「もし1970年の大阪万博が○○だったら」の版間の差分
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==開催されていなかったら== | ==開催されていなかったら== | ||
#大阪経済の地盤沈下はもっと深刻になっていた。 | #大阪経済の地盤沈下はもっと深刻になっていた。 | ||
#* | #*[[大阪市]]は1970年代のうちに[[横浜市]]にはもちろんのこと[[名古屋市]]にも人口が抜かれていた。 | ||
#** | #**西日本における政治経済の中枢がアジアに近くて地理的条件の良い[[福岡市]]に移ってしまい、そちらの人口増加が現実以上に著しくなり人口が200万人台となった。それとは裏腹に大阪市の人口規模や国際的な格付けが、1990~2000年代には[[札幌市]]や福岡市とほぼ同じになった。 | ||
#**[[関西国際空港]]が建設されなかった代わりに、羽田空港や成田空港、千歳空港の拡張や24時間化及び現在の北九州空港もしくは佐賀空港が福岡板付空港の狭小化に伴って、早くから滑走路2本を有する24時間空港と言う形で建設されていた。 | #**[[関西国際空港]]が建設されなかった代わりに、羽田空港や成田空港、千歳空港の拡張や24時間化及び現在の北九州空港もしくは佐賀空港が福岡板付空港の狭小化に伴って、早くから滑走路2本を有する24時間空港と言う形で建設されていた。 | ||
#***史実で関空が開港した1994年に[[中部国際空港]]が開港していた。 | #***史実で関空が開港した1994年に[[中部国際空港]]が開港していた。 | ||
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#**大阪市内までの所要時間は現実よりも長くなっている。 | #**大阪市内までの所要時間は現実よりも長くなっている。 | ||
#**千里ニュータウンは現実ほど発展しなかったかも。 | #**千里ニュータウンは現実ほど発展しなかったかも。 | ||
#**[[ | #**[[大阪モノレール]]も建設されていない。 | ||
#*万博開催が決まる前にも御堂筋線の延伸計画はあったはず。 | #*万博開催が決まる前にも御堂筋線の延伸計画はあったはず。 | ||
#大阪市営地下鉄の路線網は現実の半分程度となっていた。 | #大阪市営地下鉄の路線網は現実の半分程度となっていた。 | ||
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#岡本太郎の知名度が現実より下がっていた。 | #岡本太郎の知名度が現実より下がっていた。 | ||
#名古屋ではなく大阪が1988年のオリンピックを誘致しようとしていた。 | #名古屋ではなく大阪が1988年のオリンピックを誘致しようとしていた。 | ||
#*1980年か1984年だったかもしれない。 | |||
#70年代以降の三波春夫の人気や知名度は史実よりも低かった。 | #70年代以降の三波春夫の人気や知名度は史実よりも低かった。 | ||
#関西以外で「千里丘陵」を知る人はほとんどいない。 | #関西以外で「千里丘陵」を知る人はほとんどいない。 | ||
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#関西圏の[[新快速 (JR西日本)|新快速]]の運転開始は1972年3月改正となっていた。 | #関西圏の[[新快速 (JR西日本)|新快速]]の運転開始は1972年3月改正となっていた。 | ||
#*茨木駅は1985年3月改正まで快速も通過していた。 | #*茨木駅は1985年3月改正まで快速も通過していた。 | ||
#*新大阪駅に快速の停車が開始されるのも。山陽新幹線岡山開業がきっかけだった。 | |||
#[[東海道新幹線]]の16両運転開始は史実よりも遅れ、[[山陽新幹線]]岡山開業時となっていた。 | #[[東海道新幹線]]の16両運転開始は史実よりも遅れ、[[山陽新幹線]]岡山開業時となっていた。 | ||
#同年4月に発生した天六ガス爆発事故が史実以上に大きく取り上げられていた。 | #同年4月に発生した天六ガス爆発事故が史実以上に大きく取り上げられていた。 | ||
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#*あるいは史実で1990年に大阪で開催された国際花と緑の博覧会がさらに大規模になり、一般博となっていた。その場合会場は[[大阪市/鶴見区#鶴見緑地|鶴見緑地]]ではなかったかもしれない。 | #*あるいは史実で1990年に大阪で開催された国際花と緑の博覧会がさらに大規模になり、一般博となっていた。その場合会場は[[大阪市/鶴見区#鶴見緑地|鶴見緑地]]ではなかったかもしれない。 | ||
#**[[関西国際空港]]の開港がそれに合わせる形になっていたかも。 | #**[[関西国際空港]]の開港がそれに合わせる形になっていたかも。 | ||
#[[湘南モノレール]]の開業がやや遅れた。 | |||
#*恐らく翌年の1971年に全区間を一気に開業していた。 | |||
#[[あいりん地区]]が現実ほど大規模にならなかったかもしれない(史実では万博会場の建設工事にここから労働者が大量に送り込まれたため)。 | |||
#京阪京橋駅の現在地への移転拡張や近鉄奈良駅の地下化及び付近の併用軌道廃止が現実よりも遅れていた。 | |||
==別の時代に開催されていたら== | ==別の時代に開催されていたら== | ||
当時のBIE規約では万国博覧会を開催する間隔は「2年以上」としか書かれていなかった。 | 当時のBIE規約では万国博覧会を開催する間隔は「2年以上」としか書かれていなかった。 | ||
*期間は1964年(大阪の前の一般博はシアトル・1962年、モントリオール・1967年)~1990年(大阪の次の一般博・セビリアが1992年)とする。 | *期間は1964年(大阪の前の一般博はシアトル・1962年、モントリオール・1967年)~1990年(大阪の次の一般博・セビリアが1992年)とする。 | ||
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=== 1940年 === | |||
#紀元二千六百年を記念して開催した。東京ではなく「大大阪」で万国博覧会の誘致に成功した,と語り継がれる。 | |||
#会場は長居公園か。御堂筋線の我孫子延伸もこの際行う。同線の8両運転が戦前に見れたかも。 | |||
#1970年の博覧会は愛知県の「海上の森」で行った。 | |||
#のちに万博の展示物の多くが空襲の被害に遭う。 | |||
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=== 1964年 === | |||
#万博開催中に東海道新幹線が開通していた。 | #万博開催中に東海道新幹線が開通していた。 | ||
#*史実では東海道新幹線開通は10月1日。大阪万博最終日は9月13日。 | #*史実では東海道新幹線開通は10月1日。大阪万博最終日は9月13日。 | ||
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#*「ALWAYS 三丁目の夕日'64」でも何らかの形で登場していた。 | #*「ALWAYS 三丁目の夕日'64」でも何らかの形で登場していた。 | ||
#40年不況はもっと深刻化していた。 | #40年不況はもっと深刻化していた。 | ||
#同年における阪神タイガースのリーグ優勝が万博と結び付けられていた。 | |||
=== 1972年 === | |||
*実際、1964年8月のある新聞記事には「72年に開催を延期する可能性がある」という趣旨の記述があった。 | *実際、1964年8月のある新聞記事には「72年に開催を延期する可能性がある」という趣旨の記述があった。 | ||
#山陽新幹線全線開業が1972年だった。 | #山陽新幹線全線開業が1972年だった。 | ||
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#マクドナルドが会場内に出店していた。 | #マクドナルドが会場内に出店していた。 | ||
#*カップヌードルの自販機も置かれており、売店でも売られていた。2月のあさま山荘事件とともにカップヌードル大ヒットのきっかけとして後々まで語られる。 | #*カップヌードルの自販機も置かれており、売店でも売られていた。2月のあさま山荘事件とともにカップヌードル大ヒットのきっかけとして後々まで語られる。 | ||
#*ミスタードーナツも(大阪に本社があるダスキンが運営)。 | |||
#赤軍派によるテロの標的にされた恐れあり。 | #赤軍派によるテロの標的にされた恐れあり。 | ||
#会期中にセイロン館が「スリランカ館」に変わった。 | #会期中にセイロン館が「スリランカ館」に変わった。 | ||
#沖縄が日本に復帰した5月15日には沖縄舞踊などが披露された。 | #沖縄が日本に復帰した5月15日には沖縄舞踊などが披露された。 | ||
#*それとともにその少し前に発生した千日デパート火災が万博と合わせて語り継がれていた。犠牲者にも万博帰りの人がいたかもしれない。 | |||
#佐藤栄作首相の退陣時期に影響があったかもしれない。 | #佐藤栄作首相の退陣時期に影響があったかもしれない。 | ||
#この年に発生した羽田やニューデリーでの日航機事故に万博関係者が巻き込まれていた恐れがある。 | #この年に発生した羽田やニューデリーでの日航機事故に万博関係者が巻き込まれていた恐れがある。 | ||
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#1972年は現実以上に後々まで語り継がれる年となっていた。 | #1972年は現実以上に後々まで語り継がれる年となっていた。 | ||
#阪急新大阪線が確実に開業していた。 | #阪急新大阪線が確実に開業していた。 | ||
#[[京阪3000系電車 (初代)]]は万博を前に登場したことになっていた。 | |||
#*阪急5300系の登場も少し早まり、万博に間に合っていた。 | |||
#新快速は万博開催が運転開始のきっかけとなっていた。 | |||
#*会期中は会場最寄りの茨木駅にも臨時停車していた。 | |||
=== 1975年 === | |||
*1970年に開催できなければ、1975年開催、そのときは | *1970年に開催できなければ、1975年開催、そのときは | ||
#沖縄海洋博がない。したがって沖縄の街並み発展が遅れる。 | #沖縄海洋博がない。したがって沖縄の街並み発展が遅れる。 | ||
122行目: | 142行目: | ||
#*ただし、開催により日本はいち早くオイルショックから脱出。 | #*ただし、開催により日本はいち早くオイルショックから脱出。 | ||
#[[山陽新幹線]]は万博を前に博多まで全通していた。 | #[[山陽新幹線]]は万博を前に博多まで全通していた。 | ||
#*[[湖西線]]も万博前年に開業していた。 | |||
#12系客車の登場が遅れた。 | #12系客車の登場が遅れた。 | ||
#*むしろ12系よりも14系座席車の方が史実以上に製造されていた。 | #*むしろ12系よりも14系座席車の方が史実以上に製造されていた。 | ||
132行目: | 153行目: | ||
#中華民国ではなく中華人民共和国が参加した。 | #中華民国ではなく中華人民共和国が参加した。 | ||
#*日本との国交成立後のためモンゴルも参加できた。 | #*日本との国交成立後のためモンゴルも参加できた。 | ||
#*中国博覧会は開催されなかった(史実では1974年7月~8月に万博会場跡で開催された)。 | |||
#反博運動はそこまで過熱しなかった。 | #反博運動はそこまで過熱しなかった。 | ||
#ザ・ピーナッツの最終公演が万博会場で行われたかもしれない。 | #ザ・ピーナッツの最終公演が万博会場で行われたかもしれない。 | ||
#サイゴン陥落により南ベトナム館は会期途中で閉鎖された。 | #サイゴン陥落により南ベトナム館は会期途中で閉鎖された。 | ||
#*南ベトナム人やカンボジア人のなかには閉鎖後もしくは終了後に帰国せずそのまま日本にとどまった人もいた。 | |||
#この年の阪急ブレーブスの日本一が万博と結び付けられて語られることもある。 | #この年の阪急ブレーブスの日本一が万博と結び付けられて語られることもある。 | ||
#*同じ年なこともあり関西の街の盛り上がりが現実以上のものとなった。 | #*同じ年なこともあり関西の街の盛り上がりが現実以上のものとなった。 | ||
#*万博輸送で大儲けしたことや京都線特急車6300系の登場もあり阪急にとっても語り継がれる年になっていた。 | #*万博輸送で大儲けしたことや京都線特急車6300系の登場もあり阪急にとっても語り継がれる年になっていた。 | ||
#**6300系の登場は史実よりも少し早まり万博開幕に合わせる形となっていた。 | #**6300系の登場は史実よりも少し早まり万博開幕に合わせる形となっていた。 | ||
#タイムカプセルに収められていたのは『週刊少年マガジン』ではなく『週刊少年ジャンプ』だっただろう。 | |||
#*1973年に『週刊少年ジャンプ』は『週刊少年マガジン』の発行部数を上回り少年週刊誌のトップになっている。 | |||
#日清「どん兵衛」のデビューが1年早まっていたかも。 | |||
#*万博会場でも売られていた。 | |||
===1980年=== | |||
#[[もし中国国民党が中国共産党に勝っていたら|中国国民党が中国共産党に勝っていたら]]こうなっていた。 | |||
#翌年の神戸ポートピア博覧会はなかったかもしれない。 | |||
#同年の近鉄バファローズのパ・リーグ2連覇が万博と結び付けられていた。 | |||
===1985年=== | |||
#これから始まるバブル景気の始まりを象徴するイベントとなっていた。 | #これから始まるバブル景気の始まりを象徴するイベントとなっていた。 | ||
#1990年の花博は開催されなかった。 | #1990年の花博は開催されなかった。 | ||
151行目: | 183行目: | ||
#当時の人気番組だった「夕やけニャンニャン」が万博会場から生中継されていた。 | #当時の人気番組だった「夕やけニャンニャン」が万博会場から生中継されていた。 | ||
#*おニャン子クラブのライブも行われていた。 | #*おニャン子クラブのライブも行われていた。 | ||
#*それとともに当時人気アイドルだった中山美穂・南野陽子・岡田有希子などのイベントも行われていたかも。 | |||
#タイムカプセルに収められていたのは間違いなく『週刊少年マガジン』ではなく『週刊少年ジャンプ』だった。 | |||
#タイムカプセルに収められた物の中にはファミコンソフトも含まれていた。 | |||
==別の場所で開催されていたら== | ==別の場所で開催されていたら== | ||
===全般=== | |||
#千里ニュータウンの発展が遅れた。 | #千里ニュータウンの発展が遅れた。 | ||
#*ニュータウンのメインアクセスは阪急千里線となっていた。 | #*ニュータウンのメインアクセスは阪急千里線となっていた。 | ||
#**遅くても千里線は1980年頃に全線8両運転対応になったかもしれない。 | |||
#[[北大阪急行電鉄]]は建設されなかったが、建設されていても1970年代後半以降の開業となっていた。 | #[[北大阪急行電鉄]]は建設されなかったが、建設されていても1970年代後半以降の開業となっていた。 | ||
#*運賃も現実よりも高くなっていた。 | #*運賃も現実よりも高くなっていた。 | ||
163行目: | 199行目: | ||
#万博開催が関西地方の他の場所で行われた場合、阪急は新大阪線を建設し、見物客を宝塚などの沿線に誘致しようと図っていた。 | #万博開催が関西地方の他の場所で行われた場合、阪急は新大阪線を建設し、見物客を宝塚などの沿線に誘致しようと図っていた。 | ||
===千葉県=== | |||
*最終的に関西に開催地が決まる以前は千葉県で開催することも検討されていたそうです。 | *最終的に関西に開催地が決まる以前は千葉県で開催することも検討されていたそうです。 | ||
#開催場所は東京湾岸の埋立地が有力。 | #開催場所は東京湾岸の埋立地が有力。 | ||
#*その場合、[[東京ディズニーランド]]が現在地にできなかった可能性がある。 | #*その場合、[[東京ディズニーランド]]が現在地にできなかった可能性がある。 | ||
#**ディズニーランドは静岡県清水市(現・静岡市清水区)に建設されていた。 | |||
#*開催地が現在の千葉ニュータウンあたりだった場合、[[北総鉄道]]は万博に合わせて開業していた。 | #*開催地が現在の千葉ニュータウンあたりだった場合、[[北総鉄道]]は万博に合わせて開業していた。 | ||
#**万博で稼ぎに稼ぎまくったので、高運賃に悩まされることもなかった。 | #**万博で稼ぎに稼ぎまくったので、高運賃に悩まされることもなかった。 | ||
175行目: | 212行目: | ||
#1970年代における[[京成電鉄]]の経営悪化はなかった。 | #1970年代における[[京成電鉄]]の経営悪化はなかった。 | ||
===東京=== | |||
*日本万国博覧会において事務総長理事を務めていた鈴木俊一は最後まで首都圏開催を主張していた。 | *日本万国博覧会において事務総長理事を務めていた鈴木俊一は最後まで首都圏開催を主張していた。 | ||
#世界都市博覧会は計画すらされなかった。 | #世界都市博覧会は計画すらされなかった。 | ||
192行目: | 229行目: | ||
#***新田辺駅は万博に合わせて大規模な改築工事が実施され、万博期間中は特急も臨時停車していた。 | #***新田辺駅は万博に合わせて大規模な改築工事が実施され、万博期間中は特急も臨時停車していた。 | ||
#***難波-新田辺間にも特急を含む臨時直通電車が運行されていた。 | #***難波-新田辺間にも特急を含む臨時直通電車が運行されていた。 | ||
#**京阪も樟葉あたりからシャトルバスを運行していた。 | |||
#***万博期間中は特急が樟葉に停車していた。 | |||
#***樟葉駅の改築が現実より1年ほど早まり、万博に間に合わせていた。 | |||
#**[[第二京阪道路]]も科学万博開催に合わせて開通していた。 | |||
#**関西学術研究都市(けいはんな学研都市)の開発は科学万博会場の跡地を利用して行われた。 | |||
#*その場合1990年の国際花と緑の博覧会は大阪で開催されなかった。 | #*その場合1990年の国際花と緑の博覧会は大阪で開催されなかった。 | ||
#*場合によっては[[近鉄けいはんな線]]の開業も早まり、万博を前に生駒どころか会場まで開業していた。 | |||
#**会場まで開業できなくても最低限生駒駅までは万博までに開業し、そこからシャトルバスが会場まで結んでいた。 | |||
#**その場合白庭台や四條畷市の田原台などの開発も早まっていた。 | |||
#*京都やもちろん奈良も観光客で賑わっていた。 | |||
#東京への一極集中が現実よりも早まっていた。 | #東京への一極集中が現実よりも早まっていた。 | ||
#1988年夏季五輪の開催地に大阪が立候補していたかも。 | #1988年夏季五輪の開催地に大阪が立候補していたかも。 | ||
#*国内候補地選定で名古屋市と争っていた可能性もある。 | #*国内候補地選定で名古屋市と争っていた可能性もある。 | ||
#*実際1976年秋に大島靖大阪市長(当時)が「大阪でオリンピックを」と発言した。 | |||
#都電の廃止ペースが史実より早まっていた恐れあり。 | #都電の廃止ペースが史実より早まっていた恐れあり。 | ||
#*その代わり大阪市電の廃止のペースは史実より遅くなり、全廃は谷町線守口延伸直前の1977年3月末となっていた。 | #*その代わり大阪市電の廃止のペースは史実より遅くなり、全廃は谷町線守口延伸直前の1977年3月末となっていた。 | ||
#*東京の地下鉄整備も史実より早くなり、千代田線や有楽町線、都営新宿線は万博までに開業していた。 | |||
#「新幹線は万博のパビリオンの1つ」というのは関西人や名古屋人が言う言葉になっていた。 | |||
===山梨県=== | |||
*最終的に関西に開催地が決まる以前は山梨県で開催することも検討されていたそうです。 | *最終的に関西に開催地が決まる以前は山梨県で開催することも検討されていたそうです。 | ||
#開催場所は恐らく富士五湖周辺。 | #開催場所は恐らく富士五湖周辺。 | ||
#静岡県で開催された場合と同様、万博会場から富士山が見えることが魅力となっていた。 | #静岡県で開催された場合と同様、万博会場から富士山が見えることが魅力となっていた。 | ||
#[[中央自動車道]]の河口湖以東は万博を見据えて開通したことになっていた。 | #[[中央自動車道]]の河口湖以東は万博を見据えて開通したことになっていた。 | ||
#*そのまま身延方面まで向かうが、結局静岡方面は開通せず。 | |||
#*万博輸送の為大月JCT以東は当初から6車線規格で開通した。 | |||
#[[富士急行]]が万博輸送に大活躍した。 | #[[富士急行]]が万博輸送に大活躍した。 | ||
#*運賃も現実よりかなり安くなっていた。 | #*運賃も現実よりかなり安くなっていた。 | ||
#*「富士急ハイランド」が「エキスポランド」と呼ばれていた。 | #*「富士急ハイランド」が「エキスポランド」と呼ばれていた。 | ||
#*富士急線は全線複線化・20m車10両対応・高速運転できるように。 | |||
#*急行「かわぐち」が万博前に電車化・特急格上げされたかも。 | |||
#**富士吉田駅(現在の富士山駅)はスイッチバック解消のため河口湖寄りに移設された。 | |||
#山梨県が現実ほど地味な存在になっていなかった。 | #山梨県が現実ほど地味な存在になっていなかった。 | ||
#*万博開催の頃に[[上野原市|上野原]]ニュータウン計画が出る。 | |||
#**それが実現した場合下記のクモハ100-800・モハ100-800連結編成・103系800代が定期運用で大月まで乗り入れ。 | |||
#**201系は1980年代前半から大月まで定期運用される。 | |||
#*上野原・四方津駅の改良もニュータウン開発に合わせて行われた。 | |||
#*[[イオン|ジャスコ]]は80年頃には県内にあった筈。 | |||
#会場跡地の利用がなかなか進まなかったかもしれない。 | #会場跡地の利用がなかなか進まなかったかもしれない。 | ||
#*富士急が逆手に取って大規模な開発を積極的に進めたかも。 | |||
#*富士山新都建設構想が実現する…か。 | |||
#石和温泉や昇仙峡、身延山も万博客で史実以上の賑わいとなっていた。 | #石和温泉や昇仙峡、身延山も万博客で史実以上の賑わいとなっていた。 | ||
#中京・関西方面からの利便を図るため、東海道新幹線の新富士駅は万博に合わせて開業していた。 | #中京・関西方面からの利便を図るため、東海道新幹線の新富士駅は万博に合わせて開業していた。 | ||
#*その代わり三島駅の開業が遅れたかも。 | |||
#万博期間中、国鉄中央線の特別快速(現在の中央特快)が大月まで延長運転、上の富士急線に乗り入れた。 | |||
#*朝ラッシュ後と夕ラッシュ前の便は快速になった。 | |||
#*その期間中、快速と特別快速は、高尾以西、大月・万博会場のみ停車に。 | |||
#*中央快速線への103系の投入開始(直接投入)が1968年頃になり、クモハ103・モハ103はパンタグラフ部分低屋根構造の800番代となった。 | |||
#**現実より早く103系のインフレナンバーが登場する。 | |||
#*クモハ100-800・モハ100-800連結の編成も万博輸送に使用された。 | |||
#*万博開幕までに、101系・103系の高尾以西直通対応編成は、半閉回路(各車両両端2か所の扉のみ閉める機能)が新設(103系の中央快速線に直接投入された車両は、当初より設置)された。 | |||
#**のちになって、中央線の快速・特別快速の高尾以西乗り入れ再開(勿論、高尾以西も各駅に停車)の要望が高まる。 | |||
#*「相模湖臨時」は101・103系800番代使用の相模湖発着の特別快速だった(高尾以東から乗り換え無し)。 | |||
#*201系開発と同時にPS24が開発され中央快速線向けの編成に搭載。201系のPS35C搭載車は存在しなかったか少数だった。 | |||
#「[[Wikipedia:ja:甲州財閥|甲州財閥]]」の大企業が共同でパビリオンを出展していた。 | |||
#万博名目で[[もしあの鉄道路線が開業したら#富士山登山鉄道|富士山]]([[もしあの鉄道路線が開業していたら/中部#富士山地下鋼索鉄道|場合によっては山頂まで]])まで鉄道が通る。 | |||
#この県が[[もしあの県があの放送対象地域に入っていたら#山梨→在京広域局|「在京局の放送エリア」]]に入っていた。 | |||
#*無料で[[フジテレビ|CX]]・[[テレビ朝日|EX]]・[[テレビ東京|TX]]を観られた。 | |||
=== 静岡県 === | |||
*当初会場予定地には静岡県も立候補していたようです。 | *当初会場予定地には静岡県も立候補していたようです。 | ||
#万博会場から富士山が見えるのが魅力になっていた。 | #万博会場から富士山が見えるのが魅力になっていた。 | ||
226行目: | 302行目: | ||
#静岡県パビリオンでは「浜名湖遷都構想」に関する展示も出していた。 | #静岡県パビリオンでは「浜名湖遷都構想」に関する展示も出していた。 | ||
=== 守山市 === | |||
*滋賀県は琵琶湖大橋東側付近の守山市木浜地区への会場誘致を目指していた。 | *滋賀県は琵琶湖大橋東側付近の守山市木浜地区への会場誘致を目指していた。 | ||
#会期中には一部の特急・急行が守山駅に停車していた。 | #会期中には一部の特急・急行が守山駅に停車していた。 | ||
#*新快速は万博輸送のため1970年3月に姫路・西明石~野洲間で運転開始していた。 | #*新快速は万博輸送のため1970年3月に姫路・西明石~野洲間で運転開始していた。 | ||
#**運行開始当初は「エキスポ快速」だった。 | |||
#守山の市制施行がやや早まっていたかもしれない。 | #守山の市制施行がやや早まっていたかもしれない。 | ||
#混雑緩和のため水上交通も活用された。 | #混雑緩和のため水上交通も活用された。 | ||
#*湖東・湖北から会場内の港へ向かうアクセス航路が運航された。 | #*湖東・湖北から会場内の港へ向かうアクセス航路が運航された。 | ||
#近江商人が興した大企業が共同でパビリオンを出展していた。 | #近江商人が興した大企業が共同でパビリオンを出展していた。 | ||
#*[[西武鉄道]]が首都圏で積極的にPRしていた。 | |||
#愛知県が05年の万博誘致を発表した際に名古屋市守山区が何らかのアクションを見せていた。 | #愛知県が05年の万博誘致を発表した際に名古屋市守山区が何らかのアクションを見せていた。 | ||
#万博期間中[[東海道新幹線]]の京都~米原間に臨時駅が設置されていた。 | #万博期間中[[東海道新幹線]]の京都~米原間に臨時駅が設置されていた。 | ||
247行目: | 325行目: | ||
#*同時に名神栗東ICに直結し会場を経由して琵琶湖大橋に直結する連絡道路も建設されていた。 | #*同時に名神栗東ICに直結し会場を経由して琵琶湖大橋に直結する連絡道路も建設されていた。 | ||
#ピエリ守山のある位置は万博記念公園かもしくは何らかの施設となり、開業されなかったかもしれない。 | #ピエリ守山のある位置は万博記念公園かもしくは何らかの施設となり、開業されなかったかもしれない。 | ||
#*あるいはEXPOCITYがここにできていた。 | |||
#京阪は万博期間中淀屋橋~浜大津の直通電車を運行していた。 | #京阪は万博期間中淀屋橋~浜大津の直通電車を運行していた。 | ||
#*三条駅の本線と京津線の連絡線は万博終了まで存置された。 | #*三条駅の本線と京津線の連絡線は万博終了まで存置された。 | ||
253行目: | 332行目: | ||
#*特急用3000系(初代)は万博アクセスも兼ねて史実より1年早く登場していた。 | #*特急用3000系(初代)は万博アクセスも兼ねて史実より1年早く登場していた。 | ||
=== 大阪市 === | |||
*大阪市は当初大阪南港での開催を主張していた。 | *大阪市は当初大阪南港での開催を主張していた。 | ||
#万博後にいくつかの建物はフェリーターミナルなどへ転用された。 | #万博後にいくつかの建物はフェリーターミナルなどへ転用された。 | ||
264行目: | 343行目: | ||
#ニュートラムは、もっと早く開通していた。 | #ニュートラムは、もっと早く開通していた。 | ||
#*新交通システムではなくモノレールになっていたかも。 | #*新交通システムではなくモノレールになっていたかも。 | ||
#**その場合、会場内輸送はモノレールではなく新交通システムで、運営も東急ではなく大阪市交通局が行っていた。 | |||
#*地下鉄四つ橋線は万博開催に合わせて住之江公園まで延伸されていた。 | #*地下鉄四つ橋線は万博開催に合わせて住之江公園まで延伸されていた。 | ||
#**あるいはニュートラムやモノレールではなく四つ橋線そのものが万博会場まで延伸され、万博期間中は御堂筋線直通の新大阪~万博会場直通列車が運転されていた。場合によっては万博終了後も御堂筋線直通が残された。 | #**あるいはニュートラムやモノレールではなく四つ橋線そのものが万博会場まで延伸され、万博期間中は御堂筋線直通の新大阪~万博会場直通列車が運転されていた。場合によっては万博終了後も御堂筋線直通が残された。 | ||
#近鉄名阪特急の利用客回復が早まった。 | #近鉄名阪特急の利用客回復が早まった。 | ||
#*近鉄は万博までに名古屋線・大阪線を全線複線化させた。翌年の衝突事故は回避できた。難波線・鳥羽線の建設も含めて別会社名義で複線化工事したかもしれない。 | |||
#1990年の花博は千里か泉北で開催された。 | #1990年の花博は千里か泉北で開催された。 | ||
#ガンバ大阪の本拠地も南港にできていた。 | #ガンバ大阪の本拠地も南港にできていた。 | ||
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#*港大橋が大阪万博の象徴となっている。 | #*港大橋が大阪万博の象徴となっている。 | ||
#2025年の大阪万博招致構想の開催地が夢洲以外になっている。 | #2025年の大阪万博招致構想の開催地が夢洲以外になっている。 | ||
#*千里か鶴見緑地か泉州地域になっていた。1990年の大阪花博がどこで開催されたかにもよるが。 | |||
=== 神戸市 === | |||
*候補地の一つに「神戸市東部埋立地」があった。 | *候補地の一つに「神戸市東部埋立地」があった。 | ||
#史実の六甲アイランドに相当する位置か。 | #史実の六甲アイランドに相当する位置か。 | ||
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#*それに対抗する形で国鉄も新快速を史実より半年早く運行開始していた。 | #*それに対抗する形で国鉄も新快速を史実より半年早く運行開始していた。 | ||
=== 東大阪市 === | |||
*大阪万博の誘致に積極的に取り組んでいた近鉄は、東大阪市で開催する計画も持っていたようです。 | *大阪万博の誘致に積極的に取り組んでいた近鉄は、東大阪市で開催する計画も持っていたようです。 | ||
#会場は花園中央公園とその周辺になっていた。 | #会場は花園中央公園とその周辺になっていた。 | ||
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#*近鉄大阪線沿線とのアクセスには恩智駅が、国鉄関西線沿線とのアクセスには志紀駅が活用され、志紀駅・恩智駅と万博会場を結ぶシャトルバスが運行され、万博期間中は恩智駅にも準急が臨時停車していた。 | #*近鉄大阪線沿線とのアクセスには恩智駅が、国鉄関西線沿線とのアクセスには志紀駅が活用され、志紀駅・恩智駅と万博会場を結ぶシャトルバスが運行され、万博期間中は恩智駅にも準急が臨時停車していた。 | ||
#**国鉄関西線の快速も万博期間中は志紀駅にも臨時停車していた。 | #**国鉄関西線の快速も万博期間中は志紀駅にも臨時停車していた。 | ||
#**国鉄関西線の湊町-奈良間電化と快速の大阪環状線直通運転も万博に合わせて実施されていたかもしれない。 | |||
#**京阪沿線からのアクセスとしては寝屋川市あるいは香里園駅からシャトルバスが運行されていた。 | |||
#*布施駅周辺の高架化及び鶴橋-布施間の方向別複々線への変更も万博に合わせて実施されていた。 | #*布施駅周辺の高架化及び鶴橋-布施間の方向別複々線への変更も万博に合わせて実施されていた。 | ||
#*奈良線では料金不要特急の快速急行への種別変更も史実より早く1970年3月1日に実施されていた。会期中は万国博中央口駅(史実の東花園駅)にも快速急行を含む全列車が停車していた。 | #*奈良線では料金不要特急の快速急行への種別変更も史実より早く1970年3月1日に実施されていた。会期中は万国博中央口駅(史実の東花園駅)にも快速急行を含む全列車が停車していた。 | ||
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#万博会場と生駒山上をロープウェイで結んでいた。 | #万博会場と生駒山上をロープウェイで結んでいた。 | ||
#*生駒山上にも会場が作られていたかも。 | #*生駒山上にも会場が作られていたかも。 | ||
#[[東大阪市/ | #[[東大阪市/中部#花園|花園]]周辺の町の様子が現実と大きく変わっていた。 | ||
#近鉄は[[大阪近鉄バファローズ|球団]]もOSKも手放さずに済んだかも。 | #近鉄は[[大阪近鉄バファローズ|球団]]もOSKも手放さずに済んだかも。 | ||
#*万博終了後に花園に球場を作り、そこに本拠地を移転していた。 | #*万博終了後に花園に球場を作り、そこに本拠地を移転していた。 | ||
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#太陽の塔は生駒山を背に西を向いて立っていた。 | #太陽の塔は生駒山を背に西を向いて立っていた。 | ||
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2023年12月22日 (金) 19:31時点における最新版
開催されていなかったら[編集 | ソースを編集]
- 大阪経済の地盤沈下はもっと深刻になっていた。
- 大阪市は1970年代のうちに横浜市にはもちろんのこと名古屋市にも人口が抜かれていた。
- 西日本における政治経済の中枢がアジアに近くて地理的条件の良い福岡市に移ってしまい、そちらの人口増加が現実以上に著しくなり人口が200万人台となった。それとは裏腹に大阪市の人口規模や国際的な格付けが、1990~2000年代には札幌市や福岡市とほぼ同じになった。
- 関西国際空港が建設されなかった代わりに、羽田空港や成田空港、千歳空港の拡張や24時間化及び現在の北九州空港もしくは佐賀空港が福岡板付空港の狭小化に伴って、早くから滑走路2本を有する24時間空港と言う形で建設されていた。
- 史実で関空が開港した1994年に中部国際空港が開港していた。
- 中部地方の位置付けが変わり、東海・北陸・近畿の三地区で構成される。それによって、甲信越三県と静岡県は本格的な関東地方への仲間入りを果たす事になる。同時にJR東海やNEXCO中日本は設立されていないし、「中部地方の中心は何処か?。」と言う名古屋市と大阪市との対立が勃発した。
- いくら何でもそこまでの地方区分の変動が起きるとは考えにくい。
- 京阪神と中京圏では人口や産業基盤など都市圏の基礎体力とでも言うべき部分の差がまだまだ大きいのでは。
- 東京一極集中をさらに促進させることにもなった。
- 北陸新幹線の金沢以西は計画が凍結されたか、建設されるにしても米原ルートにすんなり決定した。
- 大阪市は1970年代のうちに横浜市にはもちろんのこと名古屋市にも人口が抜かれていた。
- 地下鉄御堂筋線は現在も新大阪止まり。
- 大阪市営地下鉄の路線網は現実の半分程度となっていた。
- 大阪市内の道路が貧弱になっていた。
- 大阪市電の廃止が数年遅れていた。
- 全面廃止は1977年4月の地下鉄谷町線都島-守口間開通時になっていた。
- 地下鉄回数券をバラ売りするおばさんが消えるのも少し遅くなっていた(史実では大阪万博の開催がきっかけで消えたため)。
- 恐らく自動券売機が本格的に普及するまでは存在していた。
- この作品の内容が変わっていた。
- 「ウルトラマン」の関西が舞台の回も史実とまったく異なる内容だった。
- 映画「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」に関しても同じく。
- むしろつくばか東京近郊のどこかで万博開催。
- 羽田の旧ターミナルが史実よりでかくなるので今も残存
- サンシャイン60に匹敵する大型ビルは巣鴨拘置所跡地以外に誕生するなど、東京の超高層化は20年早かった。
- 通勤五方面作戦や武蔵野線も現実より早く完成。
- つくば万博の開催が15年早かった場合...
- なお史実で名前が挙がっていたのは千葉県、山梨県、静岡県、「羽田空港跡地」。
- そもそも日本ではなく対抗馬だったオーストラリアのメルボルンで開催された可能性もある。
- 岡本太郎の知名度が現実より下がっていた。
- 名古屋ではなく大阪が1988年のオリンピックを誘致しようとしていた。
- 1980年か1984年だったかもしれない。
- 70年代以降の三波春夫の人気や知名度は史実よりも低かった。
- 関西以外で「千里丘陵」を知る人はほとんどいない。
- 「博覧会→儲かる」という図式が広まらないため80年代からの地方博ブームはない。
- 70年安保も国民的な運動になっていた。
- ベトナム反戦運動と結びついて60年安保以上の規模になっていた可能性も。
- 明治ブルガリアヨーグルトは誕生しなかった。
- 缶コーヒーの誕生や日本でのファストフードの普及も遅れていた。
- 阪急南茨木駅は1970年の時点では開業していなかった。
- 恐らく1980年代か、遅くて1990年の大阪モノレール開業と同時だっただろう。
- 場合によっては摂津市駅の方が早く開業していた。
- 関西圏の新快速の運転開始は1972年3月改正となっていた。
- 茨木駅は1985年3月改正まで快速も通過していた。
- 新大阪駅に快速の停車が開始されるのも。山陽新幹線岡山開業がきっかけだった。
- 東海道新幹線の16両運転開始は史実よりも遅れ、山陽新幹線岡山開業時となっていた。
- 同年4月に発生した天六ガス爆発事故が史実以上に大きく取り上げられていた。
- 同年における大阪としては最大のニュースとなっていた。
- 堺屋太一が博覧会と深く関わることになる機会は確実に減っていた。
- 日本での万博初開催はおそらく90年代。
- 湘南モノレールの開業がやや遅れた。
- 恐らく翌年の1971年に全区間を一気に開業していた。
- あいりん地区が現実ほど大規模にならなかったかもしれない(史実では万博会場の建設工事にここから労働者が大量に送り込まれたため)。
- 京阪京橋駅の現在地への移転拡張や近鉄奈良駅の地下化及び付近の併用軌道廃止が現実よりも遅れていた。
別の時代に開催されていたら[編集 | ソースを編集]
当時のBIE規約では万国博覧会を開催する間隔は「2年以上」としか書かれていなかった。
- 期間は1964年(大阪の前の一般博はシアトル・1962年、モントリオール・1967年)~1990年(大阪の次の一般博・セビリアが1992年)とする。
1964年[編集 | ソースを編集]
- 万博開催中に東海道新幹線が開通していた。
- 史実では東海道新幹線開通は10月1日。大阪万博最終日は9月13日。
- 1964年3月1日が開業日だった。
- 地盤が固まらず開業時の所要時間が史実よりさらにかかっていた。
- 北大阪急行電鉄の開通も早まった。
- 北大阪急行の開業時の車両は大阪市交50系に準じた3扉鋼製17m車で製造されていた。
- 阪急千里線の北千里延伸も1964年3月に実現していた。
- ただこの場合でも1964年に地下鉄堺筋線の建設や堺筋線との直通運転が実現したかどうかは微妙。
- 阪急新大阪線が開業していた可能性もある。
- そうなると、万博会場へのメインルートになっていた。
- カラーテレビ・クーラー・自動車が展示されていた。
- 他のパビリオンも企業色全開のものになり海外メディアなどから酷評された。
- その代わり3年後のモントリオール万博の日本館は史実より高い評価を受けている。
- 他のパビリオンも企業色全開のものになり海外メディアなどから酷評された。
- 衛星中継実現の動機が万博になっていた。
- 参加国は確実に減っている。
- 当時国交成立前の韓国や独立していなかったアフリカの一部の国が参加できなかった。
- もちろん日本の国際博覧会条約参加はもっと早い。
- 『愛と死をみつめて』の中で万博に言及しているシーンがあった。
- 「ALWAYS 三丁目の夕日'64」でも何らかの形で登場していた。
- 40年不況はもっと深刻化していた。
- 同年における阪神タイガースのリーグ優勝が万博と結び付けられていた。
1972年[編集 | ソースを編集]
- 実際、1964年8月のある新聞記事には「72年に開催を延期する可能性がある」という趣旨の記述があった。
- 山陽新幹線全線開業が1972年だった。
- 史実通り岡山開業なら九州方面のエキスポこだまも運行された。
- もし1972年開催の場合、山陽新幹線岡山開業は万博に間に合わせる形になっていた。
- 阪急梅田駅の大阪駅北側への移転も万博までに全て完了していた。
- 史実通り岡山開業なら九州方面のエキスポこだまも運行された。
- もしかしたら同年開催の札幌オリンピックとの連動企画も行われていた。
- 万博の開会式より前にオリンピックが終わっているのでそれは考えにくい。
- マクドナルドが会場内に出店していた。
- カップヌードルの自販機も置かれており、売店でも売られていた。2月のあさま山荘事件とともにカップヌードル大ヒットのきっかけとして後々まで語られる。
- ミスタードーナツも(大阪に本社があるダスキンが運営)。
- 赤軍派によるテロの標的にされた恐れあり。
- 会期中にセイロン館が「スリランカ館」に変わった。
- 沖縄が日本に復帰した5月15日には沖縄舞踊などが披露された。
- それとともにその少し前に発生した千日デパート火災が万博と合わせて語り継がれていた。犠牲者にも万博帰りの人がいたかもしれない。
- 佐藤栄作首相の退陣時期に影響があったかもしれない。
- この年に発生した羽田やニューデリーでの日航機事故に万博関係者が巻き込まれていた恐れがある。
- 放送期間の前半分が会期と重なったであろう「ウルトラマンA」にも万博ネタが登場していた。
- 1972年は現実以上に後々まで語り継がれる年となっていた。
- 阪急新大阪線が確実に開業していた。
- 京阪3000系電車 (初代)は万博を前に登場したことになっていた。
- 阪急5300系の登場も少し早まり、万博に間に合っていた。
- 新快速は万博開催が運転開始のきっかけとなっていた。
- 会期中は会場最寄りの茨木駅にも臨時停車していた。
1975年[編集 | ソースを編集]
- 1970年に開催できなければ、1975年開催、そのときは
- 沖縄海洋博がない。したがって沖縄の街並み発展が遅れる。
- 沖縄の街並みが発展するのは1980年代後半のバブル期になってから。
- オイルショックで万博の内容が愛知万博を先取りしたような省エネ型、そして不況型に
- ただし、開催により日本はいち早くオイルショックから脱出。
- 山陽新幹線は万博を前に博多まで全通していた。
- 湖西線も万博前年に開業していた。
- 12系客車の登場が遅れた。
- むしろ12系よりも14系座席車の方が史実以上に製造されていた。
- 沖縄海洋博はなかったか、1980年代に開催されていた。
- 1980年代に開催されていたら史実より規模が大きかった。
- 沖縄への観光客が増加していることもあり、入場者数も増えていて、黒歴史扱いにされることはなかった。
- 本土における沖縄ブームは史実より10年以上早く到来していた。
- 1980年代に開催されていたら史実より規模が大きかった。
- ボイジャー計画に関連した展示物も出展していた。
- アポロ・ソユーズテスト計画もけっこう大きく扱われた。
- 中華民国ではなく中華人民共和国が参加した。
- 日本との国交成立後のためモンゴルも参加できた。
- 中国博覧会は開催されなかった(史実では1974年7月~8月に万博会場跡で開催された)。
- 反博運動はそこまで過熱しなかった。
- ザ・ピーナッツの最終公演が万博会場で行われたかもしれない。
- サイゴン陥落により南ベトナム館は会期途中で閉鎖された。
- 南ベトナム人やカンボジア人のなかには閉鎖後もしくは終了後に帰国せずそのまま日本にとどまった人もいた。
- この年の阪急ブレーブスの日本一が万博と結び付けられて語られることもある。
- 同じ年なこともあり関西の街の盛り上がりが現実以上のものとなった。
- 万博輸送で大儲けしたことや京都線特急車6300系の登場もあり阪急にとっても語り継がれる年になっていた。
- 6300系の登場は史実よりも少し早まり万博開幕に合わせる形となっていた。
- タイムカプセルに収められていたのは『週刊少年マガジン』ではなく『週刊少年ジャンプ』だっただろう。
- 1973年に『週刊少年ジャンプ』は『週刊少年マガジン』の発行部数を上回り少年週刊誌のトップになっている。
- 日清「どん兵衛」のデビューが1年早まっていたかも。
- 万博会場でも売られていた。
1980年[編集 | ソースを編集]
- 中国国民党が中国共産党に勝っていたらこうなっていた。
- 翌年の神戸ポートピア博覧会はなかったかもしれない。
- 同年の近鉄バファローズのパ・リーグ2連覇が万博と結び付けられていた。
1985年[編集 | ソースを編集]
- これから始まるバブル景気の始まりを象徴するイベントとなっていた。
- 1990年の花博は開催されなかった。
- 代わりにつくば科学万博が1990年開催となっていた。
- 人口の多い団塊ジュニア世代は小中学生時代にこの万博を経験していた(特に関西在住)。
- 彼らにおける思い出話にこの万博がよく出てくるようになっていた。
- 同年8月に発生した日航123便墜落事故の犠牲者の中にも万博に向かう乗客が含まれていた。
- 同年における阪神タイガースのリーグ優勝・日本一が万博と結び付けられていた。
- もしかすると関西の街の盛り上がりが現実以上のものとなっていたかもしれない。
- 当時の人気番組だった「夕やけニャンニャン」が万博会場から生中継されていた。
- おニャン子クラブのライブも行われていた。
- それとともに当時人気アイドルだった中山美穂・南野陽子・岡田有希子などのイベントも行われていたかも。
- タイムカプセルに収められていたのは間違いなく『週刊少年マガジン』ではなく『週刊少年ジャンプ』だった。
- タイムカプセルに収められた物の中にはファミコンソフトも含まれていた。
別の場所で開催されていたら[編集 | ソースを編集]
全般[編集 | ソースを編集]
- 千里ニュータウンの発展が遅れた。
- ニュータウンのメインアクセスは阪急千里線となっていた。
- 遅くても千里線は1980年頃に全線8両運転対応になったかもしれない。
- ニュータウンのメインアクセスは阪急千里線となっていた。
- 北大阪急行電鉄は建設されなかったが、建設されていても1970年代後半以降の開業となっていた。
- 運賃も現実よりも高くなっていた。
- ガンバ大阪の本拠地は千里ではない。
- 阪急南茨木駅の開業は1990年の大阪モノレール開業時となっていた。
- 地下鉄堺筋線は南海と相互直通運転をしていたか、もしくは相互直通を一切考慮しない第三軌条方式で建設されていた。
- 万博開催が関西地方の他の場所で行われた場合、阪急は新大阪線を建設し、見物客を宝塚などの沿線に誘致しようと図っていた。
千葉県[編集 | ソースを編集]
- 最終的に関西に開催地が決まる以前は千葉県で開催することも検討されていたそうです。
- 開催場所は東京湾岸の埋立地が有力。
- その場合、東京ディズニーランドが現在地にできなかった可能性がある。
- ディズニーランドは静岡県清水市(現・静岡市清水区)に建設されていた。
- 開催地が現在の千葉ニュータウンあたりだった場合、北総鉄道は万博に合わせて開業していた。
- 万博で稼ぎに稼ぎまくったので、高運賃に悩まされることもなかった。
- 千葉ニュータウンは現在では人気の住宅地となっている。
- その場合、東京ディズニーランドが現在地にできなかった可能性がある。
- 成田空港は万博に合わせる形で開港していた。
- 1970年代における京成電鉄の経営悪化はなかった。
東京[編集 | ソースを編集]
- 日本万国博覧会において事務総長理事を務めていた鈴木俊一は最後まで首都圏開催を主張していた。
- 世界都市博覧会は計画すらされなかった。
- 1940年の東京万博のリベンジだと言われていた。
- 開催場所は晴海か。
- 総入場者数が7,000万人を超えていた。
- 代わりに国際科学技術博覧会が近畿で開かれていた。
- 会場はけいはんな学研都市だろうか?もしそうだったら片町線は科学万博開催に合わせて全線電化されていた。
- 京田辺市の市制施行も早まっていた。
- 快速運転開始も早まっていた。
- 万博期間中に「エキスポ快速」として運行したのがきっかけで、その後快速運転が定着した可能性が高い。
- おおさか東線も科学万博に合わせて開業し、新大阪からの直通快速も運行されていた。
- 大量の万博来場客を捌くため、電化と同時に全線が7両編成対応になっていた。
- 近鉄京都線でも科学万博に合わせてさまざまなムーブメントが行われていた。
- 京都市営地下鉄への直通運転も史実より早く実施されていた。
- 新田辺駅は万博に合わせて大規模な改築工事が実施され、万博期間中は特急も臨時停車していた。
- 難波-新田辺間にも特急を含む臨時直通電車が運行されていた。
- 京阪も樟葉あたりからシャトルバスを運行していた。
- 万博期間中は特急が樟葉に停車していた。
- 樟葉駅の改築が現実より1年ほど早まり、万博に間に合わせていた。
- 第二京阪道路も科学万博開催に合わせて開通していた。
- 関西学術研究都市(けいはんな学研都市)の開発は科学万博会場の跡地を利用して行われた。
- その場合1990年の国際花と緑の博覧会は大阪で開催されなかった。
- 場合によっては近鉄けいはんな線の開業も早まり、万博を前に生駒どころか会場まで開業していた。
- 会場まで開業できなくても最低限生駒駅までは万博までに開業し、そこからシャトルバスが会場まで結んでいた。
- その場合白庭台や四條畷市の田原台などの開発も早まっていた。
- 京都やもちろん奈良も観光客で賑わっていた。
- 会場はけいはんな学研都市だろうか?もしそうだったら片町線は科学万博開催に合わせて全線電化されていた。
- 東京への一極集中が現実よりも早まっていた。
- 1988年夏季五輪の開催地に大阪が立候補していたかも。
- 国内候補地選定で名古屋市と争っていた可能性もある。
- 実際1976年秋に大島靖大阪市長(当時)が「大阪でオリンピックを」と発言した。
- 都電の廃止ペースが史実より早まっていた恐れあり。
- その代わり大阪市電の廃止のペースは史実より遅くなり、全廃は谷町線守口延伸直前の1977年3月末となっていた。
- 東京の地下鉄整備も史実より早くなり、千代田線や有楽町線、都営新宿線は万博までに開業していた。
- 「新幹線は万博のパビリオンの1つ」というのは関西人や名古屋人が言う言葉になっていた。
山梨県[編集 | ソースを編集]
- 最終的に関西に開催地が決まる以前は山梨県で開催することも検討されていたそうです。
- 開催場所は恐らく富士五湖周辺。
- 静岡県で開催された場合と同様、万博会場から富士山が見えることが魅力となっていた。
- 中央自動車道の河口湖以東は万博を見据えて開通したことになっていた。
- そのまま身延方面まで向かうが、結局静岡方面は開通せず。
- 万博輸送の為大月JCT以東は当初から6車線規格で開通した。
- 富士急行が万博輸送に大活躍した。
- 運賃も現実よりかなり安くなっていた。
- 「富士急ハイランド」が「エキスポランド」と呼ばれていた。
- 富士急線は全線複線化・20m車10両対応・高速運転できるように。
- 急行「かわぐち」が万博前に電車化・特急格上げされたかも。
- 富士吉田駅(現在の富士山駅)はスイッチバック解消のため河口湖寄りに移設された。
- 山梨県が現実ほど地味な存在になっていなかった。
- 会場跡地の利用がなかなか進まなかったかもしれない。
- 富士急が逆手に取って大規模な開発を積極的に進めたかも。
- 富士山新都建設構想が実現する…か。
- 石和温泉や昇仙峡、身延山も万博客で史実以上の賑わいとなっていた。
- 中京・関西方面からの利便を図るため、東海道新幹線の新富士駅は万博に合わせて開業していた。
- その代わり三島駅の開業が遅れたかも。
- 万博期間中、国鉄中央線の特別快速(現在の中央特快)が大月まで延長運転、上の富士急線に乗り入れた。
- 朝ラッシュ後と夕ラッシュ前の便は快速になった。
- その期間中、快速と特別快速は、高尾以西、大月・万博会場のみ停車に。
- 中央快速線への103系の投入開始(直接投入)が1968年頃になり、クモハ103・モハ103はパンタグラフ部分低屋根構造の800番代となった。
- 現実より早く103系のインフレナンバーが登場する。
- クモハ100-800・モハ100-800連結の編成も万博輸送に使用された。
- 万博開幕までに、101系・103系の高尾以西直通対応編成は、半閉回路(各車両両端2か所の扉のみ閉める機能)が新設(103系の中央快速線に直接投入された車両は、当初より設置)された。
- のちになって、中央線の快速・特別快速の高尾以西乗り入れ再開(勿論、高尾以西も各駅に停車)の要望が高まる。
- 「相模湖臨時」は101・103系800番代使用の相模湖発着の特別快速だった(高尾以東から乗り換え無し)。
- 201系開発と同時にPS24が開発され中央快速線向けの編成に搭載。201系のPS35C搭載車は存在しなかったか少数だった。
- 「甲州財閥」の大企業が共同でパビリオンを出展していた。
- 万博名目で富士山(場合によっては山頂まで)まで鉄道が通る。
- この県が「在京局の放送エリア」に入っていた。
静岡県[編集 | ソースを編集]
- 当初会場予定地には静岡県も立候補していたようです。
- 万博会場から富士山が見えるのが魅力になっていた。
- 県内のどこに会場ができるのかにもよるが、東海道新幹線の新富士・掛川のいずれかは万博開催に合わせて開業していた可能性がある。
- 駅名は万博会期中は「万博中央口」とかになり、終了後に現駅名に改称されていた。
- 会期中は全部あるいは一部の「ひかり」も停車していた。現実と異なり島式2面4線ホームになっていた可能性もある。
- 富士山静岡空港は万博開催を前に開港していた。
- 空港名も当初は「静岡空港」だった。
- 本田技研工業・ヤマハ・河合楽器製作所などの県内の有力企業もパビリオンを出していた。
- 静岡市か浜松市のいずれかが20世紀中に政令指定都市に昇格していた。
- 特にその2都市以外の場所で行われた場合は結局史実と変わらないような気もする。
- タミヤ(当時の田宮模型)が全パビリオンのプラモデルを発売していた。
- 静岡県パビリオンでは「浜名湖遷都構想」に関する展示も出していた。
守山市[編集 | ソースを編集]
- 滋賀県は琵琶湖大橋東側付近の守山市木浜地区への会場誘致を目指していた。
- 会期中には一部の特急・急行が守山駅に停車していた。
- 新快速は万博輸送のため1970年3月に姫路・西明石~野洲間で運転開始していた。
- 運行開始当初は「エキスポ快速」だった。
- 新快速は万博輸送のため1970年3月に姫路・西明石~野洲間で運転開始していた。
- 守山の市制施行がやや早まっていたかもしれない。
- 混雑緩和のため水上交通も活用された。
- 湖東・湖北から会場内の港へ向かうアクセス航路が運航された。
- 近江商人が興した大企業が共同でパビリオンを出展していた。
- 西武鉄道が首都圏で積極的にPRしていた。
- 愛知県が05年の万博誘致を発表した際に名古屋市守山区が何らかのアクションを見せていた。
- 万博期間中東海道新幹線の京都~米原間に臨時駅が設置されていた。
- 会場へはここからモノレールorバスでアクセスしていた。モノレールの場合は守山駅も経由していた。
- 万博終了後この臨時駅は一旦廃止されるが、用地があるので後年南びわ湖駅として復活していた。
- ホームは2面4線になり、全部あるいは一部の「ひかり」が停車していた。
- 滋賀県の人口増加のペースが現実よりも早かった。
- 湖西線は万博開催に合わせて開業していた。
- 会期中は一部の特急・急行が万博会場の対岸にあたる堅田駅に停車していた。
- 江若鉄道の廃止も早まっていた。
- 琵琶湖大橋が連絡道路として大いに機能し、レインボーロードは万博に因んだ愛称となった。
- 万博開催を前に片側2車線、計4車線に拡幅されていた。
- 同時に名神栗東ICに直結し会場を経由して琵琶湖大橋に直結する連絡道路も建設されていた。
- ピエリ守山のある位置は万博記念公園かもしくは何らかの施設となり、開業されなかったかもしれない。
- あるいはEXPOCITYがここにできていた。
- 京阪は万博期間中淀屋橋~浜大津の直通電車を運行していた。
- 三条駅の本線と京津線の連絡線は万博終了まで存置された。
- 万博観覧はもちろんのこと、滋賀県への観光客誘致の意味も込めて運行されていた。
- 浜大津港からの航路も運航され、京阪は電車と湖上アクセス航路の乗り継ぎによる万博アクセスをPRしていた。
- 特急用3000系(初代)は万博アクセスも兼ねて史実より1年早く登場していた。
大阪市[編集 | ソースを編集]
- 大阪市は当初大阪南港での開催を主張していた。
- 万博後にいくつかの建物はフェリーターミナルなどへ転用された。
- 地下鉄中央線がメインゲートのそばまで延伸された。
- 阪神なんば線も万博に合わせて実現していたかもしれない。
- 海上輸送が使えるため史実より大きな展示物を運び込めた。
- 史実のように象が国道を闊歩する光景は見られなかった。
- 決定時に大阪府が「大阪市は万博の利益を独り占めしようとしている」と批判していた。
- そのため、1990年の花博か2025年の万博のいずれかの開催地は大阪市外になっていた。
- ニュートラムは、もっと早く開通していた。
- 新交通システムではなくモノレールになっていたかも。
- その場合、会場内輸送はモノレールではなく新交通システムで、運営も東急ではなく大阪市交通局が行っていた。
- 地下鉄四つ橋線は万博開催に合わせて住之江公園まで延伸されていた。
- あるいはニュートラムやモノレールではなく四つ橋線そのものが万博会場まで延伸され、万博期間中は御堂筋線直通の新大阪~万博会場直通列車が運転されていた。場合によっては万博終了後も御堂筋線直通が残された。
- 新交通システムではなくモノレールになっていたかも。
- 近鉄名阪特急の利用客回復が早まった。
- 近鉄は万博までに名古屋線・大阪線を全線複線化させた。翌年の衝突事故は回避できた。難波線・鳥羽線の建設も含めて別会社名義で複線化工事したかもしれない。
- 1990年の花博は千里か泉北で開催された。
- ガンバ大阪の本拠地も南港にできていた。
- 阪神高速湾岸線の堺以北は万博に合わせて開業していた。
- 南海沿線からのアクセスとして堺・堺東駅からシャトルバスが運行されていた。
- 国鉄長居駅からも阪和線からのアクセスとしてシャトルバスが運行され、万博期間中は長居にも快速・区間快速が臨時停車していた。
- 港大橋が大阪万博の象徴となっている。
- 南海沿線からのアクセスとして堺・堺東駅からシャトルバスが運行されていた。
- 2025年の大阪万博招致構想の開催地が夢洲以外になっている。
- 千里か鶴見緑地か泉州地域になっていた。1990年の大阪花博がどこで開催されたかにもよるが。
神戸市[編集 | ソースを編集]
- 候補地の一つに「神戸市東部埋立地」があった。
- 史実の六甲アイランドに相当する位置か。
- ポートアイランドかも。
- 神戸市電や阪神国道線の廃止がやや早まった。
- 大阪南港の場合と同じようにこちらも海上輸送を活用できた。
- もちろんポートピア81は開催されなかった。
- 代わりに1980年代に大阪で博覧会が開催されていたかも。
- 日本最初の新交通システムは大阪のニュートラムとなっていた。
- UCCはこの博覧会から自社パビリオンを出していた。
- ダイエーも。
- 阪神淡路大震災で万博の遺構に被害が出ていた。
- 山陽新幹線の岡山開業は万博開催に合わせて行われていた。
- そこまでいかなくても西明石・あるいは姫路まで部分開業していたかもしれない。
- 阪神なんば線が万博までに開業できていたかも。
- 万博期間中は近鉄の名阪・阪伊・阪奈特急の一部が阪神三宮まで延長運転されていた。
- 阪神電鉄自身も万博会場への路線を建設していた。
- 阪神電鉄は万博で大儲けできていたため、球団に金をかけることができ、1970~80年代における成績の低迷は現実ほどではなかった。
- 1970~85年の間に何度か優勝できていた。特に1973年は阪神がリーグ優勝し、巨人のV9を阻止していた。
- ポートライナーは建設されなかった。
- 阪神電鉄は万博で大儲けできていたため、球団に金をかけることができ、1970~80年代における成績の低迷は現実ほどではなかった。
- 神戸高速鉄道は万博開催が開業のきっかけになっていた。
- 阪神・阪急梅田~山陽姫路間の直通特急は万博を機に運行開始されていた。
- それに対抗する形で国鉄も新快速を史実より半年早く運行開始していた。
東大阪市[編集 | ソースを編集]
- 大阪万博の誘致に積極的に取り組んでいた近鉄は、東大阪市で開催する計画も持っていたようです。
- 会場は花園中央公園とその周辺になっていた。
- 「万国博記念近鉄ラグビー大会」が開催されるかもしれない。
- 会場へのメインアクセスは近鉄奈良線で、東花園駅が万博期間中だけ「万国博中央口」駅に改称されていた。
- 他のアクセスとして近鉄東大阪線が万博に合わせて会場最寄りまで開通していた。
- 生駒・学研奈良登美ケ丘までの延伸は史実通りだろう。
- 新石切までは万博開催時に開業していた。
- 奈良線の東花園検車区の北側に東大阪線の車両基地を、併設して仮乗降場「万国博東口」駅を設置し、会期中はそこへの回送線を利用して輸送が行われる。
- 東大阪線車輌の大規模検査のための回送は、この車両基地と東花園検車区を接続したルートを介して行われるようになる。
- 生駒・学研奈良登美ケ丘までの延伸は史実通りだろう。
- 阪神なんば線も沿線の反対運動に遭いながらも万博開催に合わせるように開通し、神戸方面からの万博アクセスとなっていた。
- 会期中には山陽姫路からも万博会場への直通特急が運行されていた。
- 近鉄大阪線沿線とのアクセスには恩智駅が、国鉄関西線沿線とのアクセスには志紀駅が活用され、志紀駅・恩智駅と万博会場を結ぶシャトルバスが運行され、万博期間中は恩智駅にも準急が臨時停車していた。
- 国鉄関西線の快速も万博期間中は志紀駅にも臨時停車していた。
- 国鉄関西線の湊町-奈良間電化と快速の大阪環状線直通運転も万博に合わせて実施されていたかもしれない。
- 京阪沿線からのアクセスとしては寝屋川市あるいは香里園駅からシャトルバスが運行されていた。
- 布施駅周辺の高架化及び鶴橋-布施間の方向別複々線への変更も万博に合わせて実施されていた。
- 奈良線では料金不要特急の快速急行への種別変更も史実より早く1970年3月1日に実施されていた。会期中は万国博中央口駅(史実の東花園駅)にも快速急行を含む全列車が停車していた。
- おおさか東線も万博を前に開業していた。
- 万博期間中は近鉄奈良線の優等列車が河内永和駅に臨時停車していた。
- 他のアクセスとして近鉄東大阪線が万博に合わせて会場最寄りまで開通していた。
- 万博期間中は名古屋から会場まで近鉄特急が直通していた。
- 橿原線奈良線経由の名阪乙特急が生まれ、万博終了後は従来の大阪線経由をノンストップ特急専用にしていたかもしれない。
- この場合の名阪乙特急は、橿原線の大和西大寺から大阪線の伊勢中川まで京都伊勢間特急との併結運転とされる。
- これを機に新青山トンネルが早期に建設されれば、1971年の特急正面衝突事故は発生しなかった。
- 工期上の関係もあって史実の新青山トンネルのルートではなく、旧東青山駅を通る旧来のルートで複線化されていた可能性も強い。
- 会期中は観客の京都への誘導を目論み、臨時で京都発着の直通特急も運転された。
- 史実で2年間だけ存在した奈良-賢島系統の代わりに、万博会場-賢島間の特急が運転されていた。
- 橿原線奈良線経由の名阪乙特急が生まれ、万博終了後は従来の大阪線経由をノンストップ特急専用にしていたかもしれない。
- 東大阪市のイメージが大きく上がっていた。
- 「中小企業の町」ではなく「万博が開催された町」というイメージになっている。
- 人口も現実よりも多く、2017年現在50万人を割ることはなかった。
- 布施・河内・枚岡三市の合併直後で成立間もない東大阪市にとっては万博が市のPRの良い機会となっていた。
- 平成の大合併の時に八尾市・柏原市・大東市と合併して政令指定都市になっていたかもしれない。
- 万博会場と生駒山上をロープウェイで結んでいた。
- 生駒山上にも会場が作られていたかも。
- 花園周辺の町の様子が現実と大きく変わっていた。
- 近鉄は球団もOSKも手放さずに済んだかも。
- 万博終了後に花園に球場を作り、そこに本拠地を移転していた。
- 大阪府の南北格差が現実よりも小さくなっていた。
- 現実ほど北摂偏重にならなかった。
- 荒本の新市役所も現実より早く完成していた。
- 太陽の塔は生駒山を背に西を向いて立っていた。