「もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら/近畿」の版間の差分
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2021年7月13日 (火) 15:00時点における版
JR
おおさか東線
久宝寺~放出間は、2008年3月15日に開業し、新大阪~放出間は、2019年3月16日に開業しました。
- 国鉄時代
- 同時に阪和貨物線の旅客化も実現していた。
- その場合加美~久宝寺で関西本線と十字形に立体交差していた。
- 当時は竜華操車場が現役だったことから、久宝寺駅には乗り入れなかったかも。
- 車両も関西本線ではなく阪和線と共通運用になっていた。2019年現在は225系5100番台の6両が運用されている。
- 谷町線の平野以南は建設されなかったかもしれない。
- むしろ谷町線は阿倍野からそのまま南進して遠里小野方面に伸びていた可能性も。その場合は平野線は阪堺電気軌道に譲渡されて存続している。
- 天王寺駅の大和路線⇔阪和線の連絡線がまだ完成していなかったことから、一部の「くろしお」が新大阪発着~おおさか東線経由で運転されていた。
- JR東西線も開業していないので、放出駅で片町線からおおさか東線に乗り換える客も多かった。
- もちろん「JR」付きの駅名は存在しない。
- 「城北公園通」駅も「赤川」駅になっていた。
- 「JR長瀬」駅は「柏田」駅を名乗っていた。
- 「JR淡路」「JR野江」駅は「東淡路」「西野江」だったかも。
- 私鉄にかまわず「淡路」「野江」を名乗るという可能性もあった。
- ルート的に被る大阪市高速電気軌道今里筋線は計画されなかったかも。
- むしろ千日前線の新深江-南巽が建設されなかった可能性もあった。
- 今里筋線は蒲生四丁目-湯里六丁目の路線となっていたかも。蒲生四丁目以南の区間はルート的に被っていない。
- 1985年以前に開業していた場合、現実の高井田中央駅が「高井田」駅を名乗っていた。
- 現実の高井田駅は「東高井田」駅になっていたかも(日豊本線に北永野田駅という類似例があることから)。
- もしくは「河内高井田」駅だったかもしれない。
- もし現実の高井田駅の開業がJR化後だったら駅名は「JR国分」になっていた可能性も。
- 現実の高井田駅は「東高井田」駅になっていたかも(日豊本線に北永野田駅という類似例があることから)。
- 1970年に開業していた場合、大阪万博開催に伴う鉄道整備の一環として行われたことになっていた。
- 当初は72系などの旧型国電が運用されていた。
- 1980年代にはウグイス色に黄帯の101系も使われており、101系が新大阪駅に姿を見せていた。
- 阪和線杉本町-鳳の複々線化が実現した可能性が。1971年の和歌山国体に合わせ和歌山-紀伊田辺間の複線電化が実現した。新快速はそれと同時に登場。新大阪-紀伊田辺間・天王寺-紀伊田辺間で合わせて2本/h運行される。
- 直通快速には春日色の113系が運用されていた。
- 1973年から1988年頃までは快速 新大阪という表記であった。
- 1964年以前に開業していた場合、起点は新大阪駅ではなく吹田駅だった。
- 1964年に開業した場合、東海道新幹線開業に合わせる形となっていた。
- 新大阪駅に新快速が停車するのが早まっていたかも。
- 路線名は大阪外環状線になっていた。
- 加美~杉本町間も開業していたら、路線名が「おおさか東線」になることはなかった。
- 1990年代に開業した場合
- 大和路快速の発足と同時に、姫路~放出~久宝寺~奈良間の直通列車が運行されていた。
- 1990年に鶴見緑地で開催された花博に合わせて開業したことになっていた。
- 花博の開催期間中は放出駅から会場に向かうシャトルバスも運行され、特に奈良方面からの来場客に重宝されていた。
- 223系電車よりも207系電車が先に運用されていたかもしれない。
- JR東西線の時と同じく、工事は関西高速鉄道が受け持っていたかもしれない。
- 日本鉄道建設公団の手によって建設された可能性もあった。
- 奈良方面からJR東西線に乗り入れる有料の通勤ライナーが設定されていたかもしれない。
- 1996年までに開業した場合、放出~久宝寺間or放出~新大阪間のどちらかが先行開業し、その区間における折り返し普通列車が運行されていた。
- 2008年3月には全線開業し、衣摺加美北駅も開業していた。
- 1997年にJR東西線が開業した時に、直通快速が運行されていた。
- 久宝寺駅の橋上駅舎化と大和路快速の久宝寺への停車が史実よりも早まっていた。
- 新大阪~放出間が先に開業した場合
- 早くても、2006年頃に開業していた。
- 東淀川駅の橋上駅舎化が史実よりも早く実現していた。
- 新大阪~木津間の直通快速が運行されていた。
- 2008年頃に放出~久宝寺間が開業し、平城遷都1300年祭に間に合っていた。
- 新大阪~奈良間、尼崎~奈良間の直通快速が運行されていた。
- 線内列車には201系ではなく207・321系が運用されていた。
- 2008年に新大阪~放出間が開業した場合
- 放出~久宝寺間の開業が2001年~2007年あたりに早まった。
- JR東西線の開業が早まっていたら、1997年3月に開業していた。
- その場合、直通快速は207系電車で運用され、新大阪延伸後も207系電車・321系電車で運用されていたかもしれない。
- 直通快速が奈良~尼崎間と奈良~新大阪間の2つが設定されていた。
- 学研都市線方面から新大阪に直通する系統も設定されたかも。
- 衣摺加美北駅の開業が史実より早まったか、延伸時に開業していた可能性もあった。
- 放出~久宝寺間の開業時に開業していた可能性もある。その時は「衣摺駅」になっていたかもしれない。
- 2010年の平城遷都1300年祭の際に、新大阪~奈良間の臨時特急が運行されていた。
- 東淀川駅の橋上駅舎化や駅前後の踏切の廃止、赤川橋梁の歩道撤去が10年早まっていた。
- ウグイス色の103系が新大阪駅に乗り入れていた。
- 223系電車が史実より多く増備されて、直通快速は223系電車で運用されていたかもしれない。(207系電車や321系電車に置き換わることはなかったかもしれない。)
- 223系が放出以北の北区間にも入線していた。
- 直通快速の本数も史実より多くなっていた。(2010年代のダイヤ改正で実現していた。)
- 新大阪発着と尼崎発着がともに設定されていた。
- 場合によっては学研都市線方面からの新大阪行きも設定されていた。
- 新大阪発着と尼崎発着がともに設定されていた。
- 223系電車が史実より多く増備されて、直通快速は223系電車で運用されていたかもしれない。(207系電車や321系電車に置き換わることはなかったかもしれない。)
- 阪急新大阪線(十三~新大阪~淡路間)が先に開業していたら、早まっていた。
- 北梅田駅への乗り入れに考慮されているどうかは怪しい。
- 当初の予定通り新大阪駅のホームは1番東側に建設されていた。
- 2008年のオリンピックが大阪で実現していたらそうなっていたかもしれない。
- 当時の状況を踏まえるとそこまで手が回ったかどうか微妙。
- 放出~久宝寺間の開業が1999年3月頃に早まっていた。
- その場合、久宝寺駅の橋上駅舎の完全が史実より早まっていた。(史実では、1997年7月に完成した。)
- 開業時に、久宝寺駅は大和路快速の停車駅になっていた。
- 竜華操車場跡地の再開発が史実より早く進んでいた。
- その場合、直通快速は207系電車・321系電車で運用されていた。
- 207系電車が史実より多く投入され、福知山線での103系電車の撤退が史実より早まっていた。
- 河内永和駅前にある東大阪商工会議所会館の開館が史実よりも早まっていた。
- 東大阪市役所も荒本地区ではなく、永和地区に移転していたかもしれない。
- 特急「まほろば」も平城遷都1300年祭が開催された2010年3月のダイヤ改正を機に当路線経由で運行が開始されていた。
- 2014年までは381系電車で運行されて、2016年から287系電車に変更された。
- 2008年に新大阪~放出~久宝寺間が開業した場合
- 「2008年に新大阪~放出間が開業した場合」における4、5、6、8、11、12の項がいずれも実現していた。
- 奈良駅発着の直通快速は当初から新大阪駅へ向かうようになっていた。
- その場合223系→207・321系ではなく221系が運用されていたかもしれない。
- 開業当初から高井田中央駅、JR河内永和駅に停車していた。
- 直通快速の本数が史実より多くなっていた。
- 平城遷都1300年祭が開催された2010年3月のダイヤ改正と外国人観光客の増加に伴う2016年3月以降のダイヤ改正を機に本数が増加していた。
- 新大阪を発着する天理臨が運行されていた。
- 放出~新大阪間の着工が史実よりも早まっていたら確実にあり得た。
- 衣摺加美北駅は史実通り2018年に開業していた。
- 1990年代に放出~久宝寺間が開業した場合
- 関西高速鉄道が建設主体となって、JR東西線とセットで着工していた。
- 1997年にJR東西線と共に開業していた。
- 国鉄時代に着工していた場合に日本鉄道建設公団が建設主体となっていた。
- 行楽期に姫路・神戸・新三田~奈良間の臨時の快速列車が運行されていた。
- 放出~新大阪間は2008年に開業していた。
- 直通快速は開業時から207系電車で運用されていた。(のちに321系電車も運用に入る。)
- ただし、1996年までに開業した場合、区間の普通列車しか運行されなかった。
和歌山線
五条-和歌山
- 1970年
阪和線
- 1910年頃
- 1920年頃
- 上記同様南海が国有化された。
- 上記同様標準軌で建設された。
- 同時期に開業した阪急神戸線と同様当時では高規格だった。
- 1970年
- 同年の大阪万博と翌年の黒潮国体に合わせて開業した。
- 踏切は存在しても数か所しかなかった。
- おおさか東線も同時期に開業していた。
- 紀勢線和歌山-新宮電化も開業前に行われた。
- 南海線との直通はこの時点で廃止された。
- 特急「くろしお」に151系が導入されおおさか東線経由で新大阪に向かっていた。
- キハ80系運用はどうなっていたか。
- 1974年
- 同年開業した湖西線と同様の踏切のない全線立体化の高速対応路線となっていた。
- 紀勢本線の新宮電化もこれと合わせて行われ、特急「くろしお」に381系電車が同時に投入されていた。
- (旧)和歌山→紀和、東和歌山→(新)和歌山の駅名改称も同時に行われている。
- 阪和線開通まで紀勢本線直通列車は南海本線経由で難波駅に発着していた。
- 阪和線開通後も南海からの紀勢本線直通はしばらく残り、現実(1985年)と同時期に廃止されていた。
- 天王寺駅の構造が現実と異なっていた。
- 恐らく地下駅となり、なにわ筋線も同時に開通していた。
- 駅間距離は現実よりも長かった。
- 紀州路快速が熊取以南各駅停車化されても、現実ほど遅くならなかった。
大手私鉄
阪急千里線(千里山~北千里間)
- 1930年代
実際に、前身の新京阪鉄道が免許(千里山~山田間)を取得していました。もし、これが実現していたら…
- 千里山~南千里or山田間で開業していた。戦後、史実より早く北千里までの延伸を実現していた。
- 北千里以北への延伸の実現も否定できない。
- 史実より千里ニュータウンが発展していた。
- 大阪外国語大学が山田駅or南千里駅or千里山駅付近に移転してきた可能性がある。
- これが実現した場合、戦後、近畿日本鉄道は大阪外国語大学のグラウンドを買収し、近鉄花園野球場を整備し、近鉄バファローズの本拠地にした。
- 新京阪鉄道の路線が阪急の手に渡ったのは史実通り。
- 阪急新大阪線(十三~新大阪~淡路間)が実現していた可能性が高い。
- 恐らく開業当初は千里山~山田間に駅は存在せず、ニュータウン開発に合わせて南千里(当初は新千里山)駅が開業していた。
- 千里山以北でも踏切が存在していた。
- 1964~1966年頃
- 史実では、1967年に開業。
- 1963年8月に千里山~南千里間の開業は史実通り。
- 自動改札機の導入も早まっていた。
- そこは開発する立石電機(現オムロン)の問題になるので別の路線が初導入になっていただけでは。
- 東京モノレールの整備場駅あたりが有力候補か。
- そこは開発する立石電機(現オムロン)の問題になるので別の路線が初導入になっていただけでは。
- 早まった分、新大阪線(十三・神崎川~新大阪~淡路間)は1967年頃に開業していた。
- その際、新大阪駅にも、自動改札機が導入されていた。
- 大阪万博が1964年に開催していたら、1964年3月に開業していた。
- 北大阪急行も同時開業していた。
京阪鴨東線
- 1930年代
- 最初から京阪が建設していたら本当に1930年代に開業できていたかもしれない。
- 史実では「地方鉄道」だった京都電燈叡山鉄道部が作ろうとしていたため「軌道」だった京都市電との交差をどうするかに時間を取られ過ぎ建設できなかった。
- 京阪本線の延長線として建設されている。
- 三条-出町柳間固有の路線名は存在しない。
- 現実の出町柳駅が「今出川」駅になっていたかもしれない。
- この場合2008年に「下鴨今出川」あたりに改名されている。
- 叡山線車両の京阪線乗り入れが実現していた。
- いずれ叡山線は京阪に編入されていた。
- 場合によっては京福電鉄ごと京阪→阪急に食われていた。
- この場合嵐電相当の区間は阪急のものになっている。
- 福井地区は戦後に別会社(おそらく阪急グループ)として独立。
- 場合によっては京福電鉄ごと京阪→阪急に食われていた。
- 加算運賃は最初から存在しない。
- 1950年代~1960年代
- 鴨東線は地上線として開業していた可能性が高い。
- 1500Vへの昇圧と淀車庫の開設と京阪特急8両編成での運行の開始が史実よりも早まっていたかもしれない。
- 1987年5月に京阪本線の東福寺~三条間と共に鴨東線も地下化された。
- 同時期に8000系電車と7000系電車が投入されていた。
- 三条駅の京阪線ホームは2面2線のホームとなり、出町柳駅のホームは2面3線のホームになっていた。また、京福電鉄との連絡線も設けられていたかもしれない。
- 鴨川沿いに沿って、建設され、跡地は川端通の建設に活用された。
- 1960年代後半の場合、京阪本線の東福寺~三条間の地下化が史実よりも早まっていたかもしれない。
- 3000系電車は全て7両編成化されていた。
- 京橋駅の移設及び複々線化と同時に8両編成化された可能性が。
- 1963年7月に開通した阪急京都本線の河原町延伸開業と比較されていた。
- 遅くても、1969年までに開業していた。
- 1968年までに開業していた場合、近鉄電車が出町柳に乗り入れていた。
- 但し京阪側の昇圧が近鉄よりも早かった場合、近鉄の京阪乗り入れはその時点で廃止されていた。
- むしろ、近鉄との直通運転が史実よりも早く取りやめていた可能性もあった。
- 京福電鉄との相互直通運転が1980年代までに行われていた可能性もあった。
- 計画通りに京福電鉄の車両は中書島までに乗り入れ、京阪電鉄の車両は岩倉か八瀬遊園までに乗り入れていた(ただし、京阪は4両編成で乗り入れていた)。
- 京阪特急が八瀬遊園までに乗り入れていたかもしれない。
- その場合、3000系電車は4+3両編成で登場し、出町柳で切り離しを実施し、出町柳以北は4両で運行されていた。
- 乗り入れに対応していた京福電鉄のデオ300形電車が史実よりも多く製造されていた。
- 2両編成で製造されていたかもしれない。
- 京阪線が1500Vに昇圧された時に打ち切られたか。
- 鴨川電気鉄道が設立されることはなかった。
- 1900系電車が特急として当路線に乗り入れていた。
- 3000系電車の登場が史実よりも早まっていたかもしれない。
- 森のゆうえんちの閉園が史実よりも遅くなっていた。
- 観光地としての鞍馬、貴船、八瀬の知名度が史実よりも高くなっていた。
- 行楽シーズンになると、鞍馬、貴船、八瀬と書かれた運行標示板が掲げられた京阪特急が運行されていた。また、京阪は「鞍馬、貴船、八瀬へは京阪特急で」という宣伝を行っていた。
- 叡山電鉄の京都精華大前駅の開業が1970年代までに実現していた。
- 地上線での開業の場合、京都市電丸太町線と交差するので、ダイヤ上のネックになっていた。
- 叡山電鉄鞍馬線の岩倉~市原間の複線化が1970年代までには実現していた。
- 1970年代
- 本線の東福寺~三条の地下化も同時期に実現していた。
- 1500V昇圧や8両編成化も現実よりも早く行われていた。
- 叡山線が京福電鉄から分社化されることはなかった。
- 史実では京都市電の廃止後連絡する鉄道が皆無になり赤字が増大して分社化されたため。
- 京阪と叡電の直通も実現していたかも。
- その場合、叡山線は京福から京阪に移管されていた。
- 1971年に登場した京阪3000系は鞍馬乗り入れを考慮して勾配対応仕様となっていた。
- 1970年開業だった場合、大阪万博が路線開業のきっかけになっていた。
- 3000系も史実よりも1年早く登場していた。
- 京阪線の15分サイクルダイヤ実施も。
- 新門真(現門真市)駅も同時に開業している。
- 開業と同時に京阪本線の1500V化された場合,5000系は製造されなかった。8両運転も同時に開始される。
- 3000系が6000系を名乗るかも(京阪開業60周年を記念する意味合いも込め)
- 開業と同時に京阪本線の1500V化された場合,5000系は製造されなかった。8両運転も同時に開始される。
- 3000系は4+4両編成で登場していた。
- 1970年に開業した場合は、地上線として開業していた可能性もあった。その場合、むしろ1960年代の項目と同じであった。
- 3000系も史実よりも1年早く登場していた。
- 加算運賃は2010年代に入って撤廃されていた。
- タイミングとしては2014年か2019年の増税のタイミングだったと思われる。
- 8000系は1990年代前半に登場していた。
- その場合、最初から8両編成で登場し、2階建て車両も最初から連結されていた。
- もしくは登場が1980年代後半に前倒しされていた可能性もあった。
- 1989年までに運行されていた宇治線直通急行が当路線に乗り入れていた。
- 1983年
- 6000系は鴨東線開業に合わせてデビューしていた。
- 同時に新型特急車両もデビューするが、8000系ではなく7000系となっていた。
- この新型特急車が好評で旧3000系を置き換えるのは史実通りだが、置き換え時期が史実よりも早く車齢も若かったので2→3扉化をはじめとする通勤車化改造が行われていた。
- その場合、1900系の冷房改造は行われなかった可能性が高い。
- この新型特急車が好評で旧3000系を置き換えるのは史実通りだが、置き換え時期が史実よりも早く車齢も若かったので2→3扉化をはじめとする通勤車化改造が行われていた。
- 同時に新型特急車両もデビューするが、8000系ではなく7000系となっていた。
- 本線の東福寺~三条の地下化や架線電圧600→1500V昇圧も同時に行われていた。
- 1987年
- 京阪本線の東福寺~三条間の地下化と同時に開通していた。
- 7000・8000系の登場も2年程早まっていた。
- 3000系は8両編成化されていた。
- 8000系は平屋の8両編成で登場、増備されていた。
- いや、当初から2階建て車両が連結されていた。
- 8000系は平屋の8両編成で登場、増備されていた。
- 1988年
- この年に開催された京都国体に合わせて、4月上旬ごろまでに開業していた。
- 7000・8000系の登場が史実よりも早まっていた以外で1989年に開業していた頃と変わらなかったか。
- その代わりに、8000系の2階建て車両の投入が史実よりも早まっていた。
- 8000系の登場時に2階建て車両が投入された(同時に8両化)かも。
- 3000系は同時に8両化されたかも。
- 叡山電鉄の京都精華大前駅の開業も史実よりも早まっていた。(当路線の開業に合わせて実施されため)
近鉄難波線
- 1914年
- 大阪電気軌道の手で開業し、現在は大阪線の一部。
- 1912年の「ミナミの大火」の焼け跡を駅用地・線路用地に転用できたため、比較的容易に難波乗り入れができた。
- 難波における南海との開発競争が激しくなる。
- 加算運賃はなかった。
- 1956年に複々線化され、これの大半が実現していた。
- 阪神なんば線開通に合わせて奈良線と大阪線のいずれかが地下化されていた。
- 難波駅は現実の大阪上本町駅と同じく地下と地上の2階建て構造となっていた。
- 阪神なんば線も史実とは違って1970年に開通していた。千日前通の拡幅と阪神高速道路の建設、なんばウォークの建設は史実通り。
- 1960年代
- 早くても、1963年頃までに、遅くても、1968年頃までに開業していた。
- これを機に、1959年頃に、花園ラグビー場周辺に近鉄花園野球場を整備し、そこを近鉄バファローズの本拠地にしていた。
- 1970年3月には、阪急新大阪線(十三~新大阪~淡路)が開業していた可能性もある。
阪神なんば線
近鉄けいはんな線
- 1970年
- 大阪万博が開業のきっかけだった。
- 開業当初は4両編成で運転されるものの、相互直通する地下鉄中央線共々史実よりも早く6両編成化されていた。
- けいはんな線開業前に大阪港-本町で使用されていた800形(旧6000形)・900形(旧6100形)は四つ橋線に転用されていた(その後1970年代末に四つ橋線から谷町線に転属し、史実通りT車化のうえ50系に組み込まれた)。
- 近鉄7000系は北大阪急行2000形と同じく大阪市30系をベースとした車両になっていた。
- 非冷房なので1990年前後には新車に置き換えられていた。
- 廃車にはせず台車交換(10400系・11400系の廃車発生品に)・パンタグラフ集電への変更・冷房改造(ラインデリア車向けの2コブキセ使用)のうえ、三重県内の路線に転用されていた。一部の車両は先頭車化改造も行われた。
- 7000系の換気装置には当時製造された近鉄車両と同様のラインデリアが採用され、三角形の蛍光灯カバーも付き、化粧板は当時の近鉄車両と同じベージュのコルク模様で、車体帯も近鉄マルーン色になっていた。
- 近鉄奈良線8000系のアルミ車8069Fは東大阪線用7000系でアルミ車体を採用するための試作車として開発された。
- 非冷房なので1990年前後には新車に置き換えられていた。
- 阪神高速道路東大阪線とは一体構造にはならなかった。
- 生駒~学研奈良登美ケ丘延伸も1980年代に実現。
- 但し生駒以東の駅名は現実と違っていた。
- 高の原あるいは学研都市方面への延伸も既に実現。
- 加算運賃は設定されるものの、現実よりは安く設定される。
- 当初の目標であった近鉄奈良線の混雑緩和に役立っていた。
- 生駒~学研奈良登美ヶ丘間が別の時期に開業していたら
史実では、2006年3月に開業。
- 1990年代
- 7020系電車の登場は史実通りだが、「シリーズ21」に準拠したタイプになっていなかった。
- 奈良生駒高速鉄道は設立されずに、東大阪生駒電鉄が設立された。
- 2000年前半
- 7020系電車は史実よりも早く登場していた。
- 2004年までに開業していたら、近鉄バファローズを応援するラッピング列車が運行されていた。
- 近鉄バファローズがパ・リーグを優勝した2001年に開業した場合、近鉄グループにとって、喜ばしい年になっていた。
- 2005年に開催された愛知万博をPRするために、ラッピング列車が運行されていたかもしれない。
- 国立国会図書館関西館や私のしごと館の開館と時期が重なっていた。
- 1980年代
- 東大阪線が1970年代に開業していたら、あり得た。
- 学研都市は大阪のベッドタウンとして現実より発展していた。
- 1990年頃に沿線の開発が大幅に進んでいた。
- 特に白庭台地区と登美ヶ丘地区では大幅に進んでいた。
- 東大阪奈良電鉄か京阪奈急行電鉄として設立されて、建設されていた。
- その場合、1986年10月に長田~学研奈良登美ヶ丘間として開業していたか、1988年か1989年に生駒~学研奈良登美ヶ丘間として開業していた可能性もあった。
- 7020系電車は登場しなかったか、登場したとしても、7000系電車と同じタイプになっていた。
京阪中之島線
- 1970年
- 同年開催された大阪万博に合わせての開業だった。
- 蒲生信号場~天満橋間の複々線化も早まっていた。
- 中之島西部エリアの開発も現実と違った形になっていた。
- 大阪大学が中之島から撤退することはなかったかも。
- ドーチカが渡辺橋駅まで繋がっていた。
- 場合によってはなにわ橋-北浜、大江橋-淀屋橋の地下通路もできていた。
- バブル期前後に西九条あたりまで延伸し、阪神との乗り入れも実現していた。
- この場合近鉄との乗り入れはどうなっていたか…。
- 旧3000系の登場が1年ちょっと早まり、中之島線開業に合わせる形となっていた。
- 加算運賃は21世紀に入って撤廃されていた。
- 1980年
- 守口市~寝屋川信号所間の複々線化とセットで開業していた。
- 当時はまだ京阪の輸送量が伸びていたので天満橋以西が実質複々線化されることにより本線の淀屋橋~天満橋間の混雑緩和に役立っていた。
- 1990年代に入ると中之島駅以西の延伸計画が具体化し、21世紀に入って西九条方面への延伸が実現していた。
- 延伸開業が阪神の難波延伸より先だった場合、阪神との直通も実現していた。
- この場合、阪神は阪急ではなく京阪と経営統合していた。
- 延伸開業が阪神の難波延伸より先だった場合、阪神との直通も実現していた。
- 中之島駅周辺の再開発も早まった。
- 朝日放送の社屋も昭和時代のうちに移転していた。
- 築20年かそこらで移転するのはさすがに想像しにくい。
- むしろ88年移転の読売テレビあたりが来る方が自然。
- 90年移転の毎日放送だったかも。
- 朝日放送の社屋も昭和時代のうちに移転していた。
- 1989年
- 翌年に開催される国際花と緑の博覧会に見据えての開業であった。
- 大阪大学医学部附属病院の吹田市への移転が史実よりも早まり、ほたるまちの開業が史実よりも早まっていた。
- 「こども本の森 中之島」の開業も史実よりも早まっていた。
- 時期的に鴨東線の開業と重なっていた。
- むしろ鴨東線の開業が1950年代~1960年代に早まっていた可能性もあった。
- 遅くても1988年までに開業していた。
- 7000系電車と7200系電車が史実よりも多く増産されていた。
- 中之島~出町柳間を結ぶ急行列車が運行されていた。
- むしろ同時に快速急行が設定されていたかも。
- 中之島~出町柳間を結ぶ急行列車が運行されていた。
- 2代目3000系電車は登場しなかったか史実よりも遅れて登場していた。
- 大阪市立科学館の開館と同時に開業していた。
- 1990年
- 同年開催された国際花と緑の博覧会に合わせて開業したことになっていた。
- 駅の内装は1987年完成の東福寺~三条の地下線や前年に開業した鴨東線と同じような感じになっていた。
- 中之島線各駅のホームは10両編成対応となっていた。
- 7000系が現実以上に増備されていた。
- 少数派系列に終わることはなかった。
- 1994年
- 関西国際空港開港に合わせて開業していた。
- なにわ筋線も同時に開業していた。
- 7200系は中之島線開業に合わせて登場していた。
- 特急の一部が中之島発着になっていたかも。
- その場合、ダブルデッカーの連結は中之島線開通と同時に行われていた。
- 1997年
- 奇しくも北側を並行するJR東西線とほぼ同時期に開業していた。
- 同年開催されたなみはや国体に伴う交通整備と位置づけられていた。
- 9000系及び8000系ダブルデッカーは中之島線開業と同時にデビューしていた。
- 快速急行も同時に設定され、これに9000系が運用されていた。
- 同時期に京阪のCMキャラクターを務めていた渡辺満里奈が開業式に呼ばれていた。
- 「渡辺」繋がりで渡辺橋駅の1日駅長も務めていた。
- 2001年
- USJの開業に合わせて、開業した。
- 新桜島駅まで開業していた。
- 2000年に開業していた可能性もある。
- 中之島周辺の再開発が史実よりも進んでいた。
- 京阪電車おでかけ情報誌「K PRESS」が阪神の駅でも配布されていた。
- 阪神は阪急ではなく京阪と経営統合していたかも。
- その場合、西九条から阪神なんば線に繋がる連絡線が建設され、阪神と京阪が乗り入れていた。
- 逆に阪神の広報誌も京阪の駅で配布されていた。
- 阪神は阪急ではなく京阪と経営統合していたかも。
- 特急の一部が新桜島発着になっていた。
- 2025年の万博開催に合わせ夢洲への延伸工事が行われるようになっていた。
- 2003年
- 3000系電車 (2代)の登場が史実よりも早まっていた。
- 中之島地区における再開発が史実よりも早まり、2010年代までには全体工事が完成していた。
- 国立国際美術館の開館と同時期に開業していた。
- 2003年のダイヤ改正は史実よりもより大がかりなものになっていた。
京阪本線(淀屋橋~天満橋間)
- 1930年代
- 阪神梅田駅や神戸市内の地下線や新京阪線の京都市内と同様、戦前に完成した地下線となっていた。
- 天満橋駅は現実と異なり複線分しか確保されていなかった。
- そのため、京橋駅の移設及び高架複々線化と同時に梅田方面への分岐線が建設されていた。
- あるいは中之島線がこの時に建設されていた。
- そのため、京橋駅の移設及び高架複々線化と同時に梅田方面への分岐線が建設されていた。
- 1960年代に鴨東線が開業していた。
- 大津線以外の600V→1500V化が京橋駅の移設及び高架複々線化までに実現。
- 開業時期次第では御堂筋線の淀屋橋駅と一体で建設されていた。
- 1970年
- 大阪万博開催に合わせて開業したことになっていた。
- 京橋駅の移設及び高架複々線化と同時施工されていた。
- 淀屋橋駅は現実とは異なり、御堂筋線の下をくぐって地下3階に設置されていた。
- 位置も御堂筋の西側になり、御堂筋線淀屋橋駅とともに四つ橋線肥後橋駅とも接続していた。
- 中之島線は淀屋橋から延伸される形になっていた。
- 地下線が複線なのは現実通りだろう。
- そのため、中之島線開通後も天満橋行きが残っていた。
- 1960年代に京阪線の直流1500への昇圧が実現していたかもしれない。
- 京都側の市電(600V)との平面交差をどうにかできなければ無理。
南海和歌山港線
- 1903年
近鉄吉野線
- 1970年
- 最初の大阪万博に合わせて開業したとされた。
- 6200・16000系が史実以上に導入された。
- 現実より線形が良かった。
- 踏切が存在しても数か所。
- むしろ橿原線の延伸扱いだった。
- その場合、京都~吉野の直通特急が運行され、大阪からの特急も大阪難波あるいは大阪上本町駅発着だった。
- 車両は奈良線グループと共通運用となっていた。
- 2009年に阪神なんば線が開通すると、阪神神戸三宮~吉野直通も運転されていた可能性がある。
南海加太線
- 1970年
地下鉄
神戸高速鉄道
- 1930年代
- 神戸市の第三セクター会社ではなく、阪急・阪神の延長線として開業していた。
- 阪急・阪神と山陽は新開地を境に会社が分かれる形となっていた。
- 阪急・阪神~山陽・神鉄に乗る場合、3社から2社に減ることから運賃が安くなっていた。
- 山陽電鉄の電鉄兵庫駅は戦前に廃止されていたか、三宮方面の線路がここから延長する形で建設されていた。
- 阪神大震災で地下トンネルが崩壊することはなかったかも。
- 実史では戦前に建設された高架橋や地下トンネルは大きな被害を受けなかったため。
- 梅田~姫路の直通特急も早期に実現していた。
- 阪急も直通特急の運行に参加していた。
- 「省線への対抗」で開業から運行したかもしれない。大阪万博までにカルダン駆動車での運行に統一。
- 阪急も直通特急の運行に参加していた。
- 阪神大水害で浸水し大きな被害を受けていた恐れあり。
- 1966年
- 同年開催された姫路博覧会に合わせての開業だった。
- 大阪方面から山陽で姫路博覧会に行く人などで博覧会の入場者が現実よりも増えていた。
- それでも姫路モノレールの運命は一切好転しなかった。
- 阪神・阪急も姫路博覧会のPRを行っていた。
- 阪急梅田・阪神梅田~山陽姫路間を結ぶ臨時特急が運行されていた。
- その後も阪急・阪神梅田-山陽姫路を結ぶ特急が運行される。国鉄時代は梅田-姫路間の通し利用者が多かった。
- 大阪方面から山陽で姫路博覧会に行く人などで博覧会の入場者が現実よりも増えていた。
- 阪神本線と阪急神戸線の昇圧は1965年頃に行われていた。
- 阪急3000系電車、5000系電車の登場が史実よりも早まっていた。
- 3000系電車は宝塚線をメインにして投入されていたかもしれない。
- 1967年
- この年は、阪急千里線の北千里までの延伸開業と阪急ブレーブスのパ・リーグ初優勝という阪急にとっては、輝かしい年であった。
- 阪神本線や阪急神戸線の1500Vへの昇圧が史実よりも早まっていた。
- 阪急5000系電車の登場も史実よりも早まっていた。
- 昭和42年7月豪雨による被害を受けて、一時不通になっていたかもしれない。
- 1990年代
- 建設理由は阪神大震災の復興。
- 阪急・阪神・山陽・神鉄の地上側ターミナルは撤去。
- 神戸電鉄は三宮駅に乗り入れていた。
- 直通特急のスピードアップのため、途中に追い越し線が設置されていた。
- 地下トンネル及び駅ホームは近鉄車両の入線が可能な設計になっていた。
- 近鉄車も新開地までは殆どが直通していた。場合によっては奈良-姫路間の直通列車も運行されていた。
- 阪急神戸線と神戸市営地下鉄の直通構想は浮上しなかったかもしれない。
神戸市営地下鉄海岸線
- 1980年代
元町 Motomachi |
→ | 栄町 Sakaemachi |
→ | 神戸 Kōbe |
- リニア地下鉄ではなく西神・山手線と同一規格の路線となっていた。
- 線路も当然つながっていて直通運転が行われていたかも。
- あるいは史実で構想があった高架式新交通システムだった。
- 一部の駅の駅名が現実と異なっていた。
- 「ハーバーランド」は「神戸」、「みなと元町」は「栄町」、「旧居留地・大丸前」は「元町」になっていた。
- 「三宮・花時計前」も「三宮南」だった。
- JR和田岬線は廃止されていたかもしれない。
- キハ35系300番台は登場しなかった。
- 1990年代
当初は1999年に完成する予定でした。
- 史実よりも利用客が若干多くなっていた。
- ≒もし阪神・淡路大震災が発生しなかったらである。
京都市営地下鉄烏丸線
- 1930年代
- (大阪市営地下鉄→大阪メトロ御堂筋線と同じく)世界恐慌の失業者対策で建設された。奈良電(→近鉄)との直通は考慮されない。
- 南の終点が竹田ではなく中書島あたりだった。
- 南部延伸が完了した時点で(おそらく昭和30年代)市電伏見線は消えていた。
- 南の終点が竹田ではなく中書島あたりだった。
- 駅構内は豪華な造り。↑の御堂筋線梅田-なんば間に近い雰囲気。
- 「京都人の先進性」を語るエピソードの一つとしてよく使われる。
- 皇紀二千六百年までに京都-北大路間は開業済み。
- 京都市の人口は現実より1-2割多い。
- 戦後の景観条例もあるのでそこまで劇的に影響があったかどうかは分からない。
- 丸太町と四条の間では御池ではなく三条に駅が置かれていた。
- 戦後の阪急京都線延伸工事がさらに難しくなっていた。
- 烏丸駅が史実より深い位置にできていたかもしれない。
- 史実でも検討されたように堀川通経由だった可能性も。
- 戦前のことなので御所付近の区間では宮内省ともめていた恐れもある。
- 御池線(東西線)の建設開始も早まっていた。
- 昭和のうちに一部区間ができていたかもしれない。
- 1975年
- 当初の開業目標年。
- あまりバリアフリーには配慮されなかった。
- 市電の烏丸車庫が史実より早く廃止される代わりに九条車庫が全廃まで残る。
- もちろん市電と地下鉄の乗り継ぎ割引もあった。
- 市電廃止前の工事なので一部区間では難しい工程が必要だった。
- 車両のデザインはもう少し古臭い感じ。
- 開業当初の車両は非冷房、抵抗制御で登場していた。
- 一部駅では市電との連絡の関係で現在はあまり役に立たない出口があった。
- 近鉄3000系は登場時から烏丸線に乗り入れていた。
- 量産化されていたかも。
- 初期車は冷房準備車(ラインデリア装備)として登場していた。
京都市営地下鉄東西線
- 1970年代
- 京阪乗り入れがなかった。
- どのみち京津三条~御陵or山科間は廃止されていた。直通が無かった場合は分社化が断行されていたかもしれない。
- 車両サイズが路面電車並みに小さかった?
- その上で高架だったかも。ただし景観論争勃発。
- 嵐山まで延伸していたか。
- 計画通り洛西ニュータウンまで延伸していただろう。但し開業は早くても1990年代末。
- 嵐山方面は嵐電に乗り入れていたかも。
- ホームドアは現在も設置されていない。
- 烏丸御池駅は最初からこの駅名だった。
- 1994年
- 当初の開業目標年
- 平安遷都1200年を記念して開業していた。
- 京阪700形は現実よりも早く登場していた。
- 80形は冷房改造されずに廃車されていた。
- 六地蔵や太秦天神川への延伸も現実よりも早かった。
大阪市高速電気軌道今里筋線
- 1970年代
- リニア式ではなく第三軌条方式になっていた。
- 谷町線と直通していた。
- 太子橋今市~関目高殿(関目成育)間は新森古市経由ではなく千林大宮経由になり、谷町線と2階建ての構造になっていた。
- 大日~今里間や井高野(または上新庄)~文の里・八尾南間の系統も運転されていた。
- 井高野ではなく上新庄が起点だったかも。
- 1990年代以降に今里~湯里六丁目間が延伸されていた。
- 谷町線駒川中野駅は今里筋線との交差部分に近い場所に設置され、相互乗り換えも可能となっていた。
- JR大和路線との接続駅の名称は「杭全東部市場前」となっていた。
- 表向きはトロリーバスの代替路線ということになっていた。トロリーバス廃止の翌日に開業していた。
大阪市高速電気軌道長堀鶴見緑地線
- 1970年代
- 他の地下鉄路線と同じ第三軌条方式となっていた。
- 日本初のリニア地下鉄は都営地下鉄大江戸線となっていた。
- 路線名は「長堀線」となっている。
- 東側の鶴見緑地側ではなく都心側から開業していた。
- 恐らく千日前線と同様4両編成での運転となっている。
- 当時はOBPがまだなかったので、京橋~谷町六丁目は森ノ宮経由ではなく上町筋経由になっていたかも。
- 1980~90年代に大正以南鶴町方面への延伸が実現している。
- 当時は大阪ドームがまだなかったので「大阪ドーム前千代崎」→「ドーム前千代崎」は「千代崎」として開業していた。
- そしてドームの開業後に改名していた。
- 「四ツ橋」駅は長堀線開通と同時に「心斎橋」駅に改称されていた。
大阪市高速電気軌道千日前線
- 1990年代
- 長堀鶴見緑地線と同じくリニア地下鉄となっていた。
- 長堀鶴見緑地線及び今里筋線との連絡線が設置されていた。
神戸市営地下鉄西神・山手線
- 1972年
- 新神戸駅の利用客が早いペースで増加していた。
- 当初の予定通り青谷・王子動物園方面に延伸されたかもしれない。
- 阪急神戸線との乗り入れも早期に実現していたかも。
- 1000形は非冷房で登場した。
- 表向きは前年に全廃された市電の代替を兼ねた。上記の新神戸駅は当線開業時から存在した。「のぞみ」の全列車停車は2000年頃か。
- 1981年
- ポートピア博覧会に合わせて開業したことになっていた。
- 同じ年に開業した京都市・福岡市の地下鉄と何かと比較されていた。
大阪市高速電気軌道御堂筋線(我孫子~中百舌鳥間)
- 1971年
- 泉北高速鉄道と同時に開業していた。
- 場合によっては泉北高速鉄道は南海ではなく御堂筋線と直通運転していた。
- 中百舌鳥駅は南海・泉北高速鉄道と御堂筋線が一体構造になっていた。
- 乗り換えが現実よりも便利になっていた。
- 中百舌鳥駅に南海の優等列車が停車していたかもしれない。
- この時点で車庫も我孫子から中百舌鳥に移転していた。
- 10両編成化も現実よりも早かったかもしれない。
- 我孫子以南は高架線になっていたかもしれない。
その他
大阪モノレール
- 1970年
- 中国道・近畿道と一体で建設された。
- 少なくとも大阪空港-万博会場が最初から開業している。
- 東側の終点は国鉄茨木駅。
- 門真市への延伸はやや後年にずれ込んだ。
- 国鉄茨木駅は中央環状線からは北にずれているので、門真市への延伸はスイッチバックで行われていた可能性もある。
- 1970~80年代前半までに門真市延伸を果たしていた場合、大阪府運転免許試験場へのバスは門真市発着のままだった。
- 地下鉄谷町線も1977年の時点で大日まで延伸していた。
- 京阪門真市駅が島式2面4線ホームとなり、準急が停車していた可能性もある。
- 宇野辺駅は当初からこの駅名で開業していた。
- 門真市への延伸はやや後年にずれ込んだ。
- 東側の終点は国鉄茨木駅。
- 日本跨座式の初お目見えとなった。
- 大阪万博を象徴する場面として「会場をバックに走るモノレール」というシーンがよく使われている。
- 大阪万博の思い出として「モノレール」を挙げる人が少なくない。
- そもそも史実の大阪万博でもモノレール(大阪モノレールとは別)は走っていたんだが…。
- 万博会場のモノレール車両が万博閉幕後大阪モノレールに譲渡されていた可能性もある(方式がともに同じ日本跨座式だったため)。
- 記念公園駅が中国道の北側に建てられ、万博会場内モノレールの1/2-1/4は彩都線に転用されるほか、車両基地も万博時のものを拡張し会場内モノレールの北側は出入庫線として転用されている。東急電鉄が大阪モノレールの大株主になっている。
- 現在は門真市以南へ延伸している。
- 延伸の時期にもよるが、近鉄けいはんな線の荒本駅が現実とは異なり中央環状線の交点に建設されていたかも。
- 門真市以南への延伸が1990年までに実現した場合、鶴見緑地で開催された花博へのアクセスとしても活躍していた。
- 地下鉄長堀鶴見緑地線もモノレール開通と同時に門真南まで開通していた。
- イベントなどで万博当時の塗装を復元した車両が走る。
- 千里中央駅は北大阪急行の駅と一体で建設されていた。
- 大阪府と在阪私鉄出資の第三セクターではなく、東急(もしくはその子会社)が運行していたかもしれない(因みに万博モノレールの運行は東急が行っていた)。
- 東急グループの関西進出の一環とされた。系列であった日本国内航空は特別塗装機を飛ばした。後にこの塗装を復元した機体を飛ばす。東急系のホテルが1970年頃から関西に多く建設される。
- 開業時の車両が1990年代半ばまで走った。1両程度は車庫に保存される。冷房付きの車両は1980年代から導入。
- 開業時の車両は「100形」だったと思われる。
- その次に登場する車両が「1000形」を名乗った(号車付番方法は100形と同じ)と思われる。
- 1000形以降もATOに対応していると思われる。
- ホームゲートはいつ頃設置されただろうか。
- 開業時の車両は「100形」だったと思われる。
- 現実より運賃が安くなっていた。
- そのため利用者数が史実より多くなっている。
- どこかで兵庫県内へ延伸されたかも。
- 1980年代
- ちなみに当初の計画では、南茨木~千里中央間は1988年春に開業する予定でした。
- 最低でも、1989年までに南茨木~千里中央間が開業していた。
- その場合、翌年に開催された国際花と緑の博覧会の開催に間に合い、それに伴って、ラッピング列車が運行されていた。
- それ以外の面で、史実とあまり変わらなかったか。
- 門真市~瓜生堂間が平成期に開業していたら
史実では、2029年度に開業予定。
- 早くても、1999年頃に、遅くても、2019年3月頃に開業していた。
- それよりも、南茨木~門真市間の開業も史実よりも早まり、なみはや国体が開催された1997年に開業していた。
- 近鉄奈良線に「瓜生堂」駅が開業していた。
- 東大阪市役所の荒本地区への移転が史実よりも早まっていたかもしれない。
- 近鉄のラッピング広告列車が運行されていた。
- 2010年代に開業していた場合、3000系電車の登場が史実よりも早まっていたかもしれない。
- 2010年までに開業していたら、近鉄ハーツはリニューアル化されて、存続していた。
- 1997年のなみはや国体の開催に合わせて、門真南までの先行開業が実現していたかもしれない。
- 彩都線(阪大病院前~彩都西間)が2004年に開業していたら
- 史実では、2007年3月に阪大病院前~彩都西間が開業しました。本来は彩都の街開きが行われる2004年に開業する予定でした。
- 大阪外国語大学へのアクセスが史実よりも良くなっていた。
- 国際文化公園都市の整備が史実よりも進んでいた。
- 2007年3月に彩都東(計画では東センター)までに延伸していたかもしれない。
- もしくは、2007年3月に東大阪市への延伸が実現していたかもしれない。
- それでも大阪モノレールの経営状態が良くなっていたかどうかは分からない。
- 街開きの時に阪急バスが千里中央~彩都間の路線バスを開設することはなかった。
- JR茨木・阪急茨木市~彩都間の路線バスが開設されるのが史実よりも早まっていた。
愛宕山鉄道
- 1950年代
- 京福と阪急の合弁企業が運行。
- 平坦線の車両は京福嵐山本線との共通運用。
- 愛宕駅-愛宕神社のロープウエーも開業していた。
- 建設時期によっては朝鮮戦争による鋼材高騰に苦しめられた。
- 遊園地やスキー場開発も史実通りやっている。
- 八瀬遊園はなかったかもしれない。
- なお現在はほとんど閉鎖もしくは売却されている。
- 鳥居本駅は後に門前町の景観に調和した駅舎に建て替えられた。
姫路モノレール
- 1980年代
- 日本跨座式が採用されている。
- まずは姫路駅-姫路城の間ができる。
- のちに書写山まで延伸されるが山陽本線以南へは延びない。
- 姫路駅は地下に設置されていたかもしれない。
- 一部区間では同時に道路整備も行われる。
- 姫路城駅の位置によっては世界遺産登録の際に何か問題になっていた。
- 姫路市の直営ではなく兵庫県や姫路市、山陽電鉄、神姫バス、地元企業などが出資した第三セクターとして開業していた。
- 今頃は、ワンマン運転を行っている。
- 龍野→たつの市内への延伸計画が出る。
泉北高速鉄道
- 1920年代
- 高野鉄道が「和泉鉄道」あたりを名乗る子会社をつくりそこが建設。
- 近鉄発足時にその路線に。
- 昭和恐慌がなかったら1930年代に粉河へ延びたかも。
- 1970年代後半
- 同時期に開通した京王相模原線と同様、鉄建公団の「P線方式」を適用して南海の路線として開業していた。
- 運賃も安くなっていた。
- 1990年代のバブル期に通勤用の有料特急が運転されていたかも。
- 「泉北ライナー」のデビューが早まったかも。
- 11000系はあと2編成ぐらい製造されていた。
- 路線名は「南海泉北線」になっていた。
- 深井地区は泉北ニュータウンから外れるので、多摩境駅のように駅開業が遅れていた(助成されるのがニュータウンから外れる1駅目までという要項があるので)。
- 場合によっては中百舌鳥~光明池間が一気に開業していたかも(史実では中百舌鳥~泉ヶ丘が1971年開業で光明池までは1977年に開業)。
- 和泉中央への延伸は史実通り。
- 大阪府都市開発が鉄道事業に乗り出すことはなく、トラックターミナルを運営するのが主体の会社となっていた。
- 南海の子会社になることもなく、現在でも大阪府の第三セクター。
北大阪急行電鉄
- 1964年
- 御堂筋線の梅田~新大阪延伸と同時開業していた。
- もちろん新大阪~江坂も同時開業している。
- 千里ニュータウンの街開きからすぐに開業していた。
- 千里ニュータウンの発展も現実よりも早かったかもしれない。
- 車両は大阪市50系に似たような仕様になっていた。
- 車内外は阪急3000系の仕様を取り入れる。登場時は「御堂筋線に乗り入れる阪急電車」として注目された。後の大阪市30系の車内はもう少し良質だったかも。
- 千里中央駅が現在地に開業していた場合、万博アクセスとして活用されていたのだろうか?
- 大阪モノレールが20年早く開業,大阪空港-万博会場が最初から存在したかもしれない。大株主は東京モノレール(日立)と東急辺り。阪急は千里線と京都線梅田-淡路を8両運転対応にする。梅田駅の移転は大阪万博までに完了。同時に北千里まで8両運転を行う。
- 千里中央~箕面萱野の延伸も1980~90年代に実現していた。
- 阪急千里線が南千里~上新田~桜井間のルートが初めから構想されることはなく、南千里~上新田~桜井間のルートで構想されていた。
- 場合によっては、南千里~北千里間の開業が史実よりも早まっていたかもしれない
- 1971年以降の場合
- 阪急新大阪線(十三~新大阪~淡路)が開通し、阪急千里線が万博会場に乗り入れ、会場輸送のメインルートになっていた。
- その場合、大阪市営地下鉄御堂筋線は江坂駅まで開業し、江坂駅から会場へはバスで輸送していた。
- 早くても、1974年に開業していた。
- 緑地公園駅も開通時に開業していた。
- 沿線にある駿台予備学校大阪校(1981年開校)及び代々木ゼミナール大阪校(1987年開校、2015年閉鎖)の開校が史実より早まっていた。
- 中津にある河合塾大阪校(1984年開校)も史実より早く開校していた。
- 1980年前後に開業した場合、自社の車両は現実の大阪市10系に酷似した冷房付き電機子チョッパ車となっていた。
- 但し内装は阪急タイプとなっていた。
- 現実の10系は試作車と同じく20系を名乗っていたかも(北急2000形と車番が被るころが改番の理由だったので)。その場合北急の車両が1000形を名乗っていた。
- 初代ポールスターこと8000形は登場せず、2010年代に入って9000形に置き換えられていた。
- もし中国国民党が中国共産党に勝っていたらそうなっていただろう。
- 千里ニュータウンの発展が現実よりも遅れた。
- もし大阪万博の開催がなかったか、あるいは史実(1970年)よりも遅れていたらこうなっていたかもしれない。
- もし前者だったら運賃は現実よりも高くなっていた。
- 千里中央~箕面萱野が1990年代に開業していたら
- 8000形ポールスターがさらに増備されいてた。
- 御堂筋線で見かける機会も多くなり、現実ほどレアな存在ではなくなっていた。
- 9000系電車の登場は史実通りだが、登場は史実よりも遅れていた。
- 箕面市東部地域や彩都の開発が現実よりも進んでいた。
- 彩都の開発はあまり関係がないと思うが…
- 阪大箕面キャンパスの箕面船場地区移転が現実よりも早まっていた。
- 統合前の大阪外国語大学時代に移転していたかもしれない。
- 1979年にできた校舎であるので、そう早く移転することはなかったと思う。
- みのおキューズモール(旧ヴィソラ)の来客数が現実よりも多くなっている。
- 逆に千里中央地区が相対的に地盤沈下し、対抗のためセルシーは2018年の大阪北部地震以前に建て替えられていた。
- みのおキューズモールの開業と109シネマズの開館が史実よりも早まっていたかもしれない。
- その際には、ダイエーが出店していたかもしれない。
- 場合によっては、御堂筋線の10両化が史実よりも早まっていたかもしれない。
- 阪急は、客離れを防ぐために、箕面線直通列車は今でも運行されていた可能性があった。
- 当初の予定通りに、「箕面船場駅」になっていた。
- 2010年代になって、「箕面船場阪大前駅」に改称されていた。
- 箕面市の人口が史実よりも増えていた。
- 当社の情報誌である「ザ・ポールスター」がA4サイズに拡大していた。
- 1996年に開業した場合、スルッとKANSAIの導入と同時期であった。
- 千里中央~箕面萱野が1980年代に開業していたら
- 8000形電車は史実よりも多く増備されていた。
- 開業時に登場していた場合もあり得る。
- 御堂筋線の10両編成化が史実よりも進んでいた。
- 国際花と緑の博覧会が開催されていた1990年までに実現していた。
- 大阪外国語大学は開業を見据えて、箕面市粟生間谷ではなく、箕面船場地区に移転していたか移転する時期が史実よりも早まっていた。
- 開業時は「箕面船場駅」だが、2010年代になって、「箕面船場阪大前駅」に改称されていた。
- 阪急グループの主導によって、箕面萱野地区や箕面船場地区において、宅地開発が行われていた。
- 彩都も現実よりも早く開発されていた。
- 阪急箕面線の梅田直通は早期に廃止されていた。
- いや、阪急箕面線は箕面市の中心部を通っており、また、創業以来の路線でもあるから、梅田直通の列車はある程度維持されていたのではないかと。
- 勝尾寺へ訪れる人が史実よりも多くなっていた。
- 箕面公園へ行く場合も箕面萱野まで行ってそこからバスに乗り継ぐ人が現実よりも多かった。
- 箕面市の人口が史実よりも増加し、2010年代か2020年代に中核市に移行していた。
- バブル期に箕面山をトンネルで貫いて豊能町中心部まで延伸する計画が出ていたかもしれない。亀岡まではさすがに無理だが。
- 実現していた場合、箕面森町の開発も現実よりも早かった。
- 豊能町の北大阪ネオポリスは人気の住宅地となり、「絶望ヶ丘」と揶揄されることもなかった。
- 能勢電鉄の光風台・ときわ台あたりからバスで北急の駅に向かう流れも存在していた。
- 千里中央~箕面萱野が2015年に開業していたら
- 9000形電車は増備用として登場していた。
- 8000形電車の廃車は史実よりも遅れていた。
- みのおキューズモールも開業に合わせて、リニューアル化されていた。
- 千里中央~箕面萱野が2000年代に開業していたら
- 延伸開業に合わせて、みのおキューズモールが開業していた。
- 増備車として、8020形電車か8050形電車が登場していた。
- 9000形電車の登場は史実よりも4年程度遅れていた。
- 箕面市北部にある水と緑の健康都市が延伸開業を見据えて、開発が進められていた。
- 箕面萱野と結ぶ路線バスが運行されていた。
北神急行電鉄
- 1985年
- 神戸市営地下鉄西神・山手線が大倉山~新神戸間が開業したのと同時に開業した。
- 同年開催されたユニバーシアード神戸大会に合わせる形にもなっていた。
- ひょっとしたら、1986年4月にずれ込んで、開業していたかもしれない。
- 7000系電車の登場は史実通り。
- 但しVVVFインバータ制御車ではなく、神戸市1000形と同じチョッパ制御車となっていた。
- 神戸市交通局1000形電車、2000形電車とともに、6両化されるのが史実よりも早まっていた。(史実では、1989年11月に実施された。)
- 1987年
当初の開業予定
- 神戸市営地下鉄西神・山手線が名谷~西神中央間が開業したのと同時に開業していた。
- 6000形電車は最初から6両編成で登場していた。
京都丹後鉄道宮福線
- 1930年代
- 北丹鉄道により、開業した後に、戦時買収で国有化された。
- 福知山~宮津~西舞鶴・豊岡間が宮津線となっていた。
- むしろ福知山~宮津~西舞鶴が「宮津線」で宮津~豊岡が「丹但線」になっていたかも。
- 1970年代
- 北丹鉄道が史実よりも早く廃止されていたら確実にあり得た。
- 特急「あさしお」、急行「丹後」、急行「丹波」が当路線に乗り入れていた。
- 宮福線が「宮津線」に、宮津線は「丹後線」と整理されていた。
- 丹後線が特定地方交通線に指定されて、北近畿タンゴ鉄道に移管されるのは史実通りか。
- 福知山駅の高架化が史実よりも早まっていた。
水間鉄道
- 1910年代
- 南海が建設し運営。
- 1970年代
- 府都市開発→(史実の)泉北高速が建設し運営。
- 「泉北高速」ではなく「和泉高速」になっている。
- さすがに(史実の)泉北高速線と車両共用にならないか。
- なんばからの直通急行がある。
- 「泉北高速」ではなく「和泉高速」になっている。
- 現実の泉北高速線がこの路線との交点まで延伸されていた可能性もある。
和歌山電鐵
- 1930年代
- 和歌山軌道線と同一規格だった。
- 新町線の延長で開業。
- 1970年