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*駅名標テンプレートは相応の記事量を満たした場合にご使用下さい。
==JR==
==分割済み==
===山手線===
*[[勝手に鉄道建設/鹿児島]] - 鹿児島県内の鉄道新線はこちらへ。
*ここでは営業上の山手線(環状運転区間)について扱います。
*[[沖縄に鉄道を建設しよう]] - 沖縄県内の鉄道新線はこちらへ。
;1890年代
*[[勝手に鉄道建設/日本国外・国際線#日台友好トンネル|日台友好トンネル]]
#東京駅ではなく丸ノ内駅と名乗っていたかも。
*[[西鉄関連路線延長・新線]]
#*現実ほど巨大な駅舎になったかどうか怪しい。
*[[九州新幹線関連路線延長・新線]]
#都制化になる物も早まっていた?
#*都制は「大東亜戦争」という非常時だから反対を無視して実現できたという側面があるのでそれはない。
#場合によっては赤羽駅まで通っていた可能性も。


==二県以上長距離路線==
;1910年代
===JR関連===
#秋葉原駅ではなく万世橋駅に通っていたかも。
====熊本~島原連絡線====
#*この場合秋葉原駅は貨物駅のままだったかもしれない。
{{駅名標/九州|name=西熊本|ruby=にしくまもと|back=くまもと|next=しまばら|back2=Kumamoto|roma=Nishi-Kumamoto|next2=Shimabara}}
#路線 熊本~西熊本~島原
#*西熊本~島原間は海底トンネル
#熊本~長崎間の特急を新設。諫早でスイッチバック。
#*りんどう号大打撃
#*熊本から長崎まで鳥栖を経由することなく(大回りすることなく)行くことができる。
#田んぼのど真ん中に西熊本駅。
#熊本経由大分行きディーゼル特急なんかもできたり・・・


====山鹿線====
;1940年代
{{駅名標/九州|name=山鹿|ruby=やまが|back=ひらやまおんせん|next=ひごおおみち|back2=Hirayamaonsen|roma=Yamaga|next2=Higo-Omichi}}
#恐らく戦災復興都市計画として開業だろう。
#銀水~新大牟田~大牟田テクノパーク~南関~三加和~平山温泉~山鹿~肥後大道~鹿本~七城~菊池~肥後大津
#*環状化の構想は関東大震災後の帝都復興計画などにも盛り込まれていたが諸般の事情により実現が大幅にずれ込んでいた。
#単線
#新大牟田で九州新幹線と接続。
#博多まで直通列車を走らせる。
#山鹿線経由で、博多~大分間の特急を走らせる。
#*線内の停車駅は(新大牟田・山鹿・菊池)
#快速停車駅(新大牟田・南関・山鹿・菊池・肥後大津)
#肥後大津まで行くんだったら、熊本空港まで伸ばしたほうがよいかと。
;別案
#駅の数を増やしたうえに熊本まで伸ばしてみた。
#銀水-筑後橘-新大牟田-上内-大牟田テクノパーク-南関-肥後小原-肥後野田-板楠-平山温泉-西山鹿-山鹿温泉-鹿本高校前-鹿本町-七城-菊池-東菊池-旭志-護川-本田技研前-肥後大津-阿蘇西原-熊本空港-津森-肥後木山-益城-桜木-新健軍-錦ヶ丘-熊本県庁前-国府高校前-南熊本-平成-熊本
#熊本市内はまさかの地下路線。地下水どがんすっと?とか言う話は気にしない。
#快速「きよまさ」が運転。熊本-熊本県庁前-新健軍-肥後木山-熊本空港-肥後大津-菊池-鹿本町-山鹿温泉
#山鹿温泉で系統分断され、熊本~山鹿は快速と普通が1時間に1本ずつ、山鹿~銀水は普通1時間に1本ずつ。
#山鹿温泉は温泉併設、発車メロディは例の「よへほ」。さらに菊池駅ホームに足湯を設置。ちょっとした名物に。


;1960年代
#こうなると東京オリンピックの再開発の一つになっていた。
#この時期に開通した区間は間違いなく地下線。


====田川線====
===川越線===
{{駅名標/九州|name=八丁牟田|ruby=はっちょうむた|back=ちくごおおかわ|next=ちくごしまだ|back2=chikugo-Okawa|roma=hacchomuta|next2=chikugo-Shimada}}
;1890年代
#各駅のご案内
#史実の停車駅だと少ないので、秩父まで開業していた可能性も。
#*'''佐賀'''-南佐賀-諸富-'''筑後大川'''-'''八丁牟田'''-筑後島田-'''羽犬塚'''-鵜池-'''八女'''-山内-下横山-上横山-'''田主丸'''-林田-'''甘木'''-野島-千手-嘉穂-'''山田'''-猪位金-'''田川後藤寺'''
#*停車駅は大宮、川越、高麗、秩父大宮かも。<!--日本鉄道時代-->
#**'''太字'''は快速停車駅
#**高麗から秩父に抜ける工事がかなりの難事業になりそうだが・・・
#**佐賀線一部区間復活?
#**高麗ではなく飯能に通っていたかも。
#**大宰府支線でも造ったら(筑前山家経由)?
#*川越線ではなく秩父線になっていた。
#***[[#福岡空港(支)線|つくったよ]]
#*もちろん西武秩父線は開業していない。秩父鉄道は微妙。
#電化はもう少し早かった可能性も。
#秩父の観光開発は史実通り行っていただろうか?
#位置づけは「商都川越と現在の東北本線を結ぶ路線」。
#*戦時色が強くなり東京を迂回するルートの必要が出てくるまでは大宮-川越のみ。
#西武大宮線など存在しなかった。
#川越駅は現在の本川越駅あたりになっていた。


====嬉野線====
;1980年代
#路線 武雄温泉~西山(佐世保線ホーム有)~犬走~高瀬~川登~塩田口~嬉野温泉~岩屋川内~不動山~法音寺~彼杵
#開業当時から電化していた。
#長崎新幹線がなかったら「在来線」でこの路線にかもめを走らせたいな、と。当然ながら特急停車駅は嬉野温泉のみ。
#大宮駅-川越駅間の路線が埼京線になっていた。
#特急シーボルト健在時の時刻表を使って計算した結果、大村線経由で特急を走らせても、鹿島経由のかもめと所要時間はさほど変わらない計算だから、在来線で建設してもそれなりの時間短縮はできるはずなんだけどな…
#もともとは東京に用がない貨物列車を東京都心に入れないための路線のつもりだった。
#*この場合は複線化もされているはず。
#*となると史実の武蔵野線がさらに遠くにいったということか。東武野田線もJRに編入され、八高南線・相模線もセットになっていた。


====波佐見線====
===京浜東北線===
#路線 嬉野温泉-西川登-東波佐見-波佐見-稗木場-三河内
;1880年代
#↑の嬉野線実現時にセットで開業。
#運営は日本鉄道?
#停車駅は上野-日暮里-田端-王子-赤羽-川口-蕨-浦和-与野-大宮か?(場合によっては上尾まで)
#*川口駅は「武蔵川口駅」に。
#神奈川方面延長は国有化後。


====天草本線====
===八高線===
{{駅名標/九州|name=天草|ruby=あまくさ|back=あまくさくうこう|next=なかたこう|back2=Amakusa Airfield|roma=Amakusa|next2=Nakata-Ko}}
;1890年代
*長崎本線の延長。
#八王子-飯能-越生-小川-寄居-児玉-藤岡-高崎になっていたかも。
*路線 長崎-肥前田上-茂木港-天草富岡-志岐-天草空港-天草-中田港-下河内-天草中原-新和-本浦-長島-八郷-阿久根
#八高北線は電化されていたか?
*長崎~鹿児島中央間に特急「あまくさ」を設定。
#どう考えても貨物輸送がメイン。
**停車駅:長崎-天草空港-天草-長島-阿久根-川内-串木野-伊集院-鹿児島中央
#*主に上州の繭を絹織物産業が盛んだった八王子へ運ぶため。
**使用車両:787系
#**[[横浜線]]との間にスイッチバックなしで直通できる短絡線が建設される。
**阿久根-川内間は肥薩おれんじ鉄道から買い戻す。


====加世田線====
===埼京線===
{{駅名標/九州|name=加世田|ruby=かせだ|back=|next=きんぽう|back2=|roma=Kaseda|next2=Kinpo}}
;1890年代
;ルート(快速停車駅のみ)
#停車駅は品川-大崎-目黒-恵比寿-渋谷-新宿-目白-池袋-板橋-赤羽--浦和-大宮かな。
*'''加世田'''-金峰-'''鹿児島中央'''-市来-串木野-川内-'''阿久根'''(天草線)(特急「あくね」がスイッチバックで加世田まで乗り入れ)-出水-新水俣-水俣-人吉
#*つまり上野駅がターミナルではなかったってこと?
*つながりかたがさっぱりわから~ん。そもそもなぜ肥薩おれんじ鉄道に直通してるのか。
#*要は高崎線が品川支線のルートで開業ってことか?
*新水俣と水俣が逆。しかも水俣ー人吉は八代経由になる。
#赤羽線は存在しない可能性も。
*本当に実現するとして、快速停車駅は増やすべき。伊集院とか佐敷とか。
#2chの殺人予告の「埼京線の上野駅」が実在していた可能性も。
#そもそもこの場合だと名実ともに東北本線になっている気がする。


;1940年代
#当然当時は新幹線は無いので新幹線併設在来線という言葉は無い。
#*東北本線の別線にはなっていない。あえて付けるとしたら「戸田線」とかか。
#*戸田駅が「武蔵戸田駅」になっていた。
#川越線と直通するかは微妙な所。
#私鉄による建設。
#*あくまで東京-大宮・浦和で省線に対抗するため。
#*沿線地域は昭和30年代でも農村ばかりだった。
#**私鉄なら開発も積極的になされているのでは。
#*後々都営三田線への乗り入れ構想が浮上する。
#*要するに[[もしあの鉄道路線が開業していたら/関東#東京大宮電気鉄道|この計画が実現していた場合]]である。


====阿久根本線====
;1960年代
#上の、九州新幹線の阿久根ルートが開通したところで次は在来線。阿久根駅から、[[沖縄に鉄道を建設しよう|那覇駅]]に至る路線を設置。
#東京五輪の競艇場アクセスに活躍。
{{駅名標/九州|name=首里城|ruby=しゅりじょう|back=うらそえ|next=なは|back2=Urasoe|roma=Shurijo|next2=Naha}}
#車両は山手線や総武線から流れてきた旧型国電でスタート。
#ルート(快速停車駅のみ)
#*1970年代に新性能化されるが、おそらくラインカラーは現実と異なる。
#*'''阿久根'''-東阿久根-西紫尾山-紫尾-鶴田-'''大口'''-東大口-吉松-北霧島-'''国分'''-財部-'''曽於'''-大隅松山-'''志布志'''-東有明-大隅有明-'''鹿屋'''(垂水桜島支線)-南大隅-佐多-'''西之表'''-種子島宇宙センター-上屋久-'''屋久'''-口之島-中ノ島-諏訪瀬島-'''宝島'''-奄美空港-'''名瀬'''-古仁屋-'''徳之島'''-和泊-知名-与論-辺戸-国頭-与那覇-'''名護'''-許田-宜野座-金武北-恩名-読谷-'''具志川'''-'''沖縄市'''-北谷-'''宜野湾'''-'''浦添'''-首里城-那覇
#あるいは五方面作戦の一環(赤羽〜大宮間線増)として建設され、東北・高崎線の一部列車がここを経由したかも。
#垂水桜島支線 '''鹿屋'''-垂水東-'''垂水'''-垂水西-東桜島-西桜島-(鹿児島湾トンネル)-'''鹿児島中央'''
#*武蔵野線開業後、前橋~沼津間の普通列車が廃止されず、この路線を経由。
#'''太字'''は特急「あくね」停車駅つまり全列車停車駅
#**おそらく8両編成以下(板橋・十条駅の当時のホーム長を考慮)。
#鹿児島湾トンネルは駅ではないのでご注意。
#新幹線の(予定)用地も同時に確保された。
#遠回りしすぎ・・・


====琉球本線(琉球新幹線も並行して建設する)====
===武蔵野線===
#停車駅(鹿児島-名瀬):'''鹿児島中央'''-野尻-桜島-桜島古里-海潟温泉-垂水-(垂水-鹿屋間は旧国鉄大隅線と並行するルート)-'''鹿屋'''-南鹿屋-大吾平-神川-錦江-根占-大隅宮田-登尾-大隅佐多-'''西之表'''-下西-大隅住吉-志和野-伏ノ前-中種-大隅田島-大隅中田-大宇都-南種子-'''屋久島'''-屋久永田-口之島-とから中之島-平島-諏訪之瀬島-悪石島-小宝島-宝島-'''喜界島'''-奄美高崎-佐仁-屋仁-笠利-奄美竜郷-奄美大勝-'''奄美名瀬'''
;1890年代
#*(名瀬-那覇)'''奄美名瀬'''-奄美石橋-奄美平田-奄美朝戸-奄美大川-奄美小湊-奄美和瀬-奄美東城-奄美美里-奄美住用-役勝-節子-網野子-阿木名-伊須-嘉鉄-奄美清水-奄美瀬戸内-加計呂間島-与路島-'''徳之島'''-伊仙-'''沖永良部'''-知名-那間-与論-辺土名-琉球塩屋-名護-東江-数久田-許田-北松田-琉球松田-漢那-宜野座-金武-伊芸-屋嘉-琉球東山-琉球石川-具志川-東恩納-喜屋武-琉球美里-沖縄市-諸美里-宜野湾-琉球愛知-我如古-浦添-琉球宮城-安謝橋-'''那覇'''
#路線名は「府中線」か「船橋線」辺りになっていた。
#*太字は新幹線併設駅。
#停車駅は府中-所沢-志久-浦和-越ヶ谷-松戸-船橋辺りになっていたかも。
#*志久ではなく志木では?
#軍事上の必要性がかなり表に出されていた。
#*沿線に相当する地域にそこまでの旅客需要があったようには到底思えない。
#現実より地平区間が多い。
#*車両にA基準が求められたり、水害で駅が崩壊することはなかった。
#川越線は無かった(武蔵野線が東北本線と中央本線のバイパスとなったため。)
#*その代わり国分寺ー所沢ー川越ー大宮の私設鉄道路線が開業していた。
#**その後西武鉄道に買収され、西武大宮線として名づけられていた。
#武蔵野線の開通に合わせて都市開発が進んでいったため、史実より市街地の位置が大幅に変わっていた。
#*後発で開通した路線もそれに合わせていた。
#国分寺で中央線、浦和で高崎宇都宮線、松戸で常磐線、船橋で総武線とそれぞれ直通していた。
#その後南武線が府中~川崎で開通。むろんダイレクトで直通していた。
#武蔵野操車場はハンプヤードになっていなかった。


====九州沖縄線====
;1990年代
*運行区間:鹿児島中央-那覇
#JRではなく首都圏新都市鉄道の一路線として開通していた。
*[[:画像:九州沖縄線 路線図.jpg|九州沖縄線 路線図 West Japan Railways Company]]
#ルートは史実と違っていた可能性大。
**何故JR西日本運営?
#下河原線は南武線の一支線として現在も残存していた。ただし東京競馬場駅は廃止になっていたかも。


===島原鉄道関連新線===
===京葉線===
;天草線
;1890年代
#加津佐でスイッチバック。
#日本鉄道運営か?
#島原-天草間・天草-長島間に鉄道橋を建設。
#*むしろ行徳や浦安の有力者が誘致した軽便鉄道では。
#駅:加津佐-五和-本渡-亀川-立原-河浦-牛深-長島-黒之瀬戸-折口(肥薩おれんじ鉄道)
#**この場合は総武鉄道の東京府内の駅と船橋を結ぶ路線だった。
#**沿線で獲れた海産物の輸送も盛んだった。
#*当時の東京-千葉間に鉄道が2本も必要だったとは考えにくい。
#ルートは史実の東西線に近いルートになっていた。
#なので史実の京葉線はりんかい線として開業していた可能性も。
#*都市政策案通り有楽町線が幕張まで伸びていたのでは。
#1890年代だと京葉間の埋め立てが早くないと無理じゃないの?
#*夢の島がまだないからね……京葉貨物線まであるとすると、お台場に軍港が作られ、海軍の専用線として巨大な橋梁が並んでいた可能性
#東武亀戸線の起点が越中島だったかもしれない。
#千葉港駅の読み仮名が「ちばこう」だったかもしれない。


;有明海横断線
;1970年代
#多比良-長洲南に海底トンネルを建設。
#内房線・外房線直通の優等列車は新宿発着以外こちらに移行。
#駅:多比良-長洲南-高道-玉名(鹿児島本線)-玉陵-菊水-菊水東-西山鹿-肥後山鹿-大道-肥後鹿本-七城-菊池-龍門-兵戸峠-豆生野-豊後津江-黒渕-小国-南小国-田の原温泉-南牧場-産山-くじゅう花公園-三船温泉-豊後原口-塩手-飛龍野-野津原-大分県立看護科学大学前-稙田-大分宗方-大分豊府-大分(日豊本線・久大本線・豊肥本線)-大分森岡(大分駅でスイッチバック)-大分米良-高尾山-毛井-宮河内-丹生-小佐井-神崎-佐賀関-佐田岬-大久-町見-伊方-川之内-日土-上須戒-伊予大洲(予讃線)
#総武線の複々線化は津田沼止まりだった。
#越中島や千葉みなとあたりに貨物ターミナルが開設された。
#*むしろ新木場〜東京間は建設されず、新木場以西は史実のりんかい線と同じルートだった(但し大崎ではなく大井に向かう)。


;日田線
;1990年代
*豊後津江-日田南-日田-日田北-戸山-山国-槻木-豊前杉山-伊良原-崎山
#りんかい線の一部として開業していた?
*平成筑豊鉄道田川線に乗り入れ
#*一部として開業していたら第3期の東京駅-新木場駅間が開業した時になんか動きがあったかもしれない。
#この路線ができるまで東京ディズニーランド周辺では渋滞が深刻だった。
#開業が遅れたとなると、幕張まで千葉都市モノレールが伸びていた可能性もゼロではない。
#千葉みなと駅は最初からこの表記だった。


;中津線
;1980年代に全線開業していたら
*山国-下郷-耶馬渓-樋田-真坂-上毛-中津
#内子線とともに国鉄最後の新線開業として注目された。
#東京ディズニーランドへのアクセスがより便利になっていた。


===大牟田市交通局(おおむたライトレール)===
===成田新幹線===
かつてあった西鉄大牟田市内線、及びに荒尾市電を復活させ、直結させる。
;2010年
#軌間1435m・600V
#成田スカイアクセスは存在しない。
#車両は広島電鉄等から買収した、連接車を使用する
#都心部や空港周辺の用地買収をやり直す羽目になる。
#緑ヶ丘線・三池新町~通町~東新町~旭町~大牟田駅前~延命公園前~四つ山~荒尾駅前~緑ヶ丘
#*上野起点だったかもしれない。
#*シティーモール正面入り口とグリーンランドの正門前まで乗り入れる。
#新大牟田線・東新町~銀水駅前~吉野~新大牟田駅前
#*東新町からゆめタウン内に乗り入れる。
#*東新町~銀水駅前は国道の幅が狭いからなぁ。
#白金町から直進してイオンモールに乗り入れる支線。
#別案
#*1系統:南関~上内~新大牟田駅前~橘交差点~田隈~通町二丁目~東新町・ゆめタウン大牟田前~旭町~大牟田駅前~警察署前~船津町~荒尾駅東~シティモール前~グリーンランド前
#*2系統:三池新町~通町二丁目(この間は本線と同じ)警察署前~白金町~諏訪神社前~四ツ山~荒尾駅前
#*3系統:大牟田駅西口~大正町四丁目~大正橋~新栄町駅前~日の出町~東新町・ゆめタウン大牟田前(この間は2系統と同じ)白金町~石炭館前~イオンモール大牟田~大正町四丁目~大牟田駅西口
#**半循環系統。イメージとしては都営地下鉄大江戸線。
#*4系統:東新町・ゆめタウン大牟田前(この間は2系統と同じ)諏訪神社前~三池港


===熊北鉄道===
;2020年代
区間:[[大牟田市|大牟田]]~荒尾~玉名~熊本下通(地下駅)
#通常鉄道かリニア方式かで揉める。
*軌間:1435mm
#*後者ならJR東海管轄で起点も品川に。
*電気:直流1500V
#東北新幹線・[[リニア中央新幹線]]のいずれかと直通運転。
*相互乗入れ申込:[[西日本鉄道/路線別#天神大牟田線|西鉄天神大牟田線]]
#史実より地下区間が多く、起終点駅も深い位置にある。


==福岡==
===成田線(空港支線)===
===JR関連===
;1970年代
====博多環状線====
{{駅名標/国鉄|name=成田空港|ruby=なりたくうこう|roma=NARITA AIRPORT|back=なりた|back2=NARITA|next=|next2=}}
http://chizuz.com/map/map133753.html
#成田新幹線の計画があるので特急は乗り入れず、普通列車で運行。
#博多-吉塚-筥松-柚須-九大農学部前-原町-粕屋-酒殿-須恵-須恵中央-新原-宇美-南宇美-乙金-御笠川-春町山田-南福岡-桜ヶ丘-五十川-竹下-美野島-(博多)
#*暫定的に特急は走らせていたと思う。但し使われるのは183系。
#全21駅、内回り39分、外回り40分。
#本数は日2往復程度しかなく、空港関係者向けの輸送が中心。
#南福岡南側~御笠川東側間は地下化。
#空港第2ビル駅は後に開業。
#*その代わり佐原方面の分岐点付近に土屋仮乗降場が存在した。
#**こちらも民営化直前に駅に昇格する。
#乗務員の中に空港反対派がいるのか?
#*国鉄時代は度々ストライキが発生していた。
#*三里塚空港廃港とゲバ字で書かれた113系アジ電が入線して大顰蹙
#*浅草橋焼き討ち事件は史実より10年くらい早く起きてしまう
#113系0番台初期車が幕張電車区に転入しなかった。


====筑豊本線を戸畑まで延伸====
===吾妻線(嬬恋線区間)===
#若戸大橋の南西に鉄道橋を設置。
;1920年代
#戸畑~若松~折尾を電化。福北ゆたか線と一体化させる。
#[http://yamaiga.com/tunnel/naganohara/main.html 上信鉱業専用軽便線]という名前で開通していた。
#817系を数編成追加投入。気動車は他路線へ転属。
#戦後嬬恋線、または三原線としていた。
#草軽電鉄と乗り入れをしていた。
#結局現ルートで改軌電化が行われる。
#あるいは草軽電鉄に譲渡されていた。
#1940年代に戦時下の突貫工事で事故起こしまくりながら温泉のど真ん中掘ってさらに延伸、全通し長電と相互直通運転してしまう。


====朝倉線====
===上野東京ライン===
{{駅名標/九州|name=甘木|ruby=あまぎ|back=みわ|next=あさくら|back2=Miwa|roma=Amagi|next2=Asakura}}
;1890年代
#区間:二日市~夜須~三輪~甘木~朝倉~杷木
#山手線・赤羽線は開業しなかった。
#単線。
#史実とは違い、国鉄は直通運転に積極的だったかもしれない。
#高速バスに対抗するために、久留米を経由しない短絡線を建設する。
#秋葉原駅、日暮里駅に高崎線・宇都宮線の列車が止まっていた。
#これにより原鶴温泉のお客さんが増える。
#上野駅に地平ホームはなかったか、荷物・貨物専用として使われた。
#甘木鉄道大打撃。
#「上野東京ライン」の愛称はなく「東北線」と呼ばれる。
#筑豊本線との交点に新駅ができるも、誰も利用しない。


====西鞍手線====
;1990年代
#区間:博多-吉塚-箱崎-多の津-多々良-久山-犬鳴峠-脇田温泉-若宮-宮田-磯光-直方
#そもそも上野東京ラインなんて名前にはなっていない。
#博多~久山は複線、あとは単線。てか、書いておいてなんだけど、そんなに需要ある?
#*単に「常磐線直通」「東北(→宇都宮)線直通」「高崎線直通」「東海道線直通」と案内される。
#あさまに東京発着が存在していたか。
#京浜東北線の快速運転は実施されない。そのあおりで山手線が減便。
#*山手線は11両化されなかったかも。
#これでも高崎線・宇都宮線の新宿発着実施は史実通り。
#バブルの時代だから上野駅の地平ホームはつぶされて再開発される。
#東北新幹線東京延伸と同時に開通していた。
#当然、211系も上野東京ラインに乗り入れしてた。
#*415系電車も乗り入れていたかもしれない。
#交通博物館で上野東京ラインの開業イベントが行われ、史実より入場者数は増えていたかもしれない


====福岡空港(支)線====
;2000年代
*[[#田川線|こちら]]のご指摘通り(いや、それ以上に)大宰府支線…ではなく福岡空港(支)線を作っちゃいました。
#651系電車が乗り入れていたのは当然ながら、E653系電車も乗り入れていた。
**甘木-筑前三輪-夜須-筑前山家-東大宰府-大宰府-北大宰府-宇美-志免-福岡空港~ここからは地下鉄、筑肥線と直通運転。
#*E657系電車の登場は史実通り。
#**場合によっては、史実よりも早く登場していたかもしれない。
#相鉄・JR直通線の開業は2015年頃に早まっていたかもしれない。
#*その場合、相鉄・東急直通線の開業は2019年頃に早まっていた。
#品川~上野~いわき~仙台間を結ぶ特急「ひたち」が運行されていた。
#2011年の東日本大震災の影響により、同年4月までに運休となっていた。
#*その代わりに、工事の方では、震災の影響を受けることはなかったので、工期は1年程短縮していたかもしれない。(史実では、開業までに7年の工期を費やした。)
#211系電車が2019年3月頃までに当路線に乗り入れていたかもしれない。
#2010年代には、特急「あかぎ」が品川までに乗り入れていたかもしれない。


====那珂川線====
;2013年or2014年
{{駅名標/九州|name=昇町|ruby=のぼりまち|back=すぐ|next=しろうずなかばる|back2=Sugu|roma=Noborimachi|next2=Shirozu-Nakabaru}}
当初の開業目標としていた年です。
#路線 (博多~)竹下~須玖~昇町~白水中原~道善~那珂川
#E657系電車が史実より多く増備されていた。
#九州新幹線開業前くらいに、博多南線をどうするか?ということを考えて「JR九州が新たな路線を作る」という案で作ってみた。…まあ、普通に残っちゃったけどね、博多南線。
#*651系電車による代走はなかった。
#竹下を出てすぐから道善駅のあたりまで地下路線。
#常磐線直通列車の増備が2017年3月のダイヤ改正で実施されていた。
#博多から竹下までは三線構造。
#白水中原は博多南駅の真下。博多南の駅ビルもそのまま流用。
#終点、那珂川駅は町役場の前らへん。


====八幡線====
;1980年頃
#区間:直方-東植木-新木屋瀬-馬場山-香月-上津役-引野口-新黒崎-桃園-帆柱-新八幡-大蔵-八幡高校入口-到津の森公園-菜園場-小倉
#東京-上野間を通る中電の先頭・後方の行先種別表示器に「東海道線-常磐線」「東海道線-東北線」「東海道線-高崎線」と表示される。
#筑豊電鉄と違い鉄道線で八幡西区のベッドタウンに新線を建設。しかも山の手の住宅街をうねうねと走りながらなんだかんだで小倉と直結してしまう。
#*常磐線・成田線成田~我孫子間発着の通勤電車は行先のみ表示される。
#**「SM分離」と同時期に開通したため「横須賀線-総武線」と比較される。
#***「上野東京ライン」の愛称はなく「東北線」と呼ばれる。
#*当初「浜松発黒磯行き(片道約420km)」などの長距離列車が存在した。
#**「大垣夜行」の走行距離よりも少し長いため[[鉄道ファン]]からネタにされた。
#***中には全区間乗り通すファンもいた。
#*東海道・常磐・東北・高崎線中電の側面方向幕使用開始が1970年代後半だった。
#神田付近は先に上部の列車線を建設しその後下部の新幹線の高架を建設したため史実ほど難工事にならなかった。
#*場合によっては'85年3月改正で東北・上越新幹線東京~大宮間が開通した(上野駅新幹線ホームも同時に設置)。
#**それでも東海道~東北・上越新幹線の直通は実現しなかった。
#東海道-東北・高崎線直通の中電は基本11両編成(グリーン車連結)+付属4両編成の組成、115系使用としたため[[もしあの鉄道車両が実用化されていたら/国鉄/電車#サロ115形|サロ115が実現]]している。
#*115系1000代を東海道-東北・高崎線直通運用向けに多く投入する必要が生じ横須賀・総武線系統への新車導入数を減らしたため[[もしあの鉄道車両が実用化されていたら/国鉄/電車#113系1000番台初期車の総武快速・横須賀地下線乗り入れ|初期113系1000代の総武・横須賀地下線乗り入れが実現]]した。
#**クハ115の新製数は史実より少ないはず。
#***静岡所の115系4連は東海道-東北・高崎線直通運用に入ることも多かった。
#*東海道線東京口運用の113系の多くは80系などの置き換え用に地方転用された。
#*211系の東海道-東北・高崎線直通運用編成は基本10両編成(G車連結)+付属5両編成に組成され付属5両編成はクモハ211が連結(将来の地方転用考慮)された。
#**おそらく1000・3000代で0代は中京圏向けのみだった。
#***むしろ首都圏向けに暖地向け211系が投入されたのでは(下記横須賀線ー総武線用の多く)?
#*クハ115の新製数は史実より多いのでは(113系を東海道線東京口から追い出し115系統一を図るため)?
#*常磐線中電の直通増加が[[Wikipedia:ja:国際科学技術博覧会|つくば万博]]に合わせて実施された。
#**同線通勤電車の15両運行開始時期も早まっている。
#*横須賀線ー総武線中電の車両更新時期が早まっているの思われるので[[もしあの鉄道車両が実用化されていたら/国鉄/電車#211系・213系電車総武快速・横須賀線用|横須賀線ー総武線用211・213系]]が実現している。
#*静岡所115系4連は1984年2月改正で御殿場線運用を分離しJR化後先頭車へのATS-P設置やブレーキ力向上が行われ改番が実施され2006年頃まで活躍。
#*209系6ドア車はサハ208-951のみでE231系編入と共に廃形式に。
#**勿論京浜東北線の6ドア車はなかった。
#***上野→御徒町間が日本一の最混雑区間にならなかった。
#*湘南新宿ラインは運行開始から全列車グリーン車連結だった(遅延防止と上述から211系グリーン車連結編成が2001年当時史実以上存在したと考えられるため115・215系の定期運用はなかった)。
#**E217系の湘南新宿ライン定期運用と国府津へ転属する編成はなかった。
#*E231系1000代基本編成は当初からG車連結だった。
#**E531系導入時から基本編成はG車連結だった。
#*215系は導入当初から「ニートレイン」と呼ばれたかも(恐らく快速「アクティー」は東北・高崎線直通、日中の運用が少なかったと考えられるため)。
#*211系幕張転属車は存在せず(基本編成は当初からG車連結済)115系幕張転属車は2000年代前半に増加し(その間老朽113系を置き換えた)209系2000・2100代に置き換えられるまで運用された。
#**史実の211系幕張転属車はサハ・サロを廃車後直接長野に転属している。
#*営団→東京メトロ半蔵門線と東武伊勢崎線の相互直通開始・TX開業前は常磐線直通(特急以外)の混雑が激しかった。
#**<span style='color:#f9f9f9;background-color:#00b4a2;'>下記のE501系増備・朝のピーク時上野以南発着の全列車投入はこの対策</span>。
#*211系サロにクハ210・クモハ211を挟む編成は存在しなかった<span style='color:#00000b1;background-color:#b4f800;'>(基本編成は当初からG車連結の為)</span>。
#**高崎ローカル転用後の6連中間のクハ210・クモハ211も。
#**もしかしたら高崎ローカル4連水上方先頭車はクハ210だったかも。
#*[[もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら/関東#つくばエクスプレス|<span style='color:#0000b1;background-color:#f9f9f9;'>TXの開業</span>]]は<span style='color:#e8e2f9;background-color:#0000b3;'>当初の予定通り2000年</span>だった可能性も。
#常磐・東北・高崎線方面の電車急行・電車特急、常磐線方面の普通・快速に当初から品川発着の列車が存在した(一部は復活)。
#*当初103・115・165・169・181・183・189・401・403・415・451・453・455・483・485・583系が営業列車で乗り入れた。
#*その後185・211・E501・651・E653系も営業列車で乗り入れた。
#*むしろ当初の計画通りに東京発着となり、2015年3月のダイヤ改正で品川発着となっていた。
#**東京折り返し本数を減らし上記通り「つくば万博」に合わせ常磐線中電の直通増加を実現させるため品川駅の配線改良が'84年までに実施され品川発着の列車が多く設定されたかも。
#***その場合下記の常磐線取手以北の沿線開発はそれより速いペースで進む。
#***[[もしあの駅が廃止されなかったら/関東#万博中央駅(常磐線)|万博中央駅は閉幕後も存続]]したかも。
#*国鉄はテコ入れのために上野発着の寝台特急と寝台急行が東京までに延長していた。
#**583系でないと難しいのでは?
#***そのため東京発着の寝台特急・寝台急行は583系使用に。
#****大阪~東京~東北を結ぶ電車寝台特急が存在したか?
#*クハ415-1901連結の編成は上野以南の営業運用に入らなかった。
#*上記の寝台急行・寝台特急は廃止まで電車運転だった。
#**「北斗星」「エルム」「カシオペア」は史実と同じ。
#'89年の「[[Wikipedia:ja:横浜博覧会|横浜博]]」に合わせて、日中常磐線から上野・東京経由で横浜まで乗り入れる列車が多かった(「横浜博アドベンチャー」号は上野・東京経由で運行)。
#*「つくば万博」へのアクセスのため「エキスポライナー」に神奈川県内発着の便が存在した。
#*横浜博は[[もしあのイベントが○○だったら#横浜博覧会|大成功]]した可能性も。
#常磐線取手以北・東北線大宮以北・高崎線の沿線開発がバブル期にかなり進む。
#*E501系の増備は2000年頃まで継続し403・415系0代(0'代ではない)を置き換えた。
#**増備途上で国産メーカー製IGBT-VVVF採用や1・10・11号車への車椅子対応トイレ設置、一部号車へのボックスシート配置が行われた。
#***初期車も機器更新時に上記の内容通りの改造が行われた。
#*この場合E531系導入数が少し減っている。
#**増備完了からE531系導入開始まで朝のピーク時に上野以南発着の全列車に入った。
#***土浦以北・水戸線転用は史実と同じ。
#*「ホームライナー鴻巣」「ホームライナー古河」は東京発着だった。
#**「ホームライナー土浦」を忘れずに。
#*白岡・鷲宮・栗橋町は2000年までに市制施行、[[もしあの市町村があの地域を編入しなかったら/関東#菖蒲町(現久喜市)|菖蒲町は久喜市と合併しなかった]]。
#*藤代町は取手市と合併せず単独で市制したかも。


===福岡市営地下鉄関連===
===根岸線===
====3号線(七隈線)の博多延伸====
;1880年代
#路線 天神南-櫛田神社-博多(空港線に接続)。
#東海道本線の一部になっていた。
#路線 橋本-西の丘-大町団地-姪浜(空港線に接続)(環状線化)
#*横浜駅(初代)でのスイッチバックはなかった。
#路線(博多港延伸) 天神南-キャナルシティ-祇園-堅粕-千代県庁口-千鳥橋-博多港
#戸塚経由のルートは貨物線として建設。
#*品鶴線と同時、遅くとも戦時中には開業していた。


====4号線====
;1920年代
;1案(大橋線)
#建設動機は関東大震災からの復興と京浜工業地帯の振興か。
http://chizuz.com/map/map133751.html
#桜木町事故は起きなかった。
#路線 吉塚-千代町-中洲須崎-天神-渡辺通1丁目-那の川-高宮清水-大橋-三宅-野多目九州がんセンター口-老司-片縄-道善-那珂川中央、全14駅
#山手線の読み仮名はずっと「やまのてせん」のままだった。
#篠栗線篠栗まで乗入。


;2案(今宿線)
===湘南新宿ライン===
#路線 七隈線・別府-荒江-原-小田部-福重-今宿-舞鶴高校前-玄洋高校前-九大伊都キャンパス
;1960年代
#国道202号線のバス渋滞を解消。さらに舞鶴・玄洋・九大への通学アクセスも劇的に改善。
#路線案内では「山手線経由」と案内していた。
#ちなみに実際に地下を走るのは今宿から東の区間。残りは地下鉄と名乗っているが地上を走行。
#赤羽線は山手線各駅停車に乗り入れていた。
#武蔵野線開業前なので貨物列車が多く本数は多くない。
#品川発着・新宿経由の列車も運転していた。
#東横線の特急誕生が40年早かった。
#*東急初代5000系のカットボディは特急のサボ付きで展示されていた。


;3案(湾岸線)
;1973年
#路線 雁の巣-アイランドシティ(こども病院前)-香椎浜-箱崎ふ頭-箱崎-東浜-千鳥橋-築港-長浜-天神-舞鶴-平和台-西公園-ヤフオクドーム前-百道-小戸-姪浜
#東京-上野間回送線の廃止代替も兼ねて旅客化。前橋-沼津の普通列車は新宿経由で存続。
#駅番号はW。
#*サロ115が1968年頃に登場,以降115系の大量生産に切り替わる(111系・113系の多くは大阪万博輸送に備えて西日本地区へ転属)。111系・113系・153系から改造されたサロ115も多い。
#筑肥線西唐津まで乗り入れ。
#新川崎駅がこのとき開業。上記列車の名残で北側は高崎線,南側は東海道線へ多く乗り入れるが,国鉄時代は日中の運転本数が少ない。
#東京急行は対抗し東横線の特急運行を30年早める。国鉄との差別化のため,1本/毎時は営団日比谷線に乗り入れ。
#73年に起きた上尾事件と多く結びつけられる。
#上野駅を発着する急行の多くが新宿駅発着に移行。急行「日光」は同時に特急に格上げ,新宿発着に変更。2020年現在も存続。185系は存在せず,貫通路付きクハ183の生産が早期に再開される。183系が「新幹線リレー号」の多くに使用された。


====2号線(箱崎線)香椎方面の延伸====
;1990年代
#貝塚-名島-千早-香椎-九産大前-唐原-和白-福工大前-新宮
*ちなみに史実では、1988年に池袋駅までに乗り入れ、1995年に新宿駅までに乗り入れました。
#早くても、1998年に開業していた。
#E231系電車の登場が史実より早まっていた。
#2000年代には史実より多く増発され、高崎線の(籠原駅 - 高崎駅間)も15両編成で運行されていた。


===地下鉄関連===
===鹿島線===
====北九州市営地下鉄====
;1930年代
;1号線
#私鉄での開業後、戦時買収で国鉄線編入。
#路線:門司~手向山公園~小倉~小倉城~到津の森公園~金毘羅公園~美術の森公園~スペースワールド~八幡~黒崎~陣原~折尾
#*社名には「神宮」とか「参宮」などがついていた。
#愛称は東西線、路線番号はT。ナンバリングは門司はT01、折尾はT12。ラインカラーは黄。
#*当時の法人格は現在の関東鉄道に吸収された。
#若干駅が少ないと思う。
#*おそらく[[もしあの鉄道が国有化されていたら/関東#鹿島参宮鉄道|参宮鉄道が国有化]]されたか。
#鹿島神宮から鉾田まで開通できたかもしれない。
#*大洗・水戸方面も国鉄工事凍結寸前に駆け込みで開業できたかもしれない
#鉄道利用が定着し、極端にバス利用に傾かず特急あやめが存続している…わけないと思う。


;2号線
===相模線===
#路線:小倉~小倉城~九州工大~戸畑区役所前~戸畑~若松~高塔山公園
;1890年代
#愛称は戸畑線、路線番号はB。ナンバリングは小倉はB01、高塔山公園はB07。
#最初は人車だったはず。


;3号線(空港線)
;1940年頃
#路線:新北九州空港~新門司~富野~小倉~小倉城~九州工大~戸畑区役所前~戸畑~若松~高塔山公園~若松ボート~本城公園~学研都市ひびきの~高須~芦屋
#国が川越線同様東京の迂回路で建設した。
#*一部区間が2号線とかぶっているのだが。
#*同時期に[[もし総武鉄道が東武に併合されなかったら#国鉄→JR東日本|<span style='color:#f300ff;background-color:#19ff00; '>2代目総武鉄道が国有化された</span>]]かも。
#路線番号はK、ナンバリングは芦屋がK01、新北九州空港はK15。ラインカラーは青。


;4号線
===烏山線===
#路線:到津の森公園~中央町~祇園町~黒崎~引野口~上津役~香月
;1930年代
#愛称は中央線、ナンバリングは到津の森公園がC01、香月はC07。ラインカラーは緑。
#仁井田以東は現実より線形が良かった。


====筑北合同地下鉄道====
==大手私鉄==
筑豊地区と北九州市をつなぐ地下鉄。半官半民の会社「筑北交通局」が運営。
===京浜急行電鉄===
;路線
====京急空港線====
;1号線
;1960年代前半
{{駅名標/九州|name=小倉|ruby=こくら|back=すなつ|next=とばた|back2=sunatu|roma=kokura|next2=tobata}}
#書類上はかつての休止区間の復活。
*一番主要な路線であり快速・特急もあるが、それぞれ別料金がかかる。通称「空港線」。
#*羽田空港駅と初代穴守駅が同一駅ということにされた。
**快速で別料金取るなよ。
#開業時期は東京五輪が近づいてきた1963年11月1日。
*停車駅
#*史実ではこの日路線名が「穴守線」から「空港線」に変更された。
**()は快速停車駅、太字@は特急停車駅。
#国際空港への路線ということで京急のショーウインドーとされた。
**'''北九州空港'''-北町ポンプ場-苅田-(下曽根)-足立公園前-'''砂津'''-'''小倉'''-(戸畑)-(市立美術館前)-桃園-(黒崎)-'''折尾'''-中間-'''直方'''-'''飯塚'''
#*新車はまずこの路線へ真っ先に導入される。
;2号線
#**[[都営地下鉄浅草線|地下鉄1号線]]は東京五輪までに泉岳寺まで完成した。同時に京浜急行本線泉岳寺-品川間も完成。押上-(普通)-泉岳寺-(急行)-京浜蒲田(のち京急蒲田)-(急行)-羽田空港の運転系統ができる。当初1時間に3本設定された。
*北九州モノレールとルートがかぶっているので軽く恨まれている。通称「小倉南北線」。
#横浜方面からの列車も設定された。
*停車駅
#*京急蒲田駅の構造が史実とはやや異なっていたかもしれない。
**小倉-城野-志井
#**最低でも2面4線になっている。間違っても2010年までのように2面3線で3番線1つで空港線発着列車をすべて捌くなんていう無理がある構造にはならない。
;3号線
#**その代わり10両編成以上で停車するのは,高架化の後にずれた。高架化自体が1990年頃だったかもしれない。
*通称「岡若線」。
#400形・500形は大師線で引退していた。
*停車駅
#「蒲田とばし」は特に問題にならなかったかもしれない。
**岡垣-遠賀-水巻-浅川-本城-二島
#東京モノレールが大打撃を受けていた。
;4号線
#*下手したら廃線になって90年代まで橋桁が残っていたかもしれない。
*直方市から馬場山までをつないでいる。通称「直方線」。
#**生き残れたとしても,途中駅の設置が早かったかもしれない。
*停車駅
**直方-中央公園前-びっくり市前-イオンモール直方-木屋瀬-馬場山


==佐賀==
====京急久里浜線====
===佐賀空港線===
;1930年代
佐賀-南佐賀-川副-佐賀空港
#湘南電鉄が浦賀から延長する形で建設していた。
#*勿論本線の一部だった。


===西佐賀線===
===京王相模原線===
佐賀-佐賀北高校前-西与賀-南久保田-芦刈-福富-白石干拓-肥前深浦-肥前鹿島-真崎-塩田-西塩田-大草野-嬉野温泉
;1910年代
*↑の佐賀空港線と組み合わせ、佐賀空港から嬉野温泉までの移動ルートを整備。南久保田と肥前鹿島の間は干拓地を爆走するので所要時間もそんなにかからないが、その区間はあきらかに採算が取れなさそうな場所でもある
#史実の多摩川支線が最初から対岸に伸びた形で開業していた。
#*周辺状況を考えるとおそらく稲城までが初期開業区間になる。
#*稲田堤で南武鉄道と接続していた。
#京王よみうりランド駅は矢野口駅(南武線の駅とは別)から改称される形で開業していた。
#多摩ニュータウンの開発が始まるまでは全電車が調布駅で折り返し運転をしていたか、新宿からの乗り入れがあったとしても各駅停車のみだった。
#*その後1970年代に調布駅は全面改修され、地下化ではなく高架化されていた。
#最初から橋本まで延びていた場合は多摩ニュータウンの構想自体が大幅に変わっていた。
#*史実では未成に終わった城山延伸も実現していた。


===東松浦線===
;1960年代後半
*駅:西唐津-佐志-相賀海岸-湊町-屋形石-呼子-肥前名護屋-玄海原発前-東松浦高校前-寺浦-新木場-杉野浦-福島大橋-肥前福田-肥前黒川-肥前瀬戸-木須-伊万里
#京王が「多摩高速鉄道」といった子会社を設立し、そこが京王多摩川以西の建設主体になった。
*かつての国鉄未成線を全通させるどころかさらに延長して伊万里まで。JR筑肥線(福岡空港方面)とも直通。
#*開業直前に京王に合併された。
#*最初の延伸区間は京王多摩川~稲城間に。
#**この区間で、京王は独自に住宅開発を行った。
#*多摩センターまで延びたのは結局現実と同じ時期に。


===川上峡線===
===東武鉄道===
*駅:佐賀-北佐賀-高木瀬-尼寺-佐賀大和-川上峡-熊の川温泉-古湯温泉
====東武野田線====
*のんびりしたローカル線と都市近郊路線がまざったルート。ちなみに北佐賀はゆめタウンの西隣。
;1890年代
#運営は東武鉄道ではなかった。
#*当初は「北総鉄道」とも「総武鉄道」とも異なる社名を名乗っていた。
#県庁所在地にならなかった岩槻市の圧力と見なされていた。


===嬉野線===
====東武東上線(東上鉄道)====
*駅:肥前鹿島-塩田-西塩田-下宿-嬉野温泉
;1890年代
*新幹線ルートから外れた鹿島と嬉野を連絡する目的で建設。
#予定通り長岡駅…いや新潟駅まで伸びていた可能性もある。
*全線非電化。使用車両 キハ47系 キハ125系 キハ200系(特急用)鹿島鉄道事業部所属 所属表記 「本ヒカ」。
#*そうなると国有化されてこの路線が名実ともに上越線になる。
#川越線の電化も少し早まっていたか?
#川越鉄道(国分寺〜本川越)はなかった。
#*西武新宿線の高田馬場〜小平を開通させたのは多摩湖鉄道だった。


==長崎==
====東武熊谷線====
===長崎空港線===
;1900年代
{{駅名標/九州|name=長崎空港|ruby=ながさきくうこう|back=おおむら|next=|back2=Omura|roma=Nagasaki-Airpoat|next2=}}
#「熊谷と妻沼の連絡」が建設動機か。
#路線 大村~長崎空港
#*社名は「妻沼鉄道」。
#*大村駅を高架化、大村から長崎空港まで高架で建設。
#北武鉄道ともども秩父鉄道に合併され同社の「妻沼線」になっていた。
#長崎空港線と大村線全線を電化。
#*そして電化。
#長崎空港~長崎間に快速を新設。
#*利根川を越えられたら妻沼鉄道は勿論北武鉄道と秩父鉄道も東武鉄道に合併されたかも。
#*停車駅は長崎空港~大村~諫早~喜々津~浦上~長崎。
#*空港快速は817系を使用。
#**福北ゆたか線に817系1100番台を投入。余剰の0番台(VG1編成)と1000番台を長崎地区に転属。
#*大村線の普通と快速シーサイドライナーも817系化。
#*余剰のキハ200系やキハ66系の数編成は長与線に、残りは大分地区などに転属。
#**佐世保・松浦または島原方面にも列車を設定。松浦・島原方面は上記DCを使用しよう。
#そして、特急も制定。
#*長崎~長与~(佐賀~肥前山口~武雄温泉~)諫早~長崎空港
#運賃は片道800円以下。バスに勝てない
#長崎~諫早間が更に混雑してしまう。
#そこでJREから初代NEXを買い取り電気設備を九州仕様にしてNagasakiEXPRESS(NEX)を導入すれば外装"ほぼ"そのままで2回エコ♪
#*ちょっと待った、NEXって直流型車両だろ?交流区間に持ってくるのは不可能ではないかと…。
#**だから交流化して九州に持ってくればいいじゃないかと・・・。


===長崎市南部へ延長===
;1920年代
長崎-AIG前-戸町-小ヶ倉-南柳田-三和-樺島
#東武鉄道の本線系と東上線を接続するための路線として着工される。
#作っておいて言うのもあれだけど需要あるか?
#*東松山から西小泉まであまり間隔を置かずに全通していた。
#長崎から三和あたりまでは高架
#開業当初から電化されている。
#南柳田から延長して香焼まで敷いてもいいかも
#北武と秩鉄は戦時統合までに東武に合併されたかも。
#*理由は三菱対策
#国道の混雑は解消
#「AIG前」と「南柳田」の位置がよくわからないんですけど・・・だいたいのカンだと大浦と深堀?
#*AIG前は今の長崎電気軌道市民病院前電停あたり。南柳田は今の長崎バス南柳田バス停あたり


===東長崎・雲仙線===
;1950年代
長崎-片淵-鳴滝-総合科学大学-東長崎-戸石-飯盛-早見-有喜-唐比温泉-愛野-愛野展望台前-千々石-富津-小浜高校前-小浜温泉
#東武か秩鉄が建設。
#長崎市内で観光して、雲仙の宿に泊まるというルートを確立。さらには東長崎地区の需要も期待できるかと。
#*後者の場合100か300系登場タイミングがこの路線開業と同時期だった可能性あり。
#どうせならこのルートでSLを走らせたい。


===長崎電気鉄道諫早線===
;1960年代
*もし長崎電気軌道が、路面電車のみならず普通鉄道も経営していたら?という構想の下に考案したもの。それにあわせ、社名も長崎電気「鉄道」に変更する。
#秩鉄が建設。
*蛍茶屋を長崎側ターミナルとするが、路面電車との乗り入れを行うかどうかは…ご想像にお任せしますw
#500系登場タイミングがこの路線開業と同時期だった可能性あり。
*駅一覧:蛍茶屋-本河内-日見峠-茫塚-日見公園-東長崎-矢上-平間-電鉄古賀-藤棚-電鉄市布-電鉄喜々津-久山-貝津-小船越-運動公園前-本諫早
*蛍茶屋、日見公園、東長崎、電鉄喜々津、本諫早には駅員を配置。また、運動公園前にはV・ファーレンのホームゲームなど何かあったときに臨時で駅員を派遣する。


==熊本==
===東急電鉄===
===JR関連===
====東急田園都市線====
====天草線====
;1930年代
;ルート
#[[もしあの路線が普通鉄道規格で開業していたら#東急玉川線・砧線|もし玉川電気鉄道が普通鉄道として開通していたら]]そのまま西に延伸していた。
*三角~大矢野~天草松島~天草大浦~天草瀬戸~本渡~南本渡~新和~河浦~牛深~薩摩長島~下口
#*南町田は「玉電鶴間」駅として開業。
#JR九州の特急「A列車で行こう!」、さすがに三角線だけではもったいないので延長運転。停車駅:熊本・宇土・三角・大矢野・天草松島・本渡・河浦・牛深
#*「新玉川線」という路線名はない。
#史実通り玉電が軌道線だった場合は目黒蒲田電鉄が建設したかもしれない。
#*溝の口以西も「大井町線」となる。
#中央林間都市の構想に影響を与えていた。
#大東急時代に[[小田急小田原線|小田原線]]のいずれかの駅まで延長される。
#渋谷~二子玉川間は地下ではなく地上線になっていた。
#*半蔵門線とは三軒茶屋あたりで合流。もしくは渋谷を通らないルートになっていた。


====御所浦線====
====渋谷-二子玉川園(旧新玉川線区間)====
;区間: 人吉~渡~一勝地~津奈木~御所浦~本渡
;1964年
*海と山しかない田舎路線。ただし景色はかなりいい。また、人吉ー芦北ー天草間の大幅な時間短縮に。
#同年の東京五輪に合わせて建設された。
**人吉~一勝地が[[肥薩線|これ]]ともろかぶりな件について。
#*開通当初の東急側の車両は、[[Wikipedia:ja:営団2000形電車|営団2000形]]ベースの、オールステンレス車だった(もちろん東急車輌製)。
***人吉~一勝地は肥薩線直通にします。三角線みたいに。
#要するに[[もしあの路線の直通運転が行われていたら/関東#東急新玉川線・営団地下鉄銀座線|こういう事]]か。


====緑川清流線====
====東急新横浜線====
;駅:熊本-南熊本-田迎-田井島-中の瀬-鯰-上島-六嘉-肥後小坂-御船-早川-浅井-甲佐-萱野-佐俣-釈迦院-砥用-緑川ダム-肥後三本松-藤木-牧野-矢部浜町
;1930年代
*かつての熊延鉄道のルートを高規格化した上で復活、さらに山都町まで延伸。
#建設目的は「神中鉄道の合併」辺りだった。
*九州新幹線開業効果を通潤橋や日本一の石段にも波及。また,御船や嘉島の不動産開発も進む。
#大倉山で分岐。


====菊池川線====
;1964年
:駅:玉名-新玉名-月瀬-船山古墳前-菊水-竃門-下津原-肥後坂田-鍋田-山鹿温泉
#開業時「夢の超特急」との連絡を唄い何かしらの宣伝がされた。
*九州新幹線開業効果が県北にはあんまり波及してないようなので、新玉名駅を県北観光の玄関口として活性化させるために赤字覚悟で建設。ダイヤは博多からの「つばめ」と完全リンクしている。
#新横浜への「ひかり」「のぞみ」(全)停車が早まったかも。
#日比谷線直通電車が新横浜発着になっていた。
#*旧7000系が現実より多く造られた。
#**その置き換えで1000系も。
#*営団→メトロ3000・03系も乗り入れていた。
#*目黒線日吉延伸が2000年くらいに実現したかも。
#**この時点で実質的に「目黒線」の一部に。
#*新3000・メトロ9000・SR2000系・都営6300形が現実より多く造られる。
#**その代わり現実の5080・3020系は存在しない。
#**同じく都営6500形登場が遅れたかも。
#*早期に全8両化されたかも。
#**下記のように(営団→メトロ副都心線~)東横線との乗り入れは想定されなかったためか。
#*基本的に日吉・菊名発着の日比谷線直通電車はなかったか少数だった。
#上記のように大倉山で分岐。
#*目蒲線の分離や東横線多摩川(園~)小杉~菊名間高架化が早まったかも。
#**「目黒線」復活後(副都心線~)東横線との乗り入れは想定されず実質その一部になったか。


===熊本電鉄荒尾線===
;1970年代
御代志-菊池-七城-鹿本-山鹿-菊水-庄山-荒尾
#上記のように「ひかり」「のぞみ」新横浜(全)停車が早まったかも。
*軌間:1435mm(菊池線も改軌)
#8000系列が現実より多く造られる。
*電気:直流1500V
#*その置き換えで新5000系列も。
#*新3000・メトロ9000・SR2000系・都営6300形も現実より多く造られる。
#**その代わり現実の5080・3020系は存在せず都営6500形登場が遅れたか。
#*上記のように早期に全8両化されたかも。
#**下記のように(営団→メトロ副都心線~)東横線との乗り入れは想定されなかったためか。
#目蒲線の分離や東横線多摩川(園~)小杉~日吉間高架化が早まる。
#*もしかしたら大倉山分岐になり菊名まで史実より早く高架化されたかも。
#*「目黒線」復活後(副都心線~)東横線との乗り入れは想定されず実質その一部になったか。


===くま川鉄道延伸===
;1980年代
*薩摩大口で山野線を復活させた肥薩おれんじ鉄道と相互乗り入れ。
#おそらく菊名駅を起点として、新横浜を経由して西谷(または二俣川)までの路線になっている。
;駅 人吉温泉-戸越-鹿目-肥後田野-九久-大口木の氏-薩摩大口
#菊名駅は東横線が緩急接続するため東横線とは別のホームになり、同一ホームでは乗り換えできない。
*湯前から先も建設。
#*二層式になってる。
;駅
#*ただ東横線沿線から東急の運賃のみで新横浜に行ける便利な路線になっていた。
*湯前-西米良-越野尾-一ツ瀬-杉安-西都-麦-平郡-国富-倉岡-大塚-宮崎
#複々線が菊名まで延伸され目黒線と直通するようになっていた。
#相鉄との直通は当初は行われなかった。
#*00年代くらいにスタートしている。
#横浜線快速は現在でも菊名は通過。
#2001年3月の東横特急新設まで存在した菊名駅の「横浜線、新幹線ご利用の方はお乗り換えです」という自動放送はなかった。
#*その代わり「新横浜線、横浜線はお乗り換え」という似た路線名2つの案内になって少しややこしくなる。
#**路線名が変わっていたか?
#新横浜駅にのぞみが停まるのが遅くなっていた?


===熊本港線===
;1990年代前半
:駅:熊本-野中町-城山下代町-熊本西高校前-小島町-中原町-熊本港
#上記の目蒲線の分離や東横線多摩川(園~)小杉~日吉間高架化も早まる。
*熊本市西区のエリアがどーみても政令指定都市っぽくないので、開発の足がかりとして建設。またmixiの島原鉄道コミュで島鉄活性化のための投資としてこの鉄道を提案している方がいらっしゃったので、そっちの役割も。
#*途中駅ホームは8両分しかなく(営団→メトロ副都心線~)東横線との乗り入れは想定されず「目黒線」と案内される。
#9000系列に南北・三田線直通対応車が登場。
#*メトロ9000・SR2000系・都営6300形が現実より多く造られる。
#**その代わり都営6500形登場が遅れたかも。
#*新3000系が増発用で登場。
#**その代わり現実の5080・3020系は存在しない。
#*早期に全8両化。
#新横浜への「のぞみ」全停車が早まった。
#横浜線快速の菊名停車はなかった。


===肥薩おれんじ鉄道熊本空港線===
;1998年
:駅:肥後大津-南大津-熊本空港-益城-砥川-高木-御船-糸田-甲佐-美里中央-豊野-東小川-竜北-宮原-龍峰-新八代-八代
#同年の[[Wikipedia:ja:第53回国民体育大会|<span style='color:#00ffb4;background-color:#c00032;'>神奈川国体</span>]]に合わせる形だった。
*熊本空港の利便性向上とおれんじ鉄道の救済案。熊本や水俣、人吉へ直通し、鹿児島空港から客を取り戻す。
#*開業が前年に早まったかも。
*↑の緑川清流線とも接続しさらに利便性向上
#上記の目蒲線の分離や東横線小杉~日吉間高架化も早まる。
*快速「エアポートライナー熊本」(熊本空港~熊本・水俣・八代)特急「海空」・「山空」(熊本~水俣・人吉)を運転。
#*同じく途中駅ホームは8両分しかなく(営団→メトロ副都心線~)東横線との乗り入れは想定されず「目黒線」と案内される。
*普通列車が1時間2本(うち1本が水俣方面へ直通。日奈久・湯浦・水俣行きなどとして)、快速が1時間1本(2時間に1本水俣行き)、特急「海空」が2時間1本、「山空」が1時間1本。
#*同じく新3000・メトロ9000・SR2000系・都営6300形が現実より多く造られる。
*東小川駅はイオンモール宇城のそばに。小川駅からだと歩くと遠いんだよね。
#**その代わり都営6500形登場が遅れたかも。
#*新3000系が2年程早く登場。
#**現実より多く造られる代わり5080系はあまり造られず3020系は登場しない。
#*2000年代に全8両化。
#上記のように「のぞみ」新横浜全停車が早まったかも。
#上記の横浜線快速は現在も菊名に止まらない。


==大分==
;2001年
===東九州鉄道===
#翌年の[[FIFAワールドカップ/21世紀#日本・韓国(2002年)|<span style='color:#fbfaff;background-color:#ff0041;'>日</span><span style='color:#fbfaff;background-color:#30f;'>韓</span><span style='color:#ff0041;background-color:#ffe100;'>W杯</span>]]に合わせる形だった。
#大分県の交通事情を改善するために?設立された。
#*[[埼玉高速鉄道|<span style='color:#fbfaff;background-color:#345caa;'>SR</span>]]開業とも重なっていた。
#富山地方鉄道を越えた日本最大の中小私鉄になる。
#新綱島駅ホームは8両分しかなく(メトロ副都心線~)東横線からの乗り入れはなく「目黒線」と案内される。
#大分~中津に「ふくおう」大分空港~蒲江に「ぶんご」という特急が走る。停車駅は'''太字'''。
#新3000系・営団→メトロ9000系・都営6300形が現実より多く造られる。
#*その代わり5080系はあまり造られず3020系は登場しない。
#*都営6500形登場が遅れたかも。
#*2000年代に全8両化される。
#*SR2000系忘れてないか?
#新横浜への「のぞみ」全停車が[[愛知万博|<span style='color:#009343;background-color:#fbfaff;'>愛・地球博</span>]]までに実現したかも。
#横浜線菊名快速停車はなかった。


====大分中津線====
;2008年
#:'''大分'''-豊後王子-大分港-'''水族館高崎山'''-'''別府温泉'''-扇山-'''鉄輪温泉'''-APU前-南畑-天間-東椎屋-五郎丸-楢本-'''安心院'''-豊前院内-豊前二日市-香下-南宇佐-'''法鏡寺'''-'''豊前四日市'''-豊前山下-豊前佐野-野依-如水-'''中津'''
#[[もしあの年の夏季オリンピック開催地が別の都市になっていたら#横浜|<span style='color:#30f;background-color:#00ffb4;'>横浜オリンピックが実現していたら</span>]]あり得た。
#史実の目黒線小杉~日吉延伸と同時だった。
#上記同様新綱島駅ホームは8両分しかなく(メトロ副都心線~)東横線からの乗り入れはなく「目黒線」と案内される。
#目黒線8連化が早まる。
#*5080系が現実より多く造られ3020系は登場しない。
#*メトロ9000系6次車が2007年登場。
#相鉄20000系と都営6500形登場が早まったかも。


#東九州鉄道の本線系統であり、大分~中津間をショートカット。
;2019年
#30~60分ヘッドでの運行。
*当初は4月開業予定
#同年の[[スポーツ大会#ラグビーワールドカップ|<span style='color:#4fff00;background-color:#009343;'>ラグビーW杯</span>]]と重なる。
#上記同様目黒線8連化が早まる。
#*東急3020系・相鉄20000系が2017年登場。
#**相鉄側は創立100周年の意味合いもある為。
#*上記の都営6500形登場も早まったかも。


====国東線====
===西武秩父線===
#駅:(大分~)'''鉄輪温泉'''-平道-新日出-ハーモニーランド-杵築-杵築高校前-'''杵築中央'''-守江-住吉浜-安岐-'''大分空港'''-武蔵古市-重藤-黒津崎-国東-富来-奈良原-岐部-伊美-竹田津-香々地-西香々地-真玉-呉崎-豊後高田-宇佐-宇佐八幡-法鏡寺(~中津)
;昭和初期
#大分空港~法鏡寺については電化されず気動車運行。ただ,これにより大分空港へのアクセスは向上。
#池袋線との境界は吾野ではなく飯能だったかも。
#大分-大分空港,伊美-中津、大分空港-国東は60分ヘッド。国東-伊美は1日10往復ほどの閑散区間。
#*通称「吾野線(飯能~吾野間)」を秩父に延長した後「秩父線」に改名。
#現実よりトンネルが少ない。
#武州鉄道汚職事件はなかった。
#ED60の西武バージョンが登場する。
#武蔵野鉄道デハ5500形(開通時)の新製数が多い。
#*デハ5550形・サハ5650形・サハニ5753形の事か。
#開通時から秩父鉄道と直通している。
#戦後小鹿野町経由で軽井沢に延伸。
#西武5000系は601系ベース(電磁直通ブレーキと空気バネ台車を全車装備)で1963~64年に登場。
#*801系は1970年代まで大量生産された。


====豊後線====
;1989年
#駅:'''大分'''-下郡-松栄山公園-新高城-'''新鶴崎'''-豊後横尾-豊後松岡-戸次-上戸次-新犬飼-北野津-'''野津'''-落谷-清水原-風連鍾乳洞前-大坂本-弥生-上岡-'''新佐伯'''-吹浦-豊後鶴見-米水津-色利浦-畑野浦-楠本-元猿-蒲江中学校前-'''蒲江'''
#ライオンズの選手が開業記念イベントに登場した。
#大分-新佐伯、新佐伯-蒲江で60分ヘッドくらいで運転されるほか、国東線・杵築中央-戸次の区間運転もある。
#貨物列車は運行されなかったか、史実より本数が少なかった。


====野津原線====
===京成成田空港線===
#駅:大分-新古国府-羽屋-光吉-わさだタウン-稙田-西稙田-廻栖野-西廻栖野-野津原
;1990年代
#大分で今一番栄えているのはここ?15分ヘッドぐらいで運行される。
#=当初から成田新幹線代替のルートが北総線延伸案を採択した場合。
#こんな短い路線の中に一体いくつの難読駅名が…
#*JRや京成本線は成田空港に乗り入れていない。
#**一部ではJRの労組の組合員が三里塚闘争のシンパだったので建設させたくなかったという陰謀論がささやかれる。
#**京成本線との連絡線は史実通り開業していたんじゃないだろうか(船橋とか津田沼からのアクセスもあるし)。どのみち旧来の成田空港駅は東成田に改称されてそのまま放置。
#北総鉄道の運営になっていた。
#*当時はまだ小室以西を都市基盤整備公団が保有していたので、その辺りの調整に若干手間取っていたかもしれない。
#当初の最高速度は100km程度か。


===おおいたライトレール===
;2000年
#かつて存在して別大連絡としてではなく、市街地内交通として大分にLRTを建設しよう。
#JRと京成本線の乗り入れは暫定的に開業していた。
#運賃は大人160円子ども80円。両系統6分ほどの間隔で運行。
#2002年10月のダイヤ改正でエアポート快特が快速に格下げされて、京成成田で打ち切られることもなかった。
;1系統:大分駅前-トキハ前-竹町-オアシス前-高砂町-西春日町-王子町-東生石-生石-西大分駅前-かんたん
#京成3700形電車と住宅・都市整備公団9100形電車が史実よりも多く増備されていた。
;2系統:大分駅前-トキハ前-竹町-市役所前-県庁前-城崎-中島3条-中島6条-中島10条-住吉小学校前-弁天1丁目-豊海3丁目-中央市場前-弁天3丁目-5号地
#AE100形電車は2000年までにリニューアル化され、増備されて、スカイライナーとして、運行されていた。
#*AE形電車 (2代)の登場が史実よりも遅れて登場していた。
#北総鉄道の印西牧の原~印旛日本医大間の開業と同時に開業していた。
#成田ニュータウンの整備が史実よりも進んでいた。


==宮崎==
===相鉄いずみ野線(いずみ野~湘南台)===
===JR関連===
;1970年代
====大淀川線====
#その場合、1976年と同時に開業していたか、1978年~1980年あたりに開業していた。
*路線:宮崎-小松台-生目-花見-日向高岡-日向赤谷-去川-四家-七瀬-有水-観音池-高城-日向高木-都城高専前-西都城
#1990年に香川駅まで開業し、1999年に平塚駅まで開業していた。
*快速、普通が一時間に1本ずつ。日向赤谷と高城の間は田舎なのでそれはそれは爆走します。
#慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの開設も史実より早まっていたかもしれない。
*日向高木駅は高速バスの都城北バス停近くに設置。都城市街地からの高速バス利用がかなり便利になる。
#相模鉄道は1970年代もしくは、1980年代に大手私鉄としての認定を受けていた。
*七瀬、去川、日向赤谷あたりはかなりの秘境駅になりそう。
#横浜市泉区の人口が史実より多くなっていた。
#1990年代には、相鉄本線とともに特急が運行されていた。(史実では、2014年に運行され始めた。)


====北浦線====
;1990年
*路線:延岡-浦城-須美江-熊野江-日向阿蘇-日向北浦
#1999年に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス周辺までに延伸開業していた。
*酷道388号に代わる快適な移動手段だが、海水浴シーズン以外の乗客数を考えると…
#*その際、「藤沢遠藤」駅になっていた。
#無論、横浜市泉区の人口が史実よりも多くなっていた。
#相鉄の湘南台駅は高架駅になっていたかもしれない。


====綾線====
===相鉄・JR直通線===
*路線:宮崎-和知川原-塚原-日向本庄-森永-綾
*史実では、2019年11月30日に開業しました。
*近距離観光路線。酒泉の杜に行くときも誰がハンドルキーパーとか考えずにすむ。
;国鉄時代
#国鉄205系電車が乗り入れていた。
#新横浜駅~羽沢横浜国大間の開業も史実よりも早まり、東急新横浜線の開業も早まっていた。


====椎葉線====
;1990年代
*路線:日向市-塩見-日向東郷-西郷-諸塚-上椎葉-椎葉
#池袋駅まで運行していた。
*絶対に黒字化することがない、というか大赤字確定ルート。にもかかわらずここで提案するのは、この地域にはまったく高校が無いので、家から日向市の高校まで通学できるようにするため。
#相鉄8000系電車が乗り入れ対応になっていた。
*基本的に耳川沿いを走るので、車窓風景はかなり期待できるはず。
#湘南新宿ラインの横須賀線直通か東海道線直通のどちらかが代わりに相鉄線直通になっていたかもしれない。


===宮崎市LRT===
;2000年代
*高知や富山にも路面電車はあるわけだし、宮崎にもやれないわけはない!というわけで、九州4つ目の路面電車を宮崎市に敷設する計画を立てようと思う。運賃は大人120円子供60円と設定。
#湘南新宿ラインの開業が史実よりも早まっていたら、あり得た。
**4つ目というか、九州沖縄で唯一路面電車が存在したことが無い県である。(他には島根、徳島、山形、青森のみ)
#東急新横浜線も2019年頃に開業していた。
#*後で、計画が加わってできたものなので、史実通りに、2022年頃に開業していた可能性もあり得る。
#2009年3月頃に開業していた場合、相鉄11000系電車が埼京線に乗り入れていた。
#*12000系電車の登場は史実通りだが、20000系電車の登場は史実よりも遅れて、登場していたかもしれない。
#*国鉄205系電車が相鉄線を走行する光景を見ることができた。
#*埼京線のE233系の導入は中央線と同じく2006年頃になっていたかもしれない。


====1号線(神宮大淀線)====
;2010年
*宮崎神宮前-NHK前-一の鳥居-江平-橘通5丁目-橘通4丁目-デパート前-橘通3丁目-橘通2丁目-橘通1丁目-橘橋南詰-中村1丁目-中村2丁目-南宮崎駅前
#相鉄11000系電車が埼京線に乗り入れ、史実よりも多く増備されていた。
**運行間隔はラッシュ時6分ヘッド、その他10分ヘッドぐらいを予定。
#2010年12月のダイヤ改正で開業していた。
**デパート前の名前は宮崎交通のバス停からはなくなってしまったが、この際復活させる。
#翌年の東日本大震災の影響で一時的に直通運転を取りやめていた。
**所要時間は20分前後を見込んでいる。路線が短すぎる気もするが需要は結構あると思う。
#2014年3月のダイヤ改正or2015年3月のダイヤ改正で増発され、いずみ野線にも乗り入れていた。
#*その際に相鉄12000系電車が登場していた。
#後は2000年代に開業した場合と同じ。


====2号線(宮崎駅生目線)====
;2015年
*宮崎駅前-高千穂通2丁目-デパート前-千草町-県病院前-大工町-大工町3丁目-大橋3丁目-宮崎大橋西詰-西の原-大塚池ノ内-小松台団地南-上小松-生目
#12000系電車の登場が史実よりも早まっていた。
**運行間隔はラッシュ時6分ヘッド、その他10分ヘッドぐらいを予定。
#2017年3月or10月のダイヤ改正で増発していた。
**デパート前が1号線と2号線の乗り換え指定駅。高知のはりまや橋みたいに平面交差している。
#*いずみ野線にも乗り入れていた。
**一応、宮崎駅からデパート前で曲がって南宮崎駅まで行く(およびその逆)系統もある。
#*埼京線新宿以北・川越線への乗り入れが日中でも実施していたどうかは怪しい。
**終点・生目にはパーク&ライド用の広大な駐車場を用意。車庫があるのもここ。
#東急新横浜線が2019年頃に開業していた。
#*2019年のラグビーワールドカップの開催に合わせて、開業していた可能性が高い。
#*もしくは、予定通りに2022年頃に開業していた可能性もあり得る。
#首都圏にとって、上野東京ラインの開通とともに、重大な出来事として注目されていた。
#相鉄沿線の地価が高騰化していた可能性が高い。


[[Category:勝手に鉄道建設|きゆうしゆう]]
;2017年
[[Category:九州地方|かつてにてつとうけんせつ]]
#相模鉄道が創立100周年という記念すべき年と重なって開業していた。
#相鉄12000系電車の登場が史実よりも早まっていた。
#2017年3月か10月のダイヤ改正で開業していた。
 
;2019年3月の場合
#横浜国立大学へ通う学生にとって、便利になっていた。
 
===小田急電鉄===
====小田急多摩線====
;1940年頃
#終点が陸軍造兵廠だった。
 
==地下鉄==
===東京メトロ副都心線===
;1960年代
#西武の乗り入れはなかった。
#*箱根や軽井沢の開発競争を見ると絶対にあり得ない。
#*さらに渋谷駅周辺の西武百貨店は西武鉄道とは全くの別会社のため。
#東武の電車は全て渋谷止まり。東急の電車は全て池袋止まり。
#東急の主張で車両は18m。
#*日比谷線同様東急の先見のなさとして語り継がれる。
#**でも日比谷線ほどカーブがキツい訳ではないからあっさり20m化対応をしていたと思う。
#*この場合東武は有楽町線開業時に直通を打ち切ったか。
#池袋東急が現存している。池袋東武が史実通りならば東急ハンズの位置に移転かもしれない。池袋丸物は池袋近鉄ではなく史実通りパルコになる。
 
;1990年代
*ちなみに有楽町新線(現副都心線小竹向原-池袋間)の開業は1994年である。
#東急9000系の乗り入れがあった。
#*当初から東武・西武両線乗り入れを考慮している。
#発車音はブザーのみ。
#*池袋以南の壁面デザインも営団タイプのものになっていた。
#**初期の駅名標は南北線と同様のデザインになっていた。
#池袋駅が「新線池袋」と呼ばれることはなかった。
#要町・千川では最初から客扱いを行っていた。
#埼京線の渋谷駅が[[もしあの駅が○○だったら#渋谷駅|山手線ホームに隣接していた]]。
#森林公園始発や飯能始発などの桜木町行きが存在した。
#*当時の東急東横線のホーム有効長を考慮し、東武9050系(現実より多く製作されたと思われる)と西武6000系前期車に、8両固定編成が存在していた。
#東武東上線の地上車完全10両編成化は行われない。
#E231系500番代の6ドア車は存在しなかった。
#*無論600・4600番代も同様。
#*山手線は2005年頃に全駅ホームゲート設置を完了している。
 
;2000年代前半
#みなとみらい線開業と同時期に開業していた。
#*同時に東急東横線・みなとみらい線に直通運転していた。
#ダイヤに関しては現実とあまり変わらない。
#営団地下鉄としては最後の新規路線となった。
#1990年代と同じ東急9000系の乗り入れがあった。
#*時期によっては東急3000系も。
#この頃になると発車メロディもそれぞれの駅につけられるようになった。
#Fライナーも2006年頃には存在した。
 
===東京メトロ丸ノ内線===
;昭和10年代
#車両の大きさは銀座線と全く同じ。
#池袋ではなく大塚が終点になっていたかもしれない。
#営業列車でも銀座線直通があった。
#車両は史実ほど派手な塗装ではない。
#一部区間は防空壕としての使用も想定される。
#東京高速鉄道の計画通りにこちらが「新宿線」を名乗った可能性もある。
 
===東京メトロ南北線===
;1980年代
#当初の答申通りなら有楽町線や半蔵門線より先に開業していた。
#ホームドア設置、ワンマン運転はなかった。
#*21世紀に入ってゲートタイプのホームドアが設置されワンマン化していた。
#*1984年以降開業なら最初からあったかもしれない。
#開業時の車両は千代田線の6000系に準じた7000系だった。
#*21世紀に入って07系が導入される。
#*有楽町線車両は8000系・08系、半蔵門線車両は9000系・09系になっていた。
#[[#埼玉高速鉄道|埼玉高速鉄道]]ももっと早く開業していた。
 
===都営地下鉄大江戸線===
;1980年代
#20m車8両編成で運転されていた。
#*その分東京都交通局への負債も増加する。
#*浅草線ではなく三田線と規格を共通化していたかもしれない。
#放射部よりも環状部が優先的に建設される。
#*下手をすると新宿以西は別路線か浅草線の泉岳寺-西馬込間のような状態になっていた。
#**もしかしたら江古田から地上に出て西武池袋線に乗り入れをしていたのかもしれない。
#ほぼ間違いなく「大江戸線」という路線名にはなっていない。
#*「内都心線」だったりして。
#1989年に練馬~光が丘間が開業した場合、当路線が日本初の鉄輪式リニアモーターミニ地下鉄になっていた。
#*1996年末までに練馬~新宿間が開業していた。
;1990年代前半
*1991年に練馬〜光が丘間で12号線として開業しましたが、もし同時期に全線開通していたら…
#12-000形の白い塗装車は現実より遥かに多くなっていた。
#*1990年代後半ぐらいに増発された場合、非塗装車が製造されても現実より非塗装車の影は薄かった。
#*2008〜2009年頃には既に12-600形が存在し、2019年度内に12-000形は全部廃車になっていた。
#*あるいは12-000形を大規模改造していた。
#汐留駅も遅くとも1998〜1999年頃には開業していた。
#*その場合、東新橋駅とかになっていたかもしれない。
#*そのため、ゆりかもめの汐留駅も現実よりも早く開業していた。
#浅草線のエアポート快特も最初から大門も停車していた。
#「大江戸線」という名前になっていたかどうかは微妙。
#一部の駅の名前が違ってたかもしれない。
 
===埼玉高速鉄道===
*関連項目:[[もし武州鉄道が廃止されなかったら]]
;1980年代
#バブル時代なので一気に蓮田駅まで開業していた。
#*今頃、羽生駅延長も計画していただろう。
#浦和美園の開発も早まる。
#*浦和美園ではなく新浦和と名乗っていた可能性もゼロではない。
#**ゼロでしょ。浦和から遠すぎるし・・・
#**むしろ浦和市内に浦和が付かない駅が出来ていた可能性が高い。
#赤羽岩淵ではなく王子か池袋あたりが起点となっていた。
#*後者の場合は副都心線との直通を行っていた。
#*逆に営団が東川口まで造り、以北が埼玉高速鉄道という可能性もある。
 
;1990年代
#早くても、1992年頃に開業していた。
#*1991年11月に営団南北線(駒込~赤羽岩淵間)と同時に開業していた可能性が高い。
#2001年に岩槻まで延伸開業していたかもしれない。
#*2002年のFIFAワールドカップに控え、埼玉スタジアム付近までに開業していた可能性もあり得る。
#浦和美園駅周辺の開発は史実よりも進んでいた。
#開業を機に、営団南北線は6両編成で運行されていた。
#埼玉高速鉄道2000系電車は史実よりも多く製造されていた。
 
===東葉高速鉄道===
;1960年代
*営団地下鉄(東京メトロ)東西線と同時期に開通していたら?
#営団地下鉄(東京メトロ)勝田台線として開通を果たし、今のような高額運賃になることはなかった。
#京成電鉄のバイパス線としての役割を果たせていただろう。
 
;1970年代後半
#開業当時の車両は営団7000系の車体構造・走行機器類、京成3500形の内装を組み合わせた車両だった。
#運賃は現実よりわずかに安い。
 
;1990年代前半
*当初の開業予定は1993年春に開業する予定でした。
#バブル期と重なっていたので、沿線における開発が史実よりも進んでいた。
#東葉高速鉄道1000形電車の運用が史実よりも若干長く運用されていた。
 
===横浜高速鉄道みなとみらい線===
;1980年代
#1985年以降に開業していた。
#1989年に開催された横浜博覧会を機に、臨時列車が運行されていた。
#駅名は開業当時に「高島駅」「みなとみらい中央駅」「北仲駅」「県庁前駅」「元町駅」になっていた。
#*各駅のホームは、20m車10両分設置可能な空間が、建設時から確保される。
#*みなとみらい中央以南は横浜ベイブリッジ開通後に建設。
#**横浜市営地下鉄3号線関内~山下町間建設(史実では中止)は、'73年9月に変更された予定ルートの本町通りが、横浜港へのトラックが多く通行し、3号線建設工事による渋滞が懸念され、ベイブリッジ開通まで着工が延期されたため。
#*遅くても1999年(横浜開港140周年)までに本牧まで延伸。
#東急東横線菊名~横浜間は、みなとみらい線の開業と同時に保安装置がATCに移行。
#*みなとみらい線の保安装置は開業当初からATC。
#*東急8090系は当初から先頭車に貫通扉が設置された(当初からATCの搭載を考慮)、8590系は存在しない。
#*8500系の後期車は8090系と同じ構造に。
#*開業当初自社保有の車両はそれと同型だった。
#東急東横線ではなく、JR横浜線と直通運転をしていたかもしれない。
#*もしくはJR京浜東北線。
 
;1990年代
#駅名と路線名は史実通り。
#横浜高速鉄道Y500系電車と東急5000系電車の登場が史実より早まっていた。
#*田園都市線への5000系電車の投入は予定通り250両となっていた。
#**田園都市線には、5050系電車が投入していた。
#*その代わりに、2020系電車の投入はなかったか、もしくは、史実より遅れていた。
#*東急3000系は史実の300系が名乗った。
#1998年までに開業した場合、横浜ベイスターズの日本一で祝賀列車が運行されていた。
#みなとみらい線の各駅は、当初からユニバーサルデザインを考慮している。
#横浜駅の横須賀線、湘南新宿ラインホームの拡張工事の完成が史実よりも早まっていた。
#*東急東横線の跡地に遊歩道が史実よりも早く出来上がっていた。
 
;2001年
#横浜高速鉄道Y500系電車と東急5000系電車の登場が2001年に早まっていた。
#**5000系電車は東横線で運用され、5050系電車は5050系電車で運用されていた。
#時期的に埼玉高速鉄道の開業と重なった。
#開業と同時に東横線の特急の運行が開始されたか、開業に見越して、1997年3月か1999年3月のダイヤ改正で運行が開始されていた。
 
===横浜市営地下鉄ブルーライン===
;あざみ野~新百合ヶ丘間が別の時期に開業していたら
史実では、2030年度に開業予定。
;2000年代
#3000S形が史実よりも多く製造されていた。
#*場合によっては、3000N形電車と3000R形電車が史実よりも多く製造されていた可能性もあり得る。
#2008年に開業した場合、グリーンラインの開業と同時になっていた。
#*グリーンラインの開業が2001年~2006年頃に早まっていた可能性もある。
#快速運転の開始が史実よりも早まっていた可能性もあり得る。
 
;2010年代
#3000V形の登場が史実よりも早まっていた。
#ヨネッティー王禅寺付近を通る「東側ルート」で開業していた。
#東急田園都市線の混雑がさらに激しくなっていたかもしれない。
 
;1990年代
#新横浜~あざみ野間の開業が史実よりも早まっていた。
#*横浜~新横浜間or上永谷~戸塚間の開業が史実よりも早まっていたかもしれない。
#港北ニュータウンは史実よりも発展していた。
#*モザイクモール港北、港北 TOKYU S.C.の開業が史実よりも早まっていた。
#2002年におけるFIFAワールドカップ応援の企画はどうなっていたのであろうか?
 
;上大岡~伊勢佐木長者町間が別の時期に開業していたら
1949年、横浜市が発表した「横浜市建設計画概要」の高速鉄道の建設で、横浜~高島町~桜木町~磯子~杉田~金沢~鎌倉~大船~戸塚~中山~綱島~市場町~生麦~横浜間の環状線と、桜木町~弘明寺間の分岐線の計画が盛り込まれた。
;1959年
#同年の横浜開港100周年・横浜市政70周年を機に、開業した。
#*市政ではなく市制。
#当初の車両は営団(のちの[[東京地下鉄|東京メトロ]])300・400・500形と似たもの。形式名は「2000形」辺り<既存の市電との兼ね合い,2000年(当時の近未来)を目指す意味合い>。
#郊外私鉄との乗り入れは一切考えない。
#1964年に新横浜~伊勢佐木長者町間、1960年代後半に上大岡~上永谷間が延伸開業する。
#*[[wikipedia:ja:港北ニュータウン|港北ニュータウン]]の開発が多摩ニュータウンと同時期になり、(あざみ野ではなく)たまプラーザ~新横浜間が1970年代前半に延伸開業。
#*上永谷~戸塚間は1970年代後半、新百合ヶ丘~たまプラーザ間は1980年代前半に延伸開業。
#*戸塚~湘南台間は1989年(横浜市制100周年、横浜開港130周年)に延伸開業(下飯田~湘南台間は当初から、相鉄いずみ野線の乗り入れを想定した構造)。
#グリーンラインは2000年頃に開通した。
 
===横浜市営地下鉄グリーンライン===
構想自体は1960年代からありました。
;1980年代
#2000形電車と同じタイプが運行されていた。
#2000年代には、中山~元町・中華街間が開業していた。
 
;2000年代前半
#無論、東急目黒線の武蔵小杉~日吉間の開業が史実よりも早まっていた。
#センター北駅とセンター南駅周辺にある商業施設の開業が史実よりも早まっていた。
#2002年までに開業した場合、FIFAワールドカップの開催によって、ラッピング列車が運行されていた。
#2004年以降にブルーラインのあざみ野~新百合ヶ丘間が開業していた。
 
;1990年代
#港北ニュータウン計画の一環として、実施されていた。
#東急目黒線の武蔵小杉~日吉間の開業が史実よりも早まっていた。
 
===東京メトロ半蔵門線===
当初の予定では、1975年9月に渋谷~三越前間が完成する予定でしたが、沿線の地権者による反対運動により、予定が大幅に遅れました。
;渋谷~三越前が1970年代に開通していたら
#営団08系電車が開通時に登場していた。
#*営団8000系では。東急8500系借り入れはなかった。
#水天宮前までの延伸が1980年代に、押上までの延伸が1990年代に実現していた。
#*押上延伸と同時に東武伊勢崎線館林まで・日光線南栗橋までの相互直通運転が開始されていた。
 
;半蔵門~三越前間の開業が1988年頃までに開業していたら
#1987年までに開業していたら、営団車両による10両編成の運転が開業時に実施されていた。
#当路線が平成で初めての鉄道路線の延伸となることはなかった。
#押上までの延伸は1990年代に実現し、同時に東武伊勢崎線館林まで・日光線南栗橋までの相互直通運転が開始されていた。
 
;水天宮前~押上間の開業が1990年代に開業していたら
#北千住駅の改良工事が完成した1997年かそれ以降に開業していた。
#営団08系電車と東武50000系電車の登場が史実よりも早まっていた。
#*場合によっては、50000系電車は東上線ではなく、本線に投入されていたかもしれない。
#2000年代前半には、相互直通運転区間が久喜駅までに延長されていた。
#*うまくいけば当初から[[もしあの列車・種別が○○だったら/私鉄#伊勢崎線と営団(東京メトロ)半蔵門線の相互直通運転開始時から館林まで乗り入れたら|伊勢崎線館林までの直通が実現]]していた可能性も。
#**その場合久喜~館林間の沿線開発が史実以上に進行していた。
#急行「しもつけ」、「ゆのさと」、「きりふり」への特急格上が史実よりも早まっていた。
 
;水天宮前~押上間の開業が2000年か2001年に開業していたら
#営団08系電車が2000年1月か2001年1月に運用開始していた。
#2001年に開業した場合、東武伊勢崎線越谷~北越谷間高架複々線化の完成と同時期であった。
#久喜駅までの乗り入れが2003年3月に早まっていたかもしれない。
#*開業と同時に乗り入れていたかしれない。
#*当時の久喜駅の配線の都合で開業と同時に館林まで直通していたか(館林分断も同時に)。
#**そうなると久喜~館林間の沿線開発の進行が現実以上だった。
 
===都営地下鉄三田線===
====目黒-三田====
;1973年
#都営6000形が東急に乗り入れていた。
#*現実以上に導入されていた。
#*10-000形試作車はどうなっていたか?
#東急8000系が現実以上に導入されていた。
#その前に目蒲線が分離されていた。
 
;1980年代
#都営6000形が東急に乗り入れていた。
#*6300形登場が早まっていた。
#**恐らく時期によっては5300形類似箇所が多かったかも。
#東急8500系が現実以上に導入されていた。
#*9000系の地下鉄乗り入れが実現していたかも。
#**もしかすると現実以上に導入されていたかも。
#目蒲線分離が10-20年ほど早まっていた。
 
;1995年
*当初は10月開業予定
#東急9000系の地下鉄乗り入れが実現していたかも。
#*あるいは2000系派生車が多く導入されていたかも。
#*新3000系は増発用で導入か。
#都営6000形が延命され東急乗り入れが実現していたかも。
#*6300形登場が早まっていたかも。
#目蒲線分離が5年ほど早まっていた。
 
==その他==
===つくばエクスプレス===
;1890年代
#日本鉄道運営。
#終点駅は秋葉原駅ではなく上野駅か日暮里駅。
#*つくば(「竹園」?)から先は現実の筑波鉄道のルートで岩瀬まで伸びていた。
#東京上野ラインの計画はこの列車も含まれていた。
#要するに北千住-土浦付近の海岸線(現常磐線)のルートが変わっただけ。
#*当時はまだ平行線を走らせるほどの需要はなかったはず。
#*常総線と竜ヶ崎線は守谷が起点だった。
#全区間踏切なし・全駅ホームドア付きの近代的な路線にならず、130km運転もなかったかも。
 
;1970年代
#車両は415系だったか?
#*直流区間はなぜか70系。
#*むしろ101系や401系の溜まり場に。
#さすがに廃止対象にはなっていない(はず)。
#常磐線と接続され特急や急行も走っていた。
#*上野駅などでは誤乗防止のため「筑波経由」「取手経由」などという案内がされていた。
#筑波鉄道は史実より数年早く廃止された。
#*筑波以北は残っている気がする。
 
;1980年代
#車両は415系(といっても顔が211系のほう)。
#*113系を改造したものは無いだろう。
#**[[西日本旅客鉄道|ここ]]じゃあるまいし。
#国鉄の緊縮財政で北千住止まり。
#*秋葉原延伸は民営化後。
#**むしろ南千住まで複々線化用地を確保して打ち止めになる。
#***地下化するにしても史実のようなルートにはならないと思う。
#*国鉄ではなく地元などが出資した3セク会社だった可能性もある。
#開業はつくば科学万博の直前。
#*つくば科学万博のメインアクセス路線として大活躍し、入場者数も現実以上に多かった。
 
;2000年代前半(2000年も含む)
当初の計画では2000年に開業予定でした。
#TX-1000系電車、TX-2000系電車の登場は史実通り。
#2004年に放映された大河ドラマ「新選組」をきっかけに、流山市に訪れる人が史実より多かった。
#*これを機にラッピング列車が運行されていたかもしれない。
#2003年に開業した場合、圏央道の一部開通と同時期であった。
 
===りんかい線===
;1960年代
#東京オリンピックの開発になっていたか怪しい。
#*当時は何もないので明らかに貨物列車向けなので。
#トンネルはそんなに長くないような気がする。
#京葉線の開業も早まる。(とは言っても貨物列車での開業)
#臨海副都心は貨物駅跡地の再開発名目で建設されていた。
#*というわけで史実通り旅客化される。
#当然ながら国鉄線としての開業。
#*京葉線の一部になっていたか、そうでなければ「東京臨海線」といった名前になっていた。
 
;1980年代
#東京臨海高速鉄道として開業か、JRで開業する理由で揉めるのか?
#JRで開業していたら、埼京線か京葉線の路線になっていた。
#開業当初は貨物列車が中心になる。
#*駅名も「13号地」などの無味乾燥としたものがメインになる(後に改称)。
#**南八潮<!--埼玉県八潮市と区別-->→品川シーサイド、東品川→天王洲アイル、13号地→東京テレポート、10号地→国際展示場、11号地→東雲、新木場(当初から)か。
#埼京線は開業初期からりんかい線と直通運転してた。
#車両は1980年代前半の場合は201系、1980年代半ばか後半の場合は205系をベースにして製造してた。
 
===箱根登山鉄道===
;1870年代
#東海道本線の支線になっていた。
#*1879年末の時点でも開業区間は新橋-横浜、京都-神戸しかなかったのでそれはない。
#**省線が箱根を直接経由しようとした準備云々としてならまだ可能性はあるんじゃないの?
#箱根の観光開発は史実よりも早く行っていたか。
#当時の技術では建設できなかった公算が大きい。
#*ヨーロッパの似たような地理的条件の登山鉄道ができたのは古くても19世紀末から20世紀初頭くらい。
#*本当に開業していたら「19世紀後半の特筆すべき鉄道技術の金字塔」などとして世界遺産に登録されるのは確実。
#*少なくとも箱根湯本までは作れると思うんだが・・・。
#*ラックレール式鉄道の確立前になるから、箱根湯本から先はケーブルカーになっていた可能性が高い。
 
;1930年代
#小田原急行電鉄が建設していた。
#*場合によっては社名が「箱根急行電鉄」になっていた。
#*箱根湯本までは最初から狭軌の線路しか敷かれていない。
#**逆に小田急が標準軌で建設されていた場合は千代田線の直通相手が変わっていただろう。
 
===鹿島臨海鉄道大洗鹿島線===
;1930年代
#史実の鹿島線に相当する区間も同時に開業。
#*水戸-香取が1本の省線となっていた。
#鉾田では鹿島参宮鉄道(のち鹿島鉄道)と乗り換えられた。
#*[[もしあの鉄道が国有化されていたら/関東#鹿島参宮鉄道|参宮鉄道が国有化され]]「鉾田線」になっていたかも。
#茨城交通水浜線の寿命は確実に縮まっている。
#東京か両国-千葉-佐倉-鹿島神宮-水戸のルートに急行(のち特急)が運転された。
#*名称は「かしまなだ」か。
#鹿島臨海工業地帯の計画内容が大きく変わっている。
#神栖線も旅客化されていた。さらに銚子方面への延伸も検討される。
#[[もしあの国鉄路線が全通していたら/西日本#智頭線|智頭線は国鉄時代に開業]]していた。
 
===北総鉄道===
;1930年代
#ニュータウンがない変わりに印旛沼あたりに大浴場や野球場が存在した。
#京成グループじゃなかったかもしれない。
#自力で都心や山武方面に延伸していたかもしれない。
#*さらに自力で成田まで延伸し、空港直通の輸送にも携わっていた。
#下記同様、運賃はそこまで高くない。
 
;1970年代前半
#開業当初はリース車両のみの保有だった。
#千葉ニュータウンへのアクセスが重要視されたため史実とは異なり京成高砂から開業していた。
#*よって新京成との乗り入れはなかった。
#*最初から東京方面に直通していたため、運賃があそこまで高額になることはなかった。
#[[もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら/関東#京成成田空港線|成田空港への延伸]]は約20年後に実現。[[もしあの鉄道車両が更に増備されていたら/私鉄#都営地下鉄5200形|都営5200形は大量増備]]。[[都営地下鉄浅草線|地下鉄1号線]]の8両化が10年程早く進んだ。京浜急行を含む4社局乗り入れが70年代後半に実現。但し暫くは朝時間帯が殆ど。
#*成田空港まで延伸されても北総線のまま。空港第2ビル・成田空港両駅の中間改札は(京成グループ内)別会社のためにある,とされる。後に撤去されない。
#*AE100形以降のスカイライナー車両は北総鉄道が所有。大規模な検査は宗吾工場で。
 
===千葉急行電鉄===
;1960年代
#小湊鉄道の路線として開業していた。
#*千葉駅まで乗り入れていた場合、史実の車両は一掃されている可能性が高い。
 
;1970年代前半
#市原ニュータウンの開発は進んでいた。
#破綻することもなかったかもしれない。
 
;1930年代
#京成が「両総(上総と下総を結ぶ)急行鉄道」の様な子会社をつくり、そこが建設した。
#*開業当初の車両は京成200・210形と同型車両だった。
#*戦時統合で京成に吸収された、その際に路線名称が千葉線に統一。
#途中[[Wikipedia:ja:白井村|白井村(現在の千葉市若葉区)]]を経由、[[大網白里市|旧白里町]]辺りが終点だった。
#*京成は海水浴輸送に注力した、戦前から京成上野~京成津田沼~京成千葉(現在の千葉中央駅)~白里間に急行が走った。
#*海士有木方面へは白井村で分岐していたかも。
#**'30年代中に開業できていたら[[もしあの企業が合併していたら#袖ヶ浦自動車と千葉郊外自動車|袖ヶ浦自動車と千葉郊外自動車の合併]]が実現している。
 
;1980年代
#中断することなく、真面目に工事を行っていたら、開通することができた。
#1980年代後半に千葉中央~大森台間が開業し、1990年代前半に大森台~ちはら台間が開業していた可能性もあった。
#*大森台~ちはら台間が1991年3月に開業していたら、京成電鉄にとって、大規模なダイヤ改正になっていた。
#京成3600形電車と京成3700形電車と京成3400形電車の投入が史実よりも早まっていた。
#*京成3700形電車と京成3400形電車が史実よりも多く製造されていたかもしれない。
#*開業が1988年以降になったら、京急から旧1000形電車をリリースしていた。
#予定通りに、1997年4月に千葉中央~大森台間が複線化されて、2000年4月に大森台~ちはら台間が複線化されていたかもしれない。
#千葉急行電鉄の経営状態は若干マシになっていたのかもしれないが、それでも、1998年10月に京成電鉄に譲渡されていた。
#それでも、海士有木への延伸計画は難航していたであろう。
#*辰巳台までの延伸は実現していたかもしれない。
 
===ドリーム交通===
;1980年
#日本跨座式モノレールの企画で開業されていた。
#ドリームランド周辺がドリームハイツ以外もニュータウン化されていた。
#ダイエーグループではなく[[神奈川中央交通|かなちゅう]]、[[相模鉄道|相鉄]]、[[小田急電鉄|小田急]]が出資していた。
#大船〜ドリームランド間は小雀駅、相模原宿駅、相模深谷駅もできていた。
#開業から数年後、長後や綾瀬市を経由したルートにて延伸開業が進んでいた。
#*そうなれば並行する神奈中バスの路線も再編されていた。
 
===多摩都市モノレール===
====上北台~箱根ヶ崎間====
;2019年
#念願の鉄道が開業したことにより、武蔵村山市にとって、喜ばしい年であった。
#遅くても、10月頃までに開業していた。
#町田方面の延伸計画に力を注いでいた。
 
====立川北~上北台間====
;1990年代前半
*当初の開業予定でした。
#時期的にファーレ立川の開業と重なっていた。
#*立川駅周辺における開発も史実よりも進んでいた。
#2000年までに上北台~箱根ヶ崎間が開業していた。
 
====立川南~多摩センター間====
;1970年代前半
#多摩ニュータウン周辺の交通整備事業として建設された。
#*史実通り日本跨座式が採用された。
#*「[[Wikipedia:ja:東京都地下鉄建設|東京都地下鉄建設]]」に相当する東京都系の企業が約20年早く設立され、社名が「東京都交通開発」辺りになる。
#**1970年代以降に建設された都営地下鉄の区間(新宿・大江戸線の全線)と日暮里・舎人ライナーはそこが建設主体に。
#*[[Wikipedia:ja:姫路市交通局モノレール線|姫路モノレール]]のように東京都交通局の直営となった。
#*おそらく「[[もしあの鉄道路線が開業していたら/モノレール#東京都交通局のモノレール構想|東京都交通局のモノレール構想]]」、「[[もしあの鉄道路線が開業していたら/モノレール#環5モノレール線|環5モノレール線]]」も実現していた。
#**東京都交通局は跨座式と懸垂式のモノレールを保有する珍しい交通事業者となった。
#「立川南」駅は開業当初「立川」駅を名乗った。
#現実より運賃は安くなっていたか。
 
===千葉都市モノレール===
;1970年代
#当初の車両は[[Wikipedia:ja:湘南モノレール300形電車|湘南モノレール300形]]ベースだった。
#最初の開通区間はどうなっただろうか。
#1号線は現実の千葉急行電鉄の代わりに、県庁前駅から千葉寺駅を経由、以降現実の千葉急行電鉄のルートで延長されていた。
#*株主に千葉中央バス・小湊鐵道(両社共に京成系列)も加わっている。
 
===日暮里・舎人ライナー===
※当初の予定では、1999年度、2002年度に開業する予定でしたが、諸事情により、2008年3月に伸びました。
;1990年代
#当初から建設と運営主体は東京都になっていた。
#都営バス里48系統は廃止されていた。
#330形電車は300形電車の置き換えとして、投入されていた。
#2010年代末には埼玉県への延伸が実現していたかも。
 
;2003年
#300形電車が史実よりも多く製造されて、混雑が若干緩和されていた。
#*場合によっては、330形電車と320形電車が投入されることはなかったかもしれない。
 
===宇都宮ライトレール===
;全般
#開業時期によっては宇都宮市などの沿線自治体は経営に関わらなかった。
#*戦前に開業した場合戦時統合で他社と合併していた。
#**停留所名に片仮名は入らなかったかも。
#**鉄道敷設法の通り[[もしあの鉄道が国有化されていたら/関東|国有化された]]可能性も。
#***[[東武鉄道|東武]]系列になっていた可能性もある。
#軌道ではなく鉄道扱いだったかも。
#*場合によっては複線区間はなかったかも。
#*免許次第で[[もしあの路線が普通鉄道規格で開業していたら#宇都宮ライトレール|<span style='color:#fefdff;background-color:#ff0041;'>全線普通鉄道</span>]]か[[もしあの路線がモノレール規格で開業していたら#宇都宮ライトレール|<span style='color:#fefdff;background-color:#009343;'>モノレール</span>]]だったかも。
 
;1900年代
#開業当初の社名は「芳賀軌道」。
#*「日本鉄道(→省線)宇都宮駅と芳賀地域の連絡」が建設目的とされた。
#*当初は非電化だったが、昭和に入った頃に電化。
#のちに宝積寺と烏山を経由して大子まで延伸していたかも。
#*この場合省線(現在のJR東日本)烏山線は存在しなかった。
#戦時統合で関東自動車と合併し、合併会社が「栃木交通」を名乗った。
#*この場合史実の「[[Wikipedia:ja:栃木交通バス|栃木交通バス]]」は別の社名を名乗る。
 
;1930年代
#開業当初の社名は「常野電気軌道」。
#下竹下から先は北([[Wikipedia:ja:南高根沢村|旧南高根沢村]])ではなく東([[Wikipedia:ja:水橋村|旧水橋村]])に向かっていたかもしれない。
#*当初の終点が水橋村内だったかも。
#*[[Wikipedia:ja:清原村(栃木県)|清原村]]の宇都宮市への編入時期が現実より遅かったかも。
#*将来的に、水橋村から七井経由で[[Wikipedia:ja:茨城交通茨城線|茨城鉄道]]沿線のどこかで直結(茨城鉄道・[[Wikipedia:ja:茨城交通水浜線|水浜電車]]と一体化させ、宇都宮~水戸間直通運転を目指す)する壮大な構想だったかも。
#**加えて水橋村から市塙・烏山経由で常陸大子まで延伸する分岐線構想が出たかもしれない。
#*そのため建設当初から狭軌路線だったかも。
#*(宇都宮~水戸間が開通できた場合)戦時統合で発足した「茨城交通」は「常野交通」という社名だったかも。
#**この場合戦時統合で関東自動車に吸収された会社のうち幾らかが常野交通に吸収された。
#戦時中は陸軍飛行場への輸送で活躍した。
 
;1940年頃
#国が上記の陸軍飛行場連絡の為建設。
 
;1980年
#[[Wikipedia:ja:第35回国民体育大会|<span style='color:#fefdff;background-color:#43d700;'>栃の葉国体</span>]]に合わせ開業。
#*開業が1979年に早まった可能性も。
#モノレールで開業。
#*おそらく日本跨座式が採用された。
#**当初[[東京モノレール]]600形を日本跨座式に変更した車両が走っていた。
#**宇都宮の影響か[[もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら/関東#千葉都市モノレール|千葉モノ]]や[[もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら/関東#多摩都市モノレール|多摩モノ]]開業が早まったかも。
#[[本田技研工業|ホンダ]]・[[キヤノン]]・[[カルビー]]などの工団進出企業が主要株主になっていたかも。
#*栃木県資本が当初から入っていたかも。
#*東武や[[栃木の交通#関東自動車|栃木の関東バス]]資本も現実より多く入っていたかも。
#[[栃木サッカークラブ|栃木SC]]ラッピング車が走っていたかも。
#宇都宮駅は新幹線駅と一体整備され駅中央部2階に発着している。
#*自由通路や新幹線駅との構造上4階に発着しているのでは?
#*現駅舎とも一体化。
#2000年頃までに大谷や真岡へ延伸された。
 
;平成期
#富山ライトレールと比較されていた。
#*HU300はTLR0600の3連接版だったかも。
#**2連接だったらTLRの丸パクリ呼びされるかも。
#**2020年頃に旧東武日光軌道線の復刻塗装車が走ったかも。
#2010年代に開業した場合、東日本大震災の影響で工期が伸びていたかもしれない。
#2022年か2023年頃に宇都宮駅~大谷間が開業していたかもしれない。
#2014年以降に開業した場合、栃木県のマスコットキャラクターである「とちまるくん」と芳賀町のマスコットキャラクターである「はがまるくん」が開通式に参加していた。
#宇都宮駅東西の再開発が早まったかも。
#上記同様工団進出企業が主要株主になっていたかも。
#時期次第で上記の栃木SCラッピング車が走っていたかも。
#2000年代前半より前だったらモノレールで開業。
#*おそらく上記同様日本跨座式が採用された。
#**時期次第で[[多摩都市モノレール|多摩モノ]]1000系や[[福岡の鉄道#北九州高速鉄道|北九州モノレール]]1000形類似車両が走っていた。
#***[[大阪モノレール]]1000系類似かも。
#**関東・日本跨座式どうし立川と比較されたかも。
 
;2020年
#[[夏季オリンピック#東京(2020年)|<span style='color:#30f;background-color:#fbfaff; '>2020年東京五輪</span>]]を見越し開業。
#*開業が前年に早まったかも。
#*[[関東の陸上競技場・球技場#栃木県総合運動公園陸上競技場|<span style='color:#fbfaff;background-color:#00bfab; '>カンセキスタジアム</span>]]開設と重なったかも。
#おそらく富山の影響を史実より受けた形か。
#HU300の登場が早まる。
#*開業から間もない頃に旧東武日光軌道線の復刻塗装車が走ったかも。
#早ければ2030年頃に大谷や真岡へ延伸されたかも。
#上記同様宇都宮駅東西の再開発が早まったかも。
 
;2022年
*当初の開業予定年
#[[Wikipedia:ja:第77回国民体育大会|<span style='color:#4100ff;background-color:#ffe100;'>とちぎ国体</span>]]に合わせ開業。
#当然HU300の登場が早まる。
#[[もし2020年のオリンピック開催地が東京以外になっていたら#共通|<span style='color:#fbfaff;background-color:#30f; '>2020年五輪が東京以外</span>]]だったかCOVID-19がなかったらありえた。
#上記のように宇都宮駅東西の再開発が早まったかも。
 
===常南電気鉄道===
;1900年代
#開業当初の社名は「稲敷軌道」。
#当初は非電化だったが1920年代後半に電化。
#戦時中海軍飛行場への輸送強化の為[[もしあの鉄道が国有化されていたら/関東#常南電気鉄道|<span style='color:#19ff00;background-color:#8d0094; '>国有化され</span>]][[もしあの国鉄路線が全通していたら/関東#霞ヶ浦線|<span style='color:#8000ff;background-color:#fefdff; '>「霞ヶ浦線」</span>]]になっていた。
 
;1940年頃
#国が上記の海軍飛行場連絡の為建設。
 
===秩父鉄道秩父本線===
====羽生-熊谷====
;1903年
#上武が建設していた。
 
;1943年
#東武熊谷線の一部になっていた。
 
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[[カテゴリ:歴史のif検討委員会 鉄道路線史]]
[[カテゴリ:もしも借箱/鉄道路線]]
[[カテゴリ:関東地方|もしあのてつとうろせんかへつのとしにかいきようしていたら]]

2021年7月6日 (火) 19:47時点における版

JR

山手線

  • ここでは営業上の山手線(環状運転区間)について扱います。
1890年代
  1. 東京駅ではなく丸ノ内駅と名乗っていたかも。
    • 現実ほど巨大な駅舎になったかどうか怪しい。
  2. 都制化になる物も早まっていた?
    • 都制は「大東亜戦争」という非常時だから反対を無視して実現できたという側面があるのでそれはない。
  3. 場合によっては赤羽駅まで通っていた可能性も。
1910年代
  1. 秋葉原駅ではなく万世橋駅に通っていたかも。
    • この場合秋葉原駅は貨物駅のままだったかもしれない。
1940年代
  1. 恐らく戦災復興都市計画として開業だろう。
    • 環状化の構想は関東大震災後の帝都復興計画などにも盛り込まれていたが諸般の事情により実現が大幅にずれ込んでいた。
1960年代
  1. こうなると東京オリンピックの再開発の一つになっていた。
  2. この時期に開通した区間は間違いなく地下線。

川越線

1890年代
  1. 史実の停車駅だと少ないので、秩父まで開業していた可能性も。
    • 停車駅は大宮、川越、高麗、秩父大宮かも。
      • 高麗から秩父に抜ける工事がかなりの難事業になりそうだが・・・
      • 高麗ではなく飯能に通っていたかも。
    • 川越線ではなく秩父線になっていた。
    • もちろん西武秩父線は開業していない。秩父鉄道は微妙。
  2. 電化はもう少し早かった可能性も。
  3. 秩父の観光開発は史実通り行っていただろうか?
  4. 位置づけは「商都川越と現在の東北本線を結ぶ路線」。
    • 戦時色が強くなり東京を迂回するルートの必要が出てくるまでは大宮-川越のみ。
  5. 西武大宮線など存在しなかった。
  6. 川越駅は現在の本川越駅あたりになっていた。
1980年代
  1. 開業当時から電化していた。
  2. 大宮駅-川越駅間の路線が埼京線になっていた。
  3. もともとは東京に用がない貨物列車を東京都心に入れないための路線のつもりだった。
    • この場合は複線化もされているはず。
    • となると史実の武蔵野線がさらに遠くにいったということか。東武野田線もJRに編入され、八高南線・相模線もセットになっていた。

京浜東北線

1880年代
  1. 運営は日本鉄道?
  2. 停車駅は上野-日暮里-田端-王子-赤羽-川口-蕨-浦和-与野-大宮か?(場合によっては上尾まで)
    • 川口駅は「武蔵川口駅」に。
  3. 神奈川方面延長は国有化後。

八高線

1890年代
  1. 八王子-飯能-越生-小川-寄居-児玉-藤岡-高崎になっていたかも。
  2. 八高北線は電化されていたか?
  3. どう考えても貨物輸送がメイン。
    • 主に上州の繭を絹織物産業が盛んだった八王子へ運ぶため。
      • 横浜線との間にスイッチバックなしで直通できる短絡線が建設される。

埼京線

1890年代
  1. 停車駅は品川-大崎-目黒-恵比寿-渋谷-新宿-目白-池袋-板橋-赤羽-蕨-浦和-大宮かな。
    • つまり上野駅がターミナルではなかったってこと?
    • 要は高崎線が品川支線のルートで開業ってことか?
  2. 赤羽線は存在しない可能性も。
  3. 2chの殺人予告の「埼京線の上野駅」が実在していた可能性も。
  4. そもそもこの場合だと名実ともに東北本線になっている気がする。
1940年代
  1. 当然当時は新幹線は無いので新幹線併設在来線という言葉は無い。
    • 東北本線の別線にはなっていない。あえて付けるとしたら「戸田線」とかか。
    • 戸田駅が「武蔵戸田駅」になっていた。
  2. 川越線と直通するかは微妙な所。
  3. 私鉄による建設。
    • あくまで東京-大宮・浦和で省線に対抗するため。
    • 沿線地域は昭和30年代でも農村ばかりだった。
      • 私鉄なら開発も積極的になされているのでは。
    • 後々都営三田線への乗り入れ構想が浮上する。
    • 要するにこの計画が実現していた場合である。
1960年代
  1. 東京五輪の競艇場アクセスに活躍。
  2. 車両は山手線や総武線から流れてきた旧型国電でスタート。
    • 1970年代に新性能化されるが、おそらくラインカラーは現実と異なる。
  3. あるいは五方面作戦の一環(赤羽〜大宮間線増)として建設され、東北・高崎線の一部列車がここを経由したかも。
    • 武蔵野線開業後、前橋~沼津間の普通列車が廃止されず、この路線を経由。
      • おそらく8両編成以下(板橋・十条駅の当時のホーム長を考慮)。
  4. 新幹線の(予定)用地も同時に確保された。

武蔵野線

1890年代
  1. 路線名は「府中線」か「船橋線」辺りになっていた。
  2. 停車駅は府中-所沢-志久-浦和-越ヶ谷-松戸-船橋辺りになっていたかも。
    • 志久ではなく志木では?
  3. 軍事上の必要性がかなり表に出されていた。
    • 沿線に相当する地域にそこまでの旅客需要があったようには到底思えない。
  4. 現実より地平区間が多い。
    • 車両にA基準が求められたり、水害で駅が崩壊することはなかった。
  5. 川越線は無かった(武蔵野線が東北本線と中央本線のバイパスとなったため。)
    • その代わり国分寺ー所沢ー川越ー大宮の私設鉄道路線が開業していた。
      • その後西武鉄道に買収され、西武大宮線として名づけられていた。
  6. 武蔵野線の開通に合わせて都市開発が進んでいったため、史実より市街地の位置が大幅に変わっていた。
    • 後発で開通した路線もそれに合わせていた。
  7. 国分寺で中央線、浦和で高崎宇都宮線、松戸で常磐線、船橋で総武線とそれぞれ直通していた。
  8. その後南武線が府中~川崎で開通。むろんダイレクトで直通していた。
  9. 武蔵野操車場はハンプヤードになっていなかった。
1990年代
  1. JRではなく首都圏新都市鉄道の一路線として開通していた。
  2. ルートは史実と違っていた可能性大。
  3. 下河原線は南武線の一支線として現在も残存していた。ただし東京競馬場駅は廃止になっていたかも。

京葉線

1890年代
  1. 日本鉄道運営か?
    • むしろ行徳や浦安の有力者が誘致した軽便鉄道では。
      • この場合は総武鉄道の東京府内の駅と船橋を結ぶ路線だった。
      • 沿線で獲れた海産物の輸送も盛んだった。
    • 当時の東京-千葉間に鉄道が2本も必要だったとは考えにくい。
  2. ルートは史実の東西線に近いルートになっていた。
  3. なので史実の京葉線はりんかい線として開業していた可能性も。
    • 都市政策案通り有楽町線が幕張まで伸びていたのでは。
  4. 1890年代だと京葉間の埋め立てが早くないと無理じゃないの?
    • 夢の島がまだないからね……京葉貨物線まであるとすると、お台場に軍港が作られ、海軍の専用線として巨大な橋梁が並んでいた可能性
  5. 東武亀戸線の起点が越中島だったかもしれない。
  6. 千葉港駅の読み仮名が「ちばこう」だったかもしれない。
1970年代
  1. 内房線・外房線直通の優等列車は新宿発着以外こちらに移行。
  2. 総武線の複々線化は津田沼止まりだった。
  3. 越中島や千葉みなとあたりに貨物ターミナルが開設された。
    • むしろ新木場〜東京間は建設されず、新木場以西は史実のりんかい線と同じルートだった(但し大崎ではなく大井に向かう)。
1990年代
  1. りんかい線の一部として開業していた?
    • 一部として開業していたら第3期の東京駅-新木場駅間が開業した時になんか動きがあったかもしれない。
  2. この路線ができるまで東京ディズニーランド周辺では渋滞が深刻だった。
  3. 開業が遅れたとなると、幕張まで千葉都市モノレールが伸びていた可能性もゼロではない。
  4. 千葉みなと駅は最初からこの表記だった。
1980年代に全線開業していたら
  1. 内子線とともに国鉄最後の新線開業として注目された。
  2. 東京ディズニーランドへのアクセスがより便利になっていた。

成田新幹線

2010年
  1. 成田スカイアクセスは存在しない。
  2. 都心部や空港周辺の用地買収をやり直す羽目になる。
    • 上野起点だったかもしれない。
2020年代
  1. 通常鉄道かリニア方式かで揉める。
    • 後者ならJR東海管轄で起点も品川に。
  2. 東北新幹線・リニア中央新幹線のいずれかと直通運転。
  3. 史実より地下区間が多く、起終点駅も深い位置にある。

成田線(空港支線)

1970年代
なりたくうこう
成田空港
NARITA AIRPORT
なりた
NARITA

  1. 成田新幹線の計画があるので特急は乗り入れず、普通列車で運行。
    • 暫定的に特急は走らせていたと思う。但し使われるのは183系。
  2. 本数は日2往復程度しかなく、空港関係者向けの輸送が中心。
  3. 空港第2ビル駅は後に開業。
    • その代わり佐原方面の分岐点付近に土屋仮乗降場が存在した。
      • こちらも民営化直前に駅に昇格する。
  4. 乗務員の中に空港反対派がいるのか?
    • 国鉄時代は度々ストライキが発生していた。
    • 三里塚空港廃港とゲバ字で書かれた113系アジ電が入線して大顰蹙
    • 浅草橋焼き討ち事件は史実より10年くらい早く起きてしまう
  5. 113系0番台初期車が幕張電車区に転入しなかった。

吾妻線(嬬恋線区間)

1920年代
  1. 上信鉱業専用軽便線という名前で開通していた。
  2. 戦後嬬恋線、または三原線としていた。
  3. 草軽電鉄と乗り入れをしていた。
  4. 結局現ルートで改軌電化が行われる。
  5. あるいは草軽電鉄に譲渡されていた。
  6. 1940年代に戦時下の突貫工事で事故起こしまくりながら温泉のど真ん中掘ってさらに延伸、全通し長電と相互直通運転してしまう。

上野東京ライン

1890年代
  1. 山手線・赤羽線は開業しなかった。
  2. 史実とは違い、国鉄は直通運転に積極的だったかもしれない。
  3. 秋葉原駅、日暮里駅に高崎線・宇都宮線の列車が止まっていた。
  4. 上野駅に地平ホームはなかったか、荷物・貨物専用として使われた。
  5. 「上野東京ライン」の愛称はなく「東北線」と呼ばれる。
1990年代
  1. そもそも上野東京ラインなんて名前にはなっていない。
    • 単に「常磐線直通」「東北(→宇都宮)線直通」「高崎線直通」「東海道線直通」と案内される。
  2. あさまに東京発着が存在していたか。
  3. 京浜東北線の快速運転は実施されない。そのあおりで山手線が減便。
    • 山手線は11両化されなかったかも。
  4. これでも高崎線・宇都宮線の新宿発着実施は史実通り。
  5. バブルの時代だから上野駅の地平ホームはつぶされて再開発される。
  6. 東北新幹線東京延伸と同時に開通していた。
  7. 当然、211系も上野東京ラインに乗り入れしてた。
    • 415系電車も乗り入れていたかもしれない。
  8. 交通博物館で上野東京ラインの開業イベントが行われ、史実より入場者数は増えていたかもしれない
2000年代
  1. 651系電車が乗り入れていたのは当然ながら、E653系電車も乗り入れていた。
    • E657系電車の登場は史実通り。
      • 場合によっては、史実よりも早く登場していたかもしれない。
  2. 相鉄・JR直通線の開業は2015年頃に早まっていたかもしれない。
    • その場合、相鉄・東急直通線の開業は2019年頃に早まっていた。
  3. 品川~上野~いわき~仙台間を結ぶ特急「ひたち」が運行されていた。
  4. 2011年の東日本大震災の影響により、同年4月までに運休となっていた。
    • その代わりに、工事の方では、震災の影響を受けることはなかったので、工期は1年程短縮していたかもしれない。(史実では、開業までに7年の工期を費やした。)
  5. 211系電車が2019年3月頃までに当路線に乗り入れていたかもしれない。
  6. 2010年代には、特急「あかぎ」が品川までに乗り入れていたかもしれない。
2013年or2014年

当初の開業目標としていた年です。

  1. E657系電車が史実より多く増備されていた。
    • 651系電車による代走はなかった。
  2. 常磐線直通列車の増備が2017年3月のダイヤ改正で実施されていた。
1980年頃
  1. 東京-上野間を通る中電の先頭・後方の行先種別表示器に「東海道線-常磐線」「東海道線-東北線」「東海道線-高崎線」と表示される。
    • 常磐線・成田線成田~我孫子間発着の通勤電車は行先のみ表示される。
      • 「SM分離」と同時期に開通したため「横須賀線-総武線」と比較される。
        • 「上野東京ライン」の愛称はなく「東北線」と呼ばれる。
    • 当初「浜松発黒磯行き(片道約420km)」などの長距離列車が存在した。
      • 「大垣夜行」の走行距離よりも少し長いため鉄道ファンからネタにされた。
        • 中には全区間乗り通すファンもいた。
    • 東海道・常磐・東北・高崎線中電の側面方向幕使用開始が1970年代後半だった。
  2. 神田付近は先に上部の列車線を建設しその後下部の新幹線の高架を建設したため史実ほど難工事にならなかった。
    • 場合によっては'85年3月改正で東北・上越新幹線東京~大宮間が開通した(上野駅新幹線ホームも同時に設置)。
      • それでも東海道~東北・上越新幹線の直通は実現しなかった。
  3. 東海道-東北・高崎線直通の中電は基本11両編成(グリーン車連結)+付属4両編成の組成、115系使用としたためサロ115が実現している。
    • 115系1000代を東海道-東北・高崎線直通運用向けに多く投入する必要が生じ横須賀・総武線系統への新車導入数を減らしたため初期113系1000代の総武・横須賀地下線乗り入れが実現した。
      • クハ115の新製数は史実より少ないはず。
        • 静岡所の115系4連は東海道-東北・高崎線直通運用に入ることも多かった。
    • 東海道線東京口運用の113系の多くは80系などの置き換え用に地方転用された。
    • 211系の東海道-東北・高崎線直通運用編成は基本10両編成(G車連結)+付属5両編成に組成され付属5両編成はクモハ211が連結(将来の地方転用考慮)された。
      • おそらく1000・3000代で0代は中京圏向けのみだった。
        • むしろ首都圏向けに暖地向け211系が投入されたのでは(下記横須賀線ー総武線用の多く)?
    • クハ115の新製数は史実より多いのでは(113系を東海道線東京口から追い出し115系統一を図るため)?
    • 常磐線中電の直通増加がつくば万博に合わせて実施された。
      • 同線通勤電車の15両運行開始時期も早まっている。
    • 横須賀線ー総武線中電の車両更新時期が早まっているの思われるので横須賀線ー総武線用211・213系が実現している。
    • 静岡所115系4連は1984年2月改正で御殿場線運用を分離しJR化後先頭車へのATS-P設置やブレーキ力向上が行われ改番が実施され2006年頃まで活躍。
    • 209系6ドア車はサハ208-951のみでE231系編入と共に廃形式に。
      • 勿論京浜東北線の6ドア車はなかった。
        • 上野→御徒町間が日本一の最混雑区間にならなかった。
    • 湘南新宿ラインは運行開始から全列車グリーン車連結だった(遅延防止と上述から211系グリーン車連結編成が2001年当時史実以上存在したと考えられるため115・215系の定期運用はなかった)。
      • E217系の湘南新宿ライン定期運用と国府津へ転属する編成はなかった。
    • E231系1000代基本編成は当初からG車連結だった。
      • E531系導入時から基本編成はG車連結だった。
    • 215系は導入当初から「ニートレイン」と呼ばれたかも(恐らく快速「アクティー」は東北・高崎線直通、日中の運用が少なかったと考えられるため)。
    • 211系幕張転属車は存在せず(基本編成は当初からG車連結済)115系幕張転属車は2000年代前半に増加し(その間老朽113系を置き換えた)209系2000・2100代に置き換えられるまで運用された。
      • 史実の211系幕張転属車はサハ・サロを廃車後直接長野に転属している。
    • 営団→東京メトロ半蔵門線と東武伊勢崎線の相互直通開始・TX開業前は常磐線直通(特急以外)の混雑が激しかった。
      • 下記のE501系増備・朝のピーク時上野以南発着の全列車投入はこの対策
    • 211系サロにクハ210・クモハ211を挟む編成は存在しなかった(基本編成は当初からG車連結の為)
      • 高崎ローカル転用後の6連中間のクハ210・クモハ211も。
      • もしかしたら高崎ローカル4連水上方先頭車はクハ210だったかも。
    • TXの開業当初の予定通り2000年だった可能性も。
  4. 常磐・東北・高崎線方面の電車急行・電車特急、常磐線方面の普通・快速に当初から品川発着の列車が存在した(一部は復活)。
    • 当初103・115・165・169・181・183・189・401・403・415・451・453・455・483・485・583系が営業列車で乗り入れた。
    • その後185・211・E501・651・E653系も営業列車で乗り入れた。
    • むしろ当初の計画通りに東京発着となり、2015年3月のダイヤ改正で品川発着となっていた。
      • 東京折り返し本数を減らし上記通り「つくば万博」に合わせ常磐線中電の直通増加を実現させるため品川駅の配線改良が'84年までに実施され品川発着の列車が多く設定されたかも。
    • 国鉄はテコ入れのために上野発着の寝台特急と寝台急行が東京までに延長していた。
      • 583系でないと難しいのでは?
        • そのため東京発着の寝台特急・寝台急行は583系使用に。
          • 大阪~東京~東北を結ぶ電車寝台特急が存在したか?
    • クハ415-1901連結の編成は上野以南の営業運用に入らなかった。
    • 上記の寝台急行・寝台特急は廃止まで電車運転だった。
      • 「北斗星」「エルム」「カシオペア」は史実と同じ。
  5. '89年の「横浜博」に合わせて、日中常磐線から上野・東京経由で横浜まで乗り入れる列車が多かった(「横浜博アドベンチャー」号は上野・東京経由で運行)。
    • 「つくば万博」へのアクセスのため「エキスポライナー」に神奈川県内発着の便が存在した。
    • 横浜博は大成功した可能性も。
  6. 常磐線取手以北・東北線大宮以北・高崎線の沿線開発がバブル期にかなり進む。
    • E501系の増備は2000年頃まで継続し403・415系0代(0'代ではない)を置き換えた。
      • 増備途上で国産メーカー製IGBT-VVVF採用や1・10・11号車への車椅子対応トイレ設置、一部号車へのボックスシート配置が行われた。
        • 初期車も機器更新時に上記の内容通りの改造が行われた。
    • この場合E531系導入数が少し減っている。
      • 増備完了からE531系導入開始まで朝のピーク時に上野以南発着の全列車に入った。
        • 土浦以北・水戸線転用は史実と同じ。
    • 「ホームライナー鴻巣」「ホームライナー古河」は東京発着だった。
      • 「ホームライナー土浦」を忘れずに。
    • 白岡・鷲宮・栗橋町は2000年までに市制施行、菖蒲町は久喜市と合併しなかった
    • 藤代町は取手市と合併せず単独で市制したかも。

根岸線

1880年代
  1. 東海道本線の一部になっていた。
    • 横浜駅(初代)でのスイッチバックはなかった。
  2. 戸塚経由のルートは貨物線として建設。
    • 品鶴線と同時、遅くとも戦時中には開業していた。
1920年代
  1. 建設動機は関東大震災からの復興と京浜工業地帯の振興か。
  2. 桜木町事故は起きなかった。
  3. 山手線の読み仮名はずっと「やまのてせん」のままだった。

湘南新宿ライン

1960年代
  1. 路線案内では「山手線経由」と案内していた。
  2. 赤羽線は山手線各駅停車に乗り入れていた。
  3. 武蔵野線開業前なので貨物列車が多く本数は多くない。
  4. 品川発着・新宿経由の列車も運転していた。
  5. 東横線の特急誕生が40年早かった。
    • 東急初代5000系のカットボディは特急のサボ付きで展示されていた。
1973年
  1. 東京-上野間回送線の廃止代替も兼ねて旅客化。前橋-沼津の普通列車は新宿経由で存続。
    • サロ115が1968年頃に登場,以降115系の大量生産に切り替わる(111系・113系の多くは大阪万博輸送に備えて西日本地区へ転属)。111系・113系・153系から改造されたサロ115も多い。
  2. 新川崎駅がこのとき開業。上記列車の名残で北側は高崎線,南側は東海道線へ多く乗り入れるが,国鉄時代は日中の運転本数が少ない。
  3. 東京急行は対抗し東横線の特急運行を30年早める。国鉄との差別化のため,1本/毎時は営団日比谷線に乗り入れ。
  4. 73年に起きた上尾事件と多く結びつけられる。
  5. 上野駅を発着する急行の多くが新宿駅発着に移行。急行「日光」は同時に特急に格上げ,新宿発着に変更。2020年現在も存続。185系は存在せず,貫通路付きクハ183の生産が早期に再開される。183系が「新幹線リレー号」の多くに使用された。
1990年代
  • ちなみに史実では、1988年に池袋駅までに乗り入れ、1995年に新宿駅までに乗り入れました。
  1. 早くても、1998年に開業していた。
  2. E231系電車の登場が史実より早まっていた。
  3. 2000年代には史実より多く増発され、高崎線の(籠原駅 - 高崎駅間)も15両編成で運行されていた。

鹿島線

1930年代
  1. 私鉄での開業後、戦時買収で国鉄線編入。
    • 社名には「神宮」とか「参宮」などがついていた。
    • 当時の法人格は現在の関東鉄道に吸収された。
    • おそらく参宮鉄道が国有化されたか。
  2. 鹿島神宮から鉾田まで開通できたかもしれない。
    • 大洗・水戸方面も国鉄工事凍結寸前に駆け込みで開業できたかもしれない
  3. 鉄道利用が定着し、極端にバス利用に傾かず特急あやめが存続している…わけないと思う。

相模線

1890年代
  1. 最初は人車だったはず。
1940年頃
  1. 国が川越線同様東京の迂回路で建設した。

烏山線

1930年代
  1. 仁井田以東は現実より線形が良かった。

大手私鉄

京浜急行電鉄

京急空港線

1960年代前半
  1. 書類上はかつての休止区間の復活。
    • 羽田空港駅と初代穴守駅が同一駅ということにされた。
  2. 開業時期は東京五輪が近づいてきた1963年11月1日。
    • 史実ではこの日路線名が「穴守線」から「空港線」に変更された。
  3. 国際空港への路線ということで京急のショーウインドーとされた。
    • 新車はまずこの路線へ真っ先に導入される。
      • 地下鉄1号線は東京五輪までに泉岳寺まで完成した。同時に京浜急行本線泉岳寺-品川間も完成。押上-(普通)-泉岳寺-(急行)-京浜蒲田(のち京急蒲田)-(急行)-羽田空港の運転系統ができる。当初1時間に3本設定された。
  4. 横浜方面からの列車も設定された。
    • 京急蒲田駅の構造が史実とはやや異なっていたかもしれない。
      • 最低でも2面4線になっている。間違っても2010年までのように2面3線で3番線1つで空港線発着列車をすべて捌くなんていう無理がある構造にはならない。
      • その代わり10両編成以上で停車するのは,高架化の後にずれた。高架化自体が1990年頃だったかもしれない。
  5. 400形・500形は大師線で引退していた。
  6. 「蒲田とばし」は特に問題にならなかったかもしれない。
  7. 東京モノレールが大打撃を受けていた。
    • 下手したら廃線になって90年代まで橋桁が残っていたかもしれない。
      • 生き残れたとしても,途中駅の設置が早かったかもしれない。

京急久里浜線

1930年代
  1. 湘南電鉄が浦賀から延長する形で建設していた。
    • 勿論本線の一部だった。

京王相模原線

1910年代
  1. 史実の多摩川支線が最初から対岸に伸びた形で開業していた。
    • 周辺状況を考えるとおそらく稲城までが初期開業区間になる。
    • 稲田堤で南武鉄道と接続していた。
  2. 京王よみうりランド駅は矢野口駅(南武線の駅とは別)から改称される形で開業していた。
  3. 多摩ニュータウンの開発が始まるまでは全電車が調布駅で折り返し運転をしていたか、新宿からの乗り入れがあったとしても各駅停車のみだった。
    • その後1970年代に調布駅は全面改修され、地下化ではなく高架化されていた。
  4. 最初から橋本まで延びていた場合は多摩ニュータウンの構想自体が大幅に変わっていた。
    • 史実では未成に終わった城山延伸も実現していた。
1960年代後半
  1. 京王が「多摩高速鉄道」といった子会社を設立し、そこが京王多摩川以西の建設主体になった。
    • 開業直前に京王に合併された。
    • 最初の延伸区間は京王多摩川~稲城間に。
      • この区間で、京王は独自に住宅開発を行った。
    • 多摩センターまで延びたのは結局現実と同じ時期に。

東武鉄道

東武野田線

1890年代
  1. 運営は東武鉄道ではなかった。
    • 当初は「北総鉄道」とも「総武鉄道」とも異なる社名を名乗っていた。
  2. 県庁所在地にならなかった岩槻市の圧力と見なされていた。

東武東上線(東上鉄道)

1890年代
  1. 予定通り長岡駅…いや新潟駅まで伸びていた可能性もある。
    • そうなると国有化されてこの路線が名実ともに上越線になる。
  2. 川越線の電化も少し早まっていたか?
  3. 川越鉄道(国分寺〜本川越)はなかった。
    • 西武新宿線の高田馬場〜小平を開通させたのは多摩湖鉄道だった。

東武熊谷線

1900年代
  1. 「熊谷と妻沼の連絡」が建設動機か。
    • 社名は「妻沼鉄道」。
  2. 北武鉄道ともども秩父鉄道に合併され同社の「妻沼線」になっていた。
    • そして電化。
    • 利根川を越えられたら妻沼鉄道は勿論北武鉄道と秩父鉄道も東武鉄道に合併されたかも。
1920年代
  1. 東武鉄道の本線系と東上線を接続するための路線として着工される。
    • 東松山から西小泉まであまり間隔を置かずに全通していた。
  2. 開業当初から電化されている。
  3. 北武と秩鉄は戦時統合までに東武に合併されたかも。
1950年代
  1. 東武か秩鉄が建設。
    • 後者の場合100か300系登場タイミングがこの路線開業と同時期だった可能性あり。
1960年代
  1. 秩鉄が建設。
  2. 500系登場タイミングがこの路線開業と同時期だった可能性あり。

東急電鉄

東急田園都市線

1930年代
  1. もし玉川電気鉄道が普通鉄道として開通していたらそのまま西に延伸していた。
    • 南町田は「玉電鶴間」駅として開業。
    • 「新玉川線」という路線名はない。
  2. 史実通り玉電が軌道線だった場合は目黒蒲田電鉄が建設したかもしれない。
    • 溝の口以西も「大井町線」となる。
  3. 中央林間都市の構想に影響を与えていた。
  4. 大東急時代に小田原線のいずれかの駅まで延長される。
  5. 渋谷~二子玉川間は地下ではなく地上線になっていた。
    • 半蔵門線とは三軒茶屋あたりで合流。もしくは渋谷を通らないルートになっていた。

渋谷-二子玉川園(旧新玉川線区間)

1964年
  1. 同年の東京五輪に合わせて建設された。
    • 開通当初の東急側の車両は、営団2000形ベースの、オールステンレス車だった(もちろん東急車輌製)。
  2. 要するにこういう事か。

東急新横浜線

1930年代
  1. 建設目的は「神中鉄道の合併」辺りだった。
  2. 大倉山で分岐。
1964年
  1. 開業時「夢の超特急」との連絡を唄い何かしらの宣伝がされた。
  2. 新横浜への「ひかり」「のぞみ」(全)停車が早まったかも。
  3. 日比谷線直通電車が新横浜発着になっていた。
    • 旧7000系が現実より多く造られた。
      • その置き換えで1000系も。
    • 営団→メトロ3000・03系も乗り入れていた。
    • 目黒線日吉延伸が2000年くらいに実現したかも。
      • この時点で実質的に「目黒線」の一部に。
    • 新3000・メトロ9000・SR2000系・都営6300形が現実より多く造られる。
      • その代わり現実の5080・3020系は存在しない。
      • 同じく都営6500形登場が遅れたかも。
    • 早期に全8両化されたかも。
      • 下記のように(営団→メトロ副都心線~)東横線との乗り入れは想定されなかったためか。
    • 基本的に日吉・菊名発着の日比谷線直通電車はなかったか少数だった。
  4. 上記のように大倉山で分岐。
    • 目蒲線の分離や東横線多摩川(園~)小杉~菊名間高架化が早まったかも。
      • 「目黒線」復活後(副都心線~)東横線との乗り入れは想定されず実質その一部になったか。
1970年代
  1. 上記のように「ひかり」「のぞみ」新横浜(全)停車が早まったかも。
  2. 8000系列が現実より多く造られる。
    • その置き換えで新5000系列も。
    • 新3000・メトロ9000・SR2000系・都営6300形も現実より多く造られる。
      • その代わり現実の5080・3020系は存在せず都営6500形登場が遅れたか。
    • 上記のように早期に全8両化されたかも。
      • 下記のように(営団→メトロ副都心線~)東横線との乗り入れは想定されなかったためか。
  3. 目蒲線の分離や東横線多摩川(園~)小杉~日吉間高架化が早まる。
    • もしかしたら大倉山分岐になり菊名まで史実より早く高架化されたかも。
    • 「目黒線」復活後(副都心線~)東横線との乗り入れは想定されず実質その一部になったか。
1980年代
  1. おそらく菊名駅を起点として、新横浜を経由して西谷(または二俣川)までの路線になっている。
  2. 菊名駅は東横線が緩急接続するため東横線とは別のホームになり、同一ホームでは乗り換えできない。
    • 二層式になってる。
    • ただ東横線沿線から東急の運賃のみで新横浜に行ける便利な路線になっていた。
  3. 複々線が菊名まで延伸され目黒線と直通するようになっていた。
  4. 相鉄との直通は当初は行われなかった。
    • 00年代くらいにスタートしている。
  5. 横浜線快速は現在でも菊名は通過。
  6. 2001年3月の東横特急新設まで存在した菊名駅の「横浜線、新幹線ご利用の方はお乗り換えです」という自動放送はなかった。
    • その代わり「新横浜線、横浜線はお乗り換え」という似た路線名2つの案内になって少しややこしくなる。
      • 路線名が変わっていたか?
  7. 新横浜駅にのぞみが停まるのが遅くなっていた?
1990年代前半
  1. 上記の目蒲線の分離や東横線多摩川(園~)小杉~日吉間高架化も早まる。
    • 途中駅ホームは8両分しかなく(営団→メトロ副都心線~)東横線との乗り入れは想定されず「目黒線」と案内される。
  2. 9000系列に南北・三田線直通対応車が登場。
    • メトロ9000・SR2000系・都営6300形が現実より多く造られる。
      • その代わり都営6500形登場が遅れたかも。
    • 新3000系が増発用で登場。
      • その代わり現実の5080・3020系は存在しない。
    • 早期に全8両化。
  3. 新横浜への「のぞみ」全停車が早まった。
  4. 横浜線快速の菊名停車はなかった。
1998年
  1. 同年の神奈川国体に合わせる形だった。
    • 開業が前年に早まったかも。
  2. 上記の目蒲線の分離や東横線小杉~日吉間高架化も早まる。
    • 同じく途中駅ホームは8両分しかなく(営団→メトロ副都心線~)東横線との乗り入れは想定されず「目黒線」と案内される。
    • 同じく新3000・メトロ9000・SR2000系・都営6300形が現実より多く造られる。
      • その代わり都営6500形登場が遅れたかも。
    • 新3000系が2年程早く登場。
      • 現実より多く造られる代わり5080系はあまり造られず3020系は登場しない。
    • 2000年代に全8両化。
  3. 上記のように「のぞみ」新横浜全停車が早まったかも。
  4. 上記の横浜線快速は現在も菊名に止まらない。
2001年
  1. 翌年のW杯に合わせる形だった。
    • SR開業とも重なっていた。
  2. 新綱島駅ホームは8両分しかなく(メトロ副都心線~)東横線からの乗り入れはなく「目黒線」と案内される。
  3. 新3000系・営団→メトロ9000系・都営6300形が現実より多く造られる。
    • その代わり5080系はあまり造られず3020系は登場しない。
    • 都営6500形登場が遅れたかも。
    • 2000年代に全8両化される。
    • SR2000系忘れてないか?
  4. 新横浜への「のぞみ」全停車が愛・地球博までに実現したかも。
  5. 横浜線菊名快速停車はなかった。
2008年
  1. 横浜オリンピックが実現していたらあり得た。
  2. 史実の目黒線小杉~日吉延伸と同時だった。
  3. 上記同様新綱島駅ホームは8両分しかなく(メトロ副都心線~)東横線からの乗り入れはなく「目黒線」と案内される。
  4. 目黒線8連化が早まる。
    • 5080系が現実より多く造られ3020系は登場しない。
    • メトロ9000系6次車が2007年登場。
  5. 相鉄20000系と都営6500形登場が早まったかも。
2019年
  • 当初は4月開業予定
  1. 同年のラグビーW杯と重なる。
  2. 上記同様目黒線8連化が早まる。
    • 東急3020系・相鉄20000系が2017年登場。
      • 相鉄側は創立100周年の意味合いもある為。
    • 上記の都営6500形登場も早まったかも。

西武秩父線

昭和初期
  1. 池袋線との境界は吾野ではなく飯能だったかも。
    • 通称「吾野線(飯能~吾野間)」を秩父に延長した後「秩父線」に改名。
  2. 現実よりトンネルが少ない。
  3. 武州鉄道汚職事件はなかった。
  4. ED60の西武バージョンが登場する。
  5. 武蔵野鉄道デハ5500形(開通時)の新製数が多い。
    • デハ5550形・サハ5650形・サハニ5753形の事か。
  6. 開通時から秩父鉄道と直通している。
  7. 戦後小鹿野町経由で軽井沢に延伸。
  8. 西武5000系は601系ベース(電磁直通ブレーキと空気バネ台車を全車装備)で1963~64年に登場。
    • 801系は1970年代まで大量生産された。
1989年
  1. ライオンズの選手が開業記念イベントに登場した。
  2. 貨物列車は運行されなかったか、史実より本数が少なかった。

京成成田空港線

1990年代
  1. =当初から成田新幹線代替のルートが北総線延伸案を採択した場合。
    • JRや京成本線は成田空港に乗り入れていない。
      • 一部ではJRの労組の組合員が三里塚闘争のシンパだったので建設させたくなかったという陰謀論がささやかれる。
      • 京成本線との連絡線は史実通り開業していたんじゃないだろうか(船橋とか津田沼からのアクセスもあるし)。どのみち旧来の成田空港駅は東成田に改称されてそのまま放置。
  2. 北総鉄道の運営になっていた。
    • 当時はまだ小室以西を都市基盤整備公団が保有していたので、その辺りの調整に若干手間取っていたかもしれない。
  3. 当初の最高速度は100km程度か。
2000年
  1. JRと京成本線の乗り入れは暫定的に開業していた。
  2. 2002年10月のダイヤ改正でエアポート快特が快速に格下げされて、京成成田で打ち切られることもなかった。
  3. 京成3700形電車と住宅・都市整備公団9100形電車が史実よりも多く増備されていた。
  4. AE100形電車は2000年までにリニューアル化され、増備されて、スカイライナーとして、運行されていた。
    • AE形電車 (2代)の登場が史実よりも遅れて登場していた。
  5. 北総鉄道の印西牧の原~印旛日本医大間の開業と同時に開業していた。
  6. 成田ニュータウンの整備が史実よりも進んでいた。

相鉄いずみ野線(いずみ野~湘南台)

1970年代
  1. その場合、1976年と同時に開業していたか、1978年~1980年あたりに開業していた。
  2. 1990年に香川駅まで開業し、1999年に平塚駅まで開業していた。
  3. 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの開設も史実より早まっていたかもしれない。
  4. 相模鉄道は1970年代もしくは、1980年代に大手私鉄としての認定を受けていた。
  5. 横浜市泉区の人口が史実より多くなっていた。
  6. 1990年代には、相鉄本線とともに特急が運行されていた。(史実では、2014年に運行され始めた。)
1990年
  1. 1999年に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス周辺までに延伸開業していた。
    • その際、「藤沢遠藤」駅になっていた。
  2. 無論、横浜市泉区の人口が史実よりも多くなっていた。
  3. 相鉄の湘南台駅は高架駅になっていたかもしれない。

相鉄・JR直通線

  • 史実では、2019年11月30日に開業しました。
国鉄時代
  1. 国鉄205系電車が乗り入れていた。
  2. 新横浜駅~羽沢横浜国大間の開業も史実よりも早まり、東急新横浜線の開業も早まっていた。
1990年代
  1. 池袋駅まで運行していた。
  2. 相鉄8000系電車が乗り入れ対応になっていた。
  3. 湘南新宿ラインの横須賀線直通か東海道線直通のどちらかが代わりに相鉄線直通になっていたかもしれない。
2000年代
  1. 湘南新宿ラインの開業が史実よりも早まっていたら、あり得た。
  2. 東急新横浜線も2019年頃に開業していた。
    • 後で、計画が加わってできたものなので、史実通りに、2022年頃に開業していた可能性もあり得る。
  3. 2009年3月頃に開業していた場合、相鉄11000系電車が埼京線に乗り入れていた。
    • 12000系電車の登場は史実通りだが、20000系電車の登場は史実よりも遅れて、登場していたかもしれない。
    • 国鉄205系電車が相鉄線を走行する光景を見ることができた。
    • 埼京線のE233系の導入は中央線と同じく2006年頃になっていたかもしれない。
2010年
  1. 相鉄11000系電車が埼京線に乗り入れ、史実よりも多く増備されていた。
  2. 2010年12月のダイヤ改正で開業していた。
  3. 翌年の東日本大震災の影響で一時的に直通運転を取りやめていた。
  4. 2014年3月のダイヤ改正or2015年3月のダイヤ改正で増発され、いずみ野線にも乗り入れていた。
    • その際に相鉄12000系電車が登場していた。
  5. 後は2000年代に開業した場合と同じ。
2015年
  1. 12000系電車の登場が史実よりも早まっていた。
  2. 2017年3月or10月のダイヤ改正で増発していた。
    • いずみ野線にも乗り入れていた。
    • 埼京線新宿以北・川越線への乗り入れが日中でも実施していたどうかは怪しい。
  3. 東急新横浜線が2019年頃に開業していた。
    • 2019年のラグビーワールドカップの開催に合わせて、開業していた可能性が高い。
    • もしくは、予定通りに2022年頃に開業していた可能性もあり得る。
  4. 首都圏にとって、上野東京ラインの開通とともに、重大な出来事として注目されていた。
  5. 相鉄沿線の地価が高騰化していた可能性が高い。
2017年
  1. 相模鉄道が創立100周年という記念すべき年と重なって開業していた。
  2. 相鉄12000系電車の登場が史実よりも早まっていた。
  3. 2017年3月か10月のダイヤ改正で開業していた。
2019年3月の場合
  1. 横浜国立大学へ通う学生にとって、便利になっていた。

小田急電鉄

小田急多摩線

1940年頃
  1. 終点が陸軍造兵廠だった。

地下鉄

東京メトロ副都心線

1960年代
  1. 西武の乗り入れはなかった。
    • 箱根や軽井沢の開発競争を見ると絶対にあり得ない。
    • さらに渋谷駅周辺の西武百貨店は西武鉄道とは全くの別会社のため。
  2. 東武の電車は全て渋谷止まり。東急の電車は全て池袋止まり。
  3. 東急の主張で車両は18m。
    • 日比谷線同様東急の先見のなさとして語り継がれる。
      • でも日比谷線ほどカーブがキツい訳ではないからあっさり20m化対応をしていたと思う。
    • この場合東武は有楽町線開業時に直通を打ち切ったか。
  4. 池袋東急が現存している。池袋東武が史実通りならば東急ハンズの位置に移転かもしれない。池袋丸物は池袋近鉄ではなく史実通りパルコになる。
1990年代
  • ちなみに有楽町新線(現副都心線小竹向原-池袋間)の開業は1994年である。
  1. 東急9000系の乗り入れがあった。
    • 当初から東武・西武両線乗り入れを考慮している。
  2. 発車音はブザーのみ。
    • 池袋以南の壁面デザインも営団タイプのものになっていた。
      • 初期の駅名標は南北線と同様のデザインになっていた。
  3. 池袋駅が「新線池袋」と呼ばれることはなかった。
  4. 要町・千川では最初から客扱いを行っていた。
  5. 埼京線の渋谷駅が山手線ホームに隣接していた
  6. 森林公園始発や飯能始発などの桜木町行きが存在した。
    • 当時の東急東横線のホーム有効長を考慮し、東武9050系(現実より多く製作されたと思われる)と西武6000系前期車に、8両固定編成が存在していた。
  7. 東武東上線の地上車完全10両編成化は行われない。
  8. E231系500番代の6ドア車は存在しなかった。
    • 無論600・4600番代も同様。
    • 山手線は2005年頃に全駅ホームゲート設置を完了している。
2000年代前半
  1. みなとみらい線開業と同時期に開業していた。
    • 同時に東急東横線・みなとみらい線に直通運転していた。
  2. ダイヤに関しては現実とあまり変わらない。
  3. 営団地下鉄としては最後の新規路線となった。
  4. 1990年代と同じ東急9000系の乗り入れがあった。
    • 時期によっては東急3000系も。
  5. この頃になると発車メロディもそれぞれの駅につけられるようになった。
  6. Fライナーも2006年頃には存在した。

東京メトロ丸ノ内線

昭和10年代
  1. 車両の大きさは銀座線と全く同じ。
  2. 池袋ではなく大塚が終点になっていたかもしれない。
  3. 営業列車でも銀座線直通があった。
  4. 車両は史実ほど派手な塗装ではない。
  5. 一部区間は防空壕としての使用も想定される。
  6. 東京高速鉄道の計画通りにこちらが「新宿線」を名乗った可能性もある。

東京メトロ南北線

1980年代
  1. 当初の答申通りなら有楽町線や半蔵門線より先に開業していた。
  2. ホームドア設置、ワンマン運転はなかった。
    • 21世紀に入ってゲートタイプのホームドアが設置されワンマン化していた。
    • 1984年以降開業なら最初からあったかもしれない。
  3. 開業時の車両は千代田線の6000系に準じた7000系だった。
    • 21世紀に入って07系が導入される。
    • 有楽町線車両は8000系・08系、半蔵門線車両は9000系・09系になっていた。
  4. 埼玉高速鉄道ももっと早く開業していた。

都営地下鉄大江戸線

1980年代
  1. 20m車8両編成で運転されていた。
    • その分東京都交通局への負債も増加する。
    • 浅草線ではなく三田線と規格を共通化していたかもしれない。
  2. 放射部よりも環状部が優先的に建設される。
    • 下手をすると新宿以西は別路線か浅草線の泉岳寺-西馬込間のような状態になっていた。
      • もしかしたら江古田から地上に出て西武池袋線に乗り入れをしていたのかもしれない。
  3. ほぼ間違いなく「大江戸線」という路線名にはなっていない。
    • 「内都心線」だったりして。
  4. 1989年に練馬~光が丘間が開業した場合、当路線が日本初の鉄輪式リニアモーターミニ地下鉄になっていた。
    • 1996年末までに練馬~新宿間が開業していた。
1990年代前半
  • 1991年に練馬〜光が丘間で12号線として開業しましたが、もし同時期に全線開通していたら…
  1. 12-000形の白い塗装車は現実より遥かに多くなっていた。
    • 1990年代後半ぐらいに増発された場合、非塗装車が製造されても現実より非塗装車の影は薄かった。
    • 2008〜2009年頃には既に12-600形が存在し、2019年度内に12-000形は全部廃車になっていた。
    • あるいは12-000形を大規模改造していた。
  2. 汐留駅も遅くとも1998〜1999年頃には開業していた。
    • その場合、東新橋駅とかになっていたかもしれない。
    • そのため、ゆりかもめの汐留駅も現実よりも早く開業していた。
  3. 浅草線のエアポート快特も最初から大門も停車していた。
  4. 「大江戸線」という名前になっていたかどうかは微妙。
  5. 一部の駅の名前が違ってたかもしれない。

埼玉高速鉄道

1980年代
  1. バブル時代なので一気に蓮田駅まで開業していた。
    • 今頃、羽生駅延長も計画していただろう。
  2. 浦和美園の開発も早まる。
    • 浦和美園ではなく新浦和と名乗っていた可能性もゼロではない。
      • ゼロでしょ。浦和から遠すぎるし・・・
      • むしろ浦和市内に浦和が付かない駅が出来ていた可能性が高い。
  3. 赤羽岩淵ではなく王子か池袋あたりが起点となっていた。
    • 後者の場合は副都心線との直通を行っていた。
    • 逆に営団が東川口まで造り、以北が埼玉高速鉄道という可能性もある。
1990年代
  1. 早くても、1992年頃に開業していた。
    • 1991年11月に営団南北線(駒込~赤羽岩淵間)と同時に開業していた可能性が高い。
  2. 2001年に岩槻まで延伸開業していたかもしれない。
    • 2002年のFIFAワールドカップに控え、埼玉スタジアム付近までに開業していた可能性もあり得る。
  3. 浦和美園駅周辺の開発は史実よりも進んでいた。
  4. 開業を機に、営団南北線は6両編成で運行されていた。
  5. 埼玉高速鉄道2000系電車は史実よりも多く製造されていた。

東葉高速鉄道

1960年代
  • 営団地下鉄(東京メトロ)東西線と同時期に開通していたら?
  1. 営団地下鉄(東京メトロ)勝田台線として開通を果たし、今のような高額運賃になることはなかった。
  2. 京成電鉄のバイパス線としての役割を果たせていただろう。
1970年代後半
  1. 開業当時の車両は営団7000系の車体構造・走行機器類、京成3500形の内装を組み合わせた車両だった。
  2. 運賃は現実よりわずかに安い。
1990年代前半
  • 当初の開業予定は1993年春に開業する予定でした。
  1. バブル期と重なっていたので、沿線における開発が史実よりも進んでいた。
  2. 東葉高速鉄道1000形電車の運用が史実よりも若干長く運用されていた。

横浜高速鉄道みなとみらい線

1980年代
  1. 1985年以降に開業していた。
  2. 1989年に開催された横浜博覧会を機に、臨時列車が運行されていた。
  3. 駅名は開業当時に「高島駅」「みなとみらい中央駅」「北仲駅」「県庁前駅」「元町駅」になっていた。
    • 各駅のホームは、20m車10両分設置可能な空間が、建設時から確保される。
    • みなとみらい中央以南は横浜ベイブリッジ開通後に建設。
      • 横浜市営地下鉄3号線関内~山下町間建設(史実では中止)は、'73年9月に変更された予定ルートの本町通りが、横浜港へのトラックが多く通行し、3号線建設工事による渋滞が懸念され、ベイブリッジ開通まで着工が延期されたため。
    • 遅くても1999年(横浜開港140周年)までに本牧まで延伸。
  4. 東急東横線菊名~横浜間は、みなとみらい線の開業と同時に保安装置がATCに移行。
    • みなとみらい線の保安装置は開業当初からATC。
    • 東急8090系は当初から先頭車に貫通扉が設置された(当初からATCの搭載を考慮)、8590系は存在しない。
    • 8500系の後期車は8090系と同じ構造に。
    • 開業当初自社保有の車両はそれと同型だった。
  5. 東急東横線ではなく、JR横浜線と直通運転をしていたかもしれない。
    • もしくはJR京浜東北線。
1990年代
  1. 駅名と路線名は史実通り。
  2. 横浜高速鉄道Y500系電車と東急5000系電車の登場が史実より早まっていた。
    • 田園都市線への5000系電車の投入は予定通り250両となっていた。
      • 田園都市線には、5050系電車が投入していた。
    • その代わりに、2020系電車の投入はなかったか、もしくは、史実より遅れていた。
    • 東急3000系は史実の300系が名乗った。
  3. 1998年までに開業した場合、横浜ベイスターズの日本一で祝賀列車が運行されていた。
  4. みなとみらい線の各駅は、当初からユニバーサルデザインを考慮している。
  5. 横浜駅の横須賀線、湘南新宿ラインホームの拡張工事の完成が史実よりも早まっていた。
    • 東急東横線の跡地に遊歩道が史実よりも早く出来上がっていた。
2001年
  1. 横浜高速鉄道Y500系電車と東急5000系電車の登場が2001年に早まっていた。
      • 5000系電車は東横線で運用され、5050系電車は5050系電車で運用されていた。
  2. 時期的に埼玉高速鉄道の開業と重なった。
  3. 開業と同時に東横線の特急の運行が開始されたか、開業に見越して、1997年3月か1999年3月のダイヤ改正で運行が開始されていた。

横浜市営地下鉄ブルーライン

あざみ野~新百合ヶ丘間が別の時期に開業していたら

史実では、2030年度に開業予定。

2000年代
  1. 3000S形が史実よりも多く製造されていた。
    • 場合によっては、3000N形電車と3000R形電車が史実よりも多く製造されていた可能性もあり得る。
  2. 2008年に開業した場合、グリーンラインの開業と同時になっていた。
    • グリーンラインの開業が2001年~2006年頃に早まっていた可能性もある。
  3. 快速運転の開始が史実よりも早まっていた可能性もあり得る。
2010年代
  1. 3000V形の登場が史実よりも早まっていた。
  2. ヨネッティー王禅寺付近を通る「東側ルート」で開業していた。
  3. 東急田園都市線の混雑がさらに激しくなっていたかもしれない。
1990年代
  1. 新横浜~あざみ野間の開業が史実よりも早まっていた。
    • 横浜~新横浜間or上永谷~戸塚間の開業が史実よりも早まっていたかもしれない。
  2. 港北ニュータウンは史実よりも発展していた。
    • モザイクモール港北、港北 TOKYU S.C.の開業が史実よりも早まっていた。
  3. 2002年におけるFIFAワールドカップ応援の企画はどうなっていたのであろうか?
上大岡~伊勢佐木長者町間が別の時期に開業していたら

1949年、横浜市が発表した「横浜市建設計画概要」の高速鉄道の建設で、横浜~高島町~桜木町~磯子~杉田~金沢~鎌倉~大船~戸塚~中山~綱島~市場町~生麦~横浜間の環状線と、桜木町~弘明寺間の分岐線の計画が盛り込まれた。

1959年
  1. 同年の横浜開港100周年・横浜市政70周年を機に、開業した。
    • 市政ではなく市制。
  2. 当初の車両は営団(のちの東京メトロ)300・400・500形と似たもの。形式名は「2000形」辺り<既存の市電との兼ね合い,2000年(当時の近未来)を目指す意味合い>。
  3. 郊外私鉄との乗り入れは一切考えない。
  4. 1964年に新横浜~伊勢佐木長者町間、1960年代後半に上大岡~上永谷間が延伸開業する。
    • 港北ニュータウンの開発が多摩ニュータウンと同時期になり、(あざみ野ではなく)たまプラーザ~新横浜間が1970年代前半に延伸開業。
    • 上永谷~戸塚間は1970年代後半、新百合ヶ丘~たまプラーザ間は1980年代前半に延伸開業。
    • 戸塚~湘南台間は1989年(横浜市制100周年、横浜開港130周年)に延伸開業(下飯田~湘南台間は当初から、相鉄いずみ野線の乗り入れを想定した構造)。
  5. グリーンラインは2000年頃に開通した。

横浜市営地下鉄グリーンライン

構想自体は1960年代からありました。

1980年代
  1. 2000形電車と同じタイプが運行されていた。
  2. 2000年代には、中山~元町・中華街間が開業していた。
2000年代前半
  1. 無論、東急目黒線の武蔵小杉~日吉間の開業が史実よりも早まっていた。
  2. センター北駅とセンター南駅周辺にある商業施設の開業が史実よりも早まっていた。
  3. 2002年までに開業した場合、FIFAワールドカップの開催によって、ラッピング列車が運行されていた。
  4. 2004年以降にブルーラインのあざみ野~新百合ヶ丘間が開業していた。
1990年代
  1. 港北ニュータウン計画の一環として、実施されていた。
  2. 東急目黒線の武蔵小杉~日吉間の開業が史実よりも早まっていた。

東京メトロ半蔵門線

当初の予定では、1975年9月に渋谷~三越前間が完成する予定でしたが、沿線の地権者による反対運動により、予定が大幅に遅れました。

渋谷~三越前が1970年代に開通していたら
  1. 営団08系電車が開通時に登場していた。
    • 営団8000系では。東急8500系借り入れはなかった。
  2. 水天宮前までの延伸が1980年代に、押上までの延伸が1990年代に実現していた。
    • 押上延伸と同時に東武伊勢崎線館林まで・日光線南栗橋までの相互直通運転が開始されていた。
半蔵門~三越前間の開業が1988年頃までに開業していたら
  1. 1987年までに開業していたら、営団車両による10両編成の運転が開業時に実施されていた。
  2. 当路線が平成で初めての鉄道路線の延伸となることはなかった。
  3. 押上までの延伸は1990年代に実現し、同時に東武伊勢崎線館林まで・日光線南栗橋までの相互直通運転が開始されていた。
水天宮前~押上間の開業が1990年代に開業していたら
  1. 北千住駅の改良工事が完成した1997年かそれ以降に開業していた。
  2. 営団08系電車と東武50000系電車の登場が史実よりも早まっていた。
    • 場合によっては、50000系電車は東上線ではなく、本線に投入されていたかもしれない。
  3. 2000年代前半には、相互直通運転区間が久喜駅までに延長されていた。
  4. 急行「しもつけ」、「ゆのさと」、「きりふり」への特急格上が史実よりも早まっていた。
水天宮前~押上間の開業が2000年か2001年に開業していたら
  1. 営団08系電車が2000年1月か2001年1月に運用開始していた。
  2. 2001年に開業した場合、東武伊勢崎線越谷~北越谷間高架複々線化の完成と同時期であった。
  3. 久喜駅までの乗り入れが2003年3月に早まっていたかもしれない。
    • 開業と同時に乗り入れていたかしれない。
    • 当時の久喜駅の配線の都合で開業と同時に館林まで直通していたか(館林分断も同時に)。
      • そうなると久喜~館林間の沿線開発の進行が現実以上だった。

都営地下鉄三田線

目黒-三田

1973年
  1. 都営6000形が東急に乗り入れていた。
    • 現実以上に導入されていた。
    • 10-000形試作車はどうなっていたか?
  2. 東急8000系が現実以上に導入されていた。
  3. その前に目蒲線が分離されていた。
1980年代
  1. 都営6000形が東急に乗り入れていた。
    • 6300形登場が早まっていた。
      • 恐らく時期によっては5300形類似箇所が多かったかも。
  2. 東急8500系が現実以上に導入されていた。
    • 9000系の地下鉄乗り入れが実現していたかも。
      • もしかすると現実以上に導入されていたかも。
  3. 目蒲線分離が10-20年ほど早まっていた。
1995年
  • 当初は10月開業予定
  1. 東急9000系の地下鉄乗り入れが実現していたかも。
    • あるいは2000系派生車が多く導入されていたかも。
    • 新3000系は増発用で導入か。
  2. 都営6000形が延命され東急乗り入れが実現していたかも。
    • 6300形登場が早まっていたかも。
  3. 目蒲線分離が5年ほど早まっていた。

その他

つくばエクスプレス

1890年代
  1. 日本鉄道運営。
  2. 終点駅は秋葉原駅ではなく上野駅か日暮里駅。
    • つくば(「竹園」?)から先は現実の筑波鉄道のルートで岩瀬まで伸びていた。
  3. 東京上野ラインの計画はこの列車も含まれていた。
  4. 要するに北千住-土浦付近の海岸線(現常磐線)のルートが変わっただけ。
    • 当時はまだ平行線を走らせるほどの需要はなかったはず。
    • 常総線と竜ヶ崎線は守谷が起点だった。
  5. 全区間踏切なし・全駅ホームドア付きの近代的な路線にならず、130km運転もなかったかも。
1970年代
  1. 車両は415系だったか?
    • 直流区間はなぜか70系。
    • むしろ101系や401系の溜まり場に。
  2. さすがに廃止対象にはなっていない(はず)。
  3. 常磐線と接続され特急や急行も走っていた。
    • 上野駅などでは誤乗防止のため「筑波経由」「取手経由」などという案内がされていた。
  4. 筑波鉄道は史実より数年早く廃止された。
    • 筑波以北は残っている気がする。
1980年代
  1. 車両は415系(といっても顔が211系のほう)。
    • 113系を改造したものは無いだろう。
      • ここじゃあるまいし。
  2. 国鉄の緊縮財政で北千住止まり。
    • 秋葉原延伸は民営化後。
      • むしろ南千住まで複々線化用地を確保して打ち止めになる。
        • 地下化するにしても史実のようなルートにはならないと思う。
    • 国鉄ではなく地元などが出資した3セク会社だった可能性もある。
  3. 開業はつくば科学万博の直前。
    • つくば科学万博のメインアクセス路線として大活躍し、入場者数も現実以上に多かった。
2000年代前半(2000年も含む)

当初の計画では2000年に開業予定でした。

  1. TX-1000系電車、TX-2000系電車の登場は史実通り。
  2. 2004年に放映された大河ドラマ「新選組」をきっかけに、流山市に訪れる人が史実より多かった。
    • これを機にラッピング列車が運行されていたかもしれない。
  3. 2003年に開業した場合、圏央道の一部開通と同時期であった。

りんかい線

1960年代
  1. 東京オリンピックの開発になっていたか怪しい。
    • 当時は何もないので明らかに貨物列車向けなので。
  2. トンネルはそんなに長くないような気がする。
  3. 京葉線の開業も早まる。(とは言っても貨物列車での開業)
  4. 臨海副都心は貨物駅跡地の再開発名目で建設されていた。
    • というわけで史実通り旅客化される。
  5. 当然ながら国鉄線としての開業。
    • 京葉線の一部になっていたか、そうでなければ「東京臨海線」といった名前になっていた。
1980年代
  1. 東京臨海高速鉄道として開業か、JRで開業する理由で揉めるのか?
  2. JRで開業していたら、埼京線か京葉線の路線になっていた。
  3. 開業当初は貨物列車が中心になる。
    • 駅名も「13号地」などの無味乾燥としたものがメインになる(後に改称)。
      • 南八潮→品川シーサイド、東品川→天王洲アイル、13号地→東京テレポート、10号地→国際展示場、11号地→東雲、新木場(当初から)か。
  4. 埼京線は開業初期からりんかい線と直通運転してた。
  5. 車両は1980年代前半の場合は201系、1980年代半ばか後半の場合は205系をベースにして製造してた。

箱根登山鉄道

1870年代
  1. 東海道本線の支線になっていた。
    • 1879年末の時点でも開業区間は新橋-横浜、京都-神戸しかなかったのでそれはない。
      • 省線が箱根を直接経由しようとした準備云々としてならまだ可能性はあるんじゃないの?
  2. 箱根の観光開発は史実よりも早く行っていたか。
  3. 当時の技術では建設できなかった公算が大きい。
    • ヨーロッパの似たような地理的条件の登山鉄道ができたのは古くても19世紀末から20世紀初頭くらい。
    • 本当に開業していたら「19世紀後半の特筆すべき鉄道技術の金字塔」などとして世界遺産に登録されるのは確実。
    • 少なくとも箱根湯本までは作れると思うんだが・・・。
    • ラックレール式鉄道の確立前になるから、箱根湯本から先はケーブルカーになっていた可能性が高い。
1930年代
  1. 小田原急行電鉄が建設していた。
    • 場合によっては社名が「箱根急行電鉄」になっていた。
    • 箱根湯本までは最初から狭軌の線路しか敷かれていない。
      • 逆に小田急が標準軌で建設されていた場合は千代田線の直通相手が変わっていただろう。

鹿島臨海鉄道大洗鹿島線

1930年代
  1. 史実の鹿島線に相当する区間も同時に開業。
    • 水戸-香取が1本の省線となっていた。
  2. 鉾田では鹿島参宮鉄道(のち鹿島鉄道)と乗り換えられた。
  3. 茨城交通水浜線の寿命は確実に縮まっている。
  4. 東京か両国-千葉-佐倉-鹿島神宮-水戸のルートに急行(のち特急)が運転された。
    • 名称は「かしまなだ」か。
  5. 鹿島臨海工業地帯の計画内容が大きく変わっている。
  6. 神栖線も旅客化されていた。さらに銚子方面への延伸も検討される。
  7. 智頭線は国鉄時代に開業していた。

北総鉄道

1930年代
  1. ニュータウンがない変わりに印旛沼あたりに大浴場や野球場が存在した。
  2. 京成グループじゃなかったかもしれない。
  3. 自力で都心や山武方面に延伸していたかもしれない。
    • さらに自力で成田まで延伸し、空港直通の輸送にも携わっていた。
  4. 下記同様、運賃はそこまで高くない。
1970年代前半
  1. 開業当初はリース車両のみの保有だった。
  2. 千葉ニュータウンへのアクセスが重要視されたため史実とは異なり京成高砂から開業していた。
    • よって新京成との乗り入れはなかった。
    • 最初から東京方面に直通していたため、運賃があそこまで高額になることはなかった。
  3. 成田空港への延伸は約20年後に実現。都営5200形は大量増備地下鉄1号線の8両化が10年程早く進んだ。京浜急行を含む4社局乗り入れが70年代後半に実現。但し暫くは朝時間帯が殆ど。
    • 成田空港まで延伸されても北総線のまま。空港第2ビル・成田空港両駅の中間改札は(京成グループ内)別会社のためにある,とされる。後に撤去されない。
    • AE100形以降のスカイライナー車両は北総鉄道が所有。大規模な検査は宗吾工場で。

千葉急行電鉄

1960年代
  1. 小湊鉄道の路線として開業していた。
    • 千葉駅まで乗り入れていた場合、史実の車両は一掃されている可能性が高い。
1970年代前半
  1. 市原ニュータウンの開発は進んでいた。
  2. 破綻することもなかったかもしれない。
1930年代
  1. 京成が「両総(上総と下総を結ぶ)急行鉄道」の様な子会社をつくり、そこが建設した。
    • 開業当初の車両は京成200・210形と同型車両だった。
    • 戦時統合で京成に吸収された、その際に路線名称が千葉線に統一。
  2. 途中白井村(現在の千葉市若葉区)を経由、旧白里町辺りが終点だった。
    • 京成は海水浴輸送に注力した、戦前から京成上野~京成津田沼~京成千葉(現在の千葉中央駅)~白里間に急行が走った。
    • 海士有木方面へは白井村で分岐していたかも。
1980年代
  1. 中断することなく、真面目に工事を行っていたら、開通することができた。
  2. 1980年代後半に千葉中央~大森台間が開業し、1990年代前半に大森台~ちはら台間が開業していた可能性もあった。
    • 大森台~ちはら台間が1991年3月に開業していたら、京成電鉄にとって、大規模なダイヤ改正になっていた。
  3. 京成3600形電車と京成3700形電車と京成3400形電車の投入が史実よりも早まっていた。
    • 京成3700形電車と京成3400形電車が史実よりも多く製造されていたかもしれない。
    • 開業が1988年以降になったら、京急から旧1000形電車をリリースしていた。
  4. 予定通りに、1997年4月に千葉中央~大森台間が複線化されて、2000年4月に大森台~ちはら台間が複線化されていたかもしれない。
  5. 千葉急行電鉄の経営状態は若干マシになっていたのかもしれないが、それでも、1998年10月に京成電鉄に譲渡されていた。
  6. それでも、海士有木への延伸計画は難航していたであろう。
    • 辰巳台までの延伸は実現していたかもしれない。

ドリーム交通

1980年
  1. 日本跨座式モノレールの企画で開業されていた。
  2. ドリームランド周辺がドリームハイツ以外もニュータウン化されていた。
  3. ダイエーグループではなくかなちゅう相鉄小田急が出資していた。
  4. 大船〜ドリームランド間は小雀駅、相模原宿駅、相模深谷駅もできていた。
  5. 開業から数年後、長後や綾瀬市を経由したルートにて延伸開業が進んでいた。
    • そうなれば並行する神奈中バスの路線も再編されていた。

多摩都市モノレール

上北台~箱根ヶ崎間

2019年
  1. 念願の鉄道が開業したことにより、武蔵村山市にとって、喜ばしい年であった。
  2. 遅くても、10月頃までに開業していた。
  3. 町田方面の延伸計画に力を注いでいた。

立川北~上北台間

1990年代前半
  • 当初の開業予定でした。
  1. 時期的にファーレ立川の開業と重なっていた。
    • 立川駅周辺における開発も史実よりも進んでいた。
  2. 2000年までに上北台~箱根ヶ崎間が開業していた。

立川南~多摩センター間

1970年代前半
  1. 多摩ニュータウン周辺の交通整備事業として建設された。
    • 史実通り日本跨座式が採用された。
    • 東京都地下鉄建設」に相当する東京都系の企業が約20年早く設立され、社名が「東京都交通開発」辺りになる。
      • 1970年代以降に建設された都営地下鉄の区間(新宿・大江戸線の全線)と日暮里・舎人ライナーはそこが建設主体に。
    • 姫路モノレールのように東京都交通局の直営となった。
    • おそらく「東京都交通局のモノレール構想」、「環5モノレール線」も実現していた。
      • 東京都交通局は跨座式と懸垂式のモノレールを保有する珍しい交通事業者となった。
  2. 「立川南」駅は開業当初「立川」駅を名乗った。
  3. 現実より運賃は安くなっていたか。

千葉都市モノレール

1970年代
  1. 当初の車両は湘南モノレール300形ベースだった。
  2. 最初の開通区間はどうなっただろうか。
  3. 1号線は現実の千葉急行電鉄の代わりに、県庁前駅から千葉寺駅を経由、以降現実の千葉急行電鉄のルートで延長されていた。
    • 株主に千葉中央バス・小湊鐵道(両社共に京成系列)も加わっている。

日暮里・舎人ライナー

※当初の予定では、1999年度、2002年度に開業する予定でしたが、諸事情により、2008年3月に伸びました。

1990年代
  1. 当初から建設と運営主体は東京都になっていた。
  2. 都営バス里48系統は廃止されていた。
  3. 330形電車は300形電車の置き換えとして、投入されていた。
  4. 2010年代末には埼玉県への延伸が実現していたかも。
2003年
  1. 300形電車が史実よりも多く製造されて、混雑が若干緩和されていた。
    • 場合によっては、330形電車と320形電車が投入されることはなかったかもしれない。

宇都宮ライトレール

全般
  1. 開業時期によっては宇都宮市などの沿線自治体は経営に関わらなかった。
    • 戦前に開業した場合戦時統合で他社と合併していた。
      • 停留所名に片仮名は入らなかったかも。
      • 鉄道敷設法の通り国有化された可能性も。
        • 東武系列になっていた可能性もある。
  2. 軌道ではなく鉄道扱いだったかも。
1900年代
  1. 開業当初の社名は「芳賀軌道」。
    • 「日本鉄道(→省線)宇都宮駅と芳賀地域の連絡」が建設目的とされた。
    • 当初は非電化だったが、昭和に入った頃に電化。
  2. のちに宝積寺と烏山を経由して大子まで延伸していたかも。
    • この場合省線(現在のJR東日本)烏山線は存在しなかった。
  3. 戦時統合で関東自動車と合併し、合併会社が「栃木交通」を名乗った。
1930年代
  1. 開業当初の社名は「常野電気軌道」。
  2. 下竹下から先は北(旧南高根沢村)ではなく東(旧水橋村)に向かっていたかもしれない。
    • 当初の終点が水橋村内だったかも。
    • 清原村の宇都宮市への編入時期が現実より遅かったかも。
    • 将来的に、水橋村から七井経由で茨城鉄道沿線のどこかで直結(茨城鉄道・水浜電車と一体化させ、宇都宮~水戸間直通運転を目指す)する壮大な構想だったかも。
      • 加えて水橋村から市塙・烏山経由で常陸大子まで延伸する分岐線構想が出たかもしれない。
    • そのため建設当初から狭軌路線だったかも。
    • (宇都宮~水戸間が開通できた場合)戦時統合で発足した「茨城交通」は「常野交通」という社名だったかも。
      • この場合戦時統合で関東自動車に吸収された会社のうち幾らかが常野交通に吸収された。
  3. 戦時中は陸軍飛行場への輸送で活躍した。
1940年頃
  1. 国が上記の陸軍飛行場連絡の為建設。
1980年
  1. 栃の葉国体に合わせ開業。
    • 開業が1979年に早まった可能性も。
  2. モノレールで開業。
  3. ホンダキヤノンカルビーなどの工団進出企業が主要株主になっていたかも。
    • 栃木県資本が当初から入っていたかも。
    • 東武や栃木の関東バス資本も現実より多く入っていたかも。
  4. 栃木SCラッピング車が走っていたかも。
  5. 宇都宮駅は新幹線駅と一体整備され駅中央部2階に発着している。
    • 自由通路や新幹線駅との構造上4階に発着しているのでは?
    • 現駅舎とも一体化。
  6. 2000年頃までに大谷や真岡へ延伸された。
平成期
  1. 富山ライトレールと比較されていた。
    • HU300はTLR0600の3連接版だったかも。
      • 2連接だったらTLRの丸パクリ呼びされるかも。
      • 2020年頃に旧東武日光軌道線の復刻塗装車が走ったかも。
  2. 2010年代に開業した場合、東日本大震災の影響で工期が伸びていたかもしれない。
  3. 2022年か2023年頃に宇都宮駅~大谷間が開業していたかもしれない。
  4. 2014年以降に開業した場合、栃木県のマスコットキャラクターである「とちまるくん」と芳賀町のマスコットキャラクターである「はがまるくん」が開通式に参加していた。
  5. 宇都宮駅東西の再開発が早まったかも。
  6. 上記同様工団進出企業が主要株主になっていたかも。
  7. 時期次第で上記の栃木SCラッピング車が走っていたかも。
  8. 2000年代前半より前だったらモノレールで開業。
2020年
  1. 2020年東京五輪を見越し開業。
  2. おそらく富山の影響を史実より受けた形か。
  3. HU300の登場が早まる。
    • 開業から間もない頃に旧東武日光軌道線の復刻塗装車が走ったかも。
  4. 早ければ2030年頃に大谷や真岡へ延伸されたかも。
  5. 上記同様宇都宮駅東西の再開発が早まったかも。
2022年
  • 当初の開業予定年
  1. とちぎ国体に合わせ開業。
  2. 当然HU300の登場が早まる。
  3. 2020年五輪が東京以外だったかCOVID-19がなかったらありえた。
  4. 上記のように宇都宮駅東西の再開発が早まったかも。

常南電気鉄道

1900年代
  1. 開業当初の社名は「稲敷軌道」。
  2. 当初は非電化だったが1920年代後半に電化。
  3. 戦時中海軍飛行場への輸送強化の為国有化され「霞ヶ浦線」になっていた。
1940年頃
  1. 国が上記の海軍飛行場連絡の為建設。

秩父鉄道秩父本線

羽生-熊谷

1903年
  1. 上武が建設していた。
1943年
  1. 東武熊谷線の一部になっていた。