ページ「ベタな特別塗装の法則」と「宰相・軍師伝/春秋戦国」の間の差分

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==春秋戦国の宰相・軍師==
さまざまな交通機関に存在する。特別塗装についての法則。<br>
===管仲===
※路面電車やバスによくある全面広告は含めません。
#斉の桓公に仕えた宰相。
#*もともとは桓公の兄の「糾」に仕えていた。桓公には管仲の親友・鮑叔が仕えていた。
#*糾を君主にしようとして桓公を狙撃するが、失敗。
#*当然、命はないものと思っていたら、鮑叔の口利きでなんと宰相に。
#**鮑叔は桓公に「斉の国を治めるだけなら私で充分ですが、殿が天下を望まれるのであればあの男が必要です」と説いたという。
#*管仲は商工業を大いに奨励して斉の国力をアップさせ、桓公を覇者に押し上げた。
#鮑叔との交友は「管鮑の交わり」として有名になった。
#*実は管仲の施策は鮑叔が黒幕として案を練っていたという見方もある。
#**当時、政策が失敗すると命を奪われかねなかったので、それを嫌った鮑叔が、処刑されてもともとだった管仲を表に立ててリモートコントロールしていたというわけ。
#**桓公から後継者を問われた管仲が、鮑叔の名が上がった時に即座に否定したのも、そんな事情があったからかも。
#**もしその説が正しかったとしても、やはり二人の友情は厚かったことになるわけだ。管仲はしっかりと言われたことを実行して期待を裏切らなかったわけだし。
#桓公はわりといい加減でノリで行く性格だったようだが、管仲の言葉には従った。そして管仲が死ぬと一気に桓公の馬鹿っぷりが発揮され、斉は内乱になってしまった。
#三国志ファンには諸葛亮が楽毅と共に自らを例えたことで有名。
#*諸葛亮の能力を考えると楽毅よりむしろこっちの方があっている感じ。


[[画像:AA_B72ER.jpg|thumb|180px|8.の例。貧乳でも乳がん検診ができることをアピールする[[アメリカン航空|AA]]のB72]]
===百里奚===
#キャラクターの宣伝など。
#秦の穆公に仕えた宰相。
#*キャラものだと日本最強はポケモンと思われる。なんだかんだで10年以上電車やら飛行機やらに出張っている。
#もともとは虞という小国の大臣だったが、晋の献公に亡ぼされ、捕虜となる。献公の娘が穆公に嫁入りする時に、奴隷として一緒に連れて行かれる。
#*コラボ企画ということで、外面だけでなく内面や自動アナウンスも変えたり、公式グッズの販売にも乗り出すことも。
#一名、五羖大夫。
#昔はペンキ塗りだったので手間がかかったが、最近はシール材の技術が向上したため特別塗装が登場しやすくなった。
#*秦からも逃げ出して、楚で農民の奴隷になっていたところ、秦の使者に見つけられて、5枚の羊の皮(五羖)で買い取られる。
#リバイバル塗装
#*秦では百里奚と語ったことのある重臣が穆公に推薦してくれていた。穆公も連れ戻された百里奚の話を聞いて、その見識に驚き、重用する。
#*地方民鉄で客引きのためにやってることがある。
#*が、急な出世に悪口を言う人も多く、「あいつは羊の皮で買われてきたヤツだ」と暴露される。百里奚は気にせず、みずから五羖大夫と号したらしい。
#*他の路線から移籍してきた車両の場合は移籍前の塗装に復元されることが多い。
#徹底した徳政を心がけ、西方の野蛮国とされていた秦を、大国として躍進させた。
#*[[JR]]では引退間近になると国鉄時代の塗装を復元する。
#穆公に見出された時すでに70代、宰相になった時には90を越えていたという。
#**大手私鉄でも新造当初のカラーに戻されることもある。
#*どうも、太公望のケースと同じで、本当かな~と思ってしまうね。
#*バスだと旧車塗装を施した新車が投入される。
#大きなイベントの宣伝目的。
#*大阪万博のときはJALが機体に一筆入れていた。
#*上海万博2010の上海万博では特別塗装機が登場したが、何故か2012年になっても飛んでいた・・・
#一般公募することもある。
#期間は長いもので数年、短いもので数か月。
#*廃車と運命を共にすることもある。
#見ようと思ってもなかなか見れないので運が必要。
#*特定の路線での限定使用だったり、スケジュールを公開している場合は狙えば容易に見られる。
#社会的運動・啓蒙活動を支援する塗装も。
#交通機関の話題だったのね…。市販車におけるホワイトパールとかそういうのを考えていたよ…


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===子産===
#鄭の簡公に仕えた政治家。
#*首相にはなっていないが、首相だった子皮が完全に信頼して政務を任せきっていたので、まあ宰相と言って良い。
#中国で初めて成文法を作る。
#*畏友だった晋の叔向から批判の手紙を貰う。「法を明らかにしたりすると、人々は法の眼をくぐることばかり考えるようになる。それよりも徳で治めるべきだ」
#**「おっしゃることはよくわかりますが、今はこうでもしないと鄭はどうにもなりません」と返事をした。
#執政をはじめた当初はものすごく評判が悪かったが、数年のうちに支持率急上昇。
#*超大国の晋と楚のあいだで揺れ動いていた鄭が、一応両属ということで事を収めたのが発端。
#*おかげで晋や楚から侵略されることはなくなったが、両方に朝貢しなければならないので財政負担がえらいことに。
#*子産がやったのは、この負担を国民が公平に分担するための方策。当然ながら増税となったので最初は悪評サクサク。しかし、成文法を作って不公平感を極力取り除いたのと、戦争がなくなって生産力が上がったのとで、国民生活は以前より楽になり、支持率が上がった。
#*政治家の評価は、少なくとも数年はやらせてみないとわからないもの。ましてや数週間おきの支持率など、気にするほうがどうかしている。
 
===晏嬰===
#斉の霊公・荘公・景公に仕えた政治家。
#「羊頭狗肉」のエピソードで鮮烈デビュー。
#*霊公が'''ボクっ娘萌え'''で、妻妾に男装をさせて愉しんでいたところ、街中でも女性の男装が大流行。ミリタリールックの女の子がそこかしこにあふれた。
#*風紀が乱れまくったので、何度も禁止令が出されたが、一向におさまらない。依然として霊公の男装好きが続いていたため。
#*重臣たちはみな「まずアンタがやめなきゃ」と思っていたが、言い出せない。
#*そこへ仕官したばかりの晏嬰が登場、「外で禁止しておきながら、内廷でこれを許しておくのは、店の前に牛の頭を掲げて、実は馬肉を売っているようなものです」と霊公をやんわり諫めた。霊公は自分の非を悟って、妻妾の男装をやめさせた。
#*晏嬰はこの言葉と共に一躍人気者に。ただしいつのまにか牛の頭が羊の頭に、馬肉が犬の肉に変化してしまった。
#荘公には嫌われたが、荘公崩御時に示した節義は感動的。
#*荘公は重臣・崔杼の妻を奪おうとして崔杼に殺される。
#*晏嬰は荘公から遠ざけられていたが、この事件を聞くと、臆せず崔杼の屋敷に向かい、荘公の屍体に向かって礼を尽くした。
#景公には全面的に信頼された。
#*景公は享楽的でチャランポランな性格だったが、晏嬰の言うことだけは必ず真剣に聞いたらしい。ただし、すぐ忘れてまたチャランポランなことをしていたようだが。
#*景公が孔子を登用しようとした時に制止した。
#**「この台所が苦しい時に、こんなヤツの言う通りの儀礼を導入したりしたら、財源がいくらあっても足りませんよ」と言って却下。孔子は生涯唯一のまともな就職の機会を奪われる。
#***そのわりに晏嬰は後世の儒者からそう悪く言われていない。ケチのつけようのない人物だったとしか。
#*晏嬰が死ぬと、景公は出先から単身駆けつけ、「もうワシを諫めてくれる者は居ないのか」と大泣きに泣いた。「礼に外れます」と側近に言われても聞かずに泣き続けた。
#*景公と晏嬰の関係は斉の桓公と管仲の関係に非常に似ている。関係性なところも二人の性格的なところも。
#身長が130センチ台の小男だったらしい。
#*「六尺に満たず」と史書にある。当時の一尺は22センチくらいなので、六尺で132センチになる。
#*楚に使節として行った時に、身長の低さのために嫌がらせを受けたが、当意即妙のウイットで反撃。
#**仕掛けた楚王が「聖人と共に戯れるものではないな。返って恥をかいた」と脱帽したほど。
#かの司馬遷をして「できるなら御者になりたい」とまで言わしめるほど。
 
===伍子胥===
#呉の王様・闔閭とその子夫差に仕えた政治家。
#もともとは楚の重臣の子だった。
#*楚の平王が太子への讒言を真に受けて廃嫡した時、太子の守り役だった父も責任を問われて殺された。兄も連坐して処刑された。
#*伍子胥も殺されるところだったが、太子を連れて楚から脱出、平王への復讐を誓う。
#**伍子胥が逃れたと知った父は、「これで楚も長いことはない」と言って死んだとか。
#呉の王様だった僚を斃して闔閭を王位に就け、大いに富国強兵を推し進め、ついに楚を圧倒。楚は亡国寸前に。
#*この時にっくき平王はすでに死んでいたが、伍子胥は平王の屍を墓からひきずり出して鞭打つ。
#**いくら憎んでいたとしても、死者に鞭打つのはやりすぎだろうという意見が多いが、一種の宗教的儀式だったとの説もある。
#**この行為については、彼の親友でさえも「やりすぎである」と言っている(「倒行逆施」と「日暮れて道遠し」は、親友の手紙への返事から生まれた言葉)。
#秦の援軍が襲来したので楚からは撤退。その後は越を警戒し主敵と見なす。
#*事実、闔閭は越との戦争で命を落とす。
#*跡を継いだ夫差に対しても、伍子胥は越への警戒を主張し続けたが、夫差はいちど越に戦勝すると、中原への進出ばかりに目を奪われて、越のことなど眼中になくなる。
#*なおかつ越への警戒を説く伍子胥は夫差にうざがられ、些細なことで難癖をつけられて自殺に追い込まれる。
#伍子胥の遺言「わが眼球を竹筒に入れて城門に懸けよ。呉が滅亡するのをその眼で見届けよう」
#*間もなく夫差は案の定越に攻められて惨敗。「伍子胥に会わせる顔がない」と言って、白布を顔にかけて自殺した。
#ちなみに「子胥」は字で、名は「員(うん)」
 
===孫武===
#いわゆる孫子。
#*思想家列伝に入れても良いのだが、実際に軍師や将軍として働いたので。
#*なお「孫子」というのは、孫武と、その子孫(曾孫と言われる)の孫臏の両方を指す。
#*彼らの書いた兵法書も「孫子」という。古くから知られているのは孫武の著書。孫臏の兵法書は20世紀になってから発掘された。
#**孫武の「孫子」は曹操が校訂したことで有名。どのくらい原文が残っているかはよくわからず、実はかなり曹操自身の文章が混ざっているのかもしれない。
#呉王・闔閭に仕えた。
#*女官を兵として訓練するパフォーマンスで闔閭を驚かせた。
#**この時隊長に任命されていた闔閭の愛妾が命令に従わないので斬ってしまったらしい。秋霜烈日というヤツですな。
#**その隊長を務めていた愛妾を斬る前に闔閭がやめるように言ったが、「君命従わざるところ有り」の一言でバッサリ。
#*伍子胥と協力して呉の富国強兵に務め、超大国・楚を滅亡寸前まで叩きのめす。
#*闔閭が戦死すると呉から去ったらしい。
#**闔閭の子の夫差は助け甲斐がない君主だと思ったのかも。
#**あるいは、楚に勝利したことで自分の兵法家としてのプライドが満たされたので、もう望むことはなく引き際を待っていた……とも考えられる。
#単なる戦術家ではなく、「勝てる体制づくり」を重視し、「戦わずして勝つのが最上」と言ってのけるあたりが天才的。現代でもファンは多い。
#*現代のアメリカ軍でも戦略戦術の教科書として愛用されていることからどれだけ有用なのかということが分かる。
#三国時代、呉の皇帝となった孫権が彼の末裔と言われている。また、中華民国を築いた孫文がそのさらに子孫だという。
 
===范蠡===
#越王・勾践に仕えた軍師。
#勾践が呉の夫差に敗れると、徹底的な土下座外交を進言した。
#*夫差の警戒心を解き、その隙に反撃の準備をするため。
#**[[日本|どこかの国]]の土下座外交主義の政治家にも、そういう深慮遠謀があればいいんだが。無いだろうなあ……
#*狙い通り夫差が中原に眼を向け覇者気取りでいるところを、痛撃して呉を亡ぼす。
#呉が亡びると、さっさと勾践のもとから去る。
#*勾践の人柄を、「苦労は共にできるが、富貴は共にできない」と見抜いていた。
#*表向きは、かつて土下座外交を強いて勾践のプライドを傷つけた責任をとると称して辞任。
#*同僚の文種にも辞任を薦めるが、文種はわずかな差で逃げ遅れ、勾践から自殺を命じられてしまう。
#**辞任を薦めた手紙にあった「狡兎死して走狗烹らる」という言葉は故事成語として有名になった。
#のち商人になって稼ぎまくったらしい。
#*斉で「鴟夷子皮」と名乗って商売を始めたところ、たちまち巨万の富を築く。斉の君主から、宰相にならないかと誘いが来るが、政治には飽き飽きしていたのか、断って財産を全部処分して出奔。
#*さらに定陶に居を定め、「陶朱公」と名乗ってまた商売を始めて、またしても巨万の富を築く。
#*もちろん、鴟夷子皮も陶朱公も別人だという説はあるが、「主君の覇業を助け」「地位に執着せず」「財を築き」「財にも執着せず」「栄光に包まれて死ぬ」という生き方は中国人の理想に近く、今さら別人と言っても信じる者は少ない。
 
===呉起===
#魯の元公、魏の文侯・武侯、楚の悼王に仕えた。
#*「孫子」と並ぶ兵法書「呉子」の著者。
#**ただ、「孫子」は現代でも通用する内容なのに対して「呉子」は春秋時代特化の傾向がみられて現代では応用しにくいものが多く、あまり広まっていない。
#*軍師でもあり、政治家でもあり、将軍でもあった多才な人。
#戦陣においては兵士と同じものを食べ、皮膚病を患った兵士の膿を自ら吸ってやったりして絶大な人気を勝ち取った。
#*そのため、膿を吸って貰った兵士の母親が「息子はきっと呉将軍のために死ぬだろう」と嘆いたりしたそうな。
#人格には多少難があったらしい。
#*少なくとも、目的のために手段を選ばないところはあったと思われる。
#**学問をしているあいだ、母親の葬儀にも帰らなかったとか。
#**魯で将軍になった時、魯と仲の悪い斉出身の妻が居ることで誹謗され、出世のためにその妻を殺害したとか。
#*魏でも楚でも、思い切った改革をおこなったが、これも手段を選ばなかったせいか多くの人の恨みを買った。
#絶大な信頼を受けていた悼王が没すると、既得権を侵された楚の貴族たちが一斉に呉起を斃しに立ち上がり、殺されてしまう。
#*しかし、最後は悼王の棺の上に伏せたため、呉起に向けて矢を放った連中は、先君の遺体を損傷した罪で、次の粛王にことごとく処刑されてしまった。見事な最後っ屁。
#*上の伍子胥が楚王の遺体に鞭打ったこと (その数ナント300回) から、王の死体を傷つける者は処刑という法律が楚にはあったため、呉起は王の遺体安置所に逃げ込んだ。
 
===藺相如===
#趙の恵文王・孝成王に仕えた政治家。
#もとは宦官の配下に過ぎない賎臣だったが、人並み外れた度胸と見識で趙の重臣に出世。
#「完璧」という言葉の語源となった人。
#*[[秦]]が騙し取ろうとした「和氏の壁(へき)」という宝玉を、機知とクソ度胸で見事持ち帰る。「壁を完(まっと)うした」ことから「完璧」の言葉が生まれた。
#**和氏の壁と引き換えにすると約束していた城市を、秦王が渡そうとしない。藺相如は怒りのあまり髪が逆立ち、頭に載せていた冠が持ち上がった。「怒髪天を衝く」の語源。
#「刎頸の交わり」でも知られる。
#*猛将の廉頗が、藺相如の成り上がりぶりを憎んで、「顔を合わせたら必ず恥をかかせてやる」と息巻いていたが、のちに和解し、意気投合。「互いに頸をはねられても変わらぬ友で居よう」と誓い合った。
#**藺相如の度量を知った廉頗が謝罪。和解し意気投合した。
#**この二人が健在な間は、覇業を進めつつあった秦も趙には手出ししなかった。
#後に重病に倒れるが、その病身を押して「王は名将の息子を総大将にしようとしていますが、実戦では使い物になりません」と言ったのだが無視された。結局言ったとおり大敗し兵力の殆どを喪失。藺相如も病死し、趙は滅亡を待つ身に…
#*この時、先任の大将は廉頗だった。なので王も盟友を擁護しているだけではないのか、と勘ぐった可能性がある。
 
===范雎===
#秦の昭襄王に仕えた宰相。
#元々は魏の須賈に仕えていたが、ある一件でスパイ疑惑を掛けられ魏の宰相・魏斉から死にかけるほどの暴行を受けた挙句簀巻きにされてトイレに投げ込まれるという拷問を受ける。
#「一飯の徳も償い睚眦の恨みにも報いる」という恨みも恩も忘れない性格で、上記の件もずっと根に持っていた。
 
===呂不韋===
#[[秦]]の荘襄王・始皇帝に仕えた宰相。
#もと商人で、趙に人質となっていた秦の公子「異人」を見出し、「奇貨居くべし」と言って援助する。
#*異人は、時の秦王である昭襄王の孫だが、次男(安国君)の側室の子なので王位継承権は非常に低かった。しかし本来の太子が早死にし、安国君が太子になった時点で、呂不韋が猛烈な運動をかけて、異人をその後継者に仕立て上げてしまう。
#*安国君が即位して孝文王になると、異人は太子に。この頃「子楚」と改名。太子になるバックアップをしてくれた孝文王の正室が楚の出身だったので、その機嫌をとったらしい。
#*孝文王が即位後わずか数日で没し、異人改め子楚が即位して荘襄王となる。ずっと付き従っていた呂不韋は宰相になる。
#**秦では伝統的に、外国人を宰相に据えることが多かったので、これもわりとすんなり運んだようだ。他の国だったら王族や有力者の反対があって無理だったかも。
#始皇帝の実の父だったんではないかという疑惑がある。
#*呂不韋の愛人だったダンサーが異人に望まれて正室となったが、その時すでに呂不韋の子を身ごもっていたという噂がある。それがのちの始皇帝だというのだが……
#宰相としてはかなり有能だったようだ。
#*名将の蒙驁や王齮を見出して兵を預け、秦の版図を大幅に拡大する。この勢いがなければ、始皇帝の天下統一も無理だったろう。
#*文化事業にも力を入れ、史上初の百科事典「呂氏春秋」を編纂。
#**「この書物を一字でも添削できたら千金を与えよう」と豪語。「一字千金」の成語となる。チャレンジャーが居たかどうかは記録が無い。
#**「天下は独りの天下にあらず、天下の天下なり」という文章はこの書物が出典らしい。このことから、呂不韋を史上初の民主主義者と評価する見方もある。
#***実はこのあたりから、始皇帝との間隙が拡がったのかもしれない。
#荘襄王とは息の合った主従であったようだが、わずか数年で荘襄王が死去してしまったのが計算外だったろう。
#*跡を継いだ始皇帝とは、あまりウマが合わなかった感じ。
#**始皇帝としては、先代の大番頭が頑張っていると目障りで仕方がなかったろう。また、それが実の父かもしれないと思うとおぞましかったろうし、前項で述べたような思想的間隙もあったとすると、いつかは排除しなければならない存在だったとしか。
#荘襄王が亡くなると、もと愛人だった荘襄王の王妃(亭主が死んだ時点から太后)がヨリを戻したがる。太后と密通などという事態になるのを好まなかった呂不韋は、代役を立てて太后に薦めるが、これが命取りとなった。
#*この代役の男(嫪毐)は世にも稀なるデカマラのため、太后にいたく寵愛され、長信侯の称号を与えられて呂不韋のコントロールから離れてしまう。
#*やがて太后との間に子ができると、嫪毐は自分の子を王位に就けようとして謀反を企む。
#*が、始皇帝は先手を打って嫪毐を攻め滅ぼし、車裂きの極刑に科す。ママである太后も追放し、ついでに嫪毐を薦めた呂不韋も罷免。
#*ところが罷免されても呂不韋の名声は高く、訪ねてくる者が引きも切らなかったので、地団駄踏んだ始皇帝は呂不韋を僻地へ追放する。すでに始皇帝の憎悪を悟っていた呂不韋は自ら毒を服んで自殺。
#**とはいえ、始皇帝ほどの独裁者が誅殺することもできず、せいぜい「追放」までしかできなかったあたりに、呂不韋の器の大きさと人望の高さが見て取れる。
 
[[Category:バカ人物志/中国|さいしようくんしてんしゆんしゆうせんこく]]

2021年3月11日 (木) 18:40時点における版

春秋戦国の宰相・軍師

管仲

  1. 斉の桓公に仕えた宰相。
    • もともとは桓公の兄の「糾」に仕えていた。桓公には管仲の親友・鮑叔が仕えていた。
    • 糾を君主にしようとして桓公を狙撃するが、失敗。
    • 当然、命はないものと思っていたら、鮑叔の口利きでなんと宰相に。
      • 鮑叔は桓公に「斉の国を治めるだけなら私で充分ですが、殿が天下を望まれるのであればあの男が必要です」と説いたという。
    • 管仲は商工業を大いに奨励して斉の国力をアップさせ、桓公を覇者に押し上げた。
  2. 鮑叔との交友は「管鮑の交わり」として有名になった。
    • 実は管仲の施策は鮑叔が黒幕として案を練っていたという見方もある。
      • 当時、政策が失敗すると命を奪われかねなかったので、それを嫌った鮑叔が、処刑されてもともとだった管仲を表に立ててリモートコントロールしていたというわけ。
      • 桓公から後継者を問われた管仲が、鮑叔の名が上がった時に即座に否定したのも、そんな事情があったからかも。
      • もしその説が正しかったとしても、やはり二人の友情は厚かったことになるわけだ。管仲はしっかりと言われたことを実行して期待を裏切らなかったわけだし。
  3. 桓公はわりといい加減でノリで行く性格だったようだが、管仲の言葉には従った。そして管仲が死ぬと一気に桓公の馬鹿っぷりが発揮され、斉は内乱になってしまった。
  4. 三国志ファンには諸葛亮が楽毅と共に自らを例えたことで有名。
    • 諸葛亮の能力を考えると楽毅よりむしろこっちの方があっている感じ。

百里奚

  1. 秦の穆公に仕えた宰相。
  2. もともとは虞という小国の大臣だったが、晋の献公に亡ぼされ、捕虜となる。献公の娘が穆公に嫁入りする時に、奴隷として一緒に連れて行かれる。
  3. 一名、五羖大夫。
    • 秦からも逃げ出して、楚で農民の奴隷になっていたところ、秦の使者に見つけられて、5枚の羊の皮(五羖)で買い取られる。
    • 秦では百里奚と語ったことのある重臣が穆公に推薦してくれていた。穆公も連れ戻された百里奚の話を聞いて、その見識に驚き、重用する。
    • が、急な出世に悪口を言う人も多く、「あいつは羊の皮で買われてきたヤツだ」と暴露される。百里奚は気にせず、みずから五羖大夫と号したらしい。
  4. 徹底した徳政を心がけ、西方の野蛮国とされていた秦を、大国として躍進させた。
  5. 穆公に見出された時すでに70代、宰相になった時には90を越えていたという。
    • どうも、太公望のケースと同じで、本当かな~と思ってしまうね。

子産

  1. 鄭の簡公に仕えた政治家。
    • 首相にはなっていないが、首相だった子皮が完全に信頼して政務を任せきっていたので、まあ宰相と言って良い。
  2. 中国で初めて成文法を作る。
    • 畏友だった晋の叔向から批判の手紙を貰う。「法を明らかにしたりすると、人々は法の眼をくぐることばかり考えるようになる。それよりも徳で治めるべきだ」
      • 「おっしゃることはよくわかりますが、今はこうでもしないと鄭はどうにもなりません」と返事をした。
  3. 執政をはじめた当初はものすごく評判が悪かったが、数年のうちに支持率急上昇。
    • 超大国の晋と楚のあいだで揺れ動いていた鄭が、一応両属ということで事を収めたのが発端。
    • おかげで晋や楚から侵略されることはなくなったが、両方に朝貢しなければならないので財政負担がえらいことに。
    • 子産がやったのは、この負担を国民が公平に分担するための方策。当然ながら増税となったので最初は悪評サクサク。しかし、成文法を作って不公平感を極力取り除いたのと、戦争がなくなって生産力が上がったのとで、国民生活は以前より楽になり、支持率が上がった。
    • 政治家の評価は、少なくとも数年はやらせてみないとわからないもの。ましてや数週間おきの支持率など、気にするほうがどうかしている。

晏嬰

  1. 斉の霊公・荘公・景公に仕えた政治家。
  2. 「羊頭狗肉」のエピソードで鮮烈デビュー。
    • 霊公がボクっ娘萌えで、妻妾に男装をさせて愉しんでいたところ、街中でも女性の男装が大流行。ミリタリールックの女の子がそこかしこにあふれた。
    • 風紀が乱れまくったので、何度も禁止令が出されたが、一向におさまらない。依然として霊公の男装好きが続いていたため。
    • 重臣たちはみな「まずアンタがやめなきゃ」と思っていたが、言い出せない。
    • そこへ仕官したばかりの晏嬰が登場、「外で禁止しておきながら、内廷でこれを許しておくのは、店の前に牛の頭を掲げて、実は馬肉を売っているようなものです」と霊公をやんわり諫めた。霊公は自分の非を悟って、妻妾の男装をやめさせた。
    • 晏嬰はこの言葉と共に一躍人気者に。ただしいつのまにか牛の頭が羊の頭に、馬肉が犬の肉に変化してしまった。
  3. 荘公には嫌われたが、荘公崩御時に示した節義は感動的。
    • 荘公は重臣・崔杼の妻を奪おうとして崔杼に殺される。
    • 晏嬰は荘公から遠ざけられていたが、この事件を聞くと、臆せず崔杼の屋敷に向かい、荘公の屍体に向かって礼を尽くした。
  4. 景公には全面的に信頼された。
    • 景公は享楽的でチャランポランな性格だったが、晏嬰の言うことだけは必ず真剣に聞いたらしい。ただし、すぐ忘れてまたチャランポランなことをしていたようだが。
    • 景公が孔子を登用しようとした時に制止した。
      • 「この台所が苦しい時に、こんなヤツの言う通りの儀礼を導入したりしたら、財源がいくらあっても足りませんよ」と言って却下。孔子は生涯唯一のまともな就職の機会を奪われる。
        • そのわりに晏嬰は後世の儒者からそう悪く言われていない。ケチのつけようのない人物だったとしか。
    • 晏嬰が死ぬと、景公は出先から単身駆けつけ、「もうワシを諫めてくれる者は居ないのか」と大泣きに泣いた。「礼に外れます」と側近に言われても聞かずに泣き続けた。
    • 景公と晏嬰の関係は斉の桓公と管仲の関係に非常に似ている。関係性なところも二人の性格的なところも。
  5. 身長が130センチ台の小男だったらしい。
    • 「六尺に満たず」と史書にある。当時の一尺は22センチくらいなので、六尺で132センチになる。
    • 楚に使節として行った時に、身長の低さのために嫌がらせを受けたが、当意即妙のウイットで反撃。
      • 仕掛けた楚王が「聖人と共に戯れるものではないな。返って恥をかいた」と脱帽したほど。
  6. かの司馬遷をして「できるなら御者になりたい」とまで言わしめるほど。

伍子胥

  1. 呉の王様・闔閭とその子夫差に仕えた政治家。
  2. もともとは楚の重臣の子だった。
    • 楚の平王が太子への讒言を真に受けて廃嫡した時、太子の守り役だった父も責任を問われて殺された。兄も連坐して処刑された。
    • 伍子胥も殺されるところだったが、太子を連れて楚から脱出、平王への復讐を誓う。
      • 伍子胥が逃れたと知った父は、「これで楚も長いことはない」と言って死んだとか。
  3. 呉の王様だった僚を斃して闔閭を王位に就け、大いに富国強兵を推し進め、ついに楚を圧倒。楚は亡国寸前に。
    • この時にっくき平王はすでに死んでいたが、伍子胥は平王の屍を墓からひきずり出して鞭打つ。
      • いくら憎んでいたとしても、死者に鞭打つのはやりすぎだろうという意見が多いが、一種の宗教的儀式だったとの説もある。
      • この行為については、彼の親友でさえも「やりすぎである」と言っている(「倒行逆施」と「日暮れて道遠し」は、親友の手紙への返事から生まれた言葉)。
  4. 秦の援軍が襲来したので楚からは撤退。その後は越を警戒し主敵と見なす。
    • 事実、闔閭は越との戦争で命を落とす。
    • 跡を継いだ夫差に対しても、伍子胥は越への警戒を主張し続けたが、夫差はいちど越に戦勝すると、中原への進出ばかりに目を奪われて、越のことなど眼中になくなる。
    • なおかつ越への警戒を説く伍子胥は夫差にうざがられ、些細なことで難癖をつけられて自殺に追い込まれる。
  5. 伍子胥の遺言「わが眼球を竹筒に入れて城門に懸けよ。呉が滅亡するのをその眼で見届けよう」
    • 間もなく夫差は案の定越に攻められて惨敗。「伍子胥に会わせる顔がない」と言って、白布を顔にかけて自殺した。
  6. ちなみに「子胥」は字で、名は「員(うん)」

孫武

  1. いわゆる孫子。
    • 思想家列伝に入れても良いのだが、実際に軍師や将軍として働いたので。
    • なお「孫子」というのは、孫武と、その子孫(曾孫と言われる)の孫臏の両方を指す。
    • 彼らの書いた兵法書も「孫子」という。古くから知られているのは孫武の著書。孫臏の兵法書は20世紀になってから発掘された。
      • 孫武の「孫子」は曹操が校訂したことで有名。どのくらい原文が残っているかはよくわからず、実はかなり曹操自身の文章が混ざっているのかもしれない。
  2. 呉王・闔閭に仕えた。
    • 女官を兵として訓練するパフォーマンスで闔閭を驚かせた。
      • この時隊長に任命されていた闔閭の愛妾が命令に従わないので斬ってしまったらしい。秋霜烈日というヤツですな。
      • その隊長を務めていた愛妾を斬る前に闔閭がやめるように言ったが、「君命従わざるところ有り」の一言でバッサリ。
    • 伍子胥と協力して呉の富国強兵に務め、超大国・楚を滅亡寸前まで叩きのめす。
    • 闔閭が戦死すると呉から去ったらしい。
      • 闔閭の子の夫差は助け甲斐がない君主だと思ったのかも。
      • あるいは、楚に勝利したことで自分の兵法家としてのプライドが満たされたので、もう望むことはなく引き際を待っていた……とも考えられる。
  3. 単なる戦術家ではなく、「勝てる体制づくり」を重視し、「戦わずして勝つのが最上」と言ってのけるあたりが天才的。現代でもファンは多い。
    • 現代のアメリカ軍でも戦略戦術の教科書として愛用されていることからどれだけ有用なのかということが分かる。
  4. 三国時代、呉の皇帝となった孫権が彼の末裔と言われている。また、中華民国を築いた孫文がそのさらに子孫だという。

范蠡

  1. 越王・勾践に仕えた軍師。
  2. 勾践が呉の夫差に敗れると、徹底的な土下座外交を進言した。
    • 夫差の警戒心を解き、その隙に反撃の準備をするため。
      • どこかの国の土下座外交主義の政治家にも、そういう深慮遠謀があればいいんだが。無いだろうなあ……
    • 狙い通り夫差が中原に眼を向け覇者気取りでいるところを、痛撃して呉を亡ぼす。
  3. 呉が亡びると、さっさと勾践のもとから去る。
    • 勾践の人柄を、「苦労は共にできるが、富貴は共にできない」と見抜いていた。
    • 表向きは、かつて土下座外交を強いて勾践のプライドを傷つけた責任をとると称して辞任。
    • 同僚の文種にも辞任を薦めるが、文種はわずかな差で逃げ遅れ、勾践から自殺を命じられてしまう。
      • 辞任を薦めた手紙にあった「狡兎死して走狗烹らる」という言葉は故事成語として有名になった。
  4. のち商人になって稼ぎまくったらしい。
    • 斉で「鴟夷子皮」と名乗って商売を始めたところ、たちまち巨万の富を築く。斉の君主から、宰相にならないかと誘いが来るが、政治には飽き飽きしていたのか、断って財産を全部処分して出奔。
    • さらに定陶に居を定め、「陶朱公」と名乗ってまた商売を始めて、またしても巨万の富を築く。
    • もちろん、鴟夷子皮も陶朱公も別人だという説はあるが、「主君の覇業を助け」「地位に執着せず」「財を築き」「財にも執着せず」「栄光に包まれて死ぬ」という生き方は中国人の理想に近く、今さら別人と言っても信じる者は少ない。

呉起

  1. 魯の元公、魏の文侯・武侯、楚の悼王に仕えた。
    • 「孫子」と並ぶ兵法書「呉子」の著者。
      • ただ、「孫子」は現代でも通用する内容なのに対して「呉子」は春秋時代特化の傾向がみられて現代では応用しにくいものが多く、あまり広まっていない。
    • 軍師でもあり、政治家でもあり、将軍でもあった多才な人。
  2. 戦陣においては兵士と同じものを食べ、皮膚病を患った兵士の膿を自ら吸ってやったりして絶大な人気を勝ち取った。
    • そのため、膿を吸って貰った兵士の母親が「息子はきっと呉将軍のために死ぬだろう」と嘆いたりしたそうな。
  3. 人格には多少難があったらしい。
    • 少なくとも、目的のために手段を選ばないところはあったと思われる。
      • 学問をしているあいだ、母親の葬儀にも帰らなかったとか。
      • 魯で将軍になった時、魯と仲の悪い斉出身の妻が居ることで誹謗され、出世のためにその妻を殺害したとか。
    • 魏でも楚でも、思い切った改革をおこなったが、これも手段を選ばなかったせいか多くの人の恨みを買った。
  4. 絶大な信頼を受けていた悼王が没すると、既得権を侵された楚の貴族たちが一斉に呉起を斃しに立ち上がり、殺されてしまう。
    • しかし、最後は悼王の棺の上に伏せたため、呉起に向けて矢を放った連中は、先君の遺体を損傷した罪で、次の粛王にことごとく処刑されてしまった。見事な最後っ屁。
    • 上の伍子胥が楚王の遺体に鞭打ったこと (その数ナント300回) から、王の死体を傷つける者は処刑という法律が楚にはあったため、呉起は王の遺体安置所に逃げ込んだ。

藺相如

  1. 趙の恵文王・孝成王に仕えた政治家。
  2. もとは宦官の配下に過ぎない賎臣だったが、人並み外れた度胸と見識で趙の重臣に出世。
  3. 「完璧」という言葉の語源となった人。
    • が騙し取ろうとした「和氏の壁(へき)」という宝玉を、機知とクソ度胸で見事持ち帰る。「壁を完(まっと)うした」ことから「完璧」の言葉が生まれた。
      • 和氏の壁と引き換えにすると約束していた城市を、秦王が渡そうとしない。藺相如は怒りのあまり髪が逆立ち、頭に載せていた冠が持ち上がった。「怒髪天を衝く」の語源。
  4. 「刎頸の交わり」でも知られる。
    • 猛将の廉頗が、藺相如の成り上がりぶりを憎んで、「顔を合わせたら必ず恥をかかせてやる」と息巻いていたが、のちに和解し、意気投合。「互いに頸をはねられても変わらぬ友で居よう」と誓い合った。
      • 藺相如の度量を知った廉頗が謝罪。和解し意気投合した。
      • この二人が健在な間は、覇業を進めつつあった秦も趙には手出ししなかった。
  5. 後に重病に倒れるが、その病身を押して「王は名将の息子を総大将にしようとしていますが、実戦では使い物になりません」と言ったのだが無視された。結局言ったとおり大敗し兵力の殆どを喪失。藺相如も病死し、趙は滅亡を待つ身に…
    • この時、先任の大将は廉頗だった。なので王も盟友を擁護しているだけではないのか、と勘ぐった可能性がある。

范雎

  1. 秦の昭襄王に仕えた宰相。
  2. 元々は魏の須賈に仕えていたが、ある一件でスパイ疑惑を掛けられ魏の宰相・魏斉から死にかけるほどの暴行を受けた挙句簀巻きにされてトイレに投げ込まれるという拷問を受ける。
  3. 「一飯の徳も償い睚眦の恨みにも報いる」という恨みも恩も忘れない性格で、上記の件もずっと根に持っていた。

呂不韋

  1. の荘襄王・始皇帝に仕えた宰相。
  2. もと商人で、趙に人質となっていた秦の公子「異人」を見出し、「奇貨居くべし」と言って援助する。
    • 異人は、時の秦王である昭襄王の孫だが、次男(安国君)の側室の子なので王位継承権は非常に低かった。しかし本来の太子が早死にし、安国君が太子になった時点で、呂不韋が猛烈な運動をかけて、異人をその後継者に仕立て上げてしまう。
    • 安国君が即位して孝文王になると、異人は太子に。この頃「子楚」と改名。太子になるバックアップをしてくれた孝文王の正室が楚の出身だったので、その機嫌をとったらしい。
    • 孝文王が即位後わずか数日で没し、異人改め子楚が即位して荘襄王となる。ずっと付き従っていた呂不韋は宰相になる。
      • 秦では伝統的に、外国人を宰相に据えることが多かったので、これもわりとすんなり運んだようだ。他の国だったら王族や有力者の反対があって無理だったかも。
  3. 始皇帝の実の父だったんではないかという疑惑がある。
    • 呂不韋の愛人だったダンサーが異人に望まれて正室となったが、その時すでに呂不韋の子を身ごもっていたという噂がある。それがのちの始皇帝だというのだが……
  4. 宰相としてはかなり有能だったようだ。
    • 名将の蒙驁や王齮を見出して兵を預け、秦の版図を大幅に拡大する。この勢いがなければ、始皇帝の天下統一も無理だったろう。
    • 文化事業にも力を入れ、史上初の百科事典「呂氏春秋」を編纂。
      • 「この書物を一字でも添削できたら千金を与えよう」と豪語。「一字千金」の成語となる。チャレンジャーが居たかどうかは記録が無い。
      • 「天下は独りの天下にあらず、天下の天下なり」という文章はこの書物が出典らしい。このことから、呂不韋を史上初の民主主義者と評価する見方もある。
        • 実はこのあたりから、始皇帝との間隙が拡がったのかもしれない。
  5. 荘襄王とは息の合った主従であったようだが、わずか数年で荘襄王が死去してしまったのが計算外だったろう。
    • 跡を継いだ始皇帝とは、あまりウマが合わなかった感じ。
      • 始皇帝としては、先代の大番頭が頑張っていると目障りで仕方がなかったろう。また、それが実の父かもしれないと思うとおぞましかったろうし、前項で述べたような思想的間隙もあったとすると、いつかは排除しなければならない存在だったとしか。
  6. 荘襄王が亡くなると、もと愛人だった荘襄王の王妃(亭主が死んだ時点から太后)がヨリを戻したがる。太后と密通などという事態になるのを好まなかった呂不韋は、代役を立てて太后に薦めるが、これが命取りとなった。
    • この代役の男(嫪毐)は世にも稀なるデカマラのため、太后にいたく寵愛され、長信侯の称号を与えられて呂不韋のコントロールから離れてしまう。
    • やがて太后との間に子ができると、嫪毐は自分の子を王位に就けようとして謀反を企む。
    • が、始皇帝は先手を打って嫪毐を攻め滅ぼし、車裂きの極刑に科す。ママである太后も追放し、ついでに嫪毐を薦めた呂不韋も罷免。
    • ところが罷免されても呂不韋の名声は高く、訪ねてくる者が引きも切らなかったので、地団駄踏んだ始皇帝は呂不韋を僻地へ追放する。すでに始皇帝の憎悪を悟っていた呂不韋は自ら毒を服んで自殺。
      • とはいえ、始皇帝ほどの独裁者が誅殺することもできず、せいぜい「追放」までしかできなかったあたりに、呂不韋の器の大きさと人望の高さが見て取れる。