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#**秀吉が敗れれば他の武将はより急いで光秀に向かってくるため、どう考えても袋叩きになる。光秀ファンの中には「畿内を支配すれば兵力が多くなって~」などと気楽に考えている人もいるようだが、本能寺の変による混乱の中、最低でも人質を取って安堵状を渡すという作業が必要になる。当然、抵抗してくる人間もいるし、光秀の足元を見て領地をふっかけてくる連中もいるため、そんなに簡単ではない。最低限6月中旬までにはなんとかしないと柴田勝家が戻ってくるが、それまでに一体どの程度の事ができるか・・・かなり厳しい。 | #**秀吉が敗れれば他の武将はより急いで光秀に向かってくるため、どう考えても袋叩きになる。光秀ファンの中には「畿内を支配すれば兵力が多くなって~」などと気楽に考えている人もいるようだが、本能寺の変による混乱の中、最低でも人質を取って安堵状を渡すという作業が必要になる。当然、抵抗してくる人間もいるし、光秀の足元を見て領地をふっかけてくる連中もいるため、そんなに簡単ではない。最低限6月中旬までにはなんとかしないと柴田勝家が戻ってくるが、それまでに一体どの程度の事ができるか・・・かなり厳しい。 | ||
#*史実でも山崎の戦いまでに近江は平定できていたし、もし戦いに勝てば様子見だった武将は光秀の味方につく。 | #*史実でも山崎の戦いまでに近江は平定できていたし、もし戦いに勝てば様子見だった武将は光秀の味方につく。 | ||
#そもそも明智氏と親しかった細川氏や史実では様子見だった筒井氏が参戦したからこそ、ifの世界で山崎の戦いに勝てていた。 | |||
;毛利・徳川と激突していた場合 | ;毛利・徳川と激突していた場合 | ||
光秀が反乱を起こした時点で毛利が織田領を攻撃していたら[[もしあの戦国大名が天下を取っていたら#毛利氏|毛利幕府が誕生]]する可能性があった(by「逆説の日本史」 | 光秀が反乱を起こした時点で毛利が織田領を攻撃していたら[[もしあの戦国大名が天下を取っていたら#毛利氏|毛利幕府が誕生]]する可能性があった(by「逆説の日本史」 |
2021年3月2日 (火) 17:40時点における版
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天文の乱で伊達稙宗が勝っていたら
- 伊達の衰弱はまだまだ先。
- 塵芥集は稙宗治世のときに施行していた。
- 家督は誰が継ぐのか?
- 有力候補としては次男・義宣か三男・実元。
- 伊達実元は上杉定実の養子となる。よって長尾景虎は越後守護にならなかった。
- 稙宗死後に反乱が起きそう。
- 17世紀中期まで奥羽に半独立国として残るが、豊臣家に征伐される。
- 仮に稙宗が勝っていたとしても奥羽は混乱に陥るので、戦乱が続き、80〜90年頃に最上義光によって奥羽が平定される。
- 晴宗が勘当されたとすれば、孫の政宗は存在しないか、しても小規模大名の当主程度。
長良川の戦いで斎藤道三が勝っていたら
- 道三は信長に家督を譲って隠居。
- ・・・と思いきや今川に劣勢だと知るや否や反旗を翻す。
- 織田家と斎藤家の両方の家督を引き継いだ同君連合の形になっていた。
- いや、斎藤孫四郎が後を継ぐ形となるだろう。
- 斎藤道三は「以下は信長についていくように」という言葉を遺して永眠。
- ただその後孫四郎は(ry
- 孫四郎が元服していた場合、名前が付けられていた。
- 道三が利政であることを考えると信利か長利になっていたか。
- そもそも孫四郎・喜平次兄弟は長良川以前に亡くなっている。
- 四男の利尭が抜擢されそう。但し織田の支配下。
- 斎藤道三は「以下は信長についていくように」という言葉を遺して永眠。
- いや、斎藤孫四郎が後を継ぐ形となるだろう。
- 美濃をあっさりと征服することが出来た。
- よって天下統一も十年ほど早まる。
- あっさりとはいかないと思う。多分義龍派の残党に追い回され、その間に今川に尾張を攻められるのがオチだと思う。
- よって天下統一も十年ほど早まる。
- 道三側についていた明智家は織田(斎藤道三)の家臣になっているため、明智光秀は初期から信長の家臣になっていた。
- その後重用され、そして本能寺の変を起こすかどうかは微妙。
- 有能ではあっただろうが、足利義昭の家臣としてではなく、斎藤家臣という立場なので、精々柴田かなんかの家臣で活躍していたかと。
- 斎藤利尭の器量がどれくらいかが斎藤家存続の鍵。寿命は多分大丈夫だろう。
- その弟の斎藤利治が優秀なので彼が生きている限り斎藤家はまず大丈夫。(史実では信忠付きの重臣やっていたり、越中で上杉軍を撃破し信長包囲網を瓦解させる活躍をしているため。)
- 逆に、西美濃三人衆の知名度は低かった。
- 東美濃三人衆をするとしたら、明智・遠山・妻木か?
桶狭間の戦いで今川義元が勝っていたら
- 織田信長がいないので、17世紀になっても戦国時代がだらだらと続く。
- やがて日本は生き残った数個の大名家に分割されるようになる。
- ウグイスが殺されないで済む。
- ホトトギス……??
- 戦国大名はお公家趣味がスタンダード。
- 戦国無双は全員が蹴鞠キャラで描かれウイイレのようなゲームになる。
- 今川義元死後、松平元康が今川家を乗っ取る。その後結局は徳川幕府になる。
- 信長の引き立てのない家康が、単独で天下を取れただろうか……今川家は乗っ取れても、その後武田信玄に叩きつぶされていた可能性が高いような。
- 武田信玄につぶされるかどうかは、今川義元と武田信玄とどっちが先に死ぬかにもよるな。
- 史実の信玄死亡の1573年で今川義元54歳。
- それまでの管領とか三好・松永久秀とかみたいに実権を握ることならできるかもしれないが、名目上でも乗っ取るというのはちょっと難しい。少なくとも松平家のままでは無理。
- 現実主義的な家康だから今川の元で重鎮としてそれなりの地位で満足してしまう可能性も、史実の本多正信のようなポジションになってたかも知れない
- ちなみに家康の正室である築山殿は義元の養女という形にしての婚姻で、一応は今川の身内にあたるから出世の道は全く無かった訳ではない
- 現実主義的な家康だから今川の元で重鎮としてそれなりの地位で満足してしまう可能性も、史実の本多正信のようなポジションになってたかも知れない
- どさくさに紛れて、織田・斎藤の遺臣をかき集め、そこそこの勢力をつけた可能性もある。
- ポジションとしては龍造寺家に於ける鍋島直茂(筆頭家老・軍師)のような位置かな。
- 信長の引き立てのない家康が、単独で天下を取れただろうか……今川家は乗っ取れても、その後武田信玄に叩きつぶされていた可能性が高いような。
- 数十年にわたって今川氏は繁栄するが、17世紀始めに奥羽を統一した伊達政宗と戦うことになる。
- そして中部または近畿地方で伊達政宗と毛利一族の天下分け目の決戦が・・・
- その場合後の江戸ポジションが仙台か広島のどちらかになっていた。
- 伊達政宗は史実の織田信長のような存在になるかも。
- そして中部または近畿地方で伊達政宗と毛利一族の天下分け目の決戦が・・・
- スーパー戦国記みたいに信長に当たる人が天下統一を始める。
- 西日本では関西の半分と中国地方の大部分を支配した毛利氏と九州を統一した島津が戦う
- 武田信玄は義元の無能な息子である氏真が家督を継ぐ事も無いのでそのままフェードアウトしていた可能性もある
- いや、時間差はあっても家督は継いでたでしょ。
- 廃嫡されていた可能性も充分にあり得る。
- 武田信玄は駿遠三に攻め入れないので北関東方面や信越方面への侵攻が増え、上杉謙信との抗争が増えたのではないかな?
- いや、時間差はあっても家督は継いでたでしょ。
- 義元は尾張を蹂躙後、上洛し、広大な領土を得て最強の戦国大名となるが氏真になって毛利、武田いずれかに滅ぼされる。
- コーエーの戦国シミュレーションゲームのタイトルが変わっていた
- 織田家は宇都宮氏や里見氏なみのマイナー大名として扱われる。
- 信長が早世補正でそこそこの強さになる。信秀がもう少し強くなっていたかも。
- 織田家は宇都宮氏や里見氏なみのマイナー大名として扱われる。
- 木下藤吉郎が日の目を見ることもなかったので、今日の大阪の発展はほとんどない。
織田信長が戦死していたら
- 少なくとも織田家は滅亡する。
- 織田家は信長の野望シリーズでも松平清康レベルの地方大名扱い。
- そもそも「信長の野望」じゃないでしょ。
- そこは後に統一した大名の名前になる。
- そもそも「信長の野望」じゃないでしょ。
- その後の家臣がどう動くかによるが少なくとも秀吉が天下を取ったりはしないはず。
- 家康が独立することもなかった。
- まあ織田以外は対して強くない斎藤と浅井、六角なので力任せに倒すことは出来るだろう。
- ちなみに当時のこれらの家の状況は斎藤「当主早死に」、六角「観音寺騒動で大混乱+浅井独立」、浅井「ようやく六角氏から独立」と今川と単独で渡りあえる状況ではない。(浅井は朝倉の同盟込みである程度粘れるかも)
- しかし兵農分離もできなかったのでそこからの進展は不明。
- 史実の松平清康みたいに「30歳まで生きていれば…」というif記事が多く作られる。
- なお、チャクウィキなどでこの話題が出ると「父の信秀や兄の信広も先進的な思考を持っていなかったし、その子供も・・・」となる。
- 「そもそも信長は所詮上杉謙信らと同世代だろ?無理無理www」
- 「精々行けて尾張・三河・美濃あたりが限界じゃない?子の信忠や弟の信包らの器量次第だが。」
- 「もしあそこで今川が負けていたとしたら、戦国時代今でも続いてるよwww」
- 「そもそも負けるわけねーだろwwwwあのタイミングで勝てなかったわけだし」
- 「筆頭家老の元康がドサクサに紛れて勢力広げそう」
- 「氏真?まあまあ駿府を東海の小京都として繁栄させたのはいいけどあっさり元康に簒奪されたよね」
- でも他の武将の評価とかを見ると、「尾張を統一した身の程知らずの信長が今川に突っ込んであっさり敗れる」くらいの評価になっててもおかしくない。特に今川が将軍になっていた場合は。
- なお、チャクウィキなどでこの話題が出ると「父の信秀や兄の信広も先進的な思考を持っていなかったし、その子供も・・・」となる。
- しかし次代の氏真で今川家は瓦解する。
- 関連項目
川中島の合戦に決着がついていたら
- 武田信玄が勝ったら
- 弱体化した上杉氏を従属させ、さっさと美濃方面から上洛に取り掛かる。
- 信長以前だとたぶん上洛の発想がないので、けっきょく飛騨とかに攻め込んで時間を潰す。
- 美濃口から上洛しようとするが、某義元の二の舞になる。
- 越後に追撃して安全地帯を作っていたかも。
- 信長以前だとたぶん上洛の発想がないので、けっきょく飛騨とかに攻め込んで時間を潰す。
- 先に駿河に侵攻する意味が無いので、武田氏の内紛は起きずに、家督は義信がすんなり継いだ。
- いつの間にか羽柴秀吉が重臣に取り立てられている。
- 前田利家・明智光秀・直江景綱も。
- 挙げ句の果てには松平元康まで。
- 信康事件は起きずに済んだ。
- 挙げ句の果てには松平元康まで。
- 前田利家・明智光秀・直江景綱も。
- いっぽう山本勘助は一生地味な存在のまま。
- 「啄木鳥戦法」で勝っていたのなら、多少は有名になったかも。
- やむをえず甲州忍びを使って「軍師・山本勘助」の名前を宣伝する。結果、当時よりも後世で有名な存在になる。
- 上杉謙信が勝ったら
- とりあえず信濃の領地は元々治めていた豪族に返してやる。
- そして有名になる村上氏。
- 小笠原氏だの諏訪氏だのも領地奪還・武田氏からの独立を目指して上杉氏を頼ってくる。 → 戦場を南に移して武田氏と再戦。
- 史実と違い信濃は事実上上杉領となるため長篠の戦いは起こらない、もしくは違った結果になっていた可能性がある。
- 関東攻めにますます力を入れるが、上杉氏の歴史は変わらなかったと思う。
- 武田との争いが収まれば余力ができるから、関東方面もある程度平定できるのでは?
- 弱体化した武田氏は甲斐一国に閉じこもったままになる。
- 信長の天下統一がスムーズにいくか、それとも甲斐攻略で手こずって結局歴史は変わらなかったか。
- 長篠合戦が歴史に残らない。あるいは手取川なんかで織田の鉄砲隊が再現。
- 「敵に塩を送る」の故事が永遠に辞書に残らない。
- 真田氏も上杉に仕える。信州・上州が完全に上杉配下になってしまえば信繁(幸村)も上杉に人質に行ったまま、「表裏比興」といわれることもなく上杉に仕え続ける。
- 両者共倒れしてしまったら
- 越後や信濃が内乱状態になってメチャクチャになる。
- 甲斐はとりあえず今川あたりが接収する。
- 真田氏がこの混乱を収拾して甲信越の覇者になる…か。
- 真田氏ならむしろ信州と上州へ勢力を伸ばすのでは?
- 北条氏、勢力拡大。少なくとも関東(上州方面)は。
- 両者仲良くなってしまったら
- 「上杉謙信女性説」がもっともらしく語られる。
- 武田氏は上記の「信玄が勝ったら」と同様、背後を気にせず美濃方面から上洛。
- 上杉氏は上記の「謙信が勝ったら」と同様、背後を気にせず関東経営に注力。
- 旧領復帰のため上杉氏を頼った北信の豪族がやりきれない…
- 実際史実でも上杉氏に頼った北信の豪族たちは上杉家の家臣に取りこまれているのでそこは史実通りになる。
山崎の戦いで明智光秀が勝っていたら
- 全般
- 次は柴田勝家と北近江あたりで決戦。
- 足利義昭公が再入洛。
- 毛利領、長曽我部領は安堵。
- 徳川家康は光秀と講和し、どさくさまぎれに尾張と美濃を獲得。
- おそらく天下統一は17世紀末まで持ち越される。
- ロシアではイワン雷帝の死後、ボリス・ゴドゥノフが天下をとったが、この人は(雷帝を信長とすると)明智光秀と似た性格と立ち位置の人物だったようだ。その後ロシアは混戦状態となり、17世紀末にピョートル大帝が出るまで統一されなかった。この辺のロシア史は、秀吉が玉砕した場合の戦国史を想像する際に大いに参考になります。
- その場合、日本史は大きく変わっていた。少なくともキリスト教禁止・鎖国・士農工商制度は無かったかもしれない。
- 当時の信長の名声・権威がもはや不動のものになっていたこと、光秀には大義名分がないこと、細川とか筒井とかは光秀に従ったとしても嫌々でありいざとなったら信用できないことなど、天下を取るのは色々と厳しい。「信長の仇」という大手柄(秀吉はこれで二国加増された)に目がくらんだ周囲の織田家臣たちから袋叩きにされるだろうし・・・一大名として生き残ることはできるかもしれないが、やっぱり厳しい。
- そうでもない。大義名分などは、勝ちさえすればいくらでも後からついてくる。
- いくらなんでもそれはない。
- 細川も筒井も、光秀に勝ち目がないと思ったから味方にならなかっただけで、もし勝っていればすぐさま傘下に駆けつけるはず。細川藤孝が剃髪して信長の喪に服したのは、信長を悼んだわけではなく、光秀のみならず、他の諸将にも与力はしないというアピールに過ぎず、当時の情勢からして、盟友光秀に対する最大限の好意だったと思われる。
- この場合の勝ち目というのは会戦ではなく明智政権(仮)、もしくは明智家が生き残れるかということ。1度勝った程度ではどうにもならない。
- 秀吉が玉砕したとなると、他の諸将も容易には動けなくなり、「袋叩き」はまずあり得ない。たぶん織田遺臣同士の連携もまったくとれなくなる。様子見しているうちに光秀が畿内支配を確立してしまい、同時に毛利・上杉・北条・長曽我部などとの盟約も交わしてしまうだろうから、ますます動けなくなる。
- 秀吉が敗れれば他の武将はより急いで光秀に向かってくるため、どう考えても袋叩きになる。光秀ファンの中には「畿内を支配すれば兵力が多くなって~」などと気楽に考えている人もいるようだが、本能寺の変による混乱の中、最低でも人質を取って安堵状を渡すという作業が必要になる。当然、抵抗してくる人間もいるし、光秀の足元を見て領地をふっかけてくる連中もいるため、そんなに簡単ではない。最低限6月中旬までにはなんとかしないと柴田勝家が戻ってくるが、それまでに一体どの程度の事ができるか・・・かなり厳しい。
- 史実でも山崎の戦いまでに近江は平定できていたし、もし戦いに勝てば様子見だった武将は光秀の味方につく。
- そうでもない。大義名分などは、勝ちさえすればいくらでも後からついてくる。
- そもそも明智氏と親しかった細川氏や史実では様子見だった筒井氏が参戦したからこそ、ifの世界で山崎の戦いに勝てていた。
- 毛利・徳川と激突していた場合
光秀が反乱を起こした時点で毛利が織田領を攻撃していたら毛利幕府が誕生する可能性があった(by「逆説の日本史」
山崎の戦い以前で既に信長が殺されていた事は清水宗治が切腹して数日バレたのだが小早川隆景が待ったを掛けた為、侵攻を留まったと言う
- 旧織田領は毛利と徳川で分割
- 仮に毛利が征夷大将軍として幕府を開いていたら徳川が天下を取れたかどうか・・・
- この場合首都は広島か京都になる、また徳川が天下を奪回したとしても首都は江戸でなく駿府になった可能性が高い
- 首都が駿府ならば標準語は静岡弁(多分そのままではなく、若干現行標準語風味)。江戸あたりでは実史の群馬・埼玉北部・相模のような言葉が話されていたであろう。
- 首都が京都ならば問題なく京ことばが標準語。大阪は実史同様京都風味のものと、荒っぽい河内・泉州系が並存するが、今ほどの力はない。
- 首都が広島なら…「それはひょっとしてギャグで言っているのか」
- 戦国時代とはいえいきなり将軍になるのは絶対無理なので、まずはそれなりの官位につくことになる。
戸次川の戦いが○○だったら
勝利していたら
- 仙石秀久の評価が変わっていた。
- 長宗我部信親が戦死しなかったため、元親が暗愚になることもなかった。
- 信親に後を継ぎ、江戸時代も大名として生き延びていた。
- 西軍についていればおそらく僻地に転封されていた。東軍なら土佐一国安堵。
- 十河存保が戦死しなかったため、三好一族は大名として生き残っていた。
- せいぜい東国に1万石といったあたりだろうか。
豊臣秀吉が参戦していたら
- 烏合の衆になることもなかった。
- 島津に勝てていた。
長宗我部元親が戦死、または自殺していたら
- 長宗我部家は嫡子信親の上に当主もなくしていたため、存続が危ぶまれる。
- おそらく会議の末、次男の香川親和があとを継いだかと。
- ただし大幅減封・転封は避けられない。
仙石秀久も戦死していたら
- 仙石秀久はただの愚将で終わっていた。
- 各人を戦死させた罪は大友義統に押し付けられた。
- 大友家の改易が早まったかも。もしくは東国に転封。
関ヶ原の戦いで西軍が勝っていたら
- 豊臣秀頼が第三次朝鮮出兵を実施。
- で惨敗し(ry
- 「江戸冬の陣」「江戸夏の陣」で徳川家が滅亡。
- 出典は清水義範の小説より。
- それだとこっちでの展開かと。
- 真田信之が徳川方に加担し、江戸に「真田丸」を築いて苦しめる。
- 真田信繁は90歳くらいまで生き延びた。
- そのため、信繁は通好みの武将として知られる。
- 幸隆→昌幸→信繁と、真田家はことごとく次男以下が継ぐようになっていた。
- さらに信繁の子も史実の信之の子のように父より先に亡くなっていたら…
- 真田信繁は90歳くらいまで生き延びた。
- 出典は清水義範の小説より。
- 江戸は21世紀に入っても10万人以下の一漁師町にすぎなかったかも。
- 江戸時代ではなく大坂時代に。
- 秀吉の大坂城が黒くそびえている。勿論、国宝。
- 国宝になるかどうかは落雷や火事で焼失の可能性があるし、その場合その後に再建するかによるけれど。
- 現在の大阪城も市民のカンパによって再建されました。よって再建されたでしょう、秀吉時代のデザインで。
- もちろん、エレベーター付き
- 現在の大阪城も市民のカンパによって再建されました。よって再建されたでしょう、秀吉時代のデザインで。
- もし豊臣時代の天守閣が残っていた場合、世界遺産にも指定されている。
- 国宝になるかどうかは落雷や火事で焼失の可能性があるし、その場合その後に再建するかによるけれど。
- 豊臣家は征夷大将軍にはなれないため豊臣幕府は開かれないか?
- 秀吉の大坂城が黒くそびえている。勿論、国宝。
- 島津、毛利、石田、小西らにより貿易が盛んな重商主義に。
- 後に豊臣財閥(子会社は羽柴や木下の名義)へと発展。
- 上杉氏、領地拡大。
- 北部九州は黒田如水が席巻、その後関ヶ原から戻った西軍と激突?
- 勝ったほうに恩を売ろうとしていたらしいので、激突はないでしょう。
- 息子の長政が東軍に付いている上に、九州の西軍大名の領地を攻撃するからしばらく西軍と関係は悪化するだろう。
- ディズニーが大阪湾に、その後、USJが江戸湾に作られる。
- 広島に幕府ができて、毛利家が代々将軍となる。
- 広島は西日本の中心都市として現実よりも発展していた。
- 山陽新幹線も1972年の時点で広島まで開業。
- 中国・四国地方をエリアとする「JR西日本」の本社が置かれていた。この場合近畿地方は北陸とともに「JR関西」となっている。
- 広島は西日本の中心都市として現実よりも発展していた。
- 上杉・豊臣・毛利が200万石前後で並び、三国時代の到来。
- 島津も100万石で独自の政権を持って、厳密には四国時代かも。
- 長宗我部氏の所領は安泰。よって2006年の大河ドラマは作られない。
- 結局5大老制から足利時代の三管四識みたいに?
- ドサクサにまぎれて伊達家も100万石は確保しているハズだ。
- 問題は伊達家と上杉家がどう並存するかだ。
- 上杉家は仙台へ、伊達家は越後へそれぞれ転封。
- 問題は伊達家と上杉家がどう並存するかだ。
- 黒田家は如水の働きが評されれば100万石前後。
- 豊臣は中央集権を図ろうとするが、家臣の反発で室町幕府のような状態に。
- 但し一門衆が圧倒的に少ない。
- 立花宗茂は大幅な加増を受けた。
- 筑後一国が宗茂のものに。
- 弟の直次は立花に改めなかった。
- 宗茂29万石、直次3万石あたりの加増を受けた。
- 肥後は小西行長のものに。
- 宇土県になっていた。
- 名古屋は存在しない(徳川御三家が存在しないので)。
- とりあえず石田三成の時代が始まる。
- 大名を集めて懐柔し、支配機構として強力な官僚団を組織する。
- 代々遊び暮らす王侯貴族とエリート官僚という、日本風絶対王政国家が出現。
- やたら几帳面な検地が特徴。大阪時代中期にはカムチャツカにまで達する。
- 算術は武士のたしなみ。
- 大名を集めて懐柔し、支配機構として強力な官僚団を組織する。
- 論功行賞をするとならば
- 毛利輝元:120万石(広島・山口・島根)→150万石(広島・山口・岡山)
- 吉川広家:20万石?(西軍についていたら出雲石見安堵、動かなければ毛利家臣に)
- 上杉景勝:120万石(福島)→150万石(新潟・福島会津地方・米沢を除く山形)
- うち直江兼続が庄内・新庄。
- 宇喜多秀家:57万石(備前・美作→100万石(筑前・筑後)
- 小早川秀秋:35万石(筑前)→30万石(姫路)
- 前田利長、前田利政:100万石(石川、富山)→100万石(利長・石川40万石、利政・宮城60万石)
- 徳川秀忠:250万石(江戸)→110万石(伊豆・駿河・遠江・三河・甲斐)
- 別案:70万石(武蔵・相模・伊豆)
- 宮部長房:5万石(因幡)→25万石(因幡・伯耆・隠岐と出雲の一部)
- 織田秀信:13万石(美濃)→40万石(尾張北部・美濃)
- その他織田一族も旗本として存続した。
- 石田三成:26万石(近江)→40万石(尾張南部・三河)
- 福島正則:24万石(尾張)→改易
- 毛利輝元:120万石(広島・山口・島根)→150万石(広島・山口・岡山)
- 宮部長房が名将として語られる。
- なんか西軍に寝返らなさそうな気が。
- 江戸幕府が開かれないので、鎖国しない。
- キリスト教の扱いは相変わらず悪くなる。
- 関ケ原では負けるけど、負け方が違う(小早川秀秋謀反が無く、一部西軍武将の怠慢で押し負ける展開とか)の結果、近江大津城攻めをした部隊などと合流した主戦派が大坂城で決戦を策して勝利する。
- 現滋賀県彦根市は滋賀県佐和山市に、福井市・福岡市は元の名前のまま(北ノ庄市・博多市)か若しくは違う名前になっていた。
- 関連項目
大坂の陣が○○だったら
- 豊臣方が勝っていたら
- 徳川家康を討ち取っていたら可能性があるかも。
- 家康が討ち死にしても秀忠が討ち死にしない限りはそう変わらないはず。また秀吉と違って家康には一門衆も譜代も多いので秀吉死後のようにはならない。
- 仮に家康・秀忠共に討ち死にで本能寺の変後の織田家みたいなった場合、伊達政宗が娘婿の忠輝を担いでなんかやる可能性は無きにしも非ず。
- まあでも、結局は竹千代(家光)が継いでなんとかなりそうな気はするけど。
- 「長子の子が継ぐべきだ」と、秀康の子忠直を担ぎ上げる勢力もいそう。まあ三河武士軍団であればそう分裂はしなさそうだが。
- 結局家光派と忠長派で家臣が分裂してしまう。
- 最初のうちは勝利を重ねるが、徐々に劣勢になる。
- おそらくどこかで講和がなされていた。特に1のように家康が戦死するようなことがあった場合は。
- 関連項目
- 豊臣方で参戦する大名がいたら
- 豊臣秀頼は全国の大名に檄を飛ばしたそうですが、無視されたそうです。
- なおこの頃豊臣恩顧も清正ら多くは鬼籍に入っており、生存していた福島正則は警戒され過ぎたあまり江戸に留守を命じられました(但し正則の弟が内通したとして後に改易処分となっています)
- 間違いなく改易されていた。
- 場合によっては名跡存続すら許されなかった。
- 長宗我部盛親や古田織部のように処刑or切腹になっていたかも。
- 譜代あたりが寝返ったとなれば大さわぎになりそう。
- この時徳川内部の対立が徳川一門を巻き込んで大坂の陣の同時期に発生していた。
- つまり、徳川VS豊臣ではなく、徳川VS徳川の戦いに豊臣やその他大名が介入もしくは巻き込まれた可能性が高い。
- 大坂の陣は後世慶長の乱と呼ばれる全国的内戦の一会戦となっていた。
- つまり、徳川VS豊臣ではなく、徳川VS徳川の戦いに豊臣やその他大名が介入もしくは巻き込まれた可能性が高い。
- 豊臣方から寝返った武将がいたら
- 大坂城の落城が早まっていた。