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(飯田橋駅の新駅舎。旧駅舎の改装を経て落成。 カテゴリ:鉄道駅画像/東京)
 
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*[[バカ人物志/中国]]
== 概要 ==
[[東京23区の駅/千代田区#飯田橋駅の噂|飯田橋駅]]の新駅舎。旧駅舎の改装を経て落成。


==神代の女子==
[[カテゴリ:鉄道駅画像/東京]]
===女媧===
#人間を作った女神様らしい。
#*最初の頃は泥をこねてひとりひとり丁寧に作っていたが、だんだん面倒くさくなって、縄を泥に漬けてふるい落とし大量生産。
#**丁寧に作られたのが王侯貴族に、テキトーに作られたのが庶民になったそうな。
#天が壊れた時に修理したらしい。
#*青い石で空を修理していたが、足りなくなったので他の色の石でごまかしたそうな。
#**どうもだいぶアバウトな性格の女神だったと思われる。
 
===西王母===
#仙人の総元締めみたいな女神様らしい。
#*[[周]]の穆王が会いに行ってなかなか帰ってこなかったとか、[[漢]]の武帝に仙桃を与えたとかいう話がある。
#「能嘯」(しょっちゅう大声で吠えている)という、女神のイメージとは似つかわしくない記述もある。
#道教が整備されると、玉帝上皇のママという設定になった。
 
==上代の女子==
===妺喜===
#夏の桀王に愛された女性。
#*桀王に咎めを受けた「有施氏」の君主から献上されたとか。
#最初の字は「いもうと」ではない。要注意。
#*妹萌えの元祖って書こうとしたのに・・・orz
#絹の布を引き裂く音が好きという、変な趣味があった。
 
===妲己===
#[[殷]]の紂王に愛された女性。
#*紂王の咎めを受けた「有蘇氏」の君主から献上されたとか。
#狐が化けた美女だったという噂もある。
 
===褒姒===
#[[周|西周]]の幽王に愛された女性。
#黒竜の唾液から生まれたという噂もある。
#「笑わずの姫」として有名。
#*何をどうされても笑顔を見せたことはなかったが、間違えて上げられた狼煙を見て集まった諸国の軍勢がうろたえているところを見た時だけ、なぜか笑い出したとか。
#**レアな笑顔にいかれてしまった幽王は、褒姒を笑わせようと意味もなく狼煙を上げ続け、そのうち誰も集まらなくなってしまった。王宮が犬戎に攻められて本当にヤバいことになってからも誰も集まらず、西周は滅亡した。
 
==春秋戦国の女子==
===夏姫===
#春秋時代の鄭の国に生まれた美女。
#何度も結婚したが、相手がみんな早死にしてしまう魔性の女でもあった。
#成人した息子が居る齢になっても美貌は一向に衰えず、各国の王侯貴族を惑わしまくった。
#*息子の夏徴舒はなんとクーデターを起こして、当時中程度の実力を持った国だった「陳」を一時は乗っ取ってしまった。
#**陳の君主・霊公と、重臣の孔寧・儀行父が、3人がかりでママをもてあそんでいるのを知ってぶち切れたそうな。
#***その頃夏姫はどんなに若く見積もっても35歳近くにはなっていたはずで、現代のイメージでは40代後半くらいだろう。どんだけ色気があったのかと。
#最後の夫は楚の重臣だった巫臣。二人で晋の国に亡命し、その後は穏やかに余生を送った。
 
===西施===
#越王勾践から呉王夫差に献上された美女。
#*夫差に敗戦し、屈辱の日々を送っていた勾践が、夫差を骨抜きにするべく送り込んだハニートラップである。
#*もっとも、どの程度効果があったかは微妙。夫差が亡んだのは、中原の覇権争いに首をつっこんで足元がおろそかになったせいと考えられるし。
#しかめっ面が魅力的だったという不思議な美女。
#*ちなみに「ひそみに倣う」という慣用句は、西施が胸を押さえて眉をひそめているのを見た不細工な女が、真似をしたという故事から生まれた。
#*胸の持病があり、発作が起きると胸を押さえて眉をひそめるしぐさと表情が、男衆にはたまらなかったらしい。現代の感覚でもわからんでもないな。
 
==秦漢の女子==
===虞美人===
#項羽に愛された女性。
#「美人」は後宮の身分のひとつに過ぎず、本名は不明。
#*つーか人となりもさっぱり不明。大体の年齢や出身地さえわからない。
#*「四面楚歌」の状態に陥った項羽が、最後に歌った「垓下の歌」のラストで「虞や虞やなんじをいかんせん」と哀惜を込めて触れられているので、よっぽど愛されてた女が居たんだろうな~と思われたわけ。
#*そんなわけで、本によって人物像は全然違うので要注意。
#足手まといになるので、本人納得の上、項羽に刺殺された。
#*その時落ちた血が「虞美人草(ヒナゲシ)」になったという。
 
===呂后===
→[[漢#呂后|呂后]]
 
===王昭君===
#[[漢]]の元帝の頃、匈奴との和平に際して贈られた女性。
#野蛮人の国に売られた女性として、古来同情する人が多いが、大きなお世話かも。
#*漢の後宮に居るだけでは、一生皇帝に寵愛されることもなくむなしく老いてゆく可能性が高いが、匈奴に行けば皇后みたいな立場。女としてどっちが幸せかということです。
#元帝は匈奴に贈る女性を選ぶために、後宮の女官の似顔絵を描かせたが、王昭君は絵師にワイロを渡さなかったので醜く描かれ、それで贈られるはめになってしまった。いよいよ出立の日、元帝がはじめてナマの彼女を見たところ、すごい美人だったので後悔し、絵師を処刑した……というような伝説があるが、きわめて疑わしい。
#*長年の強敵だった匈奴が和平を求めてきたのだから、腫れ物に触るような扱いだったはずで、わざわざ醜い女を選ぶはずがないし、似顔絵だけで決めるなんてこともあり得ない。いわば女性全権大使だから、才色兼備の美女が慎重に選ばれたと考えるのが妥当。
#*実際、匈奴に行ってからは、漢と匈奴の仲立ちとしてかなり活躍している。
 
===王政君===
#[[漢]]の元帝の皇后。前漢末期のキーパーソン。
#元帝にはあんまり愛されなかったらしい。
#*元帝が愛した女は、皇太子時代に病死。落ち込んでいるのを見かねて、母后が何人かの女と見合いさせた。元帝は全然その気になれなかったが、母の顔を立てるだけのためにひとり選んだ。これが王政君だった。
#*もっとも、一応元帝の子供は産んでいる。そのため、元帝没後は皇太后、さらに太皇太后として朝廷に君臨することになる。
#前漢を亡ぼして[[新]]を建てる王莽は彼女の甥。
#*王政君は血縁の者を次々に高官に取り立てたが、漢王朝を乗っ取ろうとは少しも思っておらず、王莽から伝国の玉璽を要求された時には激怒したらしい。
#**「そんなに欲しいなら自分で作ればいい! 莽の十八番じゃないの!」と言ったそうな。王莽に関する数々の奇瑞が、すべて王莽自身のでっち上げてだったことを、まるっとお見通しだったらしい。
 
===陰麗華===
#[[後漢]]光武帝の皇后。
#光武帝が若い頃から惚れていた。当初は高嶺の花みたいな存在だったらしい。
#*「官に就くなら執金吾、嫁をめとらば陰麗華」と口癖のように言っていたとか。
#**ちなみに執金吾は警視総監のような、近衛隊長のような役職。制服がカッコいいので若き日の光武帝が憧れていたらしい。
#なかなかできた人だった。
#*光武帝のほうが惚れ抜いていたのに、当面第二夫人の地位に甘んじていた。
#**最初の皇后は郭聖通という女性で、その一族の力を光武帝が必要としていたことを陰麗華はよく理解しており、自分から申し出て側室となったという。
#*郭皇后が廃されたあとで皇后になったが、自分の一族を要職に就けることは一切なかった。外戚にひっかきまわされることの多かった後漢の中では珍しい存在。
 
===班昭===
#[[後漢]]前期の女流歴史家。
#*いわば歴女の元祖。しかもとてつもないスケール。
#司馬遷の「史記」に続く正史「漢書」は、班昭と彼女の長兄・班固の共同執筆。こんなに堂々たる史観と知識と文才を併せ持った女性は、中国史上でも珍しい。
#*しかも彼女の次兄は、西域の鬼傑として有名な班超将軍。すごい兄妹である。
 
===貂蝉===
#三国志演義に出てくる美女。架空の人物らしい。
#呂布が董卓のところの婢女とねんごろになったのは本当のようなので、それがモデルだろう。
#*演義では王允の養女で、董卓と呂布の間を裂くために送り込まれたハニートラップだということになっている。両者を手玉に取り、呂布に董卓を殺させる。
#その後の消息は明らかでない……いや、架空の人物なんだから消息も何も無いんだが。
#*呂布夫人として最後まで付き従ったが、関羽に見そめられたなんて話もある。
#**関羽が呂布の未亡人を欲しがったという話は一応噂としてあったらしい。上記の婢女とは別人だろうが。
 
==六朝の女子==
===馮后===
#北魏の文成帝の皇后。夫が若死にした後、皇太后として献文帝・孝文帝を後見する。
#*後見というより、実質は彼女が皇帝みたいなものだったらしい。献文帝は彼女のお眼鏡にかなわず、6年で息子の孝文帝に譲位させられた。
#専横をふるっていた丞相の乙渾を誅殺するなど果断なところもあるが、西太后のようなむちゃくちゃなオバハンではなく、政治を充分に心得た女性だった。
#*均田法、三長法などの革新的な政策を施行。孝文帝時代の北魏の全盛期を準備したと言える。
 
===木蘭===
#南北朝時代に居たと伝えられるスーパーヒロイン。モデルは居たかもしれないがたぶん架空の人物。
#老いた父に代わって男装して従軍し、突厥など北方民族を相手に大活躍。
#京劇のヒットナンバーとしては有名だったが、中国の外ではほとんど知られていなかったのに、近年になってデ*ズニーのアニメ映画に取り上げられ、急に知名度が上がった。
#*ただし、「ムーラン」を「木蘭」だと理解している人はどのくらい居ることやら……
 
==隋唐五代の女子==
===独孤后===
#[[隋]]の文帝の皇后。
#*鮮卑族出身。彼女だけでなく夫の文帝もたぶん鮮卑族だろうと言われている。
#*妹は[[唐]]の高祖の母親。つまり煬帝と高祖は母方のイトコ同士だったことになる。
#時代に先駆けたフェミニスト。
#*7世紀という時期に、断乎として一夫一婦制を主張した。
#**夫の文帝が側室を持つことを禁じただけでなく、家臣たちにも禁じたという徹底ぶり。
#***妻を亡くした大臣に再婚を勧めたところ、「まだ前の妻が思い出されてなりませんので」と断られ、大いに感心していたが、その大臣が実は側室を置いていたことを知って激怒し、詰め腹を切らせてしまった。まあ、これはメンツを潰された感があったからだろうが。
#**文帝がいちど後宮の女と浮気した際には、その女をあっさり殺してしまった。文帝は震え上がり、独孤后の生前には一切側室を置かなかった。
#王朝の人事にもけっこう口を出し、しかもそれがきわめて適切だった。
#*文帝は軍事以外ではほとんど独孤后に頭が上がらなかったようだ。
#その潔癖なフェミニズムゆえ、後継者選びだけは致命的な失敗。
#*長男の楊勇は、女にだらしがないところだけ除けばすぐれた資質の持ち主だったのだが、独孤后はこの唯一の欠点だけがとにかく気に入らず、皇太子の座から追うように文帝に要求。猫をかぶっていた次男の楊広を皇太子にするが、これが煬帝である。
#*文帝は臨終間際に楊広の本性に気づき、「独孤め、われを誤れり!」と悲痛に叫んだという。
 
===陳宣華===
#[[隋]]の文帝・煬帝に愛された女性。
#南朝最後の皇帝・陳の後主の妹。
#*陳が滅亡すると、文帝の後宮に入る。兄の後主が殺されずに済んだのは彼女のおかげだったという。
#*文帝の女遊びを決して許さなかった独孤后も、彼女にだけは優しかったそうな。
#**南朝の皇族らしい気品があると共に、兄想いのけなげな美少女だったところが、独孤后の琴線に触れたらしい。
#独孤后の歿後、文帝の側室となるが、皇太子・楊広(=煬帝)にも愛される。
#*文帝が病気になると、楊広は果敢に陳宣華にアタック。驚いた陳宣華が病床の文帝に訴えると、文帝は怒り心頭、皇太子を替えることを決意。でもその手続きをおこなう前に死んでしまった。
#**楊広による殺害説が昔からささやかれている。まあグレーゾーンというところか。
#*騒ぎの元になった陳宣華が自室で慄えていると、楊広から小箱が届けられる。てっきり毒薬が入っていて死を命じられたものとばかり思ったら、中身はラブレターだったそうな。
 
===武則天===
→[[唐#武則天(則天武后)|武則天]]
 
===韋后===
#[[唐]]の中宗の皇后。
#シュウトメの武則天が縁者を次々に皇位に取り立てているのを見て、中宗が即位したのを幸い、自分の縁者を取り立てるよう亭主に強要。
#*でも武則天(当時は武太后)から見ると韋后の縁者は無能なヤツばかりだったようで、全部クビ。ついでに嫁の言いなりだった息子の中宗も廃位してしまう。当然、韋后も皇后ではなくなる。
#武則天が亡くなり、中宗が返り咲くと、彼女も再び皇后に返り咲く。
#シュウトメが武氏の王朝「周」を作ったのを真似して、自分の王朝を作ろうと画策。
#*娘の安楽公主も乗り気。皇太子になって、韋氏王朝第二代皇帝になるつもりだった。
#*いくらなんでも中宗が承知する筈がないので、なんと母娘しめし合わせて、中宗を毒殺してしまう。そのあと中宗の側室の子を帝位に就け、禅譲させるつもりだったらしい。
#*が、さすがに王朝を開くのは無理だった。武則天の愛娘の太平公主と、中宗の甥の李隆基(玄宗)によって阻止され、娘ともども斬られてしまう。
 
===太平公主===
#[[唐]]の高宗と武則天の娘。中宗・睿宗の妹。
#武則天が「わらわにいちばん似ておる」と折り紙をつけた有能な女性。
#母・武則天の死後、兄嫁・韋后が好き勝手始めると、ひそかに根回しして反撃の機会を待ち、ついに兄・中宗が毒殺されると蜂起して韋后を打倒。
#*一般に、この挙は睿宗の息子の李隆基(のちの玄宗)が中心になっておこなわれたと思われているが、当時青二才だった李隆基がそんなに綿密なクーデターを計画実行できたとは考えられない。その後の睿宗からの厚遇を見ても、太平公主が中心だったと見て良い。
#次兄・睿宗は太平公主の手腕を大いに認め、自分が裁決しなければならない事項でも、「太平には諮ったのか?」と訊ねるのが常だったとか。彼女の意見が覆されることはほとんど無かったらしい。
#*この結果、皇太子である李隆基との間に波風が立ち始めたのは当然だったかもしれない。
#妹と息子の対立に心を痛めた睿宗は、退位して李隆基に帝位を譲るが、太平公主の隠然たる勢力はそれでも衰えず、朝廷は玄宗派と太平派に分かれて抗争が先鋭化。実は太平派のほうが優勢だった。焦った玄宗派がクーデターを起こし、ついに太平公主は斬られてしまう。
#*太宗は兄と弟を斬って皇帝になったが、玄宗は叔母をふたり斬って皇帝になったことになる。
 
===楊貴妃===
#[[唐]]の玄宗皇帝に愛された美女。
#*もともとは玄宗の息子の後宮に居たが、愛妾を失って落ち込んでいた玄宗に見そめられたらしい。
#*一旦後宮を出して女道士にし、あらためて還俗させて玄宗の後宮に入れるというややこしい手順をとった。
#美女の代名詞みたいになっているが、現代の基準で美女と言えるかどうか。
#*なにせまるまると肥っていた。玄宗の他の愛妾で、スレンダー型だった梅妃は、玄宗が楊貴妃のところに入り浸りなのを憎み、彼女を「肥婢!」と罵っている。「デブ女中め!」というところ。
#本人は特に権勢好きの女というわけではなかったようだが、玄宗が彼女の機嫌をとるために、彼女の縁者を次々と取り立てた。宰相にまでなった楊国忠は彼女のイトコだが、街のばくち打ちだったとか。
#ライチが大好き。
 
==宋元の女子==
 
==明清の女子==
===陳円円===
#[[明]]末の伎女。
#山海関を護る将軍・呉三桂に身請けされるが、北京城内で旦那の帰りを待っているうちに、李自成の叛乱軍により北京が陥落。李自成の部将・劉宗敏の物になってしまう。
#愛妾を奪われ怒り心頭の呉三桂は、李自成の帰順勧告を拒否、今の今まで戦っていた[[清]]軍を引き入れて李自成軍を蹴散らす。
#その後陳円円がどうなったのかは誰も知らない。
#以上の内容の「円円曲」というバラードを[[清]]初の文人が作って大流行。当の呉三桂は大変迷惑し、内容を書き換えるよう作者に頼んだが、すでに人口に膾炙していて無駄だったそうな。
 
===西太后===
#[[清]]の咸豊帝の夫人。
#*咸豊帝の皇后ではなかったが、次の同治帝の生母だったので、咸豊帝の没後は「西太后」と尊称された。ちなみに皇后は「東太后」と呼ばれた。
#*当初、同治帝が幼少だったので、東太后の垂簾政治となったが、東太后はあんまり政治向きのことがわからなかった。その点西太后はなかなか果断であったので東太后の相談役となり、そのうち東太后より権威を持つようになった。
#東太后の死後は、同治帝やその次の光緒帝(西太后の甥にあたる)を尻目に朝廷に君臨し、清末の内外情勢をひっかき回した。
#*宮廷内の権勢争いには卓越した力量を示し、反対者を次々と粛正したが、国際政治や行政に関してはさっぱりだった。
#**え、これって女版オザ……うわなにをするやめry
#**体制維持って部分に絞れば物凄い才能があったよ。清仏戦争や日清戦争にしても国内情勢とよく照らし合わせると、いかに"負けて勝つ"かってのに拘った采配かが分かる。
#*東太后も西太后に暗殺された説がある。
#*光緒帝も西太后の死の直前の不自然な若死にだったので、死期を悟った西太后が毒殺したという噂が根強い。
#日清戦争には大反対。
#*還暦の祝いを戦争で台無しにされたくないというのがその理由。
#*北洋海軍の予算を削って離宮の頤和園造営に回したという噂も根強い。だとすればある意味日本にとっては恩人だったりする。
#**日本に攻め入られて妥協するよりも、北洋海軍の勢力が朝廷のそれを凌駕する事の方を避けねばならんかったからな。
#イメルダ・マルコスも真っ青の衣装持ち。
#映画「西太后」では咸豊帝の寵愛を争った相手の手足を切って酒甕に漬けるシーンが出てきたが、あれは武則天がやったという伝説がもと。
#*さらにその伝説自体、呂后の話のアレンジである可能性が高い。
 
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2021年4月28日 (水) 22:26時点における版

概要

飯田橋駅の新駅舎。旧駅舎の改装を経て落成。