もし沖縄戦がなかったら

2021年9月8日 (水) 02:08時点におけるてるみ (トーク | 投稿記録)による版 (内容追加)
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  1. 人口は200万を超えていた。
    • 厳密には高度成長期一時激減、航空会社のキャンペーンが始まると人口増加に。
      • ただし、観光地は首里城などの世界遺産と海水浴ぐらい。戦跡も基地も存在しない。
        • どうしても4000m滑走路の基地をおくならたぶんこことかここかも。
        • 美ら海は?
      • 中学高校の修学旅行は今も少ない。
        • その分北海道や海外に行く学校が増えていた。
          • 広島に行く学校も増えていた。
            • 長崎でも可能。
          • いや、琉球王国関連の建築物や資料が史実より残っているので、戦争遺跡の代わりに琉球王国関連の建築物や遺跡を見に修学旅行へ行く学校が増えていた。
      • 基地の代わりに本土から大企業の工場が進出し、第二次産業比率が現実より上がっていた。
        • 沖縄の失業率が現実より低かった。
        • 史実の米軍基地の中に工場があったかも。
    • 水も電力も逼迫していたため、今よりももっと多くダムが建設され、原発ですらできていた可能性が高い。
      • 原発は現に沖電が検討している。
      • 海水を淡水化するプラントも沖縄のあちこちに設置されていた。
    • 沖縄県内で政令指定都市が実現している
    • とはいうが、実際には現在は100万人くらいになってた気がする。ついでに言うと人口トレンドも本土と同じようになっていた。
  2. 那覇の市街地は現在も東町と西本町。
    • 国際通りは単なる住宅街。
      • そもそも「国際通り」ではなく、「新県道通り」か「牧志大通り」という名前になっている。
    • 牧志公設市場や平和通り、むつみ通りの水上店舗は存在せず、代わりに東町にかつて存在した大市(うふいち)が公設市場や平和通りの役割を担っていた
      • 沖縄戦が無くても、天久の新都心は開発され、那覇のメインストリートが変わった可能性がある。
    • 沖縄県立博物館は今も首里城北殿にある
    • 松山地区は歓楽街にはならず、ごく普通の下町
  3. 壺屋から読谷に移動する人がおらず、読谷村のやちむんの里は存在しなかった。
    • 史実より、壺屋がもっと琉球文化を留めていた建物だったかもしれない。
  4. 少なくとも、100以上続く老舗が存在していた。
    • 中には400年以上続く店もあったかも……
    • 酒造工場も戦争の被害がないので、数百年のものの古酒(クースー)が飲めた。
  5. 首里城が焼け落ちていないので、琉球史に関する資料が豊富に残っていた。
      • そのため、学校の授業では日本史とは別に琉球史が存在していたかもしれない。
    • 近世琉球の画家自了(じりょう)(城間清豊)が描いた絵が数多く残っていた。
      • 自了だけではなく、多くの琉球の画家の絵が残っていた。
      • 円覚寺や崇元寺が現在でも現存しており、玉陵よりも先に国宝認定されているので、多くの観光客が訪れていた。
        • 2000年には首里城やその他のグスク群と共に世界遺産に認定されていたかもしれない。
        • 円覚寺が現存しているという事は国王の御後絵(おごえ)も色が入った状態で見ることができる。
        • 下手すると、国王だけではなく、王妃や王子の肖像画も見ることが出来たかもしれない。(尚貞王の長男尚純の肖像画や王族でもない蔡温の肖像画があるので、王妃や王子の肖像画が残っている可能性は十分にある。)
      • 石畳が首里金城町だけではなく、首里全域、下手すると那覇辺りまで広がっていた。
  6. 那覇市役所は郵政会社の南。だが、手狭になりやっぱり甲辰小学校と沖縄県庁の間に移転。
      • 10・10空襲がなければ県庁が原形とどめているため、別の意味で保存運動が巻き起こった。
        • だが発掘中に湧田釜が見つかり、結果与儀駅か安里駅近くへ移転。
    • 山形屋は現在のポートホテルの向かい。
      • たぶんリウボウは存在しない。ライバルは三越とJR高島屋。
        • 県内資本は円山号を母体とするデパート。郵政会社向かいにある。
          • マルヤマに改名、県資本のデパートとして山形屋撤退後もしぶとく生き残る。
          • ADOには非加盟、かつての史実のリウボウみたいに西武系か、別の本土系デパートの流通システムに組み込まれていた。
      • だがやっぱり廃業、もしくは鹿児島山形屋の支店だったが本店が閉店決定。
      • でもって跡地はJALシティホテルへ。
  7. 首里城より高い建物が簡単に建ってしまう。
    • それでもやっぱり沖縄で一番高い建物はマンション。
  8. 那覇市は政令指定都市になる。
    • 昭和合併で実際の那覇・首里・小禄・真和志に加えて南風原・浦添・西原を合併、平成になって豊見城・宜野湾・与那原を合併。1993年5月20日に政令指定都市へ移行。
    • 或いは平成の大合併で那覇のベッドタウンである浦添市と合併、政令指定都市へ以降というパターンも
  9. 鉄道は名護市まで延伸。
    • 戦後に1067mm軌間に改軌され、電化も行われる。
      • 電化が行われたのは国鉄民営化の直前になってから。1960年代~1980年代前半はキハ35系の天下となっていた。那覇-名護の急行列車には房総電化で捻出されて転属してきた冷房付きのキハ28形が使用されていた。
        • 遅くても1970年代には電化されていたんじゃ?
          • 戦前の沖縄に対する扱いをみれば、沖縄が戦後もずっと日本領のままの場合はむしろ四国以下の扱いになっていたのは充分想像できる。よって電化されるのは四国同様、国鉄民営化の直前になるのでは。
    • 電化後、直流電化された場合は普通列車に103系、205系、113系、211系が投入される。
      • むしろ電化は1986年で四国同様121系が新車で投入されたのでは。
    • 交流電化された場合は普通列車に415系、713系が投入される。415系は3ドア+転換クロスシートのため、混雑が激しくなる。そこで2000年代にに4ドア通勤形電車「803系(303系の交流版)」が投入される。駆逐された415系は九州島に飛ばされる。(主に福北ゆたか線)
      • 交流電化の場合でも電化は1986年で、ステンレス製の713系1000番台が新車で投入される。415系の沖縄への投入はJR化後に九州からの転属という形で行われる。
    • 1960年代前半に「越来線(大山~普天間~越来~具志川~石川~金武~辺野古~名護)(支線:石川~仲泊)」が開業する。
    • 戦後に経営は沖縄県から国鉄に移管され、今ではJR沖縄となっている。
      • さすがにJR九州管理でしょう。
        • JR九州沖縄支社が誕生した。
    • 与那原線、糸満線と、名護線(延伸時に嘉手納線から改称)の嘉手納以南の区間は、都市近郊鉄道となっている。
      • 名護本線と与那原線と糸満線は幹線に、越来線は地方交通線になる。
    • 名護線の嘉手納以北は観光鉄道の色が強い。
      • その後美ら海水族館へ延伸し、水族館へのアクセス鉄道として活躍。
    • 本土からあまりにも離れているため、2010年代になっても国鉄車ばっかりだった。そのためにJR九州沖縄支社は「國鐵沖繩」と呼ばれる。
    • 史実のバス同様、時間通りに電車が来ていなかったかも。
    • 史実より多くの大変な途中下車シリーズMAD作者が沖縄に来て素材を集めてMADを作っていた。
      • そしてJR沖縄が誕生する。
    • 沖縄出身の鉄オタ、撮り鉄が出る。
      • 沖縄出身の途中下車MAD作者も出てくる。
  10. 那覇近辺は車社会とはならなかった
    • 免許を取る人は史実よりもっと少なかった。
    • しかし、中北部は車社会。
  11. 電車が残っている分、本土からの移住が史実より早く行われ、少なくとも80年代後半~90年代には移住者だけの街ができていた。
    • 特に史実より東京といった大都市圏からの移住が多かった。
      • →電車通勤が慣れている人にとって車社会の沖縄移住はきついものなので。
        • 木造の建売住宅が史実より多かった。
  12. もし南西放送が開局していたらなどはとっくに実現。
    • 新聞は沖縄新報1紙だけ。
    • 下手するとそのまま「琉球新報」という名前だったかも。
      • 決して「ウルマ新報」が前身の「琉球新報」ではなく、太田朝敷・高嶺朝教・尚順らが創設した「琉球新報」がそのまま残っていただろう。
      • 史実よりTwitter上でここからの批判的なコメントや誹謗中傷が少なかっただろう。
        • だが、全く無い訳では無い。
      • でもってテレビはほかに沖縄放送(JNN)、沖縄(または琉球)テレビ(クロスネット→FNN:もちろん西日本新聞の資本入り)、琉球朝日テレビ(ANN)
        • 第1局となる沖縄放送のラジオ開局は現実の琉球放送とほぼ同じ、テレビは現実の沖縄テレビとほぼ同じ。
      • 沖縄新報が暴走すれば喧嘩別れで琉球タイムスが創刊。
      • 結局、史実と変わらない沖縄タイムスだったと思う。
        • どっちかは保守系の新聞。
          • 朝日と読売は、沖縄版が発行される。
            • 日経、毎日も刊行される。
    • NHKはテレビ開局まで那覇市首里寒川町、送信所は首里崎山町(のちテレビ送信所)。開局直前に久茂地(県庁と市役所の位置関係から現実の琉球放送周辺)へ移転。テレビ開局は1959年4月。
      • マイクロ開通が「御成婚パレードを沖縄まで中継せよ!」と「プロジェクトX」のねたになる。
      • 沖縄県の受信料納付率も現実より高かった。
    • もしかしたらTXN局も出来ていたかも…
  13. 沖縄師範学校が国立沖縄大学になる。
    • 場所が首里当蔵町なので日本一敷地面積が狭い国立大学になっていた可能性がある。
    • でもその場合、史実の沖縄県立芸大のように首里周辺にキャンパスがあるので、大丈夫だ。
      • 戦前に沖縄女子師範学校が存在していたが、そちらは国立沖縄女子大学になっていたか、前述する国立沖縄大学と併合していた可能性がある。
    • しかし、そっちは県立第一高等女学校と隣接していたので、ひめゆり女子教育大学か姫百合大学になっていたかも。
      • 沖縄芸術大学は存在せず、国立沖縄大学の1学部だった。
    • あとから私立大学が琉球大学を名乗っていたかもしれない。
    • 沖縄国際大学は存在しない。
      • それでも名桜大学はできた。
      • 史実で沖縄国際大学にある学部が名桜大学にあったかも。
        • いや、宮古島や八重山にも私立大学が誕生していたかも。
          • それはちょっと無理では…
    • 那覇大学も誕生しているに違いない。
    • 開南中学校が開南学園として幼稚園から大学まで要していた。
      • そして開南高校(↑上記の戦後改組)は1999年よりはるか前に夏の高校野球で優勝していた。
      • だが、時代の流れで1980年代に男子校から男女共学になる。
      • 我喜屋優監督は興南高校ではなく、開南高校の監督だったかも。
      • 何だかんだ言って沖縄工業高等専門学校と沖縄科学技術大学院大学は存在していた。
  14. 海洋博は開催されなかった。
    • 2008年のサラゴザ博覧会が海洋博になる。
    • 本部は今でも村。
      • 本部は1940年に町になってるからそれは無い。
    • 沖縄自動車道は国体までに整備される。
    • 美ら海水族館は別の場所に出来ていた。
  15. 1973年に奥武山で沖縄国体が開催される。
    • 日の丸事件は無い。
    • 沖縄市は旧コザ市と美里村の両方に競技会場がある。(現実でもそうだけど)、ただし、メイン会場が那覇なので旧美里村泡瀬に大規模な県総合運動公園は存在しない。
      • 少なくともコザなんて地名にはならないと思う。
      • もちろん、1970年のコザ暴動も無い。
        • 越来市になっていた。
    • プロ野球公式戦は奥武山か浦添で毎年1回はある。
      • 奥武山建て替えも早まった。か?
  16. 皇室への価値観も様変わりしていた。
    • 皇室番組は3本とも放送。
    • 火炎瓶事件などおきない。逆に沖縄が攻撃される前に戦争を止めたとして昭和天皇が評価される。
  17. 君が代に対する不信感は史実より無かったか可能性がある。
  18. 石川は市になれなかった。
    • 越来村(実在したコザ市)は嘉手納町に吸収される。
    • 昭和合併で次の市が誕生する。
      • 嘉手納市((嘉手納+北谷:両町は分村していない)+旧越来村)
        • 北谷から嘉手納が分割されたので、北谷市では?
      • 具志川市(旧具志川+旧美里村+旧石川)
  19. 中城村と北中城村も分離しない。
    • →イオンモール沖縄ライカム及びライカムという地名は存在せず、今も中城村字比嘉のままだった。
    • 金武村と宜野座村も。
  20. 逆に喜屋武村・真壁村・摩文仁村が合併しないため、糸満市になる前に存在した三和村はない。
    • 平和記念公園も国際通り同様、住宅地になっている。
    • 真壁は町制を施行している。
    • みなと村も存在しない。
      • 国場組は実際ほど大きくならなかったか、もっと大きいゼネコンが沖縄に存在していた。
  21. 現実とは逆に、沖縄は保守王国、つまり自民党最大の牙城となっていた。
    • →いや、それは無い。多少、自民党は強くなっても保守王国にはならない。
      • 基地反対運動も存在しないので、こいつらもいない。
    • 彼らに関する情報は殆どデマが多い。基地反対運動に参加する日当なんてもらっていない。
      • そもそもこの概念がとても曖昧である。
  22. 故太田昌秀元知事が戦争体験をしていないので、県知事になる事もなかった。
      • そのまま大学教授を続けていたかも
        • 平和記念公園を作る事はなかった。
    • 故翁長雄志元知事は自民党を抜け出す事はなかった。
    • 仲井眞弘多知事は史実通り知事をしている。
    • 史実の奄美群島区(中選挙区時代の1人区)のように保守系同士での政争が激しくなっていた。
    • あるいは、保守派や戦闘的な左派から「お花畑」と揶揄されるような護憲・平和主義が主流だったかもしれない。
      • 学生運動全盛期でも、沖縄の大学に過激派はほとんどいなかったかもしれない。
        • この世界線だとそもそも日本本土で学生運動があったかどうかが怪しい。
    • 左派や、内地の保守派とは一線を画す保守派の団体はそれなりの勢力を保っている。
      • 内地の人々の沖縄に対する意識や、それに対する地元の人々の反感という問題は戦前からあったので。
      • 逆に沖縄の右派は独立を主張していたかもしれない。
        • 本土寄りの右派とは一線を画し「琉球民族主義」を掲げるが、大きな勢力にはならなかったと思われる。
        • 琉球王国の復活を前提としている。
    • 間違っても沖縄のメディアが左派系だけになる事は無かっただろう。
      • いや、戦前から沖縄に対する差別はごりごりあったので、(県庁にいたっては上層部は県外出身)戦争が無くても左派系のメディアはあった。
      • 少なくとも、故瀬長亀次郎の知名度は低かったであろう。
      • 不屈館も無かった。
        • むしろ戦前から続く日本の沖縄支配に抵抗していた可能性もある。
      • 本島で保守系メディアが台頭しているため、八重山日報は沖縄本島版を刊行していない。
        • 本島の保守系メディアはもちろん産経や八重山日報と提携。
        • 八重山日報は知名度が低かった。
    • 左翼系圧力団体や労組の反対がないので、沖縄でも「たかじんのそこまで言って委員会」が放映されていた。特に南西放送が開局していたら確実に放映されていた。
  23. 上記の通り戦争が無い分、沖縄の人の価値観や考え方が変わっていたかもしれない。
      • 史実より沖縄の保守派が多かったかも。
  24. 沖縄戦を舞台にした音楽「さとうきび畑」や「島唄」などは存在しない。
    • 同バンドがヒットすることもなかった。
  25. ブルーシールは存在していないかも。
  26. プラザハウスは存在しない。
  27. エンダーも存在しない
  28. ユニオンは存在するが、ジミーは存在しなかった。
    • オリオンビールは1990年代になってから地ビールとして登場。
  29. タコスの具をご飯に乗せたタコライスは存在していない。
    • ポーク卵という家庭料理も存在しない。
  30. 琉球ガラスも存在しない。
    • 琉球ガラスみたいなのはあるが、日本の影響を強く受けており、琉球霧子となっていた。
    • 高度経済成長が始まる前は庶民はサツマイモやソテツを主食にしていた。そのため、昭和30年代まで沖縄ではソテツ中毒による死亡事故のニュースが報じられていた。
  31. 高校野球で沖縄勢の優勝が史実よりも早かった。
    • 恐らく1980年代には優勝していたと思われる。
    • むしろアメリカナイズがなく、戦前の甲子園に沖縄の高校が出場していないことを考えると、未だに優勝がないどころが、弱小県になっていた可能性の方が高い。
      • 代わりに1999年春、2008年春、2010年春、2010年夏は北海道か鹿児島県勢が優勝していたかも。
      • 東北勢だったかも。
    • 沖縄ののんびりした県民性を考えるとベスト4進出が限界だったかも。
  32. 琉球ゴールデンキングスは存在するが、野球同様、アメリカナイズが無いため、史実ほど盛り上がっていなかっただろう。
    • 本拠地は恐らく史実(沖縄市)と違い、那覇市の奥武山あたりにある。
  33. 那覇空港が存在したかどうかは微妙。
    • おそらく主要な地域であったため、建設されていたでしょう
    • 建設自体はほぼ確実に行われていたが、場所が違った可能性はある。
  34. 飛び級市制(コザ・真和志・宜野湾・浦添・具志川・豊見城)や分立市制(石川)はなかったかも。でも豊見城はしていた?
    • 分立した町村もたくさんある。
    • それらの町村の行方(一部↑のほうと被る)
      1. コザ市→嘉手納に編入。1980年ごろに市制。
      2. 真和志市→1954年に小禄村・首里市とともに那覇市に編入。
      3. 宜野湾市・浦添市→1955年ごろに合併、宜添(よろぞえ)町。那覇のベットタウンとして栄え60年代に市制。
        • 宜野湾の大部分は元々浦添だったから名前は浦添のままになる可能性がある。
      4. 石川市・具志川市→美里村と具志川村で里川村を形成。70年代町制、90年代に市制。
        • 平成大合併で半島部2村も統合しうるま市に。
      5. 名護市→屋部村を切り外さなかったため、羽地と久志の2村の編入で済んだ。
      • 辺野古の海は今も綺麗だった。
        • 本部町は名護市に編入されていた。
      1. 中城村は那覇のベットタウンとして栄え1970年ごろ市制。
    • 史実同様、大学が存在していたかも。
  35. 沖縄がアメリカに支配されることはなく、戦後はずっと日本支配だった可能性が高い。
    • もしそうだった場合、寝台特急「なは」は誕生しなかった。
    • アメリカ文化の影響は本土より弱かったかもしれない。
    • 洋楽はそれほど盛んになっていない。
      • フィンガー5や紫(ロックバンド)は結成されなかったかも。
        • いや、フィンガー5は名前と音楽性は史実と異なるも結成されたかもしれないが、問題は紫、コンディショングリーンが結成されていたかどうか?
        • 紫とコンディショングリーンは結成されなかった可能性が高い。
      • 1960~70年代辺りに、全国的な沖縄音楽ブームが起きていたかもしれない。
        • 青春歌謡やグループサウンズで、沖縄出身で沖縄音楽を取り入れた曲を歌い、全国区の人気を得る歌手がいたかも。
        • 沖縄フォークは史実より盛んになっていたかも。
          • その場合は政治色の無い歌が中心だっただろう。
          • それでも沖縄差別に抗議する歌を作っていただろう。
          • 沖縄芝居が全国的に有名になっていた。
          • 戦前、沖縄芝居が大阪など本土進出をしていたため。
          • そしたら史実より早く沖縄出身の俳優が出ていたかもしれない。
    • マクドナルドケンタッキーフライドチキンなどの米国系チェーン店が沖縄に進出するのは1980年代後半のバブル期になってからで、47都道府県の中では島根などと並んで最も遅い方であった。
    • 沖縄の食文化の欧米化はほとんどなかったため、平均寿命は男女とも日本一の座を21世紀に入っても維持し続けていた。
    • 軍道や政府道がないので沖縄県道は大半の府県同様、番号が1,2桁の路線が全て主要地方道、3桁の路線が一般県道になっていた。
      • 番号がそのまま路線名になっている県道は存在せず。
      • 沖縄の道路は昭和40年代になっても那覇市内でさえ未舗装道路が残っていた。沖縄の道路が史実のレベルになるのは昭和60年代のバブル期以降。
    • 史実と違って沖縄にモータリゼーションが到来するのはバブル期になってから。
  36. 「沖縄だけ別会社管轄」という事態は現実ほど多くなかった。
    • 車のナンバーが「沖縄580」ではなく、「那覇」や「首里」と言った地域名が付いたナンバーだった。
      • もちろん、730運動は起こらない。
    • 電気は九州電力管轄。
    • auもバヤリースも本土と同じ。
      • それでもローソンやファミマなど小売業は(本土から遠いこともあって)別会社だと思う。
  37. なぜかわからないが中華民国が居座る。
    • せいぜい中華民国亡命政府か、史実同様の台北駐日経済文化代表処那覇分処だと思うが。
    • 1949年に中国本土が毛沢東政権になった後、中国本土から共産党支配を嫌って逃げてきた亡命者も多数流れ込んでいた。那覇市内のどこかには彼らによるチャイナタウンが作られていた。
    • 史実とは違って沖縄は日本における最大の反共拠点となっていた。
  38. 南西航空はJAL直轄であり、コミューター路線は東亜国内航空→日本エアコミューターが担っていた。JACの資本に沖縄県も参加している。
  39. 地理的に重要なポイントなのでどのみち基地問題は発生しているが、史実の闘争に比べれば圧倒的にマシな状態になっている。
    • 少なくとも普天間基地とキャンプ・ハンセンは存在しない。嘉手納はあったとしても史実の半分程度の面積になっている。
      • 代わりに九州(佐世保市大村市?)に海兵隊基地がある、か?
      • あるいは岩国市の近くの島ひとつ丸ごと…?
      • 米軍基地が恐らく存在しないので、米軍関連の事件が無い。由美子ちゃん事件の由美子ちゃんや宮森小学校飛行機墜落事故で亡くなった子供達は今も生きていただろう。
      • それ関連で安室奈美恵やISSA、GACKT、玉城デニー、りゅうちぇる、といったハーフやクォーターの著名人が存在していない可能性が……
      • 沖縄にはYハプログループR1bなどといった欧米系の遺伝子を持つ者は全くといっていいほどいなかった。
      • 全くという訳では無いが、史実よりYハプログループR1bの遺伝子が少なかっただろう。
    • 中国で国民党が共産党に勝っていたら、米軍基地は存在しない一方で中国軍基地が出来て、リンク先のように日華安保や日華地位協定が結ばれていたら、沖縄が中国の植民地に近い状況になり、中国軍関係者による犯罪や交通事故が頻発していた。
  40. 史実で種子島に建設された宇宙センターは与那国島に建設された
  41. 沖縄にも100番台、200番台の国道があった
    • 国道36号が鹿児島市~那覇市の路線として指定されていた。
      • 国道36号の沖縄県内区間は国頭街道(今帰仁村~那覇市)と同じルートを辿っている。
    • 1965年の道路法改正前に二級国道227号那覇名護線(那覇~首里~与那原~越来~金武~辺野古~名護、与那原~辺野古は史実の国道329号)と二級国道228号那覇与那原線(史実の国道331号南部区間)も指定されていた。
  42. 総じて史実の奄美諸島とほぼ同じような変遷を辿っているイメージだな。
  43. 沖縄県の市外局番は099xになっていたかも。
    • この場合、福岡市と長崎県壱岐・対馬の市外局番は091、北九州市・京築の市外局番は092x、それ以外の福岡県の市外局番は093x、佐賀県と壱岐・対馬以外の長崎県の市外局番は094x、熊本県の市外局番は095x、大分県の市外局番は096x、宮崎県の市外局番は097x、鹿児島県の市外局番は098xになっていた。
  44. 「ゴジラ対メカゴジラ」の内容は大きく変わっていた。
    • 少なくとも舞台は沖縄ではなくなり、キングシーサーは誕生しなかった。
  45. 奄美群島やトカラ列島、伊豆諸島が米軍占領下に置かれる事もなかった。
  46. 宮崎が新婚旅行やプロ野球のキャンプ地として栄えることはなく東国原の登場まで知名度は上がらなかった。
  47. THE BOOMの「島唄」が誕生し、同バンドがヒットすることもなかった。
  48. 沖縄のヤンキーは少なく、成人式が荒れる事もなかった。
    • いや、成人式が荒れるのは戦争と貧困は意外と関係無さそうなので、成人式が荒れるのは史実とたいして変わらないだろう。
    • むしろ46年から50年代の戦後の混乱期やアメリカ統治下における復帰運動が無いので、史実より早く荒れる成人式が生まれただろう。
  49. 沖縄における6月23日は梅雨が明ける頃の1日という認識のまま。
    • 授業で平和学習も無ければ、「月桃の花」という歌はない。
      • 元になった「GAMA」という映画は存在しない。
  50. ひめゆり学徒隊や白梅学徒隊、なごらん学徒隊、瑞泉学徒隊の学校である県立第1高等女学校と第2高等女学校、第3高等女学校、首里高等女学校が現在でも存在している可能性がある。
    • しかし、1950年代に第3高等女学校が県立三中(名護高校)と併合し、共学化する
    • そうなると、第1は乙姫高校か安里高校か?
    • いや、ひめゆり高校かも。
    • 第2高等女学校は白梅高校になっていたかも
    • 仲宗根政善、仲原善忠は戦後も県立第1高等女学校が前身のひめゆり中学、高校の教師として勤務している。
    • 仲原善忠は史実通り大学教授だったかも
    • そうなるとふじ学徒隊やでいご学徒隊の学校である積徳女学校や昭和高等女学校も残っていたかもしれない。
  51. 首里高校、那覇高校は男子校のまま
    • 1960年~70年代に那覇高校は県立第2高等女学校と合併して共学化していたかも
    • 首里高校は今でも男子校だった
  52. 沖縄で男女別学が存在していた。
    • 開邦高校、那覇国際高校、向陽高校、球陽高校は存在していたか微妙。
    • →向陽高校と球陽高校はギリ存在していたじゃないか?
  53. 小学校関連では甲辰(こうしん)小学校が今でも残っていた。
    • パレット久茂地は無かった。
      • 戦前は県庁職員の子弟が通うエリート校だったので、下手すると中学校や高校もあった。
  54. 島田叡は戦後になっても生存していた。
    • そもそも沖縄に来ていない。
    • それなら牛島満や太田実も戦後まで生存している。
  55. 卒業式のメリケン粉投げも無かったし、ブレザー投げや首から下げるお菓子のレイも無かったかもしれない。
    • 卒業パーティも無かった。
  56. 沖縄の公立の幼稚園が小学校の敷地内に無かった。←沖縄の公立の幼稚園が小学校の敷地内にあるのはアメリカ統治下の影響。
    • 少なくとも公立校でも1ヵ年幼稚園ではなく、2カ年だった。
    • 史実よりも3カ年幼稚園が多く設立されていた。
  57. 沖縄県民の苗字や名前が戦争によって変わる事はなかった。
    • 沖縄戦で本家が1家全滅すると、分家が本家の苗字を名乗る事があったため。
      • また、戦争の戸籍紛失で戦後、名前が変わる事が多かった。
  58. 沖縄の金融機関は戦前の沖縄興業銀行が戦後もそのまま残り、昭和30年代に沖縄銀行と改称していた。琉球銀行という行名は相互銀行から転換した第二地銀(史実の沖縄海邦銀行)が名乗っていた。
  59. [[1]久米島守備隊住民虐殺事件]の首謀者の愛人にされた女性は故郷の久米島を離れることは無かった。
  60. 北谷のアメリカンビレッジは無かった。
    • でも何だかんだいって観光地なので、アメリカンビレッジは無くとも、観光客向けのホテルはあっただろう。
  61. 史実よりブラジルやハワイ、ボリビアへの移民が少し減る。
    • それでも当時の沖縄の人は生活に困窮していたので、移民が全くいなかった訳でない。
  62. むしろこっちの沖縄の方が日本の政治家にとって都合がいいのかもしれない。
    • いや、殆どの本土出身者がそうだろう。
  63. 基地の中に消えた集落の小学校は現在でも残っていた。