「もしあのプロ野球選手が現実以上に活躍していたら/さ~な行」の版間の差分

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#*松井や清原を獲らなかったかも知れない。
#*松井や清原を獲らなかったかも知れない。
#広沢克己がFA移籍はなかった。
#広沢克己がFA移籍はなかった。
===岩村明憲===
日本復帰後も活躍できたら
#日米通産2000本安打を達成できた。
#松井裕樹の背番号は史実とは違ってたかも。


===岩本勉===
===岩本勉===

2017年9月17日 (日) 09:21時点における版

鳴り物入りでプロ入りしたけれどあまり活躍できなかった選手、あるいは短い期間しか活躍できなかった選手、はたまたプロ野球選手を辞めたあと他のスポーツなどで活躍した選手が、もしプロ野球選手として成功していたらどうなったかを考える。

  • 新たに追加される場合は登録名(外国人は基本的にファミリーネーム)の50音順でお願いします。
  • 外国人選手に関しては日本における成績のみを対象とします。
  • 日本国外のプロリーグ含め、野球選手として現役を引退している人物限定で。

あ行

ホアン・アイケルバーガー

  1. ストッパーとして活躍し、ヤクルトの2度目のリーグ優勝にも貢献していた。
  2. その名前からハンバーガーチェーンのCMに出演していた。
  3. 関根潤三氏は「アイケルバーガーは名前が面白くて獲ったんだけど、大活躍して驚いた」と言っていた。

赤堀元之

  1. 間違いなく通算250セーブ以上を達成していた。
    • 名球会入りを果たしていた。
  2. 大塚晶文はセットアップのまま。
    • 岡本晃も先発のまま。
  3. 2001年の日本シリーズで登板が見れた。
    • 上手くいけば日本一になれていた。

アニマル・レスリー

  1. 阪急からオリックスに変わってもクローザーとして大活躍した。
  2. 身売り一年目で日本シリーズ進出・・・の可能性もあった。
  3. 「風雲たけし城」に出ることはなかった。
  4. うまくいけばブルーウェーブ改名後もしばらく在籍し続けていたかも。

荒木大輔

  1. スワローズはもっと早く2度目の優勝を果たしていた。
  2. 21世紀初頭までエースとして活躍していた。
    • そして200勝を達成していた。
  3. 90年代になっても男の子の名前1位が「大輔」だった。
  4. 多分「松坂」の前にメジャー入り。
  5. 神宮球場とクラブハウスを結ぶ「荒木トンネル」が自宅まで掘られていた。
  6. 荒木をくじで外して斎藤雅樹を取った巨人が称えられることもなかった。

飯島秀雄

  1. それ以後、第二・第三…の飯島が続いた。
    • 短距離選手はプロ野球選手へのもうひとつの登竜門となった。
    • 藤瀬史朗や今井譲二はもっと有名になっていた。
  2. 福本豊がこの道で生きていくことが強制され、2000本安打以上打つことはなかったかも。
  3. 相手チームはこの代走に対抗するために、肩の強さだけが取り得の捕手を終盤起用する。
    • 例:槍投げ、遠投の選手。最初はリード力がないから駄目だと思われていたがこれが意外に使えた。
  4. クローザーの条件の中に「牽制が上手いこと」が加わる。
  5. ノムさんは史実より早くクイックモーションを開発していた。

石毛博史

  1. 2000年代半ばまで巨人のクローザーを務めていた。
    • 近鉄や阪神に移籍することはなかった。
  2. 佐々木主浩や高津臣吾とともに90年代のセリーグを代表するクローザーになっていた。
  3. 槙原寛己が現役晩年にクローザーへ転向することはなかった。
    • 河原純一がクローザーへ転向することもなかったので、史実よりも早く放出されていた。

一場靖弘

  1. 岩隈・田中とともに楽天の三本柱となっていた。
    • 楽天は2009年に初優勝を達成していた。
      • ヤクルトにトレードされなかった場合楽天の2013年の日本一にも貢献した。
  2. メジャーリーグに挑戦していた。
  3. プロ入り時の裏金事件のイメージを払拭出来ていたかも。

稲尾和久

  1. 通算300勝どころか、400勝も達成し、日本プロ野球通算勝利数1位の金田正一を超える。
    • 金田の引退後の球界への発言力は低下していた。
      • 金田の名球会のワンマン運営も無かった。
  2. 黒い霧事件以降も現役を続行、史実通り監督を務めていたら、野村克也、村山実と共に選手兼任監督となっていた。
    • 1973~1974年に400勝を達成するもんなら、ロッテ対太平洋戦は、別の意味での「遺恨試合」となっていた。
      • 400勝目、401勝目の相手がロッテなら尚更。
    • 史実通り1974年で退任すれば、チームは連続で選手兼任監督が誕生していた。
  3. 東尾修の200勝達成は少なくとも無かった。
    • 黒い霧事件の影響で、大エースが1人いたぐらいでは投手不足は解消されなかったので野手転向自体は無かった。
  4. 日本プロ野球史上最多勝利数記録保持者として発言力が高まったことで、ロッテの監督に就任した際は福岡移転が実現していた。
    • これにより、南海がダイエーに売却が決まった際は、当時の中内功社長の希望通り、グリーンスタジアム神戸への移転が実現していた。
      • 阪急がオリックスに売却される際には、1990年での西宮撤退、1991年の千葉マリンスタジアムへの移転が実現した。
        • これなら阪神対ダイエーが関西ダービーとなっていた。

稲垣秀次

  1. 中卒や草野球の選手もプロスカウトの対象となっていた。

井上真二

  1. 90年代、00年代の巨人の主軸を打っていた。
    • 松井や清原を獲らなかったかも知れない。
  2. 広沢克己がFA移籍はなかった。

岩村明憲

日本復帰後も活躍できたら

  1. 日米通産2000本安打を達成できた。
  2. 松井裕樹の背番号は史実とは違ってたかも。

岩本勉

  1. 06年・07年の優勝に貢献していた。
    • そもそも札幌移転後も日ハムのエースとして活躍していた。
  2. 「まいど!」が現実よりも長く流行していた。
  3. 斎藤佑樹の背番号は何番になってたのだろうか?
  4. タレント転向もなかったか遅れている。
    • 「パ・リーグ党芸人座談会」に彼(ガンちゃん)が出演せず、普通に日本ハムファンの芸人が出演している。
  5. 「とっとこハム太郎」のまいどくんと相互に便乗し合っていた。
    • “ハム”繋がりもあり、日本ハム球団と「とっとこハム太郎」のコラボが実現していたかも。

上田利治

  1. 正捕手となり、史実より早く広島をAクラスに引き上げていた。
    • 引退後は阪急ではなく広島の監督に就任。
      • 広島初優勝の監督は古葉さんではなくウエさんだったかも。
  2. 昭和50年代前半の阪急黄金時代は無かったかも。

内之倉隆志

  1. 1994年にダイエーをAクラスに引き上げていた。
  2. 三塁手から捕手にコンバートされなかった。
    • だから松永浩美のFA移籍はなかった。
  3. 1993年のドラフトに入団した小久保裕紀は違う背番号だった。
    • おそらく「3」、「10」を背負っていた。
      • もしくは内之倉が「3」が背負っていた。

榎田健一郎

  1. 「パンチ」「イチロー」と同時期に、登録名を「エノケン」にしたかも。

戎信行

  1. 最優秀防御率以降エースに定着。
  2. オリックスの2000年代前半の成績はマシなものになっていた。
  3. 分配ドラフトでオリックス・バファローズに入っていた。

大久保秀昭

  1. 2001年近鉄いてまえ打線の弱点だった捕手の穴がなくなり、さらに強力なものに。
    • ただしポジションの被る北川博敏がトレードで来なかった可能性もあり、そうなるとあの「代打逆転満塁サヨナラ優勝決定本塁打」もなかったことに…。
  2. 大東めぐみももっと売れっ子になっていた。
  3. アマチュアではなくプロで監督になっていたかも。

大久保博元

  1. 西武で正捕手の座を獲得していた場合、伊東勤は史実より早く現役を引退していたか、もしくはFAで他球団に移籍していた。
  2. 巨人移籍後に正捕手に定着していた場合、村田真一は史実より早く現役を引退していたか、もしくはFAで他球団に移籍していた。
    • 場合によっては2000年のドラフトで阿部慎之助を指名しなかった可能性もある。

大久保勝信

  1. 00年代のオリックスは2008年以外にも何度かAクラスに入っていた。
  2. 「代打逆転満塁サヨナラ優勝決定本塁打」を打たれた投手として現実よりも有名になっていた。

大島裕行

  1. G.G.佐藤はレギュラーになれず控えに甘んじていた。
  2. 西武のドラフトでの地元選手軽視傾向も少しは改善されていたはず。
    • 「大阪桐蔭ライオンズ」とか揶揄されることもなかった。

大慈彌功

  1. 伊東勉と正捕手争いをしていた。
  2. 打撃の開花次第でコンバートもあった。
  3. セカンドライフが軌道に乗れば、MLBのスカウトになったか微妙。

大森剛

  1. ポスト原として4番を打っていた。
  2. 初年度から活躍した場合、翌年のドラフトでわざわざ元木を指名することもなかった。
    • ポジションかぶらないからそれは問題ないだろう。
  3. 93年の巨人の貧打線はなかった。
    • 従ってわざわざ40歳の落合を中日から獲ることはしなかったろう。
  4. 松井秀喜は1年間、ファームでじっくり育てられた。2年目に新人王獲得。
    • そもそも松井を指名したか?
  5. もし長く現役を続けていたら、坂本は巨人に入っていなかったかも。
    • そうなったら堂上直倫が巨人に入団していた。
      • 堂上が巨人に入団していたら中日の某二軍打撃コーチからパワハラを受けることがなく、それに反発した森岡が中日をクビになることはなかった。
  6. AKB48の大森美優が彼の娘であるという事実は加入後すぐに明らかになっていた。
    • 娘の美優も現実以上に倉持明日香や若田部遥と比較されていた。
    • 史実より引退が遅れているので、娘の美優が物心つく頃まで現役を続けられていた。
  7. 長嶋監督も暗に認めたホモ疑惑があったので、括約…もとい活躍してたら増長してホモセクハラを起こしていたかもしれない。
    • 突如、謎のトレードでパリーグに放出される。
      • 史実でも最後は近鉄に移りましたが・・。
      • 近鉄への移籍後も活躍できていたかも。
        • その場合、彼も2001年の優勝に貢献していた。
        • もしかすると礒部公一の捕手から外野の転向がなかったか遅れていたかも。
    • 球界にホモスキャンダルの免疫が出来て多田野がビデオ発覚後も普通に横浜入りしていた。
  8. 近鉄でも現実以上に活躍していた場合、引退後近鉄〜楽天orオリックスバファローズでコーチを務めていた。
    • オリックスの場合、関西に残っているので娘の美優はAKB48ではなくNMB48に入っていた。
      • 阪神ファンの多いグループの中で「大森二世」としてだけでなく「オリ姫代表」として有名になっていたかも。

緒方耕一

  1. 2000年代後半までは現役を続けていた。
  2. 盗塁王のタイトルを緒方孝市と分け合っていた。
    • 「おがたこういち」はセ・リーグ盗塁王の代名詞となっていた。
  3. 巨人は清水隆行を獲得することはなかったか、獲得しても代打代走要員に。
    • 清水は盗塁下手だったから代走には使えなかったと思うけど・・・。
  4. 鈴木尚広より早く代走の切り札の立ち位置を確保できていた。
  5. 代走の神様と言われた。

尾崎将司

  1. 黒い霧事件の際は、池永正明の無実を晴らすために奔走していた。
  2. 弟の健夫・直道も野球選手になっていた。
    • 実際健夫はヤクルトに指名されたが拒否している。
    • 健夫が坂口良子と結婚することはなかっただろう。
  3. 日本でのゴルフはマイナーなままだったかもしれない。
    • 丸山茂樹もゴルフ以外の道を歩んでいただろう。
    • 石川遼もJリーガーになっていたか?
    • ただ、同世代の樋口久子の活躍が史実通りなら、「プロゴルフ=女子」と取られていたかも。
  4. 自己破産もなかった。

小川博

  1. 長きに渡りロッテのエースとして君臨する。
  2. だから、あの事件も起こさなかったのだろう。
    • マリーンズの「背番号26」は純粋に「ファン=26番目の選手」という意味で欠番扱いになっているか、もしくは彼の功績が讃えられて永久欠番になっていた。
  3. 1990年代のロッテの成績が良くなっていた。
  4. 最多奪三振がよりクローズアップされていたかも。

小田幸平

  1. 阿部慎之助が入団、實松一成の移籍はなかった。
  2. FAで巨人に移籍した野口茂樹の人的補償ではなかった。
    • 加藤健が中日ドラゴンズに移籍していた。

小野剛

  1. 背番号降格、イタリア行はなかった。
  2. エース級に成長した場合、松井退団後の成績はマシだった。

小野仁

  1. 現在でも内海とともに巨人で左腕の2本柱として活躍。
    • 杉内がFAで移籍してくることはなかったかも知れない。
    • 逆に背番号があいていた工藤は何の軋轢もなく移籍。
  2. もしかしたらメジャー移籍していた可能性も。
  3. 後輩の摂津より先に沢村賞をとる。

か行

香川伸行

  1. 南海・ダイエーの正捕手として長きに渡り君臨し、本塁打王を何度も獲得していた。
    • 1980年代の南海や1990年代のダイエーの成績が史実より良かった。
    • 香川人気で南海の観客動員が増加したので、ダイエーへの球団売却はなかったか遅れていた。
      • 南海から直接ソフトバンクに売却されていた可能性もある。
    • 城島健司は駒澤大学を経由して1999年に入団。香川はこのあたりで引退していた。
  2. 王監督の後任は秋山ではなく香川。
  3. 「ドカベンプロ野球編」序盤は「ドカベン(山田)vsドカベン(香川)」の対決で盛り上げていた。
  4. どこかで香川真司との絡みがあった。
  5. 現実以上に香川照之と名前を勘違いする人が多かったかも。

笠原栄一

  1. 80年後半のロッテは低迷する事はなかった。
  2. ドラフト1位としては11年間で未勝利、プロ野球記録はなかった。
  3. 1990年に金田が監督復帰に背番号34を背負うことはなかった。
    • 笠原自身も41に変更はない。
  4. 引退後は福岡市内のローソンでオーナーを勤務していない。
    • 地元群馬で群馬ダイヤモンドペガサスの監督か投手コーチ就任していた。
  5. 息子の将生がプロ初勝利を挙げ、一軍での親子勝利として話題になっていた。

嘉勢敏弘

  1. 90年代後半から「二刀流」に挑戦する選手が増えていた。
    • NPB初の「投手のシーズン2桁本塁打」は大谷翔平よりも前に達成していた。

萱島大介

  1. 赤星とともに俊足コンビを組んでいた。
    • 場合によってはこちらも盗塁王に輝いていたかも。
  2. 京阪「萱島」駅がありしかもある程度有名な駅なので、京阪沿線在住の阪神ファンにはネタにされていた。
    • 但しこの選手の苗字の読み方は「かやじま」、京阪の駅は「かやしま」と読み方が異なるので間違う人も多かったのでは?
  3. もちろん競輪選手にはならなかった。

川口知哉

  1. オリックスの左のエースとして2009年現在も活躍している。
  2. もちろんビッグマウスも健在。
  3. オリックスが00年代前半に低迷する事はなかった。

川崎憲次郎

  • 中日移籍後も活躍していたら
  1. もちろん川崎祭は起こらず、2003年のオールスターには普通に出場していた。
  2. 2004年の開幕投手の座を実力で勝ち取っていた。
  3. もちろん2009年時点でも現役である。
  4. 2005年入団の中田賢一は背番号18を背負っていた。
    • 当然中里篤史はずっと背番号70のまま。
      • むしろ中里は解雇が早まったか?
  5. 史実どおり2003年まで故障で棒に振り、2004年の開幕戦で好投して大復活、そのまま主力投手として活躍を続けるという展開であれば、開幕戦起用の落合采配は別の意味で伝説的になった。前年の川崎祭を見事に見返すことにもなった。
  6. 「川詐欺」という蔑称は無かった。

川藤幸三

  1. むしろ現役生活は短くなっていたかもしれない。
  2. あそこまで愛される選手にはなっていなかった。
    • モルツ球団に入ってざこば師匠が「川藤出さんかい!」「ホンマに出してどないすんねん」ということもなかった。
    • 1986年のオールスターでのヒット→2塁で刺されてアウトということもなかった。
  3. 新人時代に二軍で最多盗塁を記録していた実績を引っさげ、俊足の外野手として活躍していたかも。
    • 史実の後の赤星憲広みたいになっていた可能性がある。
  4. 阪神で「代打の切り札」のポジションが確立されたのは真弓明信か八木裕からだった。

河原純一

  1. 1990年代後半には巨人のエースピッチャーとなっていた。
    • 恐らく阪神の暗黒時代には天敵となっていた。
      • 抑え投手になっていたら槙原寛己は先発のままかセットアッパーで現役を引退。
  2. 2002年のリーグ優勝時には史実と同じく抑えピッチャーとして活躍。
  3. 西武への移籍や中日へのテスト入団はなかった。
    • または米大リーグに移籍していた。

木田勇

  1. 80年代の日本ハムは西武と激しい優勝争いを演じていた。
    • 工藤幹夫(82年に20勝)が同様に活躍を続けていたら凄いことになっていた。
  2. 大洋にトレードされることも無かった。

紀田彰一

  1. 多村仁は21世紀に入る前に自由契約にされていた。
  2. FAでニューヨーク・ヤンキースに「選手として」入団していたかも。
    • レギュラーを取っていたらヤンキースはA・ロッドを獲得しなかったかも。

ゲーブ・キャプラー

  1. 2005年・2006年の巨人の成績が少しは良くなっていた。
    • その場合、堀内監督退任も遅れていた。
  2. 2006年オフに一時引退を表明することはなかったかもしれない。

倉持明

  1. ロッテの守護神として君臨。100セーブ以上は挙げていた。
    • 1980年代にロッテは1回くらいは優勝・・・ってのはやっぱ無理か?
  2. 娘の明日香が生まれる頃まで現役を続けていた。
    • 現実以上にテレビで明日香との共演が見られた。
      • もしかすると明日香の野球関係のテレビ出演が増えていたかも。
  3. 落合と一緒に川崎球場の観客動員数増加に貢献していた。
    • 観客が流しそうめんをすることもなかった。
  4. どこかの球団で投手コーチになっていた。

マイク・グリーンウェル

  1. ≒「もし“神のお告げ”が無かったら」である。
    • シークリストやコールズの獲得も無かった。
      • もしかしたら、ハンセンも来なかった。
    • アロンゾ・パウエルの獲得はなかった。
    • 一緒に来日したハイアットも現実以上に活躍出来ていた。
  2. 97年の阪神は、久しぶりにAクラス入りしていた。
    • 98年から最下位にならなかった。
      • いずれにしても、90年代後半~00年代初頭の阪神の成績は現実よりマシだった。
  3. 阪神の「暗黒時代」や「ダメ外人」の代名詞になることもない。

黒田哲史

  1. 少なくとも巨人にトレードはされず、西武で現役を全うしていた。
  2. 新山千春が子連れで稼ぐこともなかった。
    • そもそも新山と結婚していない。

源五郎丸洋

  1. 阪神の不動のエースとして活躍し、1992年の亀新フィーバー時には現実とは逆に阪神がヤクルトを押しのけ優勝を果たしていた。
  2. その名字が色んな所で度々ネタにされていた。
    • ラグビーの五郎丸歩の話題では引き合いにされていた。
      • 2015年には源五郎丸があのポーズをさせられていただろう。
      • 2015年には五郎丸歩との共演も見られたかも。
    • 中野渡進(元横浜)、下敷領悠太(元ロッテ)については言うまでもない。

小坂誠

2005年オフに金銭トレードで入団した小坂選手でしたが、打撃不振などからレギュラーをつかむことができず、2008年オフに楽天に移籍しました。 もし巨人でレギュラーを獲っていたら・・・

ショートに定着していた場合
  1. 二岡智宏が三塁、小久保裕紀が一塁にそれぞれコンバートされていたため、李承ヨプは外野で登録されていた。
    • 李承ヨプは06年限りで退団したかもしれない。
  2. 二岡が小笠原道大の人的保障で日ハムに移籍していた。
    • よって不倫騒動も無かった。
    • さすがに二岡をプロテクトから外すとは思えんが・・・。
  3. 2008年シーズン、坂本勇人は二塁を守っていた。
    • そして木村拓也は守備固めでの出場が中心になっていた。
  4. そもそも木村拓也を獲得していない・・・ってことはないかもな。どこでも守れるし。
セカンドの場合
  1. 06年オフに仁志敏久が横浜へトレードされたことにより空いたセカンドに定着。

金剛弘樹

  1. 岩瀬に代わる抑えとして定着していた。
    • 浅尾・金剛・岩瀬が勝利の方程式に。
  2. 二軍における最多登板記録は片瀬清利の240試合のままだった。
  3. 2013年以降艦これネタで加賀繁以上にいじられている。

近藤真一

  1. 90年代の中日はもっと優勝できていた。
  2. 同じ左投手の山本昌は200勝を取ることも、最年長完封記録を持つこともなかった。
    • 横浜(大洋)やロッテあたりにトレードされていたかも。
    • そもそもアメリカへの野球留学から呼び戻されず(星野が呼び戻したのは故障離脱した近藤の穴を埋めるため)、オファーのあったメジャーリーグに入っていた。もし活躍していれば野茂以前に日本人選手の大リーグ志向が生じたかも。
  3. 息子さんの中日入団がもっと話題を呼んだ。

権藤博

  1. 稲尾和久を超える史上最速ペースで200勝を達成していた。
  2. 中日はもっと優勝できていたし、巨人のV9もなかった。
  3. 与那嶺要か中利夫の後任あたりで中日の監督になっていたかも。
  4. 近藤貞雄が投手分業を考えることもなかった。
    • そうなったのは権藤の酷使がきっかけの為。

さ行

酒井圭一

  1. 1980年代のヤクルトはもう少しまともな成績を残していた。
  2. 2009年ドラフトでヤクルトは今村猛を指名していたかもしれない。
  3. 2012年現在も「サッシー」といえば「指原莉乃」ではなく彼の事である。
    • 「サッシー」なら酒井で「さっしー」なら指原という、ロッテの「マーくん」と田中将大の「マー君」ぐらいややこしい使い分けを迫られたりして。

佐久間浩一

  1. 右肘故障がなければ、松井秀喜級の打者になっていてもおかしくなかった。
    • 高校時代は「西の清原、東の佐久間」と言われたほどの素質。
      • そもそも体が万全なら、ドラフト4位など有り得ないが。

佐々木信也

  1. 1960年のオリオンズ優勝の原動力となっていた。
  2. プロ野球ニュースのキャスターにはなっていなかった。
    • プロ野球の存在自体も現実よりマイナーになっていたかも。
      • それでプロ野球自体がマイナーということは無いと思うが、パリーグの人気低迷は史実以上に続き、1リーグ化されていたかも。

定岡正二

  1. 江川・西本・定岡の三本柱による巨人黄金時代を築いた。
  2. 引退後もバラエティ番組で弄られることなんてありえない。
  3. 近鉄へのトレードも話にすら挙がらなかった。

杉浦忠

  1. 200勝どころか、300勝も達成し、名球会にも入会していた。
  2. 南海は、1962年、1963年、1967年、1968年も優勝し、1961年から8連覇を達成していた。
  3. 飯田徳治は、1年で監督を辞任せず、野村克也兼任監督誕生は遅れていた。
  4. 2リーグとなって初の最下位になったのは、1969年ではなく1978年だった。
  5. もしかしたら監督時代の成績も現実以上にマシだったかも。王さんよりも先にホークスの連続Bクラスを止めていた。
    • そうなれば身売り・移転後初の優勝が早まった。

鈴木尚広

  1. 赤星憲広と最多盗塁を争っていた。
  2. 松本匡史の記録を更新している。
  3. オールスター出場も早まっていた。
    • 川藤幸三と比較されることもなかった。

園川一美

  1. 毎年のように開幕投手に任命されていた。
    • 当然のごとく王監督の「開幕投手には格ry」という発言もなかった。
  2. 10.19では近鉄打線を完璧に抑え込んでいた。
  3. イチローキラーとして、自分が200本目のヒットを打たれることもなかった。

た行

高木宣宏

  1. 大野・川口の様なサウスポーになって150勝は挙げている。
  2. 94年~97年の広島はすべて優勝していた。
    • そして女性からの人気もよりあっただろう。
  3. 引退後はカープの投手コーチに。

田中宏和

  1. 田中宏和運動」の皆さんはもっと盛り上がっていた。
    • 本人も「野球の田中宏和」として参加していた。

辻内崇伸

  1. 杉内がFAで来る事はなかっただろう。
  2. 松本竜也の入団は無かった。
    • 松本は横浜に入団していた。
  3. トレードで他球団で活躍していた。
  4. 同級生の平田良介との対決が見れた。

辻本賢人

  1. 中卒に門戸を開く見直しがあった。
    • 彼以外にも中卒でプロ入りする選手が何人も出ていた。
    • 彼の影響を受けて高校進学を待たずにプロを目指す人が多くなるかも。
    • 野球漫画のシナリオにも影響しそう。
  2. 最年少記録を樹立すれば大々的に報じられた。
  3. 多少の下積みがあっても異色の経歴と注目された。
  4. 数少ない昭和64年生まれとして現実以上に話題になっていた。
    • 同じ生年月日のプロボクサー・亀田大毅と対談したりして。

ディンゴ(デーブ・ニルソン)

  1. もし日本でも捕手だった場合、谷繁が中日に来ることはなかった。
    • そして史実どおり横浜が低迷していた可能性も低い。
      • いや、最初から外野にコンバートする構想だった。
  2. 2004年のアテネ五輪・2008年の北京五輪のオーストラリア代表にも選ばれる。
    • そしてアテネではウィリアムスとバッテリーを組んでいたかも・・・
      • そして李承燁みたいに謝罪。
      • キューバを破って金メダルを獲っていた。
  3. 山﨑武司と李鍾範はどこかに放出されていた。
    • 山﨑はおそらく当時大砲不足だった西武あたりかも?
  4. 年齢的に長くて2008年くらいまで続けていた可能性も。
    • ジェフ・ウィリアムスはもちろん、クリス・オクスプリング(阪神)やエイドリアン・バーンサイド(巨人)とも日本でも対戦していた。
  5. 登録名を悔やむ声はなかった。
    • 登録名の由来である、オーストラリアの動物の「ディンゴ」の知名度が上がっていた。
  6. パ・リーグに移籍してDH要因として活躍した可能性も。

な行

中川申也

  1. ドラフト1位(萩原誠)の失敗をカバーし甲子園のアイドルに。
  2. 小野仁は、期待の意味で中川2世と呼ばれるようになった。
  3. 竹内、太陽と秋田県勢で阪神投手陣を支える。
  4. 後輩の摂津より先に沢村賞をとった秋田県出身投手になる。
    • サブマリンの頃はセリーグのみだったので。

中里篤史

  1. 先発をしていたら朝倉健太か吉見一起、リリーフだったら浅尾拓也のブレイクが遅れていた。
  2. 中日の高卒ドラフト1位選手が恵まれないイメージは薄れていた。
    • いや、野手がまだ…。
  3. 打者転向が実現していたら(実際に打診はあったものの本人が投手にこだわり拒否)糸井嘉男クラスの選手に成長していたかも知れない。
    • ただ、実際に野手に転向した赤坂和幸の現状を見ると、中日にいる限りそこまで活躍できたかどうか…。

長嶋一茂

  1. 巨人のクリーンナップとして活躍、本塁打王等のタイトルを何度も獲得していた。
  2. むしろヤクルトの不動の4番として父親率いる巨人の前に立ちはだかった。
    • ヤクルト黄金期と共に、飯田・荒井・古田・長嶋・広澤・池山・秦~のような打順。
    • でもFA権取得後やっぱり巨人に移籍したかも。
    • ただ才能が開花するのが野村監督になってからというのが高い。
    • ヤクルトで野村監督の息子・克則と現役が一緒だった。
      • ポジションこそ違えど2世同士のライバルとなって、現実以上にお互いの父親が引き合いに出されたかも。
  3. 父親の半分程度の、10年で1200安打200本塁打800打点ぐらいの成績を残している。
    • 意外と原辰徳ぐらいの成績が残せたかも。
  4. ミスタースワローズと呼ばれている。
  5. 子供(茂雄の孫)を球場に忘れてくる遺伝子も引き継いでいる。
  6. ハウエルやオマリーを獲らなかったかもしれない。

那須野巧

  1. 2013年現在の年俸は契約金と同じぐらいまで上がっていた。
    • さすがにそれは考えにくい。
  2. 横浜の成績がもう少し良くなっていた。
    • 2013年シーズンはAクラスに行けていたかもしれない。

難波昭二郎

  1. 長嶋茂雄と共にNN砲として謳われていた。
    • 王貞治と難波のいずれかが一塁、もう片方が外野を守っていた。
  2. あるいは1962年に西鉄移籍後、中西太の後釜として活躍。

西岡剛(投手)

  1. 学年差が20あるので厳しいが、内野手の西岡剛と現役時期が重なっていた。
    • もし2002年以降にパ・リーグの球団に所属していた場合、同姓同名対決が実現していたかも。

野村克則

  1. 監督がノムさんから若松に変わっても古田と併用で使われていた。
  2. 古田引退後はヤクルトの正捕手になった。
  3. 相川はヤクルトへ移籍せず、メジャーに行っていた。
  4. 現役時代の父親のような強打者になって、背番号1(若松、池山の背番号)をもらっていた。
  5. サッチーが史実よりも更に活発にメディアに顔を出している。
  6. 野間口もヤクルトに入団。
  7. 弱肩の正捕手として村田真一とたびたび比較されてた。

は行

萩原誠

  1. 1990年代の阪神が外国人野手を採っては1年でクビにする、ということはなかった。
    • 阪神で「ダメ外人」といえば今でもスタントンやオルセンだった。
  2. 阪神では貴重な1973年生まれの選手となっていた。(イチローや三浦大輔などと同世代)
    • 阪神で1973年生まれの選手はいることはいるが有力選手が思いつかない(1968年生や1976年生と比較すればわかる)。
  3. 1990年代の阪神の成績はもっとましだった。
    • ひょっとしたら1992年は優勝、1993~2002年の間にも何度か優勝している。
  4. 今岡の入団後は彼とともに「W誠」と呼ばれるようになっていた。
  5. 彼は大阪出身なので、「地元の星だ!」とファンが喜んでいた。
  6. 登録名はずっと「萩原誠」だった。

馬場正平

あえて本名で

  1. 巨人から移籍後の大洋で大活躍することになるので、「馬場=大洋」という図式になっていた。
    • 1962年にも大洋がリーグ優勝したかもしれない(史実では阪神が優勝し大洋は2位)。
  2. その後の日本プロレス史が現実とかなり異なっていた。
    • BI砲や全日も誕生しない。
    • 力道山の死とともに、プロレスはマイナースポーツになっていた。
  3. 引退後にタレント活動する際も、本名を名乗っていた。
    • あるいは、ジャイアン馬場。
      • 上の例で考えれば「ホエールズ馬場」だよなあ・・・。
    • または野球指導者の道を歩んでいた。
      • どこかで監督に就任する機会もあったかもしれない。
    • またはベイスターズ関連で、TBS専属の野球解説者になっていた。
  4. 60過ぎて現役というのは有り得ないので、癌を早期に発見できていた可能性も。

林泰宏

  1. 当然、証券会社の社長になどなっていない。
  2. 妻であった黒木真由美はもっと有名になっていた。
    • そもそも離婚しなかったかも。

原俊介

  1. 阿部慎之助の指名はなかったか。
  2. 背番号昇格があったら村田真一のあとの9か、史実で阿部が背負っていた10。

パンチ佐藤(佐藤和弘)

  1. 仰木監督の引退勧告を糧にして主にDHや代打の切り札として活躍。95-96年連覇のシーズンも活躍。震災後の神戸を明るく励ましている。
  2. イチローとパンチのコンビが長く続いている。
    • タレント転身はしていない。

板東英二

  1. 60〜70年代の中日の大ストッパーとして長くに渡り君臨していた。
    • 「権藤、権藤、雨、板東、雨、雨、権藤、雨、板東」という流行語になっていた。
  2. 現実の第一次星野監督時代の時期に中日の監督に就任していた。
    • 長嶋茂雄や王貞治率いる巨人軍の強力なライバルとなっていた。
  3. タレントなんてやってなかったかも・・・
    • 「燃えよドラゴンズ!」は山本正之自ら歌っており、第1作の歌詞には「板東」が登場した。
  4. 現役時代から事業に手を出していたために思うような活躍ができなかったので、現実以上の活躍なら副業などもやっていないはず。
    • 島田紳助も彼から手解きを受けていないので、同様に副業はしていなかった。
      • 副業をしていなかったら、紳助は2011年8月に黒い交際が発覚した時には芸能界を引退せず再び「謹慎」となっていた。
  5. ゆで卵協会の名誉会長就任。

吹石徳一

  1. 1988年は近鉄が優勝していた。
    • 翌年も現役を続行。
  2. 近鉄の監督に就任していた。
  3. 娘・吹石一恵の印象は薄かった。
    • 福山雅治とも結婚をしてなかった。
      • 一般の人と結婚していた。
    • 彼女自身現実ほどブレイクしていたか怪しい。

藤王康晴

  1. 中日の強打者として80年代後半~90年代の強竜打線の一角をなしていた。
  2. 80年代後半の落合もしくはゲーリーの獲得はなかった。
  3. 山崎と共に「地元の星」としてファンに応援されていた。

二神一人

  1. 背番号18のはく奪はなかった。
  2. 初勝利を挙げ、その後も勝ち星を量産しエースに成長していた。

平本学

  1. ロケットボーイズの3人目として、2009年現在も活躍している。
  2. 林昌勇はヤクルトに入団できず、中日かロッテでプレーしていた。

コリー・ベイリー

  1. ≒「もし2003年4月11日の対阪神戦でアリアスと片岡から連続ホームランを喫していなかったら」である(長っ!)。
  2. シーズン前半は中継ぎとして、オールスター後はリリーフとして登板回数が増えていた。
  3. 2003年のペナントレースで、阪神に15.5ゲーム差をつけられることもなく、とりあえず巨人はリーグ2位でシーズン終了。
    • この年の星野阪神の強さは半端じゃなかったので、阪神の優勝は変わらなかったと思う。
    • 原監督の更迭はなく、2004年も指揮を取っていた。
      • 単に堀内暗黒時代の到来が1年ずれただけかも。
  4. ベイリー本人は3年ほど巨人に在籍し、その後はメジャーに復帰。無事アメリカで現役を引退していた。
    • 台湾リーグへの移籍もなく、八百長問題で追放ということにもならなかった。

星山忠弘

  1. 阪神のタフネスな中継ぎとして活躍。
  2. 大学の後輩の脇谷と巨人戦で対決していただろう。
  3. 1996年のドラフトは阪神にとって実史以上に大成功のドラフトとなっていた。

ま行

松坂健太

  1. 西武の外野守備の要として活躍。
    • ファンからは「松坂2号」か「野手の松坂」か「濁らない方の松坂」で呼ばれていた。
  2. 栗山巧は史実より早く指名打者に転向していた。
  3. 西武は秋山翔吾をドラフトで指名することはなかったか、入団してもレギュラーを獲得できずくすぶったままだったかも。

的場寛壱

  1. 社会人野球のトヨタ自動車に所属することはなかった。
  2. 2003年・05年の優勝に貢献していた。
  3. 「虎のモノマネ王」といえば現実以上に今成亮太ではなく彼のことだった。
    • 今成は「的場二世」と呼ばれてたりして。
    • ムードメーカーとして普段からチームを盛り上げていた。

三宅宗源

  1. 村田兆治の後継者になっていた。
    • その場合、村田は82年頃、トレードされていたかも?

宮﨑一彰

  1. 西武移籍、競輪転向はなかった。
  2. 仁志退団後の正二塁手に定着していた。

元木大介

  1. 交流戦でオリックス移籍後の清原との対決が実現していた。
  2. さすがにこの番組に出ておバカがばれることはなかった。

森田幸一

  1. 2000年代までは中日の抑えかセットアッパーとして活躍。
  2. 中山裕章が中日に入団することは無かった。

やらわ行

八名信夫

  1. 40歳くらいまで現役で投げていた。
  2. 現役引退後に日ハムの監督に就任していた。
    • 大沢親分以上に強面の監督として知られていた。
  3. 俳優に転職はしていない。
    • 悪役商会は誕生していない。
  4. 青汁は全国に普及していなかった。
    • テレビのバラエティの罰ゲームで青汁が登場することもなかった。

山村路直

  1. 斉藤和巳はダイエーではブレイクできず、他球団にトレードされていた。
    • おそらく投手力の弱い横浜やオリックスあたりに。

横川雄介

  1. 「都立の星」と嘱望され、公立校の底上げに繋がった。
  2. 阿部慎之助を脅かす存在となり、コンバートが早まった。

吉岡雄二

  1. プロ入り当初から野手で勝負していたら、中村ノリ以上の打者になっていた。
    • ただし巨人で育ったかは疑問。最初から近鉄なら十分可能。
    • 大阪ドーム時代特に2001年の近鉄いてまえ打線はもっとえげつなかった。
      • 2001年に近鉄が日本一になれていたかも。
  2. 帝京OBの顔となり、帝京の落日はなかった。
    • とんねるずの年末のスポーツ特番にもっと出演している。

与田剛

  1. 2000年代まで中日の抑えを務めていた。
    • そして中日で現役を全うした。
  2. 毎年佐々木主浩や高津臣吾と最優秀救援争いを繰り広げていた。
    • 通算セーブ数で佐々木・高津を上回っていたかも。
    • 佐々木・高津同様メジャー入りもあったかも。
  3. 宣銅烈が中日に入団することは無かった。
    • 岩瀬仁紀も当面は中継ぎのままだった。
    • ギャラードは佐々木に代わる抑えとして横浜に入団していた。

ルイス・ロペス(2005年・楽天)

  1. 2005年の楽天のチーム成績はもうちょっとマシになっていた。(史実では38勝97敗1分と100敗に手が届きそうなくらいひどい成績であった。)
  2. ポジションが被るホセ・フェルナンデスは楽天に移籍しなかった。
  3. もしかすると実績やかつての名物助っ人と同じ名前という理由で楽天を退団した後に広島が獲得して「広島のルイス・ロペス」が数年振りに復活していたかも。
    • ちなみに広島にいたほうのルイス・ロペスは2010年に楽天でコーチを務めた。

渡辺智男

  1. 西武ライオンズを代表する右腕エースとしてチームに貢献していた。
    • 2000年代のパ・リーグの優勝も西武の独占だった。
    • でも右ヒジに爆弾を抱えていたから120勝くらいで引退を表明していたかもしれない。
  2. 衰えが見えていた渡辺久信にかわって、「西武の渡辺=渡辺智男」になっていた。
    • ダイエーへのトレードも別の投手になっていた。
    • 史実通りだったら、ダイエーの連続Bクラス脱出とリーグ優勝が少し早まった。
    • 工藤を追って巨人に移籍したかもしれない。
  3. 「甲子園の優勝投手は大成できない」のジンクスを打ち破っていた。
    • 正しくは「甲子園の初出場初優勝投手は大成できない」のジンクスだと思われ。
  4. そして現在西武の監督をしているのもこの人。
  5. ソフトバンクの監督をする可能性も十分ある。