢第二代・明帝の皇后となったわけ。
      • 馬皇后は稀に見る賢夫人になった。皇后一族が跋扈することの多かった後漢王朝だが、馬皇后は自分の縁者はほとんど登用しなかったという。
  4. 「矍鑠(かくしゃく)」という言葉で評された第一号。
    • 晩年、叛乱を鎮圧しに行こうとしたところ、光武帝に「卿ももうトシだから無理は良くない」と言われた。「なんの、まだまだ元気ですぞ」と馬に飛び乗ると、光武帝は苦笑して「矍鑠たるかな、この翁!」と叫んだそうな。
  5. ベトナムでは敵役。
    • 「ベトナムのジャンヌ・ダルク」と呼ばれるチュン姉妹の叛乱を制圧したため。
  6. 死後しばらく汚名をこうむっていたが、のち名誉回復。
    • 叛乱軍から没収した財宝を着服したと疑われた。
      • 車に燕麦の種籾を積んで、幌をかけて密閉しておいたのを誰にも見せなかったので、財宝だろうと思われたらしい。ちょっとイタズラが過ぎた。
  7. 先祖は廉頗や藺相如と並ぶ趙の名将・趙奢。子孫に三国志で知られる馬騰、馬超親子がいる。

班超

  1. 西域の鬼傑と呼ばれた武将。後漢の明帝・章帝・和帝に仕えた。
  2. 西域諸国に対する覇権を匈奴と争い、多くの国を服属させた。
    • 班超が居るうちはよく治まり、他の人に引き継いで居なくなるとたちまち乱れた。根っから西域行政に向いていたとしか。
      • 洛陽に帰ろうとした時、班超の馬の足にすがりついて引き留めた国王も居たそうな。
    • ローマにも使者を出したが、シリアまでしか行き着けなかった。
      • シリアの船乗りに海路の困難さを脅かされてびびったらしい。地中海なんだから古くから航路も発達していたし、問題は無かったと思うんだが。
  3. 班超の兄・班固と妹・班昭は司馬遷の「史記」に続く史書「漢書」を編纂した。この兄妹、すごすぎる。
    • もともと班超は学者一家の生まれでもちろん彼もそうなるように育てられたが、彼自身はそれを良しとしていなかった。
  4. 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という名言を残した。

晋・南北朝の武将

杜預

  1. 晋の武帝に仕えた武将。
  2. 三国時代に終止符を打った将軍。三国の中で唯一残っていた呉を亡ぼして、晋による天下統一を果たした。
    • 攻勢をかけることを渋る武帝に対し、「呉は暗君(孫皓のこと)が上にいて国内が乱れており、今が攻めどきですよ。もしこのさき明君が立ちでもしたら、あなたの手には負えませんよ」と(もう少しやんわりと)おどかして決断させる。
      • 呉を攻め落とした時にドヤ顔で「ど~よ」と言ったとか言わなかったとか。
  3. 「左伝癖」を自称。「春秋左氏伝」マニアということ。
    • 現代に伝わる「春秋左氏伝」のテキストは、すべて杜預が校訂したもの。曹操の「孫子」校訂と並ぶこの時代の偉業である。
    • ちなみに関羽も「春秋左氏伝」が大好きだったらしい。
  4. を代表する詩人・杜甫は彼の子孫らしい。
  5. 武将なのに、馬に乗れなかったらしい。
  6. 博多弁とは関係ない。

宇宙大将軍

  1. 名前は侯景。
  2. 「漢の太祖」と称して短期間ながら帝位に就いていたので、「王侯伝」に載せても良いのだが、首都・建康以外にはほとんど影響しなかったので、まあこちらでいいか。
  3. もともとは北朝の東魏で、実力者の高歓の死後その息子と反目していた。そこへ南朝の梁の調略を受け、一緒に東魏を攻めることにする。ところが梁軍が東魏にボロ負けし、和平交渉が始まると、身柄を東魏に売られるのを怖れて逆ギレ、矛を返して梁を攻める。
    • 梁軍はこの逆ギレ部隊にもかなわなかった。というより侯景の進撃につれてあちこちから叛乱軍が集結し、大軍団になってしまった。
      • 梁の武帝は名君だったが、この頃は過度の仏教保護で重税となり、各地に不満分子が多かったらしい。
    • ついに建康を囲み、5ヶ月の包囲戦ののち陥落させる。侯景は武帝の前にまかり出たが、最初は位負けして口もきけなかったそうな。
  4. 建康陥落で気落ちした武帝は間もなく没し、あとを継いだ簡文帝から宇宙大将軍の称号を贈られる。
  5. 簡文帝を弑殺し、甥の蕭棟を即位させて禅譲を受ける。しかし江陵にいた簡文帝の弟(のちの元帝)が差し向けた王僧弁・陳覇先の両将に攻められて敗死。
  6. それにしても中国史上もっとも壮大なスケールの称号を持った男であった。
    • グレートマジンガーの「暗黒大将軍」よりさらに上位っぽい。
    • 「宇宙」と書いて「そら」と・・・読まないか。
    • 後世の例えばアニメとかのネタかと思ったら、史実だけに怖い。

木蘭

木蘭

隋唐の武将

尉遅敬徳

  1. の太宗に仕えた武将。
  2. 苗字の「尉遅」はたぶん「ウルチ」と読み、同時代の高句麗の武将・乙支文徳とおそらく同族。
    • 太宗の高句麗遠征を諫止したのも、同族があっちにたくさん居たからかも。
    • 「胡敬徳」という名でも知られる。「西遊記」にはこの名で出てきた。
  3. 最初は唐に対抗していた劉武周の部将だったが、劉武周が唐軍に敗退してのち、李世民(太宗)に説得されて移籍。以後、太宗配下の随一の猛将として大活躍。
    • 玄武門の変の時も、太宗の弟の李元吉を射殺したり、高祖に引退を迫るなど大殊勲を挙げる。
      • 元吉は、尉遅敬徳が太宗側についたと知った時点で、「あいつが向こうについたんじゃ勝ち目はねえよ」と戦意喪失したそうな。
  4. 水滸伝の孫立、孫新兄弟の渾名「病尉遅、小尉遅」の元ネタになった人。

高仙芝

  1. の玄宗に仕えた武将。
  2. 高句麗の遺民出身。「高」の姓は高句麗のこと。
  3. 上官を差し置いて朝廷に報告を送ったり、戦利品をがっぽりためこんだりと貪欲な男だったが、下の者に対しては気前が良かったので、配下の兵たちには人気があったらしい。
    • パミール地方の戦役の時上官であった夫蒙霊詧は、高仙芝が勝手に報告書を出したので怒りまくり、
      「犬のハラワタを食らう高句麗野郎!犬の糞を食らう高句麗野郎!」
      と罵った。
      • 当時の民族的偏見のひどさの一例とされるが、犬食とか糞食とかって、もしかして……<丶`∀´>
  4. タラスの戦いでアッバース帝国軍に惨敗。
    • タシケントを非常に卑怯な方法で攻略し、国王を斬り財宝を奪ったので、遺された王子がアッバースに泣きついた。
    • 最大の敗因はカルルク族部隊が寝返ったことだが、敵からの調略があったのか、それとももともとカルルク族が心服していなかったのかは定かでない。
    • この戦いで捕虜になった唐軍兵士の中に紙漉き工が居て、紙の製法が西方に伝わった話は有名。
    • 惨敗したが、帰還した高仙芝にはおとがめがなく、かえって出世している。この辺が玄宗のぬるいところで、のちに安史の乱が起きたのも玄宗のこの性格によるところが大きい。
    • 出世はしてないんだが、なぜか↑のような誤解が広まっている。
  5. 安禄山の乱で消極的な戦法をとり、結局糾弾されて処刑された。
    • 監軍になっていた宦官の辺令誠の言うことを聞かなかったので讒言されたためで、戦法そのものは誤っていなかったと評価されることが多い。
    • しかし辺令誠は西域時代からの昔なじみであり、進言を無視されたくらいで讒言する人物とも思えない。何か問題があったのだろう。

宋元の武将

岳飛

  1. 北宋末~南宋初期の武将。
  2. 「精忠報国」というタトゥーを入れていた。
  3. 戦争にはなかなか強く、金軍の制圧下の町をいくつも奪回した。
    • ただしよく見ると、金軍の手薄なところを攻略していただけで、金軍の主力と正面から交戦したことは無さそうである。つまり、局地戦で小刻みな勝利を得ていただけで、戦局を大きく覆すほどの大勝とは言えない。
    • 逆に、和平を進めたい側としては、岳飛が変に小刻みな戦勝を繰り返しているのが実に不都合だった。それで難癖をつけて誅殺してしまった。
      • 「史上最低の腹黒宰相」であった秦檜が高宗に讒言して殺したと言われているが、実のところ和平派のボスは高宗自身。岳飛の悲運は、自分が頑張ることが高宗の邪魔になっていることに最後まで気づかなかった、ものすごく空気を読めない点だろう。
  4. とある作品では梁山泊の面々を討伐している。

明清の武将

袁崇煥

  1. 末の武将。
  2. 山海関に常駐して満洲族の侵攻を防いでいた。
    • なかなかの名将で、彼が山海関に居るうちはヌルハチ(清の太祖)もホンタイジ(清の太宗)も手も足も出なかった。
    • かつて袁崇煥に罰せられた部将の配下を捕虜にしたホンタイジは、彼らを北京に送り込んで袁崇煥を讒言させた。明の崇禎帝は讒言を信じて袁崇煥を召還し処刑。
      • 明は最後の名将を自らの手で葬ってしまったことになる。
        • でも、支配者よりカリスマのある部下がいれば、疑心暗鬼になるというのは洋の東西、古今を問わないと思う。

呉三桂

  1. 末~初の武将。
  2. 袁崇煥の後任として山海関を守っていたが、清軍と競り合っているうちに明王朝が李自成に亡ぼされてしまう。
    • もちろん李自成からは投降の勧告が来た。呉三桂は一旦その気になりかけたが、愛妾の陳円円が李自成の部将・劉宗敏に奪われたと聞いて激怒。
    • でも自分だけで李自成に勝つ自信がないので、あっさり山海間を開けて清軍を引き入れてしまう。
    • 呉三桂としては、清軍を自分の配下に加えるつもりだったのだが、清の摂政王ドルゴンのほうがず~っとうわ手で、またたく間に呉三桂を配下にしてしまう。
  3. 女ひとりのために国を夷狄に売り渡したってんで、歴史上の人物としては実に評判が悪い。
    • ただし、国内の争いのために異民族を引き入れるというのは中国史ではよくある話で、呉三桂が特別性悪の売国奴だったわけではない。その異民族に早々と主導権を奪われてしまった点が愚かだっただけ。
    • また、女のためだけだったかどうかも微妙。そのほうが面白いから定説化してしまっただけのような気がする。
  4. 清の天下になってから、藩王として待遇される。
    • かなりの厚遇だと思うのだが、しばらくして不満を覚えて叛乱を起こし、結局斬られる。
      • 自分が天下を盗るつもりだったのかもしれない。
      • 清の朝廷にはめられて、叛乱に追い込まれただけとも考えられる。

僧格林沁

  1. 清末頃の蒙古騎兵を率いていた将軍。モンゴル族。
    • 軍閥もうかつに清朝に文句を言えないぐらいの最強部隊だったらしい。
  2. そのせいか、清朝の宮廷にはウケがよく、最終的には、親王にまで昇進。
  3. 最期は、酔っ払って出撃して馬から落ちて部隊が壊滅したからだとかなんとか。