女子伝/日本

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上代の女子

卑弥呼

  1. 『魏志倭人伝』に書かれた倭国の女王。
    • 女王の直轄領が「邪馬台国」で、その下に30以上の国が属しており、それを総称して「倭国」と呼んでいるようだ。
  2. 卑弥呼というのは、「ひめみこ(女王)」もしくは「ひのみこ(日巫女)」のことであろうと思われる。名前というより称号でしょうな。
    • 本名なんか、たぶん使節の難升米あたりも全然知らなかったのではなかろうか。
  3. 魏にはけっこうしょっちゅう使節を送っているし、魏のほうからも答礼使が何度も来ている。
    • 魏としては、高句麗や辰韓が不穏だったので、その背後にある倭国を手なずけておきたかったらしい。
    • 卑弥呼としても、麾下の国々に睨みを利かすために魏の後ろ盾が欲しかったと思われる。まあ、お互い様ですな。

壱与

  1. 卑弥呼の後継者とされる。13歳で女王に。
    • 壱与たんかわいいよハアハアなHENTAI数多し。
  2. 名前は「台与(とよ)」説もある。
    • 「壱」の旧字体「壹」と、「台」の旧字体「臺」が似ていて、魏志倭人伝では他にもこの二字を取り違えている箇所があるため。書き写す時に間違えたんだろうけど。
    • そもそも「邪馬台国」も「邪馬壱国」と書かれている時があり、これは書き間違いじゃなくて本当に「やばい国」だったんじゃねーかという説もある。
  3. 魏の後を継いだの武帝の即位の翌年、使節を送ったことが記録されている。
    • 何度も送ったのに記録が残っていないのか、この一度しか送らなかったのかは不明。
      • 一度でやめたとすれば、武帝があんまり頼りにならないと判断したのかもしれない。実際、ほどなく八王の乱でgdgdになるので、そうだとしたら好判断だったような。

神功皇后

神功皇后

  1. 卑弥呼と同一人物説もあるが、ちょっとむりやりかも。

飛鳥の女子

推古天皇

推古天皇

額田王

  1. 天智天皇と天武天皇の兄弟両方から愛されたとされる女性万葉歌人。
    • 天智天皇の後宮にありながら、天武天皇(当時は大海人皇子)に熱烈な恋の歌を捧げたとされるが、最近は単なる社交辞令だったという説が有力。
      • その歌が詠まれた時、大海人も額田王ももういいトシだったらしいので。

奈良の女子

持統天皇

持統天皇

元明天皇

元明天皇

元正天皇

元正天皇

光明皇后

  1. 聖武天皇の皇后。
    • それまで、蘇我氏の血を引く皇族女性しかなれなかった皇后位に、藤原氏出身者としてはじめて就いた意義は大きい。
  2. ノイローゼ気味で彷徨癖のある聖武天皇に代わって、朝廷をとりしきった。男性的で堂々とした人だったらしい。
    • 大仏建立も、聖武天皇より光明皇后の意志が強く反映されたという噂もある。
    • 娘の阿倍内親王を強引に皇太子にしたのはやりすぎだったかも。おかげで天武系の皇統は娘で絶えてしまった。

孝謙天皇(称徳天皇)

孝謙天皇(称徳天皇)

高野新笠

  1. 光仁天皇の夫人(皇后ではない)。桓武天皇のママ。
  2. 百済の王族の子孫と言われる。
    • もっとも彼女が生まれたのは百済が滅びて70年くらい経ってからだし、亡命者は王族を名乗ることが多かったようなので、本当に百済王の血を引いていたかどうかは微妙。
    • 今上天皇がこの件に言及した途端、「日王自身がウリナラ出身であることを認めたニダ!マンセー!」と某国で大騒ぎ。もうアホかと。大体百済とその国は、時代を隔てて同じ場所にあったってだけで、ほとんど関係ないぞ。
    • ともあれ、桓武天皇がどちらかというと大陸皇帝的なありかたを目指したように見える点については、多少ママ(とその一族)の影響があったかもしれない。

平安の女子

藤原薬子

  1. 平城天皇に愛された女性。
  2. 娘が皇太子時代の平城天皇にお輿入れする時に付き添って行ったら、娘ではなくて自分が見そめられてしまった。中年の色気むんむんなおばちゃんだったらしい。
    • まだ生きていた桓武天皇は、息子の醜聞に激怒、薬子をすぐ追放してしまったが、桓武天皇が没するとたちまち呼び戻された。
  3. 兄の藤原仲成も平城天皇の側近となる。
    • 平城天皇が政務に飽きて弟の嵯峨天皇に譲位したのち、上皇となった平城をあれこれ焚きつけて政権奪還を図る。
    • 焚きつけるにあたっては妹の薬子を通したことが多かったと思われるが、薬子自身が権勢好きな女であったかどうかは定かでない。
  4. 嵯峨天皇側の圧迫に堪えかねた平城上皇と藤原仲成はついに武装蜂起。なぜか「薬子の乱」と呼ばれて彼女が張本人みたいに思われてしまう。
    • 兄を断罪するに忍びなかった嵯峨天皇が、一切の責任を仲成と薬子に負わせたためだろう。

清少納言

清少納言

紫式部

紫式部

藤原璋子

  1. 保元の乱の遠因を作った美女。平安末期の倫理の乱れを体現した女性とも言える。別名待賢門院。
    • ょぅじょの頃、白河法皇の養女のような形で扶育されるが、そのうちこの爺さん、孫娘みたいな璋子の人のかわいらしさにふらふらと惑ってただならぬ仲に。
    • 白河法皇は、これはヤバいと思って、彼女を孫(のちの鳥羽天皇)に押しつける。ほどなく赤ん坊(のちの崇徳天皇)が産まれるが、白河の子であることはみんな知っていた。
      • 鳥羽自身、崇徳のことを「あいつは叔父子だ」と罵っていた。祖父の子なんだから本当は叔父だという意味。
    • ところが、怒った鳥羽が璋子を追い出したかというとそんなことはなく、やっぱり璋子の美肉に溺れて寵愛。何やってんだか。
      • ま、よっぽど魅力的な女性だったとしか。
    • ともあれ鳥羽は崇徳を毛嫌いし、圧力をかけて正真正銘の自分の子である近衛天皇に譲位させたばかりか、上皇となった崇徳に治天の君としての権力を一切与えなかった。近衛天皇が早死にすると、崇徳の子に帝位をまわさず、近衛の弟である後白河に与える。ここに至って崇徳はぶち切れ、鳥羽が没すると挙兵。これが保元の乱。
      • 待賢門院は保元の乱の11年前に亡くなったので、直接の関係はないとはいえ……

平時子

  1. 平清盛の奥さん。二位の尼とも呼ばれる。
  2. 本人も平氏出身だが、公家平氏なので清盛とは別系統。
    • ちなみに「平氏にあらずんば人にして人にあらず」と豪語した平時忠は時子の実弟。
  3. 孫の安徳天皇を抱いて関門海峡に入水。

常磐

  1. 源義朝の愛妾。義経のママ。
    • 義朝は愛人の多い男だったが、三人も子供を産んでいるのはよほど気に入られていた証拠だろう。
  2. ミス京都コンクールでグランプリ受賞。
    • 義朝を倒した平清盛も、興味を持って自ら引見した。
    • この時常磐は、清盛に身を任せることを条件に三人の子の助命を嘆願したというが、眉唾。
      • 頼朝でさえ助命されているのに、年端も行かぬ常磐の子供たちが殺される懸念は、この時にはあんまり無かった。
  3. 清盛の肝煎りで藤原長成と再婚、以後はわりに穏やかな余生を送ったらしい。
    • 末っ子の牛若だけはねっ返りで心を痛めていたかもしれないが。

鎌倉の女子

北條政子

  1. 源頼朝の奥さん。
  2. 駆け落ちまでした恋女房だが、亭主はしょっちゅう浮気して、気の休まる時がなかった。
    • 13歳まで京都で暮らしていた頼朝は、一夫多妻……というより多夫多妻の妻問い婚形式を常識としていたが、関東では夫婦が同居する一夫一婦方式がすでに確立していたらしい。頼朝が好色だったというよりも、そもそも男女関係の価値観がまるっきり違っていた。
    • 浮気が発覚するたびに、政子は大騒ぎして、相手の家を壊させたりした。おかげで日本一のやきもち焼きの汚名を被ってしまう。
      • 嫉妬もさることながら、北條家をしのぐ権勢を持つ氏族の出現を怖れたらしい。
  3. 我が子の頼家が言うことを聞かないので殺させた……というのはさすがに冤罪かも。
    • 頼家の傅人であった比企氏が、北條氏以上の権力を獲得しそうだったので、時政と義時が先手を打って亡ぼした。頼家はその象徴として死ななければならなかったわけで、政子の知ったことではなかったようだ。
    • 次男の実朝を孫の公暁が暗殺し、その公暁も三浦氏に殺され……と、母親としては非常に不幸な運命に見舞われたと言わざるを得ない。

  1. 木曽義仲の奥さん。正室ではなく側室だったようだが。
  2. 日本史上屈指のスーパーヒロイン。武器を取って立ち会うと義仲もたじたじだったとか。
    • 戦場でも常に義仲の傍らに居て長刀をふるった。頼もしいというかおっかないというか。

  1. 源義経の愛人。
  2. 京都でも評判の白拍子だった。
    • 白拍子というのは今で言えば芸能人。ただし水干に烏帽子という男装で舞うのが常で、いわばタカラヅカの男役トップスター。
      • 従って、なよなよしたイメージではなく、颯爽とした鉄火肌のお姐さんを考えたほうが良い。
  3. 義経の没落後、捕まって鎌倉へ連れてこられるが、頼朝の前でぬけぬけと義経を恋う歌を歌ってのける。この辺もオキャンで反骨な性格を思わせる。

室町の女子

日野富子

  1. 足利義政の奥さん。
  2. 亭主が文弱で頼りない上に浪費家なので、一生懸命お金を貯めようと苦労した人。
    • 兄の日野勝光と共に、ある意味貨幣経済の先駆者とも言える。
      • 実家の日野氏も、足利将軍家自体も、直轄の領地はごく少なく、土地や米で人を釣るのは無理だった。そこでゼニに着目したわけ。
    • 応仁の乱では、山名方・細川方の両方に軍資金を貸し、その利子でますます稼いだ。
      • 富子が山名宗全に我が子義尚の後押しを頼んだのが、応仁の乱の直接の原因だったのに……

戦国の女子

大祝鶴姫

  1. 伊予の河野氏の支族で、大三島神官家である大祝家の姫君。
  2. リアル美少女戦士。
    • 戦死した兄に代わって水軍を率い、大内氏の侵攻軍を何度も撃退する。なんと16歳。
    • そのうち婚約者まで戦死したので、世をはかなんで自殺したという。まだ18歳。
    • 大名なみの政治力を見せた女性や、武芸に優れた女性は何人も居るが、本来の意味で「女武将」と言えるのは彼女くらいかもしれない。
      • しかも正真正銘ハイティーンの「美少女武将」であり、恋人の後を追って自殺するようなけなげなおにゃのこでもあり、もっとこいつらの餌食になっても良さそうな気がするのだが。
      • 妹属性、さらに神官家の姫君なのだから巫女属性もある。究極的萌えキャラだと思う。
  3. 大山祇神社には、鎧をまとった鶴姫の銅像がある。

寿桂尼

  1. 今川氏親の奥さん。氏輝・義元のママ。
  2. 氏親の死後、若年の氏輝を助けて今川家を支える。
  3. 氏輝と、そのすぐ下の弟・彦五郎がほぼ同時に謎の死をとげると、末っ子の義元を擁立して「花倉の乱」をしのぎきる。
    • 玄広恵探の側(福島氏側)へ走る者が最小限にとどまったのは「尼御台様には逆らえん」と思った家臣が多かったためらしい。
  4. 本人の出身は中御門家。公家のお姫様のわりには肝っ玉が据わっていて権謀術数にすぐれ、「女戦国大名」とも呼ばれた。
    • 人を見る目も確か。義元に軍師の太原雪斎をつけたのも寿桂尼のはからいだったらしい。

お市

  1. 織田信長の妹で、浅井長政に嫁ぐ。
    • 絶世の美女で「四方(よも)様」と呼ばれた、と言われる。が、美しいには美しいがやたら背が高くてなかなか貰い手がなかった、という説もある。
      • 妹のお犬に嫁入りで先を越されたのは事実。
    • 長政の容貌はイケメン説とブサメン説があるので、「美男美女カップル」であったか「美女と野獣」カップルであったかわからない。
  2. 朝倉攻めに行った信長の背後を長政が衝こうとした時、小豆袋を送って信長に警告した……というエピソードが有名だが、真偽のほどは不明。
    • 小豆袋の上下を縫って、挟み撃ちにされることを暗示したというのだが、いかにも講談的であまり信憑性が無い。
  3. 長政の死後はしばらく信長の元に戻っていたが、信長の死後、柴田勝家と再婚。
    • 勝家を味方につけようとした織田信孝の政略だったらしい。
      • 秀吉もお市に惚れていたので、地団駄踏んだと言われる。
    • 勝家が秀吉に敗死した際には夫に殉ずる。
  4. 豊臣秀頼、徳川家光のお祖母ちゃん。

北政所

  1. 豊臣秀吉の奥さん。
  2. 名前は「ねね」だか「おね」だか。
    • 「お」は「おまつ」「おきぬ」とか言う時の「お」と同じで接頭辞なので、「おね」だとすると名前が「ね」だけになってしまう。それはさすがにないような気がする。
      • 手紙の署名に「寧」とだけ書かれているのが根拠らしい(「ねね」という名前の他の人は「寧ゝ」という書き方をしていることが多いそうな)。しかし信長の娘も「五」とだけ署名した手紙を書いているし(それで「五徳」という珍妙な名前で呼ばれることも)、イニシャルみたいなものであった可能性が高い。
    • 長らく「ねね」とされ、一時期「おね」が流行り、最近また「ねね」が復権している模様。
    • 「おねい」説もある。
  3. 足軽の頃の秀吉がさんざんアタックして結婚。
    • 当時は奥さんの家のほうがちょっと上で、まあ平社員が係長の娘をめとった感じ。結婚してすぐ秀吉はちょっとだけ出世して主任クラスになった。
      • まあまあ、アゲマンと言ってよろしいかと。
    • 前田利家の奥さんのおまつさんとは仲良しだったとか。
  4. 自分に子供ができなかったせいもあり、秀吉配下の若者たちを大変かわいがった。
    • 加藤清正や福島正則などの尾張系の若者をひいきして、石田三成などの近江系とは疎遠だったと思われているが、そんなことはない。近江系の連中が淀殿のほうに集まったというのも事実ではないようだ。
  5. 秀吉の死後、豊臣家を護ろうとしたか、亡びるに任せようとしたか、解釈が分かれる。
    • 淀殿とその子に乗っ取られた豊臣家には未練がなかったという考え方。
    • 徳川体制下の一大名として残れるように尽力したが、淀殿がすべての助力をはねのけたのだという考え方。
    • 最近では、今まで考えられていたほど大きな器の女性ではなかったのではないかという説も出ている。
      • 最後まで庶民のオカミサン感覚で、政治力を働かせようという意思そのものが無かったのかもしれないというわけ。

芳春院

  1. 前田利家の奥さん。名前はおまつ。
  2. 北政所と仲良しだった。
  3. けっこう気の強い女性で、「鑓の又三」と呼ばれた利家も尻に敷かれていたっぽい。
    • 佐々成政の軍勢に攻められて利家がびびっていると、
      「だから常日頃、ええ家臣を集めときゃーせてゆーとったがね。それをゼニ惜しんでケチケチしとるから肝心の時に困りゃーが。いっそここのゼニ袋に槍持たせりゃええて」と痛烈な説教。利家はべそをかきながら奮闘してなんとか成政を撃退したそうな。
  4. 利家の死後、息子の利長が家康暗殺計画の嫌疑をかけられた際に、進んで人質になるべく江戸へ行ってしまった。
    • 大名が家族を江戸に置く先例となった。ある意味、徳川家にとって恩人とも言える。
    • もっとも、前田家が早々に腰砕けになったのを見てがっかりした連中も多かったらしい。「あの婆さん、余計なことを……」と思われたかも。

淀殿

  1. 豊臣秀吉の愛妾。名前は茶々。
  2. お市の長女。お市に似ていたので、お市に憧れていた秀吉が自分の物にしたと言われるが、さほどの美女でもなかったという説もある。
  3. 秀吉の子を二人(鶴松と拾)も産む。鶴松は夭折したが、拾は成長して秀頼となる。
    • 父親は別に居たのだという噂も根強い。石田三成とか、大野治長とか、いろんな名前がささやかれる。
    • 秀吉が他の妻妾に子供を産ませられなかった、つまり秀吉が種無しだったからというわけだが、初期の側室である南殿には子ができているので、あまり信用できない。
      • 南殿も秀吉の側室になった時すでに妊娠していたor子連れであった説があるが、種なし説から逆に敷衍された話のようでもある。
  4. 過保護ママで、秀頼をすっかりダメにしてしまったらしい。
    • 大坂の陣の時も、諸将が秀頼の出陣を熱望したのに、淀殿の反対で実現しなかったとか。
    • 一方、大坂の陣の時期には、秀頼はそれなりの見識を持つ武将となっていたのに、母親と意見が合わず、城内が「淀殿派」と「秀頼派」に分かれてしまっていたという説もある。
    • 千姫を逃がさないように着物の裾を踏んづけていた、という話は濡れ衣のようだ。

お江

  1. お市の三女で淀殿の妹、徳川秀忠の奥さん。
    • 名前は「お江与」「小督」などの説もある。ただし「小督」は「お江」をちょっとカッコ良く表記しただけと見られる。
    • 秀忠と結婚するまでに、佐治一成、豊臣秀勝(3代目……秀次の弟)と結婚している。一成とは離婚、秀勝とは死別。
  2. 嫉妬深くて激しい性格とされることが多いが、永井路子氏は穏やかで順応性の高いタイプだったと推理している。ただしやや冷淡なところはあったようだ。
    • やきもち焼き説の根拠は、秀忠がお江の生前側室を置かなかったとか、一度だけ浮気したがその時できた子(保科正之)と対面しなかったとかによる。
      • 単に秀忠が淡泊だった(あるいは、お江だけを本心から愛していた)だけかもしれず、ここからやきもち説を導くのは強引な気がする。
    • 手元で育てた次男の国松(忠長)を偏愛し、春日局のもとで育った長男竹千代(家光)を疎んじたという話もあるが、これも大した根拠は無い。
      • 国松がお江の手元で育てられたこと自体が事実ではないらしい。国松には土井利勝の妹が乳母としてついており、春日局と同じような立場だった。

春日局

  1. 明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘で、本名はお福。
  2. 三代将軍家光の乳母で、大河ドラマの主人公にもなった。
  3. 家康の愛人説もあるが、本当かどうか。
  4. 春日という地名にある、郵便局のことではない。