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# 千葉ニュータウンの西端。梨の名産地。
{{Pathnav|素晴らしき棋士の世界|name=元棋士}}
# 非常に治安が良く閑静な住宅街だったのだが、最近は[[鎌ヶ谷市|鎌ヶ谷]]の影響で治安が悪くなりつつある。
{{百科事典}}
# 地元民のほとんどが知らないことであろうが、実は日本の狂牛病の発生地。
引退した棋士、物故者。


[[Category:千葉|しろい]]
*「将棋指しは個性的な人(=変人)が多い」と言われるが、元からの将棋ファン以外には認識されていないものも多いはず。
[[Category:日本の市|しろい]]
**よってここでは、プロ・アマ問わず、[[将棋棋士]]にまつわるエピソードを並べてみる。
**面白エピソードはもちろん、スゴイものももちろん可。
*一応百科事典項目なので、ネタは遠慮してください。ただし既に広く知られているものについてはネタでも可。
*記載は、節別に氏名の50音順とします。
*棋士名に段位やタイトル名は原則不要。
*氏名のリンク先は、ウィキペディアの項目名。
**存在しない場合は無理にリンクにしなくても良い。
*他の百科事典項目と同様、書き換えや記事の並び替え可。
 
==[[wikipedia:ja:石田和雄|石田和雄]]==
#名前は「石田」であるが、将棋定跡の「石田流」とは無関係。
#奨励会時代はその昇級スピードの速さから「岡崎の天才児」と言われた。
#*いわゆるA級九段であるが、タイトル獲得はおろか挑戦者になったこともない。
#ある意味ひふみん以上に騒がしい。
#*扇子を鳴らしてテンポをとる棋士は少なくないが、その音が大きい。
#**時には自分の頭をたたくこともある。
#*考慮中に前傾姿勢になる棋士は少なくないが、常時盤上に頭を出してくるのはそんなにいないと思われる。
#*加藤一二三や藤井聡太など、対局中に相手側から盤面を見る棋士もいるが、離席している間に相手の座布団に座るのはたぶんこの方くらい。
#**ご丁寧に相手の駒をそろえることもある。
#*感想戦ではとにかくボヤキまくる。
#**NHK杯では対局相手の北浜健介そっちのけで解説のひふみん相手にボヤキまくった。
#弟子の高見泰地が叡王を獲得した際、報道陣と一緒に対局室へ入り、感想戦に同席した。
#*当人は「周りから言われた」といっていたが、居ても立っても居られない姿が見てられなかったのであろう。
 
==[[wikipedia:ja:大山康晴|大山康晴]]==
#中原誠らと並んで羽生善治以前の世代の代表格。
#大の麻雀好き。タイトル戦の対局中にも記者室に顔を出し「君たち、仕事(麻雀)しなさい」というのが常だった。
#*2日間の対局の場合は、将棋の勝負が終わってから自らも参加。
#大変な負けず嫌いで、歩いている時、他人に抜かれると悔しがって抜き返したほど。
#将棋4コマ漫画でギャグのネタに使われたが、その漫画の作者いわく「(実際の)大山は将棋しか考えない鉄人だった」と証言している。
#棋士の間では「盤外戦の名人」としても有名で、既に自らの勝ちが見えた勝負でも、わざと遠回しに指して相手に精神的ダメージを与えた。
#*特に若手有望株に対して使い、自分の第一人者としての地位を守ろうとした。
#*羽生善治とも対戦し、大山はこの手を使おうとしたが、羽生は負けを見越して早々に投了して通じなかった。
#*最たるものは1972年の「'''福田家事件'''」(福田家は対局場となった旅館)。
#**内藤國雄棋聖に対し、大山は挑戦者であるにも関わらず、対局前日、内藤がまだ到着していなかった(※遅れることは事前連絡あり)のに「時間になったから宴会を始めよう」と言い出し、周りも大山の言う事に従わざるをず、宴会を行った。
#**内藤が到着したときには宴会は終わっており、それを見た内藤は激怒。そのまま銀座で大酒をあおり、内藤は翌日の対局でも負けた。
#**さらにこれ以降実に10年にわたって内藤は順位戦で大山に勝てず、カモにされていた。なぜかと言えば、大山はその後も内藤との対戦では……
#***対局中に「内藤さん、テレビに出ると、いくらもらえるの?」「封じ手を2時過ぎにやって、すぐ麻雀にしよう」「'''福田家'''には、お手つきの仲居さんがいたしね」と内藤の神経を逆なでしていた。
#**内藤國雄の、対大山の対戦成績は18勝50敗(勝率.265)で終生苦手にしていた。
#*真剣師(賭け勝負師)出身の花村元司には、自分が勝った後に「あんたは所詮素人だもんね」。
#*対局中の雑談は、現在では当然のマナーとして行われないが、大山はこの雑談で相手を怒らせては正常な思考を奪っていた。
#*いくら盤外戦でもここまで徹底するのは珍しく「どんな手を使っても勝つ」という大山の哲学が垣間見える。
#*ちなみに盤外戦は、最近では流行らないらしい。
#**相手の側に回って将棋盤を眺めるのも元々は盤外戦術の一つだが加藤一二三の「ひふみんアイ」は盤外戦術とは考えられていない。
#コンピューター将棋がまだ使い物にならなかった頃から「コンピューターの方が強いに決まってるじゃないか」と未来を予期していた。
#*「コンピュータに将棋なんか教えちゃいけないよ。ろくなことにならないから」とも発言。
#*現代将棋では羽生善治や渡辺明などの超一流棋士でもコンピューターで棋力を磨くのが常識だが、大山が今生きていたらどういうのだろうか?
 
==[[wikipedia:ja:加藤一二三|加藤一二三]]==
#ご存じ「ひふみん」。
#*同じ愛称を持つ[[まんがタイムきららファン#NEW GAME!ファン|アニメキャラ]]が同時期に話題になったのをTwitterでネタにされてたら、本人にも捕捉されてしまった。
#藤井聡太のプロデビュー戦で対局、それに負けて引退したが、おかげで将棋を知らない人たちにも有名になった。
#*そのため、藤井聡太に会うたびごとに「(有名にしてくれて)ありがとう」。
#でもそこは勝負師。身内では「僕には藤井聡太でも破れない記録があるんだよ」と自慢している記録があるらしい。
#*残念ながらそれが何の記録だったかは失念。
#**順位戦A級昇格の最年少記録らしい。
#***それは藤井聡太も可能性があるので最年少五段記録かも。これならもう結果が出てるので藤井は達成不可能。
#大の猫好き。
#*外で猫を見かけると「ハロー」と手を上げて挨拶。続けて「君達も、将棋に興味があるのかい?」
#*野良猫にエサを与え続けた結果、猫が増えてご近所トラブルに。
#現在のひふみんキャラからは想像もつかないが、デビュー当時は「神武以来の天才」と騒がれた。
#*加藤が11歳の時、関西将棋会館で板谷四郎に指導対局を受けていた際、たまた通りかかった升田幸三が一目で加藤の才能を見抜いた。
#**天才が天才を知る、ということらしい。
#上記の大山康晴に匹敵する、盤外戦術の帝王。
#*「盤外であろうと、主張すべき事は決して譲らない」とか。
#**盤外戦術というよりこの人の場合、素でやってる事が相手に嫌がられているだけだと思う。
#敬虔なクリスチャンであり、賞金の多くをキリスト教に寄付。
#*聖シルベストロ教皇騎士団勲章を授与されている。
#**ただしどの程度すごいのかはチャクウィキでは判断できない。
#引退後も2018年現在、公式戦における対局数(2,505)及び敗北数(1,180)で一位を保持している。
#*勝利数は三位(1,324)。
#**一位は大山康晴(1,433)、二位は羽生善治(1,400・更新中)
 
==[[wikipedia:ja:神吉宏充|神吉宏充]]==
*かんき ひろみつ
#師匠の内藤國雄とともにタレント棋士のはしり。
#*関西では「将棋の強いお笑い芸人」と思われている。
#*NHKに将棋番組の企画を持ち込み、「大逆転将棋」という特番の司会を(引退後も)つとめている。
#**一時期中断されていたが、昨今の将棋ブームで2018年正月特番として復活。
#奨励会に入る前は普通の会社員だったという棋士としては異色の経歴を持つ。
#YouTubeに「神吉宏充の最高!エンタメ将棋」というチャンネルを持つユーチューバーでもある[https://www.youtube.com/channel/UC1Ovrn0uAbV7RpQIZ4ahheA]。
#*でもチャンネル登録者が147人(執筆時点)というのは何かのギャグか?
#*あとゲストが偏りすぎ。北浜健介とか北浜健介とか北浜健介とか。
 
==[[wikipedia:ja:桐谷広人|桐谷広人]]==
#財テク棋士。
#*証券会社に対局指導に行き、株式投資を覚えた。
#衣服や靴、日用品などもすべて株主優待品。現金を使うのはマンションの家賃と光熱費くらい。
#*元々は普通にお金を払って生活していたが、リーマンショックで株式が暴落したため、配当なども減り、お金をつかえなくなった。
#年間140本もの新作映画を観るという映画通。
#*テレビ番組で映画の試写会に訪れた際、ジョニー・デップに映画の感想を直接伝えるという離れ業を演じた。
#*映画鑑賞も、もちろん株主優待。
#実は升田幸三の弟子で唯一棋士になった人物である。
 
==[[wikipedia:ja:芹沢博文|芹沢博文]]==
#元祖マルチタレント棋士。文化人タレントのはしりでもある。
#*肩書は、棋士以外にタレント、俳優、歌手、エッセイストなど。
#*将棋では勝数既定で九段になったが、A級在籍は2期にとどまり、八大タイトルは最後まで獲れなかった。
#**室内ゲームには全般にわたって強く、特に麻雀は、棋界内で愛好家が多いにもかかわらず、一・二を争う実力だった
#*将棋しろ!
#将棋の普及にも尽力し、全国各地で今も開催される「将棋まつり」は芹沢の発案。
#1982年、当時C級2組で全敗しても降格することがなかったため、猛烈に抗議した。
#*いわく「競争原理が働くはずのプロが、全敗でクラスも落ちず、給料を貰えるのはおかしい」
#**1986年にC級2組からの降級が復活。
#*なお今は縮小されているが、棋士には連盟から、活動やクラスに応じた給与が支給される。
#**タイトル料はもちろん、対局料、原稿料、取材、解説。対局指導などなど、およそ棋士の活動の全て。
#***何もしていなくてももらえる「謎の給料」もあるらしい。というか以前はこれが多かった。
#****芹沢の指摘は主にこれと思われる。
#当時の第一人者の大山康晴を著書で度々批判。
#*当の大山は、当然激怒したが「将棋界に役に立つ男」としては芹沢を認めていたという。
#クイズダービーに弟弟子の中原誠が出演した際、司会の大橋巨泉が「中原君」と呼んだ事に激怒。
#*以後、大橋巨泉を著書で攻撃。
#*また「はらたいらに答えを教えている」と暴露して名誉棄損で訴訟になりかけた。
#**これは、後にはらたいらが、間違って次の問題の答えを書いたことで芹沢の主張が正しかった事が証明された。
#姉弟子の蛸島彰子女流名人(当時)が時代劇「新・必殺仕置人」に出演したとき、殺されてコモ(むしろ)を被せられる役だったことにも猛反発。
#*「女流とはいえ名人、それがコモかぶりでは将棋のタメにならない」と抗議し、結局このシーンはお蔵入りとなった。
#トラブルには事欠かなかったため、次第に周囲から敬遠されるように。
#*とどめは板谷四郎の「芹沢、お前の最近の態度は何だ。ほかでチャラチャラ稼ぐから将棋がおろそかになるのだ」。
#若い頃は将棋の自信にあふれていたが、中原誠や米長邦雄に抜き去られたと感じ「前に2頭いれば連対できない(※競馬用語:「1位にも2位にもなれない」の意味)」と自信を無くしていた。
#*結果、朝から酒をあおる生活となり、1987年に肝不全で死去。享年51歳。現役のままこの世を去った。
#*だから将棋しろってば!
 
==[[wikipedia:ja:内藤國雄|内藤國雄]]==
#一般的には将棋棋士としてより歌手としての方が有名。
#*若いころカラオケで歌っている声を聴いた流しのボスが歌手としてスカウトした。
#*代表曲「おゆき」はミリオンを達成している。
 
==[[wikipedia:ja:升田幸三|升田幸三]]==
#間違いなく伝説の棋士の一人。
#将棋界の革命児で、次々と新手を編み出し「将棋と言う競技に寿命があるなら、その寿命を300年縮めた」と言われる。
#*現在でも将棋の新戦術を編み出した棋士に「将棋世界」から送られる「升田幸三賞」にその名をとどめている。
#将棋の実力はもちろん、その豪放磊落な性格と放言癖は、数々の伝説を残している。
#*故郷を発つとき「この幸三、名人に香車を引いて…(勝つ)」と書きおいて、後に王将戦で大山康晴名人(当時)に対し、実際に香落ちで勝って現実のものとした。
#ヘビースモーカーで、一日に200本吸ったと言われる。酒豪でもあった。
#*谷川浩司に対して「自分は5歳のときから酒を飲んでいたので記憶力が減退してしまった。酒は控えなさい」。
#ギャンブルは一通り験してみた結果「運に左右されるものは勝負じゃない」とその後はやらなかった。
#戦後GHQが「将棋は捕虜(取った駒)を再び使うから捕虜虐待につながる」という理由で廃止しようとしていたところ。
#*「将棋は人材を有効に活用する合理的なゲームである。チェスは取った駒を殺すが、これこそ捕虜の虐待ではないか。」
#*「キングは危なくなるとクイーンを盾にしてまで逃げるが、これは貴殿の民主主義やレディーファーストの思想に反するではないか」
#**これを延々と5時間に渡って話続け、将棋の廃止は免れた。
#全日本選手権戦(竜王戦の前身)で木村義雄名人(当時)と対局した際
#*升田「名人など所詮はゴミのようなもの」
#*木村「じゃあ君は一体なんだ?」
#*升田「ゴミにたかるハエだな」
#*木村「では名人に挑戦くらいしてはどうかね?」
#**升田は後に実際に名人のタイトルを獲得している。
#塚田正夫とは仲がよかったが、あるとき升田が「俺は太陽で、あんたは月だ」と言うと、塚田も頭にきて反論、太陽だ、月だ、と言いあった。
#名人獲得は2期で永世名人資格を持っていないが、将棋界における貢献から「第4代実力制名人」の称号が贈られている。
#*永世名人(含・有資格者)以外でこの称号を持つのは、升田以外では塚田正夫(第2代実力制名人)のみ。
#*升田と塚田は親友同士で、実力制名人の称号も升田と塚田同時に贈られている。
#羽生善治が「将棋を指したい相手は?」と聞かれて「升田幸三」と回答。
#*羽生善治がデビューしたとき、升田は存命中であったが、囲碁は指したが将棋は指さなかった。
#**どうして棋士同士でわざわざ囲碁を指すのか?
 
==[[wikipedia:ja:村山聖|村山聖]]==
*むらやま さとし
#29歳でこの世を去った、悲劇の天才棋士。
#*5歳で腎臓の難病(ネフローゼ症候群)を患っている事が判明、いったん普通の小学校に進むも、その後は病院内学級と養護学校で過ごす。
#*当時から「いつ死んでもおかしくない」状態だった。
#**院内学級では、亡くなっていく子もおり、かなりつらい思いをしたという。
#*将棋を覚える前は、子供ながら自暴自棄になり、両親や兄弟を困らせていた。
#**厳しい食事制限に加え、運動も禁止されていた。
#将棋を覚えたのも病院内で、それに没頭するように。
#*小学2年生の時に父親から駒の動かし方を教わり、それから看護士がとめるのも聞かず、将棋に没頭するようになる。
#*10歳でアマ四段認定。
#*中国こども名人戦に初出場で3位。以降は4連覇を達成(同大会は年2回実施)。
#*12歳で小学生将棋名人戦に初出場、3回戦で佐藤康光に敗れて全国レベルの高さを知る。
#**この大会では、ベスト32に残った子供の中から、後に女流も含めて9人がプロになっている。
#**村山に勝った佐藤康光は準決勝敗退、羽生善治も準々決勝で敗れた。
#*中一の時に中学生将棋名人戦でベスト8。この時の優勝者は中川大輔。
#1981年、中学一年で「大阪に行って奨励会に入らせてくれ。谷川を倒すには、いま、いまいくしかないんじゃ」と言ってプロ棋士を目指すようになる。
#*両親は猛反対したが、あまりにも情熱的に語る聖に負け、また病気の事もあって村山の希望を聞き入れた。
#*両親が師匠探しに苦心した挙句、森信雄に弟子入り。
#1982年、奨励会に合格するが、師匠がバッティングしており、もう一方の師匠の反対で入会取り消しに。
#*1983年再受験して5級で入会。
#**1986年11月5日、17歳の時に四段に昇格してプロデビュー。奨励会在籍2年11か月は、現在(2018年5月)に至るまで最速通過記録。
#***しかも入院しながら、月2回の外出許可の中での記録であった。
#羽生との因縁。
#*羽生善治と同時にC級1組に昇級、五段となる。
#*「東に天才羽生がいれば、西に怪童村山がいる」と騒がれた。
<!--まずはここまで。あ、加筆はご自由に-->
#度重なる体調悪化に悩まされる。
#*村山自身が「(体温が)40度になったら死にます」と言い、実際には40度を超えていても師匠の森は「まだ40度は超えてない。大丈夫や。」といって励ました。
#*少女漫画が好きだったが、体調のために自分では買いに行けず、師匠が買いに走っていた。
#**師匠はどこに売っているかもわからない少女漫画を探してあちこちの書店を巡ったという。
#*蔵書は少女漫画3000冊。同じ本を「読む分、書棚に飾る分、保存する分」3冊買った。
#ニックネームは「怪童丸」
#*村山は「爪や髪の毛にも命がある」として切らず、病気のための浮腫(むくみ)もあって独特の風貌になっていた。
#*理由は不明だが、歯も磨かなかったようで周囲からは「不潔」と言われた。
#終盤に抜群に強く「終盤は村山に聞け」と言われた。
#*A級順位戦の対局を関西将棋会館の控え室で観戦していたところ、内藤國雄が「詰んどる」と言ったので、一同で詰みを探したが……。
#**村山は「詰まない」と言っており、事実その通りだった。
#20歳前に「名人になって早く将棋を辞めたい」と発言。
#*自分の命が限られている事がわかっていた事と、病気で苦しみながら将棋を指していたがゆえんの発言。
#*文字通り「命を懸けて将棋を指して」いたため、将棋は滅法強かった。
#**しかも村山は体調の関係で対局に行けない事もしばしばであった。
#羽生善治とは実力伯仲だった。
#*最初の対戦で、羽生は村山の指し手と病状に関し「こんなのが最初の作戦で大丈夫?」と二重の意味で思ったが
#**「そんな状態で、指す将棋がとんでもない冴えと切れ味。その二面性に、棋士の中でも異質なタイプなんだなとしみじみと思っていました」
#*1997年2月28日に竜王戦1組の1回戦で羽生と対戦して勝ち、通算対戦成績を6勝6敗のタイに。
#*しかしこの頃から体調がますます悪化し始める。
#晩年は膀胱がん発症。
#*1997年頃に膀胱がんが見つかり、8時間半の手術を受けて復帰。
#*ただし放射線治療と抗がん剤治療は「対局に影響がでる」と拒否した。
#*同年のNHK杯の決勝で羽生と対戦するが、優勢に進めていたにも関わらず、自らのポカで負けて対戦成績を6勝7敗とした。
#**結果的にこれが対羽生善治の生涯対戦成績となった。ただしこの後は羽生以外の棋士を相手に公式戦で5連勝を挙げる。
#1998年春、癌の再発・転移が見つかり、「1年間休戦し療養に専念」する。29歳。
#*1998年8月8日逝去。享年29歳。翌日九段追贈。
#村山が最後に会った棋士は、羽生善治。
#*村山は当時、最後の病気療養のために地元・広島の病院にいた。
#**羽生が仕事で広島に来ていることを聞きつけた村山が父親に頼み、会場まで連れて行ってもらった。
#**村山は、もうすでに危険な状態であったが、病気の事は周囲には隠しており、羽生も知らなかった。
#目指した名人はおろか、八大タイトルの獲得はついにかなわず、一般タイトルの獲得も2つにとどまった。
#生涯成績は356勝201敗(うち不戦敗12) 勝率0.639。
#その生涯は「聖の青春」として本になり、映画化もされた。
 
==[[wikipedia:ja:米長邦雄|米長邦雄]]==
#2012年に69歳で亡くなったのが惜しまれるエピソード満載の棋士。
#*この没年齢の数字すら、氏ならではのギャグに見えてしまう。
#本人はプロ志望ではなかったが、師匠の方からスカウトされた。
#*この時、師匠が両親に言ったセリフ。
#*「息子さんは名人にはなれないかもしれないが、八段にはなれます。」
#*なお米長は九段になって名人位も獲得している。
#女子小学生の内弟子(林葉直子)を取った事があり、そのまま「[[ライトノベルファン/作品別#りゅうおうのおしごと!ファン|りゅうおうのおしごと!]]」の設定のネタにされた。
#升田幸三に可愛がられたが、升田には「麦長くん」と呼ばれていた。
#兄が3人いるが、3人とも[[東京大学|東大]]に進んでいる。
#*「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」と発言した(と言われている)。
#**このエピソードは、同じく兄が東大に進んだ谷川浩司の発言として語られることもある。
#「あなたのストレス解消法は」と質問されて「口に出すわけにはいかない」。
#*「可能ならばやってみたいスポーツは」と訊かれて「段違い平行棒」。
#42歳の時にヌード写真を雑誌で掲載。
#*需要のほどは不明だが、確かに話題はさらった。
#*撮影場所は[[鳥取砂丘]]。
#女性関係でもめ事があると、桐谷広人(上述)に解決させ、脅迫文の代筆までさせていた。
#1996年、「コンピュータがプロを負かす日は? 来るとしたらいつ」というアンケートに「永遠になし」と回答。
#*それから16年後の2012年、米長はボンクラーズに敗れている。
#十段戦(竜王戦の前身)で福崎文吾に敗れた際、その福崎に「おめでとう」と言って自ら花束贈呈。
#政治的立場は保守派であるが、日本共産党が若手登竜門のタイトル(新人王戦)を主宰しているため「政党で真っ先にいちばん感謝しなければならないのは日本共産党」と発言。
#囲碁がめっぽう強く、将棋棋士なのに「碁敵が泣いて口惜しがる本 “将棋”の天才が発見した囲碁必勝の秘訣」という本を書いている。
#*囲碁は八段(追贈)
#末期は前立腺がんにかかったが、その際には「癌ノート ~米長流 前立腺癌への最善手~」という本を書いている。
 
[[Category:将棋|すはらしきもときし]]

2018年6月10日 (日) 01:19時点における版

引退した棋士、物故者。

  • 「将棋指しは個性的な人(=変人)が多い」と言われるが、元からの将棋ファン以外には認識されていないものも多いはず。
    • よってここでは、プロ・アマ問わず、将棋棋士にまつわるエピソードを並べてみる。
    • 面白エピソードはもちろん、スゴイものももちろん可。
  • 一応百科事典項目なので、ネタは遠慮してください。ただし既に広く知られているものについてはネタでも可。
  • 記載は、節別に氏名の50音順とします。
  • 棋士名に段位やタイトル名は原則不要。
  • 氏名のリンク先は、ウィキペディアの項目名。
    • 存在しない場合は無理にリンクにしなくても良い。
  • 他の百科事典項目と同様、書き換えや記事の並び替え可。

石田和雄

  1. 名前は「石田」であるが、将棋定跡の「石田流」とは無関係。
  2. 奨励会時代はその昇級スピードの速さから「岡崎の天才児」と言われた。
    • いわゆるA級九段であるが、タイトル獲得はおろか挑戦者になったこともない。
  3. ある意味ひふみん以上に騒がしい。
    • 扇子を鳴らしてテンポをとる棋士は少なくないが、その音が大きい。
      • 時には自分の頭をたたくこともある。
    • 考慮中に前傾姿勢になる棋士は少なくないが、常時盤上に頭を出してくるのはそんなにいないと思われる。
    • 加藤一二三や藤井聡太など、対局中に相手側から盤面を見る棋士もいるが、離席している間に相手の座布団に座るのはたぶんこの方くらい。
      • ご丁寧に相手の駒をそろえることもある。
    • 感想戦ではとにかくボヤキまくる。
      • NHK杯では対局相手の北浜健介そっちのけで解説のひふみん相手にボヤキまくった。
  4. 弟子の高見泰地が叡王を獲得した際、報道陣と一緒に対局室へ入り、感想戦に同席した。
    • 当人は「周りから言われた」といっていたが、居ても立っても居られない姿が見てられなかったのであろう。

大山康晴

  1. 中原誠らと並んで羽生善治以前の世代の代表格。
  2. 大の麻雀好き。タイトル戦の対局中にも記者室に顔を出し「君たち、仕事(麻雀)しなさい」というのが常だった。
    • 2日間の対局の場合は、将棋の勝負が終わってから自らも参加。
  3. 大変な負けず嫌いで、歩いている時、他人に抜かれると悔しがって抜き返したほど。
  4. 将棋4コマ漫画でギャグのネタに使われたが、その漫画の作者いわく「(実際の)大山は将棋しか考えない鉄人だった」と証言している。
  5. 棋士の間では「盤外戦の名人」としても有名で、既に自らの勝ちが見えた勝負でも、わざと遠回しに指して相手に精神的ダメージを与えた。
    • 特に若手有望株に対して使い、自分の第一人者としての地位を守ろうとした。
    • 羽生善治とも対戦し、大山はこの手を使おうとしたが、羽生は負けを見越して早々に投了して通じなかった。
    • 最たるものは1972年の「福田家事件」(福田家は対局場となった旅館)。
      • 内藤國雄棋聖に対し、大山は挑戦者であるにも関わらず、対局前日、内藤がまだ到着していなかった(※遅れることは事前連絡あり)のに「時間になったから宴会を始めよう」と言い出し、周りも大山の言う事に従わざるをず、宴会を行った。
      • 内藤が到着したときには宴会は終わっており、それを見た内藤は激怒。そのまま銀座で大酒をあおり、内藤は翌日の対局でも負けた。
      • さらにこれ以降実に10年にわたって内藤は順位戦で大山に勝てず、カモにされていた。なぜかと言えば、大山はその後も内藤との対戦では……
        • 対局中に「内藤さん、テレビに出ると、いくらもらえるの?」「封じ手を2時過ぎにやって、すぐ麻雀にしよう」「福田家には、お手つきの仲居さんがいたしね」と内藤の神経を逆なでしていた。
      • 内藤國雄の、対大山の対戦成績は18勝50敗(勝率.265)で終生苦手にしていた。
    • 真剣師(賭け勝負師)出身の花村元司には、自分が勝った後に「あんたは所詮素人だもんね」。
    • 対局中の雑談は、現在では当然のマナーとして行われないが、大山はこの雑談で相手を怒らせては正常な思考を奪っていた。
    • いくら盤外戦でもここまで徹底するのは珍しく「どんな手を使っても勝つ」という大山の哲学が垣間見える。
    • ちなみに盤外戦は、最近では流行らないらしい。
      • 相手の側に回って将棋盤を眺めるのも元々は盤外戦術の一つだが加藤一二三の「ひふみんアイ」は盤外戦術とは考えられていない。
  6. コンピューター将棋がまだ使い物にならなかった頃から「コンピューターの方が強いに決まってるじゃないか」と未来を予期していた。
    • 「コンピュータに将棋なんか教えちゃいけないよ。ろくなことにならないから」とも発言。
    • 現代将棋では羽生善治や渡辺明などの超一流棋士でもコンピューターで棋力を磨くのが常識だが、大山が今生きていたらどういうのだろうか?

加藤一二三

  1. ご存じ「ひふみん」。
    • 同じ愛称を持つアニメキャラが同時期に話題になったのをTwitterでネタにされてたら、本人にも捕捉されてしまった。
  2. 藤井聡太のプロデビュー戦で対局、それに負けて引退したが、おかげで将棋を知らない人たちにも有名になった。
    • そのため、藤井聡太に会うたびごとに「(有名にしてくれて)ありがとう」。
  3. でもそこは勝負師。身内では「僕には藤井聡太でも破れない記録があるんだよ」と自慢している記録があるらしい。
    • 残念ながらそれが何の記録だったかは失念。
      • 順位戦A級昇格の最年少記録らしい。
        • それは藤井聡太も可能性があるので最年少五段記録かも。これならもう結果が出てるので藤井は達成不可能。
  4. 大の猫好き。
    • 外で猫を見かけると「ハロー」と手を上げて挨拶。続けて「君達も、将棋に興味があるのかい?」
    • 野良猫にエサを与え続けた結果、猫が増えてご近所トラブルに。
  5. 現在のひふみんキャラからは想像もつかないが、デビュー当時は「神武以来の天才」と騒がれた。
    • 加藤が11歳の時、関西将棋会館で板谷四郎に指導対局を受けていた際、たまた通りかかった升田幸三が一目で加藤の才能を見抜いた。
      • 天才が天才を知る、ということらしい。
  6. 上記の大山康晴に匹敵する、盤外戦術の帝王。
    • 「盤外であろうと、主張すべき事は決して譲らない」とか。
      • 盤外戦術というよりこの人の場合、素でやってる事が相手に嫌がられているだけだと思う。
  7. 敬虔なクリスチャンであり、賞金の多くをキリスト教に寄付。
    • 聖シルベストロ教皇騎士団勲章を授与されている。
      • ただしどの程度すごいのかはチャクウィキでは判断できない。
  8. 引退後も2018年現在、公式戦における対局数(2,505)及び敗北数(1,180)で一位を保持している。
    • 勝利数は三位(1,324)。
      • 一位は大山康晴(1,433)、二位は羽生善治(1,400・更新中)

神吉宏充

  • かんき ひろみつ
  1. 師匠の内藤國雄とともにタレント棋士のはしり。
    • 関西では「将棋の強いお笑い芸人」と思われている。
    • NHKに将棋番組の企画を持ち込み、「大逆転将棋」という特番の司会を(引退後も)つとめている。
      • 一時期中断されていたが、昨今の将棋ブームで2018年正月特番として復活。
  2. 奨励会に入る前は普通の会社員だったという棋士としては異色の経歴を持つ。
  3. YouTubeに「神吉宏充の最高!エンタメ将棋」というチャンネルを持つユーチューバーでもある[1]
    • でもチャンネル登録者が147人(執筆時点)というのは何かのギャグか?
    • あとゲストが偏りすぎ。北浜健介とか北浜健介とか北浜健介とか。

桐谷広人

  1. 財テク棋士。
    • 証券会社に対局指導に行き、株式投資を覚えた。
  2. 衣服や靴、日用品などもすべて株主優待品。現金を使うのはマンションの家賃と光熱費くらい。
    • 元々は普通にお金を払って生活していたが、リーマンショックで株式が暴落したため、配当なども減り、お金をつかえなくなった。
  3. 年間140本もの新作映画を観るという映画通。
    • テレビ番組で映画の試写会に訪れた際、ジョニー・デップに映画の感想を直接伝えるという離れ業を演じた。
    • 映画鑑賞も、もちろん株主優待。
  4. 実は升田幸三の弟子で唯一棋士になった人物である。

芹沢博文

  1. 元祖マルチタレント棋士。文化人タレントのはしりでもある。
    • 肩書は、棋士以外にタレント、俳優、歌手、エッセイストなど。
    • 将棋では勝数既定で九段になったが、A級在籍は2期にとどまり、八大タイトルは最後まで獲れなかった。
      • 室内ゲームには全般にわたって強く、特に麻雀は、棋界内で愛好家が多いにもかかわらず、一・二を争う実力だった
    • 将棋しろ!
  2. 将棋の普及にも尽力し、全国各地で今も開催される「将棋まつり」は芹沢の発案。
  3. 1982年、当時C級2組で全敗しても降格することがなかったため、猛烈に抗議した。
    • いわく「競争原理が働くはずのプロが、全敗でクラスも落ちず、給料を貰えるのはおかしい」
      • 1986年にC級2組からの降級が復活。
    • なお今は縮小されているが、棋士には連盟から、活動やクラスに応じた給与が支給される。
      • タイトル料はもちろん、対局料、原稿料、取材、解説。対局指導などなど、およそ棋士の活動の全て。
        • 何もしていなくてももらえる「謎の給料」もあるらしい。というか以前はこれが多かった。
          • 芹沢の指摘は主にこれと思われる。
  4. 当時の第一人者の大山康晴を著書で度々批判。
    • 当の大山は、当然激怒したが「将棋界に役に立つ男」としては芹沢を認めていたという。
  5. クイズダービーに弟弟子の中原誠が出演した際、司会の大橋巨泉が「中原君」と呼んだ事に激怒。
    • 以後、大橋巨泉を著書で攻撃。
    • また「はらたいらに答えを教えている」と暴露して名誉棄損で訴訟になりかけた。
      • これは、後にはらたいらが、間違って次の問題の答えを書いたことで芹沢の主張が正しかった事が証明された。
  6. 姉弟子の蛸島彰子女流名人(当時)が時代劇「新・必殺仕置人」に出演したとき、殺されてコモ(むしろ)を被せられる役だったことにも猛反発。
    • 「女流とはいえ名人、それがコモかぶりでは将棋のタメにならない」と抗議し、結局このシーンはお蔵入りとなった。
  7. トラブルには事欠かなかったため、次第に周囲から敬遠されるように。
    • とどめは板谷四郎の「芹沢、お前の最近の態度は何だ。ほかでチャラチャラ稼ぐから将棋がおろそかになるのだ」。
  8. 若い頃は将棋の自信にあふれていたが、中原誠や米長邦雄に抜き去られたと感じ「前に2頭いれば連対できない(※競馬用語:「1位にも2位にもなれない」の意味)」と自信を無くしていた。
    • 結果、朝から酒をあおる生活となり、1987年に肝不全で死去。享年51歳。現役のままこの世を去った。
    • だから将棋しろってば!

内藤國雄

  1. 一般的には将棋棋士としてより歌手としての方が有名。
    • 若いころカラオケで歌っている声を聴いた流しのボスが歌手としてスカウトした。
    • 代表曲「おゆき」はミリオンを達成している。

升田幸三

  1. 間違いなく伝説の棋士の一人。
  2. 将棋界の革命児で、次々と新手を編み出し「将棋と言う競技に寿命があるなら、その寿命を300年縮めた」と言われる。
    • 現在でも将棋の新戦術を編み出した棋士に「将棋世界」から送られる「升田幸三賞」にその名をとどめている。
  3. 将棋の実力はもちろん、その豪放磊落な性格と放言癖は、数々の伝説を残している。
    • 故郷を発つとき「この幸三、名人に香車を引いて…(勝つ)」と書きおいて、後に王将戦で大山康晴名人(当時)に対し、実際に香落ちで勝って現実のものとした。
  4. ヘビースモーカーで、一日に200本吸ったと言われる。酒豪でもあった。
    • 谷川浩司に対して「自分は5歳のときから酒を飲んでいたので記憶力が減退してしまった。酒は控えなさい」。
  5. ギャンブルは一通り験してみた結果「運に左右されるものは勝負じゃない」とその後はやらなかった。
  6. 戦後GHQが「将棋は捕虜(取った駒)を再び使うから捕虜虐待につながる」という理由で廃止しようとしていたところ。
    • 「将棋は人材を有効に活用する合理的なゲームである。チェスは取った駒を殺すが、これこそ捕虜の虐待ではないか。」
    • 「キングは危なくなるとクイーンを盾にしてまで逃げるが、これは貴殿の民主主義やレディーファーストの思想に反するではないか」
      • これを延々と5時間に渡って話続け、将棋の廃止は免れた。
  7. 全日本選手権戦(竜王戦の前身)で木村義雄名人(当時)と対局した際
    • 升田「名人など所詮はゴミのようなもの」
    • 木村「じゃあ君は一体なんだ?」
    • 升田「ゴミにたかるハエだな」
    • 木村「では名人に挑戦くらいしてはどうかね?」
      • 升田は後に実際に名人のタイトルを獲得している。
  8. 塚田正夫とは仲がよかったが、あるとき升田が「俺は太陽で、あんたは月だ」と言うと、塚田も頭にきて反論、太陽だ、月だ、と言いあった。
  9. 名人獲得は2期で永世名人資格を持っていないが、将棋界における貢献から「第4代実力制名人」の称号が贈られている。
    • 永世名人(含・有資格者)以外でこの称号を持つのは、升田以外では塚田正夫(第2代実力制名人)のみ。
    • 升田と塚田は親友同士で、実力制名人の称号も升田と塚田同時に贈られている。
  10. 羽生善治が「将棋を指したい相手は?」と聞かれて「升田幸三」と回答。
    • 羽生善治がデビューしたとき、升田は存命中であったが、囲碁は指したが将棋は指さなかった。
      • どうして棋士同士でわざわざ囲碁を指すのか?

村山聖

  • むらやま さとし
  1. 29歳でこの世を去った、悲劇の天才棋士。
    • 5歳で腎臓の難病(ネフローゼ症候群)を患っている事が判明、いったん普通の小学校に進むも、その後は病院内学級と養護学校で過ごす。
    • 当時から「いつ死んでもおかしくない」状態だった。
      • 院内学級では、亡くなっていく子もおり、かなりつらい思いをしたという。
    • 将棋を覚える前は、子供ながら自暴自棄になり、両親や兄弟を困らせていた。
      • 厳しい食事制限に加え、運動も禁止されていた。
  2. 将棋を覚えたのも病院内で、それに没頭するように。
    • 小学2年生の時に父親から駒の動かし方を教わり、それから看護士がとめるのも聞かず、将棋に没頭するようになる。
    • 10歳でアマ四段認定。
    • 中国こども名人戦に初出場で3位。以降は4連覇を達成(同大会は年2回実施)。
    • 12歳で小学生将棋名人戦に初出場、3回戦で佐藤康光に敗れて全国レベルの高さを知る。
      • この大会では、ベスト32に残った子供の中から、後に女流も含めて9人がプロになっている。
      • 村山に勝った佐藤康光は準決勝敗退、羽生善治も準々決勝で敗れた。
    • 中一の時に中学生将棋名人戦でベスト8。この時の優勝者は中川大輔。
  3. 1981年、中学一年で「大阪に行って奨励会に入らせてくれ。谷川を倒すには、いま、いまいくしかないんじゃ」と言ってプロ棋士を目指すようになる。
    • 両親は猛反対したが、あまりにも情熱的に語る聖に負け、また病気の事もあって村山の希望を聞き入れた。
    • 両親が師匠探しに苦心した挙句、森信雄に弟子入り。
  4. 1982年、奨励会に合格するが、師匠がバッティングしており、もう一方の師匠の反対で入会取り消しに。
    • 1983年再受験して5級で入会。
      • 1986年11月5日、17歳の時に四段に昇格してプロデビュー。奨励会在籍2年11か月は、現在(2018年5月)に至るまで最速通過記録。
        • しかも入院しながら、月2回の外出許可の中での記録であった。
  5. 羽生との因縁。
    • 羽生善治と同時にC級1組に昇級、五段となる。
    • 「東に天才羽生がいれば、西に怪童村山がいる」と騒がれた。
  6. 度重なる体調悪化に悩まされる。
    • 村山自身が「(体温が)40度になったら死にます」と言い、実際には40度を超えていても師匠の森は「まだ40度は超えてない。大丈夫や。」といって励ました。
    • 少女漫画が好きだったが、体調のために自分では買いに行けず、師匠が買いに走っていた。
      • 師匠はどこに売っているかもわからない少女漫画を探してあちこちの書店を巡ったという。
    • 蔵書は少女漫画3000冊。同じ本を「読む分、書棚に飾る分、保存する分」3冊買った。
  7. ニックネームは「怪童丸」
    • 村山は「爪や髪の毛にも命がある」として切らず、病気のための浮腫(むくみ)もあって独特の風貌になっていた。
    • 理由は不明だが、歯も磨かなかったようで周囲からは「不潔」と言われた。
  8. 終盤に抜群に強く「終盤は村山に聞け」と言われた。
    • A級順位戦の対局を関西将棋会館の控え室で観戦していたところ、内藤國雄が「詰んどる」と言ったので、一同で詰みを探したが……。
      • 村山は「詰まない」と言っており、事実その通りだった。
  9. 20歳前に「名人になって早く将棋を辞めたい」と発言。
    • 自分の命が限られている事がわかっていた事と、病気で苦しみながら将棋を指していたがゆえんの発言。
    • 文字通り「命を懸けて将棋を指して」いたため、将棋は滅法強かった。
      • しかも村山は体調の関係で対局に行けない事もしばしばであった。
  10. 羽生善治とは実力伯仲だった。
    • 最初の対戦で、羽生は村山の指し手と病状に関し「こんなのが最初の作戦で大丈夫?」と二重の意味で思ったが
      • 「そんな状態で、指す将棋がとんでもない冴えと切れ味。その二面性に、棋士の中でも異質なタイプなんだなとしみじみと思っていました」
    • 1997年2月28日に竜王戦1組の1回戦で羽生と対戦して勝ち、通算対戦成績を6勝6敗のタイに。
    • しかしこの頃から体調がますます悪化し始める。
  11. 晩年は膀胱がん発症。
    • 1997年頃に膀胱がんが見つかり、8時間半の手術を受けて復帰。
    • ただし放射線治療と抗がん剤治療は「対局に影響がでる」と拒否した。
    • 同年のNHK杯の決勝で羽生と対戦するが、優勢に進めていたにも関わらず、自らのポカで負けて対戦成績を6勝7敗とした。
      • 結果的にこれが対羽生善治の生涯対戦成績となった。ただしこの後は羽生以外の棋士を相手に公式戦で5連勝を挙げる。
  12. 1998年春、癌の再発・転移が見つかり、「1年間休戦し療養に専念」する。29歳。
    • 1998年8月8日逝去。享年29歳。翌日九段追贈。
  13. 村山が最後に会った棋士は、羽生善治。
    • 村山は当時、最後の病気療養のために地元・広島の病院にいた。
      • 羽生が仕事で広島に来ていることを聞きつけた村山が父親に頼み、会場まで連れて行ってもらった。
      • 村山は、もうすでに危険な状態であったが、病気の事は周囲には隠しており、羽生も知らなかった。
  14. 目指した名人はおろか、八大タイトルの獲得はついにかなわず、一般タイトルの獲得も2つにとどまった。
  15. 生涯成績は356勝201敗(うち不戦敗12) 勝率0.639。
  16. その生涯は「聖の青春」として本になり、映画化もされた。

米長邦雄

  1. 2012年に69歳で亡くなったのが惜しまれるエピソード満載の棋士。
    • この没年齢の数字すら、氏ならではのギャグに見えてしまう。
  2. 本人はプロ志望ではなかったが、師匠の方からスカウトされた。
    • この時、師匠が両親に言ったセリフ。
    • 「息子さんは名人にはなれないかもしれないが、八段にはなれます。」
    • なお米長は九段になって名人位も獲得している。
  3. 女子小学生の内弟子(林葉直子)を取った事があり、そのまま「りゅうおうのおしごと!」の設定のネタにされた。
  4. 升田幸三に可愛がられたが、升田には「麦長くん」と呼ばれていた。
  5. 兄が3人いるが、3人とも東大に進んでいる。
    • 「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」と発言した(と言われている)。
      • このエピソードは、同じく兄が東大に進んだ谷川浩司の発言として語られることもある。
  6. 「あなたのストレス解消法は」と質問されて「口に出すわけにはいかない」。
    • 「可能ならばやってみたいスポーツは」と訊かれて「段違い平行棒」。
  7. 42歳の時にヌード写真を雑誌で掲載。
    • 需要のほどは不明だが、確かに話題はさらった。
    • 撮影場所は鳥取砂丘
  8. 女性関係でもめ事があると、桐谷広人(上述)に解決させ、脅迫文の代筆までさせていた。
  9. 1996年、「コンピュータがプロを負かす日は? 来るとしたらいつ」というアンケートに「永遠になし」と回答。
    • それから16年後の2012年、米長はボンクラーズに敗れている。
  10. 十段戦(竜王戦の前身)で福崎文吾に敗れた際、その福崎に「おめでとう」と言って自ら花束贈呈。
  11. 政治的立場は保守派であるが、日本共産党が若手登竜門のタイトル(新人王戦)を主宰しているため「政党で真っ先にいちばん感謝しなければならないのは日本共産党」と発言。
  12. 囲碁がめっぽう強く、将棋棋士なのに「碁敵が泣いて口惜しがる本 “将棋”の天才が発見した囲碁必勝の秘訣」という本を書いている。
    • 囲碁は八段(追贈)
  13. 末期は前立腺がんにかかったが、その際には「癌ノート ~米長流 前立腺癌への最善手~」という本を書いている。