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2010年5月17日 (月) 19:45時点における>人造人間だみゃ~んによる版 (→‎服部正成)
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戦国武将

蜂須賀正勝

  1. 通称は蜂須賀小六。豊臣秀吉の家臣。
  2. もともとは尾張と美濃の境目あたりに蟠踞していた地侍集団「川並衆」の頭領。
    • 盗賊だったというのは中傷。でも盗賊なんか一切しなかったというのも美化し過ぎ。
      • 子孫がこのネタで明治天皇にからかわれている。
        • 明治天皇の煙草かなんかをついくすねたのがばれて「血は争えんな」と言われたんだっけか。
        • でも蜂須賀家は11代将軍徳川家斉の子を養子にしているので、明治の子孫と小六の血はつながっていない。なので結局は明治天皇の勘違い。
    • 要するに通常は水運などに従事し、時には傭兵となり、時には盗賊働きをするような集団だった。
      • 鎌倉時代末期~南北朝時代に活躍した「悪党」みたいなもんだな。
  3. 秀吉は最初、織田家と川並衆のつなぎ役だったと思われる。信長が美濃を制圧した頃から正式に秀吉の下についたのだろう。
  4. 小六自身には、そんなに目立った武功は無く、むしろ事務方の役割が多かったようだ。
    • いかつい荒武者というイメージは修正すべきかも。小さな運送会社の社長(自分も作業服を着て積みおろしなどやり、夜は帳簿とにらめっこして唸っているような)をイメージすれば近い気がする。
  5. 矢矧川の橋の上で、寝ていた藤吉郎少年を蹴飛ばしそうになったのが、後の天下人との出会いだった……というのは後世の創作。
    • そもそも当時の矢矧川に橋はかかっていない。夢も希望もあったもんじゃないな。
  6. 大河ドラマでは格闘家が演じることが多い。
    • だから「いかつい荒武者のイメージ」は修正すべきだとwww
      • 「おんな太閤記」の前田吟はいいキャスティングだったと思う。
        • 前田吟自身が気のいいおっさんキャラだから。

服部正成

  1. いわゆる服部半蔵。
  2. 忍者衆を束ねる存在であったが、自身は忍者ではなかった。
  3. 何でこれで「はっとり」と読むんだろう?
    • 上代に紡績や被服をつかさどる部署として「はたおりべ(機織り部)」が置かれ、これに「服部」という字を宛てていた。そのうち「べ」が落ち、「はたおり」がなまって「はっとり」となった。
  4. 「神君伊賀越え」の際に先導者として活躍したらしい。一応自分の古巣だし。
  5. サッカーでFWのポジションが得意だったらしい。忍者ハットトリックんだけに。

福島正則

  1. 「賤ヶ岳の七本槍」の一人。
    • 実際は九本槍。しかし二人が戦死した為七本槍と喧伝される。
  2. 加藤清正と仲良し。「オイ市松」「何だ虎之助」と互いを呼ぶ間柄。
  3. 気の荒い大名扱いされやすいが、なかなかの人情家でもある。
    • 関ヶ原の合戦で敗れ、八丈島に流された宇喜多秀家に酒贈る(実際は正則の飲む酒を運ぶ船が嵐を避ける為八丈島に避難した際に秀家に酒求められ、贈ったのがきっかけ)とか、少年時代に暑さで死にかけたところを救ってくれた尼僧には米を毎年贈る等、結構義理堅い。
      • 尾張から安芸に移るとき、代わって尾張に入る大名に尼僧の世話を頼み込んでいったという。
  4. 広島城修築を将軍家に無許可で行ったのが仇になり、信州へ追い出された。
    • 追い出された先の信州では結構善政敷いたとか。田の等級別に年貢定めた「福島の棹受帳」や松川堤防を千両の予算で改修したという「大夫の千両堤」が残っているという。
  5. 清正とは反対に、仕事は家臣に丸投げだった。
    • だがそのおかげで政務にも軍務にも人材がそろっており、これも加藤家とは反対に、改易後の再就職は引く手数多だったとか。
    • 江戸から改易伝える役人が来る時「主人直命書無くして城地明け渡しならざる」と家臣団が一致団結。直命書が届くや全員正装で整然と城地を明け渡した。
  6. 短気で凶暴おまけに酒乱という、三国志の張飛を思わせる人物。
    • 少年時代に些細ことから人を殺してしまったが、「人を殺すのがこんなに簡単なら、俺は出世できるに違いない!」と考えたのが武士になる第一歩。
    • 酔っ払って家臣に切腹を命じてしまい、酔いが醒めてから家臣の死を知って号泣した。
  7. 実は朝鮮出兵にはほとんど参加してない。

古田重然

  1. ゲヒ殿。
    • 「へうげもの」ファンに付けられた織部の渾名。
    • 織部の菩提寺は、同じく最近人気が高まっている曾我蕭白の墓もある。
      • そのせいで、参拝客増加に伴いゴミも増えて、お寺の方が迷惑しているらしい。これから訪ねようと思っている方はご注意を。
  2. 茶道の大家で、古田織部の名で有名。
    • 茶碗は高値で取引される。
      • 歴史的意義を考えると、茶碗のような茶道具よりも、懐石で使う食器の方が重要。
        • 中世まで漆器やかわらけ(素焼きの粗末な土器)、貴族なら中国からの青磁や白磁といったレパートリーしかなかったが、志野焼や織部焼以降一気に食器の種類が増える。
          • 室町時代と江戸初期に描かれた全く同じ題材の絵巻物を比べると、後者は人物や建物の描写は全く室町時代のものと同一でありながら、膳上の食器の種類だけが明らかに増えている。
        • 食器に拘った北大路魯山人も織部焼のやきものをいくつも作っている。歴史的経緯を考えれば当然か。
    • ちなみに茶道の本を読んでも、殆ど載ってない。特に千家関係者が書いた本には。
      • 史料が少ないからしょうがないのだが、いくら何でも少なすぎ。
      • 古本屋や図書館を駈けずり回っても、古田織部の本はなかなかない。「へうげもの」の資料集めは本当に大変だと思う。
  3. 大坂の陣で、現職の大名としてはただひとり豊臣方についたらしい。
    • 旗幟を鮮明にしたわけではないので「らしい」という言い方にとどまる。
    • 配下の木村某が豊臣家と通じて京都に放火したりした。暗黙の了解は与えていたようだ。
      • 仮に事実だとしても、部下が勝手にやったことで織部は知らなかった、と桑田忠親先生は推論してた。
    • 秀頼の遺児・国松をかくまったという噂もある。
    • そんなこんなで京都所司代の板倉勝重に逮捕され、切腹を命じられるが、ひとことも抗弁しなかった。その理由はいろいろ想像できる。
    • はっきり言って謀反は濡れ衣だと思う。
      • 山崎の合戦や関ヶ原でもきっちり勝ち馬に乗ってのたのに、ここへ来てしかも前より遙かに先を読みやすい大阪の陣の勝敗を読み誤るなんてありえん。
        • 耄碌してた?大阪冬の陣で茶杓に手頃な竹を手に入れようとして、敵に狙撃されて軽傷を負うくらい元気ですよ?。
      • 秀吉に恩があったという人もいるが、織部が本格的に活躍するのは秀吉死後、しかも秀吉は織部が敬慕した利休の仇に当たる。身を賭してまで豊臣家に尽くす動機は薄い。
    • 織部の死も利休の死の理由と同じように、茶の湯のもつ革新的な思想、特に「茶の湯では人間皆平等」と「道理にかなっていれば何をしてもよい」というのが幕府に危険視されたと思う。
      • 「安定」を最大のコンセプトにする幕府にとって、一向一揆を引き起こした平等思想は危険思想に他ならない。
        • 江戸時代以降も、茶の湯における平等は建前として残り、茶道は武士や町人が身分に分け隔て無く接する場として機能するけれども、もはや桃山時代のような激しい緊張感を伴った創作の場では無くなってしまう・・・。
      • 近世の法観念を表す言葉に、法は道理に勝るという「非理法権天」という言葉がある。法律を作って世を治めようとする幕府からすれば、道理に適ってさえすれば、大切な器物をぶっ壊すことも厭わない織部は、危険人物にしか見えないだろう。
        • 織部の死の直後に武家諸法度が出されているのは、なかなか象徴的だと思う。
  4. 織部とはオリーブの意味という説もある。

北条氏照

  1. 炎の蜃気楼のおかげで北条四兄弟では一番人気がある。

北条氏政

  1. 父親の後を継いで着実に所領を拡大して北条家最大版図を実現させ関東甲信越に強大な勢力を築いただけあってかなりの実力者であるが、関白秀吉による小田原征伐の結果降伏して家を潰してしまったがために過小評価されてしまっている。
    • 汁掛け飯や麦飯の話、そして小田原評定のマイナスイメージがついてしまった。
    • もっとも小田原征伐の頃は家督を嫡男の氏直に譲っていたのだが。
    • 最後の最後でコケてしまったために無能呼ばわりされてしまった例の一つともいえる。
  2. 武田勝頼同様、織田家の脅威よりも、関東の覇権や勢力均衡を優先してしまったのが敗因と言える。例えば敗残の勝頼を援助して甲斐へ押し戻していれば、その後の展開はだいぶ違ったかもしれない。
    • 関東の覇権を重視するのは、後北条氏のアイデンティティであり存在意義だったため、状況が一変したからといって簡単には路線変更できなかった。
      • 早雲の代に京都の室町幕府を見限って関東で旗揚げし、姓を捨ててまで(早雲の時はまだ伊勢氏だけど)関東に土着しようとしたのに、今更関西の政権なんぞに従えるか!という気持ちが強すぎた。
      • 信長・秀吉の政権と後北条氏は、どちらも「室町幕府の超克」という同じコンセプトを持っていたために共存できなかった。他の大名権力は自己の領国を支配することまでしか考えてなかったため、自分の支配が認められさえすれば妥協することも出来たのだろう。
        • 結局室町幕府の後継者は、信長・秀吉のアイディアと後北条氏の領国を引き継いだ徳川家康になるのは、ある意味歴史の必然だろう。
  3. 後北条家は関東において、配下の官僚化と組織化、言いかえれば現代でイメージする「大名」の育成に、豊臣政権より先に成功していた。
    • 豊臣政権と折り合いをつけられたら、半独立国としてやっていけたかもしれない。

北条氏康

  1. 地元の神奈川でさえも地味。早雲からの後北条家と言えば少しは有名?
    • 箱根観光で小田原城や早雲山とか知ってる人になら・・・
      • 個人的には氏康をどう評価しているかで本当の戦国好きかどうかがわかる気が。最近流行り(苦笑)の歴女とやらに聞いてみたいものだが。
  2. 鎌倉執権とは直接関係ない。
  3. 上杉謙信の宿敵の一人だが、謙信が上杉氏の名跡を継いだきっかけを作った人というのはあまり知られていない。
  4. 息子が飯に汁をかけて食べる様を見て「これで北条家も終わりだ」と嘆いた。
    • ご当人は卵をかけて食べるのが好きとかいう話があれば面白かったのに。
      • 確か、汁を何回にも分けてかけていたからではなかったかな。「飯にかける適量も一発でわからんのか」というわけで。
        • まあ、この話自体が作り話だけどね。
  5. 元々領民に優しかったといわれる北条家の税制を改革して、領内に善政を敷いた。

北条早雲

  1. 恐らく日本史で始めて電撃戦(と思われる作戦)を行ったが、登場時期が時期だけに、かなり影が薄い。
  2. 没した時80代だったらしい。
    • 今川義忠の側室になっていた妹の縁で駿河興国寺の地頭になったのが44歳。
    • 義忠の子・氏親に駿河守護を継がせるべく、駿府館に居坐っていた今川(小鹿)範満を打倒したのが55歳。
    • 伊豆に侵攻して堀越御所を亡ぼしたのが59歳。
    • 小田原の大森藤頼を追放して西相模を占拠したのが63歳。
    • 上杉朝興率いる関東管領軍を玉縄で撃破したのが80歳。
    • 三浦道寸を亡ぼして相模全土を掌握したのが85歳。その2年後に死去。
    • とてつもない遅咲きだ……
      • 遅咲き過ぎて不自然に思えるせいか、「本当はもっとずっと若かったんじゃないのか」という説が近年になって出てきている。
      • しかし、彼の三男の北条幻庵もえらく長生き(享年97)だったし、長生きの家系ではあったような気がする。
    • 実際は24歳ほど若かったらしい(干支は同じ)。
      • ↑上に書いた記事をほとんど無意味にするコメントだ……ww
  3. 北条姓になったのは息子の氏綱からで早雲自身は死ぬまで伊勢姓だった。
    • 前半生は謎が多いが、後半生の振る舞いからして、伊勢流の礼式に通暁していたのは確実。一部の研究者が主張するような「根っからの素浪人」ではあるまい。
    • 伊豆を支配した時に、治所を北条(鎌倉北条家の発祥の地)に置いたため、まわりから「北条殿」と呼ばれるようになり、だんだんそれが苗字みたいになった。
  4. 「戦国時代を拓いた男」でもある。
    • 領民と直接結びつき、一元的に統治した。それまでの守護・地頭体制とは全く異なる政治を導入し、「戦国大名」のさきがけとなった。
  5. 今川さんのところに行く前に平姓を名乗っていたのは秘密。
    • 伊勢氏なので必然的に平姓。秘密でもなんでもない。
      • 名前の「早雲」は出家後の法名で、出家前は伊勢新九郎長氏だったんだっけ?

細川忠興

  1. 父細川幽斎同様歌道、茶道などに造詣が深く、兜作りにも堪能な教養人だが、気性がかなり荒い。そしてヤンデレ
  2. 息子二人との間に亀裂を生じ、二人とも放逐している(次男は大坂夏の陣で西軍に与して切腹させられた)。
  3. 妻は洗礼名の細川ガラシャで有名な明智光秀の娘玉子。
    • 逸話を見ると夫婦仲が良かったのか悪かったのか不明。だが妙に血なまぐさい。
  4. コレクションした名刀に自ら銘を付けているが、その内容が……。
    • 歌仙兼定:手討ちにした(戦で斬った、ではない)人数が三十六に達したので、三十六歌仙になぞらえて命名。
    • 晴思剣:思いが晴れてすっきりしたことから命名。晴れた理由は、「積年の恨みがあった茶坊主をぶっ殺したから」
  5. 80歳になってから、やっと親父の言ったことを理解した。
  6. 長生きだった。

細川藤孝

  1. 法名は幽斎
  2. 戦国一の教養人として名高く、数多の武将や公家、町人が教えを乞いに来た。
  3. 実は武芸も達者で、とある武将の腕をひねり上げたら、その腕がひどく腫れ上がり、湯治を行う羽目になった。
  4. 息子の忠興に歌道を教えるとき、「お前程度がいくら失敗したところで、私の名声が揺らぐことはないから、安心して学べ。」と言った。その後、忠興は歌人としても大成した。
  5. 敵に城を囲まれた時、天皇が詔勅を出して彼の命乞いをした。
    • 古今伝授の伝承者が当時は彼だけだったため。まさに「芸は身を助ける」だ。
  6. 室町幕府滅亡後、しばらく長岡姓を名乗っていた。
  7. 足利12代将軍・義晴のご落胤らしい。
    • 義輝や義昭とは兄弟ということになる。その気になれば将軍位継承を主張できたかも。
      • それをする気配もない平衡感覚が細川家を織田・豊臣・徳川時代通じて絶妙のポジションで存続させ得た理由なんだろう。平成になってついに天下も取ったしな。

本願寺顕如

  1. 浄土真宗(一向宗)本願寺第十一世。本拠地は石山本願寺。
  2. この時代の宗教組織は大名とほぼイコール。中でも本願寺は、資金力、動員兵力、他国への影響力など、日本最大級の大名と言って過言ではない。顕如はその最盛期を築いた。
    • 本願寺は寺院ながら、石山本願寺城といわれるほど堅固だった。
  3. 三人の天下人に大きな影響を与えている。
    • 信長は根絶しようとして果たせず。信長の天下統一を10年遅らせたといわれる。
    • 秀吉は石山の本拠地に自分が座ることで無力化する。
    • 家康は教団の内部対立を利用して教団を分割し、宗教の政治への関与を排除することに成功した。
  4. 浄土真宗らしく妻帯し、息子に教団を継がせている。嫁は武田信玄の嫁の妹。
    • 夫婦で詠み交わしたラブラブな歌が残されている。

本多忠勝

  1. 家康に過ぎたるもの。通称は平八郎。弥八郎こと同姓の本多正信とは仲が悪かったようだ。
  2. 数多の合戦に従軍しながら、生涯一度も戦傷を負わなかったと言われているが…流石にこれは誇張なのではないだろうか。
    • 馬場信春も同じだな。
    • 将であればそんなにやたらに戦傷を負うものではない気もする。
      • 将が負傷するのは、功名にかられて一騎駆けしたり、乱戦にもつれこんで抜けられなくなったりする場合がほとんどなので、信春や忠勝はそういうことをしない冷静な武将だったということではなかろうか。
      • あとは弓矢や鉄砲で直接狙撃される場合があるが、こればかりは運でしょうな。
        • 体じゅう傷だらけだったといわれる北条氏康の例もあるから一概には言えない気がするなぁ。
    • スパスパの実を食べていたという異説がある。体が鉄と同じ硬さだったため、傷がつかなかったらしい。槍に触れただけでトンボが切れたのは、実は能力を使っていたようだ。
    • それならば鎧はゴツかったんだろうと考えてしまうがむしろ薄くて軽かったらしい。つまり防御力が高かったのではなく回避力が高かった。逆に同僚で傷だらけだった井伊直政の鎧は分厚く重かったらしい。
    • 晩年、自分の持ち物に小刀で名前を彫っていたら、手元が狂って指を切ってしまった。
      • 「ついに傷がついたか。俺も年貢の納め時だな」と納得した数日後に死んだと言われているので、本人的には生涯無傷はマジだったんだろう。
  3. 愛用する槍は蜻蛉切。穂先に止まったトンボが真っ二つになったとか。

本多正信

  1. 家康からは「友」と呼ばれたが、同僚からはすごい嫌われていた。
    • 家康の膝元で一向一揆があった時、一揆方に走ってしばらく帰ってこなかったせいかもしれない。「あやつは一度殿を裏切った男だ」と見られていた。
      • 三河一向一揆では他にも多くの譜代の家臣が一揆側に荷担している。復帰後の謀将としての活躍の暗色が嫌われたのだろう。
      • 一揆鎮圧後はすぐに帰参せず、松永久秀に属したり本願寺に身を寄せたとも言われている。おそらくそこでなにかを見たのかもしれない。
    • そうでなくとも、石田三成が福島正則あたりから毛嫌いされたように、能吏型の人間は武断型からは嫌われるものです。
  2. 意外にも徳川家の外の人々からの評判は高かったようだ。
    • 松永久秀「徳川家の武士は武勇一辺倒の者が多いが、この者だけは違う。まさに非常の人物だ。」
  3. 存命中は加増を断り、小身のまま過ごした。
    • 本人は無欲というか、仕事をしたかったら大封など受けるものではないぞ、と息子にも言い聞かせていたのだが・・・。