「もし東北本線が日光街道沿いに敷設されていたら」の版間の差分
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2021年3月1日 (月) 12:34時点における版
中山道沿い
- 東京-御茶ノ水-本郷-白山-巣鴨-板橋-志村-戸田-蕨-浦和-大宮
巣 鴨 | ||||
すがも | ||||
御茶ノ水 | 板橋 | |||
Ochanomizu | Sugamo | Itabashi |
- 明治18年開通の山手線は、品川-渋谷-新宿-目白-板橋。十条と赤羽はない。明治36年開通の池袋-田端間もない。
- 常磐線は?
- 現在のような「上野駅」も、アキバも存在しない(笑)。
- 新幹線の停車駅は東京と大宮。
- 高崎線と宇都宮線の停車駅は、東京・御茶ノ水・巣鴨・板橋・浦和・大宮
- 井沢八郎の「ああ上野駅」は存在しなかった。彼の人生は違った軌跡を辿り、工藤夕貴もこの世に存在していない。
- ♪上野発の夜行列車~の「津軽海峡冬景色」も、ない。
- 「AKB48」は、存在しない。
- 秋葉原は総武線があるのでは?
- 両国と御茶ノ水に挟まれた地味な駅になっていた可能性が。
- 常磐線の起点駅(当初は田端だった)は、巣鴨駅になっている。
- 御茶ノ水じゃない?んで、上野が中間駅になっている。
- 京成の起点は本郷。
- 神田とかでも
- んで、常磐線は、東京まで乗り入れることに…
- 東武東上線の起点駅は板橋駅になっている。
- 板橋から高島平を経由して和光市へ向かう。
- 成増と赤塚には有楽町線しか通らない。
- 武州鉄道が板橋まで延びている。
- 板橋から高島平を経由して和光市へ向かう。
- 西武池袋線の起点駅は目白駅で、「西武目白線」となっている(笑)。
- 池袋駅は存在するが、おそらくは、たいした駅ではない。
- 赤羽・王子にとって、地下鉄南北線こそが貴重な足となる。
- 埼京線は、渋谷-新宿-目白-板橋-志村-戸田-大宮ルート?
- 都営三田線は、志村(坂上)-高島平間のみ?(笑)
- 丸の内線と有楽町線の起点は、板橋と目白。
- 日比谷線は上野から、日暮里・町屋を経由して西新井で伊勢崎線に合流。
- 西新井で合流は無い。北千住合流のまま
- そもそも開業当時は東京駅が存在しないんだから、本郷か白山あたりに上野に相当するターミナルができていた。
- 旧加賀藩屋敷(現在の東大)あたりがターミナルとしては適当か。
- 常磐線のターミナルなら千住。
- 勾配を避けるために「下町線」が建設され、後に山手線と合わせて環状運転が行われる。
- 与野駅は文字通り与野市内にあった。
- いや、旧中山道(r164鴻巣桶川さいたま線、R17現道とは異なる)は旧与野市を通っていないので、これに関しては現実と同じだと思うよ。
日光街道沿い
東北本線は、中山道に沿って敷設された上野・前橋間鉄道(現:高崎線など)より大宮で分岐する形で敷設されたために現行ルートとなりましたが、では同線が千住から栗橋まで日光街道・奥州街道沿いに敷設されていたら?
春日部 | ||||
かすかべ | ||||
一ノ割 | 北春日部 | |||
Ichinowari | Kasukabe | Kita-kasukabe |
南越谷 | ||||
みなみこしがや | ||||
蒲生 | 越谷 | |||
Gamō | Minami-koshigaya | Koshigaya |
- 越谷が埼玉県の県庁所在地になる。
- 越谷市・春日部市・岩槻市・庄和市・松伏市が合併して「さいたま市」誕生。
- 行田市はさほど反発しなかった。
- 越谷と春日部が現実の浦和と大宮のような関係になっていた。
- 浦和はともかく大宮が現実のような地位(人口50万規模の商業都市、また「東北の玄関口」として機能)を築けなかったことは断言できる。
- ↑の場合大宮は市制施行が遅れ(史実は戦前の1940年)、「大宮市」の名称を他府県の地域が名乗っていた可能性が高い。戦後になり東京のベットタウンとしてようやく発展し始め「武蔵大宮市」or「東大宮市」or「氷川市」として市制施行した。
- 埼玉県内最大都市は県庁所在地・浦和市(現実の合併前もそうだったが)で変わらなかったが大宮が発展しなかった分、浦和市の人口は現実よりも多かったと思われる。一方大宮は人口30万に届かず、多くても現実の春日部・上尾レベルの人口だった。
- 草加・越谷・春日部は東北本線の沿線だが、いずれも他の主要幹線の乗換駅にでもならない限り、現実とさほど変わらなかった。
- 1883年の日本鉄道上野~熊谷間開業前の1871年には浦和宿に埼玉県庁が置かれているので、時期的に「越谷が埼玉県の県庁所在地になる」のは限りなく可能性が低いと思うけど。
- 越谷市・春日部市・岩槻市・庄和市・松伏市が合併して「さいたま市」誕生。
- 高崎線は春日部から分岐し、中山道から離れた場所を通っていた。
- もともと中山道線として東北本線より先に敷設されたわけだから、起点駅(板橋か上野、千住)で分岐していたのでは?
- 東北本線(東京~春日部~栗橋以北現ルートと同じ)と高崎線(現ルートと同じ)の共通区間が存在しない(現ルートでは上野~大宮)ので、両線ともにダイヤに余裕が生まれ、上尾事件のような乗客による暴動は起きなかった。
- 東武伊勢崎線は池袋-中山道-鴻巣-羽生-伊勢崎の路線となっていた。日光線は大宮で分岐。
- 東上線が離れ小島になることはなかった。
- 東武鉄道そのものが存在すらしていなかった可能性もある。東上線は「東上鉄道」のまま。
- 南北線・埼玉高速鉄道(武州鉄道)と同じく鳩ヶ谷・岩槻・蓮田を経由したと思う。
- らき☆すたでかがみ、つかさは登場しなかっただろう。鷲宮町から春日部市まで直接行ける交通手段が無いから陵桜学園に通学していない。
- 北千住を通ることになるので常磐線は北千住始発に
- 北千住から上野まで複々線ないし6線にて乗り入れるのでは?現在の上野・日暮里間が北千住まで延びるだけだと思いますけれど。
- 京浜東北線は越谷か春日部が終端となっていた。
- 武蔵野線開業時に南越谷駅が設置される。
- あるいは横浜・川崎・東京方面から高崎線(中山道沿い)の川口・蕨・浦和方面に乗り入れた可能性も大いにあり(県都・浦和を通るため)。この場合、名称は京浜「東北線」ではなくなる。
- 東北新幹線は越谷から西よりルートで東京に達した。
- 越谷ではなく春日部に駅が設置された可能性がある。
- 埼京線は現在の日暮里・舎人ライナーとほぼ同じルート。
- 武蔵野線との交点に武蔵越谷駅が開業していた。
- 東北新幹線は越谷or春日部付近に駅はできただろうが、規模は現実の大宮駅ほどの規模にはならず、最速達のはやぶさ号は全列車東京~仙台ノンストップに。その上、現実の大宮経由のルートよりも距離を節約できるため、東北各地⇔東京はもっと時間短縮ができたかも。
- 上越新幹線は現実に近いルート(中山道・国道17号沿い)を辿ったが駅は大宮ではなく県都・浦和市内に置かれた。また東北新幹線と上越新幹線の共通区間がないため、現実のような線路容量逼迫の問題に直面しなかった(現実には北陸・北海道新幹線開業後に大宮始発便が設定されると噂されるが)。
- 上越新幹線が新宿駅に乗り入れていた。
- 上越新幹線の本来の起終点は新宿駅らしい。
- 東北・上越新幹線の埼玉県内での110km/h運転という事態は発生しなかった。
- 上越新幹線が新宿駅に乗り入れていた。
- 久喜市よりも幸手市のほうが人口が多かった。というより久喜市は生まれなかった。
- 史実とは逆に久喜が栗橋に吸収合併されていた。
- そもそも現実でも新設合併だけどね。吸収じゃなくて。しかも新設合併という言葉は俗語で法令上は対等合併。
- 川越線と野田線は春日部が起点になっていた。
- 総武鉄道は京成に併合されていた。
- 実質埼玉の野田市~春日部間は複線化されていた可能性がある。春日部以西は暫く単線だったが、やっぱり荒川越えないし今2019年ぐらいの時期に複線化工事を始める。
- 現足立区のイメージ(?)は現実よりもかなり都会的なものとなっていた。。
現実の東北新幹線と同じルート
- 市の中心から離れている駅ばかりなので反発を受けていた。
- 東北本線の茨城県に駅が2つあったかも。
- 五霞駅か
- 少なくとも伊奈町は市制されていたか?
- 七戸十和田駅ではなく七戸駅が存在していた。
- 大湊線は七戸か八戸が起点だった。
- 南部縦貫鉄道は存在せず。
- 十和田観光電鉄も三沢方面と十和田方面で別々の路線だった。
- 大湊線は七戸か八戸が起点だった。
- 青森空港のアクセス駅も開業。
- この場合、赤羽~大宮間は史実の埼京線と入れ替わる事に。
- さいたま市の市街地が西寄りにずれる。
- 与野本町駅が与野駅を名乗っていた。
- 戸田と川口の立場が逆転していた。
- 一ノ関-盛岡間は北上を除いて北上川の東岸を通るため、平泉、水沢、花巻を通らない。
- 現在の奥州市は水沢よりも江刺の方が発展した。
- 釜石線は新花巻が起点になっていた。
- 栗原電鉄はくりこま高原駅から分岐していた。
- 古川と小牛田の立場が逆転していた。
- 利府支線はなく、かわりに仙石東北ラインの一部として松島支線が存在した。
- 西郷村が白河市を名乗っていたかもしれない。
- 南栗橋に駅が出来、東武日光線との乗り換えが便利に。逆に久喜は今の南栗橋のように&東北新幹線のホームがあったかもしれない
川越・館林経由
東北本線
- ルートは赤羽-富士見-川越-坂戸-東松山-吉見-鴻巣(北鴻巣駅辺り)-行田-羽生-館林-佐野-栃木-壬生-宇都宮-…辺りか?
- 東武東上線のルートは大宮市経由になっていた。
- 東松山-今泉-川島-指扇(現実の西大宮駅辺り)-三橋-大宮-…。
- 大宮市と川越市の立場が逆になっていた。
- 大宮市は氷川神社の門前町のイメージのまま。
- 川越市と富士見市は現実の大宮と浦和のような関係になった。
岩槻・幸手経由
上野・前橋間鉄道(現:高崎線など)から分岐する形で東北本線の計画が立てられた際、現行ルートのほかに川口で分岐し、岩槻・幸手を経由して敷設する案なども立てられましたが、結局は井上勝の主張によって今のルートに定まりました。
ではもしこの案が採択され、東北本線が川口分岐、岩槻・幸手経由となっていたら?
東北本線
幸 手 | ||||
さって | ||||
杉戸 | 栗橋 | |||
Sugito | Satte | Kurihashi |
- 川口駅が分岐駅として重責を負い、ここに鉄道工場や操車場が設けられ、昨今になって神田から鉄道博物館が移動してきた。
- 大宮駅は今なお開業していない。
- 埼玉県の中心は浦和か川口であり、それに岩槻を合わせてさいたま市が発足していた。
- 合併はともかく、岩槻市は旧城下町であることに加え、東京と鉄道で直結することになるので、現実の川越市(約35万人)並みに発展した。
- 現実以上に岩槻が観光地化されていた。
- 当初の予定通り岩槻に県庁所在地が置かれなおしていたかもしれない。
- 現実以上に岩槻が観光地化されていた。
- 東北本線沿線に発展が進んだため、沿線の安行村や神根村は川口市に編入されずに市制施行した可能性も否定できない。一方、川口市は合併で市域を拡大できず、市域人口は現実より少なかったかも。
- 日光御成街道大門宿付近にも東北本線の駅が設置され、大門村も東京のベッドタウンとして発展、浦和市に編入されずに市制施行した。
- 東北自動車道浦和ICは「大門IC」という名称となっていた。
- 埼玉スタジアム2002は現在地とは別の、浦和市内に建設された。
- 日光御成街道大門宿付近にも東北本線の駅が設置され、大門村も東京のベッドタウンとして発展、浦和市に編入されずに市制施行した。
- 合併はともかく、岩槻市は旧城下町であることに加え、東京と鉄道で直結することになるので、現実の川越市(約35万人)並みに発展した。
- 川口と浦和が現実の大宮と浦和のような関係になった。
- 新幹線の駅も川口にあった。
- 「今なお」って言うことはさすがにない。高崎線の途中駅として開業していたが発展はしなかった(詳しくは「日光街道沿い」の項目に書いてあるが)。
- 埼玉県の中心は浦和か川口であり、それに岩槻を合わせてさいたま市が発足していた。
- 東武日光線と東北本線が交差する駅は杉戸駅(→東武動物公園駅)であり、ここへ昨今になって「きぬがわ」「日光」のための連絡線が設けられた。
- 久喜と幸手では幸手の方が地位が上である。
- そして東武動物公園(杉戸)から栗橋辺りまで、両線が並行していた。
- 後述する理由で駅名は現在でも「杉戸」。ただ岩槻から幸手へ抜けることを考慮すると、線形の関係から現在地よりも北、杉戸高野台よりの位置に設けられた可能性も高い(宮代町でなく名実ともに杉戸町に属する)。
- 常磐線が当初計画どおり、川口分岐となる可能性も高まっていた。
- 川越線も浦和か岩槻分岐となっていた。
- 岩槻起点なら高崎線との乗換駅として大宮駅は開業する。
- 京浜東北線は岩槻か杉戸が終点であった。
- 東武との競合は現実以上に熾烈となった。
- よって東北本線には快速列車等が充実し、現実以上に高速化されていた。
- 東武との競合は現実以上に熾烈となった。
高崎線
- 川口・浦和・高崎間の路線となる。
- 上尾事件は、現実の浦和辺りで発生したかも。
東武鉄道
- 野田線の起点は大宮ではなく、岩槻となっていた。
- 杉戸を東北本線が経由するため、駅名を東武動物公園と改称することはなかった。
- 先述した理由で国鉄→JRの駅に寄り添うため、杉戸付近では路線が蛇行している。
- 半蔵門線の久喜止まりは設定されず、南栗橋止まりに一本化されていた。
- 伊勢崎線の系統は、久喜ではなく杉戸で分断されていた。
熊谷・足利経由
東北本線の計画が立てられた際、当初は殖産興業を推進すべく、既に開業していた上野・前橋間鉄道の途中にある熊谷より分岐し、養蚕地である太田・足利・佐野・栃木を経由しての敷設も検討されましたが、結局は最短ルートとなる大宮分岐の案が採択されました。
ではもし、この案が採用されて東北本線が熊谷経由となっていたら?
東北本線
足 利 | ||||
あしかが | ||||
太田 | 富田 | |||
Ōta | Ashikaga | Tomita |
- 東京・上野・熊谷・栃木・宇都宮…青森というルートになる。
- 大宮駅は開業していない。
- よって埼玉の中心は名実共に浦和であり、さいたま市も発足せずに未だに浦和市を名乗っていたかも。
- 浦和市大宮区が存在した可能性もある。
- 浦和を通過する列車など考えられなかった。新幹線の駅もここに設けられた。
- 鉄道工場、操車場、博物館は熊谷に設置されていたかも。
- んなわけあるか。仮にも氷川神社の門前町なんだから駅くらいあるだろ。
- 明治16年の開業時には実際になかったわけだが。まあ、その後の新駅開設の動きに合わせて設けられた可能性はかなりあるが、早くて明治末だと思う。
- 宿場で駅がなかった桶川が大宮とほぼ同時(というか若干早く)に開業していることを考えると分岐していなくても開業時期はあまり変わらなかった可能性が高い。上尾・浦和間は他と比べても駅間が長い上、対抗馬も見当たらないので。
- 明治16年の開業時には実際になかったわけだが。まあ、その後の新駅開設の動きに合わせて設けられた可能性はかなりあるが、早くて明治末だと思う。
- さすがに駅はあるだろうが、路線は高崎線(もしかすると京浜東北線)のみの乗客人員5万人程度の駅だったかも。
- 駅も一の鳥居近く(史実のさいたま新都心駅やや北)になっていたかもしれない。
- よって埼玉の中心は名実共に浦和であり、さいたま市も発足せずに未だに浦和市を名乗っていたかも。
- 輸送量が増大したため、上野から熊谷まで複々線になっている。
- 上尾事件は起こらずにすんだかも。
- 高崎線籠原行きの電車はなく、熊谷止まりだった。
- 小山より栃木の方が地位が高かった。
- 東北本線は茨城県ではなく、群馬県を通っていた。
- 余りに遠回りであるため、大正から昭和にかけて結局は大宮・栃木間の短絡新線、ないし日光街道沿いの路線が敷設され、そっちに本線が切り替えられたかも。
- その場合、熊谷から栃木までが両毛線となっていた。
- そうなれば、熊谷に両毛線が走るということで「群馬県熊谷市」というネタができていた。
- 開業した途端、国府津や松田のごとく旧線沿線の街が衰退した。あるいは一気に東武中心の街へ変わった。
- その場合、熊谷から栃木までが両毛線となっていた。
- 京浜東北線は大宮ではなく、浦和が北端となっていた。
- 大宮分岐で新線が開業した時、大宮に延伸された。
- 壬生あたりに宇都宮貨物ターミナル駅ができる。
- 砂利線接続のため規模が現実以上に大きかった。
- 下野市成立時の合併に壬生町も加わっていた。
- 「壬生市」になったかもしれない。
- 代わりに南河内町か国分寺町のどちらかが合併されなかった可能性あり。
- 茨城県古河市側に東武日光線が通っていた。
高崎線・信越本線・上越線
- 熊谷から高崎までの路線となる。
- っていうか熊谷~宮内が「武越線」になっている。
- 信越本線があったんだから上越本線でも可。実際に大宮~宮内をそういう名称にする話は合ったらしい。
- あるいは信越本線の起点が足利になり、前橋で上越線が分岐する。
- その結果高崎線という路線は存在せず、さらに高崎でなく前橋が交通の要衝になるので群馬県における前橋の覇権が確立される。
両毛・水戸線
- 両毛線はなく、新前橋から足利までが前橋線とでも名乗っている。
- 水戸線は栃木起点であった。
- 小山の短絡線がないので「つくばね」が小山駅にも停車していた。
東北新幹線
- 大宮駅はもちろんないが、遠回り過ぎるため浦和駅から直線ルートをたどって栃木に抜けたかも。
上越新幹線
- 熊谷に停車する「とき」・「あさま」の本数は多かった。
- 北陸新幹線開通後は「かがやき」も停車していただろう。
東武鉄道
- 伊勢崎線は東京から太田・足利・佐野方面への客を巡り、国鉄→JR東日本と競っていた。
- 一方で、日光線による栃木・日光への客はJR経由だと遠回り過ぎるため、初めから独占となった。
- もちろんJRとの直通運転など考えられなかった。
- そのうち東京メトロ半蔵門線経由で渋谷・中央林間に向かう特急が運行される。
- もちろんJRとの直通運転など考えられなかった。
- 野田線も浦和に発着していた。
- 宇都宮線や小泉線の西小泉支線、それに熊谷線は敷設されなかった。
- むしろ栗橋—古河—小山—(東武)宇都宮が東武宇都宮線。
- 戦時中に日光線の一部区間が単線化されなかった。
- または終戦後東松山方面に熊谷線が建設される。
宇都宮-矢板間が長久保経由
- 烏山線は直接宇都宮に出る。
- あるいは川島駅が起点。(前身の会社の当初案はこう。)真岡を通るので真岡鉄道になっていたかも。
- 岡本駅と宝積寺駅の地域は鉄道とは無縁。
現実の常磐線のルート
- 史実の東北本線は「宇都宮線」か「野岩線」で開業。
- 北千住で分岐して日光街道沿いを通っていたかもしれない。
- 全線複線化されていた。
- 宇都宮市より水戸市の方が発展していた。
- 福島県内も中通りと浜通りの立場が逆転。
- 東北新幹線に関しては言うまでもない。
- 柿岡に地磁気観測所が移転することはなかった。
- 上野〜日暮里〜三河島〜南千住や石岡〜友部〜水戸の迂回が不思議がられる。
現実の東北自動車道のルート
- 南側は下記岩槻案、佐野から先は熊谷分岐案と同じ。
- 仙台より北は古川・栗原経由と同じ。
- 市街地を避けて建設していたので当初は収益が上がらないかも。
- 東北自動車道は別ルートで建設された。
- 館林で高崎方面と分岐。
- 水戸線の起点は栃木。
- 史実で花輪線の建設が始まる1920年代に八戸への鉄道建設が始まり、1930年代になって開通。
- 烏山線の起点は史実の宇都宮ICの場所。(宝木駅?)
- 現実の喜久田駅が郡山駅と名乗っていた。
- 阿武隈急行の起点は村田。
- もしくは岩沼の方へ向かっていた。
- 現実の岩沼~仙台間は常磐線の一部になっていた。
- もしくは岩沼の方へ向かっていた。
- 小坂鉄道は小坂駅から精錬所までのみ。
- 24系客車あけぼの用の保存先が変わっていたか、海外譲渡されていた。
- 奥羽本線とは津軽湯の沢駅で合流。
- 分岐駅として明治時代の内に開業していた。
- 津刈駅として開業し、平成初期に津刈温泉駅へ改名していた。
- 分岐駅として明治時代の内に開業していた。
丸森・角田経由
東北本線の福島〜槻木間は奥州街道沿いのルートが採用されましたが、当初は阿武隈川沿いの保原・梁川・丸森・角田を経由する予定でした。
- 丸森線(→阿武隈急行線)が東北本線になっていた。
- もちろん複線。
- ただし駅数は現実より少ない。
- 東船岡駅が船岡駅を名乗る。
- 強風の影響をあまり受けずに済む。
- 船岡の桜が鉄道ファンに注目されることはない。
- 山梨県の梁川駅は「甲斐梁川」駅として開業。
- 伊達市の誕生が早まった。
- 丸森も市に昇格していた。
- 丸森駅の位置が史実と同じだった場合、駅名が磐城舘矢間駅、自治体名も舘矢間市か伊具市になっていたかも
- 保原町が単独市制を施行して、伊達市は出来なかったと思う。
- そもそも伊達という市町村名すらできていなかった可能性が高い。
- 現実では長岡村にある長岡駅が郡名由来の伊達駅に改称→町政施行後の町名を駅名から拝借し伊達に決定、という流れがあるため。
- 旧伊達町ポジションは伊達郡瀬上町が担っており、桑折町の南側は未だに伊達郡伏黒村だった。
- 瀬上の一大住宅地を失い、福島市の人口は史実よりかなり減っている。
- むしろ国見と桑折は福島市に編入していた。
- 瀬上の一大住宅地を失い、福島市の人口は史実よりかなり減っている。
- そもそも伊達という市町村名すらできていなかった可能性が高い。
- 丸森も市に昇格していた。
- 福島交通飯坂東線は初めから存在しなかった。
- その代わり白石に福島交通の路線が出来ていた。
- 福島盆地を眺めながら国見峠を国道4号に並走して越える路面電車は高度成長期に廃止になった後も鉄道ファンに語り継がれる絶景路線となっていた
- その代わり白石に福島交通の路線が出来ていた。
- 槻木または角田(あるいはその両方)から白石へ私鉄が建設される。
- その後仙台~福島を結ぶことを企てる(おそらく実現はしない)。
- 白石以南は福島交通に接続か?いずれにしても国見越えは難工事となる
- その路線の白石駅の近くに東北新幹線白石蔵王駅(北海道や熊本との同名回避のためこの名前に)が開業していた。
- 角田・丸森(東北線開通で史実よりも人口が多い)と熾烈な誘致合戦となる
- 国鉄白石線として槻木~白石間に開業した可能性もある。史実の丸森線のように輸送改善が十分行われず特定地方交通線になった可能性は高いけど。
- その後仙台~福島を結ぶことを企てる(おそらく実現はしない)。
- 特急「はつかり」は運転開始当初から東北本線経由で運行されていたかもしれない。
利府経由
かつて東北線は利府ー品井沼間を山側を通っていました
- 松島に行く仙石線の重要度が高まっていた。
- 松島町の市街地が山側に寄っていた。
- 愛宕駅は設置されない。
- 当然、仙石東北ラインはない。あるいは岩切から新線を引いていた。
- 西塩釜まで塩釜線を使っていた。
- 赤沼信号所が駅に昇格するかは微妙なところ。
古川・栗原経由
北仙台 | |||||
きたせんだい | 北山 | ||||
仙台 | Kitayama | ||||
Sendai | Kita-Sendai | 陸前泉 | |||
Rikuzen-Izumi |
東北本線の仙台から一ノ関までの区間は松島や小牛田を経由していますが、もし同区間が奥州街道沿いに敷設され古川・栗原経由となっていたら?
- 史実の仙台鉄道よりは駅が少なかった。
- 古川市が周辺町を合併しても大崎市に改称されなかった。
- 旧古川市時代のうちに単独で人口10万人を突破し旧石巻市と肩を並べ、「宮城県第2の都市」を自認していた
- 対する小牛田町は史実ほど人口集中せず、「遠田市」の市役所は涌谷にあっさりと決まって丸く収まっていたかもしれない
- 旧古川市時代のうちに単独で人口10万人を突破し旧石巻市と肩を並べ、「宮城県第2の都市」を自認していた
- 陸羽東線と石巻線は古川が起点になっていた。
- 東北新幹線開業を見込んでの駅移転はない。
- 古川運輸区は酒田から気仙沼までの非電化区間を所管する一大拠点で、史実の小牛田町に代わって「鉄道の街」と称していた
- 北仙台を通るため仙山線の正式な起点は北仙台に。
- 東照宮駅は存在しない。
- 「七北田」駅ができて、のち「陸前泉」となった。
- むしろ七北田村が根白石村を編入して七北田町→市→区になっていたかも
- いや、泉市(七北田市?)は仙台市に編入されずに現存していた(現実の合併には鉄道のない泉へ地下鉄開通が絡んでいた)。人口も現実(約21万人)より多かった。
- むしろ七北田村が根白石村を編入して七北田町→市→区になっていたかも
- 「栗原駅」はこちらにできていた。(史実では尾道鉄道に存在した)
- 栗原電鉄はここが起点となり、新幹線の駅も併設されていた。
- 地区名を考えると築館駅が妥当か(旧栗駒町に栗原地区がある)
- 気仙沼線は築館~若柳~佐沼~米谷~志津川~気仙沼と人口集積地を結ぶ路線になっていた。のちに東北新幹線との交点にくりこま高原駅ができていた
- 仙台市営地下鉄南北線は利府-岩切-仙台-富沢の路線となる。
- 史実の泉市のように地下鉄をバーターにして利府町が仙台市と合併していたかもしれない
- 塩釜線が仙台起点で、旅客営業期間も史実より長かった。
- むしろ仙石線との重複から戦後まもなく廃止されていた可能性も
- 仙台駅の設置場所はあっさり現在地に決まっていた。
- 富谷町はとっくに市制施行。大和町も「吉岡市」として市制施行していた。
- 人口増加の割にモータリゼーションは史実ほど顕著ではなく、国道4号線の4車線化はむしろ遅れていた
- 台原や富谷、高清水の丘陵地帯は急勾配対策の設計が困難を極め、開業後も福島市周辺のように蒸機の重連運転や補機連結が日常的に行われていた
- 鹿島台村の鎌田三之助村長らが中心となって塩釜~松島~鹿島台~不動堂に軽便鉄道の「松島軌道」を開業させるが鹿島台の度重なる水害で昭和20年代に廃線となる。塩釜~松島間は宮城電鉄→仙石線に移管される
- 仙台鉄道は存在しないか中新田(現西古川)~加美中新田間のミニ路線だが、陸軍の要請で陸前大衡~王城寺原演習場には省線の貨物支線が建設される(終戦後に廃止)
十和田(三本木)経由
東北本線二戸以北は技術・軍事上などの理由で八戸・三沢回りとなっていた。もし奥州街道沿いに敷設され十和田経由となっていたら?
- ルートは 二戸 - 三戸 - 五戸 - 十和田 - 七戸 - 野辺地。
- 諏訪ノ平駅の先は北(五戸)方向へ。剣吉・苫米地・北高岩駅は存在せず。
- 代わりに剣吉(新)、浅水、五戸、南三本木、十和田、洞内、七戸、天間林、千曳(新)駅がある。剣吉(新)は国道4号付近、千曳(新)は史実の西千曳付近。
- 八戸線・新幹線への影響
五戸 | |||||
ごのへ | 南三本木 | ||||
浅水 | Minami-Sanbongi | ||||
Asamizu | Gonohe | 豊崎 | |||
Toyosaki |
- 八戸線が五戸から分岐、五戸は起点となる。
- 駅は五戸ー豊崎ー尻内ー長苗代ー本八戸(以下略
- 南部鉄道は最初からバス会社である。もちろん会社名も南部バス。
- 五戸は鉄道の町としてとして栄えてきた。
- すでに「五戸市」となったかも。
- 東北新幹線八戸開業すると五戸は衰退。
- そもそも八戸には開業せずストレートに並走するかと。
- ならば「金田一トンネル」は斗米~三戸間、その先の十和田までは「五戸トンネル」になるかも。
- 八戸線との交点に新八戸駅が出来ていた可能性も。
- 直線ルートで二戸〜七戸十和田まで駅がなかったかも。
- 線形上、七戸を経由せず、十和田を出るとすぐ西へ曲がるかも。そして八甲田トンネルも現実より南の方に。
- 五戸と十和田との誘致合戦の結果、「五戸十和田」駅が誕生。
- そもそも八戸には開業せずストレートに並走するかと。
- 八戸線が諏訪の平から分岐することもありえる。
- この場合、八戸線は剣吉、苫米地、北高岩、尻内経由となる。
- 三戸町大発展。南部町と合併して三戸市になったかも。
- 新幹線駅は二戸にするか、三戸にするか、岩手と青森がもめた。
- 八戸・三沢と青森を連絡するため、南部縦貫鉄道は史実以上に重要になる。
- もし東北新幹線が八戸まで部分開業したら、どこまで(諏訪の平、八戸線尻内、または東北本線十和田)を第3セクターにするか、大いにもめた。
- 在来線は盛岡から十和田・青森間を三セク化されたら、八戸線も花輪線や飯山線の状態になる。
- 新幹線が史実通り八戸(尻内)経由の場合、在来線よりも長くなった。
- この場合、七戸十和田駅は新幹線と東北本線の交差点付近に新規設置した。
- 新幹線が八戸(尻内)まで開業すると、特急は二戸発着(上越妙高みたい)。
- 南部縦貫鉄道も八戸(尻内)駅まで乗り入れる。
- または八戸駅〜三沢のパスを新設する。
諏訪ノ平 | |||||
すわのたいら | 西剣吉 | ||||
三戸 | Nishi-Kenyoshi | ||||
Sannohe | Suwanotaira | 剣吉 | |||
Kenyoshi |
- 南部地方の都市と私鉄への影響
- 八戸と十和田の立場は逆転。
- 八戸が6万人、十和田が23万人となる。
- 十和田湖の観光は現実より人気となって、十和田市が賑わっている。
- 十和田観光電鉄は十和田~十和田湖間。経営がずっと良くなる。
- それどころか三沢空港まで延伸した。
- 十和田町(現実の十和田湖町)と合併するまで「三本木市」のままだったかも。
- 三沢市は市政施行どころか町政施行できなかったかもしれない。(実史は1948年に三沢村が大三沢町に、1958年に大三沢町が三沢市になっている。)
- 南部縦貫鉄道は(野辺地~)千曳~上北町の鉄道となる。
- さらに八戸(また本八戸)に延伸したかも。
- 千曳は「東千曳」となる。
- 野辺地から青森まで乗り入れたかも。
- 国有化されたかも。
- 新幹線が八戸経由新青森まで開業した場合、八戸~青森間の連絡が便利になって、南部縦貫鉄道は赤字に転落。
- 三沢は現実より著しく衰退した。
- 八戸自動車道は「十和田自動車道」として建設された。ルートは一戸ICからまっすぐ北上する。
青森市街地経由
東北本線青森・野内間は、1968年10月1日の「ヨンサントオ」ダイヤ改正によって、従来の市街地を通る路線から、南側を迂回する路線に切り替えられて複線電化されましたが、もし従来線のまま複線電化がなされていたら?
浦町 | ||||
うらまち | ||||
● | Uramachi | ● | ||
浪打 Namiuchi |
青い森鉄道 | 青森 Aomori |
- 高架で開業していた。
- 当然、浦町駅・浪打駅は廃止されなかった。
- 実史ではサンロード青森内にある「RAB学苑」の無料送迎バスが青森駅方面から運行されているが、それが、浦町駅発着となっていた。
- 浪打駅は、夏休み期間中は近くにある合浦海水浴場に行く人たちで、混雑している。
- また、青森競輪場が新城に移転するまでは、競輪場の最寄り駅として機能していた。
- 青森競輪場の新城移転後、競輪場無料送迎バスが、浪打駅前を経由した。
- 青森操車場(後の青森機関区)も、現実のより市街地側に開設されていた。
- 一方で東青森駅は開業せず、実在しているJR貨物東青森ターミナルは、別の場所で開業していた。
- 青い森鉄道の車両基地も…。
- そして、現実に開業した小柳駅や矢田前駅も開業せず、別の駅が開業していた可能性があった。
- 青森市街地南部の開発は、現実より早く進んでいた
- 青森中央大橋の建設や旭町地下道の建設も無かった。
- 「線路通り」は存在しない。
- 「線路通り」ってもっと昔の経路変更じゃね?
- ↑そうなの?
- 線形が悪く、特急列車がノロノロ運転。
- 仙台-青森を4時間台で結ぶ最速「くりこま」以外の急行列車は1972年以降浦町に全列車停車するようになり、東北新幹線盛岡開業で急行が廃止された1982年以降は特急「はつかり」も停車するようになった。
- JR化後は昼行特急の全列車が浦町に停車するようになっていた。
- 浪打駅が造道・小柳小学校の校外学習、造道中の修学旅行の出発場所
- 浦町小学校は浦町駅前にある学校となり、浪打銀座商店街は浪打駅前にあり、駅前商店街として賑わっていた。
- 国道4号青森東バイパスのルートが若干変更されていた。
- 2014年3月開業予定の青い森鉄道青い森鉄道線筒井駅は開業しない。
- 野内駅の移設に関しては史実通り行われている。
- 上野発着の夜行急行は廃止まで停車していた。(弘済出版社発行1964年3月号時刻表に、『上野発着の夜行急行「八甲田」・「北上」が停車していた。』記載がある。)
- ↑は、浦町駅の事です。