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*[[バカ人物志/中国]]
*[[バカ人物志/日本]]


==神代の女子==
==上代の女子==
===女媧===
===卑弥呼===
#人間を作った女神様らしい。
#『魏志倭人伝』に書かれた倭国の女王。
#*最初の頃は泥をこねてひとりひとり丁寧に作っていたが、だんだん面倒くさくなって、縄を泥に漬けてふるい落とし大量生産。
#*女王の直轄領が「邪馬台国」で、その下に30以上の国が属しており、それを総称して「倭国」と呼んでいるようだ。
#**丁寧に作られたのが王侯貴族に、テキトーに作られたのが庶民になったそうな。
#卑弥呼というのは、「ひめみこ(女王)」もしくは「ひのみこ(日巫女)」のことであろうと思われる。名前というより称号でしょうな。
#天が壊れた時に修理したらしい。
#*本名なんか、たぶん使節の難升米あたりも全然知らなかったのではなかろうか。
#*青い石で空を修理していたが、足りなくなったので他の色の石でごまかしたそうな。
#魏にはけっこうしょっちゅう使節を送っているし、魏のほうからも答礼使が何度も来ている。
#**どうもだいぶアバウトな性格の女神だったと思われる。
#*魏としては、高句麗や辰韓が不穏だったので、その背後にある倭国を手なずけておきたかったらしい。
#*卑弥呼としても、麾下の国々に睨みを利かすために魏の後ろ盾が欲しかったと思われる。まあ、お互い様ですな。
 
===壱与===
#卑弥呼の後継者とされる。13歳で女王に。
#*壱与たんかわいいよハアハアなHENTAI数多し。
#名前は「台与(とよ)」説もある。
#*「壱」の旧字体「壹」と、「台」の旧字体「臺」が似ていて、魏志倭人伝では他にもこの二字を取り違えている箇所があるため。書き写す時に間違えたんだろうけど。
#*そもそも「邪馬台国」も「邪馬壱国」と書かれている時があり、これは書き間違いじゃなくて本当に「やばい国」だったんじゃねーかという説もある。
#魏の後を継いだ[[晋/五胡十六国|晋]]の武帝の即位の翌年、使節を送ったことが記録されている。
#*何度も送ったのに記録が残っていないのか、この一度しか送らなかったのかは不明。
#**一度でやめたとすれば、武帝があんまり頼りにならないと判断したのかもしれない。実際、ほどなく八王の乱でgdgdになるので、そうだとしたら好判断だったような。
 
===神功皇后===
→[[皇族伝#神功皇后|神功皇后]]
#卑弥呼と同一人物説もあるが、ちょっとむりやりかも。
 
==飛鳥の女子==
===推古天皇===
→[[皇族伝#推古天皇(第33代)|推古天皇]]


===西王母===
===額田王===
#仙人の総元締めみたいな女神様らしい。
#天智天皇と天武天皇の兄弟両方から愛されたとされる女性万葉歌人。
#*[[周]]の穆王が会いに行ってなかなか帰ってこなかったとか、[[漢]]の武帝に仙桃を与えたとかいう話がある。
#*天智天皇の後宮にありながら、天武天皇(当時は大海人皇子)に熱烈な恋の歌を捧げたとされるが、最近は単なる社交辞令だったという説が有力。
#「能嘯」(しょっちゅう大声で吠えている)という、女神のイメージとは似つかわしくない記述もある。
#**その歌が詠まれた時、大海人も額田王ももういいトシだったらしいので。
#道教が整備されると、玉帝上皇のママという設定になった。


==上代の女子==
==奈良の女子==
===妺喜===
===持統天皇===
#夏の桀王に愛された女性。
→[[皇族伝#持統天皇(第41代)|持統天皇]]
#*桀王に咎めを受けた「有施氏」の君主から献上されたとか。
 
#最初の字は「いもうと」ではない。要注意。
===元明天皇===
#*妹萌えの元祖って書こうとしたのに・・・orz
→[[皇族伝#元明天皇(第43代)|元明天皇]]
#絹の布を引き裂く音が好きという、変な趣味があった。


===妲己===
===元正天皇===
#[[]]の紂王に愛された女性。
[[皇族伝#元正天皇(第44代)|元正天皇]]
#*紂王の咎めを受けた「有蘇氏」の君主から献上されたとか。
#狐が化けた美女だったという噂もある。


===褒姒===
===光明皇后===
#[[周|西周]]の幽王に愛された女性。
#聖武天皇の皇后。
#黒竜の唾液から生まれたという噂もある。
#*それまで、蘇我氏の血を引く皇族女性しかなれなかった皇后位に、藤原氏出身者としてはじめて就いた意義は大きい。
#「笑わずの姫」として有名。
#ノイローゼ気味で彷徨癖のある聖武天皇に代わって、朝廷をとりしきった。男性的で堂々とした人だったらしい。
#*何をどうされても笑顔を見せたことはなかったが、間違えて上げられた狼煙を見て集まった諸国の軍勢がうろたえているところを見た時だけ、なぜか笑い出したとか。
#*大仏建立も、聖武天皇より光明皇后の意志が強く反映されたという噂もある。
#**レアな笑顔にいかれてしまった幽王は、褒姒を笑わせようと意味もなく狼煙を上げ続け、そのうち誰も集まらなくなってしまった。王宮が犬戎に攻められて本当にヤバいことになってからも誰も集まらず、西周は滅亡した。
#*娘の阿倍内親王を強引に皇太子にしたのはやりすぎだったかも。おかげで天武系の皇統は娘で絶えてしまった。


==春秋戦国の女子==
===孝謙天皇(称徳天皇)===
===夏姫===
→[[皇族伝#孝謙天皇(称徳天皇)(第46・48代)|孝謙天皇(称徳天皇)]]
#春秋時代の鄭の国に生まれた美女。
#何度も結婚したが、相手がみんな早死にしてしまう魔性の女でもあった。
#成人した息子が居る齢になっても美貌は一向に衰えず、各国の王侯貴族を惑わしまくった。
#*息子の夏徴舒はなんとクーデターを起こして、当時中程度の実力を持った国だった「陳」を一時は乗っ取ってしまった。
#**陳の君主・霊公と、重臣の孔寧・儀行父が、3人がかりでママをもてあそんでいるのを知ってぶち切れたそうな。
#***その頃夏姫はどんなに若く見積もっても35歳近くにはなっていたはずで、現代のイメージでは40代後半くらいだろう。どんだけ色気があったのかと。
#最後の夫は楚の重臣だった巫臣。二人で晋の国に亡命し、その後は穏やかに余生を送った。


===西施===
===高野新笠===
#越王勾践から呉王夫差に献上された美女。
#光仁天皇の夫人(皇后ではない)。桓武天皇のママ。
#*夫差に敗戦し、屈辱の日々を送っていた勾践が、夫差を骨抜きにするべく送り込んだハニートラップである。
#百済の王族の子孫と言われる。
#*もっとも、どの程度効果があったかは微妙。夫差が亡んだのは、中原の覇権争いに首をつっこんで足元がおろそかになったせいと考えられるし。
#*もっとも彼女が生まれたのは百済が滅びて70年くらい経ってからだし、亡命者は王族を名乗ることが多かったようなので、本当に百済王の血を引いていたかどうかは微妙。
#しかめっ面が魅力的だったという不思議な美女。
#*今上天皇がこの件に言及した途端、「日王自身がウリナラ出身であることを認めたニダ!マンセー!」と[[韓国|某国]]で大騒ぎ。もうアホかと。大体百済とその国は、時代を隔てて同じ場所にあったってだけで、ほとんど関係ないぞ。
#*ちなみに「ひそみに倣う」という慣用句は、西施が胸を押さえて眉をひそめているのを見た不細工な女が、真似をしたという故事から生まれた。
#*ともあれ、桓武天皇がどちらかというと大陸皇帝的なありかたを目指したように見える点については、多少ママ(とその一族)の影響があったかもしれない。
#*胸の持病があり、発作が起きると胸を押さえて眉をひそめるしぐさと表情が、男衆にはたまらなかったらしい。現代の感覚でもわからんでもないな。


==秦漢の女子==
==平安の女子==
===虞美人===
===藤原薬子===
#項羽に愛された女性。
#平城天皇に愛された女性。
#「美人」は後宮の身分のひとつに過ぎず、本名は不明。
#娘が皇太子時代の平城天皇にお輿入れする時に付き添って行ったら、娘ではなくて自分が見そめられてしまった。中年の色気むんむんなおばちゃんだったらしい。
#*つーか人となりもさっぱり不明。大体の年齢や出身地さえわからない。
#*まだ生きていた桓武天皇は、息子の醜聞に激怒、薬子をすぐ追放してしまったが、桓武天皇が没するとたちまち呼び戻された。
#*「四面楚歌」の状態に陥った項羽が、最後に歌った「垓下の歌」のラストで「虞や虞やなんじをいかんせん」と哀惜を込めて触れられているので、よっぽど愛されてた女が居たんだろうな~と思われたわけ。
#兄の藤原仲成も平城天皇の側近となる。
#*そんなわけで、本によって人物像は全然違うので要注意。
#*平城天皇が政務に飽きて弟の嵯峨天皇に譲位したのち、上皇となった平城をあれこれ焚きつけて政権奪還を図る。
#足手まといになるので、本人納得の上、項羽に刺殺された。
#*焚きつけるにあたっては妹の薬子を通したことが多かったと思われるが、薬子自身が権勢好きな女であったかどうかは定かでない。
#*その時落ちた血が「虞美人草(ヒナゲシ)」になったという。
#嵯峨天皇側の圧迫に堪えかねた平城上皇と藤原仲成はついに武装蜂起。なぜか「薬子の乱」と呼ばれて彼女が張本人みたいに思われてしまう。
#*兄を断罪するに忍びなかった嵯峨天皇が、一切の責任を仲成と薬子に負わせたためだろう。


===呂后===
===清少納言===
→[[#呂后|呂后]]
→[[芸術家伝#清少納言|清少納言]]


===王昭君===
===紫式部===
#[[]]の元帝の頃、匈奴との和平に際して贈られた女性。
[[芸術家伝#紫式部|紫式部]]
#野蛮人の国に売られた女性として、古来同情する人が多いが、大きなお世話かも。
#*漢の後宮に居るだけでは、一生皇帝に寵愛されることもなくむなしく老いてゆく可能性が高いが、匈奴に行けば皇后みたいな立場。女としてどっちが幸せかということです。
#元帝は匈奴に贈る女性を選ぶために、後宮の女官の似顔絵を描かせたが、王昭君は絵師にワイロを渡さなかったので醜く描かれ、それで贈られるはめになってしまった。いよいよ出立の日、元帝がはじめてナマの彼女を見たところ、すごい美人だったので後悔し、絵師を処刑した……というような伝説があるが、きわめて疑わしい。
#*長年の強敵だった匈奴が和平を求めてきたのだから、腫れ物に触るような扱いだったはずで、わざわざ醜い女を選ぶはずがないし、似顔絵だけで決めるなんてこともあり得ない。いわば女性全権大使だから、才色兼備の美女が慎重に選ばれたと考えるのが妥当。
#*実際、匈奴に行ってからは、漢と匈奴の仲立ちとしてかなり活躍している。


===王政君===
===藤原璋子===
#[[漢]]の元帝の皇后。前漢末期のキーパーソン。
#保元の乱の遠因を作った美女。平安末期の倫理の乱れを体現した女性とも言える。別名待賢門院。
#元帝にはあんまり愛されなかったらしい。
#*ょぅじょの頃、白河法皇の養女のような形で扶育されるが、そのうちこの爺さん、孫娘みたいな璋子の人のかわいらしさにふらふらと惑ってただならぬ仲に。
#*元帝が愛した女は、皇太子時代に病死。落ち込んでいるのを見かねて、母后が何人かの女と見合いさせた。元帝は全然その気になれなかったが、母の顔を立てるだけのためにひとり選んだ。これが王政君だった。
#*白河法皇は、これはヤバいと思って、彼女を孫(のちの鳥羽天皇)に押しつける。ほどなく赤ん坊(のちの崇徳天皇)が産まれるが、白河の子であることはみんな知っていた。
#*もっとも、一応元帝の子供は産んでいる。そのため、元帝没後は皇太后、さらに太皇太后として朝廷に君臨することになる。
#**鳥羽自身、崇徳のことを「あいつは叔父子だ」と罵っていた。祖父の子なんだから本当は叔父だという意味。
#前漢を亡ぼして[[新]]を建てる王莽は彼女の甥。
#*ところが、怒った鳥羽が璋子を追い出したかというとそんなことはなく、やっぱり璋子の美肉に溺れて寵愛。何やってんだか。
#*王政君は血縁の者を次々に高官に取り立てたが、漢王朝を乗っ取ろうとは少しも思っておらず、王莽から伝国の玉璽を要求された時には激怒したらしい。
#**ま、よっぽど魅力的な女性だったとしか。
#**「そんなに欲しいなら自分で作ればいい! 莽の十八番じゃないの!」と言ったそうな。王莽に関する数々の奇瑞が、すべて王莽自身のでっち上げてだったことを、まるっとお見通しだったらしい。
#*ともあれ鳥羽は崇徳を毛嫌いし、圧力をかけて正真正銘の自分の子である近衛天皇に譲位させたばかりか、上皇となった崇徳に治天の君としての権力を一切与えなかった。近衛天皇が早死にすると、崇徳の子に帝位をまわさず、近衛の弟である後白河に与える。ここに至って崇徳はぶち切れ、鳥羽が没すると挙兵。これが保元の乱。
#**待賢門院は保元の乱の11年前に亡くなったので、直接の関係はないとはいえ……


===陰麗華===
===平時子===
#[[後漢]]光武帝の皇后。
#平清盛の奥さん。二位の尼とも呼ばれる。
#光武帝が若い頃から惚れていた。当初は高嶺の花みたいな存在だったらしい。
#本人も平氏出身だが、公家平氏なので清盛とは別系統。
#*「官に就くなら執金吾、嫁をめとらば陰麗華」と口癖のように言っていたとか。
#*ちなみに「平氏にあらずんば人にして人にあらず」と豪語した平時忠は時子の実弟。
#**ちなみに執金吾は警視総監のような、近衛隊長のような役職。制服がカッコいいので若き日の光武帝が憧れていたらしい。
#孫の安徳天皇を抱いて関門海峡に入水。
#なかなかできた人だった。
#*光武帝のほうが惚れ抜いていたのに、当面第二夫人の地位に甘んじていた。
#**最初の皇后は郭聖通という女性で、その一族の力を光武帝が必要としていたことを陰麗華はよく理解しており、自分から申し出て側室となったという。
#*郭皇后が廃されたあとで皇后になったが、自分の一族を要職に就けることは一切なかった。外戚にひっかきまわされることの多かった後漢の中では珍しい存在。


===班昭===
===常磐===
#[[後漢]]前期の女流歴史家。
#源義朝の愛妾。義経のママ。
#*いわば歴女の元祖。しかもとてつもないスケール。
#*義朝は愛人の多い男だったが、三人も子供を産んでいるのはよほど気に入られていた証拠だろう。
#司馬遷の「史記」に続く正史「漢書」は、班昭と彼女の長兄・班固の共同執筆。こんなに堂々たる史観と知識と文才を併せ持った女性は、中国史上でも珍しい。
#ミス京都コンクールでグランプリ受賞。
#*しかも彼女の次兄は、西域の鬼傑として有名な班超将軍。すごい兄妹である。
#*義朝を倒した平清盛も、興味を持って自ら引見した。
#*この時常磐は、清盛に身を任せることを条件に三人の子の助命を嘆願したというが、眉唾。
#**頼朝でさえ助命されているのに、年端も行かぬ常磐の子供たちが殺される懸念は、この時にはあんまり無かった。
#清盛の肝煎りで藤原長成と再婚、以後はわりに穏やかな余生を送ったらしい。
#*末っ子の牛若だけはねっ返りで心を痛めていたかもしれないが。


===貂蝉===
==鎌倉の女子==
#三国志演義に出てくる美女。架空の人物らしい。
===北條政子===
#呂布が董卓のところの婢女とねんごろになったのは本当のようなので、それがモデルだろう。
#源頼朝の奥さん。
#*演義では王允の養女で、董卓と呂布の間を裂くために送り込まれたハニートラップだということになっている。両者を手玉に取り、呂布に董卓を殺させる。
#駆け落ちまでした恋女房だが、亭主はしょっちゅう浮気して、気の休まる時がなかった。
#その後の消息は明らかでない……いや、架空の人物なんだから消息も何も無いんだが。
#*13歳まで京都で暮らしていた頼朝は、一夫多妻……というより多夫多妻の妻問い婚形式を常識としていたが、関東では夫婦が同居する一夫一婦方式がすでに確立していたらしい。頼朝が好色だったというよりも、そもそも男女関係の価値観がまるっきり違っていた。
#*呂布夫人として最後まで付き従ったが、関羽に見そめられたなんて話もある。
#*浮気が発覚するたびに、政子は大騒ぎして、相手の家を壊させたりした。おかげで日本一のやきもち焼きの汚名を被ってしまう。
#**関羽が呂布の未亡人を欲しがったという話は一応噂としてあったらしい。上記の婢女とは別人だろうが。
#**嫉妬もさることながら、北條家をしのぐ権勢を持つ氏族の出現を怖れたらしい。
#我が子の頼家が言うことを聞かないので殺させた……というのはさすがに冤罪かも。
#*頼家の傅人であった比企氏が、北條氏以上の権力を獲得しそうだったので、時政と義時が先手を打って亡ぼした。頼家はその象徴として死ななければならなかったわけで、政子の知ったことではなかったようだ。
#*次男の実朝を孫の公暁が暗殺し、その公暁も三浦氏に殺され……と、母親としては非常に不幸な運命に見舞われたと言わざるを得ない。


==六朝の女子==
======
===馮后===
#木曽義仲の奥さん。正室ではなく側室だったようだが。
#北魏の文成帝の皇后。夫が若死にした後、皇太后として献文帝・孝文帝を後見する。
#日本史上屈指のスーパーヒロイン。武器を取って立ち会うと義仲もたじたじだったとか。
#*後見というより、実質は彼女が皇帝みたいなものだったらしい。献文帝は彼女のお眼鏡にかなわず、6年で息子の孝文帝に譲位させられた。
#*戦場でも常に義仲の傍らに居て長刀をふるった。頼もしいというかおっかないというか。
#専横をふるっていた丞相の乙渾を誅殺するなど果断なところもあるが、西太后のようなむちゃくちゃなオバハンではなく、政治を充分に心得た女性だった。
#*均田法、三長法などの革新的な政策を施行。孝文帝時代の北魏の全盛期を準備したと言える。


===木蘭===
======
#南北朝時代に居たと伝えられるスーパーヒロイン。モデルは居たかもしれないがたぶん架空の人物。
#源義経の愛人。
#老いた父に代わって男装して従軍し、突厥など北方民族を相手に大活躍。
#京都でも評判の白拍子だった。
#京劇のヒットナンバーとしては有名だったが、中国の外ではほとんど知られていなかったのに、近年になってデ*ズニーのアニメ映画に取り上げられ、急に知名度が上がった。
#*白拍子というのは今で言えば芸能人。ただし水干に烏帽子という男装で舞うのが常で、いわばタカラヅカの男役トップスター。
#*ただし、「ムーラン」を「木蘭」だと理解している人はどのくらい居ることやら……
#**従って、なよなよしたイメージではなく、颯爽とした鉄火肌のお姐さんを考えたほうが良い。
#義経の没落後、捕まって鎌倉へ連れてこられるが、頼朝の前でぬけぬけと義経を恋う歌を歌ってのける。この辺もオキャンで反骨な性格を思わせる。


==隋唐五代の女子==
==室町の女子==
===独孤后===
===日野富子===
#[[隋]]の文帝の皇后。
#足利義政の奥さん。
#*鮮卑族出身。彼女だけでなく夫の文帝もたぶん鮮卑族だろうと言われている。
#亭主が文弱で頼りない上に浪費家なので、一生懸命お金を貯めようと苦労した人。
#*妹は[[唐]]の高祖の母親。つまり煬帝と高祖は母方のイトコ同士だったことになる。
#*兄の日野勝光と共に、ある意味貨幣経済の先駆者とも言える。
#時代に先駆けたフェミニスト。
#**実家の日野氏も、足利将軍家自体も、直轄の領地はごく少なく、土地や米で人を釣るのは無理だった。そこでゼニに着目したわけ。
#*7世紀という時期に、断乎として一夫一婦制を主張した。
#*応仁の乱では、山名方・細川方の両方に軍資金を貸し、その利子でますます稼いだ。
#**夫の文帝が側室を持つことを禁じただけでなく、家臣たちにも禁じたという徹底ぶり。
#**富子が山名宗全に我が子義尚の後押しを頼んだのが、応仁の乱の直接の原因だったのに……
#***妻を亡くした大臣に再婚を勧めたところ、「まだ前の妻が思い出されてなりませんので」と断られ、大いに感心していたが、その大臣が実は側室を置いていたことを知って激怒し、詰め腹を切らせてしまった。まあ、これはメンツを潰された感があったからだろうが。
#**文帝がいちど後宮の女と浮気した際には、その女をあっさり殺してしまった。文帝は震え上がり、独孤后の生前には一切側室を置かなかった。
#王朝の人事にもけっこう口を出し、しかもそれがきわめて適切だった。
#*文帝は軍事以外ではほとんど独孤后に頭が上がらなかったようだ。
#その潔癖なフェミニズムゆえ、後継者選びだけは致命的な失敗。
#*長男の楊勇は、女にだらしがないところだけ除けばすぐれた資質の持ち主だったのだが、独孤后はこの唯一の欠点だけがとにかく気に入らず、皇太子の座から追うように文帝に要求。猫をかぶっていた次男の楊広を皇太子にするが、これが煬帝である。
#*文帝は臨終間際に楊広の本性に気づき、「独孤め、われを誤れり!」と悲痛に叫んだという。


===陳宣華===
==戦国の女子==
#[[隋]]の文帝・煬帝に愛された女性。
===大祝鶴姫===
#南朝最後の皇帝・陳の後主の妹。
#伊予の河野氏の支族で、大三島神官家である大祝家の姫君。
#*陳が滅亡すると、文帝の後宮に入る。兄の後主が殺されずに済んだのは彼女のおかげだったという。
#リアル美少女戦士。
#*文帝の女遊びを決して許さなかった独孤后も、彼女にだけは優しかったそうな。
#*戦死した兄に代わって水軍を率い、大内氏の侵攻軍を何度も撃退する。なんと16歳。
#**南朝の皇族らしい気品があると共に、兄想いのけなげな美少女だったところが、独孤后の琴線に触れたらしい。
#*そのうち婚約者まで戦死したので、世をはかなんで自殺したという。まだ18歳。
#独孤后の歿後、文帝の側室となるが、皇太子・楊広(=煬帝)にも愛される。
#*大名なみの政治力を見せた女性や、武芸に優れた女性は何人も居るが、本来の意味で「女武将」と言えるのは彼女くらいかもしれない。
#*文帝が病気になると、楊広は果敢に陳宣華にアタック。驚いた陳宣華が病床の文帝に訴えると、文帝は怒り心頭、皇太子を替えることを決意。でもその手続きをおこなう前に死んでしまった。
#**しかも正真正銘ハイティーンの「美少女武将」であり、恋人の後を追って自殺するようなけなげなおにゃのこでもあり、もっと[[オタク|こいつら]]の餌食になっても良さそうな気がするのだが。
#**楊広による殺害説が昔からささやかれている。まあグレーゾーンというところか。
#**妹属性、さらに神官家の姫君なのだから巫女属性もある。究極的萌えキャラだと思う。
#*騒ぎの元になった陳宣華が自室で慄えていると、楊広から小箱が届けられる。てっきり毒薬が入っていて死を命じられたものとばかり思ったら、中身はラブレターだったそうな。
#大山祇神社には、鎧をまとった鶴姫の銅像がある。


===武則天===
===寿桂尼===
→[[唐#武則天(則天武后)|武則天]]
#今川氏親の奥さん。氏輝・義元のママ。
#氏親の死後、若年の氏輝を助けて今川家を支える。
#氏輝と、そのすぐ下の弟・彦五郎がほぼ同時に謎の死をとげると、末っ子の義元を擁立して「花倉の乱」をしのぎきる。
#*玄広恵探の側(福島氏側)へ走る者が最小限にとどまったのは「尼御台様には逆らえん」と思った家臣が多かったためらしい。
#本人の出身は中御門家。公家のお姫様のわりには肝っ玉が据わっていて権謀術数にすぐれ、「女戦国大名」とも呼ばれた。
#*人を見る目も確か。義元に軍師の太原雪斎をつけたのも寿桂尼のはからいだったらしい。


===韋后===
===お市===
#[[唐]]の中宗の皇后。
#織田信長の妹で、浅井長政に嫁ぐ。
#シュウトメの武則天が縁者を次々に皇位に取り立てているのを見て、中宗が即位したのを幸い、自分の縁者を取り立てるよう亭主に強要。
#*絶世の美女で「四方(よも)様」と呼ばれた、と言われる。が、美しいには美しいがやたら背が高くてなかなか貰い手がなかった、という説もある。
#*でも武則天(当時は武太后)から見ると韋后の縁者は無能なヤツばかりだったようで、全部クビ。ついでに嫁の言いなりだった息子の中宗も廃位してしまう。当然、韋后も皇后ではなくなる。
#**妹のお犬に嫁入りで先を越されたのは事実。
#武則天が亡くなり、中宗が返り咲くと、彼女も再び皇后に返り咲く。
#*長政の容貌はイケメン説とブサメン説があるので、「美男美女カップル」であったか「美女と野獣」カップルであったかわからない。
#シュウトメが武氏の王朝「周」を作ったのを真似して、自分の王朝を作ろうと画策。
#朝倉攻めに行った信長の背後を長政が衝こうとした時、小豆袋を送って信長に警告した……というエピソードが有名だが、真偽のほどは不明。
#*娘の安楽公主も乗り気。皇太子になって、韋氏王朝第二代皇帝になるつもりだった。
#*小豆袋の上下を縫って、挟み撃ちにされることを暗示したというのだが、いかにも講談的であまり信憑性が無い。
#*いくらなんでも中宗が承知する筈がないので、なんと母娘しめし合わせて、中宗を毒殺してしまう。そのあと中宗の側室の子を帝位に就け、禅譲させるつもりだったらしい。
#長政の死後はしばらく信長の元に戻っていたが、信長の死後、柴田勝家と再婚。
#*が、さすがに王朝を開くのは無理だった。武則天の愛娘の太平公主と、中宗の甥の李隆基(玄宗)によって阻止され、娘ともども斬られてしまう。
#*勝家を味方につけようとした織田信孝の政略だったらしい。
#**秀吉もお市に惚れていたので、地団駄踏んだと言われる。
#*勝家が秀吉に敗死した際には夫に殉ずる。
#豊臣秀頼、徳川家光のお祖母ちゃん。


===太平公主===
===北政所===
#[[唐]]の高宗と武則天の娘。中宗・睿宗の妹。
#豊臣秀吉の奥さん。
#武則天が「わらわにいちばん似ておる」と折り紙をつけた有能な女性。
#名前は「ねね」だか「おね」だか。
#母・武則天の死後、兄嫁・韋后が好き勝手始めると、ひそかに根回しして反撃の機会を待ち、ついに兄・中宗が毒殺されると蜂起して韋后を打倒。
#*「お」は「おまつ」「おきぬ」とか言う時の「お」と同じで接頭辞なので、「おね」だとすると名前が「ね」だけになってしまう。それはさすがにないような気がする。
#*一般に、この挙は睿宗の息子の李隆基(のちの玄宗)が中心になっておこなわれたと思われているが、当時青二才だった李隆基がそんなに綿密なクーデターを計画実行できたとは考えられない。その後の睿宗からの厚遇を見ても、太平公主が中心だったと見て良い。
#**手紙の署名に「寧」とだけ書かれているのが根拠らしい(「ねね」という名前の他の人は「寧ゝ」という書き方をしていることが多いそうな)。しかし信長の娘も「五」とだけ署名した手紙を書いているし(それで「五徳」という珍妙な名前で呼ばれることも)、イニシャルみたいなものであった可能性が高い。
#次兄・睿宗は太平公主の手腕を大いに認め、自分が裁決しなければならない事項でも、「太平には諮ったのか?」と訊ねるのが常だったとか。彼女の意見が覆されることはほとんど無かったらしい。
#*長らく「ねね」とされ、一時期「おね」が流行り、最近また「ねね」が復権している模様。
#*この結果、皇太子である李隆基との間に波風が立ち始めたのは当然だったかもしれない。
#*「おねい」説もある。
#妹と息子の対立に心を痛めた睿宗は、退位して李隆基に帝位を譲るが、太平公主の隠然たる勢力はそれでも衰えず、朝廷は玄宗派と太平派に分かれて抗争が先鋭化。実は太平派のほうが優勢だった。焦った玄宗派がクーデターを起こし、ついに太平公主は斬られてしまう。
#足軽の頃の秀吉がさんざんアタックして結婚。
#*太宗は兄と弟を斬って皇帝になったが、玄宗は叔母をふたり斬って皇帝になったことになる。
#*当時は奥さんの家のほうがちょっと上で、まあ平社員が係長の娘をめとった感じ。結婚してすぐ秀吉はちょっとだけ出世して主任クラスになった。
#**まあまあ、アゲマンと言ってよろしいかと。
#*前田利家の奥さんのおまつさんとは仲良しだったとか。
#自分に子供ができなかったせいもあり、秀吉配下の若者たちを大変かわいがった。
#*加藤清正や福島正則などの尾張系の若者をひいきして、石田三成などの近江系とは疎遠だったと思われているが、そんなことはない。近江系の連中が淀殿のほうに集まったというのも事実ではないようだ。
#秀吉の死後、豊臣家を護ろうとしたか、亡びるに任せようとしたか、解釈が分かれる。
#*淀殿とその子に乗っ取られた豊臣家には未練がなかったという考え方。
#*徳川体制下の一大名として残れるように尽力したが、淀殿がすべての助力をはねのけたのだという考え方。
#*最近では、今まで考えられていたほど大きな器の女性ではなかったのではないかという説も出ている。
#**最後まで庶民のオカミサン感覚で、政治力を働かせようという意思そのものが無かったのかもしれないというわけ。


===楊貴妃===
===芳春院===
#[[唐]]の玄宗皇帝に愛された美女。
#前田利家の奥さん。名前はおまつ。
#*もともとは玄宗の息子の後宮に居たが、愛妾を失って落ち込んでいた玄宗に見そめられたらしい。
#北政所と仲良しだった。
#*一旦後宮を出して女道士にし、あらためて還俗させて玄宗の後宮に入れるというややこしい手順をとった。
#けっこう気の強い女性で、「鑓の又三」と呼ばれた利家も尻に敷かれていたっぽい。
#美女の代名詞みたいになっているが、現代の基準で美女と言えるかどうか。
#*佐々成政の軍勢に攻められて利家がびびっていると、<BR>「だから常日頃、ええ家臣を集めときゃーせてゆーとったがね。それをゼニ惜しんでケチケチしとるから肝心の時に困りゃーが。いっそここのゼニ袋に槍持たせりゃええて」と痛烈な説教。利家はべそをかきながら奮闘してなんとか成政を撃退したそうな。
#*なにせまるまると肥っていた。玄宗の他の愛妾で、スレンダー型だった梅妃は、玄宗が楊貴妃のところに入り浸りなのを憎み、彼女を「肥婢!」と罵っている。「デブ女中め!」というところ。
#利家の死後、息子の利長が家康暗殺計画の嫌疑をかけられた際に、進んで人質になるべく江戸へ行ってしまった。
#本人は特に権勢好きの女というわけではなかったようだが、玄宗が彼女の機嫌をとるために、彼女の縁者を次々と取り立てた。宰相にまでなった楊国忠は彼女のイトコだが、街のばくち打ちだったとか。
#*大名が家族を江戸に置く先例となった。ある意味、徳川家にとって恩人とも言える。
#ライチが大好き。
#*もっとも、前田家が早々に腰砕けになったのを見てがっかりした連中も多かったらしい。「あの婆さん、余計なことを……」と思われたかも。


==宋元の女子==
===淀殿===
#豊臣秀吉の愛妾。名前は茶々。
#お市の長女。お市に似ていたので、お市に憧れていた秀吉が自分の物にしたと言われるが、さほどの美女でもなかったという説もある。
#秀吉の子を二人(鶴松と拾)も産む。鶴松は夭折したが、拾は成長して秀頼となる。
#*父親は別に居たのだという噂も根強い。石田三成とか、大野治長とか、いろんな名前がささやかれる。
#*秀吉が他の妻妾に子供を産ませられなかった、つまり秀吉が種無しだったからというわけだが、初期の側室である南殿には子ができているので、あまり信用できない。
#**南殿も秀吉の側室になった時すでに妊娠していたor子連れであった説があるが、種なし説から逆に敷衍された話のようでもある。
#過保護ママで、秀頼をすっかりダメにしてしまったらしい。
#*大坂の陣の時も、諸将が秀頼の出陣を熱望したのに、淀殿の反対で実現しなかったとか。
#*一方、大坂の陣の時期には、秀頼はそれなりの見識を持つ武将となっていたのに、母親と意見が合わず、城内が「淀殿派」と「秀頼派」に分かれてしまっていたという説もある。
#*千姫を逃がさないように着物の裾を踏んづけていた、という話は濡れ衣のようだ。


==明清の女子==
===お江===
===陳円円===
#お市の三女で淀殿の妹、徳川秀忠の奥さん。
#[[明]]末の伎女。
#*名前は「お江与」「小督」などの説もある。ただし「小督」は「お江」をちょっとカッコ良く表記しただけと見られる。
#山海関を護る将軍・呉三桂に身請けされるが、北京城内で旦那の帰りを待っているうちに、李自成の叛乱軍により北京が陥落。李自成の部将・劉宗敏の物になってしまう。
#*秀忠と結婚するまでに、佐治一成、豊臣秀勝(3代目……秀次の弟)と結婚している。一成とは離婚、秀勝とは死別。
#愛妾を奪われ怒り心頭の呉三桂は、李自成の帰順勧告を拒否、今の今まで戦っていた[[清]]軍を引き入れて李自成軍を蹴散らす。
#嫉妬深くて激しい性格とされることが多いが、永井路子氏は穏やかで順応性の高いタイプだったと推理している。ただしやや冷淡なところはあったようだ。
#その後陳円円がどうなったのかは誰も知らない。
#*やきもち焼き説の根拠は、秀忠がお江の生前側室を置かなかったとか、一度だけ浮気したがその時できた子(保科正之)と対面しなかったとかによる。
#以上の内容の「円円曲」というバラードを[[清]]初の文人が作って大流行。当の呉三桂は大変迷惑し、内容を書き換えるよう作者に頼んだが、すでに人口に膾炙していて無駄だったそうな。
#**単に秀忠が淡泊だった(あるいは、お江だけを本心から愛していた)だけかもしれず、ここからやきもち説を導くのは強引な気がする。
#*手元で育てた次男の国松(忠長)を偏愛し、春日局のもとで育った長男竹千代(家光)を疎んじたという話もあるが、これも大した根拠は無い。
#**国松がお江の手元で育てられたこと自体が事実ではないらしい。国松には土井利勝の妹が乳母としてついており、春日局と同じような立場だった。


===西太后===
===春日局===
#[[清]]の咸豊帝の夫人。
#明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘で、本名はお福。
#*咸豊帝の皇后ではなかったが、次の同治帝の生母だったので、咸豊帝の没後は「西太后」と尊称された。ちなみに皇后は「東太后」と呼ばれた。
#三代将軍家光の乳母で、大河ドラマの主人公にもなった。
#*当初、同治帝が幼少だったので、東太后の垂簾政治となったが、東太后はあんまり政治向きのことがわからなかった。その点西太后はなかなか果断であったので東太后の相談役となり、そのうち東太后より権威を持つようになった。
#家康の愛人説もあるが、本当かどうか。
#東太后の死後は、同治帝やその次の光緒帝(西太后の甥にあたる)を尻目に朝廷に君臨し、清末の内外情勢をひっかき回した。
#春日という地名にある、郵便局のことではない。
#*宮廷内の権勢争いには卓越した力量を示し、反対者を次々と粛正したが、国際政治や行政に関してはさっぱりだった。
#**え、これって女版オザ……うわなにをするやめry
#**体制維持って部分に絞れば物凄い才能があったよ。清仏戦争や日清戦争にしても国内情勢とよく照らし合わせると、いかに"負けて勝つ"かってのに拘った采配かが分かる。
#*東太后も西太后に暗殺された説がある。
#*光緒帝も西太后の死の直前の不自然な若死にだったので、死期を悟った西太后が毒殺したという噂が根強い。
#日清戦争には大反対。
#*還暦の祝いを戦争で台無しにされたくないというのがその理由。
#*北洋海軍の予算を削って離宮の頤和園造営に回したという噂も根強い。だとすればある意味日本にとっては恩人だったりする。
#**日本に攻め入られて妥協するよりも、北洋海軍の勢力が朝廷のそれを凌駕する事の方を避けねばならんかったからな。
#イメルダ・マルコスも真っ青の衣装持ち。
#映画「西太后」では咸豊帝の寵愛を争った相手の手足を切って酒甕に漬けるシーンが出てきたが、あれは武則天がやったという伝説がもと。
#*さらにその伝説自体、呂后の話のアレンジである可能性が高い。


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2010年11月20日 (土) 22:23時点における版

上代の女子

卑弥呼

  1. 『魏志倭人伝』に書かれた倭国の女王。
    • 女王の直轄領が「邪馬台国」で、その下に30以上の国が属しており、それを総称して「倭国」と呼んでいるようだ。
  2. 卑弥呼というのは、「ひめみこ(女王)」もしくは「ひのみこ(日巫女)」のことであろうと思われる。名前というより称号でしょうな。
    • 本名なんか、たぶん使節の難升米あたりも全然知らなかったのではなかろうか。
  3. 魏にはけっこうしょっちゅう使節を送っているし、魏のほうからも答礼使が何度も来ている。
    • 魏としては、高句麗や辰韓が不穏だったので、その背後にある倭国を手なずけておきたかったらしい。
    • 卑弥呼としても、麾下の国々に睨みを利かすために魏の後ろ盾が欲しかったと思われる。まあ、お互い様ですな。

壱与

  1. 卑弥呼の後継者とされる。13歳で女王に。
    • 壱与たんかわいいよハアハアなHENTAI数多し。
  2. 名前は「台与(とよ)」説もある。
    • 「壱」の旧字体「壹」と、「台」の旧字体「臺」が似ていて、魏志倭人伝では他にもこの二字を取り違えている箇所があるため。書き写す時に間違えたんだろうけど。
    • そもそも「邪馬台国」も「邪馬壱国」と書かれている時があり、これは書き間違いじゃなくて本当に「やばい国」だったんじゃねーかという説もある。
  3. 魏の後を継いだの武帝の即位の翌年、使節を送ったことが記録されている。
    • 何度も送ったのに記録が残っていないのか、この一度しか送らなかったのかは不明。
      • 一度でやめたとすれば、武帝があんまり頼りにならないと判断したのかもしれない。実際、ほどなく八王の乱でgdgdになるので、そうだとしたら好判断だったような。

神功皇后

神功皇后

  1. 卑弥呼と同一人物説もあるが、ちょっとむりやりかも。

飛鳥の女子

推古天皇

推古天皇

額田王

  1. 天智天皇と天武天皇の兄弟両方から愛されたとされる女性万葉歌人。
    • 天智天皇の後宮にありながら、天武天皇(当時は大海人皇子)に熱烈な恋の歌を捧げたとされるが、最近は単なる社交辞令だったという説が有力。
      • その歌が詠まれた時、大海人も額田王ももういいトシだったらしいので。

奈良の女子

持統天皇

持統天皇

元明天皇

元明天皇

元正天皇

元正天皇

光明皇后

  1. 聖武天皇の皇后。
    • それまで、蘇我氏の血を引く皇族女性しかなれなかった皇后位に、藤原氏出身者としてはじめて就いた意義は大きい。
  2. ノイローゼ気味で彷徨癖のある聖武天皇に代わって、朝廷をとりしきった。男性的で堂々とした人だったらしい。
    • 大仏建立も、聖武天皇より光明皇后の意志が強く反映されたという噂もある。
    • 娘の阿倍内親王を強引に皇太子にしたのはやりすぎだったかも。おかげで天武系の皇統は娘で絶えてしまった。

孝謙天皇(称徳天皇)

孝謙天皇(称徳天皇)

高野新笠

  1. 光仁天皇の夫人(皇后ではない)。桓武天皇のママ。
  2. 百済の王族の子孫と言われる。
    • もっとも彼女が生まれたのは百済が滅びて70年くらい経ってからだし、亡命者は王族を名乗ることが多かったようなので、本当に百済王の血を引いていたかどうかは微妙。
    • 今上天皇がこの件に言及した途端、「日王自身がウリナラ出身であることを認めたニダ!マンセー!」と某国で大騒ぎ。もうアホかと。大体百済とその国は、時代を隔てて同じ場所にあったってだけで、ほとんど関係ないぞ。
    • ともあれ、桓武天皇がどちらかというと大陸皇帝的なありかたを目指したように見える点については、多少ママ(とその一族)の影響があったかもしれない。

平安の女子

藤原薬子

  1. 平城天皇に愛された女性。
  2. 娘が皇太子時代の平城天皇にお輿入れする時に付き添って行ったら、娘ではなくて自分が見そめられてしまった。中年の色気むんむんなおばちゃんだったらしい。
    • まだ生きていた桓武天皇は、息子の醜聞に激怒、薬子をすぐ追放してしまったが、桓武天皇が没するとたちまち呼び戻された。
  3. 兄の藤原仲成も平城天皇の側近となる。
    • 平城天皇が政務に飽きて弟の嵯峨天皇に譲位したのち、上皇となった平城をあれこれ焚きつけて政権奪還を図る。
    • 焚きつけるにあたっては妹の薬子を通したことが多かったと思われるが、薬子自身が権勢好きな女であったかどうかは定かでない。
  4. 嵯峨天皇側の圧迫に堪えかねた平城上皇と藤原仲成はついに武装蜂起。なぜか「薬子の乱」と呼ばれて彼女が張本人みたいに思われてしまう。
    • 兄を断罪するに忍びなかった嵯峨天皇が、一切の責任を仲成と薬子に負わせたためだろう。

清少納言

清少納言

紫式部

紫式部

藤原璋子

  1. 保元の乱の遠因を作った美女。平安末期の倫理の乱れを体現した女性とも言える。別名待賢門院。
    • ょぅじょの頃、白河法皇の養女のような形で扶育されるが、そのうちこの爺さん、孫娘みたいな璋子の人のかわいらしさにふらふらと惑ってただならぬ仲に。
    • 白河法皇は、これはヤバいと思って、彼女を孫(のちの鳥羽天皇)に押しつける。ほどなく赤ん坊(のちの崇徳天皇)が産まれるが、白河の子であることはみんな知っていた。
      • 鳥羽自身、崇徳のことを「あいつは叔父子だ」と罵っていた。祖父の子なんだから本当は叔父だという意味。
    • ところが、怒った鳥羽が璋子を追い出したかというとそんなことはなく、やっぱり璋子の美肉に溺れて寵愛。何やってんだか。
      • ま、よっぽど魅力的な女性だったとしか。
    • ともあれ鳥羽は崇徳を毛嫌いし、圧力をかけて正真正銘の自分の子である近衛天皇に譲位させたばかりか、上皇となった崇徳に治天の君としての権力を一切与えなかった。近衛天皇が早死にすると、崇徳の子に帝位をまわさず、近衛の弟である後白河に与える。ここに至って崇徳はぶち切れ、鳥羽が没すると挙兵。これが保元の乱。
      • 待賢門院は保元の乱の11年前に亡くなったので、直接の関係はないとはいえ……

平時子

  1. 平清盛の奥さん。二位の尼とも呼ばれる。
  2. 本人も平氏出身だが、公家平氏なので清盛とは別系統。
    • ちなみに「平氏にあらずんば人にして人にあらず」と豪語した平時忠は時子の実弟。
  3. 孫の安徳天皇を抱いて関門海峡に入水。

常磐

  1. 源義朝の愛妾。義経のママ。
    • 義朝は愛人の多い男だったが、三人も子供を産んでいるのはよほど気に入られていた証拠だろう。
  2. ミス京都コンクールでグランプリ受賞。
    • 義朝を倒した平清盛も、興味を持って自ら引見した。
    • この時常磐は、清盛に身を任せることを条件に三人の子の助命を嘆願したというが、眉唾。
      • 頼朝でさえ助命されているのに、年端も行かぬ常磐の子供たちが殺される懸念は、この時にはあんまり無かった。
  3. 清盛の肝煎りで藤原長成と再婚、以後はわりに穏やかな余生を送ったらしい。
    • 末っ子の牛若だけはねっ返りで心を痛めていたかもしれないが。

鎌倉の女子

北條政子

  1. 源頼朝の奥さん。
  2. 駆け落ちまでした恋女房だが、亭主はしょっちゅう浮気して、気の休まる時がなかった。
    • 13歳まで京都で暮らしていた頼朝は、一夫多妻……というより多夫多妻の妻問い婚形式を常識としていたが、関東では夫婦が同居する一夫一婦方式がすでに確立していたらしい。頼朝が好色だったというよりも、そもそも男女関係の価値観がまるっきり違っていた。
    • 浮気が発覚するたびに、政子は大騒ぎして、相手の家を壊させたりした。おかげで日本一のやきもち焼きの汚名を被ってしまう。
      • 嫉妬もさることながら、北條家をしのぐ権勢を持つ氏族の出現を怖れたらしい。
  3. 我が子の頼家が言うことを聞かないので殺させた……というのはさすがに冤罪かも。
    • 頼家の傅人であった比企氏が、北條氏以上の権力を獲得しそうだったので、時政と義時が先手を打って亡ぼした。頼家はその象徴として死ななければならなかったわけで、政子の知ったことではなかったようだ。
    • 次男の実朝を孫の公暁が暗殺し、その公暁も三浦氏に殺され……と、母親としては非常に不幸な運命に見舞われたと言わざるを得ない。

  1. 木曽義仲の奥さん。正室ではなく側室だったようだが。
  2. 日本史上屈指のスーパーヒロイン。武器を取って立ち会うと義仲もたじたじだったとか。
    • 戦場でも常に義仲の傍らに居て長刀をふるった。頼もしいというかおっかないというか。

  1. 源義経の愛人。
  2. 京都でも評判の白拍子だった。
    • 白拍子というのは今で言えば芸能人。ただし水干に烏帽子という男装で舞うのが常で、いわばタカラヅカの男役トップスター。
      • 従って、なよなよしたイメージではなく、颯爽とした鉄火肌のお姐さんを考えたほうが良い。
  3. 義経の没落後、捕まって鎌倉へ連れてこられるが、頼朝の前でぬけぬけと義経を恋う歌を歌ってのける。この辺もオキャンで反骨な性格を思わせる。

室町の女子

日野富子

  1. 足利義政の奥さん。
  2. 亭主が文弱で頼りない上に浪費家なので、一生懸命お金を貯めようと苦労した人。
    • 兄の日野勝光と共に、ある意味貨幣経済の先駆者とも言える。
      • 実家の日野氏も、足利将軍家自体も、直轄の領地はごく少なく、土地や米で人を釣るのは無理だった。そこでゼニに着目したわけ。
    • 応仁の乱では、山名方・細川方の両方に軍資金を貸し、その利子でますます稼いだ。
      • 富子が山名宗全に我が子義尚の後押しを頼んだのが、応仁の乱の直接の原因だったのに……

戦国の女子

大祝鶴姫

  1. 伊予の河野氏の支族で、大三島神官家である大祝家の姫君。
  2. リアル美少女戦士。
    • 戦死した兄に代わって水軍を率い、大内氏の侵攻軍を何度も撃退する。なんと16歳。
    • そのうち婚約者まで戦死したので、世をはかなんで自殺したという。まだ18歳。
    • 大名なみの政治力を見せた女性や、武芸に優れた女性は何人も居るが、本来の意味で「女武将」と言えるのは彼女くらいかもしれない。
      • しかも正真正銘ハイティーンの「美少女武将」であり、恋人の後を追って自殺するようなけなげなおにゃのこでもあり、もっとこいつらの餌食になっても良さそうな気がするのだが。
      • 妹属性、さらに神官家の姫君なのだから巫女属性もある。究極的萌えキャラだと思う。
  3. 大山祇神社には、鎧をまとった鶴姫の銅像がある。

寿桂尼

  1. 今川氏親の奥さん。氏輝・義元のママ。
  2. 氏親の死後、若年の氏輝を助けて今川家を支える。
  3. 氏輝と、そのすぐ下の弟・彦五郎がほぼ同時に謎の死をとげると、末っ子の義元を擁立して「花倉の乱」をしのぎきる。
    • 玄広恵探の側(福島氏側)へ走る者が最小限にとどまったのは「尼御台様には逆らえん」と思った家臣が多かったためらしい。
  4. 本人の出身は中御門家。公家のお姫様のわりには肝っ玉が据わっていて権謀術数にすぐれ、「女戦国大名」とも呼ばれた。
    • 人を見る目も確か。義元に軍師の太原雪斎をつけたのも寿桂尼のはからいだったらしい。

お市

  1. 織田信長の妹で、浅井長政に嫁ぐ。
    • 絶世の美女で「四方(よも)様」と呼ばれた、と言われる。が、美しいには美しいがやたら背が高くてなかなか貰い手がなかった、という説もある。
      • 妹のお犬に嫁入りで先を越されたのは事実。
    • 長政の容貌はイケメン説とブサメン説があるので、「美男美女カップル」であったか「美女と野獣」カップルであったかわからない。
  2. 朝倉攻めに行った信長の背後を長政が衝こうとした時、小豆袋を送って信長に警告した……というエピソードが有名だが、真偽のほどは不明。
    • 小豆袋の上下を縫って、挟み撃ちにされることを暗示したというのだが、いかにも講談的であまり信憑性が無い。
  3. 長政の死後はしばらく信長の元に戻っていたが、信長の死後、柴田勝家と再婚。
    • 勝家を味方につけようとした織田信孝の政略だったらしい。
      • 秀吉もお市に惚れていたので、地団駄踏んだと言われる。
    • 勝家が秀吉に敗死した際には夫に殉ずる。
  4. 豊臣秀頼、徳川家光のお祖母ちゃん。

北政所

  1. 豊臣秀吉の奥さん。
  2. 名前は「ねね」だか「おね」だか。
    • 「お」は「おまつ」「おきぬ」とか言う時の「お」と同じで接頭辞なので、「おね」だとすると名前が「ね」だけになってしまう。それはさすがにないような気がする。
      • 手紙の署名に「寧」とだけ書かれているのが根拠らしい(「ねね」という名前の他の人は「寧ゝ」という書き方をしていることが多いそうな)。しかし信長の娘も「五」とだけ署名した手紙を書いているし(それで「五徳」という珍妙な名前で呼ばれることも)、イニシャルみたいなものであった可能性が高い。
    • 長らく「ねね」とされ、一時期「おね」が流行り、最近また「ねね」が復権している模様。
    • 「おねい」説もある。
  3. 足軽の頃の秀吉がさんざんアタックして結婚。
    • 当時は奥さんの家のほうがちょっと上で、まあ平社員が係長の娘をめとった感じ。結婚してすぐ秀吉はちょっとだけ出世して主任クラスになった。
      • まあまあ、アゲマンと言ってよろしいかと。
    • 前田利家の奥さんのおまつさんとは仲良しだったとか。
  4. 自分に子供ができなかったせいもあり、秀吉配下の若者たちを大変かわいがった。
    • 加藤清正や福島正則などの尾張系の若者をひいきして、石田三成などの近江系とは疎遠だったと思われているが、そんなことはない。近江系の連中が淀殿のほうに集まったというのも事実ではないようだ。
  5. 秀吉の死後、豊臣家を護ろうとしたか、亡びるに任せようとしたか、解釈が分かれる。
    • 淀殿とその子に乗っ取られた豊臣家には未練がなかったという考え方。
    • 徳川体制下の一大名として残れるように尽力したが、淀殿がすべての助力をはねのけたのだという考え方。
    • 最近では、今まで考えられていたほど大きな器の女性ではなかったのではないかという説も出ている。
      • 最後まで庶民のオカミサン感覚で、政治力を働かせようという意思そのものが無かったのかもしれないというわけ。

芳春院

  1. 前田利家の奥さん。名前はおまつ。
  2. 北政所と仲良しだった。
  3. けっこう気の強い女性で、「鑓の又三」と呼ばれた利家も尻に敷かれていたっぽい。
    • 佐々成政の軍勢に攻められて利家がびびっていると、
      「だから常日頃、ええ家臣を集めときゃーせてゆーとったがね。それをゼニ惜しんでケチケチしとるから肝心の時に困りゃーが。いっそここのゼニ袋に槍持たせりゃええて」と痛烈な説教。利家はべそをかきながら奮闘してなんとか成政を撃退したそうな。
  4. 利家の死後、息子の利長が家康暗殺計画の嫌疑をかけられた際に、進んで人質になるべく江戸へ行ってしまった。
    • 大名が家族を江戸に置く先例となった。ある意味、徳川家にとって恩人とも言える。
    • もっとも、前田家が早々に腰砕けになったのを見てがっかりした連中も多かったらしい。「あの婆さん、余計なことを……」と思われたかも。

淀殿

  1. 豊臣秀吉の愛妾。名前は茶々。
  2. お市の長女。お市に似ていたので、お市に憧れていた秀吉が自分の物にしたと言われるが、さほどの美女でもなかったという説もある。
  3. 秀吉の子を二人(鶴松と拾)も産む。鶴松は夭折したが、拾は成長して秀頼となる。
    • 父親は別に居たのだという噂も根強い。石田三成とか、大野治長とか、いろんな名前がささやかれる。
    • 秀吉が他の妻妾に子供を産ませられなかった、つまり秀吉が種無しだったからというわけだが、初期の側室である南殿には子ができているので、あまり信用できない。
      • 南殿も秀吉の側室になった時すでに妊娠していたor子連れであった説があるが、種なし説から逆に敷衍された話のようでもある。
  4. 過保護ママで、秀頼をすっかりダメにしてしまったらしい。
    • 大坂の陣の時も、諸将が秀頼の出陣を熱望したのに、淀殿の反対で実現しなかったとか。
    • 一方、大坂の陣の時期には、秀頼はそれなりの見識を持つ武将となっていたのに、母親と意見が合わず、城内が「淀殿派」と「秀頼派」に分かれてしまっていたという説もある。
    • 千姫を逃がさないように着物の裾を踏んづけていた、という話は濡れ衣のようだ。

お江

  1. お市の三女で淀殿の妹、徳川秀忠の奥さん。
    • 名前は「お江与」「小督」などの説もある。ただし「小督」は「お江」をちょっとカッコ良く表記しただけと見られる。
    • 秀忠と結婚するまでに、佐治一成、豊臣秀勝(3代目……秀次の弟)と結婚している。一成とは離婚、秀勝とは死別。
  2. 嫉妬深くて激しい性格とされることが多いが、永井路子氏は穏やかで順応性の高いタイプだったと推理している。ただしやや冷淡なところはあったようだ。
    • やきもち焼き説の根拠は、秀忠がお江の生前側室を置かなかったとか、一度だけ浮気したがその時できた子(保科正之)と対面しなかったとかによる。
      • 単に秀忠が淡泊だった(あるいは、お江だけを本心から愛していた)だけかもしれず、ここからやきもち説を導くのは強引な気がする。
    • 手元で育てた次男の国松(忠長)を偏愛し、春日局のもとで育った長男竹千代(家光)を疎んじたという話もあるが、これも大した根拠は無い。
      • 国松がお江の手元で育てられたこと自体が事実ではないらしい。国松には土井利勝の妹が乳母としてついており、春日局と同じような立場だった。

春日局

  1. 明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘で、本名はお福。
  2. 三代将軍家光の乳母で、大河ドラマの主人公にもなった。
  3. 家康の愛人説もあるが、本当かどうか。
  4. 春日という地名にある、郵便局のことではない。