「もし総武本線が○○を通っていたら」の版間の差分
ナビゲーションに移動
検索に移動
細 (→街道沿いだったら) タグ: 改変 |
|||
(2人の利用者による、間の16版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{Pathnav|もしあの鉄道路線のルートが○○だったら|[[もしあの鉄道路線のルートが○○だったら/JR|JR]]|[[もしあの鉄道路線のルートが○○だったら/JR東日本/関東地区|関東]]}} | |||
*新規に項目を追加される場合は西から東の順になるようにお願いします | |||
==万世橋を起点としていたら== | ==万世橋を起点としていたら== | ||
*史実でも万世橋駅の設置理由の一つに「総武線方面への延伸」があったらしいが、結局秋葉原駅に取って代わられることになった。 | *史実でも万世橋駅の設置理由の一つに「総武線方面への延伸」があったらしいが、結局秋葉原駅に取って代わられることになった。 | ||
33行目: | 34行目: | ||
#**本八幡方面に向かうのは千葉ニュータウンの計画が変わらない限り史実通り。 | #**本八幡方面に向かうのは千葉ニュータウンの計画が変わらない限り史実通り。 | ||
#*篠崎ではなく「鹿骨」か「鹿本」の可能性も。 | #*篠崎ではなく「鹿骨」か「鹿本」の可能性も。 | ||
#*区役所への交通の便が段違いに良かった(ただし東西方向のみ。南北は史実とあまり変わらない)。 | |||
==京成本線経由だったら== | ==京成本線経由だったら== | ||
55行目: | 57行目: | ||
#総武鉄道が市川まで開業したのが明治27年7月。史実で錦糸町まで達したのが12月。同時期に千住まで達していたと考えると、常磐線の開業はその2年後。総武線が先にあって、後から常磐線がくっついた形になる。 | #総武鉄道が市川まで開業したのが明治27年7月。史実で錦糸町まで達したのが12月。同時期に千住まで達していたと考えると、常磐線の開業はその2年後。総武線が先にあって、後から常磐線がくっついた形になる。 | ||
#*分岐点は新宿駅。 | #*分岐点は新宿駅。 | ||
#*市川-新宿間は快速線はノンストップ。各駅停車の駅は実際の京成小岩・京成高砂・新柴又の中間に鎌倉駅を設置。 | |||
#錦糸町が実際ほど発展してない。 | #錦糸町が実際ほど発展してない。 | ||
#史実の常磐線より南側、京成線に近いルートで、新宿から小菅経由で北千住。 | |||
#史実では総武線は関東大震災後まで山手線に接続できなかったが、常磐線の歴史から考えるに、常磐線が新宿で接続してすぐに北千住-南千住-田端が開通。 | |||
#逆に京成電鉄が現在の総武線に近いルートで秋葉原まで開通。 | |||
#戦前に新宿-日暮里間が複々線化。 | |||
#*日暮里-上野間は史実の5複線+総武本線でなんと6複線。 | |||
#上野東京ライン開通までは房総特急も上野駅地上ホームから発車する。 | |||
#*成田エクスプレスも上野東京ライン開通まで上野行き。 | |||
#**大宮行きは北千住で分離。品川とか遠回りせずに田端貨物線で大宮に向かう。 | |||
#**上野東京ライン開通後は大船行きも新設。横須賀線を通らないので武蔵小杉ではなく川崎に停車。 | |||
#*開通後は常磐線特急と同じく品川始発。 | |||
#北総線は高砂ではなく新宿起点。 | |||
#東武亀戸線は浅草まで繋がってなかった東武が総武線経由で都心に乗り入れようとした路線。総武線が亀戸を通ってないので、当然東武亀戸線は存在しない。 | |||
#新宿駅までがJR東京支社の管轄。常磐線で隣の松戸駅から水戸支社、総武線で隣の鎌倉駅から千葉支社。 | |||
==京葉道路のルートだったら== | ==京葉道路のルートだったら== | ||
111行目: | 127行目: | ||
{{DEFAULTSORT:そうふほんせん}} | {{DEFAULTSORT:そうふほんせん}} | ||
[[カテゴリ:もしあの鉄道路線のルートが○○だったら]] | [[カテゴリ:もしあの鉄道路線のルートが○○だったら]] | ||
[[カテゴリ:歴史のif検討委員会 国鉄・JR史]] | |||
[[カテゴリ:総武本線|もしそうふほんせんのるーとかまるまるたったら|]] | [[カテゴリ:総武本線|もしそうふほんせんのるーとかまるまるたったら|]] |
2023年8月29日 (火) 12:41時点における最新版
- 新規に項目を追加される場合は西から東の順になるようにお願いします
万世橋を起点としていたら[編集 | ソースを編集]
- 史実でも万世橋駅の設置理由の一つに「総武線方面への延伸」があったらしいが、結局秋葉原駅に取って代わられることになった。
万世橋 | ||||
まんせいばし | ||||
御茶ノ水 | 馬喰町 | |||
Ochanomizu | Manseibashi | Bakurochō |
- 留置線がある所が中央・総武緩行線のホームに転用されていた。
- 史実の御茶ノ水駅のように、中央快速線と総武緩行線の対面乗り換えができる構造にはできなかったと思われる。
- 交通博物館閉館時にEF55などをここに持ってくることができなかったのは間違いない。
- おそらく秋葉原駅と同一駅になっていた。
- 但し現在の車両数でもホームの端と端で接する事になるので、史実よりも乗り換えは不便になっている思われる。
- 昭和通り口は開設されなかった。
- 両国までは神田川の南側を通っていた。
- 当然ながら浅草橋駅に相当する駅も神田川の南に設置されるが、こうなるとすぐ近くにある総武快速線の馬喰町駅が史実のような形で開業していたか怪しい。
江戸川区中心部を経由していたら[編集 | ソースを編集]
小松川 | ||||
こまつがわ | ||||
平井 | 篠崎 | |||
Hirai | Komatsugawa | Shinozaki |
- 真偽不明ではあるが実際に鉄道忌避伝説が存在する。
- 亀戸からそのまま直進して江戸川区に入っていた。
- 平井駅の位置が史実より南寄りになっていた。
- 同様にカーブも南寄りになるので、下手をすると史実の市川駅が存在しないかもしれない。
- 本八幡が名実ともに市川市の代表駅になっていた。
- 同様にカーブも南寄りになるので、下手をすると史実の市川駅が存在しないかもしれない。
- 平井駅の位置が史実より南寄りになっていた。
- 「新小岩」という地名は存在しなかった。
- 小岩に関しても京成小岩駅がそのまま「小岩」を名乗っていた。
- 但し史実の新金貨物線が存在する場合は一応レールは引かれていた。
- 新小岩近辺に都営バスが来ることは無く、京成バスが小松川駅まで運行されていた。
- おそらく東小松川と篠崎に駅が出来ている。
- 首都高のIC同様、東小松川地区の駅は「小松川」を名乗っていた。
- あの辺りだと川向こうの小松川より松江という意識が強いだろうから「松江町」とかじゃない?
- 「下総松江」になる可能性もあるのだが、松江の名の由来が「小松川+一之江」なので結局小松川になっていたと思われる。新小岩の仮称も「下総小松」だったらしいし。
- 平井より先にこっちの駅が開業ならその通りかなと思うが、同時もしくは現実の新小岩のように後から開業だと小松川にはならないと思う。名前の由来は小松川+一之江でも両者が合併したわけではなく両者の一部を合わせて別個に松江村が成立しているという経緯なので。
- 旧小松川村の領域は松江村側の方が多くを占めるそうだから小松川なんじゃないの?現に小松川警察署は松江町が出来た後に今の名前に改称しているし。
- 平井より先にこっちの駅が開業ならその通りかなと思うが、同時もしくは現実の新小岩のように後から開業だと小松川にはならないと思う。名前の由来は小松川+一之江でも両者が合併したわけではなく両者の一部を合わせて別個に松江村が成立しているという経緯なので。
- 「下総松江」になる可能性もあるのだが、松江の名の由来が「小松川+一之江」なので結局小松川になっていたと思われる。新小岩の仮称も「下総小松」だったらしいし。
- あの辺りだと川向こうの小松川より松江という意識が強いだろうから「松江町」とかじゃない?
- 篠崎駅の位置は史実の都営新宿線の駅とは異なるはずなので、地下鉄の駅名は「篠崎町」になっていた。
- 本八幡方面に向かうのは千葉ニュータウンの計画が変わらない限り史実通り。
- 篠崎ではなく「鹿骨」か「鹿本」の可能性も。
- 区役所への交通の便が段違いに良かった(ただし東西方向のみ。南北は史実とあまり変わらない)。
- 首都高のIC同様、東小松川地区の駅は「小松川」を名乗っていた。
京成本線経由だったら[編集 | ソースを編集]
- そもそも千葉市は市制施行しているのだろうか。
- 恐らく千葉市の中心駅は蘇我かもしれない。
- 内房線か外房線の起点は船橋でどちらかで千葉駅に行く必要がある。
- 佐倉からは通常の総武本線ルートに
- 恐らく千葉市の中心駅は蘇我かもしれない。
- ほぼ全ての区間で京成と争うことになるのでJRと京成の勝負が激化する。
- 成田エクスプレスは存在しない
- そこだけ京成と協力してスカイライナーに一本化。
街道沿いだったら[編集 | ソースを編集]
- 江戸時代の江戸-千葉間の行程は
- 日本橋から日光街道で千住宿へ
- 千住宿から水戸街道で新宿へ
- 新宿から成田街道で船橋宿へ
- 八千代市経由で直線的に成田へ向かう成田街道と分かれて房総往還で千葉へ
- と脇往還の脇道のさらに脇道でした。
- 稲毛駅より手前は、千葉大学西千葉キャンパスより内陸を通って国道126号のルート。
- 津田沼ではなく袖ヶ浦経由。
- 東船橋ではなく谷津に総武線の駅が設けられた。
- 総武鉄道が市川まで開業したのが明治27年7月。史実で錦糸町まで達したのが12月。同時期に千住まで達していたと考えると、常磐線の開業はその2年後。総武線が先にあって、後から常磐線がくっついた形になる。
- 分岐点は新宿駅。
- 市川-新宿間は快速線はノンストップ。各駅停車の駅は実際の京成小岩・京成高砂・新柴又の中間に鎌倉駅を設置。
- 錦糸町が実際ほど発展してない。
- 史実の常磐線より南側、京成線に近いルートで、新宿から小菅経由で北千住。
- 史実では総武線は関東大震災後まで山手線に接続できなかったが、常磐線の歴史から考えるに、常磐線が新宿で接続してすぐに北千住-南千住-田端が開通。
- 逆に京成電鉄が現在の総武線に近いルートで秋葉原まで開通。
- 戦前に新宿-日暮里間が複々線化。
- 日暮里-上野間は史実の5複線+総武本線でなんと6複線。
- 上野東京ライン開通までは房総特急も上野駅地上ホームから発車する。
- 成田エクスプレスも上野東京ライン開通まで上野行き。
- 大宮行きは北千住で分離。品川とか遠回りせずに田端貨物線で大宮に向かう。
- 上野東京ライン開通後は大船行きも新設。横須賀線を通らないので武蔵小杉ではなく川崎に停車。
- 開通後は常磐線特急と同じく品川始発。
- 成田エクスプレスも上野東京ライン開通まで上野行き。
- 北総線は高砂ではなく新宿起点。
- 東武亀戸線は浅草まで繋がってなかった東武が総武線経由で都心に乗り入れようとした路線。総武線が亀戸を通ってないので、当然東武亀戸線は存在しない。
- 新宿駅までがJR東京支社の管轄。常磐線で隣の松戸駅から水戸支社、総武線で隣の鎌倉駅から千葉支社。
京葉道路のルートだったら[編集 | ソースを編集]
- 現在の東千葉-都賀間に千葉駅が出来る。
- 内房線・外房線は千葉市街を避け、青葉の森の向こうをぐるっと周って蘇我へ。
- 千葉市街がすでに建物が密集しており鉄道を通せる状況になかった。
- 中心部をJRが通らないため、京成千葉線が活躍。
- 市川・船橋でも、JRが通るのは旧来からの市街ではなく海岸線の近くなので、京成の方が便利に。
- 京成:千葉・船橋・市川の市街地を結ぶ通勤電車、JR:千葉以遠からの中距離列車・東京から木更津や銚子など房総半島への輸送・行楽列車とすみ分けていた。
- 千葉までの複々線化はなかったかもしれない。
- 逆に京成線が複々線化。
- より直線的なので、所要時間が短縮できていた。
東金線経由だったら[編集 | ソースを編集]
成東 | ||||
なるとう | ||||
求名 | 松尾 | |||
Gumyo | Naruto | Matsuo |
- 外房線は大網始発になっていた。
- 史実通りだと成東でのスイッチバックが必要になるので、成東駅は史実より西に建設されていた。
- 外房線の大網スイッチバックも最初からなかった。
- 大網白里市は大網市として市制していた。
- 八街市はいまだに町のまま。
- 成田鉄道八街線が成東まで延びていた。
- 本千葉駅が千葉駅になっている。
東金街道・東金経由だったら[編集 | ソースを編集]
- 東金線はなかったかもしれない。
- 外房線は東金で分岐し、ここから大網・茂原に向かうルートになっていた可能性も。
- この場合、土気町は大網町と合併していた。
- そのまま千葉市に編入の場合、市内ダントツのど田舎に。
千葉~成東を直線に結んでいたら[編集 | ソースを編集]
- 成田線は千葉で分岐し、千葉~佐倉は成田線になっていた。
- 特急「しおさい」の所要時間は短縮されていた。
- 千葉~成東の停車駅はノンストップ、または1駅だけになってる。
- 若葉区がもう少し発展しており、千葉都市モノレールの千城台駅近くに総武本線の駅ができていた。
- 千葉都市モノレールのルートも少し変わっていた。
- 八街駅は史実より南にできていた。
- 旧源村を通り、おそらくは駅ができるため、分割合併や東金市の大きい飛び地はなかったかもしれない。
- 一方で佐倉には成田エクスプレスが停車していた。
芝山経由だったら[編集 | ソースを編集]
芝山 | ||||
しばやま | ||||
富里 | 多古 | |||
Tomisato | Shibayama | Tako |
- 佐倉・酒々井から国道296号線沿いを通って八日市場に向かっていた。
- 東金線は八日市場が起点。成東駅はただの中間駅だった。
- その東金線は九十九里線に改称。
- 東金線は八日市場が起点。成東駅はただの中間駅だった。
- 成田鉄道多古線はなかった。
- 芝山鉄道も建設されない。
- 芝山はとっくに市制施行している。
- 芝山仁王尊の知名度が上がる代わりに、成田山新勝寺の参拝客が減少していた。
- 富里市や多古町の人口はもっと多かった。
- 八街の市制施行もなかったか、現実より遅れた。
- 富里駅は史実の根木名駅の位置に設置され、三里塚駅が芝山駅を名乗っていた。
- 当然ながら成田鉄道八街線の富里駅は別の駅名で開業。
- 成田空港の開業で成田線の空港支線が芝山まで延伸し接続。