もし1985年プロ野球ドラフトで○○だったら
2014年7月20日 (日) 03:34時点における>Konkon345による版 (→巨人が抽選に勝っていたら)
1985年ドラフトで巨人は意中としていた清原和博ではなく早稲田大学進学が決まっていた桑田真澄を1位指名しました。もしあっさりと清原を指名していたらどうなっていたのだろう?
読売ジャイアンツが清原和博を指名していたら
巨人が抽選に勝っていたら
- 清原は引退まで巨人に居られただろう。
- 引退が早まった可能性もある。
- しかし通算成績は現実の世界とほとんど変わらなかっただろう。
- 西武からFAで巨人に移籍した前後の成績を見比べてみるといい。
- ポジションのかぶる駒田はトレードされていた。
- 中畑もトレードされていた。
- 中畑は引退が早まっていたのでは?
- 中畑もトレードされていた。
- 入団1年目で4番に抜擢されることはなかった(当時の巨人は原、クロマティ、吉村といった打者がいたため、当時10代の清原が入り込める余地がなかったと思う)。
- 清原ではなく桑田を指名したのはこのためか?
- この時は巨人は投手が必要だったため、1位から4位まで投手を指名していた。
- 清原ではなく桑田を指名したのはこのためか?
- 4番に抜擢されたのは3年目ぐらいか。
- FA制度の導入はなかったか?
- 当時、1桁台の背番号は7しか空いていなかったのでもしかしたら永久欠番になっていたかもしれない。
- 巨人は高卒新人野手にあまりいい背番号を与えない傾向があるので、吉村禎章の後を受けて55をつけていた可能性もある。
- そうなると、この7年後に松井秀喜が入団していたら何番になったやら・・・
- 巨人は高卒新人野手にあまりいい背番号を与えない傾向があるので、吉村禎章の後を受けて55をつけていた可能性もある。
- 89年の日本シリーズで巨人は0勝3敗まで追いつめられることはなく、もう少しすんなり勝っていた。
- 当然、「巨人はロッテより弱い」等とマスコミに報道されることもなかった。
- 意外にも近鉄が日本一になっていた可能性もある。
- 肉体改造を行っていたかは不明。
- 「番長」と呼ばれることもなかったかも。
巨人が抽選に敗れていたら
- 桑田をはずれ1位で獲り、結局史実とあまり変わらない。
- 桑田を取らなかった場合は、投手力が悪化し王監督の辞任が早まった。
- 清原のその後は下記の項目を参照。
- 西武だったら史実通り。
清原和博が西武・巨人以外の球団に入団していたら
近鉄だったら
- 西武の代わりに黄金時代が到来。
- 中村紀洋は芽が出なかったかも。
- 「地元の星や!」と大阪では大喝采。
- ブライアントは無名のままアメリカへ帰国。
- 10.19決戦は勝っていた。
- 89年の日本シリーズは文句なしで勝利し、近鉄は日本一になれた。
- もし4勝0敗で勝っていた場合、当時の巨人監督の藤田監督は解任されていたかもしれない。
- 鈴木監督と喧嘩して現実より早く巨人へ行ったかも。
- もしくは野茂に誘われて、一緒にメジャーに行っていたかもしれない。
- 2004年まで近鉄に在籍していたら、2005年以降はオリックスから楽天に在籍していた。
- 近鉄消滅してないんじゃない?ノリ化して結局同じかもしれんが。
- 入来智と「鉄パイプ大立ち回り」(!?)を演じていた。
南海だったら
- 暗黒時代は回避できた
- 「生卵事件」は起こらなかった。
- 王監督の就任はなかったか?
- 1994年に秋山幸二がダイエーに移籍したことで、同球団でも「AKコンビ」が実現する。
- 清原は岸和田市出身のため、近鉄や阪神のケース以上に「地元の星や!」と大喝采を受けていた。
- 少なくとも泉州地域では南海人気が現実以上に盛り上がっていただろう。
日本ハムだったら
- 巨人との日本シリーズで「KK決戦」、「東京ドーム決戦」が発生し話題になる。
- 1993年、1998年は優勝していた。
- ミスターファイターズは田中幸雄ではなく清原。
中日だったら
- 後に入団する立浪和義とともに「KTコンビ」が組まれた。
- 落合・宇野と共にOUK砲などと呼ばれたかも知れない。
- いや、1986年オフに落合を獲得してなかったかも。(=牛島和彦も中日に残留)
- 落合・宇野と共にOUK砲などと呼ばれたかも知れない。
- 1994年に巨人に勝ち優勝。
- 1988年の日本シリーズは中日が制覇している。
- 例の新幹線高架下直撃弾も渡辺久信から放った。
- 斉藤学(史実でのドラ1)が中日に入ることはなかった。
- よって、掛布雅之の現役引退も史実より遅くなっていた。
阪神だったら
- 1986年に連覇達成。
- それ以降強豪チームに。
- 92年は優勝していた。
- 近鉄と同じく「地元の星や!」と大阪では大喝采。
- 暗黒時代突入は遅れていた。
- 4番候補として外国人を獲得しては失敗する、なんてこともなかった。
- バースの影でじっくりと育成されていた。
- そして1988年、バースの退団によって4番を任され一気に地位を確固たるものとする。
- いや、ルーキーの年に故障した掛布に代わって三塁手として名を馳せていたかもしれない。
- さすがにFAを取っても巨人に行くことはなかっただろう。
- 水樹奈々が阪神ファンに転向することもなかった…かもしれない。
- 遠山昭治(当時)の阪神入りはなかった。
- ゆえに阪神との縁もなかったため、後年の「遠山→葛西→遠山→葛西」という投手リレーも存在しなかった。
西武は
- 優勝の常連からは陥落。
- しかしAクラスぐらいは守りきる。
- 森監督の退任が早まった。
- 堤オーナーの「やりたければどうぞご勝手に」発言はなかった。
- 片平晋作の大洋移籍はなかった。
- しかし実際は指導者等として西武に戻ってきたため彼の現在は史実通り。
清原和博がドラフト指名を拒否していたら
- プロ入りが遅れた分成績も落ちる。
- 江川の二の舞だと揶揄される。
- 社会人に進み、3年後に1988年ドラフトで川崎憲次郎らとバッティング。
- 当時は、社会人選手は3年後じゃなくて2年後に指名できました。なので立浪さん・伊良部さん・長嶋一茂さんらとバッティングです。
- 1988年のソウル五輪で全日本の四番を務め、二大会連続金メダルに貢献。
- 上記と同様の理由でソウルには参加してないかと。
桑田真澄がどこの球団からも指名を受けなかったら
- そのまま早稲田大学に進学。早大では斎藤佑樹より前にあらゆる記録を樹立していた可能性もあった。
- 1986~89年にかけて六大学野球は盛り上がっていた。
- 小宮山悟(史実での1988~89年の早大のエース)はどのような影響を受けるのだろうか。
- 取手二高の石田や仙台育英の大越のように中退していたかもしれない。
- その後社会人野球チームを経てプロ入り。
- あるいはアメリカに渡ってメジャーリーグを目指したかも。
- 卒業後阪神に入団して伝統の一戦がKK対決で盛り上がっていたかも。
- 「さらば桑田真澄、さらばプロ野球」が出版されることもなかった。
- もっと早くメジャーへ行ってたかもしれない。
- 莫大な借金(17億円)を抱えることは無かった。
- 「投げる不動産屋」と呼ばれることは無かった。
- 1988年のソウル五輪にも出場。
- 1989年のドラフトは野茂と桑田だけで12球団の1位指名が占められた。
- 潮崎哲也・佐々岡真司・与田剛も野茂か桑田のはずれ1位だった。
- 元木大介が巨人にすんなり入団できていたかも。
- 江川卓がもう少し長く現役を続けていた。
- 西本聖が中日にトレードされることもなかった。
- いずれにせよ、桑田が第一志望であった巨人に入団できなかった可能性がある。
- PL学園と東京六大学野球連盟の関係が悪化する事は無かった。
- 今でも早稲田や法政にPL学園の選手が入学していた(史実では現在六大学でPLの選手を受け入れているのは明治と立教のみ)。
両者の立場が逆だったら
- 清原は意中の球団だったため少々トラブルはあったが巨人に入団していた。