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* | *系列企業である[[新京成電鉄]]・[[北総鉄道]]もここに含めます。 | ||
== | ==あの路線が開業していたら== | ||
===東陽町支線構想=== | |||
*現在も構想があるちはら台-海士有木間以外に、東陽町-千葉寺間に新線を作る構想が考えられていたらしい。 | |||
#流石に千葉市中心部をスルーするわけにはいかないだろうから、千葉線との合流地点は新千葉駅辺りに変更されていた。 | |||
#京葉線は旅客化されなかったか、史実よりも更に駅が少なかった。 | |||
#*旅客化されていたとしたら東京メトロ有楽町線に乗り入れていたか、史実のりんかい線が京葉線に含まれる形でそのまま新宿へ向かっていた。 | |||
#**いずれにせよ新木場駅の構造は史実よりも小規模なものになっている。新木場以東が旅客化されなかったとしたら尚更。 | |||
#東陽町が起点だと明らかに不便なので、自力で東京駅辺りまで線路を延ばそうと模索していた。 | |||
#*少なくとも東西線との乗り入れは軌間が違うので無理。 | |||
#*結局史実の京葉線とほぼ変わりないルートになっていそう。 | |||
#東京ディズニーリゾートの親会社が京成であることに誰も違和感を持たない。 | |||
#新京成のように京成とは別会社になっていた可能性もある。 | |||
#*この路線を運営する会社が「千葉急行電鉄」を名乗っていたかもしれない。 | |||
===新京成電鉄線(柴又-松戸間)=== | |||
# | *中矢切地区に用地買収を行った痕跡が実際にあるらしい。 | ||
#京成金町線が本線と分断されることはなかった。 | |||
#*柴又駅の構造も史実とは大きく異なっていた。京成金町駅に関しては史実通り。 | |||
#北総鉄道の車両は松戸・柴又経由で最初から都心に乗り入れていた。 | |||
#*京成高砂―新鎌ヶ谷間の開業はおそらく史実通り。 | |||
#**新京成線から分岐させる案も出るには出るだろうが、京成高砂―北国分間で運営会社が一区間ごとに変わるのを避けるために結局史実通り京成高砂で分岐にしているはず。 | |||
#*逆に京成千葉線への乗り入れがなかった可能性がある。 | |||
#新京成の車両も都営浅草線に乗り入れていたかもしれない。 | |||
#*8900形は地下鉄直通可能な仕様で作られたため、わずかな改良で乗り入れが実現していた。 | |||
==京成電鉄== | |||
# | ===押上経由で上野へ延伸していたら=== | ||
# | {{駅名標/京成|name=浅草|ruby=あさくさ|roma=Asakusa|back=うえの|back2=Ueno|next=おしあげ|next2=Oshiage}} | ||
# | #町屋経由の路線は誕生しなかった。 | ||
#* | #*当然京成の日暮里駅もない。今に至る駅舎大改造もなく、日暮里・舎人ライナーだって計画の大変更があったに違いない。 | ||
# | #*「こち亀」の両さんの思い出話(博物館動物園前駅、お化け煙突、東京スタヂアムetc)が変わってしまう。 | ||
#*青砥駅も今のような複雑な構造にはなっていなかった。 | |||
#*堀切菖蒲園近辺は鉄道空白地帯になってしまう。 | |||
#**21世紀に[[東京都交通局]]の新交通システムが整備される。 | |||
#*[[もし筑波高速度電気鉄道が開業していたら#東武鉄道筑波線の場合|筑波高速度電気鉄道は東武と合併していた]] | |||
#**東武は筑波方面への免許は切り捨てて、上野~北千住のルートを建設していた。 | |||
#***浅草駅の地位は史実よりも低下していた。 | |||
#押上で京成と都営地下鉄が分岐していた。 | |||
#*いややっぱり浅草では? | |||
#**いや、昔まじにあった。京成白髭線というものが、押上から今のJR貨物の「隅田川」駅近くまで単線で伸びていたそうな。駅名は白髭橋だったかな。 | |||
#***上野へ向かうとすれば向きが逆でしたけどね。 | |||
#**浅草〜青砥間も複々線になっている。 | |||
#*そもそも浅草線が浅草を通っていない可能性もある。その代わりに東駒形の辺りに駒形駅ができていそう。 | |||
#浅草から[[東京メトロ銀座線|銀座線]]と競合するわけだが、急行線的性格を持たせて押上、浅草、上野の3駅になっただろう。 | |||
#*相互乗り入れはさすがに無理っぽい。 | |||
#京成上野駅の場所が間違いなく変わるので、今みたいに「いらない子」扱いにはならず大発展・・・か? | |||
#*上野駅東側にしか駅を'''作らせてもらえず'''、山手線内側(通称・万里の長城)に路線を食い込ませることができなかったかもしれない。 | |||
#**多分今東京メトロの本社がある辺り。 | |||
#***そして東京メトロの本社は別の所に出来ていた。 | |||
#***台東区役所の辺りに頭端式ホームが出来ていたかもしれない。 | |||
#戦争中、上野のトンネルに省線(後の国鉄→JR)の1等車を疎開させたという話があるが、これができなくなる。 | |||
#[[スカイライナー]]の都心側ターミナルが京成上野だけになっていた。 | |||
#*日暮里駅での[[山手線]]との乗換えができないため、京成上野駅の立地次第ではスカイライナーの利用が史実よりも低迷していた。 | |||
#**おそらく乗り換えの利便性は現実の東京メトロ上野駅位だった。 | |||
#*「外国人に人気の高い観光地」ということで京成浅草(仮)にも止まっていたかもしれない。 | |||
#雷門の真ん前に線路を引くわけにもいかないだろうから、京成浅草駅と東武浅草駅は若干離れているはず。 | |||
===スカイライナーの地下鉄乗り入れが実現していたら=== | |||
# | *2代目スカイライナーであるAE100形は地下鉄乗り入れが可能な構造でしたが、営業運転が実現することはありませんでした(回送ならば都営フェスタの時に実現)。 | ||
#後継であるAE形も地下鉄乗り入れに対応した構造になっていた。 | |||
#*3.3km/h/sの起動加速度と160km/hの最高速度を両立する怪力電車になっていた(史実のAE形(2代)の起動加速度は2.0km/h/s)。 | |||
#羽田空港-成田空港間を走破するスカイライナーが運転されていた。 | |||
#*横浜方面にも足を延ばして成田エクスプレスに対抗していた可能性もある。 | |||
#*エアポート快特の存在が薄れていた。 | |||
#浅草線のどこか(史実の計画だと浅草橋か蔵前だったはず)に通過線が新設されていた。 | |||
#日暮里駅の改良工事が成されていたかどうか怪しい。 | |||
#小田急電鉄よりも先に「地下鉄に乗り入れる有料特急」の座を獲得していた。 | |||
#京急2100系の浅草線乗り入れも真剣に検討されていたかもしれない。 | |||
#*むしろ京急も有料特急を走らせていた。 | |||
#AE100形は当初の目的を生かせる車両になっていた。 | |||
#*113系1000番台初期車や東急9000系の二の舞になることはなかった。 | |||
#*2代目AE形導入後はシティライナーで余生を送ることはなかった。 | |||
== | ===改軌されていなかったら=== | ||
*都営浅草線・京急線乗り入れのため、京成の全路線は1959年(昭和34年)に軌間を1372mmから1435mmに改軌しています。 | |||
#現在も1372mmの軌間である都営新宿線・京王線と直通運転をし、新宿~高尾と成田空港を結ぶ路線になっていた。 | |||
#*北総線は本八幡から成田方面に伸びていた。 | |||
#**[[wikipedia:ja:千葉県営鉄道|千葉県営鉄道]]北千葉線が計画通り開通していた。 | |||
#新京成線は、開業当初は1067mmだったが、その後1372mm→1435mmと2回改軌している。そのため、2回目の改軌は行われず、京成千葉線との直通運転は史実通り行われていた。 | |||
#成田方面と高尾を結ぶ有料特急が実現していたかもしれない。 | |||
#*都営新宿線は急行よりさらに停車駅を削減し、京王線内は特急で運転していた。 | |||
#*[[スカイライナー]]が実際に地下鉄を走っていた。 | |||
#*[[京王電鉄]]も有料特急車両を導入していた。 | |||
#20m4扉車が導入されていた。 | |||
#*10両編成の列車が存在した。 | |||
==新京成電鉄== | |||
# | *[[もし西武鉄道が○○だったら#新京成線を開通させていたら]] | ||
===北総線への乗り入れが存続していたら=== | |||
*史実では暫定開業に伴い直通→高砂まで開業後も乗り入れは1年程度存続→新鎌ヶ谷駅開業と共に廃止と言う経緯を辿りましたが…。 | |||
#流石に印旛日本医大以東への乗り入れは無かったと思われる。 | |||
#*開業前に検討自体はされるが、運営会社の複雑化を避けるために没になるという経緯が一番あり得る。 | |||
#**それでも成田線が改良されない以上、常磐線沿線から成田空港への最速アクセス手段になっていた。 | |||
#*その代わりに新鎌ヶ谷でアクセス特急に乗り換えやすいダイヤが設定されていた。 | |||
#二重戸籍を避けるために北初富駅が廃止されていたかもしれない。 | |||
#新鎌ヶ谷駅付近の立体交差化計画が史実とかなり異なるものになっていた。 | |||
#*踏切が一か所ある+新鎌ヶ谷駅が2面4線化されたなどの理由から、史実の連絡線の高架部は流用されていないと思われる。 | |||
===鉄道連隊演習線を全区間転用していたら=== | |||
# | *新京成線の元となった鉄道連隊演習線は、新津田沼以東にも線路が引かれていたようです。 | ||
# | #新津田沼以東の路盤をそのまま流用していた場合は、京成大久保が本線との接続駅になっていた。 | ||
#*演習線も千葉駅付近まで延びていたらしいので、意図的に京成千葉線に接続させなかった可能性は十分あり得る。 | |||
#ルートの一部が重複する為、千葉都市モノレールは開業しなかったかもしれない。 | |||
#史実の新京成線同様、一部区間では線路が付け替えられている。 | |||
#宮野木や犢橋へのアクセスが格段に容易になっていた。 | |||
#*少なくとも「宮野木=JCTがあるところ」としか思われないことはないはず。 | |||
#*犢橋高校に在学していたマツコ・デラックスが、後年新京成のサービスをトークのネタにしていたかもしれない。 | |||
== | ===鉄道連隊演習線が民間に転用されなかったら=== | ||
#どこかの段階で国鉄が路線跡を利用していた。 | |||
#*ただし史実よりも開業は遅れ、多くの箇所で線路が付け替えられていたと見られる。 | |||
#*遅くとも1970年代前半までに旅客化されている。 | |||
#武蔵野線は松戸を起点としていた。 | |||
#*開業当初は府中本町から松戸に比べて松戸から津田沼までの本数だけが異様に多いと言うダイヤになっていた。 | |||
#*津田沼からそのまま南に伸ばすと谷津干潟にぶつかってしまうため、津田沼-京葉線間のルート策定に手こずっていた。 | |||
#成田新幹線の跡地を利用して成田空港へのアクセス鉄道が国鉄(orJR東日本)によって建設されていた。 | |||
#*当然北総鉄道は存在せず。 | |||
==北総鉄道== | |||
# | ===運賃が安かったら=== | ||
#* | #バブル崩壊がもう少し遅ければ可能性はあったかもしれない…。 | ||
#* | #*史実通りの状況で運賃を安くしていた場合は、千葉急行と同様に債務超過に陥り会社が潰れていた。 | ||
#間違っても沿線住民に訴訟を起こされることは無かった。 | |||
#ここの代わりに[[東葉高速鉄道]]が槍玉に挙げられていた。 | |||
#千葉ニュータウンはもっと発展していた。 | |||
#*西の多摩・東の千葉ニュータウンと言われていた。 | |||
===全線が住宅・都市整備公団により建設されていたら=== | |||
# | *史実では小室-印旛日本医大間が公団により建設されています(この区間が3セク保有なのもその名残)。 | ||
# | #「北総・公団線」ではなく「公団線」と呼ばれていた。 | ||
# | #9000系と9100系の編成数が史実よりも多い代わりに、北総の車両がほぼ全て存在しなくなる。 | ||
# | #公団の独立行政法人化に伴い京成に押し付けていた可能性大。 | ||
#*線路保有自体は史実通り千葉ニュータウン鉄道となっているはず。 | |||
#*ずっと公団運営だったとしても、東京メトロの民営化等の煽りを受けて民主党政権時に真っ先に仕分けされてしまう。 | |||
#運賃は現実よりも安くなっていたかも。 | |||
#ちょうど大阪府都市開発により建設された[[泉北高速鉄道]]と似たような運命をたどっていた。 | |||
===全線が京成電鉄の路線だったら=== | |||
# | #運賃が安くなる、と思ったら京成本体の経営危機の煽りで京成の運賃が北総並みに高くなる。 | ||
# | #スカイライナー・アクセス特急は史実通り。 | ||
#* | #*特急、急行は運転されていない。 | ||
# | #つい最近まで京成の「1000形」が走っていた。 | ||
# | #成田のジャスコに駅ができていた。 | ||
; | ===最初の開業区間が異なっていたら=== | ||
# | ;京成高砂~新鎌ヶ谷 | ||
#最初から都心に直通していたため、経営が早い段階で安定していた。 | |||
#武蔵野線の東松戸駅と東武野田線の新鎌ヶ谷駅は北総と同時期でなかったとしてももっと早く開業していた。 | |||
==倒産していたら== | |||
# | #京成線は全面廃止され西地域が鉄道の空白地帯になっていた。 | ||
# | #*どこかの私鉄の傘下に入っていただけだと思う。 | ||
#**その場合、運賃が加算運賃もしくは打ち切り計算となってた可能性あり | |||
#**[[西武鉄道|西武グループ]]入りしていた。 | |||
#印西市一帯は村のまま。 | |||
#*印西の市制は2000年代に入ってからだと思う。むしろ下手したら白井はまだ町だったかも。 | |||
#**印旛本埜と合併して市になっていたという可能性も。 | |||
#**印西市の中心駅は今でも木下駅のまま。 | |||
#*むしろ千葉県営鉄道が本八幡から建設され、都営新宿線と乗り入れていた。 | |||
#千葉県全体の人口も大幅に少なかった。 | |||
#某ネズミ王国も存在しない。 | |||
#成田空港はJRの一人勝ち。 | |||
#*あるいは格安バス。 | |||
#それでも野田線は地味。 | |||
[[Category:歴史のif検討委員会 関東私鉄史|けいせい]] | |||
[[Category:京成電鉄|もし]] | |||
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2017年9月6日 (水) 16:35時点における版
あの路線が開業していたら
東陽町支線構想
- 現在も構想があるちはら台-海士有木間以外に、東陽町-千葉寺間に新線を作る構想が考えられていたらしい。
- 流石に千葉市中心部をスルーするわけにはいかないだろうから、千葉線との合流地点は新千葉駅辺りに変更されていた。
- 京葉線は旅客化されなかったか、史実よりも更に駅が少なかった。
- 旅客化されていたとしたら東京メトロ有楽町線に乗り入れていたか、史実のりんかい線が京葉線に含まれる形でそのまま新宿へ向かっていた。
- いずれにせよ新木場駅の構造は史実よりも小規模なものになっている。新木場以東が旅客化されなかったとしたら尚更。
- 旅客化されていたとしたら東京メトロ有楽町線に乗り入れていたか、史実のりんかい線が京葉線に含まれる形でそのまま新宿へ向かっていた。
- 東陽町が起点だと明らかに不便なので、自力で東京駅辺りまで線路を延ばそうと模索していた。
- 少なくとも東西線との乗り入れは軌間が違うので無理。
- 結局史実の京葉線とほぼ変わりないルートになっていそう。
- 東京ディズニーリゾートの親会社が京成であることに誰も違和感を持たない。
- 新京成のように京成とは別会社になっていた可能性もある。
- この路線を運営する会社が「千葉急行電鉄」を名乗っていたかもしれない。
新京成電鉄線(柴又-松戸間)
- 中矢切地区に用地買収を行った痕跡が実際にあるらしい。
- 京成金町線が本線と分断されることはなかった。
- 柴又駅の構造も史実とは大きく異なっていた。京成金町駅に関しては史実通り。
- 北総鉄道の車両は松戸・柴又経由で最初から都心に乗り入れていた。
- 京成高砂―新鎌ヶ谷間の開業はおそらく史実通り。
- 新京成線から分岐させる案も出るには出るだろうが、京成高砂―北国分間で運営会社が一区間ごとに変わるのを避けるために結局史実通り京成高砂で分岐にしているはず。
- 逆に京成千葉線への乗り入れがなかった可能性がある。
- 京成高砂―新鎌ヶ谷間の開業はおそらく史実通り。
- 新京成の車両も都営浅草線に乗り入れていたかもしれない。
- 8900形は地下鉄直通可能な仕様で作られたため、わずかな改良で乗り入れが実現していた。
京成電鉄
押上経由で上野へ延伸していたら
うえの | 浅草 | おしあげ | |||||
Ueno | |||||||
Asakusa | Oshiage |
- 町屋経由の路線は誕生しなかった。
- 当然京成の日暮里駅もない。今に至る駅舎大改造もなく、日暮里・舎人ライナーだって計画の大変更があったに違いない。
- 「こち亀」の両さんの思い出話(博物館動物園前駅、お化け煙突、東京スタヂアムetc)が変わってしまう。
- 青砥駅も今のような複雑な構造にはなっていなかった。
- 堀切菖蒲園近辺は鉄道空白地帯になってしまう。
- 21世紀に東京都交通局の新交通システムが整備される。
- 筑波高速度電気鉄道は東武と合併していた
- 東武は筑波方面への免許は切り捨てて、上野~北千住のルートを建設していた。
- 浅草駅の地位は史実よりも低下していた。
- 東武は筑波方面への免許は切り捨てて、上野~北千住のルートを建設していた。
- 押上で京成と都営地下鉄が分岐していた。
- いややっぱり浅草では?
- いや、昔まじにあった。京成白髭線というものが、押上から今のJR貨物の「隅田川」駅近くまで単線で伸びていたそうな。駅名は白髭橋だったかな。
- 上野へ向かうとすれば向きが逆でしたけどね。
- 浅草〜青砥間も複々線になっている。
- いや、昔まじにあった。京成白髭線というものが、押上から今のJR貨物の「隅田川」駅近くまで単線で伸びていたそうな。駅名は白髭橋だったかな。
- そもそも浅草線が浅草を通っていない可能性もある。その代わりに東駒形の辺りに駒形駅ができていそう。
- いややっぱり浅草では?
- 浅草から銀座線と競合するわけだが、急行線的性格を持たせて押上、浅草、上野の3駅になっただろう。
- 相互乗り入れはさすがに無理っぽい。
- 京成上野駅の場所が間違いなく変わるので、今みたいに「いらない子」扱いにはならず大発展・・・か?
- 上野駅東側にしか駅を作らせてもらえず、山手線内側(通称・万里の長城)に路線を食い込ませることができなかったかもしれない。
- 多分今東京メトロの本社がある辺り。
- そして東京メトロの本社は別の所に出来ていた。
- 台東区役所の辺りに頭端式ホームが出来ていたかもしれない。
- 多分今東京メトロの本社がある辺り。
- 上野駅東側にしか駅を作らせてもらえず、山手線内側(通称・万里の長城)に路線を食い込ませることができなかったかもしれない。
- 戦争中、上野のトンネルに省線(後の国鉄→JR)の1等車を疎開させたという話があるが、これができなくなる。
- スカイライナーの都心側ターミナルが京成上野だけになっていた。
- 日暮里駅での山手線との乗換えができないため、京成上野駅の立地次第ではスカイライナーの利用が史実よりも低迷していた。
- おそらく乗り換えの利便性は現実の東京メトロ上野駅位だった。
- 「外国人に人気の高い観光地」ということで京成浅草(仮)にも止まっていたかもしれない。
- 日暮里駅での山手線との乗換えができないため、京成上野駅の立地次第ではスカイライナーの利用が史実よりも低迷していた。
- 雷門の真ん前に線路を引くわけにもいかないだろうから、京成浅草駅と東武浅草駅は若干離れているはず。
スカイライナーの地下鉄乗り入れが実現していたら
- 2代目スカイライナーであるAE100形は地下鉄乗り入れが可能な構造でしたが、営業運転が実現することはありませんでした(回送ならば都営フェスタの時に実現)。
- 後継であるAE形も地下鉄乗り入れに対応した構造になっていた。
- 3.3km/h/sの起動加速度と160km/hの最高速度を両立する怪力電車になっていた(史実のAE形(2代)の起動加速度は2.0km/h/s)。
- 羽田空港-成田空港間を走破するスカイライナーが運転されていた。
- 横浜方面にも足を延ばして成田エクスプレスに対抗していた可能性もある。
- エアポート快特の存在が薄れていた。
- 浅草線のどこか(史実の計画だと浅草橋か蔵前だったはず)に通過線が新設されていた。
- 日暮里駅の改良工事が成されていたかどうか怪しい。
- 小田急電鉄よりも先に「地下鉄に乗り入れる有料特急」の座を獲得していた。
- 京急2100系の浅草線乗り入れも真剣に検討されていたかもしれない。
- むしろ京急も有料特急を走らせていた。
- AE100形は当初の目的を生かせる車両になっていた。
- 113系1000番台初期車や東急9000系の二の舞になることはなかった。
- 2代目AE形導入後はシティライナーで余生を送ることはなかった。
改軌されていなかったら
- 都営浅草線・京急線乗り入れのため、京成の全路線は1959年(昭和34年)に軌間を1372mmから1435mmに改軌しています。
- 現在も1372mmの軌間である都営新宿線・京王線と直通運転をし、新宿~高尾と成田空港を結ぶ路線になっていた。
- 北総線は本八幡から成田方面に伸びていた。
- 千葉県営鉄道北千葉線が計画通り開通していた。
- 北総線は本八幡から成田方面に伸びていた。
- 新京成線は、開業当初は1067mmだったが、その後1372mm→1435mmと2回改軌している。そのため、2回目の改軌は行われず、京成千葉線との直通運転は史実通り行われていた。
- 成田方面と高尾を結ぶ有料特急が実現していたかもしれない。
- 20m4扉車が導入されていた。
- 10両編成の列車が存在した。
新京成電鉄
北総線への乗り入れが存続していたら
- 史実では暫定開業に伴い直通→高砂まで開業後も乗り入れは1年程度存続→新鎌ヶ谷駅開業と共に廃止と言う経緯を辿りましたが…。
- 流石に印旛日本医大以東への乗り入れは無かったと思われる。
- 開業前に検討自体はされるが、運営会社の複雑化を避けるために没になるという経緯が一番あり得る。
- それでも成田線が改良されない以上、常磐線沿線から成田空港への最速アクセス手段になっていた。
- その代わりに新鎌ヶ谷でアクセス特急に乗り換えやすいダイヤが設定されていた。
- 開業前に検討自体はされるが、運営会社の複雑化を避けるために没になるという経緯が一番あり得る。
- 二重戸籍を避けるために北初富駅が廃止されていたかもしれない。
- 新鎌ヶ谷駅付近の立体交差化計画が史実とかなり異なるものになっていた。
- 踏切が一か所ある+新鎌ヶ谷駅が2面4線化されたなどの理由から、史実の連絡線の高架部は流用されていないと思われる。
鉄道連隊演習線を全区間転用していたら
- 新京成線の元となった鉄道連隊演習線は、新津田沼以東にも線路が引かれていたようです。
- 新津田沼以東の路盤をそのまま流用していた場合は、京成大久保が本線との接続駅になっていた。
- 演習線も千葉駅付近まで延びていたらしいので、意図的に京成千葉線に接続させなかった可能性は十分あり得る。
- ルートの一部が重複する為、千葉都市モノレールは開業しなかったかもしれない。
- 史実の新京成線同様、一部区間では線路が付け替えられている。
- 宮野木や犢橋へのアクセスが格段に容易になっていた。
- 少なくとも「宮野木=JCTがあるところ」としか思われないことはないはず。
- 犢橋高校に在学していたマツコ・デラックスが、後年新京成のサービスをトークのネタにしていたかもしれない。
鉄道連隊演習線が民間に転用されなかったら
- どこかの段階で国鉄が路線跡を利用していた。
- ただし史実よりも開業は遅れ、多くの箇所で線路が付け替えられていたと見られる。
- 遅くとも1970年代前半までに旅客化されている。
- 武蔵野線は松戸を起点としていた。
- 開業当初は府中本町から松戸に比べて松戸から津田沼までの本数だけが異様に多いと言うダイヤになっていた。
- 津田沼からそのまま南に伸ばすと谷津干潟にぶつかってしまうため、津田沼-京葉線間のルート策定に手こずっていた。
- 成田新幹線の跡地を利用して成田空港へのアクセス鉄道が国鉄(orJR東日本)によって建設されていた。
- 当然北総鉄道は存在せず。
北総鉄道
運賃が安かったら
- バブル崩壊がもう少し遅ければ可能性はあったかもしれない…。
- 史実通りの状況で運賃を安くしていた場合は、千葉急行と同様に債務超過に陥り会社が潰れていた。
- 間違っても沿線住民に訴訟を起こされることは無かった。
- ここの代わりに東葉高速鉄道が槍玉に挙げられていた。
- 千葉ニュータウンはもっと発展していた。
- 西の多摩・東の千葉ニュータウンと言われていた。
全線が住宅・都市整備公団により建設されていたら
- 史実では小室-印旛日本医大間が公団により建設されています(この区間が3セク保有なのもその名残)。
- 「北総・公団線」ではなく「公団線」と呼ばれていた。
- 9000系と9100系の編成数が史実よりも多い代わりに、北総の車両がほぼ全て存在しなくなる。
- 公団の独立行政法人化に伴い京成に押し付けていた可能性大。
- 線路保有自体は史実通り千葉ニュータウン鉄道となっているはず。
- ずっと公団運営だったとしても、東京メトロの民営化等の煽りを受けて民主党政権時に真っ先に仕分けされてしまう。
- 運賃は現実よりも安くなっていたかも。
- ちょうど大阪府都市開発により建設された泉北高速鉄道と似たような運命をたどっていた。
全線が京成電鉄の路線だったら
- 運賃が安くなる、と思ったら京成本体の経営危機の煽りで京成の運賃が北総並みに高くなる。
- スカイライナー・アクセス特急は史実通り。
- 特急、急行は運転されていない。
- つい最近まで京成の「1000形」が走っていた。
- 成田のジャスコに駅ができていた。
最初の開業区間が異なっていたら
- 京成高砂~新鎌ヶ谷
- 最初から都心に直通していたため、経営が早い段階で安定していた。
- 武蔵野線の東松戸駅と東武野田線の新鎌ヶ谷駅は北総と同時期でなかったとしてももっと早く開業していた。
倒産していたら
- 京成線は全面廃止され西地域が鉄道の空白地帯になっていた。
- どこかの私鉄の傘下に入っていただけだと思う。
- その場合、運賃が加算運賃もしくは打ち切り計算となってた可能性あり
- 西武グループ入りしていた。
- どこかの私鉄の傘下に入っていただけだと思う。
- 印西市一帯は村のまま。
- 印西の市制は2000年代に入ってからだと思う。むしろ下手したら白井はまだ町だったかも。
- 印旛本埜と合併して市になっていたという可能性も。
- 印西市の中心駅は今でも木下駅のまま。
- むしろ千葉県営鉄道が本八幡から建設され、都営新宿線と乗り入れていた。
- 印西の市制は2000年代に入ってからだと思う。むしろ下手したら白井はまだ町だったかも。
- 千葉県全体の人口も大幅に少なかった。
- 某ネズミ王国も存在しない。
- 成田空港はJRの一人勝ち。
- あるいは格安バス。
- それでも野田線は地味。