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==プロ野球== | |||
===全般=== | |||
#投手記録としての「引き分け」 | |||
#*引き分け試合に最後に投げた投手に記録される。 | |||
#MLBで年間263安打以上を記録した選手 | |||
#*一般にイチローが2004年に記録した年間262安打がMLBにおける年間最多安打記録とされているが、実は1887年にピート・ブラウニングとティップ・オニールが年間275安打を記録している。 | |||
#**このシーズンだけ四球も安打と記録していたため(正確には当時のルールでは四球ならぬ「五球」で出塁だった。四球で出塁となったのは1889年以後)。 | |||
#***現在では1887年の四球は安打に算入しない場合が多い。その場合この年の年間最多安打はティップ・オニールの225安打となる。 | |||
#最優秀防御率のタイトルを同率で複数の選手が獲得 | |||
#*2003年のパ・リーグで斉藤和巳と松坂大輔がともに自責点61・投球回数194回の防御率2.83で同率でタイトルを分け合っている。 | |||
#*ちなみに首位打者の同率1位は1969年パと1987年セの2回発生している。どちらも打数・安打が異なっていても率を合わせやすい「.333」だった。 | |||
#キャッチャーライナー(捕直) | |||
#*通常、打球がそのままキャッチャーミットに収まった場合はファウルチップとなるため、キャッチャーライナーは起こりえないと思いきや、他の野手が処理できなかったライナーを捕手が処理した場合はキャッチャーライナーが記録される。 | |||
#**実際に1965年5月11日の巨人対広島戦にて、打者・瀧安治の放った打球が安仁屋宗八投手の膝を直撃し、跳ね返った打球を久保祥次捕手が捕球したため、瀧にキャッチャーライナーが記録された。 | |||
#デーゲーム開催の日本シリーズ | |||
#*ナイトゲームでの初開催は1964年の南海対阪神で、当時の東京オリンピックの妨げにならないように配慮された。 | |||
#**しかし、シリーズでの平均観客動員数は過去最低をマークしてしまった。この影響から1965年以降は再びデーゲーム開催に戻される。 | |||
#*しかし平日開催ともなると会社や学校を休まない限り観戦ができなくなり、さらに視聴率にも影響することから、1994年 (巨人対西武) で、西武球場開催分の第~5試合において試験的にナイトゲーム開催となった。 | |||
#*この評判が高かったことから、1995年 (オリックス対ヤクルト) から全試合に拡大された。 | |||
#*2011年 (ソフトバンク対中日) の第一戦では、放映権を握っていたフジテレビの編成の兼ね合い (ゴールデンタイムにバレーボール中継を放送) でデーゲーム開催となった。 | |||
#*結論、1963年以前と1965~1993年の全日程、1994年と2011年の一部でデーゲーム開催だった。 | |||
#**「1993年以前のナイトゲーム開催の日本シリーズ」も「実は存在したモノ」に含まれることになる。 | |||
#プロ野球の前後期制 | |||
#*1973年から1982年までパ・リーグで行われていた。 | |||
#1983年から1985年まで実施されたパ・リーグのプレーオフ。 | |||
#*1位と2位のゲーム差が5ゲーム差位内の場合、最大5試合のプレーオフを行い勝率はシーズンとプレーオフの試合数の合計で計算というルールだったが、この3シーズンすべて優勝球団が2位に5ゲーム差以上つけての独走だったため1度も開催されず。 | |||
#2006年まで実施されたセ・リーグのプレーオフ。 | |||
#*1位の勝率が2チーム以上並んだ場合、2001年から2006年までは勝率の1位と勝利数の1位が異なる場合にプレーオフを行うことになっていたが、1度も開催されず。 | |||
#セ・リーグ本拠地開催分で指名打者制度が採用された日本シリーズ | |||
#*1985年のみ、全試合で指名打者制度が採用された。 | |||
#AクラスとBクラスが前年と総入れ替え | |||
#*現時点で2014年のパ・リーグの1度のみ。 | |||
#**順位の内訳は、ソフトバンク(前年4位→1位)、オリックス(前年5位→2位)、日本ハム(前年6位→3位)、ロッテ(前年3位→4位)、西武(前年2位→5位)、楽天(前年1位→6位)。 | |||
#一塁ランナーが生還した犠牲フライ | |||
#*1977年4月29日の大洋対阪神戦(川崎球場)で発生。 | |||
#**阪神が7-6と1点リードした9回裏1死1塁、大洋の清水透が打った大きな当たりを阪神のレフト・佐野仙好はフェンスに激突しながらもボールをキャッチしたが、コンクリートが剥き出しだった当時の川崎球場のフェンスで頭部を強打。 | |||
#**佐野はボールを捕球したまま気を失い、左翼線審の田中俊幸は佐野の捕球を確認してアウトを宣告。 | |||
#**阪神の選手・コーチが佐野に駆け寄っている間に、内野に残った一塁ランナーの野口善男がベンチの指示を受けタッチアップ、球場内が騒然とする中をほぼ全力で駆け抜けて本塁に生還。 | |||
#*当初は佐野が清水の打球を捕球した後に他の野手への返球を怠ったと判断され、佐野には捕球による刺殺と送球をしなかったとして失策が記録されていたが、後に記録員の藤森清志の進言により訂正がされ、記録上は1死1塁から清水のレフトへの野選を伴った犠牲フライとなり、清水に打点、野口に得点が記録された。 | |||
#左投げの二塁手 | |||
#*NPBでは鬼頭数雄(1936年2試合)、山田伝(1939年3試合、1940年2試合、1942年1試合)、西本幸雄(1951年1試合)の3人だけが記録している。 | |||
== | ===球団関連=== | ||
* | #近鉄が親会社の球団の「日本一」 | ||
** | #*1リーグ時代の1946年に近畿グレートリング(南海電鉄が近畿日本鉄道から分離する前)が優勝しているが、当時は日本シリーズがなかったので実質日本一ということに。 | ||
* | #**ただしNPBの公式記録としてはホークス(南海・ダイエー・ソフトバンク)の優勝回数にカウントされている。 | ||
** | #***運営会社としては1938年設立の「南海野球」の流れを汲んでいる。 | ||
*** | #***バファローズの運営会社は近鉄から南海が分離された後の1949年設立。 | ||
* | #北海道日本ハムファイターズVS大阪近鉄バファローズ・福岡ダイエーホークス・オリックスブルーウェーブ | ||
* | #*球界再編でよくあやふやになりがちだが、日本ハムの札幌移転は球界再編の1年前なので、2004年シーズンはこれらのカードが存在した。 | ||
* | #**ちなみに2004年9月17日にプロ野球ストライキが決定したとき、近鉄の対戦相手は北海道日本ハムだった。 | ||
* | #東京ドームでの日本ハムファイターズvs阪急ブレーブス・南海ホークス | ||
** | #*東京ドームの開業は1988年なので、これらのカードが存在した。東京ドーム前にある記念碑には阪急・南海のロゴが刻まれている。 | ||
#福岡が本拠地のセ・リーグ球団 | |||
#*1950年に「西日本パイレーツ」という球団が設立されたがシーズン後に西鉄クリッパーズと合併し消滅。 | |||
#ロッテオリオンズvsオリックス・ブルーウェーブ | |||
#*ロッテオリオンズ最後の年となる1991年に、既にオリックスは球団名がブルーウェーブに変わっていたため、このカードが1年間限定で存在した。 | |||
#巨人の最下位 | |||
#*現時点で1975年のみ。この年は前年に現役を退いた長嶋茂雄監督の就任初年度だった。 | |||
#関西球団同士の日本シリーズ | |||
#*現時点で1964年のみ。この年の日本シリーズは「阪神タイガースvs南海ホークス」の関西決戦だった。 | |||
#**当時ホークスは大阪に本拠地を持っていた。しかし、ホークスは数年後にダイエーに身売りされたのち福岡へ移転している。 | |||
#福岡ソフトバンクホークスの最下位 | |||
#*2008年に最終戦で楽天に敗れて最下位になっている。この年限りで王貞治監督は辞任し会長に。 | |||
#西武の最下位 | |||
#*前身となる球団を除けば現時点で1979年のみ。この年は本拠地が所沢に移転後最初のシーズンだった。 | |||
#京都を本拠地とするNPBの球団 | |||
#*1949年に大陽ロビンスが京都市の衣笠球場(現存せず)を本拠地としていた。 | |||
#*松竹ロビンスになった翌シーズンからも名目上は京都が本拠地だったが実際は大阪球場で主催試合を行うほうがずっと多かった。 | |||
===選手=== | |||
;NPB所属選手の国籍・出身国 | |||
#ドイツ出身の選手 | |||
#*元巨人のデーブ・パブラスと元阪神のマイク・ブロワーズが該当。ただしどちらも国籍はアメリカである。 | |||
#イタリア人の選手 | |||
#*元オリックスのアレッサンドロ・マエストリが該当。元阪神のレノ・ベルトイアも該当するが、こちらはカナダとの二重国籍である。 | |||
#スペイン人の選手 | |||
#*元ヤクルトのダニエル・リオスが該当。 | |||
#インドネシア出身の選手 | |||
#*元横浜のトム・マストニーが該当。国籍はアメリカである。 | |||
#**ちなみにMLBに所属経験のある唯一のインドネシア出身の選手でもある。 | |||
#日本生まれのアメリカ人選手 | |||
#*元横浜のスティーブン・ランドルフが該当。沖縄生まれ。 | |||
;NPB所属選手のWBC代表歴 | |||
*本大会に出場した選手のみとする。 | |||
#アメリカ代表選手 | |||
#*元阪神のライアン・ボーグルソンが2013年WBCにアメリカ代表として出場している。 | |||
;ドラフト指名 | |||
#巨人からドラフト1位指名を受け入団拒否した選手 | |||
#*1973年のドラフト会議で巨人のドラフト1位指名を受けた小林秀一(愛知学院大学)は、それを拒否し熊谷組に就職した。 | |||
#**アマチュアの指導者を目指していた小林はすでに熊谷組への就職が内定していたが、指名を受けて気持ちが揺らいでいた。しかし川上哲治監督の「仕事の傍らで野球をするよりもうちで野球に専念してほしい」といった内容の言葉を受け、野球を仕事にするつもりではなかった小林は迷い無く入団を拒否した。 | |||
#**その後、熊谷組で選手として活躍したのち母校である愛知学院大学の監督に就任、現在は同学の准教授を務めている。 | |||
#プロ引退後にドラフト指名を受けた選手 | |||
#*1959年に大毎オリオンズを退団した松井猛はその後日本軽金属、電電北海道で活躍し1965年に中日からドラフト10位で指名されたが入団を拒否している。 | |||
#*なお現在ではプロから社会人野球に進んだとしてもプロ復帰時にドラフトにかける必要はない。 | |||
;その他 | |||
#西鉄ライオンズの榎本喜八 | |||
# | #*1972年にロッテから西鉄へ移籍した榎本喜八だが、この年限りで榎本は現役を引退したため、1972年は西鉄ライオンズの榎本喜八が見られた。 | ||
#* | #ロッテオリオンズの野村克也 | ||
# | #*1978年に南海からロッテに移籍した野村克也だが、この年のオフにロッテの重光オーナーから監督就任を要請されるも固辞し、自由契約に。 | ||
#* | #*翌1979年は西武ライオンズでプレーしたため、1978年はロッテオリオンズの野村克也が見られた。 | ||
#福岡ソフトバンクホークスの城島健司 | |||
#* | #*2005年に福岡ダイエーホークスがソフトバンクに買収され「福岡ソフトバンクホークス」に改称されたが、その年のオフに城島健司はFAを行使し、シアトル・マリナーズへ移籍。 | ||
# | #*そのため、2005年は福岡ソフトバンクホークスの城島健司が見られた。 | ||
#* | #大阪ドーム本拠地時代の近鉄・大石大二郎 | ||
#* | #*1997年に近鉄バファローズが大阪ドームに移転したが、その年のオフに大石大二郎が現役を引退したため、1997年は大阪ドームと大石大二郎の組み合わせが見られた。 | ||
# | #西本幸雄の日本一 | ||
#* | #*20年間の監督生活で8度のリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一の栄冠を獲得できず「悲運の名将」と言われた西本幸雄だが、選手としては1950年の毎日オリオンズで日本一を経験している。 | ||
#巨人と西武の両方で最下位を経験した選手 | |||
# | #*玉井信博(投手。1973~75年まで巨人でプレー、1976年に太平洋クラブ(西武の前身)にトレード、1980年引退) | ||
#* | #**ただし西武時代(1979~80年)は一軍出場はなし。 | ||
# | #千葉ロッテマリーンズ、シアトル・マリナーズ、マイアミ・マーリンズの3球団全てでプレーしたことのある選手 | ||
#* | #*似たような名前で紛らわしいとよく言われるこの3球団だが、エドガー・オルモス投手はこの3球団全てで一軍(メジャー)登板を経験している。 | ||
#* | |||
# | |||
#* | |||
=== | ===監督=== | ||
# | #東京ドーム本拠地時代の日本ハム・ヒルマン監督 | ||
#* | #*2004年に日本ハムが北海道に移転したが、その前年となる2003年にトレイ・ヒルマン監督が就任したため、2003年は東京ドームとヒルマン監督の組み合わせが見られた。 | ||
# | #平和台野球場本拠地時代のダイエー・杉浦監督 | ||
#* | #*1989年に南海ホークスがダイエーに買収・福岡へ移転したが、南海最後の監督だった杉浦忠は留任したため、1989年は平和台野球場と杉浦監督の組み合わせが見られた。 | ||
#* | #藤井寺球場本拠地時代の近鉄・佐々木監督 | ||
# | #*1997年に近鉄バファローズが大阪ドームに移転したが、その前年となる1996年に佐々木恭介監督が就任したため、1996年は藤井寺球場と佐々木監督の組み合わせが見られた。 | ||
#* | #クラウン・根本監督 | ||
# | #*ライオンズは1979年に球団を移転し西武ライオンズとなったが、その前年となる1978年に根本陸夫監督が就任したため、1978年は平和台野球場と根本監督の組み合わせが見られた。 | ||
# | #MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島本拠地時代の広島・ブラウン監督 | ||
#* | #*2009年に広島東洋カープがMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に移転したが、マーティ・ブラウン監督は留任したため、2009年はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島とブラウン監督の組み合わせが見られた。 | ||
# | #オールスターに同一リーグの監督が4人出場、もう一方のリーグは監督が1人だけ | ||
#* | #*2014年のオールスターで、セ・リーグは前年優勝の巨人・原辰徳監督、前年2位の阪神・和田豊監督、前年3位の広島・野村謙二郎監督のほか、中日・谷繁元信選手兼任監督が選手としてオールスターに出場。 | ||
#*また、パ・リーグは前年優勝の楽天・星野仙一監督が病気で出場を辞退、前年2位の西武・伊原春樹監督がチームの不振の為シーズン途中で辞任、代行の大久保博元と田辺徳雄は当時はまだ正式に監督に就任しておらず(両名ともシーズン終了後に就任)、正規の監督は前年3位のロッテ・伊東勤監督ただ一人となり全パの指揮を執ることとなった。 | |||
#日本シリーズとワールドシリーズの両方で指揮を執った監督 | |||
#*ボビー・バレンタインは2000年にメッツでワールドシリーズ、2005年に千葉ロッテマリーンズで日本シリーズで指揮を執った。 | |||
== | ===試合展開=== | ||
== | #両チームノーヒットの試合 | ||
#*1994年4月26日、イースタン・リーグの西武対ヤクルト戦(大宮市営球場)で発生。 | |||
#**ヤクルト先発の山部太、西武先発の竹下潤が共に無安打で完投。試合は5回、ヤクルトが失策で出塁した走者を幸田正広がスクイズで還し1点を挙げ、これが決勝点となり1-0でヤクルトが勝利した。 | |||
# | |||
#* | |||
#* | |||
=== | ==高校野球== | ||
# | ===地域成績=== | ||
#2015年以前の北信越地区の甲子園優勝。 | |||
#*東北とともに優勝未経験地区だったと思ってる人も多いが、長野が1928年夏に松本商(現松商学園)、1954年春に飯田長姫(現飯田OIDE長姫)が優勝したことがある。 | |||
#*2015年春の敦賀気比は「北陸勢」初優勝。 | |||
#2013年以前の埼玉県の甲子園優勝。 | |||
#*春は1968年に大宮工が優勝している。 | |||
#熊本県の甲子園優勝。 | |||
#*県内最多出場・勝利の古豪熊本工が3度の準優勝がありながら優勝ゼロだが、1958年春に済々黌が優勝している。 | |||
#**ちなみにその大会で熊本工もベスト4に進出し、準決勝で済々黌が熊本工に勝利していた。 | |||
#鳥取県の甲子園決勝進出。 | |||
#*1960年春に米子東が準優勝。山陰勢唯一の決勝進出である。 | |||
#東北地区の高校野球全国大会優勝 | |||
#* | #*甲子園では春夏共に優勝がないのは有名だが、明治神宮野球大会高校の部では東北高校が歴代最多の4回優勝を記録するほか、仙台育英と光星学院も優勝歴を有する。 | ||
#* | #中国に所在した学校の甲子園出場 | ||
# | #*戦前に「満洲代表」の枠で青島中・天津商が出場したことがある。 | ||
#* | #**どちらの学校も日本租借地の関東州や満州国ではなく中華民国に所在していた。 | ||
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#* | |||
#* | |||
== | ===チーム記録=== | ||
# | #2015年夏以前の霞ヶ浦高校の甲子園出場。 | ||
#*あと一歩のとこで甲子園に出れない学校として知られているが、センバツは1990年に出場経験がある。 | |||
#2011年春以前の明徳義塾の甲子園初戦敗退。 | |||
#*それまで初戦に強かった明徳義塾が1987年春のセンバツで関東一に負けて唯一の初戦敗退を喫していた。 | |||
#**夏の甲子園は2015年夏まで初戦無敗を継続。 | |||
#大阪桐蔭の甲子園初戦敗退。 | |||
#* | #*2002年夏に東邦に負けたのが現時点で唯一の初戦敗退。これがなければ今ごろ初戦無敗の学校として知られていただろう。 | ||
# | #境高校の甲子園勝利。 | ||
#* | #*2007年夏など甲子園で大敗が多い学校だが、1974年春に長良、1990年夏に八戸工大一に2度勝利している。 | ||
#日大東北の甲子園勝利。 | |||
#* | #*聖光学院が常連になるまで出ると負けの学校として知られていたが、1990年夏に長崎の海星に1度だけ勝利している。 | ||
#選手権14年連続出場 | |||
# | #*2016年に聖光学院が戦後初の10年連続出場を達成したが、黎明期には1915年第1回大会から1928年第14回大会まで和歌山中学(現桐蔭高校)が14年連続出場していた。 | ||
#* | #*聖光学院の連続出場がこのまま継続すれば2020年に和歌山中の14年連続に並び、2021年に歴代最長記録となる。 | ||
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== | ===試合=== | ||
# | #甲子園で市立船橋VS鹿児島実の対戦。 | ||
#* | #*どう見ても高校サッカーにしか見えないカードだが、高校野球でも1996年夏の2回戦で対戦していた(5-3で鹿児島実の勝利)。 | ||
#* | #**ネットが流通した時代に実現していればかなり話題になっただろう。 | ||
# | #箕島VS明徳義塾(当時は明徳)の対戦 | ||
#* | #*箕島VS星稜は1979年夏、明徳義塾VS星稜は1992年夏の対戦が超有名だが、箕島VS明徳(当時)も1982年春に対戦していてしかも延長14回の熱戦だった。 | ||
#** | #**13回表に明徳が2点を勝ち越すが裏に同点、箕島が14回サヨナラ勝ちという3年前の星稜戦に匹敵する劇的勝利。 | ||
# | #**ちなみに明徳はこの年が春夏通じて甲子園初出場。 | ||
# | #敗者復活戦 | ||
#* | #*1916~1917年の第2回大会と第3回大会に存在した | ||
#* | #**第3回大会で愛知一中が敗者復活戦から優勝してしまい、疑問視する声が多く出て廃止に。 | ||
#*トリビアの泉で取り上げられたことがある | |||
#高校野球都道府県大会の6回戦(5回戦と準々決勝の間のラウンド) | |||
#* | #*現在高校野球の都道府県大会は最大でも全8ラウンド(1~5回戦と準々決勝・準決勝・決勝)だが、東西に分割される直前の1970~1973年の東京大会は全9ラウンドで、5回戦と準々決勝の間の「6回戦」が存在した。 | ||
# | #**といっても1回戦から登場した学校は数校だけ | ||
#* | #**当時は32校が4回戦からの登場となるスーパーシードがあった | ||
#** | #**参加チーム数が256チーム(2<sup>8</sup>)を超えると必然的に全9ラウンドとなり6回戦が出現するが、分割前の東京大会の参加校数が257校以上になったことはなかった。 | ||
#** | #**[http://bibijr.com/tokyo/nendo 参考] | ||
#* | |||
#* | |||
== | ===試合展開=== | ||
#甲子園全国大会で、ノーヒットでの勝利 | |||
#*1953年夏の慶應義塾-北海で発生。この試合がなかったら[[もし高校野球全国大会でこんな有り得ない試合展開があったら]]に「ノーヒットで勝利」が追加されていただろう。 | |||
#**決勝戦限定として記載されている。 | |||
#**9回までノーヒットに抑えられるが、延長戦で初ヒットを打って勝利は近年でも何度か発生したので知られている。 | |||
#高校野球地方大会で、9回裏2アウトから10得点で9点差を逆転サヨナラ。 | |||
#*2014年の石川大会決勝の星稜-小松大谷で9回裏に9得点で8点差を逆転サヨナラ勝ちした試合が全国的に話題になったが、2002年の大分大会1回戦の中津北-緒方工ではそれを超える9点差の逆転サヨナラ勝ちがあった。 | |||
#**8回までは7-5の2点差だったが、9回表に緒方工が7点を追加し14-5とするも、9回裏に中津北が2アウトから10点を取って逆転サヨナラ勝ち。 | |||
#***しかも2アウトからというのもいい。ランナーなしじゃないのが惜しいが(2アウト1・2塁からだった)。 | |||
#**雨の影響があったらしい。 | |||
#**9点と10点ではインパクトが違うが、残念ながら県予選の1回戦だったせいで星稜-小松大谷と比べてあまり知られていない。 | |||
#***当時ツイッターはなく、2ちゃんねるは存在したが高校野球板がまだなかったためネット上でも話題にならず。今だったら1回戦の試合でも大騒ぎだろうが。 | |||
#***一応wikipediaの[[wikipedia:ja:サヨナラゲーム#最終回二死から9点差を逆転しサヨナラ|サヨナラゲーム]]の記事に載っている。 | |||
#*ちなみに地方大会準決勝までは7回・8回終了時点で7点差がついていたらコールドゲームになってしまう。上記の星稜-小松大谷は決勝だったからコールドがなかった。 | |||
=== | ===事件=== | ||
# | #勝利後の校歌斉唱で、間違って敗戦校の校歌が流れる事件。 | ||
#* | #*[[もし高校野球でこんな不祥事が発生したら]]に書かれているが、2010年夏の岐阜大会決勝の土岐商-県岐阜商で試合後に間違って敗れた県岐阜商の校歌が流れる事件が実際にあった。 | ||
== | ==その他の日本野球== | ||
# | #天皇杯 | ||
#* | #*ただし授与対象は東京六大学野球の優勝大学である。 | ||
#* | #都市対抗野球大会における青森県勢の出場 | ||
#* | #*1939年(第13回大会)に青森林友(青森市)が出場したのが、現状では唯一の青森県勢の出場になっている。 | ||
#都市対抗野球大会における鳥取県勢の出場 | |||
#*戦前の1934年から1936年にかけて米子鉄道管理局が3回出場している。 | |||
#都市対抗野球大会における宮崎県勢の出場 | |||
#*2019年(第90回大会)に宮崎梅田学園が初出場を果たした。 | |||
#都市対抗野球大会における佐賀県勢の出場 | |||
#*1952年と1953年に杵島炭鉱(大町町)が出場したのが、現状では唯一の佐賀県勢の出場になっている。 | |||
#東京六大学リーグ戦における東京大学の優勝 | |||
#*硬式と準硬式ではないが軟式では優勝している。 | |||
== | ==国際大会== | ||
;ワールドベースボールクラシック | |||
#ヨーロッパ勢のワールドベースボールクラシック2大会連続ベスト4進出。 | |||
#*2013年と2017年にオランダが達成している。 | |||
#日本が韓国にコールド勝ち | |||
#*2009年大会の第1ラウンド2回戦で14-2の7回コールド。 | |||
#アメリカのコールド負け | |||
#*同じく2009年大会にて第2ラウンドでプエルトリコに1-11の7回コールド。 | |||
# | |||
#* | |||
# | |||
#* | |||
# | |||
#* | |||
;その他 | |||
# | #現役メジャーリーガーのアジア大会出場 | ||
#* | #*オリンピックに現役メジャーリーガーが出場したことはないが、アジア大会であれば1998年バンコク大会に当時ロサンゼルス・ドジャースの朴賛浩が韓国代表として出場し金メダルを獲得している。 | ||
==関連項目== | ==関連項目== | ||
*[[ | *[[存在しないスポーツ]] | ||
[[Category:実は存在したモノ|やきゆう]] | |||
[[Category:野球|しつはそんさい]] | |||
[[Category: |
2020年5月12日 (火) 06:18時点における版
プロ野球
全般
- 投手記録としての「引き分け」
- 引き分け試合に最後に投げた投手に記録される。
- MLBで年間263安打以上を記録した選手
- 一般にイチローが2004年に記録した年間262安打がMLBにおける年間最多安打記録とされているが、実は1887年にピート・ブラウニングとティップ・オニールが年間275安打を記録している。
- このシーズンだけ四球も安打と記録していたため(正確には当時のルールでは四球ならぬ「五球」で出塁だった。四球で出塁となったのは1889年以後)。
- 現在では1887年の四球は安打に算入しない場合が多い。その場合この年の年間最多安打はティップ・オニールの225安打となる。
- このシーズンだけ四球も安打と記録していたため(正確には当時のルールでは四球ならぬ「五球」で出塁だった。四球で出塁となったのは1889年以後)。
- 一般にイチローが2004年に記録した年間262安打がMLBにおける年間最多安打記録とされているが、実は1887年にピート・ブラウニングとティップ・オニールが年間275安打を記録している。
- 最優秀防御率のタイトルを同率で複数の選手が獲得
- 2003年のパ・リーグで斉藤和巳と松坂大輔がともに自責点61・投球回数194回の防御率2.83で同率でタイトルを分け合っている。
- ちなみに首位打者の同率1位は1969年パと1987年セの2回発生している。どちらも打数・安打が異なっていても率を合わせやすい「.333」だった。
- キャッチャーライナー(捕直)
- 通常、打球がそのままキャッチャーミットに収まった場合はファウルチップとなるため、キャッチャーライナーは起こりえないと思いきや、他の野手が処理できなかったライナーを捕手が処理した場合はキャッチャーライナーが記録される。
- 実際に1965年5月11日の巨人対広島戦にて、打者・瀧安治の放った打球が安仁屋宗八投手の膝を直撃し、跳ね返った打球を久保祥次捕手が捕球したため、瀧にキャッチャーライナーが記録された。
- 通常、打球がそのままキャッチャーミットに収まった場合はファウルチップとなるため、キャッチャーライナーは起こりえないと思いきや、他の野手が処理できなかったライナーを捕手が処理した場合はキャッチャーライナーが記録される。
- デーゲーム開催の日本シリーズ
- ナイトゲームでの初開催は1964年の南海対阪神で、当時の東京オリンピックの妨げにならないように配慮された。
- しかし、シリーズでの平均観客動員数は過去最低をマークしてしまった。この影響から1965年以降は再びデーゲーム開催に戻される。
- しかし平日開催ともなると会社や学校を休まない限り観戦ができなくなり、さらに視聴率にも影響することから、1994年 (巨人対西武) で、西武球場開催分の第~5試合において試験的にナイトゲーム開催となった。
- この評判が高かったことから、1995年 (オリックス対ヤクルト) から全試合に拡大された。
- 2011年 (ソフトバンク対中日) の第一戦では、放映権を握っていたフジテレビの編成の兼ね合い (ゴールデンタイムにバレーボール中継を放送) でデーゲーム開催となった。
- 結論、1963年以前と1965~1993年の全日程、1994年と2011年の一部でデーゲーム開催だった。
- 「1993年以前のナイトゲーム開催の日本シリーズ」も「実は存在したモノ」に含まれることになる。
- ナイトゲームでの初開催は1964年の南海対阪神で、当時の東京オリンピックの妨げにならないように配慮された。
- プロ野球の前後期制
- 1973年から1982年までパ・リーグで行われていた。
- 1983年から1985年まで実施されたパ・リーグのプレーオフ。
- 1位と2位のゲーム差が5ゲーム差位内の場合、最大5試合のプレーオフを行い勝率はシーズンとプレーオフの試合数の合計で計算というルールだったが、この3シーズンすべて優勝球団が2位に5ゲーム差以上つけての独走だったため1度も開催されず。
- 2006年まで実施されたセ・リーグのプレーオフ。
- 1位の勝率が2チーム以上並んだ場合、2001年から2006年までは勝率の1位と勝利数の1位が異なる場合にプレーオフを行うことになっていたが、1度も開催されず。
- セ・リーグ本拠地開催分で指名打者制度が採用された日本シリーズ
- 1985年のみ、全試合で指名打者制度が採用された。
- AクラスとBクラスが前年と総入れ替え
- 現時点で2014年のパ・リーグの1度のみ。
- 順位の内訳は、ソフトバンク(前年4位→1位)、オリックス(前年5位→2位)、日本ハム(前年6位→3位)、ロッテ(前年3位→4位)、西武(前年2位→5位)、楽天(前年1位→6位)。
- 現時点で2014年のパ・リーグの1度のみ。
- 一塁ランナーが生還した犠牲フライ
- 1977年4月29日の大洋対阪神戦(川崎球場)で発生。
- 阪神が7-6と1点リードした9回裏1死1塁、大洋の清水透が打った大きな当たりを阪神のレフト・佐野仙好はフェンスに激突しながらもボールをキャッチしたが、コンクリートが剥き出しだった当時の川崎球場のフェンスで頭部を強打。
- 佐野はボールを捕球したまま気を失い、左翼線審の田中俊幸は佐野の捕球を確認してアウトを宣告。
- 阪神の選手・コーチが佐野に駆け寄っている間に、内野に残った一塁ランナーの野口善男がベンチの指示を受けタッチアップ、球場内が騒然とする中をほぼ全力で駆け抜けて本塁に生還。
- 当初は佐野が清水の打球を捕球した後に他の野手への返球を怠ったと判断され、佐野には捕球による刺殺と送球をしなかったとして失策が記録されていたが、後に記録員の藤森清志の進言により訂正がされ、記録上は1死1塁から清水のレフトへの野選を伴った犠牲フライとなり、清水に打点、野口に得点が記録された。
- 1977年4月29日の大洋対阪神戦(川崎球場)で発生。
- 左投げの二塁手
- NPBでは鬼頭数雄(1936年2試合)、山田伝(1939年3試合、1940年2試合、1942年1試合)、西本幸雄(1951年1試合)の3人だけが記録している。
球団関連
- 近鉄が親会社の球団の「日本一」
- 1リーグ時代の1946年に近畿グレートリング(南海電鉄が近畿日本鉄道から分離する前)が優勝しているが、当時は日本シリーズがなかったので実質日本一ということに。
- ただしNPBの公式記録としてはホークス(南海・ダイエー・ソフトバンク)の優勝回数にカウントされている。
- 運営会社としては1938年設立の「南海野球」の流れを汲んでいる。
- バファローズの運営会社は近鉄から南海が分離された後の1949年設立。
- ただしNPBの公式記録としてはホークス(南海・ダイエー・ソフトバンク)の優勝回数にカウントされている。
- 1リーグ時代の1946年に近畿グレートリング(南海電鉄が近畿日本鉄道から分離する前)が優勝しているが、当時は日本シリーズがなかったので実質日本一ということに。
- 北海道日本ハムファイターズVS大阪近鉄バファローズ・福岡ダイエーホークス・オリックスブルーウェーブ
- 球界再編でよくあやふやになりがちだが、日本ハムの札幌移転は球界再編の1年前なので、2004年シーズンはこれらのカードが存在した。
- ちなみに2004年9月17日にプロ野球ストライキが決定したとき、近鉄の対戦相手は北海道日本ハムだった。
- 球界再編でよくあやふやになりがちだが、日本ハムの札幌移転は球界再編の1年前なので、2004年シーズンはこれらのカードが存在した。
- 東京ドームでの日本ハムファイターズvs阪急ブレーブス・南海ホークス
- 東京ドームの開業は1988年なので、これらのカードが存在した。東京ドーム前にある記念碑には阪急・南海のロゴが刻まれている。
- 福岡が本拠地のセ・リーグ球団
- 1950年に「西日本パイレーツ」という球団が設立されたがシーズン後に西鉄クリッパーズと合併し消滅。
- ロッテオリオンズvsオリックス・ブルーウェーブ
- ロッテオリオンズ最後の年となる1991年に、既にオリックスは球団名がブルーウェーブに変わっていたため、このカードが1年間限定で存在した。
- 巨人の最下位
- 現時点で1975年のみ。この年は前年に現役を退いた長嶋茂雄監督の就任初年度だった。
- 関西球団同士の日本シリーズ
- 現時点で1964年のみ。この年の日本シリーズは「阪神タイガースvs南海ホークス」の関西決戦だった。
- 当時ホークスは大阪に本拠地を持っていた。しかし、ホークスは数年後にダイエーに身売りされたのち福岡へ移転している。
- 現時点で1964年のみ。この年の日本シリーズは「阪神タイガースvs南海ホークス」の関西決戦だった。
- 福岡ソフトバンクホークスの最下位
- 2008年に最終戦で楽天に敗れて最下位になっている。この年限りで王貞治監督は辞任し会長に。
- 西武の最下位
- 前身となる球団を除けば現時点で1979年のみ。この年は本拠地が所沢に移転後最初のシーズンだった。
- 京都を本拠地とするNPBの球団
- 1949年に大陽ロビンスが京都市の衣笠球場(現存せず)を本拠地としていた。
- 松竹ロビンスになった翌シーズンからも名目上は京都が本拠地だったが実際は大阪球場で主催試合を行うほうがずっと多かった。
選手
- NPB所属選手の国籍・出身国
- ドイツ出身の選手
- 元巨人のデーブ・パブラスと元阪神のマイク・ブロワーズが該当。ただしどちらも国籍はアメリカである。
- イタリア人の選手
- 元オリックスのアレッサンドロ・マエストリが該当。元阪神のレノ・ベルトイアも該当するが、こちらはカナダとの二重国籍である。
- スペイン人の選手
- 元ヤクルトのダニエル・リオスが該当。
- インドネシア出身の選手
- 元横浜のトム・マストニーが該当。国籍はアメリカである。
- ちなみにMLBに所属経験のある唯一のインドネシア出身の選手でもある。
- 元横浜のトム・マストニーが該当。国籍はアメリカである。
- 日本生まれのアメリカ人選手
- 元横浜のスティーブン・ランドルフが該当。沖縄生まれ。
- NPB所属選手のWBC代表歴
- 本大会に出場した選手のみとする。
- アメリカ代表選手
- 元阪神のライアン・ボーグルソンが2013年WBCにアメリカ代表として出場している。
- ドラフト指名
- 巨人からドラフト1位指名を受け入団拒否した選手
- 1973年のドラフト会議で巨人のドラフト1位指名を受けた小林秀一(愛知学院大学)は、それを拒否し熊谷組に就職した。
- アマチュアの指導者を目指していた小林はすでに熊谷組への就職が内定していたが、指名を受けて気持ちが揺らいでいた。しかし川上哲治監督の「仕事の傍らで野球をするよりもうちで野球に専念してほしい」といった内容の言葉を受け、野球を仕事にするつもりではなかった小林は迷い無く入団を拒否した。
- その後、熊谷組で選手として活躍したのち母校である愛知学院大学の監督に就任、現在は同学の准教授を務めている。
- 1973年のドラフト会議で巨人のドラフト1位指名を受けた小林秀一(愛知学院大学)は、それを拒否し熊谷組に就職した。
- プロ引退後にドラフト指名を受けた選手
- 1959年に大毎オリオンズを退団した松井猛はその後日本軽金属、電電北海道で活躍し1965年に中日からドラフト10位で指名されたが入団を拒否している。
- なお現在ではプロから社会人野球に進んだとしてもプロ復帰時にドラフトにかける必要はない。
- その他
- 西鉄ライオンズの榎本喜八
- 1972年にロッテから西鉄へ移籍した榎本喜八だが、この年限りで榎本は現役を引退したため、1972年は西鉄ライオンズの榎本喜八が見られた。
- ロッテオリオンズの野村克也
- 1978年に南海からロッテに移籍した野村克也だが、この年のオフにロッテの重光オーナーから監督就任を要請されるも固辞し、自由契約に。
- 翌1979年は西武ライオンズでプレーしたため、1978年はロッテオリオンズの野村克也が見られた。
- 福岡ソフトバンクホークスの城島健司
- 2005年に福岡ダイエーホークスがソフトバンクに買収され「福岡ソフトバンクホークス」に改称されたが、その年のオフに城島健司はFAを行使し、シアトル・マリナーズへ移籍。
- そのため、2005年は福岡ソフトバンクホークスの城島健司が見られた。
- 大阪ドーム本拠地時代の近鉄・大石大二郎
- 1997年に近鉄バファローズが大阪ドームに移転したが、その年のオフに大石大二郎が現役を引退したため、1997年は大阪ドームと大石大二郎の組み合わせが見られた。
- 西本幸雄の日本一
- 20年間の監督生活で8度のリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一の栄冠を獲得できず「悲運の名将」と言われた西本幸雄だが、選手としては1950年の毎日オリオンズで日本一を経験している。
- 巨人と西武の両方で最下位を経験した選手
- 玉井信博(投手。1973~75年まで巨人でプレー、1976年に太平洋クラブ(西武の前身)にトレード、1980年引退)
- ただし西武時代(1979~80年)は一軍出場はなし。
- 玉井信博(投手。1973~75年まで巨人でプレー、1976年に太平洋クラブ(西武の前身)にトレード、1980年引退)
- 千葉ロッテマリーンズ、シアトル・マリナーズ、マイアミ・マーリンズの3球団全てでプレーしたことのある選手
- 似たような名前で紛らわしいとよく言われるこの3球団だが、エドガー・オルモス投手はこの3球団全てで一軍(メジャー)登板を経験している。
監督
- 東京ドーム本拠地時代の日本ハム・ヒルマン監督
- 2004年に日本ハムが北海道に移転したが、その前年となる2003年にトレイ・ヒルマン監督が就任したため、2003年は東京ドームとヒルマン監督の組み合わせが見られた。
- 平和台野球場本拠地時代のダイエー・杉浦監督
- 1989年に南海ホークスがダイエーに買収・福岡へ移転したが、南海最後の監督だった杉浦忠は留任したため、1989年は平和台野球場と杉浦監督の組み合わせが見られた。
- 藤井寺球場本拠地時代の近鉄・佐々木監督
- 1997年に近鉄バファローズが大阪ドームに移転したが、その前年となる1996年に佐々木恭介監督が就任したため、1996年は藤井寺球場と佐々木監督の組み合わせが見られた。
- クラウン・根本監督
- ライオンズは1979年に球団を移転し西武ライオンズとなったが、その前年となる1978年に根本陸夫監督が就任したため、1978年は平和台野球場と根本監督の組み合わせが見られた。
- MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島本拠地時代の広島・ブラウン監督
- 2009年に広島東洋カープがMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に移転したが、マーティ・ブラウン監督は留任したため、2009年はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島とブラウン監督の組み合わせが見られた。
- オールスターに同一リーグの監督が4人出場、もう一方のリーグは監督が1人だけ
- 2014年のオールスターで、セ・リーグは前年優勝の巨人・原辰徳監督、前年2位の阪神・和田豊監督、前年3位の広島・野村謙二郎監督のほか、中日・谷繁元信選手兼任監督が選手としてオールスターに出場。
- また、パ・リーグは前年優勝の楽天・星野仙一監督が病気で出場を辞退、前年2位の西武・伊原春樹監督がチームの不振の為シーズン途中で辞任、代行の大久保博元と田辺徳雄は当時はまだ正式に監督に就任しておらず(両名ともシーズン終了後に就任)、正規の監督は前年3位のロッテ・伊東勤監督ただ一人となり全パの指揮を執ることとなった。
- 日本シリーズとワールドシリーズの両方で指揮を執った監督
- ボビー・バレンタインは2000年にメッツでワールドシリーズ、2005年に千葉ロッテマリーンズで日本シリーズで指揮を執った。
試合展開
- 両チームノーヒットの試合
- 1994年4月26日、イースタン・リーグの西武対ヤクルト戦(大宮市営球場)で発生。
- ヤクルト先発の山部太、西武先発の竹下潤が共に無安打で完投。試合は5回、ヤクルトが失策で出塁した走者を幸田正広がスクイズで還し1点を挙げ、これが決勝点となり1-0でヤクルトが勝利した。
- 1994年4月26日、イースタン・リーグの西武対ヤクルト戦(大宮市営球場)で発生。
高校野球
地域成績
- 2015年以前の北信越地区の甲子園優勝。
- 東北とともに優勝未経験地区だったと思ってる人も多いが、長野が1928年夏に松本商(現松商学園)、1954年春に飯田長姫(現飯田OIDE長姫)が優勝したことがある。
- 2015年春の敦賀気比は「北陸勢」初優勝。
- 2013年以前の埼玉県の甲子園優勝。
- 春は1968年に大宮工が優勝している。
- 熊本県の甲子園優勝。
- 県内最多出場・勝利の古豪熊本工が3度の準優勝がありながら優勝ゼロだが、1958年春に済々黌が優勝している。
- ちなみにその大会で熊本工もベスト4に進出し、準決勝で済々黌が熊本工に勝利していた。
- 県内最多出場・勝利の古豪熊本工が3度の準優勝がありながら優勝ゼロだが、1958年春に済々黌が優勝している。
- 鳥取県の甲子園決勝進出。
- 1960年春に米子東が準優勝。山陰勢唯一の決勝進出である。
- 東北地区の高校野球全国大会優勝
- 甲子園では春夏共に優勝がないのは有名だが、明治神宮野球大会高校の部では東北高校が歴代最多の4回優勝を記録するほか、仙台育英と光星学院も優勝歴を有する。
- 中国に所在した学校の甲子園出場
- 戦前に「満洲代表」の枠で青島中・天津商が出場したことがある。
- どちらの学校も日本租借地の関東州や満州国ではなく中華民国に所在していた。
- 戦前に「満洲代表」の枠で青島中・天津商が出場したことがある。
チーム記録
- 2015年夏以前の霞ヶ浦高校の甲子園出場。
- あと一歩のとこで甲子園に出れない学校として知られているが、センバツは1990年に出場経験がある。
- 2011年春以前の明徳義塾の甲子園初戦敗退。
- それまで初戦に強かった明徳義塾が1987年春のセンバツで関東一に負けて唯一の初戦敗退を喫していた。
- 夏の甲子園は2015年夏まで初戦無敗を継続。
- それまで初戦に強かった明徳義塾が1987年春のセンバツで関東一に負けて唯一の初戦敗退を喫していた。
- 大阪桐蔭の甲子園初戦敗退。
- 2002年夏に東邦に負けたのが現時点で唯一の初戦敗退。これがなければ今ごろ初戦無敗の学校として知られていただろう。
- 境高校の甲子園勝利。
- 2007年夏など甲子園で大敗が多い学校だが、1974年春に長良、1990年夏に八戸工大一に2度勝利している。
- 日大東北の甲子園勝利。
- 聖光学院が常連になるまで出ると負けの学校として知られていたが、1990年夏に長崎の海星に1度だけ勝利している。
- 選手権14年連続出場
- 2016年に聖光学院が戦後初の10年連続出場を達成したが、黎明期には1915年第1回大会から1928年第14回大会まで和歌山中学(現桐蔭高校)が14年連続出場していた。
- 聖光学院の連続出場がこのまま継続すれば2020年に和歌山中の14年連続に並び、2021年に歴代最長記録となる。
試合
- 甲子園で市立船橋VS鹿児島実の対戦。
- どう見ても高校サッカーにしか見えないカードだが、高校野球でも1996年夏の2回戦で対戦していた(5-3で鹿児島実の勝利)。
- ネットが流通した時代に実現していればかなり話題になっただろう。
- どう見ても高校サッカーにしか見えないカードだが、高校野球でも1996年夏の2回戦で対戦していた(5-3で鹿児島実の勝利)。
- 箕島VS明徳義塾(当時は明徳)の対戦
- 箕島VS星稜は1979年夏、明徳義塾VS星稜は1992年夏の対戦が超有名だが、箕島VS明徳(当時)も1982年春に対戦していてしかも延長14回の熱戦だった。
- 13回表に明徳が2点を勝ち越すが裏に同点、箕島が14回サヨナラ勝ちという3年前の星稜戦に匹敵する劇的勝利。
- ちなみに明徳はこの年が春夏通じて甲子園初出場。
- 箕島VS星稜は1979年夏、明徳義塾VS星稜は1992年夏の対戦が超有名だが、箕島VS明徳(当時)も1982年春に対戦していてしかも延長14回の熱戦だった。
- 敗者復活戦
- 1916~1917年の第2回大会と第3回大会に存在した
- 第3回大会で愛知一中が敗者復活戦から優勝してしまい、疑問視する声が多く出て廃止に。
- トリビアの泉で取り上げられたことがある
- 1916~1917年の第2回大会と第3回大会に存在した
- 高校野球都道府県大会の6回戦(5回戦と準々決勝の間のラウンド)
- 現在高校野球の都道府県大会は最大でも全8ラウンド(1~5回戦と準々決勝・準決勝・決勝)だが、東西に分割される直前の1970~1973年の東京大会は全9ラウンドで、5回戦と準々決勝の間の「6回戦」が存在した。
- といっても1回戦から登場した学校は数校だけ
- 当時は32校が4回戦からの登場となるスーパーシードがあった
- 参加チーム数が256チーム(28)を超えると必然的に全9ラウンドとなり6回戦が出現するが、分割前の東京大会の参加校数が257校以上になったことはなかった。
- 参考
- 現在高校野球の都道府県大会は最大でも全8ラウンド(1~5回戦と準々決勝・準決勝・決勝)だが、東西に分割される直前の1970~1973年の東京大会は全9ラウンドで、5回戦と準々決勝の間の「6回戦」が存在した。
試合展開
- 甲子園全国大会で、ノーヒットでの勝利
- 1953年夏の慶應義塾-北海で発生。この試合がなかったらもし高校野球全国大会でこんな有り得ない試合展開があったらに「ノーヒットで勝利」が追加されていただろう。
- 決勝戦限定として記載されている。
- 9回までノーヒットに抑えられるが、延長戦で初ヒットを打って勝利は近年でも何度か発生したので知られている。
- 1953年夏の慶應義塾-北海で発生。この試合がなかったらもし高校野球全国大会でこんな有り得ない試合展開があったらに「ノーヒットで勝利」が追加されていただろう。
- 高校野球地方大会で、9回裏2アウトから10得点で9点差を逆転サヨナラ。
- 2014年の石川大会決勝の星稜-小松大谷で9回裏に9得点で8点差を逆転サヨナラ勝ちした試合が全国的に話題になったが、2002年の大分大会1回戦の中津北-緒方工ではそれを超える9点差の逆転サヨナラ勝ちがあった。
- 8回までは7-5の2点差だったが、9回表に緒方工が7点を追加し14-5とするも、9回裏に中津北が2アウトから10点を取って逆転サヨナラ勝ち。
- しかも2アウトからというのもいい。ランナーなしじゃないのが惜しいが(2アウト1・2塁からだった)。
- 雨の影響があったらしい。
- 9点と10点ではインパクトが違うが、残念ながら県予選の1回戦だったせいで星稜-小松大谷と比べてあまり知られていない。
- 当時ツイッターはなく、2ちゃんねるは存在したが高校野球板がまだなかったためネット上でも話題にならず。今だったら1回戦の試合でも大騒ぎだろうが。
- 一応wikipediaのサヨナラゲームの記事に載っている。
- 8回までは7-5の2点差だったが、9回表に緒方工が7点を追加し14-5とするも、9回裏に中津北が2アウトから10点を取って逆転サヨナラ勝ち。
- ちなみに地方大会準決勝までは7回・8回終了時点で7点差がついていたらコールドゲームになってしまう。上記の星稜-小松大谷は決勝だったからコールドがなかった。
- 2014年の石川大会決勝の星稜-小松大谷で9回裏に9得点で8点差を逆転サヨナラ勝ちした試合が全国的に話題になったが、2002年の大分大会1回戦の中津北-緒方工ではそれを超える9点差の逆転サヨナラ勝ちがあった。
事件
- 勝利後の校歌斉唱で、間違って敗戦校の校歌が流れる事件。
- もし高校野球でこんな不祥事が発生したらに書かれているが、2010年夏の岐阜大会決勝の土岐商-県岐阜商で試合後に間違って敗れた県岐阜商の校歌が流れる事件が実際にあった。
その他の日本野球
- 天皇杯
- ただし授与対象は東京六大学野球の優勝大学である。
- 都市対抗野球大会における青森県勢の出場
- 1939年(第13回大会)に青森林友(青森市)が出場したのが、現状では唯一の青森県勢の出場になっている。
- 都市対抗野球大会における鳥取県勢の出場
- 戦前の1934年から1936年にかけて米子鉄道管理局が3回出場している。
- 都市対抗野球大会における宮崎県勢の出場
- 2019年(第90回大会)に宮崎梅田学園が初出場を果たした。
- 都市対抗野球大会における佐賀県勢の出場
- 1952年と1953年に杵島炭鉱(大町町)が出場したのが、現状では唯一の佐賀県勢の出場になっている。
- 東京六大学リーグ戦における東京大学の優勝
- 硬式と準硬式ではないが軟式では優勝している。
国際大会
- ワールドベースボールクラシック
- ヨーロッパ勢のワールドベースボールクラシック2大会連続ベスト4進出。
- 2013年と2017年にオランダが達成している。
- 日本が韓国にコールド勝ち
- 2009年大会の第1ラウンド2回戦で14-2の7回コールド。
- アメリカのコールド負け
- 同じく2009年大会にて第2ラウンドでプエルトリコに1-11の7回コールド。
- その他
- 現役メジャーリーガーのアジア大会出場
- オリンピックに現役メジャーリーガーが出場したことはないが、アジア大会であれば1998年バンコク大会に当時ロサンゼルス・ドジャースの朴賛浩が韓国代表として出場し金メダルを獲得している。