戦国武将/た行
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<戦国武将
た
太原雪斎
- お坊さんだが活躍した時期、時代背景の関係から戦国武将にカテゴライズされる事が多い。
- 今川家の参謀。軍事に外交に八面六臂の大活躍。雪斎の死が今川家滅亡を早めたとまで言われるほど。
- デスラー総統はハマリ役でした。
- 元々は僧侶になるはずだった義元の師だったが、義元が還俗して今川家の家督を継いだため、そのまま義元に付いてきて軍師になった。
武田勝頼
- 長篠の戦いで大敗し、あげくに信長に亡ぼされてしまったので、すっかりダメ武将扱いされているが、実はけっこう知勇兼備だったらしい。
- ただ偉大な父・信玄の影に常にプレッシャーを感じて、焦りすぎた気配はある。
- 信長のやっていた「城下町作り」「楽市楽座」「鉄砲隊の充実」など革新的な施策の意義をよく理解していたようだが、実現するための財力と時間が無かった。
- かろうじて城下町作り(新府城)には取り掛かったが、完成させることなくタイムオーバー。
- 謙信亡き後の上杉家の内紛に首を突っ込んだのが命取りだった。
- 北条氏政の弟である景虎が上杉を継ぐと、北条家の力が強大になりすぎると見て、景勝に肩入れ。局所的に見れば、関東の勢力を均衡させる、悪くない判断なのだが……
- おかげで北条家と決定的に仲違いし、大事なところで助けて貰えず命を落とすはめに。織田家が大きくなりすぎて、関東で勢力均衡を図っているような場合ではなかったのであった。
- 信玄の跡継ぎとされたのは勝頼の息子の信勝で、勝頼は信勝が成長するまでの後見役に過ぎなかったという説もある。
- 勝頼は本来、武田軍団中の信濃衆(諏訪衆)旗頭としての役割を期待されていた。もともとの後継者であった兄・義信が失脚・落命したために、急遽全軍を率いることになったので、部将たちからの人望がイマイチだったようだ。
- それをなんとかしようと、豪族の寄合である武田家の政体を中央集権型に変えようとしたが、部将達から反発食らって失敗。
- そもそも武田氏は大名への権力集中が非常に遅れていた。
- 勝頼は本来、武田軍団中の信濃衆(諏訪衆)旗頭としての役割を期待されていた。もともとの後継者であった兄・義信が失脚・落命したために、急遽全軍を率いることになったので、部将たちからの人望がイマイチだったようだ。
武田信玄
- 山梨県民にとっては神である。
- 一般的に『甲斐の虎』と呼ばれている。
- 人望・カリスマ・知略・軍略などさまざまなものに恵まれていたが、唯一天命には恵まれなかった。
- 子供も。
- 関東管領上杉氏の名跡を、甲斐源氏の嫡流である自分ではなく、ライバルの長尾景虎(上杉謙信)が継いだことが気に入らず、その後も「長尾」の旧姓で呼んでいた。
- 四畳半くらいの便所(それも水洗)を作り、よくそこに篭って作戦を練っていた。
- その便所には香が焚き込められてたとか。便所を「山」と呼んでたそうな。「山には草木(臭き)があるではないか」と言ったとか言わなかったとか。
- 信玄は出家以降の法名。出家前は晴信(はるのぶ)。
- 足利12代将軍義晴の偏諱を貰った。
- 自分の長男には、13代将軍義輝から偏諱を貰ったが、輝信とはせず、より格上で謝礼金も高額な「義」のほうを貰い、義信とした。
- 上杉謙信が「輝」を貰っていた(本名は輝虎)ので対抗したのかな?
- 戦国最強。もう少し京に近ければ歴史変わったかも。
- もっと長生きで、病気もなかったら、歴史は変わったはず。
武田信虎
- 息子の信玄に追放された親父。
- 暴君として有名だけれど、実際はそこまでひどくはなかったらしい。
- 中央集権化を断行しようとして家臣団の反発を買い、追放されたというのが有力説。
- 信玄の死後まで生き、81歳の天寿を全うした。
- 今川氏真の祖父でもある。でも仲は悪かったらしい。
立花宗茂
- 豊後大友家の猛将・高橋紹雲を実父とし、同じく猛将・立花道雪を養父とする、猛将のサラブレッドみたいな人。
- 嫁は道雪の娘・誾千代。
- 悠に一軍の将が務まるだけの能力と器量がある姫君だったらしい。
- 宗茂との夫婦仲が悪かったというのが通説だが、個々のエピソードを見ると、むしろ仲良し夫婦だったような印象がある。
- 不仲説は二人の間に子供が生まれていないせいらしいが、宗茂は他の妻妾にも子供は産ませられなかったから、もともと種無しだったかもしれない。
- 高橋家と立花家の領地は隣り合っていたので、親同士の付き合いで城を訪問したりしていたらしい。幼馴染やね。
- とにかく戦争にめっぽう強かった。
- 若い頃から、対秋月戦、対島津戦で大活躍。
- 朝鮮の役でも大活躍。
- 関ヶ原の戦いでは、大津城を攻めてこれまた大活躍。
- 宗茂が大津城など置き捨てて関ヶ原に来ていれば、戦闘の様相も変わっていたかもしれない。
- 敗軍となっても、自城にこもって頑強に抵抗。加藤清正・鍋島直茂・黒田如水の連合軍を相手に一歩も引かず、攻めあぐねた連合軍は仕方なく説得にかかってようやく開城させた。
- 島原の乱にまで顧問格で出兵。
- 一揆勢の立てこもった原城は、食糧が無くなれば自然に落ちると見て、宗茂は長期包囲を進言したが、幕府軍は言うことを聞かずに積極攻勢に出て大苦戦。言わんこっちゃない。
- このように、宗茂自身の持ち場の戦闘においてはほとんど負け無しだったが、なぜか全体の勝敗としては敗軍に属していることが多かった。だからこそ強さが光ったのかもしれない。
- 関ヶ原の戦後改易されたのに、旧領に大名として返り咲くことができた唯一の武将。
- 応援する人が多かった。志操の明快さでみんなに愛されていたらしい。
- 一騎打ちで敵将の鼻毛だけを斬ってみせたという逸話がある。
立花直次
- 兄をよく助けた。
- 柳川藩の藩主はこの人の子孫が受け継いだ。
伊達稙宗
- いろいろと暴れまくっていたが、晴宗のおかげで全部おじゃんに。
- 太閤立志伝Ⅴでは、やたらと能力が高い。でも年だし、仕官する気もないので、宝の持ち腐れ。
伊達政宗
- 独眼流
- 独眼だからといって一つ目じゃありません。
- だが某戦国ランスで目玉の化け物になってた…
- 独眼流?
- 独眼竜じゃないのか? 隻眼だったからそう呼ばれたらしいよ。
- だが某戦国ランスで目玉の化け物になってた…
- 独眼だからといって一つ目じゃありません。
- あと10年早く生まれてれば・・・。
- それより、もっと都近くに生まれていれば・・・。
- しかし奥州に生まれ、特に周囲に強敵もいなかったので運がいいとも言える。
- せめて最上芦名佐竹くらいは強敵と認めてあげて。苦戦はしてるんだから。
- 南部大崎安東あたりも手ごわい。
- 仙台のすぐ北を領する大崎・大崎領の北にいる南部の脅威はわかるけど、安東と伊達は直接領界を接してない。出羽国を治める安東氏にとって脅威なのは山形の最上義光・仙北の小野寺義道あたりだぞ。
- 政宗が家督相続したばかりの頃の伊達家には相馬も十分に脅威。
- 強敵だらけじゃねぇか。でも一番の強敵は身内か?
- 南部大崎安東あたりも手ごわい。
- せめて最上芦名佐竹くらいは強敵と認めてあげて。苦戦はしてるんだから。
- 昔、フジテレビの特番で「もし天下を取っていたら、今頃『仙台ラブストーリー』が放映されていた」というネタがあった。
- 奥州筆頭。
- もともとの地名・千代を「仙台」に変えたのはこの人。
- 伊達男という言葉はこの人が発祥。
- 徳川将軍家が発した「一国一城令」に唯一あてはまらず、一国二城(仙台城と白石城)許された武将。それだけ徳川家に恐れられていたということ。
- 何せいつ謀反起こされるかと思うと徳川家にとってはヒヤヒヤものだし、かといって転封やら改易なんぞ仕出かせば「許さんぞ徳川メ!!伊達力思い知らせてくれるわ!」と国許から大軍が攻め込みかねないしで、「う~ん、しょ~がねぇ!」という特例中の特例で認められた…っつ~か認めさせた。伊達軍団スゲーな。
- 詩歌を嗜み、なかなかの文化人だったらしい。
- ユーモアたっぷりな狂歌・公家衆が絶賛した和歌のクォリティーに「ケッ田舎大名が」と嘲笑う中央の大名が赤っ恥かいたそうな。
- 連歌などに堪能だった武将は他にもたくさん居たが、完全な平仄で漢詩を詠めたのは、同時代の武将では政宗だけらしい。
- 意外なことに料理が趣味。もともと兵糧開発だったのが平和な世になるや美食を極める為に料理研究したそうな。仙台に美味いものが多いのはその名残か影響か?
- 意外だが、実は酒に弱かった。
- 晩年を過ごした仙台若林屋敷は現在刑務所。庭の臥竜梅のみ残ってるそうな。
- 誰が何と言おうと渡辺謙
- 「美人の側室と美形の小姓。二人は姉弟。ものにするならどっち?」「両方」という剛の者。
- 江戸初代将軍の家康から3代目将軍・家光までの信任が厚かった。家康からは臨終間際に「秀忠を頼みまするぞ…」と託され、秀忠からは「仙台!家光を頼むぞよ!家光はわがままな男、大人にするにはそち以外にできぬ!何とぞ何とぞ頼んだぞよ!」と願われた。
- 将軍就任後の家光からは「父の御遺言に従い、政宗を父と思うぞ」と声をかけられ、「微力ではございまするが…」と忠誠を誓った。しかし、家光個人からの処遇は外様以上で、御三家・譜代と同等か、それ以上だったとか。
- 没後、江戸で7日、京で3日、歌舞音曲や猟が禁じられた。
田中吉政
- 農民から出世した。
- 三成を捕らえた人。
- 水郷柳川を作った。
- 都市計画を得意とし、現在でも評価されている。
- たった二代で筑後32万石が潰されたのは惜しい。
田村隆顕
- 田村マロの子孫。
ち
長宗我部元親
- 最初「土佐の姫若子」といわれていた。
- 別に女の子みたいに可愛らしかったわけではない。
- 初陣を華々しく飾った後は鬼若子に昇格した。
- 初陣が22歳になってからと、超遅咲き。他家では10代半ばで初陣してたからなぁ。
- もし10年早かったら天下を…という意見もあるが、当人は四国の覇者になれれば満足だったらしい。
- 戦国無双でもBASARAでも有名であり、後世のゲーマー達に論争の種を与えている武将の一人である。
- 後半生および子孫は悲惨すぎる・・・・・・。
- 秀吉の命令で駆り出された戦で嫡男を喪い、以後精神的に不安定になってしまった。
- 嫁は明智光秀の片腕だった齋藤利三の妹。
- 長曽我部とも書く。どっちでもいいらしい。
長宗我部盛親
- 元親の四男。長兄・信親が戸次川で戦死したため、家督を継ぐ。
- 家中には、三兄・親忠を推す勢力もあって、相続時にちょっとゴタゴタした。
- しかもそのゴタゴタが、ちょうど秀吉の死から関ヶ原の戦いに向かう時期だった。おかげで長宗我部家は情報収集もままならないまま、成り行きで西軍に属すことになってしまった。
- 親忠が殺害されてお家騒動は終息。
- 盛親が指令したのか、盛親派の家臣が先走ったのか、微妙なところ。
- 長宗我部家が取り潰されたのは、実は西軍に属したためではなく、この兄殺しを咎められたからだという説も。だとすれば馬鹿なことをしたものだ。
- 徳川からすればていのいい口実を用意してくれた、ってとこだ。
- 家中には、三兄・親忠を推す勢力もあって、相続時にちょっとゴタゴタした。
- 関ヶ原の戦いでは、戦場に出る道を毛利勢(というか吉川広家)に塞がれて、まるっきり戦闘に参加しないまま敗軍となる。あんまりだ。
- そもそも西軍に属した理由が徳川へ送った密使がヘタレで、三成の関所網を越えられずに戻ってきたから東軍に参加できず成り行きで、らしい。あんまりだ。
- 土佐を追われた後、大岩祐夢と名乗って、寺子屋の先生になった。
- 大坂の陣では、誘われて勇んで大坂に入城。
- 単身で配流場所を抜け出したが、山内一豊に迫害されていた元家臣たちが途中で次々と駆けつけ、たちまち大軍勢となって大坂入りを果たし、人々を驚かせた。
- 短期間とはいえ大名だったのは彼だけだったので、城内ではなかなか人望もあったらしい。
- あとの大坂方の将は、「元大名の子」とか「大名の元重臣」とかがほとんど。
- 冬の陣ではあんまり見せ場が無かったが、夏の陣では藤堂勢との遭遇戦で鮮やかな大勝利。
- かろうじて、名将であったことを死ぬ前に証明できたのは何より。本人ももって瞑すべきであろう。
- 夏の陣の後、脱出しようとして捕まり、斬られた。
- 生存伝説もある。若狭に逃れて行ったと言う。
つ
津軽為信
- 津軽地方の英雄。でも旧南部氏の領土だった場所ではすこぶる評判が悪い。
- 南部氏よりも先に秀吉に謁見して、独立を認めさせた。
- 肖像画はすごいヒゲだ。
- ライバルの南部信直が上方でホームシックにかかったのに比べて、先祖ゆかりの(伝承レベルだけど)名門公家の養子になるなど、都会生活をエンジョイしていたようだ。
と
土岐頼芸
- つわものどもが夢のあと
- 絵画に関しては類稀な奇才の持ち主だったらしい。
- 斎藤道三に追われた後も各地を逍遥しながら生き延び、80歳以上の長寿を全うしている。
藤堂高虎
- 当時の人物の平均身長(160cm前後)からえらく乖離した、六尺三寸(190cm)を越える大男。
- 戦国武将の中では加藤清正に比肩する築城の達人として名高い。
- 浅井長政に始まり徳川家康まで幾度も主を変えたため、変節漢、裏切者と言うネガティヴな印象で語られることが多い。
- 実際は優秀な人材があちこちから引っ張りダコにされるようなもので、彼自身が謀反を起こしたとかは一度もない。
- 外様だが、徳川政権下でも譜代並に重用された。
- 頭の切れる印象が強いが、本人の腕っ節もかなりのものだった。
- 腕っ節だけでもひとかどの人物だったが、「上に登るのに必要なスキルは何か?」と考えて築城や外交術を勉強した偉い人。
- 晩年、目が見えなくなった。将軍秀忠が「廊下をまっすぐにして迷わず俺ンとこ来れるようにしようか?」と持ちかけるも丁重に辞退。
- 遺訓は「主君に仕える際は誠心誠意、力の限り奉公せよ。それで数年経っても評価してもらえないならば、いっそ主君を変えてしまえ」という内容だった。
- 貧しいときに餅をめぐんでくれた三河吉田の宿の主人に、大名になった後手厚く恩返しをした。
徳川家康
→ 征夷大将軍/江戸時代へ。
徳川信康
- 家康の長男。母親は今川義元の養女の築山殿。
- なかなか武勇にすぐれていたらしく、関ヶ原の戦いがやや膠着状態になっていた時に、家康が
「あやつが生きておればなあ」
と述懐したとか。
- なかなか武勇にすぐれていたらしく、関ヶ原の戦いがやや膠着状態になっていた時に、家康が
- 嫁は信長の娘。
- 「五徳」という名前であったとされるが、疑わしい。女の名前じゃないだろ、こんなの。
- 「徳姫」とも言われるが、これは織田側から見て「徳川家に嫁入りした姫」というだけの意味。「五徳」の徳も同様。
- 「五」のほうは本人の手紙に書かれた署名なので、「五」を含む名前であったのは確かと思われる。
- 当時の女性の署名は、名前の最初の一文字(今で言うイニシャル)を書くだけというのが普通だった。
- 「五徳」という名前であったとされるが、疑わしい。女の名前じゃないだろ、こんなの。
- 夫婦喧嘩の末に命を落とす。
- 嫁が勢いに任せて、実家にあることないこと12箇条ばかり言いふらした。
- 義父の信長は、徳川家の重臣・酒井忠次を呼んで事情を訊いたが、12箇条のうち10箇条について申し開きができなかった。
- 実は忠次が信康を嫌っていたので、あえて申し開きをしなかったという説も。
- 信長は家康に、信康の誅殺を命じる。家康、逆らえずに実行。
- 検分役の配下に、信康をこっそり逃がすようにそれとなく指示したが、その配下が堅物で空気を読めず、あっさり殺してしまったのだとも言われる。
- 実は信長はそんなことを命じておらず、家康が勝手に(対立していた)信康を誅殺して、あとで信長のせいにした……とも言われる。
- 父に見捨てられていた弟の秀康を救済し、父と対面させたという美談もある。
豊臣秀次
- 無能と言われるが、負けたのは小牧・長久手の戦いのみ。
- 暴君か名君か評価の分かれる人物。
- 最後は高野山で自害させられた。彼の一族もみな粛清されたという。
- 側室や子供に至っては、殺されてまとめて埋められた後、塚がひとつ建てられたのみ。名も『畜生塚』という酷いもの。
- 「殺生関白」の一族だからという理由だが、誰もそう思わなかった。「畜生は×××××だろう……」と。
- 側室の実家で亡骸を引き取ることも許されなかった。側室には大名の娘も多かったので、秀吉の評判、上も下も等しく下落。
- その塚を整備したのは天竜川の開発で有名な角倉了以である。
- 側室や子供に至っては、殺されてまとめて埋められた後、塚がひとつ建てられたのみ。名も『畜生塚』という酷いもの。
豊臣秀長
- 秀吉の弟。
- 異父弟説と実弟説がある。
- 異父弟説の根拠は、当時の噂としてある公家が日記に書き留めているということと、幼名「小竹」が秀吉の継父の名前「竹阿弥」と通じるかららしい。
- 実弟説の根拠は、秀吉の実父が死んだのが秀長誕生より後のことだったらしいから。秀吉の母が、実父と離婚して竹阿弥と再婚したとは考えづらいので。
- 大河ドラマ「秀吉」で、原作者の堺屋太一が原作本の中でかなりのスペースをとって実弟説を考証していたのに、ドラマになるとその点はガン無視、通説どおり異父弟ということになっていた。
- ただでさえ大河好きのじっさま達の知ってる話とはかけ離れてたから(がんまく=石川五右衛門とか)史実かどうかは別として多少は通説どおりの設定もいれとかねぇと、とでも思ったか。
- 異父弟説と実弟説がある。
- 実は成り上がり距離は秀吉に肉薄し、おそらく齋藤道三や北条早雲を上回る戦国第二位。
- 22歳まで貧しい農民として過ごしていたのに、30年ほどのうちに大和・紀伊のほぼ全域を領する120万石の大大名に。
- 突っ走り気味な兄貴をよく支え、天下盗りを助けた殊勲者。
- 自分の手柄を決して吹聴しようとしなかった。戦国人としては稀有なタイプ。
- そのため地味な印象があるが、実は戦場ではほとんど負け知らず。秀長自身の責任による敗戦は皆無に近い。
- 攻撃も手堅かったが、防衛戦にはもっと強かった。賤ヶ岳で秀吉が勝てたのは、大返しの奇襲効果もさることながら、前線にいた秀長が佐久間盛政の猛攻に耐えて一歩も引かなかったおかげ。
- 秀吉も秀長の働きを大きく評価し、木下家→羽柴家→豊臣家の総収入の中の1割を常に秀長に与えていたらしい。
- 知行300貫の美濃時代は30貫、12万石の長浜城主時代は1万2千石、などなど。
- 島津軍に圧迫されてたまらず上京した大友宗麟を懇切に元気づけ、「うちうちのことは利休に、おおやけのことはこの秀長にお申し付け下され」と言った。弟なのにうちうちのことにタッチしなかったあたりが賢明である。
- 一言で言うと、秀吉のキルヒアイス。
- 秀吉に先立って死去。
- 秀吉は「大納言(秀長)が死んだら豊臣の家はどうなるんじゃあ」と泣き叫んだらしい。その後の経過を見ると、秀吉の本音だったようだ。
- 息子はおらず、姉の子(秀保)を養子にしていた。しかしこの秀保、兄の秀次以上に狂騒人で、結局非業の死を遂げた。
- 小姓に「そこの崖から飛び降りてみよ」と命令したところ、やけになった小姓が秀保を抱きかかえたまま飛び降り、二人とも墜落死した……という不気味な話も。
- その話も秀次を悪人に仕立て上げるために、その兄弟も悪人に仕立て上げた作り話だろう。
- 小姓に「そこの崖から飛び降りてみよ」と命令したところ、やけになった小姓が秀保を抱きかかえたまま飛び降り、二人とも墜落死した……という不気味な話も。
- もともとの名乗りは長秀だったが丹羽長秀に遠慮して秀長にしたと堺屋太一が小説のなかで書いてたけど…実際どうなんだろう?
- 上位者からの偏諱を先にするのが礼儀なので、最初長秀だったのはたぶん本当。紛らわしいから逆にしたのだと思われる。
- ただし「長秀」時代には、この名乗りを用いるような機会はほとんど無かっただろう。
- 上位者からの偏諱を先にするのが礼儀なので、最初長秀だったのはたぶん本当。紛らわしいから逆にしたのだと思われる。
豊臣秀吉
- 猿もしくは禿ネズミ
- 日本初の農民出身の天下人。
- 最初は木下藤吉郎、それから羽柴筑前守秀吉と改名。
- 片手の親指が6本あった。
- 親指が6本て、おいおい。
- 偉大な人物には異常な身体的特徴がある、という中国伝来の通説によって創られた話である可能性もないではない。
- 例えば孔子とか、文献の記述通りならほとんど化け物のような容貌になる。
- いずれにせよ、秀吉の六本指はよく知られた話だったのだが、戦後になって身体障碍者差別がうるさく言われるようになると、誰も触れなくなった。
- 太閤とも呼ばれる。ちなみに、母ちゃんは大政所、嫁は北政所と呼ばれる。
- 太閤というのは関白職を引退して自分の子に継がせた人を呼ぶ一般呼称なのだが、ただ太閤といえば誰もが秀吉をイメージする。
- 中納言の唐称「黄門」が徳川光圀ばかりを意味するのと似ている。
- 太閤というのは関白職を引退して自分の子に継がせた人を呼ぶ一般呼称なのだが、ただ太閤といえば誰もが秀吉をイメージする。
- 子孫はいないと言われる。
- 豊臣秀頼は妾の淀殿との間にできた子供。大坂夏の陣で母子とも自刃し、正妻の千姫(家康の息子で秀忠が父)との間にできた子供は大坂夏の陣後に殺されたり尼寺に入れられたりして、血縁は断絶。
- 揚げ足取りのようで悪いんだけど、その言い回しって「千姫=家康の息子で、秀忠は息子」にも見える。あえて書くなら千姫は「家康の孫。父は秀忠」「『家康の息子の秀忠』が父」の方がわかりやすい。
- 壮年のころ名乗っていた羽柴って苗字は丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ拝借して勝手に名乗った勝手に作った苗字ってよく歴史モノの小説なんかに出てくるが現代の羽柴さんは末裔なのか?ま、確実に末裔ではないと思われる人もいますが…。
- 豊臣秀頼は妾の淀殿との間にできた子供。大坂夏の陣で母子とも自刃し、正妻の千姫(家康の息子で秀忠が父)との間にできた子供は大坂夏の陣後に殺されたり尼寺に入れられたりして、血縁は断絶。
- 覇王。
- 最も有名な下克上の代表例。
- 成り上がった距離日本史上ナンバーワン。
- 永ちゃんもびっくり。
- 成り上がった距離日本史上ナンバーワン。
- 奥さんの名前は「ねね」だったか「おね」だったかよくわからない。
- まあ、漢字の「寧」をなんと読むかはさておき、当時の女性の名前が残っているだけでも上出来だが。
- 個人的には、ひらがな一文字の名前ってのはさすがにないんじゃないかと思う(「お」は名前の一部ではなく「おまつ」「おふく」同様の接頭辞)。
- 秀吉とは、この時代には珍しい恋愛結婚。
- 昔の歴史漫画(学校の図書館にあるようなの)では前田利家と取り合ったことになってたな。
- 秀吉との間に子はできなかったが、側室たちの間柄を調整したり、秀吉の女遊びの手綱を取ったりと、豊臣の家庭を運営していた賢妻。
- 秀吉が人妻(それも大名クラスの)がマイブームになったとき、ターゲットになった女にそれとなく伝えて、ことごとく失敗させたらしい。
- 側室のうち淀君含めて3人が織田氏出身なのが、秀吉の心情というかコンプレックスを表していると思う。
- 意外なことに、公家出身の側室はいない。
- ねねが秀吉を弔うために建立した、高台寺にある蒔絵の模様は秋草が多い。おそらく秀吉の辞世の句由来の意匠で、夫の死後、追憶の中に生きたねねの思いが感じられる。
- 台湾にあると言われた、存在自体が怪しい(アトランティスみたいなの)国に貢物を要求した。
- 養女が狐つきになったとき、狐の総元締めの伏見大社に、「うちの娘から出て行かなかったら、全国の伏見神社を取り潰し、日本中で狐狩りするからそのつもりでね♪」という
脅迫状願文を出したことがある。