もしあの歴史上の人物が長生きしていたら/日本史
- 新規追加は生きていた時代順でお願いします。
- ここでは昭和20年(1945年)より前に死去した人物について取り扱います。それ以降に亡くなった人物はもしあの人が健在だったらへお願いします。
- もしあの人が健在だったら/大相撲(沖ツ海福雄)
室町時代以前
北条宗時
北条時政の長男・宗時は石橋山の戦いから敗走後平氏方の追っ手に討ち取られ戦死しました。もし生き延びていたら?
- 鎌倉幕府第2代執権になっていた。
- 8代目は「時宗」を名乗らない。
- 義時は連署になり、子孫が江間流北条氏と呼ばれる。
北条政範
後妻・牧の方から生まれた四男・政範は16歳で急死しましたが、もし長生きしていたら?
- 時政の後継をめぐって義時や政子と対立する。
- 畠山重忠の乱は起きなかった。
北条時氏
北条泰時の長男だが父より先に亡くなったため執権になれませんでした。もし史実より長生きしていたら?
- 泰時の後を継いで第4代執権になっていた。
- 経時も史実より長生きしていた場合、執権就任の順番がずれていた。
- 経時の没年が史実通りの場合は時頼以降の執権就任の順番も史実通り。
足利義教
足利義教は守護大名の度重なる粛清などで評判の悪い将軍ですが、義満でさえ成し得なかった九州や鎌倉府の平定を行い 守護大名の力を弱め、権力が弱体である足利将軍家の権威を上げようとしますが、危機を察知した赤松満祐によって暗殺されます この事件が切っ掛けで将軍家の権威は地に落ちますが、では義教が命からがら脱出する等して暗殺に失敗していたらどうなっていたでしょうか?
- 暗殺に失敗した赤松家は容赦なく取り潰し
- 義教暗殺後に赤松家との戦いで復興した山名家は没落したまま
- 延暦寺は度々、義教によって焼き討ちにされている
- そのため延暦寺は史実ほど幕府の政治に介入することはなかった
- 古河公方が幕府の管理下を離れて独立勢力下することも無かった
- 当時、興福寺領と化していた大和国も足利幕府によって制圧されている
- 松永久秀が大和国で勢力を拡大することもなかった
- 細川、今川、斯波なども弱体化するため「明応の政変」も起きないか失敗している
- 義教が死亡する事には足利幕府の直轄領は畿内のほぼ全域(史実の豊臣直轄領ほど)くらいになっている
- 加賀一向一揆も幕府軍が多大な犠牲を出しながら制圧、よって富樫氏も滅亡せず、加賀一向一揆も史実ほど有名ではない
- その後の寿命によるが、場合によっては、応仁の乱など起こりようがない。
- 義勝が史実通になくなったとしても、次の義政がある程度以上成長してからの将軍襲位になるため。
- 赤松の暗殺を回避しても、結局は、いずれ誰かに暗殺されていた。
戦国・安土桃山時代
尼子政久
尼子政久は謀聖・経久の嫡男で、晴久の父です。聡明な人物だったようで、もし彼が生きていれば尼子家は安泰だった…?
- 石見銀山の開発が早まった。
- 大寧寺の変で石見・長門方面に侵攻していた。
- 陶隆房が尼子氏に内通、尼子氏の支援を借りて反乱していた場合も。
- この場合、陶隆房が大友家からでなく尼子家から養子を擁立していた可能性も。
- 尼子国久の三男敬久とかかな。
- そして、大友家が晴英を大内家次代として擁立し、北九州を押さえ込む。結果、尼子vs大友の戦いに。
上杉謙信
越後の龍とも云われた上杉謙信が1600年の関ヶ原(70歳)まで生きていたら。
- 御館の乱が起こらず、柴田勝家の加賀・能登・越中攻めはない。
- じわじわとは攻め込んでいたかと。
- 関東管領職故、北条を滅ぼしていたかもしれない。
- 織田か豊臣の協力を得なければ無理だと思う。
- 景虎を養子に入れており、御館の乱はないのでので同盟は続くんじゃないのかなぁ
- 織田の上杉攻めはうまくいかず、逆に、織田の領地が減ったかも。
- 加越能を獲った時点で春日山を捨てて、富山か七尾に本拠を移していれば、という条件が満たされればその可能性はあったが、たぶん大移動はできなかったんじゃなかろうか。武田信玄も本拠を駿府に移していれば良かったと言われているが……
- 関ヶ原の戦いは、会津へ攻めた来た東軍を破り、その勢いで西軍勝利。
- というより、そもそも上杉は会津に転封してないので、家康の会津攻めがなくなり、その機に挟撃しようとした三成の策はなくなり、関ヶ原自体ないかも…
- 上杉景勝・直江兼続の出る幕が少なくなっていた。2009年大河ドラマも別の題材に。
- 謙信のもくろみとしては、景虎に関東管領を継がせ、景勝に越後を任せるつもりだったと思われる。
- そして自分が加越能をしっかり押さえれば、所領は200万石近く(越後・東上野・北信濃・越中・加賀・能登の合計)になるので、これで武田勝頼・北条氏政と結べば、信長もちっとやそっとでは攻め込めなかったろう。
- この場合信長としては、先に毛利を片づけようとする。そうなると史実の勝頼の役割が毛利輝元になり、光秀の役割を秀吉か勝家が果たすことになるかも……
宇都宮成綱
- 大永の内訌は起こらないため忠綱が当主のまま。
- 結城小山の版図以外の下野を支配下にすることができた。
- 武茂家や松野家の離反を防げた。
- 結城政朝に旧結城領を譲渡して宇都宮氏との同盟関係を維持し続けることができた。
- 宿老の芳賀高経や壬生綱房の暴走を抑えることができた。
- 那須家に末子の宇都宮興綱を送り込んでいたかも。
- 佐竹家を滅ぼしていたかもしれない。
- 水谷政村の下野侵攻の被害を最小限にすることができたかも。
- 北条氏康のように古河公方家を乗っ取っていたかもしれない(足利晴氏は成綱の孫にあたる)。
- 北条氏綱と手を結んでいたかもしれない。
- 成綱没後に内乱が起こりそう。
- 忠綱の器量がどれくらいだったかは微妙だが。
武田信玄
もし武田信玄が病死せず長生きして信長と激突していた場合とうなったのでしょうか!?
全般
- どっちにしろ兵農分離が出来てないので武田が勝てたかどうか・・・
- 戦闘(バトル)では信長勢を蹴散らしたろうが、信長その人を討ち取らない限り、戦争(ウォー)全体に勝利を収めるのは難しかったでしょう。
- ところが、信長はとにかく逃げ足の速い男なので、戦場で討ち取るのはまず無理。
- 信長が逃げ出したところですかさず調略の手をはりめぐらせ、部将たちを寝返らせる丹念な工作をおこなって、信長を孤立させる以外に勝つ手はなさそう。
- この侵攻によって、信長は上杉家とも同盟を結んでいる。よって信濃で、織田・上杉連合軍vs武田軍、という戦いが起きたかもしれない。
- 北条とも手を組み、織田・上杉・北条で包囲網を築いていた。
武田が徳川を滅ぼしていた場合
- 上記と比べて結構良い勝負になると思う。
- 徳川幕府は無いので秀吉亡き後に天下を取るのはいったい・・・
- 伊達氏が天下を取るか、豊臣の天下が続くかのドッチかでしょう。
- 徳川を滅ぼした信玄が生きている状態で、そもそも秀吉に天下人の目はあったかな~~……
- 主君を選ぶ才覚が優れているので信玄の配下だったかも知れない。
- 金と物量にものをいわせて結局、織田が勝っていたかも知れない。ただし天下統一も遅れていたかも知れんが。
- 徳川が滅ぼされ織田が武田を滅亡させられていなかったら徳川の代わりに関東に本拠地を移転していた。
- 江戸幕府を開いたのは武田勝頼だったかも知れない。
- 桶狭間以降一気に勢力を失い、徳川にも独立され弱体化した今川とは違って、北条は氏康が亡くなった時でもかなり強いはず。仮に滅んだとしても相当時期は遅くなるのではなかろうか。
- 江戸幕府を開いたのは武田勝頼だったかも知れない。
武田義信
武田信玄の長男義信は謀反を起こしたとされ幽閉され、その後死亡しました。もし長生きしていたら?
- =今川家へは侵攻しなかった。
- 三国同盟は信長包囲網時代まで続いていた。
- しかし今川家との勢力低下を考えると今川はもはや武田に従属する形になっていた可能性が高い。
- 勝頼は諏訪氏を継いでいた。
- 義信は勝頼の数少ない理解人だったので、良い関係を築いていたかもしれない。
長曾我部信親
- 元親は狂う事無く家臣団の粛清は行われなかった。
- 香川親和も死亡しなかった。
- 元親の死後はすんなりと信親に継承され、関ヶ原の戦いで西軍に属しても津野親忠が殺害される事は無い為に所領を安堵されて初代土佐藩主は長曾我部信親になっていた。
- 長曾我部盛親は信親に男子が無く跡を継がない限り、長曾我部一門の一人としてマイナーな存在になっており、大坂の陣では徳川方に長曾我部軍の将として参加していた。
- 当然、「功名が辻」は終盤の展開が異なっていた。
- 幕末の土佐藩の歴史も大きく変化していた。
松平清康
家康の祖父である松平清康は1526年に父の信忠から家督を譲られてから僅か数年で三河を統一しますが1535年に尾張を攻める際に家臣の阿部正豊に暗殺されます。(この一連の事件を「森山崩れ」と言います。)この時、清康は僅か25歳でした。仮に松平清康が森山崩れで死なず実史の30年近く長生きしていたらどうなっていたでしょうか?
- 森山崩れで死ななかった場合、予定通り尾張に侵攻し尾張を併合して織田氏を配下にする。
- 桶狭間の戦い自体無かったか、侵攻した今川は返り討ちにされる。
- 領地の岡崎からも近いから駿河を併合していたかも知れない。
- 三河を支配下におさめていない状態の今川義元が西上を図ったとは思えない。桶狭間の戦いはたぶん起きない。
- 今川は北条方面に侵攻し、三国同盟もなかったかも。
- 足利義昭も松平氏を頼っていたかも?
- 武田は駿河を併合できずに海へ出られずそのまま衰退、甲斐は真田、北条、松平のいずれかに支配される
- 信濃は併合できているからそう簡単には倒れないと思う。ただ、西への道をふさがれた今川がしきりに攻めてきて、その対応に追われることになったかも。
- 1560年代まで生きるということか……鉄砲を揃える先見性があるかどうかですな。
- 清康の祖父長親は71まで生きており、孫の家康も73まで生きている。この法則(?)なら70まで生きてたっておかしくないかもしれない。となると、1580年代あたりまで生きている可能性もありうる。
- 花倉の乱(1536)の時に介入して今川家を弱体化させようとしたのは確実だろう。玄広恵探の後ろ盾になったりして。
- その場合、寿桂尼&太原雪斎と清康との知恵比べとなる。残念ながらこの二人には勝てる気がしない……
- そうなると駿河まで併呑するのは無理で、遠江あたりで(天竜川をはさんで?)今川と対峙し小競り合いを繰り返すことになりそう。
- 織田家は、いくらなんでも一撃で倒れるとは思えないので、しぶとく粘りつつ、おそらく今川と手を組むことになる。信広か信長が人質として駿府へ行くことになったかも。
- この場合、清康は対抗上、岩倉織田氏および武田氏と同盟。実史とはだいぶ勢力図が違ってくる。
- 織田信秀は、お市を家康に嫁がせて松平家と同盟を結んでいた。史実より早い清洲同盟に。
- 信長は帰蝶ではなく、松平家から嫁を迎えていたかも。
- 清康時代に考え得る最大版図は、三河・下尾張・西遠江というところか。
- さらに伸張できるかどうかは、跡継ぎ広忠の器量次第だろう。この人も若死にしていて、器量のほどはなんとも言えないんだよなあ……
- 織田信秀を亡ぼせていれば、信長も頭角を顕せない。父と一緒に死んでいなかったとしても、松平家か今川家の一部将としてこき使われる立場になっていただろう。
- それでは松平家が実史の織田家に取って代わっていたかというと、それも考えづらい。清康は織田信秀と同い年で、やはりあくまでも旧世代の武将。家康はあのとおりだし、間の広忠も信長並みの先進的な思想を持てたとは考えられないので。
- 結局、三河を中心としたある程度強い戦国大名がひとり増えたというだけで、当分は天下の大勢に影響はなかったような気がする。
- そう近くないうちに信定(桜井松平氏で清康の叔父、祖父長親が溺愛していた)と対決をしていた。
山内与祢
- 山内一族の誰かと結婚して、婿養子を取る。
- 秀次の側室にされている。
- そして秀次とともに処刑され、一豊も切腹する。
- 関ヶ原の戦い前後に徳川か松平一族の誰かと結婚している。
- 年齢的に、秀忠の側室になったかもしれない。
- 秀忠の弟、松平忠吉か武田信吉のところに嫁いだかもしれない。
織田信秀
信秀は信長の影に押されてあまり注目されませんが、一陪臣から尾張南部に勢力を広げ、尾張の虎と呼ばれていました。しかし、彼は流行病により42の若さでなくなっています。もし彼が一定時期まで長生きしていたらどうなっていたでしょう?
- おおよそ信長の台頭は遅れる。
- 信行(信勝)の粛清がされないか、後年にずれ込む。
- 斯波の臣下でありながら尾張を制圧していたか?
- 義統の死後に後継者争いを起こし、傀儡にする。
- 義統も長生きしていた可能性もある。
- 義統を暗殺していたかは微妙。
- 義統の死後に後継者争いを起こし、傀儡にする。
- うまく今川も丸く治めていたかも。
長良川の戦い(1556年)まで
織田信秀は46歳、織田信長は22歳です。
- 恐らく斎藤道三側につくのは確実。
- その後はこうなる。
- この頃には斯波傘下から独立しているかも。
桶狭間の戦い(1560年)まで
織田信秀は50歳、織田信長は26歳です。
- 多分今川に奇襲を仕掛けないとは思う。
- 信長の独断で行った場合は史実通り。
- 普通に戦って勝てるかどうかはわからない。
朝倉景鏡
- 朝倉景鏡は朝倉一族でしたが織田家に寝返り、その後名を土橋信鏡に変えて織田家に仕えました。しかしその後の土一揆で戦死し息子も処刑されます。もし彼が戦死していなかったら?
- おそらくは柴田勝家に仕えていた。
- 賤ヶ岳でちゃっかり羽柴に寝返っていた。
- 朝倉が浅井離反の原因と考えると朝倉復姓の可能性は低いか。
- 史実の朝倉景綱のように家族だけで越前を脱出していた。
竹中半兵衛
- 秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛は1579年に36歳で没しました。もし彼が長生きしていたら?
- 黒田官兵衛の活躍場所を奪っていたかもしれない。
- 但し黒田長政を救ったこともあって両家の関係が極端に悪化することは考えづらいが…
- おそらく早い段階で土地をもらっている。ただなにかと秀吉に警戒されて官兵衛と同じくらいしかもらえないだろう。
毛利隆元
- 毛利元就の長男だった毛利隆元は1563年に40歳で客死しました。もし彼が長生きしていたら?
- 元就の亡くなる直前に三本の矢を説くことができたのだろうか。
- 史実でも次男元春は元就臨終のとき外征中であり、三男隆景以下九男秀包までの7人を集めて説いたという。
- なんだかんだ両川生存中は仲が悪化することもなかったはず。
- しかし、輝元・広家・秀包or秀秋になったら結構関係が危なそう。
- 秀包は元就の子供だが、秀秋は毛利とは関係ない豊臣一族なのでここで大変なこと一悶着になりそう。
- 隆元への嫉妬からか隆元が病死した後になにかと詮索されそう。
- しかし、輝元・広家・秀包or秀秋になったら結構関係が危なそう。
- 少なくとも毛利の体系は史実以上に磐石に築けただろう。
- 日明貿易も再開することができたかもしれない。ただこの時期の明も崩壊寸前だったので難しかったかも。
- 本能寺の変のときも秀吉を見る目さえあれば史実通り臣従していただろう。
- 朝鮮征伐には明との関係からか反発していた。
- 関ヶ原(1600年で77歳)まで生きていれば、家臣をまとめ上げて西軍に付いていたかもしれない。
- この前に亡くなったとしたら豊臣による切り崩しを受けていただろう。
- 輝元に家督が移るのが30代くらいになるので、史実より安定はするだろう。
織田信忠
「本能寺の変」の際に信長の嫡男である信忠は京都の妙覚寺に滞在しており、信長自害の情報を聞くと二条城に立て篭もって徹底抗戦し最終的に自害したのですが、信忠の兵は1000人(少なくとも脱出だけなら何とか成る人数)で、有楽斎も秀信(信忠の息子)も京都脱出に成功しています。仮に信忠が京都脱出に成功していたら
- 秀吉や家康は単なる信忠の優秀な部下で終わる
- 家康の息子である秀忠の名前は信忠に配慮して「忠秀」になっていた
- そもそも「秀忠」の「秀」は秀吉からの偏諱であり、信忠が生きていれば「忠」の字を賜り「家忠」や「康忠」などになっていた
- 上位者に貰った偏諱は名前の前半につけるのが礼儀。「忠康」くらいかな。
- そもそも「秀忠」の「秀」は秀吉からの偏諱であり、信忠が生きていれば「忠」の字を賜り「家忠」や「康忠」などになっていた
- 結城秀康も「長康」あたりに?
- 秀康も信忠が生き残り二代目になる→秀吉が天下レース一位まで大出世する、ということもないので秀吉の養子にはならなかったはず。但し信忠の養子に出されてこっちが忠康になっていた可能性は高い。
- 家康の息子である秀忠の名前は信忠に配慮して「忠秀」になっていた
- 信長は三国志の曹操のようなポジションになっている
- 信忠は父の意思をついで織田幕府を成立させる
- 大阪城は信忠が建設し、大阪市民からは「将軍はん」として親しまれる
- 多分、実史の信長の構想通り大陸または南蛮進出を目指す
- 仮に征服に成功していたら無双の信長の一番の称号は「第六天魔王」から「大アジア帝国太祖」にレベルアップしていた
- 天皇は辺境の君主になっていた
- なお、朝鮮で大苦戦する模様
- 仮に征服に成功していたら無双の信長の一番の称号は「第六天魔王」から「大アジア帝国太祖」にレベルアップしていた
- 無双OROCHIでは曹操絡みで曹丕と共演していた
- 信忠によって信長が神格化される。
- 誰を信忠の正妻にするかでいろいろな有力者が抗争するが、結局北条氏などを支配下に収めたあたりで松姫を迎えてこの騒ぎを鎮め、後世様々なラブロマンス作品の題材になったり、彼女の名前に由来する名前を娘につける者が増える。
豊臣秀長
豊臣秀長は秀吉の弟で秀吉を支えてきましたが秀吉よりも先に亡くなりました。もし彼があと少し長生きしていたら?
- 秀次粛清は諌めていて無かったか、もしくは秀長が粛清されていた。
- この場合秀長が秀次を預かって自分の後継に指名するなどの形で粛清は阻止しただろう。
- 朝鮮出兵は無かったか、小規模のものだった。
- 秀吉より長生きしていたら最悪でも彼の存命日数分徳川幕府成立が遅れていた。
- 朝鮮出兵は起きていてももっとうまく収拾されただろう。
小早川秀秋
- 少なくとも、この時点で改易されることはなかった。
- しかし、徳川の勝因になったとはいえ裏切りを行ったこと、豊臣一門(高台院の甥)であったことから冷遇はされていた。
- 大坂の陣でも福島らと同様、目をつけられていた。
- 豊臣一門だったとはいえ、木下家定家のように豊臣を名乗ることはできなかっただろう。
- うまくいけば家光の代あたりまでは長生きしてそう。
戸沢盛安
戸沢盛安は名将として知られていましたが1590年にわずか24歳で没しました。もし長生きしていたら?
- 政情を見る目はあったので、うまく関ヶ原以降を生き延びていた。
- 小田原合戦後は奥州仕置にも参加し、九戸政実の乱にも参加していた。
- 秀吉死後は家康に接近し、関ヶ原では東軍についていた。
- 史実の戸沢や小野寺などのような消極的な東軍ではなく、積極的に上杉と対決していた。
- 積極的に東軍についていれば、関ヶ原合戦後も本領安堵されていた。
- 小野寺氏(史実で西軍について改易された)の旧領である平鹿・雄勝に転封されていた。代わりに(後の羽後国となる)由利と庄内北部(史実では最上領になった)が佐竹領になっていた。
- うまくいけば岩手郡(戸沢のかつての本拠が雫石であるため)に転封されていた。その場合津軽氏が(石田三成との関係を咎められ)改易され、津軽郡が南部領になっていたかもしれない。
- 最上氏改易(1622年)まで生きていれば、それに応じた領土割譲も受けていたと思われる。場合によっては史実同様新庄藩(但し領国は史実より多い)になっていたかもしれないが。
- 伊達政宗とはいろいろと比較されていたかもしれない。
江戸時代
高仁親王
後水尾天皇の次男で秀忠の孫に当たる高仁親王はわずか3歳で没しました。もし、長生きしていたら?
- 史実で亡くなった翌年には譲位を考えていたそうなので、次期天皇になっていた。
- この場合、徳川家が藤原家のようになっていたかもしれない。
- 平安時代のようになっていたかも…
- おそらくこれ以降の女性天皇ラッシュはないはず(史実ではこの翌年に明正天皇となっている)。
伊達光宗
- 家光の従弟なので徳川将軍家とより親密になる。
- 弟の綱宗が仙台藩主にならないため、彼の強制隠居に端を発する伊達騒動は起きない。
- 山本周五郎は「樅ノ木は残った」を書かなかった。
- 宗勝の藩政介入や改易はなく、子孫が代々一関藩主を務めた。
- 田村氏は岩沼藩主のまま。
- 原田甲斐の一般的知名度はほぼ皆無。
- 男子が出来ていればこちらが「綱宗」を名乗っただろう。
- さらにその次代が「吉宗」となり8代将軍の諱が変わった可能性も。
- いずれにせよ伊達本家の通字が「宗」から「村」に変わることはなかった。
徳川家継
- 秀忠の子孫(正確には家光の子孫)が途絶えることもなかった。
- 子供も生まれていたかもしれない。
- 元服を迎えられるまでは傀儡にされていた。
- 巨人症の疑惑もあったため、成長していれば180cm~2mくらいの大男になっていたのかもしれない。
井伊直弼
- 新作狂言を10曲以上書き下ろしていた。
- 曲数が多すぎるため、茂山千五郎家、茂山忠三郎家、善竹彌五郎家を中心に手分けして継承。
- 二世茂山千之丞へ継承した曲は、千之丞、あきら、童司の3代にわたって跡形もなく改作される。
- 桜田門外の変を生き延びていたら史実以上に尊王攘夷派を弾圧しにかかるだろう。
- 当然徳川慶喜は将軍になれない。
- この場合当時の天皇が無傷で生き残れたとは到底思えない。井伊直弼に反旗を翻したら最後処刑される可能性もあり得る。
孝明天皇
- それでも明治には改元したのか?
- 明治改元が最後の一世一元前の改元になるのは変わらないかも。
- 西洋嫌いであったそうだから、今後の歴史は大きく変わっていただろう。
- おそらく開国まで終始慶喜のペースで進んだ可能性が高い。その場合西周に作成させた草案に従い、慶喜を初代とする大統領制になり、天皇は後の機関説の立場に最初から置かれていたと思われる。
坂本龍馬
- 西南戦争に敗れて自殺した盟友の西郷隆盛を見て悲しんだだろう。
- 「竜馬がゆく」や「おーい!竜馬」は更に巻数が増えていた。
- そのぶん、売り上げは半減。
- 史実での岩崎弥太郎の評価とダブる。
- 大財閥となり、特に大正時代頃には悪口ばかり言われるようになるが、その後再評価される。
- 早死にしたから人気があるという点は確実にあると思う。
- 長生きしてたら、司馬遼太郎さんがもし小説にするにしても、もっと後になり、その分理想化の度合いも少なくなり、「竜馬がゆく」の小説や大河ドラマにインスパイアされた武田鉄矢その他の人々の出方もかなり違っていたであろう。
- 今でも彼の作り出した企業が数多く残っている。
- 坂本財閥か。
- そのため武田鉄矢のユニットは商標の都合で全く別の名前になっていた。
- 竜馬伝もNHK製作故に恐らく無かった。
- むしろ他局が作っていた。
- 竜馬伝もNHK製作故に恐らく無かった。
- 三菱マークは竜馬が作った企業になっていた。
- 三菱マークは山内家と岩崎家の家紋をヒントにしたものなのでおそらく別のマークになっている。
- お龍と千葉さな子との間で、泥沼の三角関係に。
- 双方の子供が三菱財閥の後継者を巡って泥沼の争いを繰り広げる。
- それを予期していた竜馬は、陸奥宗光に財閥の実権を譲って隠居。
- 結局史実どおりに岩崎弥太郎に実権を譲って本人は海外へ。
- 陸奥宗光は次男が古河財閥の創業者・古河市兵衛の養子となっているため、坂本財閥(仮名)の実権を陸奥に譲ると龍馬の設立した企業群は古河財閥に取り込まれることになる。龍馬の設立した企業群が三菱財閥に吸収されるなら龍馬は実権を直接弥太郎に譲っている筈。
- 結局史実どおりに岩崎弥太郎に実権を譲って本人は海外へ。
- それを予期していた竜馬は、陸奥宗光に財閥の実権を譲って隠居。
- お龍との間に生まれた子供もさな子との間に生まれた子供も弥太郎の子供と結婚し、坂本家と岩崎家は閨閥によって結ばれることになる。
- 史実では弥太郎は5男5女計10人の子供がいたが(長女・春路、長男・久弥、次女・磯路は正妻・喜勢との間の子、次男・豊弥は養子、他の6人の子は側室との間の子)、そのうち独身のまま早死にした三男・秀弥と五女・照子が史実と異なり長生きし、秀弥は龍馬の娘と、照子は龍馬の息子とそれぞれ結婚した。
- 史実でも結婚して家庭をもうけた弥太郎の8人の子供の中でも史実と異なり龍馬の子供と結婚した者がいた可能性もある。
- その場合、史実では晩婚だった次男・豊弥が龍馬の娘と結婚した可能性が高い。その場合豊弥が20代後半の時に龍馬の娘と結婚することになる。
- 最も岩崎豊弥の妻になる龍馬の娘は豊弥との間に子供を1~2人もうけた後早世し、その後豊弥は史実でも豊弥の妻となる柳沢保申の三女・武子と再婚(武子にとっては初婚)し、武子との間に史実通り1男2女をもうけた。
- 史実での岩崎豊弥の妻・武子は豊弥より16歳年下。結婚した年は不明だが豊弥・武子夫妻の長子で長女の君子(入江相政夫人)が生まれたのは父・豊弥が数え38歳、母・武子が数え22歳の時なので豊弥が晩婚だったのは間違いない。
- その場合、史実では晩婚だった次男・豊弥が龍馬の娘と結婚した可能性が高い。その場合豊弥が20代後半の時に龍馬の娘と結婚することになる。
- 双方の子供が三菱財閥の後継者を巡って泥沼の争いを繰り広げる。
- 徳川家400万石は安泰。徳川慶喜が総裁になる。
- 小御所会議の決定に反発、土佐藩兵隊は鳥羽・伏見で薩長軍と激突。
- 朝廷が新徳川寄りに方針転換。岩倉らが追放され徳川家中心の公議政体が発足。
- 高知県はそれほど坂本竜馬一辺倒にはならない。
- 高知県ではなく北海道の英雄として知られていた(蝦夷地開拓を望んでいたため)。
- 「商才に長けた維新の功労者」として認知される。短命ではないので現実ほどの人気はない。
- 西南戦争の仲介役になり西郷隆盛が切腹する事はなかった。
- その後、板垣退助・陸奥宗光らにより、坂本龍馬・西郷隆盛は明治政府の裏方に。
- 江戸城無血開城の時、立ち会いをしていた。
- 新選組は新政府により警察官となる。
- しかし薩摩藩中心の警察幹部をきらい、近藤勇、土方歳三らは退職。
- 新選組は新政府により警察官となる。
- 50歳過ぎたら波平さんみたいな頭になっていたかも。残っている写真をよ~く見ると20代にもかかわらずだいぶ生え際が後退しているみたいですから・・・・・・
- 桂浜に銅像ができることはなかった。
島津斉彬
- 明治維新の際には、新政府の要職に就いていた。
- 西南戦争が起こることはなかったか彼の死後に起きていた。
- 維新後において、松平慶永や伊達宗城や山内容堂らと交流していた。
- 島津久光は史実ほどあまり有名にならなかったかもしれない。
- 西郷隆盛が、徳之島・沖永良部島に流されることはなかった。
明治時代以降
伊藤博文
- 日本は韓国を併合しなかった。
- 伊藤の反対は「時期尚早」というものであったため、遅れたのが関の山ではないかと。
- 保護国→梨本宮家の方子女王と婚姻した李垠が即位して連邦国家、という道をたどっていたかも。
- 伊藤の反対は「時期尚早」というものであったため、遅れたのが関の山ではないかと。
- 安重根が人殺しでは無く、単なる犯罪者で終わってた。
- 無論、現在の北朝鮮での扱いと同様に「英雄」扱いされることはない。
- どうだろ。昭和天皇暗殺未遂の李奉昌が英雄扱いだし。
- 仮に日本が韓国を併合していたら実史の様な併合では無く一進会の望んでいた連邦国家になっていた。
- この場合、日本の国号は「大日本=大韓二重帝國」になり日本の天皇が韓国皇帝を兼任する。
- しかし通称として「大日本帝國」と呼ばれ続けられるのであった。
- あるいは、逆に公式的な国号が「大日本帝國」のままで、時にこの大日本帝國がオーストリア=ハンガリー帝国のような国であるのを強調するために、「いわゆる『大日本=大韓二重帝國』」という表現が使われる。
- しかし通称として「大日本帝國」と呼ばれ続けられるのであった。
- 場合によっては「南洋諸島人と台湾原住民の首長」・「アイヌ・オロッコの酋長」なども兼任していた。
- この場合、日本の国号は「大日本=大韓二重帝國」になり日本の天皇が韓国皇帝を兼任する。
- 下関でフグ(の毒)に殺されている。
- 山県有朋がのさばる事は、それほど無かったかも。
- この小説の世界観が現実になってたかもしれない。
- 大日本帝國(もしくは「大日本=大韓二重帝國」)は第二次世界大戦に枢軸国側ではなく連合国側で参戦する。
- 日独伊三国同盟は存在しない。代わり、スペイン・ドイツ・イタリア三国同盟が存在している。
- 日中戦争がなかったため、中国国民党は国共内戦で勝っていた。
- そして大躍進政策や文化大革命がなかったため、中国は1960年代から1980年代までに高度経済成長に突入した。
- 一人っ子政策もないため、人口は20億人近くになっていた。
- 1968年に南京オリンピック、1975年に上海万博、1976年に北平冬季オリンピックが開催されている。
- 蔣経国の死去の後、中国が民主化した。
- そして1980年代半ばにGDPでアメリカを追い抜く。
- そして20世紀末にアメリカにとって代わって世界の覇権国家になっていた。
- インドシナは3つの共産主義国(ベトナム、カンボジア、ラオス)に分断しなかった。
- そして大躍進政策や文化大革命がなかったため、中国は1960年代から1980年代までに高度経済成長に突入した。
- 太平洋戦争がなかったため、原爆はドイツに投下された。
- 戦後、ドイツは分断しなかった。代わり、ドイツが連合国軍に占領されていた。
- Wikipediaでは「連合国軍占領下のドイツ」というページが作られる。
- ドイツの軍隊とコンツェルンがGHQの指令により解体させられた。
- ドイツとの平和条約の後、ドイツは1955年から1973年までに高度経済成長に突入し、復興の証として1964年ベルリンオリンピック、1970年ハンブルク万博と1972年ミュンヘン冬季オリンピックが開催される。
- この場合、東京オリンピックは1976年、大阪万博は1980年、札幌冬季オリンピックは1984年に開催されている。
- 戦後、ドイツは分断しなかった。代わり、ドイツが連合国軍に占領されていた。
- 冷戦終結がもっと早くなってる。ソ連崩壊が1970年代になっていた。
- ソ連崩壊の後、北樺太は日本領になる。そして中国は外満州を取り戻しました。
- 日本の財閥とコンツェルンが解体されなかったため、バブル景気やバブル崩壊やアジア金融危機がなかった。
- 大日本帝國(もしくは「大日本=大韓二重帝國」)は第二次世界大戦に枢軸国側ではなく連合国側で参戦する。
乃木希典
- 殉死に失敗し、皇太子(昭和天皇)の教育係兼相談役として余生を過ごす。
- この場合志賀直哉に「死に損ない」などとより一層馬鹿にされていた。
- 「乃木坂」という地名は誕生しなかった。
- 「乃木坂駅」 、「乃木坂46」 も存在していない。
- 乃木坂駅は違う名前になっていた。
- 「乃木坂駅」 、「乃木坂46」 も存在していない。
夏目漱石
- 「明暗」はもちろん完結。
- 尺的に「吾輩は猫である」のような分冊が出版されていた。
- 作品の映画化も見られた。
- 1966年の「坊っちゃん」の4度目の映画化を見届けていたかも。
- 孫の房之介も見られた。
大正天皇
- 長生きしていた分、昭和が短くなる。
- 昭和は史実の大正と同程度かそれより短かったかも。
- 昭和天皇の影は薄くなった。
- 1989年以後は4月29日は祝日にならなかったかも。
- GWが短くなっていたか、なくなっていた。
- 代わりに大正天皇の誕生日である8月31日が昭和以降も祝日になっていた。
- 1945年まで長生きしていたら大正が終戦や軍国主義とともに終わった元号となっていた。
- もし1970年代まで生きていたら1964年の東京五輪や1970年の大阪万博の開会式に出席できた。
- 1933年以降も長生きしていたら、男子の皇孫である継宮明仁親王の顔も見れた。
- 日中戦争や太平洋戦争は起きなかったかも。
- 起きたとしても彼自身の不用意な発言から政治的・軍事的混乱を招くため、史実以上にまともに戦えない。
- 飾らない人柄だったため天皇のイメージがそこまで権威的なものにならなかったと思われる。
- 1967年まで長生きしていたら、現実の昭和天皇を上回る長寿者になっていた。
- ただし、政治能力があまりに低かった(実際に即位から事実上の退位まで何度も政治的混乱を引き起こしている)ため、在位が長引くと暗君という認識が史実以上に強まってしまうことに。
芥川龍之介
- 太宰治の生き方が大きく変わっていた。
- 少なくとも自殺しまくる人にはならなかった。
- 芥川賞は作られなかった。
- 長男と三男の活躍を喜ぶが次男の戦死にも向き合った。
人見絹枝
- オリンピック出場を重ね、メダルも増やしていただろう。
- 1936年のベルリンまでは確実に活躍し、1940年東京五輪では間違いなく活躍を期待されていただろう。
- 東京五輪の招致にも確実に協力していた。1940年が中止されたとしても、1964年の五輪招致の代表メンバーにもなっていた。聖火ランナーにもなっていたかも。
- 1936年のベルリンまでは確実に活躍し、1940年東京五輪では間違いなく活躍を期待されていただろう。
- 結婚して引退、出産を経て指導者となっている。
- 日本陸上の暗黒時代到来も遅れていた。
- 1992年のバルセロナオリンピックで、銀メダルを獲得した有森裕子のメダルプレゼンターになっている。
- 奇しくも、有森とは同じ岡山県人。さらにメダルを獲得した日付(日本時間で8月2日)まで同じだった。
- 井村久美子や福島千里らの競技人生も少しばかり変わっていたかも。
- 依田郁子は、東京五輪の女子ハードルでメダルを獲得してかもしれない(史実では5位入賞)。さらに引退後、自殺することもなかった(自殺の原因が、女性アスリートに対する偏見と好奇の目があったからだと遺書に残している。人見がいれば、女性ならではの視点で依田をアドバイスできていたので)。
- 1.の通りの活躍をしたら、日本陸連かJOCの役員になっていた可能性があった。
宮沢賢治
- 1950年代まで長生きしていたらノーベル文学賞を受賞していたかもしれない。
- エスペラント語の日本での普及率が現実よりも高かったかもしれない。
新美南吉
- 順当にいけば童話界の重鎮、最長老として重きをなす存在となっていた。
- 太平洋戦争がその後の作家活動に大きな影を落としたのは間違いないだろう。だいぶナイーブな人だったみたいだから戦争と敗戦の衝撃で筆を折っていたかもしれない。
山本五十六
- 飛行艇の事故で殉職するのが古賀峯一じゃなくて山本五十六
- 東京裁判で死刑確定→執行
- 山本五十六が死刑になった代わりに広田弘毅が死刑を免れ終身禁固となる。
- 史実の東京裁判で死刑を執行されたのが陸軍6名+文官の広田で海軍軍人は死刑にならなかった。もし海軍の山本が死刑になっていれば文官の広田が代わりに死刑にならずに済む。GHQの意向としては見せしめとして陸軍以外(=海軍or文官)から1名死刑にしようと考えていたので。
- 山本の盟友だった米内光政と井上成美は史実どおり戦犯にならなかったが、「戦犯・山本」の盟友ということで史実ほど好意的に評価されなかった。
- 山本五十六が死刑になった代わりに広田弘毅が死刑を免れ終身禁固となる。
- もう少し上手く白旗を揚げれた。
- 原爆投下も無かった。
- 大相撲で青葉山と龍王山が敢闘精神不足と見なされ出場停止処分を受けることはなかった。
- 長生きできていれば1970年代後半に天寿を全うしていた。
沢村栄治
- 300勝は余裕で達成していただろう。
- 川上哲治の代わりにV9巨人を指揮していたかもしれない。
- ということは球界のドンといえば川上ではなく沢村を指す。
- 日本球界初の完全試合を達成している。(ちなみに沢村自身は、日本球界初のノーヒットノーラン達成者である)
- 投手に関する記録は殆ど保持(特に先発に関する物)。21世紀になっても不滅の記録として残る。
- 川上哲治の代わりにV9巨人を指揮していたかもしれない。
- 「アストロ球団」は無かった。
- 仮にあったとしても、別のストーリーになってる。
- 日本球界初のメジャーリーガーになっていたかも、1950年代前半辺りに。
- カージナルスに入っていた場合、地元の新聞が「今回は取り逃さなかった」などと報じていた。
- 沢村は1935年の巨人軍アメリカ遠征の際カージナルスのスカウトに入団を誘われていた。
- 現役引退後は、日本テレビの野球解説者になっていただろう。
- 「沢村賞」は存在したのだろうか・・・。
- できたとしてもMLBでサイ・ヤング賞が誕生するより後で、当初からパ・リーグも対象になっていた。
- もしかしたら「金田賞」とかになっていたかもしれない。ますます「金田天皇」に・・・。
- 20代のうちは活躍する。しかしそれほどすさまじい記録は残せないだろう。
- そして、終戦数年後社会の安定・球界のレベルの向上、自身の衰えもともない、晩年はあまり評判のよろしくないことになる。
- ゆえに史実ほどの神格化はされず、最初期の名選手の一人程度の認識しかされない。
- 背番号「14」が永久欠番になったかどうかも微妙。
- その場合、後に入団した澤村拓一が継承していた(史実では15番)。
- 史実でも計画されていた通り南海にトレードされていた。
- 戦死したプロ野球選手の代表は景浦将になっていた。
- 『あぶさん』でも史実以上に彼が取り上げられていた。
- ほかにも石丸進一(戦前最後のノーヒットノーラン→特攻隊で戦死)や、プロ入りはしてないが嶋清一(甲子園無失点優勝→戦死)も代表選手として知られていた。
- 『巨人の星』には頻繁に登場していた
- 今でもご健在の可能性がある。亡くなっていたとしてもchakuwikiではもしあの人が健在だったら/日本プロ野球に入っていることはほぼ確実。
中原中也
- 戦後は無頼派の詩人として活躍していた。(交友関係から考えるに)