素晴らしき将棋棋士の世界/退役棋士

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引退、物故者。

  • なお将棋界では現役を引退しても連盟を退会しない限り生涯「棋士」として扱われる。
  • 一応百科事典項目なので、ネタは遠慮してください。ただし既に広く知られているものについてはネタでも可。
  • 記載は氏名の50音順とします。

あ行

有吉道夫

  • ありよし みちお (1935(昭和10年)年7月27日 - )
  1. 大山康晴の一番弟子。
    • 師匠とは四度タイトル戦を戦ったが、一度も勝てず。ただし名人戦では3勝2敗まで持ち込んだ。
    • 通算成績は大山の40勝29敗。
  2. 通称「火の玉流」。
  3. 還暦A級棋士の一人。
  4. 順位戦から降格しながらも、NHK杯戦や棋王戦などで勝利して引退を引き延ばした。

淡路仁茂

  • あわじ ひとしげ (1950(昭和25年)年3月21日 - )
  1. 現代将棋の定跡を作った一人として有名。
  2. それ以上に反則回数の多さで有名。
    • 通算反則回数7回は断トツ一位。NHKの番組で米長邦雄より「永世反則王」の称号を与えられた。
  3. 神吉宏充が反則負けをしたとき、たまたま関西将棋会館にいた淡路はわざわざ神吉のところにやってきて「君もやったか!」と喜んだ。
  4. 手数が多いことから「三枚目の男」の異名を持つ。
    • 由来は棋譜の記録用紙で、一枚あたり80手まで記録できるが、淡路は160手を超えて三枚目を使う(使わせる)事が多かったため。
    • 研修会の対局で駒落ちの上手を持ち、一日4局全て入玉で勝ったことがある。
  5. 引退後も棋聖戦第一局の立会人をつとめている。
    • 会場が「ホテルニューアワジ」だからだろうか。
  6. ニコ生で次の一手アンケート前に指し手が進んだ時などに使われる「間に淡路」と直接関係はない。
    • 元来は囲碁棋士の淡路修三に由来し、「将棋棋士にも淡路先生がいるから」と豊川孝弘が輸入したもの。
    • そのこともあり、当人はあまり気にいってないらしい。

石田和雄

  • いしだ かずお (1947(昭和22年)年3月29日 - )
  1. 名前は「石田」であるが、将棋定跡の「石田流」とは無関係。
  2. 奨励会時代はその昇級スピードの速さから「岡崎の天才児」と言われた。
    • いわゆるA級九段であるが、タイトル獲得はおろか挑戦者になったこともない。
  3. ある意味ひふみん以上に騒がしい。
    • 扇子を鳴らしてテンポをとる棋士は少なくないが、その音が大きい。
      • 時には自分の頭をたたくこともある。
    • 考慮中に前傾姿勢になる棋士は少なくないが、常時盤上に頭を出してくるのはそんなにいないと思われる。
    • 加藤一二三や藤井聡太など、対局中に相手側から盤面を見る棋士もいるが、離席している間に相手の座布団に座るのはたぶんこの方くらい。
      • ご丁寧に相手の駒をそろえることもある。
        • 棋士によっては「座る場所がない」と、対局室の前でウロウロしたとか。
    • 感想戦ではとにかくボヤキまくる。
      • NHK杯では対局相手の北浜健介そっちのけで解説のひふみん相手にボヤキまくった。
  4. 引退前から柏の将棋センター師範として、普及活動や後進指導にあたっている。
    • 実際に弟子としている佐々木勇気や高見泰地だけではなく、柏将棋センターで育った三枚堂達也(師匠は内藤國雄)も一門扱いとしている。
    • 「弟子の棋譜中継を見ながら一杯やる」のが楽しみ。
      • 佐々木勇気が藤井聡太に勝利した際にはニコ生の中継に電話で登場。
        • 解説の木村一基に佐々木勇気の勝利宣言をさせようと躍起になり、木村を投了寸前に追い込んだ。
      • 高見泰地が叡王を獲得した際、報道陣と一緒に対局室へ入り、感想戦に同席。
        • 当人は「周りから言われた」といっていたが、居ても立っても居られない姿が見てられなかったのであろう。
  5. 令和になってまさかのYouTuberデビュー。

伊藤果

  • いとう はたす (1950年(昭和25年)9月16日 - )
  1. ほとんど実戦経験がないまま奨励会試験を受け、6級で合格。
    • 「記録要員」としての採用だったものの、急激な成長を見せ、プロ棋士となった。
  2. 「風車」と呼ぶ守備に特化した独自戦法で相手を翻弄させる将棋を得意としていた。
  3. 棋士としてより詰将棋作家としての方が有名。
    • 棋士を引退した際には「やっと詰将棋創作に専念できる」と語った。
    • その作品は、「終盤力を向上させる」というよりは「将棋の盤駒を使ったパズル」というのが正しいとされる。
      • 弟子の竹部さゆり曰く「棋力を上げるためには役立たない」
        • 竹部が解けるかどうかが、作品として発表する基準になるらしい。
      • 同じく弟子の及川拓馬は最初詰将棋の弟子とする予定だった。

大山康晴

  • おおやま やすはる (1923年(大正12年)3月13日 - 1992年(平成4年)7月26日)
  1. 中原誠らと並んで羽生善治以前の世代の代表格。
  2. 大の麻雀好き。タイトル戦の対局中にも記者室に顔を出し「君たち、仕事(麻雀)しなさい」というのが常だった。
    • 2日間の対局の場合は、将棋の勝負が終わってから自らも参加。
  3. 大変な負けず嫌いで、歩いている時、他人に抜かれると悔しがって抜き返したほど。
  4. 将棋4コマ漫画でギャグのネタに使われたが、その漫画の作者いわく「(実際の)大山は将棋しか考えない鉄人だった」と証言している。
  5. 棋士の間では「盤外戦の名人」としても有名で、既に自らの勝ちが見えた勝負でも、わざと遠回しに指して相手に精神的ダメージを与えた。
    • 特に若手有望株に対して使い、自分の第一人者としての地位を守ろうとした。
    • 羽生善治とも対戦し、大山はこの手を使おうとしたが、羽生は負けを見越して早々に投了して通じなかった。
    • 最たるものは1972年の「福田家事件」(福田家は対局場となった旅館)。
      • 内藤國雄棋聖に対し、大山は挑戦者であるにも関わらず、対局前日、内藤がまだ到着していなかった(※遅れることは事前連絡あり)のに「時間になったから宴会を始めよう」と言い出し、周りも大山の言う事に従わざるをず、宴会を行った。
      • 内藤が到着したときには宴会は終わっており、それを見た内藤は激怒。そのまま銀座で大酒をあおり、内藤は翌日の対局でも負けた。
      • さらにこれ以降実に10年にわたって内藤は順位戦で大山に勝てず、カモにされていた。なぜかと言えば、大山はその後も内藤との対戦では……
        • 対局中に「内藤さん、テレビに出ると、いくらもらえるの?」「封じ手を2時過ぎにやって、すぐ麻雀にしよう」「福田家には、お手つきの仲居さんがいたしね」と内藤の神経を逆なでしていた。
      • 内藤國雄の、対大山の対戦成績は18勝50敗(勝率.265)で終生苦手にしていた。
    • 真剣師(賭け勝負師)出身の花村元司には、自分が勝った後に「あんたは所詮素人だもんね」。
    • 対局中の雑談は、現在では当然のマナーとして行われないが、大山はこの雑談で相手を怒らせては正常な思考を奪っていた。
    • いくら盤外戦でもここまで徹底するのは珍しく「どんな手を使っても勝つ」という大山の哲学が垣間見える。
    • ちなみに盤外戦は、最近では流行らないらしい。
      • 相手の側に回って将棋盤を眺めるのも元々は盤外戦術の一つだが加藤一二三の「ひふみんアイ」は盤外戦術とは考えられていない。
  6. コンピューター将棋がまだ使い物にならなかった頃から「コンピューターの方が強いに決まってるじゃないか」と未来を予期していた。
    • 「コンピュータに将棋なんか教えちゃいけないよ。ろくなことにならないから」とも発言。
    • 現代将棋では羽生善治や渡辺明などの超一流棋士でもコンピューターで棋力を磨くのが常識だが、大山が今生きていたらどういうのだろうか?
  7. 師匠としても有吉道夫、行方尚史、中田功らを輩出。孫弟子の佐藤天彦は名人となった。

か行

加藤一二三

  • かとう ひふみ (1940年(昭和15年)1月1日 - )
  1. ご存じ「ひふみん」。
    • 同じ愛称を持つアニメキャラが同時期に話題になったのをTwitterでネタにされてたら、本人にも捕捉されてしまった。
  2. 藤井聡太のプロデビュー戦で対局、それに負けて引退したが、おかげで将棋を知らない人たちにも有名になった。
    • そのため、藤井聡太に会うたびごとに「(有名にしてくれて)ありがとう」。
      • 実は「藤井聡太に負けたから自ら引退」したのでなく、「誰に負けても強制的に引退(フリークラス降格+定年)」だった。
      • 将棋の女神は、最後までひふみんに微笑み続けた。
  3. でもそこは勝負師。身内では「僕には藤井聡太でも破れない記録があるんだよ」と自慢している記録があるらしい。
    • 残念ながらそれが何の記録だったかは失念。
      • 順位戦A級昇格の最年少記録らしい。
        • それは藤井聡太も可能性があるので最年少五段記録かも。これならもう結果が出てるので藤井は達成不可能。
          • 下にもあるけど負け数とか降格回数かもしれない、藤井聡太なら負けない的な意味で。
        • やはり「18歳3か月で順位戦A級昇級」の最年少記録。しかも藤井聡太との対談時にこれを加藤から教えられ、藤井はその場で「ひいふうみ…」と指を折って数えて頷いたとか。
  4. 大の猫好き。
    • 外で猫を見かけると「ハロー」と手を上げて挨拶。続けて「君達も、将棋に興味があるのかい?」
    • 野良猫にエサを与え続けた結果、猫が増えてご近所トラブルに。
  5. 現在のひふみんキャラからは想像もつかないが、デビュー当時は「神武以来の天才」と騒がれた。
    • 加藤が11歳の時、関西将棋会館で板谷四郎に指導対局を受けていた際、たまた通りかかった升田幸三が一目で加藤の才能を見抜いた。
      • 天才が天才を知る、ということらしい。
    • 「以来」は「このかた」と読む。
  6. 上記の大山康晴に匹敵する、盤外戦術の帝王。
    • 「盤外であろうと、主張すべき事は決して譲らない」とか。
      • 盤外戦術というよりこの人の場合、素でやってる事が相手に嫌がられているだけだと思う。
  7. 南口繁一の元に入門したが、南口の死後師匠を変えている。
    • 通常は師匠が亡くなっても、師匠を変えることはない。
  8. とにかく暑がり。
    • 三浦弘行との対局は盤上だけではなく室温を巡る争いもあった。
    • 女流棋士戦で立会人をつとめた際、室温の低さに耐えかねた竹部さゆりが米長邦雄に抗議。
      • 米長の答えは「加藤先生が立会人の時は一枚羽織るものを持ってくること」
  9. 敬虔なクリスチャンであり、賞金の多くをキリスト教に寄付。
    • 聖シルベストロ教皇騎士団勲章を授与されている。
      • ただしどの程度すごいのかはチャクウィキでは判断できない。
    • 自戦記の1章をキリスト教の教理解説に費やすほど信仰している。
    • なお、ガチで対抗できる棋士は哲学者の顔も持つ糸谷哲郎だけ。
  10. 引退後も2018年現在、公式戦における対局数(2,505)及び敗北数(1,180)で一位を保持している。
    • 勝利数は三位(1,324)。
      • 一位は大山康晴(1,433)、二位は羽生善治(1,400・更新中)
        • 2019年、一位羽生善治(1,434+α)、二位大山康晴(1,433)になりました。
  11. サザエさんでその名前が出てきたことがある。
    • 「大鵬を見ろ、将棋の加藤八段を見ろ!みんな若いのに頑張っておる」
  12. 何故かVTuberでびゅー。一応中の人は非公開だけど誰がどう見ても公然の秘密にしかなっていない。
  13. 一応現役当時のタイトルの内6つは制している、だが棋聖だけは取れなかった(竜王は十段戦の時に3期、王座は一般棋戦時に1期取っている)。
  14. 棒銀。
  15. 自ら引退or現役中に没するではなく、規定により強制引退を喰らった初の名人でもある。

神吉宏充

  • かんき ひろみつ (1959年(昭和34年)3月1日 - )
  1. 師匠の内藤國雄とともにタレント棋士のはしり。
    • 関西では「将棋の強いお笑い芸人」と思われている。
    • NHKに将棋番組の企画を持ち込み、「大逆転将棋」という特番の司会を(引退後も)つとめている。
      • 一時期中断されていたが、昨今の将棋ブームで2018年正月特番として復活。
  2. 奨励会に入る前は普通の会社員だったという棋士としては異色の経歴を持つ。
  3. YouTubeに「神吉宏充の最高!エンタメ将棋」というチャンネルを持つユーチューバーでもある[1]
    • でもチャンネル登録者が147人(執筆時点)というのは何かのギャグか?
    • あとゲストが偏りすぎ。北浜健介とか北浜健介とか北浜健介とか。

桐谷広人

  • きりたに ひろと (1949年(昭和24年)10月15日 - )
  1. 財テク棋士。
    • 証券会社に対局指導に行き、株式投資を覚えた。
      • 正確に言うと証券会社職員の同業者懇親団体的なところに行っていたらしい。
  2. 衣服や靴、日用品などもすべて株主優待品。現金を使うのはマンションの家賃と光熱費くらい。
    • 元々は普通にお金を払って生活していたが、リーマンショックで株式が暴落したため、配当なども減り、お金をつかえなくなった。
      • そのため、自動販売機は使えない。
      • 食事を賭けて対局して負けるとレストラン関係の株主優待券が出てくるので対局者はポカーン。
  3. 年間140本もの新作映画を観るという映画通。
    • テレビ番組で映画の試写会に訪れた際、ジョニー・デップに映画の感想を直接伝えるという離れ業を演じた。
    • 映画鑑賞も、もちろん株主優待。
  4. 実は升田幸三の弟子で唯一棋士になった人物である。
    • コンピュータを活用した序盤研究を最初にやった棋士の一人なのだが、評価されたのは引退後だった。
  5. 移動は雨でも自転車。
    • 63歳の時、自転車(しかもママチャリ)で48.3km/hを出したことがある。これは女子競輪選手並らしい。
  6. バリュー株投資ばっかりやっているイメージを持たれている。
    • 実際には、2017年頃に、粉飾決算でボラが高くなった東芝株をガンガン商いしたりと、結構勇ましい。
  7. 婚約までした彼女を米長邦雄に寝取られた。それも2人も。
    • 多分、桐谷氏のコミュ障チックな所は、このあたりも災いしているんだろうなと思う。
    • 米長が会長だった時代はよく週刊誌の取材で米長の悪口を言っていた。
  8. 弟子に大平武洋、今泉健司がいる。
    • 今泉は三段リーグ編入試験以降桐谷門下。

さ行

佐瀬勇次

  • させ ゆうじ (1919年(大正8年)3月17日 - 1994年(平成6年)3月25日)
  1. 昭和の名伯楽として、多数の弟子を輩出。
    • 米長邦雄、丸山忠久と二人の名人を弟子に持つ。
    • その他の著名な弟子として高橋道雄、木村一基、中井広恵らがいる。
  2. 家の雑用をした褒美として米長に指導対局を申し入れるも…
    • 米長は「対局したら師匠の癖がついて、師匠どまりの棋士になるから」と拒否。
    • その場で米長は拳骨を食らうも、しばらくして「考えたら、お前の言うとおりだ」と思い直した。
      • そこで破門にされず、佐瀬が思い直したことで米長から敬われる結果に。
  3. 米長のタイトル戦の控室で、米長の指した手に対し「なんでそんな手を指すんだ」と憤慨。
    • 周りの棋士から「指してるのは米長先生で、佐瀬先生ではありません」とたしなめられた。
  4. 将棋会館の特別対局室で木村一基に対し、説教をしていたところ…
    • 麻雀のメンツが足りないという連絡が入りイラつく佐瀬に対し木村が「僕がやります」と申し出た。
    • そして、そこで終わる予定だった説教がさらに2時間延長された。

芹沢博文

  • せりざわ ひろぶみ (1936年(昭和11年)10月23日 - 1987年(昭和62年)12月9日)
  1. 元祖マルチタレント棋士。文化人タレントのはしりでもある。
    • 肩書は、棋士以外にタレント、俳優、歌手、エッセイストなど。
    • 将棋では勝数既定で九段になったが、A級在籍は2期にとどまり、八大タイトルは最後まで獲れなかった。
      • 室内ゲームには全般にわたって強く、特に麻雀は、棋界内で愛好家が多いにもかかわらず、一・二を争う実力だった
  2. 将棋の普及にも尽力し、全国各地で今も開催される「将棋まつり」は芹沢の発案。
  3. 1982年、当時C級2組で全敗しても降格することがなかったため、猛烈に抗議した。
    • いわく「競争原理が働くはずのプロが、全敗でクラスも落ちず、給料を貰えるのはおかしい」
      • 1986年にC級2組からの降級が復活。
    • なお今は縮小されているが、棋士には連盟から、活動やクラスに応じた給与が支給される。
      • タイトル料はもちろん、対局料、原稿料、取材、解説。対局指導などなど、およそ棋士の活動の全て。
        • 何もしていなくてももらえる「謎の給料」もあるらしい。というか以前はこれが多かった。
          • 芹沢の指摘は主にこれと思われる。
  4. 当時の第一人者の大山康晴を著書で度々批判。
    • 当の大山は、当然激怒したが「将棋界に役に立つ男」としては芹沢を認めていたという。
  5. クイズダービーに弟弟子の中原誠が出演した際、司会の大橋巨泉が「中原君」と呼んだ事に激怒。
    • 以後、大橋巨泉を著書で攻撃。
    • また「はらたいらに答えを教えている」と暴露して名誉棄損で訴訟になりかけた。
      • これは、後にはらたいらが、間違って次の問題の答えを書いたことで芹沢の主張が正しかった事が証明された。
  6. 姉弟子の蛸島彰子女流名人(当時)が時代劇「新・必殺仕置人」に出演したとき、殺されてコモ(むしろ)を被せられる役だったことにも猛反発。
    • 「女流とはいえ名人、それがコモかぶりでは将棋のタメにならない」と抗議し、結局このシーンはお蔵入りとなった。
  7. トラブルには事欠かなかったため、次第に周囲から敬遠されるように。
    • とどめは板谷四郎の「芹沢、お前の最近の態度は何だ。ほかでチャラチャラ稼ぐから将棋がおろそかになるのだ」。
  8. 若い頃は将棋の自信にあふれていたが、中原誠や米長邦雄に抜き去られたと感じ「前に2頭いれば連対できない(※競馬用語:「1位にも2位にもなれない」の意味)」と自信を無くしていた。
    • 結果、朝から酒をあおる生活となり、1987年に肝不全で死去。享年51歳。現役のままこの世を去った。

た~な行

田中魁秀

  • たなか かいしゅう (1947年(昭和22年)3月2日 - )
  1. 名前の「魁秀」は本名ではなく、棋士になった後に改名したもの。
    • 占いに凝っていた師匠の本間爽悦が改名する際、道連れに改名させられた同時に改名した。
  2. 現役で九段に昇段しているが、タイトル挑戦、順位戦A級のいずれも経験したことがない。
  3. 師匠に苦労させられたからか弟子には優しく接し、福崎文吾、佐藤康光をはじめとする個性豊かな棋士を輩出している。
    • 福崎とは順位戦で師弟対局を行い、勝利している。

内藤國雄

  • ないとう くにお (1939年(昭和14年)11月15日 - )
  1. 一般的には将棋棋士としてより歌手としての方が有名。
    • 若いころカラオケで歌っている声を聴いた流しのボスが歌手としてスカウトした。
    • 代表曲「おゆき」はミリオンを達成している。
  2. 年間記録4部門(勝率一位、最多勝利、最多対局、連勝)独占を初めて達成した棋士でもある。
    • ただし、当時は表彰の対象ではなかったため、藤井聡太が4冠独占した際に知られるようになった。

永作芳也

  • ながさく よしなり(1955年9月27日 - )
  1. 現在(2018年6月)のところ、自ら日本将棋協会を退会した唯一の棋士。
    • このため、棋士番号139は欠番になっている。
      • 念のために書いておくと、棋士番号はその棋士が亡くなっても消えたり、無くなったり、使いまわされたりしない。
        • 棋士番号制度は1977年制定。その際に存命で、最もプロ入りが早かった金易二郎(当時86歳)が記念すべき1番。引退後30年での授与だった。
  2. 退会した理由は「自分の実力では名人になれないとわかったから」。
    • でも名人になれなくて引退したり、逝去する棋士の方がよっぽど多いと思う。
    • ちなみに理由は他にもあるらしいが、↑だけが有名になっている。
  3. 奨励会時代は「モグラは空を飛べない」と陰口を叩かれた。
    • 意味は「才能のないものがいくら努力してもプロ棋士にはなれない」という意味。
    • 永作は人並み外れた努力で奨励会を勝ち上がり、24歳でプロ入りしている。
      • 将棋会館に置いてあった、永作が棋譜の研究に使った将棋盤は、擦り切れていたという。
      • その事を指す「耕す」という言葉もあった(もちろん皮肉)が、文字通り永作は将棋盤を耕しながら才能の芽をそだてていた。
  4. 奨励会初段の時、東大将棋部で、学生王将の谷川俊昭(谷川浩司の兄)を破っている。
  5. 長らく行方不明とされたが、故郷(茨城県行方市麻生)に帰って保険代理業を営む傍ら、子供向けの将棋教室を開いている。
    • 将棋教室を開いた理由は「元々70歳位でやろうと思っていたが、藤井聡太の活躍を見て始めた」。
      • これも藤井効果である。
    • そして2018年に鹿島神宮で開催された竜王戦第4局会場へ来訪した[2]
  6. なお「永作」姓は、行方市の麻生あたりに多い姓で、女優の永作博美はご近所さんである。

ま~わ行

升田幸三

  • ますだ こうぞう (1918年(大正7年)3月21日 - 1991年(平成3年)4月5日)
  1. 間違いなく伝説の棋士の一人。
  2. 将棋界の革命児で、「新手一生」をモットーとして次々と新手を編み出し「将棋と言う競技に寿命があるなら、その寿命を300年縮めた」と言われる。
    • 現在でも将棋の新戦術を編み出した棋士に「将棋世界」から送られる「升田幸三賞」にその名をとどめている。
  3. 将棋の実力はもちろん、その豪放磊落な性格と放言癖は、数々の伝説を残している。
    • 故郷を発つとき「この幸三、名人に香車を引いて…(勝つ)」と書きおいて、後に王将戦で大山康晴名人(当時)に対し、実際に香落ちで勝って現実のものとした。
  4. ヘビースモーカーで、一日に200本吸ったと言われる。酒豪でもあった。
    • 谷川浩司に対して「自分は5歳のときから酒を飲んでいたので記憶力が減退してしまった。酒は控えなさい」。
  5. ギャンブルは一通り験してみた結果「運に左右されるものは勝負じゃない」とその後はやらなかった。
  6. 戦後GHQが「将棋は捕虜(取った駒)を再び使うから捕虜虐待につながる」という理由で廃止しようとしていたところ。
    • 「将棋は人材を有効に活用する合理的なゲームである。チェスは取った駒を殺すが、これこそ捕虜の虐待ではないか。」
    • 「キングは危なくなるとクイーンを盾にしてまで逃げるが、これは貴殿の民主主義やレディーファーストの思想に反するではないか」
      • これを延々と5時間に渡って話続け、将棋の廃止は免れた。
  7. 全日本選手権戦(竜王戦の前身)で木村義雄名人(当時)と対局した際
    • 升田「名人など所詮はゴミのようなもの」
    • 木村「じゃあ君は一体なんだ?」
    • 升田「ゴミにたかるハエだな」
    • 木村「では名人に挑戦くらいしてはどうかね?」
      • 升田は後に実際に名人のタイトルを獲得している。
  8. 塚田正夫とは仲がよかったが、あるとき升田が「俺は太陽で、あんたは月だ」と言うと、塚田も頭にきて反論、太陽だ、月だ、と言いあった。
  9. 名人獲得は2期で永世名人資格を持っていないが、将棋界における貢献から「第4代実力制名人」の称号が贈られている。
    • 永世名人(含・有資格者)以外でこの称号を持つのは、升田以外では塚田正夫(第2代実力制名人)のみ。
    • 升田と塚田は親友同士で、実力制名人の称号も升田と塚田同時に贈られている。
  10. 羽生善治が「将棋を指したい相手は?」と聞かれて「升田幸三」と回答。
    • 羽生善治がデビューしたとき、升田は存命中であったが、囲碁は指したが将棋は指さなかった。
      • どうして棋士同士でわざわざ囲碁を指すのか?

村山聖

  • むらやま さとし(1969年(昭和44年)6月15日 - 1998年(平成10年)8月8日)
  1. 29歳でこの世を去った、悲劇の天才棋士。
    • 5歳で腎臓の難病(ネフローゼ症候群)を患っている事が判明、いったん普通の小学校に進むも、その後は病院内学級と養護学校で過ごす。
    • 当時から「いつ死んでもおかしくない」状態だった。
      • 院内学級では、亡くなっていく子もおり、かなりつらい思いをしたという。
    • 将棋を覚える前は、子供ながら自暴自棄になり、両親や兄弟を困らせていた。
      • 厳しい食事制限に加え、運動も禁止されていた。
    • 毎年、元旦には「来年の元旦も生きていられますように」と願ったという。
  2. 将棋を覚えたのも病院内で、それに没頭するように。
    • 小学2年生の時に父親から駒の動かし方を教わり、それから看護士がとめるのも聞かず、将棋に没頭するようになる。
    • 10歳でアマ四段認定。
    • 中国こども名人戦に初出場で3位。以降は4連覇を達成(同大会は年2回実施)。
    • 12歳で小学生将棋名人戦に初出場、3回戦で佐藤康光に敗れて全国レベルの高さを知る。
      • この大会では、ベスト32に残った子供の中から、後に女流も含めて9人がプロになっている。
      • 村山に勝った佐藤康光は準決勝敗退、羽生善治も準々決勝で敗れた。
      • 羽生は翌年、六年生の時に優勝している(羽生の学年は村山の一個下)。
        • この大会は当時ベスト4以上がテレビで放映され、決勝の総評に大山康晴、解説を谷川浩司が務めていた。
          • この翌年に谷川浩司は21歳で名人位を獲得、村山の目標となる。
            • この時、大山・谷川・羽生の3名人が、時空の壁を越えて居合わせた。
    • 中一の時に中学生将棋名人戦でベスト8。この時の優勝者は中川大輔。
  3. 1981年、中学一年で「大阪に行って奨励会に入らせてくれ。谷川を倒すには、いま、いまいくしかないんじゃ」と言ってプロ棋士を目指すようになる。
    • 両親は猛反対したが、あまりにも情熱的に語る聖に負け、また病気の事もあって村山の希望を聞き入れた。
    • 両親が師匠探しに苦心した挙句、森信雄に弟子入り。
  4. 1982年、奨励会に合格するが、師匠がバッティングしており、もう一方の師匠の反対で入会取り消しに。
    • 1983年再受験して5級で入会。
      • 1986年11月5日、17歳の時に四段に昇格してプロデビュー。奨励会在籍2年11か月は、現在(2018年5月)に至るまで最速通過記録。
        • しかも入院しながら、月2回の外出許可の中での記録であった。
  5. ライバル・羽生との関係
    • 羽生善治と同時にC級1組に昇級、五段となる。
    • 「東に天才羽生がいれば、西に怪童村山がいる」と騒がれた。
    • 村山は羽生を認め、年齢が1つ下にも関わらず「羽生さん」と呼んで周囲の失笑を買った。
      • 当時は年上=偉いという概念が根強く、特に勝負師の世界である棋界では、村山の態度は「敵前逃亡」と映ったのである。
    • 村山が最後に会った棋士は、羽生善治。
      • 最期の頃、村山が入院していた広島に羽生が仕事で来ていることを聞きつけた村山が父親に頼み、会場まで自動車で連れて行ってもらった。
      • 村山は、もうすでに危険な状態であったが、病気の事は周囲には隠しており、羽生も知らなかった。
  6. 度重なる体調悪化に悩まされる。
    • 村山自身が「(体温が)40度になったら死にます」と言い、実際には40度を超えていても師匠の森は「まだ40度は超えてない。大丈夫や。」といって励ました。
    • 少女漫画が好きだったが、体調のために自分では買いに行けず、師匠が買いに走っていた。
      • 師匠はどこに売っているかもわからない少女漫画を探してあちこちの書店を巡ったという。
      • 蔵書は少女漫画3000冊。同じ本を「読む分、書棚に飾る分、保存する分」3冊買った。
        • 死亡時は蔵書7000冊。それでも処分しているという。
    • 体調が思わしくない時は身体が鉛のように重くなり、移動するのもままならなかったという。
      • 夜中、トイレ(小)の際は、トイレまでの移動ができず、ペットボトルで済ませること多数。
    • 奨励会員になって初の対局は、1日に3局指し、そのまま昏倒して2ヶ月入院。
    • 千駄ヶ谷駅から将棋会館まで徒歩5分ほどだが、体調の悪い時は歩けない事もあり、その場合はタクシーを使っていた。
      • その後も入院はしょっちゅうで、病院から対局に通う事もしばしばであった。
      • そもそもその状態でプロ棋士と将棋を指し、しかも勝つことは、健常者でも並大抵の事ではない。
  7. ニックネームは「怪童丸」
    • 村山は「爪や髪の毛にも命がある」として切らず、ひげもそらず、病気と薬の副作用のための浮腫(むくみ)もあって独特の風貌になっていた。
    • 身体の負担になるため、風呂にはたまにしか入らず。
      • 理由は不明だが、歯も磨かなかったようで周囲からは「不潔」と言われた。
        • 当然本人は悩んでいたが、師匠の森は「強くなったら誰も何も言わなくなる」と励ました。
  8. 終盤に抜群に強く「終盤は村山に聞け」と言われた。
    • A級順位戦の対局を関西将棋会館の控え室で観戦していたところ、詰め将棋作家としても有名な内藤國雄が「これは詰んどるぞ」と言ったので、一同で詰みを探したが……。
      • 村山は「詰まない」と主張、自ら詰まない筋を示した。ちなみに当時奨励会員。
  9. 20歳前に「名人になって早く将棋を辞めたい」と発言。
    • 自分の命が限られている事がわかっていた事と、病気で苦しみながら将棋を指していたがゆえんの発言。
    • 文字通り「命を懸けて将棋を指して」いたため、将棋は滅法強かった。
      • しかも村山は体調の関係で対局に行けない事もしばしばであった。
    • 1995年4月、A級八段。悲願の名人位が射程圏内に。
  10. 羽生善治とは実力伯仲だった。
    • 最初の対戦で、羽生は村山の指し手と病状に関し「こんなのが最初の作戦で大丈夫?」と二重の意味で思ったが
      • 「そんな状態で、指す将棋がとんでもない冴えと切れ味。その二面性に、棋士の中でも異質なタイプなんだなとしみじみと思っていました」
    • 村山は羽生に初戦から3連敗を喫する。
      • がその後は4勝1敗と盛り返して4勝4敗のタイに。
    • 1997年2月28日に竜王戦1組の1回戦で羽生と対戦して勝ち、通算対戦成績を6勝6敗のタイに。
    • しかしこの頃から体調がますます悪化し始める。
  11. 晩年はがんと闘病生活に。
    • 1997年頃に膀胱がんが見つかり、8時間半の手術を受けて復帰。
    • ただし放射線治療と抗がん剤治療は「対局に影響がでる」と拒否した。
      • また「がんに効く薬は飲むが、鎮痛剤や苦痛を和らげる薬は拒否する」とし、医師がこっそり点滴に鎮痛剤を混ぜると察して激怒したという。
    • 同年のNHK杯の決勝で羽生と対戦するが、優勢に進めていたにも関わらず、自らのポカで負けて対戦成績を6勝7敗とした(厳密にはこの後不戦敗が1つあるので6勝8敗)。
      • 結果的にこれが対羽生善治の生涯対戦成績となった。ただしこの後は羽生以外の棋士を相手に公式戦で5連勝を挙げるなど、神がかり的な強さを見せる。
    • 1997年末頃から血尿に悩まされるが、対局を優先して精密検査を受けず。
  12. 1998年4月、広島で検査を受けた結果、癌の再発・転移(肝臓がん)が見つかり「1年間休戦し療養に専念」する。
    • ただし身内以外には病気を隠し、病室にも名札を付けなかった
      • 現在は個人情報保護の観点から付けていない病院・病室も多いが、当時はつけるのが当たり前。
    • 1998年8月8日逝去。享年29歳。翌日九段追贈。
      • 訃報が将棋連盟に伝えられたのは二日後の8月10日。その報を東京将棋会館の対局中に知った羽生善治は、翌日午前中に村山の実家に弔問に訪れた。
        • それから、毎年村山の実家には羽生から村山聖に宛てた年賀状が届けられているという。
  13. 目指した名人はおろか、八大タイトルの獲得はついにかなわず、一般タイトルの獲得も2つにとどまった。
    • タイトル挑戦も王将戦1回のみだった。
  14. 生涯成績は356勝201敗(うち不戦敗12) 勝率0.639。
  15. その生涯は「聖の青春」として本になり、映画化もされた。

森信雄

  • もり のぶお (1952年(昭和27年)2月10日 - )
  1. 棋士としてよりも師匠として有名。
    • この人もある意味、将棋の神に愛された人生を送っている。
  2. 19歳で棋士を目指し奨励会の門をたたいた。
    • 当時の奨励会規定では3級以上での受験となるが、森には4級での入会が認められた。
      • 当時は関西所属の奨励会員が少なく、記録係要員としての入会だったという。
      • 奨励会に入って間もなく、関西本部塾生として将棋会館に住み込みで将棋の修業に明け暮れた。
  3. 21歳で初段になれなかったが、退会宣告されず、そのまま奨励会にとどまることが許された。
    • 当時有力棋士の子息が年齢制限を超えて奨励会員にいたこと、塾生としての態度を他の棋士から評価されての猶予処置だった。
    • そして1年後に初段へ昇段した。
  4. 村山聖の師匠として有名だが、他にも多数の弟子を持つ名伯楽。
    • 2019年現在、棋士12人、女流棋士3人は佐瀬勇次(棋士11人、女流棋士6人)に次ぐ。
    • 山﨑隆之、糸谷哲郎、千田翔太、女流では谷口由紀、山口絵美菜、石本さくらなど個性派棋士が多いのが特徴。
      • 当初は「弟子は取らない・結婚もしない」という方針だったが、村山を一目見て気に入り、弟子入りを許可した。
      • なお後に結婚もしたが、そのことは一番弟子の村山にも知らされておらず、村山は新聞で師匠の結婚を知った。
    • 「毎日詰将棋を解くこと」というのが一番の教え。
  5. 初めて棋士になった弟子でもある村山聖との関係は「聖の青春」などに書かれている。
    • 村山のために少女漫画を探す森の姿を見て「どちらが師匠でどちらが弟子か」などと言われたこともあるとか。
      • 子弟というより親子の関係だったともいえる。
        • 森が村山と通っていた定食屋の女将からは、ずっと「嫁に逃げられた父子」と思われていた。
  6. 飼っているヨウムを溺愛し、最初の数分はヨウムの話が続く。

米長邦雄

  • よねなが くにお (1943年(昭和18年)6月10日 - 2012年(平成24年)12月18日)
  1. 69歳で亡くなったのが惜しまれるエピソード満載の棋士。
    • この没年齢の数字すら、氏ならではのギャグに見えてしまう。
  2. 本人はプロ志望ではなかったが、師匠の方からスカウトされた。
    • この時、師匠が両親に言ったセリフ。
    • 「息子さんは名人にはなれないかもしれないが、八段にはなれます。」
    • なお米長は九段になって名人位も獲得している。
  3. 女子小学生の内弟子(林葉直子)を取った事があり、そのまま「りゅうおうのおしごと!」の設定のネタにされた。
  4. 升田幸三に可愛がられたが、升田には「麦長くん」と呼ばれていた。
  5. 兄が3人いるが、3人とも東大に進んでいる。
    • 「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」と発言した(と言われている)。
      • このエピソードは、同じく兄が東大に進んだ谷川浩司の発言として語られることもある。
      • 元々は芹沢博文のネタ話とされている。
  6. 「あなたのストレス解消法は」と質問されて「口に出すわけにはいかない」。
    • 「可能ならばやってみたいスポーツは」と訊かれて「段違い平行棒」。
  7. 42歳の時にヌード写真を雑誌で掲載。
    • 需要のほどは不明だが、確かに話題はさらった。
    • 撮影場所は鳥取砂丘
  8. 女性関係でもめ事があると、桐谷広人(上述)に解決させ、脅迫文の代筆までさせていた。
  9. 1996年、「コンピュータがプロを負かす日は? 来るとしたらいつ」というアンケートに「永遠になし」と回答。
    • それから16年後の2012年、米長はボンクラーズに敗れている。
  10. 十段戦(竜王戦の前身)で福崎文吾に敗れた際、その福崎に「おめでとう」と言って自ら花束贈呈。
  11. 政治的立場は保守派であるが、日本共産党が若手登竜門のタイトル(新人王戦)を主宰しているため「政党で真っ先にいちばん感謝しなければならないのは日本共産党」と発言。
  12. 囲碁がめっぽう強く、将棋棋士なのに「碁敵が泣いて口惜しがる本 “将棋”の天才が発見した囲碁必勝の秘訣」という本を書いている。
    • 囲碁は八段(追贈)
  13. 末期は前立腺がんにかかったが、その際には「癌ノート ~米長流 前立腺癌への最善手~」という本を書いている。
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