「もし1985年プロ野球ドラフトで○○だったら」の版間の差分

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(清原の項目について、藤川球児とのやり取りを追記)
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#彼の父親が阪神ファンだった影響で巨人の次に入りたい球団だったらしいので、一応は喜んで入っていたかも。
#彼の父親が阪神ファンだった影響で巨人の次に入りたい球団だったらしいので、一応は喜んで入っていたかも。
#のちに藪恵壹とチームメイトとなっていたので他のセ・リーグ球団に移籍しない限り藪との乱闘はなかった。
#のちに藪恵壹とチームメイトとなっていたので他のセ・リーグ球団に移籍しない限り藪との乱闘はなかった。
#他のセ・リーグ球団に移籍しない限り藤川球児ともチームメイトとなっていたので「チ●コついとんのか!?」という暴言もなく、「火の玉ストレート」も生まれることはなかった。


===西武は===
===西武は===

2021年4月9日 (金) 10:24時点における版

読売ジャイアンツが清原和博を指名していたら

1985年ドラフトで巨人は意中としていた清原和博ではなく早稲田大学進学が決まっていた桑田真澄を1位指名しました。もしあっさりと清原を指名していたらどうなっていたのだろう?

  1. 10年後のドラフトで福留孝介が史実ほど騒がれなかった。

巨人が抽選に勝っていたら

  1. 清原は引退まで巨人に居られただろう。
    • 引退が早まった可能性もある。
  2. しかし通算成績は現実の世界とほとんど変わらなかっただろう。
    • 西武からFAで巨人に移籍した前後の成績を見比べてみるといい。
  3. ポジションのかぶる駒田はトレードされていた。
    • 中畑もトレードされていた。
      • 中畑は引退が早まっていたのでは?
  4. 入団1年目で4番に抜擢されることはなかった(当時の巨人は原、クロマティ、吉村といった打者がいたため、当時10代の清原が入り込める余地がなかったと思う)。
    • 清原ではなく桑田を指名したのはこのためか?
      • この時は巨人は投手が必要だったため、1位から4位まで投手を指名していた。
    • 4番どころか一軍のレギュラーも困難だったかも。代打か守備固め位かもしれない。
  5. 4番に抜擢されたのは3年目ぐらいか。
  6. FA制度の導入はなかったか?
  7. 当時、1桁台の背番号は7しか空いていなかったのでもしかしたら永久欠番になっていたかもしれない。
    • 巨人は高卒新人野手にあまりいい背番号を与えない傾向があるので、吉村禎章の後を受けて55をつけていた可能性もある。
      • そうなると、この7年後に松井秀喜が入団していたら何番になったやら・・・
  8. 89年の日本シリーズで巨人は0勝3敗まで追いつめられることはなく、もう少しすんなり勝っていた。
    • 当然、「巨人はロッテより弱い」等とマスコミに報道されることもなかった。
    • 意外にも近鉄が日本一になっていた可能性もある。
  9. 肉体改造を行っていたかは不明。
    • 「番長」と呼ばれることもなかったかも。
  10. 西武は外れ1位で桑田を指名していた。
    • 史実でも西武は「寝業師」根本陸夫が両取りを画策していた(巨人に裏をかかれた)という話なので、既定路線かも。

巨人が抽選に敗れていたら

  1. 桑田をはずれ1位で獲り、結局史実とあまり変わらない。
  2. 桑田を取らなかった場合は、投手力が悪化し王監督の辞任が早まった。
  3. 清原のその後は下記の項目を参照。
    • 西武だったら史実通り。

清原和博が西武・巨人以外の球団に入団していたら

近鉄だったら

  1. 西武の代わりに黄金時代が到来。
  2. 中村紀洋は芽が出なかったかも。
    • むしろ清原・ノリ・ブライアント(後にローズ)でいてまえ打線がより強力になっていたかも。
  3. 「地元の星や!」と大阪では大喝采。
    • 彼の地元の泉州地域に近鉄ファンが大幅に増加していただろう。
  4. ブライアントは無名のままアメリカへ帰国。
    • いや、ブライアント獲得はデービスが大麻所持で逮捕されたからなので史実通りかと。
  5. 10.19決戦は勝っていた。
    • いや、10.19の前に近鉄が優勝を決めていたのでは?
  6. 89年の日本シリーズは文句なしで勝利し、近鉄は日本一になれた。
    • もし4勝0敗で勝っていた場合、当時の巨人監督の藤田監督は解任されていたかもしれない。
    • 史実の1987年日本シリーズの時の涙をこの時流すことになった。
    • 2001年時点でも在籍していれば、この年も日本一になれたかも。
    • 当然、「巨人はロッテより弱い」発言はなかった。
  7. 鈴木監督と喧嘩して現実より早く巨人へ行ったかも。
    • もしくは野茂に誘われて、一緒にメジャーに行っていたかもしれない。
  8. 2004年まで近鉄に在籍していたら、2005年以降はオリックスから楽天に在籍していた。
    • 近鉄消滅してないんじゃない?ノリ化して結局同じかもしれんが。
    • オリックス入りした場合その後はほぼ史実通りだろう。
  9. 入来智と「鉄パイプ大立ち回り」(!?)を演じていた。
  10. ポジションが被る石井浩郎をドラフトで指名→入団することはなかった。
  11. 南海が獲得した場合や史実のオリックスへの移籍と同様、地元球団なのでここで現役を終えていた可能性も少なからずある。

南海だったら

  1. 暗黒時代は回避できた
    • 「生卵事件」は起こらなかった。
  2. 王監督の就任はなかったか?
  3. 1994年に秋山幸二がダイエーに移籍したことで、同球団でも「AKコンビ」が実現する。
  4. 清原は岸和田市出身のため、近鉄や阪神のケース以上に「地元の星や!」と大喝采を受けていた。
    • 少なくとも泉州地域では南海人気が現実以上に盛り上がっていただろう。
      • 結果的にダイエーへ身売り→福岡へ移転は史実通りでももう少し遅れていたかも知れない。
      • 福岡へ移転せず、当初の計画通り、堺へ移転。
    • 史実通り後に巨人に移籍したとしても、ここで現役を終えていただろう。
      • そしてホークスのコーチ・監督になっていた可能性もある。
      • 身売りや福岡への移転がなければ、特に当初の計画通り堺への移転があれば尚更ここで現役を終える可能性が大きかった。
      • 史実での2008年のオリックス以上に彼の引退試合が盛り上がっただろう。
    • 地元出身選手として現実以上に人気があり、南海電鉄のCMやポスターに登場していただろう。
  5. 彼の1年目の大阪球場でのオールスター戦が現実以上に盛り上がっていた。
  6. 門田博光と「年の差KK砲」として売り出された。(門田と清原は19歳差)

日本ハムだったら

  1. 巨人との日本シリーズで「KK決戦」、「東京ドーム決戦」が発生し話題になる。
  2. 1993年、1998年は優勝していた。
    • 1996年も。
  3. ミスターファイターズは田中幸雄ではなく清原。
  4. 結局落合と入れ替わるような形で巨人に移籍したかも。
  5. 後に入団するPLの後輩の片岡篤史とチームメートになり「KKコンビ」と呼ばれていた。

中日だったら

  1. 後に入団する立浪和義とともに「KTコンビ」が組まれた。
    • 落合・宇野と共にOUK砲などと呼ばれたかも知れない。
      • いや、1986年オフに落合を獲得してなかったかも。(=牛島和彦も中日に残留)
        • 平沼も残留しずっとチームメイトのまま、当然あのバット投げ事件も起こらなかった。
        • (清原の1年目の成績にもよるが)もし落合獲得が史実通りなら交換要員で宇野か大島がロッテへ、となっていたかも。
    • いずれにせよ通算本塁打(宇野勝の334本塁打)・年間本塁打(当時は西沢道夫の46本)の中日球団記録は間違いなく清原により塗り替えられていた。かなり狭いナゴヤ球場だからヘタしたら王貞治越えどころか60本塁打を達成していたかもしれない。
    • 本塁打王・打点王はもちろん若手時代から落合・宇野の打撃指導、星野の厳しい生活指導を受けていれば首位打者にも手が届くようになり三冠王も夢ではなかった&引退後も充実したセカンドライフを送れていただろう。
      • 星野の影響を受けて巨人戦では鬼のように桑田・斎藤・槙原・上原らをボコボコ打ちまくっていた。
    • 1996年には山崎武司・大豊泰昭とともに本塁打王争いを繰り広げ30発トリオ(コールズがあと1本打てば1984年以来の30発カルテット)が誕生していた。
  2. 1994年に巨人に勝ち優勝。
    • 1996年もメークドラマを許さずに優勝していたかも。
    • 中日の(清原入団後の1986年以降の)優勝回数は史実6回より大幅に増えていた。少なくとも2,3回ぐらいは日本一になれていただろう。
    • 後に史実通りPL学園の後輩・福留孝介が入団すれば清原・立浪・福留の「KTFトリオ」が組まれ、この3人を含めた強竜打線が猛威を振るっていた。
  3. 1988年の日本シリーズは中日が制覇している。
    • 例の新幹線高架下直撃弾も渡辺久信から放った。
  4. 斉藤学(史実でのドラ1)が中日に入ることはなかった。
    • よって、掛布雅之の現役引退も史実より遅くなっていた。
  5. 引退後は、指導者となり今は中日の監督として指揮を執っている。
    • 清原監督の場合、立浪がヘッドコーチor二軍監督だろうか?
    • もしくはCBC・東海テレビなど在名局…か(星野の紹介で)NHKの解説者に。
  6. 小松崎や岩本や後に入団する山﨑武司と共に、星野ドラゴンズの乱闘要員になっていただろう。
    • 星野監督と出会うだけあって乱闘の珍プレーが現実以上に多かった。
    • 1996年からのシーズンには山﨑だけでなく清原もガルベスと乱闘になっていただろう。
      • その後もし史実通り巨人入りしていたら、史実でのオリックスの山口和男とのようにチームメイトになる形で和解していたかも。
  7. 「燃えよドラゴンズ!」では「♪4番清原ホームラン」が長らく使用されて定番のフレーズになっていた。
  8. 主力選手として日本一を達成していた場合、清原が中日で着用した背番号は永久欠番になっていた…と思いきや史実では岩瀬ですら制定されないくらいだからやっぱないか。
  9. FAかポスティングでメジャーに移籍していたかもしれない。

阪神だったら

  1. 1986年に連覇達成。
    • それ以降強豪チームに。
    • 92年は優勝していた。
  2. 近鉄と同じく「地元の星や!」と大阪では大喝采。
    • そして阪神入りなので「甲子園のヒーローが入ってきた!」「やっぱり清原は甲子園が似合う!」などとも言われていただろう。
  3. 暗黒時代突入は遅れていた。
    • 4番候補として外国人を獲得しては失敗する、なんてこともなかった。
  4. バースの影でじっくりと育成されていた。
    • そして1988年、バースの退団によって4番を任され一気に地位を確固たるものとする。
    • いや、ルーキーの年に故障した掛布に代わって三塁手として名を馳せていたかもしれない。
  5. さすがにFAを取っても巨人に行くことはなかっただろう。
    • 水樹奈々が阪神ファンに転向することもなかった…かもしれない。
  6. 遠山昭治(当時)の阪神入りはなかった。
    • ゆえに阪神との縁もなかったため、後年の「遠山→葛西→遠山→葛西」という投手リレーも存在しなかった。
  7. ノムさんが監督に就任した時に槍玉に挙げられて、巨人もしくはオリックスに移籍していた可能性あり。
    • 仮にノムさんと揉めなくても星野監督1年目オフに「血の入れ替え」で仕分けられていただろう。
  8. 彼の父親が阪神ファンだった影響で巨人の次に入りたい球団だったらしいので、一応は喜んで入っていたかも。
  9. のちに藪恵壹とチームメイトとなっていたので他のセ・リーグ球団に移籍しない限り藪との乱闘はなかった。
  10. 他のセ・リーグ球団に移籍しない限り藤川球児ともチームメイトとなっていたので「チ●コついとんのか!?」という暴言もなく、「火の玉ストレート」も生まれることはなかった。

西武は

  1. 優勝の常連からは陥落。
    • しかしAクラスぐらいは守りきる。
  2. 森監督の退任が早まった。
    • 堤オーナーの「やりたければどうぞご勝手に」発言はなかった。
  3. 片平晋作の大洋移籍はなかった。
    • しかし実際は指導者等として西武に戻ってきたため彼の現在は史実通り。
  4. プリンスホテル出身ということで石井浩郎がドラフトで指名され入団していた可能性もありそう。
    • その前に藤井康雄が指名されていたはず。
  5. デーブか白幡が一塁を守っていたかも。

清原和博がドラフト指名を拒否していたら

  1. プロ入りが遅れた分成績も落ちる。
  2. 江川の二の舞だと揶揄される。
  3. 社会人に進み、3年後に1988年ドラフトで川崎憲次郎らとバッティング。
  4. 1988年のソウル五輪で全日本の四番を務め、二大会連続金メダルに貢献。
    • 上記と同様の理由でソウルには参加してないかと。
  5. 巨人がKK以外を指名していたら、こうしていたかもしれない。

桑田真澄が巨人以外の球団に入団していたら

  1. 桑田が他の球団と競合になり、巨人が抽選を外したという流れ。
  2. KKどちらも獲得できなかった巨人は低迷が早まっていた。

桑田真澄がどこの球団からも指名を受けなかったら

  1. そのまま早稲田大学に進学。早大では斎藤佑樹より前にあらゆる記録を樹立していた可能性もあった。
    • 1986~89年にかけて六大学野球は盛り上がっていた。
    • 小宮山悟(史実での1988~89年の早大のエース)はどのような影響を受けるのだろうか。
    • 取手二高の石田や仙台育英の大越のように中退していたかもしれない。
      • その後社会人野球チームを経てプロ入り。
      • あるいはアメリカに渡ってメジャーリーグを目指したかも。
  2. 卒業後阪神に入団して伝統の一戦がKK対決で盛り上がっていたかも。
  3. 「さらば桑田真澄、さらばプロ野球」が出版されることもなかった。
  4. もっと早くメジャーへ行ってたかもしれない。
  5. 莫大な借金(17億円)を抱えることは無かった。
    • 「投げる不動産屋」と呼ばれることは無かった。
  6. 1988年のソウル五輪にも出場。
  7. 1989年のドラフトは野茂と桑田だけで12球団の1位指名が占められた。
    • 潮崎哲也・佐々岡真司・与田剛も野茂か桑田のはずれ1位だった。
    • 元木大介が巨人にすんなり入団できていたかも。
  8. 江川卓がもう少し長く現役を続けていた。
    • 西本聖が中日にトレードされることもなかった。
  9. いずれにせよ、桑田が第一志望であった巨人に入団できなかった可能性がある。
  10. PL学園と東京六大学野球連盟の関係が悪化する事は無かった。
    • 今でも早稲田や法政にPL学園の選手が入学していた(史実では現在六大学でPLの選手を受け入れているのは明治と立教のみ)。
    • PL学園が有力中学生に逃げられることはないため1990年代にもPL学園が何度か優勝、「春夏連覇したらその後優勝できない」というジンクスができることはなかった。
      • 廃部も避けられたか。
  11. 1987年に巨人はリーグ優勝できず、王は監督としては一度もリーグ優勝できないまま巨人を去ることになった。
  12. 1990年開幕前の登坂日漏洩事件はなかった。

両者の立場が逆だったら

  1. 清原は意中の球団だったため少々トラブルはあったが巨人に入団していた。

伊東昭光がヤクルト以外の球団に入団していたら

  1. いずれにせよ救援のみでの最多勝獲得はなかった。

阪急だったら

  1. 1年目からローテーション入りし引退まで先発で通した。
  2. 1987・89年は優勝していた。
  3. 自宅で転倒し足を骨折することはなかった。

ロッテだったら

  1. 園川一美の「なんでこの僕が2位指名なんですか!?」発言はなかった。
  2. 牛島の先発転向から河本の入団まで抑えを務めた。

園川一美がロッテ以外の球団に入団していたら

巨人だったら

  1. さすがに指名順位に文句は付けなかった。
    • 1位指名が桑田なら園川としても納得だろうな、と。
  2. 開幕投手を務めることはなかったが、通算成績は史実より良かった。
    • そもそも活躍出来たのかどうか?という気もしなくはないが、当時の巨人は左腕不足だった事情を考えると何かと重宝はしていたはず。
    • 藤田監督から長嶋監督時代の前半にかけては3本柱に次ぐ先発ローテーションの4、5番手あたりとして活躍。その後はリリーフに回っていたかも。
  3. 96年の日本シリーズでイチローにHRを打たれたのは河野ではなく園川だった。

ヤクルトだったら

  1. 相馬球団社長の「黄金の左腕」伝説がパワーアップしていた。
  2. 梶間健一に代わる左腕エースとして活躍。
  3. 荒井幸雄は他球団に指名されていた。
  4. 野村監督就任によって良くも悪くも運命が変わっていたかも。
    • 上手く行けばチームの黄金時代にも貢献し通算成績も上がり、逆に野村監督と合わず活躍出来なかった場合は近鉄かダイエーあたりのパ球団にトレードか?

南海だったら

  1. 西川との左腕コンビで売り出される。
  2. 13失点しての完投敗戦はなかった。
  3. 1989年10月14日の近鉄戦に登坂し優勝決定を阻止。例のコメントを残す。
  4. 王監督の例の発言はなかった。
    • むしろ1996年よりも以前に開幕投手を務めていた可能性も。
  5. イチローにシーズン200安打目を打たれたのは史実通り?