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2017年3月5日 (日) 17:21時点における>鯉王による版 (→‎神代勝利)
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甲斐親直

  1. 肥後の阿蘇の名将。号は宗運。
  2. 生涯無敗で、島津を幾度も撃退している。
  3. 主君の阿蘇氏には忠実なのだが・・・
    • ある同僚の謀反の噂(あくまでも噂の段階)がちらっと出ただけで、その同僚を粛清。「汚物は消毒だ!ヒャッハー!!!」
    • さらに芋づる式に自分の長男以外の息子全員を粛清。おっかない。
    • そこからさらに長男も粛清しようとしたが、さすがにこれは行き過ぎということで止められた。
    • そのことから長男の嫁の恨みを甲斐、毒殺された疑惑がある。
      • ちなみにその嫁は粛清された同僚の娘。親直「お前も殺したろか?あぁん?」嫁「あんたは鬼や。」
    • で、最期に長男に遺言を残したのだが、当然大人しく従うはずもなく、それが戦国大名阿蘇氏滅亡の原因になってしまう。
  4. 同じく肥後の大名であった相良義陽とは互いに領地を侵さないという盟約を交わした友人同士だったが・・・

柿崎景家

  1. 上杉家の猛将。謀反の疑いで謙信に殺されたという噂が流布しているがまともな史料にはそんな記述は一切ない。
    • 刑死だとしたら、他の一族の誰も連座していないというのはおかしい。おそらくは普通の病死だろう。
    • 後を継いだ次男・晴家が御館の乱で景虎に付いて敗死しているため、そのとばっちりで貶められた可能性も…。
  2. 単なる武骨の者ではなく、外交などでも活躍した。

加藤清正

名古屋城の清正像
  1. 年配の熊本県民には神。
    • 地元における愛称はセイショコさん。
    • しばらく前まで、ドサ廻りの劇団などが熊本で公演する際は、芝居の筋とまるっきり関係なくても加藤清正を登場させたそうな。
      • 唐突にひげ面の武者が出てきて、
        「さしたる用は無けれども、現れいでたる加藤清正」
        とひとこと言って退場すると、熊本の観客は大喝采したらしい。
  2. 退治をやったらしい。
    • トレードマークの片鎌槍は、虎と戦って十文字槍の片刃を折られたのがきっかけなのだとか。
      • 海音寺潮五郎氏はもともと片鎌槍だったとしているけど…。(出典:加藤清正・上下巻・文春文庫)
      • 現在は上野の東京国立博物館所蔵。知名度の高さと、槍の優品は日本刀に比べ現存数が遥かに少ないためか、年に一回は展示している。
    • 本当は槍ではなく鉄砲を使ったらしい。
    • 配下の足軽にも虎の睾丸を潰して倒した者がおり、そいつに金玉という名字を与えたという逸話がある。
  3. 「熊本の大名」のイメージが強いが、出自は名古屋出身で、鍛冶屋の倅。
    • 武断派大名で、福島正則とは仲良しだったが、石田三成とは豊臣秀吉に見いだされて以降から仲が悪かった。これがもとで秀吉没後の豊臣家分裂につながる。
      • 元々は小西行長と仲が悪く、三成とは悪くはなかった。しかし朝鮮出兵で三成が行長を庇う形になったことから三成との仲が険悪になった。
    • とはいえ、福島正則のほうが貰った知行が多かったというので号泣して悔しがったことも。意外と嫉妬深い甘えんぼさんだったらしい。
      • この時、福島正則は五千石貰って清正は三千石貰う。「拙者の知行が正則より少ないのはどういうわけでござるか、このお墨付きお返し申す!」と使者にかみつく。最終的には同じ石高にしてもらった。「俺と正則とで、どう働きが違うというのか。共に同じように働いたのにこの差はおかしい」ということ。
  4. 詩歌を嗜まず、嫌っていたらしい。
  5. 熊本の領内で小麦を栽培し、南蛮人との貿易決済に使った。なかなかの商売上手。
  6. 武だけでなく政治もできる人物だが、福島正則に「お前、何でもかんでも自分でやりすぎ。任せるところは部下に任せなきゃいかん」と苦言を呈されたことがある。
    • 領内の城々を家臣に分け与えて城代とし、家老職を置かずに政務万端自分で見てた為そう言われた。
    • 実際清正が死ぬと、あらゆる業務に清正の手が入っていたので家臣が右往左往。相続の確認に来た幕府の役人に呆れられた。
    • その後加藤家が改易されると、「あそこの藩士は役に立たない」と言われて再就職に苦労したとか。人を育てるって大切だね。
  7. 熊本城築城・白川&緑川の治水と領内の土木に心砕いた。もともとの地名、隈元は陸を畏れるで縁起が悪いと、熊本に改名した。江戸城富士見櫓の石垣は熊本城の石垣を模したものとか。
  8. 身長は190cmくらいの大男説と160cmくらいの小男説とに分かれる。
    • 戦国時代の男の平均身長は160cm位だから小男ではないな。
  9. 朝鮮出兵ではかなりの活躍をした模様。
    • 明国でも「虎を突き殺す鬼上官」として知られていた。
      • 「鬼」といっても頭に角がある現代の鬼のイメージではなく「強い武将」の意味と思われる。朝鮮出兵時は現地住民を安心させるため「我々はお前たちを殺しに来たのではない」と布告し、家来には「住民に仇成す者は厳罰に処す!」と布令出したそうだし。
  10. 秀頼と家康の会見を実現させた直後に死去。豊臣と徳川を仲介できる実力者が悪すぎるタイミングで死んだため、家康による謀殺もささやかれた。
  11. 関ヶ原の戦いで東軍についてしまった。家康の思惑が分かっていたのかいなかったのか……
    • 家康の思惑どうのより「豊臣家は俺が守る!豊臣家存続のためにも徳川方につく!」的思考だったとか。
      • この思考に賛成したのが福島正則ら豊臣恩顧の大名衆。
    • 三成と合わなかったせいじゃなかったの?

加藤嘉明

  1. 加藤清正と同じく「賤ヶ岳の七本槍」の一人。 「よしあき」ではなく「よしあきら」。
    • 通称は孫六、あるいは左馬助。
    • 「よしあき」とも言うがなー…。
  2. 無口な武人。でも有能。
  3. 伊予松山を治めたが、松山城築城やその後の治世で凄まじい重税を課す。五公五民が標準ななかで七公三民という凄まじさ。
    • その松山城の完成寸前に、幕府の命令で陸奥会津に転封。幕府的には栄転(石高は倍増で東北の要地)だったが、嘉明にとってはありがた迷惑のきわみ。
    • 大御所秀忠に必死に辞退を申し入れたが許されなかった。
      • 要するに、「ねんがんの まつやまじょうをてにいれたぞ!」「な なにをする きさまらー!」である。

上泉信綱

  1. 後世に剣聖と謳われる、新陰流の祖。
  2. 剣術家としても有名だが、武将としても活躍した。武将の時の名は秀綱。
    • 長野業正・業盛親子に仕え、あの武田信玄を何度も撃退した。
    • しかし6度目にして、ついに陥落。信綱は信玄の前に引き出される。
    • 信玄「ワシに仕えぬか?」秀綱「いくらなんでも鳥に仕える気にはなりませぬ。」
    • 結局武田家には仕えなかったが、「信」の字を貰った。
  3. 交友関係も幅広く、公家の家で双六に興じたり、酒を飲んで談笑したりもしていたようだ。

蒲生氏郷

  1. 信長、秀吉から重用された。
    • 信長の娘と結婚している。
    • 最初に信長と対面したとき、「眼精常ならず(眼光が常人のものではない)」と評され、気に入られたという。
  2. 茶人としても優れた人物で、千利休とも親交があった。
    • 現存している有名武将が作った茶杓は、利休をパクりすぎた面白味がない作品が大半なのだが、氏郷は個性的で武人らしい茶杓を残している。この人が長生きしてたら、ゲヒ殿の出番はなかったかも。
  3. 死因に毒殺説があるが、どうもでっち上げらしい(氏郷のカルテが現存している)。
    • 氏郷の有能さを妬んだ石田三成が毒殺させたという話、あるいは氏郷の才気を警戒した秀吉が毒殺させたという話がある。
      • とんでもない話で、対家康の有力な牽制者であり、本人もそれと自覚していた氏郷を、秀吉や三成が殺すはずはない。実際、氏郷の急死で、豊臣政権首脳部は対家康戦略を建て直さなければならなくなり、えらい苦労をした。上杉景勝の会津移封はそのための苦肉の策。
    • そのカルテに記載されている内容から、末期の直腸・もしくは肝臓癌だったという説があるらしい。(黄疸や腹水、体中に浮腫ができるなど)
  4. 戦国の雄として天下への野心もあったらしく、辞世の句には無念が滲み出ている。
  5. けっこう無遠慮な放言が残っているが、それによって不利益を被った形跡がないところを見ると、あけすけで憎めない人柄だったのだろう。
    • 小牧の戦いの時だったか朝鮮出兵の時だったかよくわからないが、秀吉の行動に関して「サルめ、死に場所が無くて狂ったか」と言ったとか。
    • 「太閤殿下亡き後は関白殿下(秀次)に従いますか」と家臣に訊かれて、「あんな愚人に誰が従うか」と言ったとか。
  6. 秀吉の氏郷評はなかなか面白い。
    • 秀吉「5万の兵を率いた信長公と、10万の兵を率いた氏郷が戦ったら、どっちが勝つと思う?」
      家臣達「それは信長公では」「いや、氏郷殿も負けてはおらぬだろう」
      秀吉「信長公が勝つ。5万の兵のうち4万5千が戦死しても、信長公は残りの5千のうちに居て生き延びるだろう。しかし10万の兵のうち1万が戦死したら、氏郷は必ずその中に入っている」
  7. 秀吉が天下統一直後に大崎・葛西一揆(領地失った大崎・葛西両家の遺臣団が新代官として赴任した木村親子に対して起こした反乱)鎮圧の為東北へ向かった。が、「伊達政宗が道案内や城攻めなどで、ロクに手を貸さなかったのでエッライ苦労致しました。こんな寒いところから早く暖かい伊勢松阪へ帰りたいです」と愚痴った手紙を秀吉に送ったという逸話がある。
    • 氏郷は木村親子救出は出来たが、本格的な鎮圧は伊達政宗の手で行われた。手柄横取りされて、当然面白くないはずだが「やはり東北は政宗殿が治めねばならぬでしょう。寒地のいくさに手馴れぬそれがし共では手に余り申しました」とほめる手紙を秀吉に送っている。
  8. 新しく部下を召抱えると、決まって「戦場では、銀の鯰尾兜をかぶった武将に負けないようにがんばれ」と言ったという。ちなみにその武将は氏郷本人である。
  9. 高山右近の友人で、彼に勧められキリシタンに入信。
  10. 松阪市の複雑な町割りを最初に造った人。松阪市が交通事故発生率トップクラスなのはこの人にも原因がある。
  11. 結構短気な性格だったらしく、京童にバカにされたことにキレて男塾名物直進行軍をやったことがある。

北条高広

  1. 上杉配下の武将。勇名も高いが、ドジで謙信の心配の種だったり、信玄や北条にそそのかされて謀反したりとクセも強い。
    • 空気を読むのがうまいと言えば良いのかなんというか・・・。
  2. 名字の読みは「きたじょう」である。後北条氏に付いたときは名字が紛らわしいせいか「喜多条」と呼ばれた。

北畠具教

  1. 伊勢国司にして塚原卜伝、上泉信綱という剣聖に師事した剣豪。足利義輝とは兄弟弟子に当たる。
    • 上泉信綱に柳生宗厳を紹介したのもこのお方。
  2. ぐ・・・・・・具教
  3. 信長に粛清される。
    • 信長の倅を養子に押し付けられ、家督を譲らさせられて北畠家を乗っ取られた。
      • その後伊勢国司家は名実ともに滅亡だから、哀れすぎる。

吉川元春

  1. 毛利元就の息子で、初陣に関しては最年少記録かも。

京極高次

京極高次さん
  1. 通称蛍大名
    • 嫁の七光で出世し続けたためこんなふうに蔑まれ続けたが…… その人徳は、世間の人がスゴすぎて気づかないほど良いものだったらしい、アホすぎたけど。
    • 写真を見る限りではホタルというよりは、昼飯でも食い過ぎて腹がつかえて休んでいる中年オヤジという感じがする。
  2. 関ヶ原の後、実は近江とその他併せて50万石の大大名になりかけたらしい。アホすぎて自ら徳川家康と交渉して8万石まで報酬を下げたけど。
    • 交渉の理由が、実は幼少期に2度も戦で居城を焼かれ、父母、義父を失った悲しみを持つ嫁さんを気遣って、戦乱が起こることが地政学的に殆ど無い所を選びたいと考えた結果だったらしい。
    • 上では、アホすぎたと書いたが、ある意味では賢かったといえる。と言うのも、下手に大大名になってしまうと「幕府に睨まれるは必定、御取潰も已む無し」となりかねんため。
  3. ちゃっかり、サルタヌキの子が義兄弟であり、生物学的に見て極めて奇特な人だったらしい。

神代勝利

  1. あの龍造寺隆信に終生対抗した人物。
  2. 「水に足を浸すと龍になる」という夢を買い、それ以降、武の面で活躍したというエピソードを持つ、ファンタジックな男である。
  3. 元々酒宴中の勝利を暗殺しに来た敵・龍造寺家臣の小河信安を、わざわざその酒宴に招き、共に酒を飲み交わした。このエピソードから、彼が懐の大きい人物だったことが分かる。
  4. 名字は「くましろ」と読む。「かみしろ」でも「じんだい」でもないので、くの項目で正解。
    • 天地無用!シリーズ見てたらそんな名前のキャラが居て覚えたクチ?
    • あるいは「世紀末オカルト学院」か。
  5. 勝利公自身は完全なる肥前人であるものの、神代家のルーツは筑後国の高良大社にあるという。父が蒲池・西牟田の圧力に耐えきれずに肥前に逃亡し、そこで生まれたのが勝利公だという。

隈部親永

  1. 二階堂と並ぶ信長の野望きっての顔芸武将。
  2. 近年地元に銅像が建てられた。

黒田官兵衛(如水)

  1. 秀吉の知恵袋。竹中半兵衛と入れ替わるように秀吉の幕僚となって大活躍。
    • 活躍的には入れ替わりだけど、二人揃っていた時期が結構ある。
  2. もとは播磨の小領主・小寺家の家老で、先祖は目薬屋だったらしい。
    • 官兵衛自身ももとは小寺姓だった。
      • 織田信長の将来性に早い時期から着目して、主家の小寺家を信長寄りにしようと画策していたが、主家が官兵衛に断りなく反織田に走ってしまったので、小寺の名を捨てて旧姓の黒田を名乗った。
  3. 信長に反逆した荒木村重を説得しようとして逆に囚われてしまい、一年半くらい牢屋暮らし。
    • この時に足の筋を傷めてしまい、一生治らずびっこをひいていた。
    • また、この時に息子を信長に殺されそうになったが、半兵衛の機転で助けられた。また、殺そうとした信長も非を認めて謝ったらしい。
  4. 本能寺の変の知らせを受けた際、秀吉に「これで殿にも天下が廻ってきますな」と言ってしまい、以後いささか信用を落とした。
    • 実のところ、秀吉自身も、秀長や蜂須賀小六などの首脳陣も、大体同じ事を考えていたのだが、口に出すとヤバいので黙っていたらしい。官兵衛の発言は、間違いではなかったが空気を読まないこと甚だしかった。
      • 信長の死を知って取り乱した秀吉を、しゃんとさせる為に敢えて言った・・・というのは考えすぎか?
    • 秀吉は「ワシの後に天下を盗るのは誰だと思う?」と家臣達に問いかけ、徳川家康や毛利輝元などの名前が挙がる中、首を振って「あのちんばよ」と自答したという。ことの真偽はともかく、やや警戒されていたのは確か。
  5. 関ヶ原の戦いが始まると、蓄えていたカネをばらまいて浪人を募り、兵力が薄くなっていた北九州を切り取り始める。
    • 浪人を募ったのは、黒田家の正規兵は息子の長政が連れて東軍に属していたため。
    • 九州に自前の勢力を築こうとしていたのは確かだが、その後どうするつもりだったのかは諸説ある。
      • 関ヶ原で勝ったほうと決戦して天下を盗ろうとしていたという説。
      • そこまでは考えておらず、関ヶ原で勝った方に高く売りつけようとしていたという説。
      • 如水自身が家康に弁明した、「徳川殿のために西軍方の領地を平定しておりました」という言い訳を信じている人はほとんど居ない。
    • 案に相違して、関ヶ原の決着があっという間についてしまったため、決戦を挑むどころか、高く売りつけるところまで勢力を確立しないうちに、竜頭蛇尾で終わる。
      • よっぽど残念だったらしく、意気揚々と帰ってきた長政にイヤミを言いまくり。
        • 長政「そなたのおかげで勝てたと、徳川殿は大いにお喜びでございましたぞ」
          如水「そんなに家康めに早く勝たせてなんとする、このたわけが」
        • 長政「徳川殿は拙者の手をとって何度も感謝されましたぞ」
          如水「して、家康めはおまえのどちらの手をとったのだ」
          長政「??……右手でございましたが?」
          如水「その時、おまえの左手は何をしておったのだ、このたわけが」
    • そんなこんなでなかなか有能で抜け目がなかったせいか、島津氏と並んで家康に最も警戒されていたともいわれる。
  6. 愛用の兜はドンブリ型。
    • 合子(ごうす)という仏具らしいが、どう見てもドンブリにしか見えん。
      • 戦国屈指の智将が、ドンブリ被った姿というのがギャップがあって面白いと思う。
    • しかも複数現存。家臣に形見として与えてのだが、その家臣がお家騒動に巻き込まれて配流され、兜も放出してしまったため、当時の藩主がわざわざ再度コピーを作らせたことから、原品と複製が両方伝世した。よっぽどトレードマークとして有名だったのだろう。
    • 肖像画の影響で時代劇では、頭巾姿だが是非一度映像化して欲しい。
  7. 現在、福岡市民の中にこの人を知ってはいても、郷土の英雄として認知している人は少ない。
    • むしろこっちの英雄の印象が強い。
  8. ゲームによっては選択肢次第で日本を滅ぼしてしまう恐ろしいキャラとして登場する。
  9. キリシタン。宣教師たちは秀吉に官兵衛が冷遇された理由についてこれを挙げている(バテレン追放令の後だったので)。後に棄教した。
    • 洗礼名はドン・シメオン。
  10. 本名は孝高(よしたか)。官兵衛は通称で、如水は号。
  11. 「二流の人」というテーマ曲がある。

黒田長政

  1. 黒田官兵衛の息子。
  2. 子供の頃、織田信長の命令で豊臣秀吉に殺されそうになり、竹中半兵衛に救われたことがある。
    • 父の官兵衛が、信長に叛旗をひるがえした荒木村重の説得に行ったきり帰ってこなかったから。村重に寝返ったと思われたらしい。
    • 後年、織田や豊臣にあんまり義理を感じていなかったフシがあるのは、この幼時体験によるものかもしれない。
  3. 秀吉の死後は、かなり露骨に徳川家康に接近。
    • 関ヶ原の前に、多くの大名を徳川方に勧誘し、成果を収める。その外交能力は家康も評価したようだ。
    • そのことを得意満面で官兵衛に報告するが、さんざんイヤミを言われる。官兵衛の項目を参照。
  4. 官兵衛が寵愛した後藤又兵衛と反目、家中から追い出す。
  5. 政治も軍事も有能なのだが、父・官兵衛がはるかに上回っていたため、家臣に何かと比較されたり駄目出しをされたりと、精神的に相当苦労していたようだ。
  6. 夜中に酔っ払って遊びにきた家臣たちに嫌な顔ひとつせず、朝まで付き合って飲んだという。いい人すぎる。
  7. 月に一度、家臣を集めて異見会、通称「腹立たずの会」を開いていた。
    • なぜ腹立たずなのかといえば、この会のルールが、「日頃思っていることを正直に話す。どんな内容であっても怒ってはならないし、後にしこりを残さない。また、ここでの話は他言無用」だったため。こういうルールだと、家臣から主君への駄目出しがメインになるわけで……。
    • だが長政自身は大変有益だと思っており、自分が死んだ後も異見会は続けるよう遺言している。
  8. 家臣に音痴だと泣かれた人。
  9. 備前国の一地名をいきなり九州に持って来た。
  10. 元キリスト教徒でダミアンという洗礼名を持っていた。でも頭に666の痣は無かったと思う。
  11. この人の兜は間違いなく風を受けたら倒れる。
    • 福島正則と友情の証に交換したものだったはず。
    • 後ろから見た液晶モニタ。
  12. 最初の正室は蜂須賀正勝の娘。
    • が、徳川家康の養女を新しく娶ったため離縁、蜂須賀家は面白いはずがなく、結果両家に127年にも渡る遺恨を残すことになる。

後藤又兵衛

  1. 黒田如水にかわいがられたが、その子・長政には嫌われ、家中から追い出される。
    • 朝鮮の役で、長政が敵将と川の中で取っ組み合っていたが、助けずに見ていただけだったので恨まれたという話がある。
  2. 各地の大名は競って抱えたがったが、黒田長政が仕官お構い扱いにしたので、ずっと浪人暮らし。とうとう三条河原の乞食の群れに混じってしまった。
  3. 大坂の陣で徳川方に誘われるが拒否、大坂に入城する。
    • 自然と、外様武将の主将格になった。真田幸村や長宗我部盛親などより格上の感じだったようだ。
    • 濃霧のため、幸村との連繋プレーがうまくゆかず、戦死。
  4. 武勇一辺倒な性格が、平和に向かう世の中に適応できなかったという一面もある。その点も長政と合わなかったのだろう。

小西行長

  1. の商人から肥後24万石の大名にまでなった。
  2. 生年、出身地ともによく分かっていない。
    • 現在、唯一の記録は宣教師による京都説だが、親父が堺の商人なのでおそらくその近辺ではあるだろう。
  3. 熱心なキリシタンで、肥後の領地でも布教しまくった。
    • 領地(天草)ではキリシタンやバテレンが仏教寺院を破壊焼き討ちする事を奨励して、僧侶が訴えてくると死刑にしたりしていた。
  4. なんと、この人を題材にしたオペラがある。それも邦人作品ではなく、れっきとしたクラシック。
    • ミヒャエル・ハイドン(有名な「交響曲の父」ヨーゼフ・ハイドンの弟)の「ティノス・ウコンドノ」というオペラ。行長と高山右近を題材にしているとか。
  5. 加藤清正と犬猿の仲だった。
    • 意外にも二人がケンカする時は、行長のほうから清正を挑発し、やりこめ、泣かすことが多かったらしい。
      • 「泣かす」というのは誇張ではなく、加藤清正は実際よく泣く男だったようだ。
    • 小西の子孫(俳優)の芸名は加藤虎ノ介。先祖が清正と仲が悪かったと知って芸名を改めたらしい。
    • 熊本県内のお隣さん同士だったりもする。
  6. 父は薬種業者の小西隆佐、母はマグネリアと言った。
    • もちろんかーちゃんは外国人ではなく、キリシタンの洗礼名。なかなかの才女で、北政所の秘書のようなことをやっていたらしい。
  7. 日本国旗の日の丸は、この人の実家の薬種問屋が使っていた商標が元だという説がある。
  8. 朝鮮出兵時のウソつき外交は一体なんなのだろうか。しかも秀吉にバレても大した処分を受けていない。謎だ。

小早川隆景

  1. 毛利三兄弟の中で父元就の資質をもっとも強く受け継いだ人物。
  2. 五大老の一人。死後空位になった隆景の席には上杉景勝が入った。
  3. この人が生きてたら毛利が領土減らされる事はなかった、あるいは西軍が勝ってたとよく言われている。
    • それより三成に担がれることなく中立を保っているだろう。
  4. 今際の際、「安国寺恵瓊は巧言令色を用いて主君を誑かす便佞の臣だから絶対信用するな」と言ったそうだが、じゃあなんであそこまで恵瓊を重用したんだろう?
    • 自分だからこそ恵瓊をうまく使いこなせたが、輝元には手に負えないだろう、という意味かも。
    • 輝元へ「天下乱るるといえども、輝元よ。兵革の事に与って(あずかって)はならぬ」と言い残す。毛利宗家としてこの広い領土を保つにとどめ、野望を持つなと警告したのだが、輝元はこれを無視。関ヶ原の合戦に参戦して西軍に味方してしまい、戦後防・長二国に大減封食らってしまう。隆景としては「バカモノが!」と一喝したかったろうなぁ。
      • 関わったら関わったで徹底すればよいものを、吉川と小早川は徳川に内通、輝元は豊臣秀頼と大坂城を擁しながら戦わずして退却という失態。3本の矢は結局3本の矢であり、1本にはなれなかった。
  5. 「三男is有能な外交家」の典型。
  6. 美少年で長兄同様、大内義隆に掘られまくってたんだとか
  7. 知将のイメージがあるが、朝鮮出兵で後退論が出た際は「米がないなら砂を食って戦えばよい!」と言ったらしい。
  8. 最大の欠点は息子がいなかったこと。

小早川秀秋

  1. 裏切り者の代名詞。
    • 余りにチキンな奴だったそうで・・・。
      • しばしば武勲を立てているから実際は違ったはず・・・。
    • もうすぐ戦が無くなる世の中を予感して、例えあざとくても派手な勲功をあげたかったんじゃね?。戦国末期にはそういうタイプが多いし。
      • 秀秋所用と伝わる、真っ赤な地に大鎌がクロスした大胆なデザインの陣羽織を見ていると、どうしても通説で言われているような無能な臆病者だとは思えない。
    • もともと秀秋は家康派だったのに、関ケ原で毛利宗家の当主・輝元が西軍についたのでイヤイヤ西軍につかされ、家康からの鉄砲聞いて「今がチャンス!」と攻め下ったのを「裏切り」だの「サムライの風上にも置けぬ奴」だのと散々に言われたという説もあるようだ。
  2. 21歳の若さで死んだため、初の無嗣改易となった。
    • 汚名返上の機会が与えられなかったのは可愛そうかな。
      • 関ヶ原の合戦後、石田一族滅亡の佐和山城攻めで「裏切りの汚名そそぐはこの時ぞ!」と奮起。何とか裏切りの汚名返上に成功してるんだけど?
  3. 死因もいろいろとひどい噂が流れている。
    • 農民にキンタマを蹴られて死んだとか、大谷吉継の亡霊に殺されたとか。
    • 鬱病だったという節もある。そりゃあ裏切り者扱いは辛いよな…。
  4. 秀吉が毛利家の跡継ぎに送り込もうとしたが、小早川隆景の反対によって小早川家の養子となった。
    • 一説には秀秋のボンクラ振りを知っている隆景が、「やべーよ、こいつ入れたら毛利宗家おしまいだよ」と先手を打ったんだとか。
  5. 正直言って、糞野郎。
    • このように若い人には大胆に一言で片付けられる。トシを取ってくると同じ話ばかり聞かされて愛着すら湧いてくるw
  6. 彼の肖像画の不憫そうな顔といったら・・・。
    • 「信長の野望」での方が凛々しい顔だ。
  7. 豊臣家の後継ぎ候補の1人だったが、秀頼が生まれてから扱いが悪くなった。秀次切腹事件の時の彼の心境はどのようであっただろうか?
  8. 金吾中納言。

関連項目

戦国武将
あ~お/か~こ/さ~そ/た~と/な~の/は~ほ/ま~わ