もしあの鉄道会社が梅田に乗り入れていたら

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京阪電気鉄道

現在関西の大手私鉄5社では唯一梅田難波への乗り入れが実現していない京阪電鉄ですが、過去には梅田に乗り入れる計画もありました。もし京阪電鉄の梅田乗り入れが実現していたら…

全般

  • 当初計画線:森小路(現:千林)~天神橋(現:天神橋筋六丁目)、上新庄~桜ノ宮~梅田
    • 後に計画が変更され野江~京橋~梅田、天神橋~梅田となった。
  1. おそらく計画は↑の通りになっているが、本線のどこか~天六~梅田という感じにはなっていただろう。
    • 京阪のターミナルは梅田東口になっていた。
    • 近鉄も難波から梅田乗り入れを目指し、大阪のターミナル拠点は梅田一極になっていたかもしれない。
      • 南海も現実の四つ橋線ルートで梅田へ進出していた。
    • 残る蒲生(京橋)方面は支線扱いにされ、本数もそんなにはなかった。
      • 70年代に中之島線が建設され、分散化を行っていた。ルートは淀屋橋経由になっていた。
      • その場合京橋駅の移設・改良はなかったかも。
        • 駅名も蒲生駅のままで、乗り換えターミナルとして賑わうこともなかった。
          • ダイエー・京阪モール・グランシャトーなどはなかった。
  2. 地下鉄、とりわけ谷町線の計画にも影響を与えていた。
    • 大阪の市営モンロー主義を考えると東梅田以北が建設されないというのは考えられないので、京阪が都島経由であれば城北経由になっていたくらいか。
    • 都島から北上して淀川を渡り、東淀川区に向かっていた可能性もある。その場合今里筋線はなかったかも。
      • あるいは野江内代からまっすぐ東に進み鶴見区を目指していた。その場合長堀鶴見緑地線は建設されなかった。
        • その場合1990年花博のメインアクセスになっていた。
  3. 京阪百貨店が梅田へ進出し、百貨店競合地区となるかも。
  4. たぶん地下駅になっていた。
    • その場合、阪神と直通運転もありえた。

野江で分岐

梅田
うめだ
Umeda

Keihan
天満
Tenma
都島
みやこじま
miyakozima
森之宮
morinomiya
Keihan
茶屋町
chayamati
これが京阪の梅田乗り入れ計画の名残り
  1. ルートは本線の野江で分岐し、都島・桜ノ宮・天満を経由し梅田に向かっていた。
    • 谷町線とルートが被るため、谷町線の東梅田以遠は別の方面に向かって敷設された。
    • 阪神電気鉄道と直通運転したかも。
      • その場合阪神は京阪と経営統合していた。
    • あるいは千林から天神橋を経由して梅田まで。(当初の計画がそうだったらしい)
  2. 京阪梅田駅は現実のHEPファイブの場所に設置されていた。
  3. 梅田地区の商業開発に京阪も参入し、京阪百貨店梅田店ができていた。
    • その代わり守口店は開店しなかった。
    • 関西私鉄における京阪の地位は現実より高くなっていた。
    • 2010年代に入って阪急・阪神に対抗して高層ビルに建て替えられていた。
  4. 新京阪線は上新庄からまっすぐ南下し、赤川を経由して桜ノ宮で本線と合流していた。
    • 修正計画に従い、天神橋から延伸して直に梅田では?
    • 十三経由での梅田乗り入れは実現しなかった。
    • 堺筋線との直通運転は行われず、南海が代わりに直通運転を行った。
  5. 桜ノ宮で京阪とJR大阪環状線が立体交差していた。
    • JR桜ノ宮駅東側の高架橋にその名残りが今も残っている。
  6. 路線名は梅田・野田が「梅田線」で、梅田・天神橋は新京阪線の一部となった。
  7. 新京阪線は戦後の京阪電鉄の分離独立に伴い京阪のものとなっていた。
    • この場合、新京阪線の河原町駅と京阪本線の祇園四条駅が統合されていた。
    • 四条河原町には阪急百貨店ではなく京阪百貨店ができていた。
    • 京阪の資本力が現実よりも高かったことが考えられることから、奈良電気鉄道も近鉄ではなく京阪のものになっていたかもしれない。
  8. 京阪沿線から梅田へ乗り換えなしで行けるようになるため、京阪沿線のイメージがかなりよくなっていた。
    • 関西では阪急・阪神沿線と同等の地位を得るようになる。
    • 香里園樟葉が関西有数の高級住宅地となっていたかもしれない。
    • 沿線の各都市は現実以上に人口が急増し、特に枚方市は政令指定都市になっていたかもしれない。
      • 現実でも大阪郊外有数の人口密度でただでさえ住宅密集地が多いのに今以上に増えていたことはあまり考え難い。阪急沿線と違い沿線に山や丘陵が少ないので新興住宅地開発の規模も知れている。
  9. 京阪バスが梅田に拠点を持っていた。
    • 梅田発着の高速バス路線にも参入していた。
    • もともと京都で創立したバス会社なので京都拠点は変わらないはず。ただ、梅田発着の高速バス路線を有していた可能性は十分にあったと思う。
  10. 梅田から三宮まで延伸して浜大津から三宮までの何県にも跨るロングラインが出来た。
    • これはむしろ阪神と接続し、相互乗り入れしていただろう。この場合浜大津~姫路の直通運転もあったかも。
  11. 京都では京都市交通局の№2となる京阪グルーブだが大阪でも大阪市交通局の№となっていた。

京阪線

  1. 京阪線は淀屋橋延伸を行わなかった。
    • 平成になってから、天満橋からの延伸という形態で中之島線を敷設する。
      • 延伸線が南森町・曽根崎に向かってくれれば、梅田乗り入れはできなくもなかったのに。
      • 但し、ルートは北浜(堺筋線より下)・淀屋橋(御堂筋線より下)・肥後橋(四つ橋線より下)・中之島(玉江橋)となっていた可能性が高い。
    • その代わり奈良電の買収に成功した。
    • 京阪は創立時から都心乗り入れを考えていたため、梅田乗り入れ後もさらなる都心進出の夢は捨てなかった可能性が極めて高い。淀屋橋か中之島へは延伸していたと思う。
  2. 京阪線の利用客は現実以上に増加していた。
    • 複々線化が枚方市あたりまで行われていた。
    • あるいは地下鉄谷町線の大日以北の延伸が実現していた。

新京阪線

  1. 自力で梅田延伸を果たしたため、新京阪線も戦後の京阪に帰属した。
  2. 十三支線は新大阪駅経由に付け替えられ、新幹線との接続がメインになった。
    • 御堂筋線の南方駅も存在しなかった。
  3. 十三は歓楽街としては発展しなかった。
    • 阪急神戸・宝塚両線の乗り換えは梅田駅がメインとなっていた。十三~梅田の折り返し乗車も認められている。
    • その代わり天神橋駅(現・天神橋筋六丁目駅)周辺が発展していた。「なにわ淀川花火大会」は天神橋筋商店街が主催している。

中之島線の代わりに梅田線が建設されていたら

  1. ルートは天満橋~なにわ橋~梅田となる。
  2. 中之島線よりはるかに便利になっていた。
    • 京阪全体の利用客数も増加していた。
      • でも梅田へは大阪環状線や御堂筋線もあるのでわざわざ新線を建設できない。
        • 建設するとすれば終日混雑するこれらの路線の混雑緩和の名目ということになっていた。

南海電気鉄道

ひごばし
肥後橋
HIGOBASHI
信濃橋 梅田
SHINANOBASHI UMEDA
  1. 恐らく難波~四つ橋筋~梅田か天下茶屋~堺筋~梅田というルートになっていた。
    • 大阪市営地下鉄の四つ橋線と堺筋線のいずれかが建設されなかった。
      • そのルートだとたぶん、現在の四ツ橋線が南海四ツ橋線になっているだけのことと思う。
        • ちなみに実際に計画された路線としては今宮から西横堀を経て梅田に向かう「西横堀線」と現実と同じ「堺筋線」(+天王寺支線を活用し、また天下茶屋~動物園前の短縮新線も作る計画)があった。
    • 京阪は中之島線を早期に完成させていた。
  2. 関西空港のアクセスが現実よりも向上していた。
    • 「ラピート」は梅田発着となっている。
    • 逆にJRの「関空快速」や梅田発着のリムジンバスは苦戦していた。
    • 伊丹へ延伸してさらにアクセスが向上していた。
  3. 関西大手私鉄における南海の地位が少し上がっていた。
  4. 南海は梅田に百貨店を開店していた可能性もある。
    • 梅田の百貨店戦争は現実以上に熾烈なものになっていた。
      • JR大阪三越伊勢丹は開店しなかったかも。
    • 南海百貨店ではなく高島屋かもしれない。
  5. 進出時期によるが、場合によっては市営モンロー主義が存在しない。
    • つまり、他の私鉄が大阪市内への乗り入れに積極的になり、それぞれの乗り換えが楽になってる。
      • であるから、地下鉄の本町あたりが一大ジャンクション駅になってる。
      • 大阪市営地下鉄の路線規模が現実より小さくなっていたかも。
        • 現実の地下鉄四つ橋線のルートで南海が梅田延伸線を建設していたら、堺筋線は阪急が建設していた。
        • 千日前線は難波を境に西側が阪神、東側が近鉄によって建設されていた。
        • 大阪市営地下鉄は比較的早く民営化されていた可能性もある。
  6. 現実以上に梅田への一極集中が進み、難波や心斎橋が衰退していたかもしれない。
  7. なにわ筋線計画などないため、汐見橋線は天王寺支線と命運を共にしたかもしれない。
    • 汐見橋線の津守付近から地下に移設され、津守-中開-今宮-湊町-四ツ橋-西梅田というルートで建設されていた。木津川・芦原町・汐見橋の各駅は廃止されていた。

近畿日本鉄道

四条畷線を京阪線の蒲生信号所まで延伸し、そこから京阪梅田線経由で梅田駅に乗り入れる予定でした

  1. 何れは自社線で梅田乗り入れを果たしていた。
    • 近鉄が梅田進出を果たしていた。
    • 梅田と奈良が最短距離で結ばれていたため、大阪北部から奈良へ行くのが便利になっていた(現実には大和路快速が大阪駅と奈良を結んでいるが遠回り)。
    • おそらく現在の大阪環状線より南側を通って乗り入れていた。
    • 梅田に近鉄百貨店が進出していた。
  2. 近鉄石切駅が梅田方面と難波方面の分岐駅になり現実以上に重要な存在となっていた。
    • 生駒と石切も関係が逆転していたかもしれない。
  3. 京橋駅は現実以上に大ターミナルとなっている。
    • 京阪・JR・大阪市営地下鉄に加えて近鉄も乗り入れていた。
    • 京橋での京阪との相互乗り入れが行われていた。
      • 京阪は阪急ではなく大軌(近鉄)と経営統合していた。戦後京阪が分離独立する際には新京阪線が新生京阪の路線となり、京阪線は近鉄の路線となっていた。
        • 交野線は生駒に繋がっていた。
  4. 地下鉄長堀鶴見緑地線の計画にも影響を及ぼしていた。
    • 現実よりも北側、花博通の地下を通っていたと考えられる。
  5. 場合によってはこちらで阪神との乗り入れが実現していたかも。
    • 阪神も四条畷方面への延伸計画があったため。
  6. 路線名は最終的には「近鉄梅田線」になっていた。
  7. 近鉄バスが住道ではなく本路線のどこかをターミナルとしていた。また、阪奈梅田線は(場合によっては大阪市営バス36系統も)存在しなかった。
    • むしろ本路線が住道に乗り入れていた可能性が高い。ただJR住道駅とは場所が違っていた可能性も。
      • 大東市四條畷市の人口は現実よりも多かった。
      • 住道には京阪百貨店ではなく近鉄百貨店が出店していた。
  8. 何れにせよ京阪中之島線は存在しなかっただろう。
  9. バブル期に住道付近からけいはんな学研都市への新線建設が提唱される。
  10. 近鉄けいはんな線の生駒以西は建設されなかった。
    • 生駒以東は架線集電式で建設され、梅田・難波方面へ直通していた。
    • 地下鉄中央線は深江橋から北上し、放出・今福鶴見・井高野方面に向かっていた。
      • その場合、今里筋線は建設されなかった可能性が高い。
  11. 1990年に開催された国際花と緑の博覧会のアクセス路線の1つになっていた。

名古屋鉄道(9割9分冗談ですwww)

  1. 単独はあり得ない。やるならJRとの直通。