ページ「群馬の学業」と「後漢」の間の差分

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==群馬の学業==
==後漢の噂(一般)==
#転勤を命じられたサラリーマンが子供の教育問題で悩む。
#五感成立
#*学校教育レベルが最低と思われている。
#強姦ではない
#*いや、教育王国。公立だけみればね…
#光武帝が博多の酋長を倭人の代表と承認し、「漢委奴国王」の金印を与えた。
#*群馬県南部では教育環境は問題なし。寧ろ、環境は整ってる。中部から北部にかけてはかなり難あり。
#*仲良くしようという意味ではなく、家来という意味らしい。
#*高崎・前橋・太田以外にろくな高校がないため高校受験時に村を出る高校生が未だにデフォ
#**王は帝の下だし、漢の辺境国の王と認めてやるよん、で合っているだろう。
#*前橋は中学で学校選択制を導入したら、優秀な生徒と残念な生徒の集まる学校がクッキリと分かれてしまい大変なことになったので学区制に戻るそうな。
#*「カンのワのナの国王」「カンのイドの国王」の二通りの読み方が考えられる。
#**でも戻ったら戻ったでふいんき(ry悪い学校の新入生はかわいそうだなぁ
#**「ナ」は博多周辺にあったことが確実視されている国。「イド」は魏志倭人伝に出てくる「伊都国」(糸島半島にあった?)と同じところと思われる。
#2003年の学校基本調査によれば、群馬の大学現役進学率は、1980年以降の20年余りで3倍近く伸び、全国平均にかなり接近しているものの、依然下回っている。また、大学進学率は35.2%で全国順位は26位であった。
#金印を送る。
#*トップの東京都と10%近い差があることを考えると、場合によっては悩んじゃうでしょう。
#『後漢書』の中には「郷に入っては郷に従え」を論破できる表現がある。
#群馬の高校レベルは、概ね公立>私立。私立は公立の滑り止めという位置づけの場合が多く、歴史が古くレベルの高い公立高校は、ほとんど男子校・女子高。
#*「公立>私立。私立は公立の滑り止め」の関係は茨城も同じ。
#*私立だと東農大二か新島くらい?(上位数名、それも前高・高高あたりを落ちたので来るのがほとんど)、でも周りが9割以上は普通~それ以下なんで流されちゃう
#*教育困難校レベルの私学が多すぎ。前橋育英(サッカー)桐生第一(野球)とかに夢を抱いていると人生棒に振ります。死ぬまで群馬から出ないで暮らすというなら別ですが。
#**下校時間とかに学校近くのコンビニ等で生徒を観察すればよくわかります
#***健大高崎(昔の群女)の生徒があまりに万引きするので、校門そばのセブンイレブンは潰れたらしい。末期には教師が店内(!)で警戒していたという噂
#**流石と言うか、やはりと言うか…恥を知れ、桐ヶ丘(あえて旧名で呼ぶ)
#*高崎あたりでは、東京の開成中高などへ新幹線通学する子もごく一部だがいる。
#*後は[[埼玉]]県内だが[[高崎駅]]から[[高崎線]]で数駅の[[埼玉の学業#早稲田大学本庄高等学院|早大本庄]]に通う人も割といそう。
#学力レベルが高い公立高校は、男子校が「前橋高校(前高:マエタカ)」「高崎高校(高高:タカタカ)」、女子高が「前橋女子高校(マエジョ)」「高崎女子高校(タカジョ)」。
#*これに「国立群馬高専」を加えることもある。
#**理系の教科(数学・物理)に限っては間違いなく県内一。なんで高3でラプラス変換とかフーリエ解析やるの?
#**群馬高専は理工系ヲタクの行く学校。周りからは変人扱いされているとか・・・。
#*高校ネタになるとやけに張り切る(主に上記の別学校出身者)
#*太田高校(タタカ)、太田女子高校(タジョ)は上記高をひどくライバル視しているが、上記高は県の端っこにある太田勢は相手にしていない。
#**特にライバル視している教師陣と生徒の温度差が激しい。
#**2011年から太高出身の大澤正明氏が群馬県知事になり、太高もラグビー部が2012年末~13年年頭の全国大会出場を決めたときは、さすがに知事本人が大喜びしていた。
#***太高のラグビー部は日本最古の歴史を持つ。
#**太高、太女、さらに太田東は、別に前橋や高崎の学校にライバル心を持たずとも、市内に事業所を構える大企業の社員の子どもが自然と集まり、結果として入試時の偏差値があがっているらしい。
#*最近では大学へのバイパスとして、群馬高専が有名になってきた。卒業生の80-90%が国立大学に進学。専攻科からは30人中7人東大院へ合格。求人倍率は300倍を超えることもある。私立大学へ行こうものならクラス中から馬鹿にされる。以前、高崎高校と体験入学の日が重なったが、高高が日程をずらしたという逸話あり。
#**群馬高専が80-90%が国立大学に進学といっても当然ながら理工系のみ。文系にも多くの合格者を出す他の県内進学校とは比較にならない。
#***比較にならないほど理工系が難しいということ。そもそも国立と県立を同列で論じるべきではない。
#**A級進学校の高高、前高、太高に対し、B級進学校(桐生高、富岡高、中央高、渋川高、沼田高、太田女子高、舘林高)があり、割と層が暑い。
#内陸なのに水産コースのある高校(県立万場高校)がある。
#*戯曲作家の後藤ひろひとはそれをしょっちゅうネタにしている。
#前橋の明和高等学校は殆どの生徒が面接だけで入学している。また、無茶苦茶厳しい校則で有名。
#*例:父親以外の男性と二人きりになってはいけない。
#*今は廃止されたようだけど、かつては三つ編みが義務付けられていた。
#中高一貫ナニソレ状態。群馬大学教育学部付属は中学校まで。
#*その群馬大学も埼玉大学へ吸収合併の危機。
#**合併は中止になりました。大人の事情で。
#*最近、中央が中高一貫になりましたよ・・・
#**伊勢崎にもできましたね
#**群馬県初の中高一貫校は、上の方に書かれている明和高等学校を改組した創世中等教育学校だったが、折角旧明和高校を廃校して設立したにも拘らず閉鎖することに…。
<!--#上の町村セクションがかなりいい加減な辺りが群馬クオリティ(群馬県民にて修正済み)
#*合併するとはいえ松井田町のこと、時々でいいから思い出してください
#**編集した者ですが、この程度の学問事情なのでお許しください(訂正しておきます)。-->
#自転車通学が多い高校生の場合、遅刻のいいわけは「風が強かったんです。」
#*他に「自転車にのりおくれました」。
#**「電車に乗り遅れました」の間違えでは?
#*どの電車も私鉄を中心によく止まったり遅れたりするから電車おくれましたも多いよ。
#意外と国公立大学が多い(群大・高経・県女・前工大)。
#*県立看護大まである・・・。伊達に総理を四人出してないということか。
#市立高校を持っている自治体が多い。前橋、高崎はもちろん、太田、桐生、伊勢崎、渋川ーー教育に金をかける姿勢の表れか!?
#某元アイドルが進学予定の高崎市内にあるS大学の設置者は"学校法人堀越学園"。但し、そのアイドルの出身校とは無関係。
#*これで有名になったためいい加減な運営体制が明るみになり、廃校となった。
#両毛地域(太田、桐生など)では隣接する栃木県足利市との越境入学が盛ん。進学校に関しては足利から太田桐生に流入するケースが多いようだ。
#*[[足利市]]内にある栃木県立の学校と、[[太田市]]内にある群馬県立の高校との間で、それぞれ越県入学生枠を一学年に対し一割は設けるという取り決めがあるらしい。
#県立館林女子高校が、2012年秋、太田駅構内に、生徒が弓の練習をしているシーンを撮った写真入りの生徒募集ポスターを貼り出した。まさかと思うが、同じ県立の太田女子高校に矢先を向けてのことだろうか。
#近年はちょっとアレな先生や教授が有名。ネット上で生暖かく観察されている。嘆かわしい…


===上毛かるた===
==後漢の皇帝==
#小学校で、「[http://www.jomokaruta.org/ 上毛かるた]」なるものを無理矢理暗記させられる。
#光武帝、明帝を除くと全員10代以下で即位、40歳以上まで生きた皇帝は献帝だけだった。
#*暗唱できないと卒業証書がもらえません。
#歴代皇帝は病弱という以前に、ほら、後宮って常に女ばかりだからさ(以下略)
#**そんなわけないし・・・
#*女ばかりの後宮は別に後漢だけの話ではないぞ。
#*高学年で転校してくると覚えられない・・・
#*どうやら、服用していた薬がいけなかったようです。水銀や砒素などが調合されていたので……
#*群馬県の北部、山奥に面する地域の中には、上毛カルタを覚えずとも卒業できる小学校がある。が、何故か皆最低限「鶴舞う形の群馬県」を知っている。
#*不老不死夢見て水銀飲んだ挙句、早死にした。
#毎年正月には県下で小倉百人一首並に激しい競技が繰り広げられ、なかには手を骨折する児童もいるらしい。診察する整形外科の先生が大変そうだ。
===光武帝===
#「上毛かるた」のせいで、群馬出身の微妙にマイナーな偉人や、観光名所などの知識が無駄にそこそこある。
#[[漢|前漢]]の宗室の出ではあるが、皇族というほど近い関係ではない。無数に居た子孫のひとり。
#*ただし、内容で年がばれる。(力合わせる百八十万)
#*大丈夫!後の自称「中山靖王の子孫」よりは身元がしっかりしているから。
#**おいおい、もうすでに[http://www11.plala.or.jp/kori/gunma/y_jomo/jm-ti.html 力合わせる200万]ですよ。だいぶ前から……年ばらしてるのなら可。
#*他の皇族たちは考えもなく挙兵→返り討ち。劉隆、劉嘉は主体性なくていつの間にか配下に。劉玄はアル中。劉子興は偽物。劉永は奮闘したものの、二十八将の中では有数の頭弱い蓋延に討ち取られる始末。まあ戦後の適任がいなかったからとも。
#全国どこの都道府県にも「上毛かるた」みたいなご当地かるたがあると思っている。(上毛かるたの一例:鶴舞う形の群馬県)
#だから別の国号を称しても良いくらいだったが、人心を安定させるため漢の継承をとなえた。
#*上毛カルタには英語版もCDROM版も出ている。
#これでわかる通り、王朝の創始者にしてはけっこう保守的な人。
#実はGHQに遠慮して上毛かるたに入らなかった偉人もたくさんいるのだが、「上毛かるたに入ってないから」という理由で忘れ去られている。
#*奴隷解放令を度々出し、税金を3分の一にする大減税を行い、役所の大幅リストラをした人を保守的というのは違うかと。
#*国定忠治(江戸時代の博徒)とか[http://www.sunfield.ne.jp/~hikokuro/ 高山彦久郎](幕末の志士)とか中島知久平(中島飛行機創始者)とかが入っていないのはそういうわけ。小栗上野介(幕末の勘定奉行、米国使節団員、横須賀海軍工廠の基礎を作った、後年東郷元帥が日本海海戦戦勝後、遺族に故人の遺徳を述べた、と謂われている)も?
#*雲台二十八将という中ニ病ネームくさい戦隊を結成。予言書(赤伏符)の運命に従って集まったらしいが、特に合体技とかは無い。
#大学とかで初めて群馬に来た人もなぜかいくつか覚えて帰る。群馬県民が皆事あるごとに復唱するからか?
#**↑のメンツは。鄧禹、呉漢、賈復、耿エン、寇恂、岑彭、馮異、朱祐、祭遵、景丹、蓋延、銚期、耿純、臧宮、馬武、劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂、傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、萬脩、ヒトウ、劉植
#*群馬大学も、暗唱できないと卒業単位がもらえません。
#***光武帝の即位時に配下にいる、皇帝の親族は除外する、1人選ばれると同じ一族からは選出しない――というルールのため、明らかに二十八将より功を立てていながら選に漏れた者もいる。
#県内では、上毛かるたはフォネティックコード(電話が遠いとき、「いろはの『い』」とか)として利用される。
#**二十八将を選んだのは息子の明帝。選出されたのも光武帝の死後。
#たとえばテレビなどで「田山花袋」などと聞くと、「え、『誇る文豪田山花袋』の田山花袋?」という会話が必ずおこる。
#**光武帝本人がチートすぎて全く目立たないが、二十八将もヤバいのばっか。<b>常勝不敗がゴロゴロいるトンデモ集団</b>。某アニメ風に言うと、ビッグ・ファイア様と十傑集みたいな関係の連中である。
#「よ」の札を取ると変態扱いされる。
#***第一位の鄧禹は二十八将の内賈復、銚期、呉漢、寇恂など推挙しており人を見る目はあったが、自身が軍率いたときは結構負けている。
#「子持ちの家庭だと一家に上毛かるたが最低1デッキはある」と群馬在住の友人が言っていた。上の暗記云々も兼ねて学校から支給されるのかな?
#**兄貴 (劉縯) が元々決起し、弟の光武帝が付いてきた。この兄貴自身も一軍の将として有能だったが、'''弟がすさまじすぎて'''、上記二十八将以上に語られることがない。
#若い頃の口癖「官に就くなら執金吾、妻をめとらば隠麗華」
#*「陰麗華は俺の嫁!」発言が歴史に残ってしまった。
#*望み通り隠麗華と結婚でき、地位は執金吾(警視総監)を遙かに超えて皇帝になってしまった。
#*想い人のあの子は10歳年下。嫁発言は劉秀20歳ごろ、陰麗華10歳。重度のロリコン趣味であった。
#*名士のお嬢様(陰麗華)と結婚して1年足らずで、王族のお姫様(郭聖通)まで嫁にもらう。
#*間違ってはいけないのだが最初の正妻は郭聖通の方。しかしこの女性は陰麗華への嫉妬が強かったらしく皇后を廃された。そのせいで何の問題もない息子 (劉彊) は自ら皇太子の座を降りた。
#性格は、温和で質素。挙兵した時に馬を買う金が無いので'''牛に乗って戦場に行った'''。
#*姉と姪っ子を殺した岑彭を許して配下に加え。兄を殺した敵将・朱鮪を許し。敵はジェノサイド主義の呉漢が大司馬。これを温和とみるか、薄情と見るかで印象変わる。裏表の顔の使い分けはご先祖さん(劉邦)並にパネェ。
#**将軍の失敗や降伏してくる敵には寛大だが、反逆者には容赦無し。皇后の親族であってもキッチリ殺します。
#よく冗談を言って家臣を笑わせていたが、嫁の陰麗華にはウケがよくなかったらしい。オヤジギャグ?
#夜遊びしていて城門が閉まってしまい、朝まで城の外で過ごしたことがある。門番に皇帝であることを告げて顔を見せても開けてもらえず。
#*頻繁に夜遊びして諌めても聞かないので怒った家臣がわざと閉め出したらしい。しかも複数回。本当に偉大な皇帝なのか・・・。
#*車に乗って出掛けようとしたところを家臣に見つかる。怒った家臣は車の前に寝そべって進路を塞ぎ、「どうしてもというなら私を轢き殺して行って下さい!」と一喝。すごすご引き返しましたとさ。
#美人の姿を描いたお気に入りの屏風を会議中にチラ見して、家臣に「ちゃんと聞いてください」と怒られた。
#宴会の席で美人画の屏風コレクションを並べて自慢していたら、家臣に叱られて慌てて撤収。
#おそらく中国の歴代皇帝ではピカ一。あまりに偉大で欠点がないため、却って小説のネタにならず、知名度が低くなってしまった。
#*匹敵できるのは唐王朝の太宗ぐらいしかいない。また、袁紹にせよ曹操にせよ、やっていることは彼の猿真似だったりする。
#*風見鶏のような諸豪族をまとめ上げたカリスマ性、生涯一度も功臣を粛清しなかったと言われる知己。ほぼ完璧に近い。
#*強力なライバルがいないことが小説にならない一因かと。王朗や公孫述など全くいないわけではないが、項羽や曹操と比べると明らかに小粒。直接の面識もないし。
#*恐ろしいことに嫁 (陰麗華) も超出来た人で、美人で性格がよく、贅沢もせず、親戚を政治に関わらすこともなく、別の后の子供でも実の子のように接した。
#出自が極道上がりの劉邦・劉備と比べると育ちはよいが、若いころに長安で運送業を営んでいたりする。
#*県令の三男坊→漢朝あぼーんして没落貴族→執金吾になるため長安留学→学費足りなくて蜂蜜売り、運送業のバイト始める→留年するし。執金吾の審査に落第続きで傷心帰郷→劉嘉に使われて荘園経営&自分で売り子も兼ねる。アニキの劉伯升が「俺は劉邦になる」と抜かしてニートを止めない。将来に不安を覚える。→アニキの挙兵失敗に巻き込まれ、自分も反乱軍の仲間にされる。育ての叔父さん泣く。挙兵するまでかなり職を転々した皇帝。
#「お爺さん、かくしゃくとしていますねえ」の「かくしゃく」は彼が考案した単語だったりする。
#数十万を号する敵兵にわずか数千で挑み完勝した猛将でもある。でも本人は基本的に戦争の話題は嫌い。
#*統一までに。萌え萌え男の娘将軍、祭遵・有能なヒキコモリ将軍、馮異・仁将に転向してから呉漢の後始末任せてた、岑彭など、二十八将の大半と、親兄弟の死に目に会えば、ねえ……。生き残ったのは、ろくでもない連中が殆どなのは世の常。
#*即位後も剣を持って最前線に切り込んでいくものだから、将軍達は気が気じゃなかっただろう。実際何度も臣下にたしなめられてるし。
#*指揮をとって負けたのは生涯一度だけ。しかも原因は暴発した部下が危機に陥ったのを無理して助けに行ったため。勝った側も光武帝が負けたことが信じられず、「待てあわてるな。これは光武帝の罠だ」とうろたえた。
#晩年は怪しげな占いに傾倒。でも政務は疎かにしていないので周囲は黙認。
#*自分や首脳陣が若かったので、権威付けに利用しただけ。戦後、光武帝の偉業で甘露が降ったと讃える群臣を「何でもかんでも俺のせいにすんな」と却下してる(^^;。
#**中華史上最高の名君とも言える人なので下々が「聖帝」やら「聖王」と称えていると、「うぜぇから『聖帝』とか『聖王』って朕を呼ぶの、禁止な」というウソのような命令を出したことがあるとか
#***勅を除けば「朕」という自称をほとんど使わなかったとか。唯一、賈復と寇恂を仲直りさせる際にのみ使ったらしい。皇帝の言葉であることを強調して「天下安寧の為に私憤を治めてくれ」という意図を明確にしたのかな?
#一般的に皇族の出だから、劉邦と比較すると苦労していないように見られがちだが、劉伯升に巻き込まれての新王朝への叛乱では数千の兵で20万を号する新の討伐軍を撃退する任務を課せられたり、その劉伯升が更始帝と朱鮪により謀殺された時は、謀反人の実弟ということで処刑待った無しの状態だったので必至に命乞いした上で華北の賊軍討伐を名目に都を脱出するものの、ほぼ徒手空拳状態で賊軍討伐せざるを得ない状況に追い込まれるなど、当人の器量が抜きん出たものである証左と言える苦境を乗り越えている。


==群馬の大学==
===明帝===
===主な大学===
#国境封鎖をゆるめ、西方への影響力を行使し始めた。
*[[東京の私立大学/た行#東京福祉大学|東京福祉大学]]
#*その結果、「西域の鬼神」と呼ばれる班超将軍が台頭した。
#皇后は馬氏。建国の元勲・伏波将軍馬援の娘。稀に見る賢夫人でした。
#*馬援は建国の最後の方の敵だった隗囂が元主君。公孫述が友人だったので、直接天下統一事業には参加してない(引き抜き外交のみ協力)。彼の活躍は、外国遠征。
#**歴戦とは言い難いですが、引き抜きに加え、屯田参加や隗囂戦で地図作成したことなどは建国の元勲として十分な功績といえるかと。
#***そういう意味では雲台二十八将のメンツ入りに十分な資格があったが、皇帝の親族は除外のルールにひっかかってメンバー入りならず。
#*馬氏を推薦したのは皇太后の陰麗華。晩年の馬援は、彼のバカ真面目さにムカついてた人の悪口で光武帝と仲たがいしたまま逝ったので、子供の代で仲を修復するよう、取り持ったもよう。
#灌漑事業を強力に推し進めた。
#楚王英の叛乱を招いた。
#*実は一番仲が良かった兄弟の叛乱。話を聞いたとき取り乱しまくった。同母弟の劉荊の叛乱時は微塵も情をみせなかったのに。
#*罪に問われたメンツを見ると功臣や降将の2代目3代目が多いことから、父の代わりに粛清をおこなったとも言われる。


===高崎経済大学===
===章帝===
#戦後、群馬に国立大学を設置する際に必至の誘致もかなわず、前橋に大学を持ってかれたのでそれに対抗する形で創立。
#後漢がいちばん安定した時期の皇帝。
#地域政策学部に観光政策学科を開設するに当たり大幅増員したら、講義の少ない時間帯に設定されている講義が飽和状態に。また自転車が敷地に溢れている事もしばしば。
#*……と、優遇された儒者が過剰に持ち上げてるだけで。最悪なタイミングでの西域撤退命令や塩・鉄の専売開始。益・荊州の反乱を放置。外戚への金銭ばらまきなど、後漢滅亡の種を撒いた人。
#しかし全国的に観れば群馬大学よりも有名である。
#*悪政を『五噫歌』という歌に詠われた。西域と国政に興味なく、お祈りと観光旅行が仕事の暗君。
#学力も上らしい。
#皇后は竇氏だが、しゅうとめの馬氏に較べると、権勢欲が強くて嫉妬深い女で、皇子を産んだ側室をふたりも殺害した。
#パラダイス地域にネガティブ経済。
#*次の和帝が幼少だったので、その時期も権勢をふるい、兄の竇憲を大将軍に取り立てて専横をきわめた。
#*しかし、気がつけばどっちもどっち。
#*元来の太子を廃立して幽閉。馬超の先祖など、他の外戚や忠臣達を次々粛清。強盗した金で人材募集。伝令を私物化などガンガンした。でも優遇された儒者が弁護してくれた。
#経済学部の某准教授が女子学生を自殺に追い込み懲戒免職の処分を喰らい、全国に耳慣れない「准教授」の名称と共にその名を轟かせた
#父や祖父は前漢宣帝と同じく法家と儒家のハイブリッドだったが、ここからほぼ完全な儒学・礼教国家シフト。
#*准教授の旧称は助教授であり、名称が2007年から准教授へと変更された。
#*交易を申し込んできた北匈奴を騙し討ちして、奴隷をゲット(光武帝の奴隷解放が、ここで崩壊)。実績が無くとも封禅の儀を決行したりと、礼教国家というより別モンになったような……。
#*また、その准教授の行為はアカハラ(アカデミックハラスメント)といい、セクハラなどと同様に有名になった(と思う)。
#*孔子の家を破壊したDQNも聖人として祀る。資格もないのに封禅の儀を行うなど。ツッコミどころ満載であるが。
#大学名を出すときに「市立」を付けないと公立だと分かってもらえない。
#白虎観会議によって、儒学のテキストが現在に極めて近い形に編纂し直される。
#*「へぇ~。じゃ、経済学部なんだ?」って言われてから説明するのがめんどいby地域政策学部生
#*勝った今文学派が、章帝の古文学派びいきで敗北扱いにされた。会議の意味ってなんだろう……。
#*学部も2つできたし、入学定員も同じくらいになったんだから、「高崎市立大学」に改名してほしい。そうすれば変な私大と間違われない。よって、ネガティブな学生も少しは減ると思う。by経済学部生
#**ネガティブな学生って何なんだ?むしろ、うちでよその実情を知らないままに、うちは素晴らしいといっている学生の方が怪しい気がする。
#『生協の白石さん』の学食ヴァージョンを出版したコックさんがいるらしい。
#*黒沢さんのことかな?在学中は白石さんが流行る前からセンスあふれる回答をしていた気がする。名前も白と黒でなんという偶然。by卒業生
#**黒沢さんは白石さんよりビターな味だったね。
#某巨大掲示板や某知恵袋で何年間もここを批判し続ける奴がいるw
#*特に受験シーズンになると活動が活発に...
#*批判する学生VS擁護する教職員の対立は激アツ
#**こんだけ自殺者出したら当たり前だと思うよ。貴校は、異常です。残念なんですが
#**↑が実例
#教員の奇人・変人率が異様なまでに高く、「さよなら運転を勤め先を無断欠勤し見に行って首になった鉄ヲタ」「筋トレしかしないゼミ」「『風来のシレン』や『ひぐらしのなく頃に』の攻略について学べる経済原論」など他の大学にいたら奇人変人のトップクラスに位置するだろう名物教員が多数。ちなみに昔に比べたらマシになった方。


===関東学園大学===
===和帝===
#松平濱子が渋谷区に作った女学校が源流である。1950年関東短期大学を設置し、さらに1976年関東学園が設立された。
#宦官・鄭衆と図って竇一族を粛正。鄭衆自身は有能な人格者だったが、これ以後、宦官がのさばりはじめる。
#*2010年法学部募集停止
#*鄭衆だけ特例で、政治顧問になっただけ。他の宦官は現状維持のまま。
#**年々入学者数と定員数を減らしている。2017年には定員1080だったところ2019年には760、学生数600未満。
#この時代、蔡倫が紙を現在ある形に改良。
#[[関東学院大学]]とは何も関係が無い。ちなみにミッション系でもない。
#*「発明した」とまで言うのは言い過ぎ。似たような物はそれ以前からあって、蔡倫はそれを作りやすく使いやすいものに改良したのだった。
#*ここと関係あるのは関東国際高校。こちらは現在も渋谷区にある。
#*竇一族に加担して、宋貴人を罠にはめて処刑した所は妙に弁護されてる人。女嫌いの宦官。
#関東上流江戸桜の一角である。
#西域ではまだ班超が大活躍。一方その兄・班固と妹・班昭により「漢書」完成。すごい兄妹である。
#関東学園ヴェルボトナル研究所がある。ヴェルボトナル法に基づく言語聴覚訓練に関するわが国唯一の研究所なんだとか。
#*章帝時代の班超は、朝廷の方針が曖昧で兵力不足に泣かされてたのが、皇帝の代替わりでようやく解消。
#関東学園附属から来るのは30%ほど。
#章帝の負の遺産(通貨の鋳造停止、塩・鉄の専売、異民族との無駄な交戦)の解消に、文字通り燃え尽きた皇帝。
#「農と食の豊かなくらし研究所」を作り、第六次産業化に取り組む研究所を作った。(株)「農のちから」にも出資する。


===上武大学===
===殤帝===
#1968年設立。看板は看護学部。
#生後百余日で即位、半年後に崩御。
#関東上流江戸桜の一角である。
#*和帝の皇后・鄧氏の差し金。もっと年上の息子も居たのに……
#最近陸上部が箱根駅伝に出てくるようになった。
#*そこの監督はかつて、[[早稲田大学]]のランナーとして実際に箱根駅伝に出場していた。
#2013年に第62回全日本大学野球選手権大会で初優勝。東都でも6大学でもない野球部が優勝という偉業を達成した。
#*150人規模のチームだったが、その優勝ののち気づいてみれば200人超になっている。たまにみんなで五厘刈にすることもある。


===高崎健康福祉大学===
===安帝===
#国際医療福祉大を猛追。もしかしたら北関東最強の私立になる大学化も。ちなみに国際医療福祉と同じ医療系。
#殤帝の従兄にあたる人で、やっぱり鄧氏の差し金で即位。
#群馬でトップの私立はここ高崎健康福祉大。
#鄧氏は皇太后として、兄の鄧隲を大将軍に起用し政務を専断。
#*とはいえ、他の外戚に較べると、節度ある態度だったらしい。
#*それでも安帝は成長するに従って煙たく思い、皇太后が死ぬと皇后・閻氏および宦官・李閏と図って鄧一族を粛正。
#**ついでに自分の祖母を殺した蔡倫も粛清。
#*ようやく実権をつかんだかと思いきや、今度は閻一族に牛耳られてしまった気の毒な人。


===創造学園大学===
===少帝===
#たまには思い出してあげてください。
#殤帝・安帝の従弟にあたる人で、閻氏の差し金で即位。
#かつてのりピーが在籍していた。
#閻氏は少帝を担いで、一族で政務を専断しようとしたが、宦官・孫程たちに阻止され、一網打尽。少帝も廃位・暗殺された。
#学校法人名は「堀越学園」だが、無論[[東京の高校#堀越高等学校|芸能人を多く輩出する東京の高校]]とは無関係。


===その他===
===順帝===
*県内に本部のある大学
#宦官たちに擁立されたので、お礼に宦官を諸侯に封じ、養子をとって家産を相続できるようにした。
**群馬大学(国立大学)
#*この皇帝が居なければ、「宦官の孫」である曹操は出現し得なかったであろう。
**前橋工科大学(公立大学)
#皇后は梁氏。この兄が、跋扈将軍として専横の限りを尽くす梁冀。
**共愛学園前橋国際大学
#孝廉制度改革によって科目によっては筆記試験が初めて明文化される。
**群馬パース大学
#*もっとも筆記試験自体は明帝の頃から既に記録に表れている。
**群馬医療福祉大学
**桐生大学
**育英大学
その他多数


==群馬の高専==
===冲帝===
===国立群馬高専===
#2歳で即位、半年後に崩御。
#そこらの中堅私立にいくよりはるかに親孝行な進路。
#就職は勝手に向こうから来るが国立大コンプレックスのためかわざわざ3年次編入してしまう子が多い。
#公立高校でいえば学区2番手ぐらいのレベル
#科学少年の巣


===質帝===
#7歳で即位、8歳で崩御。
#大将軍の梁冀によって、だいぶ遠い皇族の中から擁立されたが、案外と利発で、扱いづらくなりそうだったので、あっさり毒殺された。
#*梁冀を見て「跋扈将軍」と言って怒らせたという。8歳の子供にしては言うことがませていた。


[[Category:群馬|かくきよう]]
===桓帝===
[[Category:都道府県別の学業|くんま]]
#大将軍の梁冀によって、だいぶ遠い皇族の中から擁立されたが、こちらはあんまり利発そうでなかったので21年間の治世をまっとうした。
#とはいえだんだん梁冀がうっとうしくなり、梁皇太后が死ぬと、宦官・単超らと図って梁一族を粛正……って、何度おんなじパターンを繰り返せば気が済むんだ?
#お礼に宦官を諸侯に封じた。
#*宦官がわが物顔に官職を独占しているので、あぶれた知識人たちが「宦官追放」「俺たちにも官職よこせ」キャンペーンを張る。宦官も負けてはおらず、やかましい知識人たちを投獄する。世に言う党錮の禁。
#自称[[ローマ帝国]]の使いが来たのはこの人の代。テストに出ますよ!
#後漢をとどめを刺した皇帝とも言われる。
#*滅んだ理由のうち、内憂の最も大きなものは順帝が宦官に相続を許して宦官に利権体質を作り上げたことにあり、また外患の最も大きなものは鮮卑に冒頓単于に匹敵するクラスの英雄が現れたことによるため、彼ばかりの責任というのもやや酷というものではあるが……
 
===霊帝===
#桓帝に子がなかったので、だいぶ遠い皇族の中から擁立された。
#官職を売りに出す。
#*野にあった時だいぶ貧乏していたので、皇帝になったら贅沢ができるかと思って即位したところ、財政難で自由に使えるお金があんまりなかった。
#*失望した霊帝が思いついたのが官職の販売だった。けっこうアイディアマン。
#*また、後宮内で模擬店を開き、みずから屋台のオヤジに扮して麺などを売り、小銭を稼いだ。一人前の麺を取り分けるのがものすごく上手だったらしい。
#**皇帝になるより、商人にでもなっていたほうが、本人にとっても後漢王朝にとっても幸せだったに違いない。
#*もっとも、貨幣改鋳などを含んだ全体の経済政策については董卓(失敗例)・劉巴(成功例)の政策の嚆矢として評価する人もいる。
#黄巾の乱がおこり世の中が乱れ始めた。
#宮殿の望楼から市中を眺めようとして、宦官に止められたとか言う逸話がある。
#皇帝直属の常備軍を初めて創設しようとした。西園八校尉と呼ばれる8人の指揮官を置いたが本格的な運用までには至らず。ただしそれを曹操が後年実現した。
 
===廃帝===
#言語不明瞭な人。
#袁紹たちが宦官討伐のため宮廷に攻め込んだ時、弟の劉協(献帝)と共に宦官たちに付き添われて逃げ出す。董卓に拾われるが、ろくろく返事もできなかった。
#結局董卓によって廃位、その後殺される。
#字だけ見るとかなりひどい名前な気がする。'''廃'''帝・・・
#*「廃された皇帝」ってだけの意味ですから。
#町の肉屋の妹が霊帝に愛されて産まれたのが彼で、その伯父の肉屋は大将軍となった何進。
#*意外と、霊帝の実子じゃないせいで廃されたのかも知れないそうな。
#**献帝の字が「伯和」。普通、「伯」というのは長男につける名前だから。
#一般的に弟より暗愚だとされているが、そもそも演義自体が勝者である後継の献帝や曹操、そして劉備の視点で描かれており、これらの正統性を維持するためことさら貶める評価をされている可能性もある。
 
===献帝===
#兄の廃帝より賢そうだったので董卓に擁立される。田舎者の董卓は、バカ殿を担いだほうが何かと便利だということを知らなかったらしい。
#*賢そうだったから担いだんじゃなくて、本音は何進の血が流れる先帝を廃して何氏の影響力を一掃したかったから。
#**そもそも兄より賢いと言ったって、たかだか8歳の子供に傀儡の君主としての役割以外で一体何ができるのであろうか?
#董卓やその部将たちの思惑のままに、あっちへ行ったりこっちへ行ったり転がされていたが、曹操に保護されて一安心。
#しかし、曹操が強くなりすぎたので、バランスをとろうと他の連中に肩入れし始めるが、失敗。
#*献帝本人は曹操に帝位を譲ろうとしたことがあるが、曹操が冷や汗かきながら固辞したとか。
#曹操の息子の曹丕に帝位を禅譲するが、その後破格の厚遇を受ける。献帝の側から要求したのかも。
#*山陽公に封じられ、「朕」の一人称も認められ、日々の生活で使うものなどもすべて皇帝並みでOKだったのだから大したもの。
#*帝位から下りてよほどのびのびしたのか、曹丕よりだいぶ長生きした。
#*後漢王朝は曹操ですら潰すのを嫌がったぐらいに威光の塊で、下ろすのに非常に気を使う必要があった。中国史といえば易姓革命でどんどん王朝が変わるけど、その中で日本の天皇家みたいな立場になり得たのが周朝と後漢朝。
#諸葛亮と生まれた年と死んだ年が同じだったりする。
#帝の地位を献上したので献帝と諡号された。
#*蜀では愍(びん)帝と呼ばれた。
#**「愍」は、天寿を全うできなかったような気の毒な皇帝に贈られる諡号。
#**実は蜀には献帝が曹丕に弑されたと誤伝され、劉備はその後継者として帝位に就いてしまった。あとで献帝が生きていることがわかったが、今さら劉備の即位を取り消すわけにはゆかず、蜀では献帝の生存は触れてはいけない話題となった。
#***↑どうなんだろ? 実は劉備が皇帝になりたかったから「献帝が殺された」ことにして、その跡を継いで季漢皇帝についた。あるいは臣下が「献帝が殺された」ことにして劉備に帝位についてもらえば「正式に漢の臣下を名乗れる」から劉備にそう伝えた、とも考えられる。
{{中国史}}
[[Category:中国史|こかん]]

2021年8月15日 (日) 05:21時点における版

後漢の噂(一般)

  1. 五感成立
  2. 強姦ではない
  3. 光武帝が博多の酋長を倭人の代表と承認し、「漢委奴国王」の金印を与えた。
    • 仲良くしようという意味ではなく、家来という意味らしい。
      • 王は帝の下だし、漢の辺境国の王と認めてやるよん、で合っているだろう。
    • 「カンのワのナの国王」「カンのイドの国王」の二通りの読み方が考えられる。
      • 「ナ」は博多周辺にあったことが確実視されている国。「イド」は魏志倭人伝に出てくる「伊都国」(糸島半島にあった?)と同じところと思われる。
  4. 金印を送る。
  5. 『後漢書』の中には「郷に入っては郷に従え」を論破できる表現がある。

後漢の皇帝

  1. 光武帝、明帝を除くと全員10代以下で即位、40歳以上まで生きた皇帝は献帝だけだった。
  2. 歴代皇帝は病弱という以前に、ほら、後宮って常に女ばかりだからさ(以下略)
    • 女ばかりの後宮は別に後漢だけの話ではないぞ。
    • どうやら、服用していた薬がいけなかったようです。水銀や砒素などが調合されていたので……
    • 不老不死夢見て水銀飲んだ挙句、早死にした。

光武帝

  1. 前漢の宗室の出ではあるが、皇族というほど近い関係ではない。無数に居た子孫のひとり。
    • 大丈夫!後の自称「中山靖王の子孫」よりは身元がしっかりしているから。
    • 他の皇族たちは考えもなく挙兵→返り討ち。劉隆、劉嘉は主体性なくていつの間にか配下に。劉玄はアル中。劉子興は偽物。劉永は奮闘したものの、二十八将の中では有数の頭弱い蓋延に討ち取られる始末。まあ戦後の適任がいなかったからとも。
  2. だから別の国号を称しても良いくらいだったが、人心を安定させるため漢の継承をとなえた。
  3. これでわかる通り、王朝の創始者にしてはけっこう保守的な人。
    • 奴隷解放令を度々出し、税金を3分の一にする大減税を行い、役所の大幅リストラをした人を保守的というのは違うかと。
    • 雲台二十八将という中ニ病ネームくさい戦隊を結成。予言書(赤伏符)の運命に従って集まったらしいが、特に合体技とかは無い。
      • ↑のメンツは。鄧禹、呉漢、賈復、耿エン、寇恂、岑彭、馮異、朱祐、祭遵、景丹、蓋延、銚期、耿純、臧宮、馬武、劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂、傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、萬脩、ヒトウ、劉植
        • 光武帝の即位時に配下にいる、皇帝の親族は除外する、1人選ばれると同じ一族からは選出しない――というルールのため、明らかに二十八将より功を立てていながら選に漏れた者もいる。
      • 二十八将を選んだのは息子の明帝。選出されたのも光武帝の死後。
      • 光武帝本人がチートすぎて全く目立たないが、二十八将もヤバいのばっか。常勝不敗がゴロゴロいるトンデモ集団。某アニメ風に言うと、ビッグ・ファイア様と十傑集みたいな関係の連中である。
        • 第一位の鄧禹は二十八将の内賈復、銚期、呉漢、寇恂など推挙しており人を見る目はあったが、自身が軍率いたときは結構負けている。
      • 兄貴 (劉縯) が元々決起し、弟の光武帝が付いてきた。この兄貴自身も一軍の将として有能だったが、弟がすさまじすぎて、上記二十八将以上に語られることがない。
  4. 若い頃の口癖「官に就くなら執金吾、妻をめとらば隠麗華」
    • 「陰麗華は俺の嫁!」発言が歴史に残ってしまった。
    • 望み通り隠麗華と結婚でき、地位は執金吾(警視総監)を遙かに超えて皇帝になってしまった。
    • 想い人のあの子は10歳年下。嫁発言は劉秀20歳ごろ、陰麗華10歳。重度のロリコン趣味であった。
    • 名士のお嬢様(陰麗華)と結婚して1年足らずで、王族のお姫様(郭聖通)まで嫁にもらう。
    • 間違ってはいけないのだが最初の正妻は郭聖通の方。しかしこの女性は陰麗華への嫉妬が強かったらしく皇后を廃された。そのせいで何の問題もない息子 (劉彊) は自ら皇太子の座を降りた。
  5. 性格は、温和で質素。挙兵した時に馬を買う金が無いので牛に乗って戦場に行った
    • 姉と姪っ子を殺した岑彭を許して配下に加え。兄を殺した敵将・朱鮪を許し。敵はジェノサイド主義の呉漢が大司馬。これを温和とみるか、薄情と見るかで印象変わる。裏表の顔の使い分けはご先祖さん(劉邦)並にパネェ。
      • 将軍の失敗や降伏してくる敵には寛大だが、反逆者には容赦無し。皇后の親族であってもキッチリ殺します。
  6. よく冗談を言って家臣を笑わせていたが、嫁の陰麗華にはウケがよくなかったらしい。オヤジギャグ?
  7. 夜遊びしていて城門が閉まってしまい、朝まで城の外で過ごしたことがある。門番に皇帝であることを告げて顔を見せても開けてもらえず。
    • 頻繁に夜遊びして諌めても聞かないので怒った家臣がわざと閉め出したらしい。しかも複数回。本当に偉大な皇帝なのか・・・。
    • 車に乗って出掛けようとしたところを家臣に見つかる。怒った家臣は車の前に寝そべって進路を塞ぎ、「どうしてもというなら私を轢き殺して行って下さい!」と一喝。すごすご引き返しましたとさ。
  8. 美人の姿を描いたお気に入りの屏風を会議中にチラ見して、家臣に「ちゃんと聞いてください」と怒られた。
  9. 宴会の席で美人画の屏風コレクションを並べて自慢していたら、家臣に叱られて慌てて撤収。
  10. おそらく中国の歴代皇帝ではピカ一。あまりに偉大で欠点がないため、却って小説のネタにならず、知名度が低くなってしまった。
    • 匹敵できるのは唐王朝の太宗ぐらいしかいない。また、袁紹にせよ曹操にせよ、やっていることは彼の猿真似だったりする。
    • 風見鶏のような諸豪族をまとめ上げたカリスマ性、生涯一度も功臣を粛清しなかったと言われる知己。ほぼ完璧に近い。
    • 強力なライバルがいないことが小説にならない一因かと。王朗や公孫述など全くいないわけではないが、項羽や曹操と比べると明らかに小粒。直接の面識もないし。
    • 恐ろしいことに嫁 (陰麗華) も超出来た人で、美人で性格がよく、贅沢もせず、親戚を政治に関わらすこともなく、別の后の子供でも実の子のように接した。
  11. 出自が極道上がりの劉邦・劉備と比べると育ちはよいが、若いころに長安で運送業を営んでいたりする。
    • 県令の三男坊→漢朝あぼーんして没落貴族→執金吾になるため長安留学→学費足りなくて蜂蜜売り、運送業のバイト始める→留年するし。執金吾の審査に落第続きで傷心帰郷→劉嘉に使われて荘園経営&自分で売り子も兼ねる。アニキの劉伯升が「俺は劉邦になる」と抜かしてニートを止めない。将来に不安を覚える。→アニキの挙兵失敗に巻き込まれ、自分も反乱軍の仲間にされる。育ての叔父さん泣く。挙兵するまでかなり職を転々した皇帝。
  12. 「お爺さん、かくしゃくとしていますねえ」の「かくしゃく」は彼が考案した単語だったりする。
  13. 数十万を号する敵兵にわずか数千で挑み完勝した猛将でもある。でも本人は基本的に戦争の話題は嫌い。
    • 統一までに。萌え萌え男の娘将軍、祭遵・有能なヒキコモリ将軍、馮異・仁将に転向してから呉漢の後始末任せてた、岑彭など、二十八将の大半と、親兄弟の死に目に会えば、ねえ……。生き残ったのは、ろくでもない連中が殆どなのは世の常。
    • 即位後も剣を持って最前線に切り込んでいくものだから、将軍達は気が気じゃなかっただろう。実際何度も臣下にたしなめられてるし。
    • 指揮をとって負けたのは生涯一度だけ。しかも原因は暴発した部下が危機に陥ったのを無理して助けに行ったため。勝った側も光武帝が負けたことが信じられず、「待てあわてるな。これは光武帝の罠だ」とうろたえた。
  14. 晩年は怪しげな占いに傾倒。でも政務は疎かにしていないので周囲は黙認。
    • 自分や首脳陣が若かったので、権威付けに利用しただけ。戦後、光武帝の偉業で甘露が降ったと讃える群臣を「何でもかんでも俺のせいにすんな」と却下してる(^^;。
      • 中華史上最高の名君とも言える人なので下々が「聖帝」やら「聖王」と称えていると、「うぜぇから『聖帝』とか『聖王』って朕を呼ぶの、禁止な」というウソのような命令を出したことがあるとか
        • 勅を除けば「朕」という自称をほとんど使わなかったとか。唯一、賈復と寇恂を仲直りさせる際にのみ使ったらしい。皇帝の言葉であることを強調して「天下安寧の為に私憤を治めてくれ」という意図を明確にしたのかな?
  15. 一般的に皇族の出だから、劉邦と比較すると苦労していないように見られがちだが、劉伯升に巻き込まれての新王朝への叛乱では数千の兵で20万を号する新の討伐軍を撃退する任務を課せられたり、その劉伯升が更始帝と朱鮪により謀殺された時は、謀反人の実弟ということで処刑待った無しの状態だったので必至に命乞いした上で華北の賊軍討伐を名目に都を脱出するものの、ほぼ徒手空拳状態で賊軍討伐せざるを得ない状況に追い込まれるなど、当人の器量が抜きん出たものである証左と言える苦境を乗り越えている。

明帝

  1. 国境封鎖をゆるめ、西方への影響力を行使し始めた。
    • その結果、「西域の鬼神」と呼ばれる班超将軍が台頭した。
  2. 皇后は馬氏。建国の元勲・伏波将軍馬援の娘。稀に見る賢夫人でした。
    • 馬援は建国の最後の方の敵だった隗囂が元主君。公孫述が友人だったので、直接天下統一事業には参加してない(引き抜き外交のみ協力)。彼の活躍は、外国遠征。
      • 歴戦とは言い難いですが、引き抜きに加え、屯田参加や隗囂戦で地図作成したことなどは建国の元勲として十分な功績といえるかと。
        • そういう意味では雲台二十八将のメンツ入りに十分な資格があったが、皇帝の親族は除外のルールにひっかかってメンバー入りならず。
    • 馬氏を推薦したのは皇太后の陰麗華。晩年の馬援は、彼のバカ真面目さにムカついてた人の悪口で光武帝と仲たがいしたまま逝ったので、子供の代で仲を修復するよう、取り持ったもよう。
  3. 灌漑事業を強力に推し進めた。
  4. 楚王英の叛乱を招いた。
    • 実は一番仲が良かった兄弟の叛乱。話を聞いたとき取り乱しまくった。同母弟の劉荊の叛乱時は微塵も情をみせなかったのに。
    • 罪に問われたメンツを見ると功臣や降将の2代目3代目が多いことから、父の代わりに粛清をおこなったとも言われる。

章帝

  1. 後漢がいちばん安定した時期の皇帝。
    • ……と、優遇された儒者が過剰に持ち上げてるだけで。最悪なタイミングでの西域撤退命令や塩・鉄の専売開始。益・荊州の反乱を放置。外戚への金銭ばらまきなど、後漢滅亡の種を撒いた人。
    • 悪政を『五噫歌』という歌に詠われた。西域と国政に興味なく、お祈りと観光旅行が仕事の暗君。
  2. 皇后は竇氏だが、しゅうとめの馬氏に較べると、権勢欲が強くて嫉妬深い女で、皇子を産んだ側室をふたりも殺害した。
    • 次の和帝が幼少だったので、その時期も権勢をふるい、兄の竇憲を大将軍に取り立てて専横をきわめた。
    • 元来の太子を廃立して幽閉。馬超の先祖など、他の外戚や忠臣達を次々粛清。強盗した金で人材募集。伝令を私物化などガンガンした。でも優遇された儒者が弁護してくれた。
  3. 父や祖父は前漢宣帝と同じく法家と儒家のハイブリッドだったが、ここからほぼ完全な儒学・礼教国家シフト。
    • 交易を申し込んできた北匈奴を騙し討ちして、奴隷をゲット(光武帝の奴隷解放が、ここで崩壊)。実績が無くとも封禅の儀を決行したりと、礼教国家というより別モンになったような……。
    • 孔子の家を破壊したDQNも聖人として祀る。資格もないのに封禅の儀を行うなど。ツッコミどころ満載であるが。
  4. 白虎観会議によって、儒学のテキストが現在に極めて近い形に編纂し直される。
    • 勝った今文学派が、章帝の古文学派びいきで敗北扱いにされた。会議の意味ってなんだろう……。

和帝

  1. 宦官・鄭衆と図って竇一族を粛正。鄭衆自身は有能な人格者だったが、これ以後、宦官がのさばりはじめる。
    • 鄭衆だけ特例で、政治顧問になっただけ。他の宦官は現状維持のまま。
  2. この時代、蔡倫が紙を現在ある形に改良。
    • 「発明した」とまで言うのは言い過ぎ。似たような物はそれ以前からあって、蔡倫はそれを作りやすく使いやすいものに改良したのだった。
    • 竇一族に加担して、宋貴人を罠にはめて処刑した所は妙に弁護されてる人。女嫌いの宦官。
  3. 西域ではまだ班超が大活躍。一方その兄・班固と妹・班昭により「漢書」完成。すごい兄妹である。
    • 章帝時代の班超は、朝廷の方針が曖昧で兵力不足に泣かされてたのが、皇帝の代替わりでようやく解消。
  4. 章帝の負の遺産(通貨の鋳造停止、塩・鉄の専売、異民族との無駄な交戦)の解消に、文字通り燃え尽きた皇帝。

殤帝

  1. 生後百余日で即位、半年後に崩御。
    • 和帝の皇后・鄧氏の差し金。もっと年上の息子も居たのに……

安帝

  1. 殤帝の従兄にあたる人で、やっぱり鄧氏の差し金で即位。
  2. 鄧氏は皇太后として、兄の鄧隲を大将軍に起用し政務を専断。
    • とはいえ、他の外戚に較べると、節度ある態度だったらしい。
    • それでも安帝は成長するに従って煙たく思い、皇太后が死ぬと皇后・閻氏および宦官・李閏と図って鄧一族を粛正。
      • ついでに自分の祖母を殺した蔡倫も粛清。
    • ようやく実権をつかんだかと思いきや、今度は閻一族に牛耳られてしまった気の毒な人。

少帝

  1. 殤帝・安帝の従弟にあたる人で、閻氏の差し金で即位。
  2. 閻氏は少帝を担いで、一族で政務を専断しようとしたが、宦官・孫程たちに阻止され、一網打尽。少帝も廃位・暗殺された。

順帝

  1. 宦官たちに擁立されたので、お礼に宦官を諸侯に封じ、養子をとって家産を相続できるようにした。
    • この皇帝が居なければ、「宦官の孫」である曹操は出現し得なかったであろう。
  2. 皇后は梁氏。この兄が、跋扈将軍として専横の限りを尽くす梁冀。
  3. 孝廉制度改革によって科目によっては筆記試験が初めて明文化される。
    • もっとも筆記試験自体は明帝の頃から既に記録に表れている。

冲帝

  1. 2歳で即位、半年後に崩御。

質帝

  1. 7歳で即位、8歳で崩御。
  2. 大将軍の梁冀によって、だいぶ遠い皇族の中から擁立されたが、案外と利発で、扱いづらくなりそうだったので、あっさり毒殺された。
    • 梁冀を見て「跋扈将軍」と言って怒らせたという。8歳の子供にしては言うことがませていた。

桓帝

  1. 大将軍の梁冀によって、だいぶ遠い皇族の中から擁立されたが、こちらはあんまり利発そうでなかったので21年間の治世をまっとうした。
  2. とはいえだんだん梁冀がうっとうしくなり、梁皇太后が死ぬと、宦官・単超らと図って梁一族を粛正……って、何度おんなじパターンを繰り返せば気が済むんだ?
  3. お礼に宦官を諸侯に封じた。
    • 宦官がわが物顔に官職を独占しているので、あぶれた知識人たちが「宦官追放」「俺たちにも官職よこせ」キャンペーンを張る。宦官も負けてはおらず、やかましい知識人たちを投獄する。世に言う党錮の禁。
  4. 自称ローマ帝国の使いが来たのはこの人の代。テストに出ますよ!
  5. 後漢をとどめを刺した皇帝とも言われる。
    • 滅んだ理由のうち、内憂の最も大きなものは順帝が宦官に相続を許して宦官に利権体質を作り上げたことにあり、また外患の最も大きなものは鮮卑に冒頓単于に匹敵するクラスの英雄が現れたことによるため、彼ばかりの責任というのもやや酷というものではあるが……

霊帝

  1. 桓帝に子がなかったので、だいぶ遠い皇族の中から擁立された。
  2. 官職を売りに出す。
    • 野にあった時だいぶ貧乏していたので、皇帝になったら贅沢ができるかと思って即位したところ、財政難で自由に使えるお金があんまりなかった。
    • 失望した霊帝が思いついたのが官職の販売だった。けっこうアイディアマン。
    • また、後宮内で模擬店を開き、みずから屋台のオヤジに扮して麺などを売り、小銭を稼いだ。一人前の麺を取り分けるのがものすごく上手だったらしい。
      • 皇帝になるより、商人にでもなっていたほうが、本人にとっても後漢王朝にとっても幸せだったに違いない。
    • もっとも、貨幣改鋳などを含んだ全体の経済政策については董卓(失敗例)・劉巴(成功例)の政策の嚆矢として評価する人もいる。
  3. 黄巾の乱がおこり世の中が乱れ始めた。
  4. 宮殿の望楼から市中を眺めようとして、宦官に止められたとか言う逸話がある。
  5. 皇帝直属の常備軍を初めて創設しようとした。西園八校尉と呼ばれる8人の指揮官を置いたが本格的な運用までには至らず。ただしそれを曹操が後年実現した。

廃帝

  1. 言語不明瞭な人。
  2. 袁紹たちが宦官討伐のため宮廷に攻め込んだ時、弟の劉協(献帝)と共に宦官たちに付き添われて逃げ出す。董卓に拾われるが、ろくろく返事もできなかった。
  3. 結局董卓によって廃位、その後殺される。
  4. 字だけ見るとかなりひどい名前な気がする。帝・・・
    • 「廃された皇帝」ってだけの意味ですから。
  5. 町の肉屋の妹が霊帝に愛されて産まれたのが彼で、その伯父の肉屋は大将軍となった何進。
    • 意外と、霊帝の実子じゃないせいで廃されたのかも知れないそうな。
      • 献帝の字が「伯和」。普通、「伯」というのは長男につける名前だから。
  6. 一般的に弟より暗愚だとされているが、そもそも演義自体が勝者である後継の献帝や曹操、そして劉備の視点で描かれており、これらの正統性を維持するためことさら貶める評価をされている可能性もある。

献帝

  1. 兄の廃帝より賢そうだったので董卓に擁立される。田舎者の董卓は、バカ殿を担いだほうが何かと便利だということを知らなかったらしい。
    • 賢そうだったから担いだんじゃなくて、本音は何進の血が流れる先帝を廃して何氏の影響力を一掃したかったから。
      • そもそも兄より賢いと言ったって、たかだか8歳の子供に傀儡の君主としての役割以外で一体何ができるのであろうか?
  2. 董卓やその部将たちの思惑のままに、あっちへ行ったりこっちへ行ったり転がされていたが、曹操に保護されて一安心。
  3. しかし、曹操が強くなりすぎたので、バランスをとろうと他の連中に肩入れし始めるが、失敗。
    • 献帝本人は曹操に帝位を譲ろうとしたことがあるが、曹操が冷や汗かきながら固辞したとか。
  4. 曹操の息子の曹丕に帝位を禅譲するが、その後破格の厚遇を受ける。献帝の側から要求したのかも。
    • 山陽公に封じられ、「朕」の一人称も認められ、日々の生活で使うものなどもすべて皇帝並みでOKだったのだから大したもの。
    • 帝位から下りてよほどのびのびしたのか、曹丕よりだいぶ長生きした。
    • 後漢王朝は曹操ですら潰すのを嫌がったぐらいに威光の塊で、下ろすのに非常に気を使う必要があった。中国史といえば易姓革命でどんどん王朝が変わるけど、その中で日本の天皇家みたいな立場になり得たのが周朝と後漢朝。
  5. 諸葛亮と生まれた年と死んだ年が同じだったりする。
  6. 帝の地位を献上したので献帝と諡号された。
    • 蜀では愍(びん)帝と呼ばれた。
      • 「愍」は、天寿を全うできなかったような気の毒な皇帝に贈られる諡号。
      • 実は蜀には献帝が曹丕に弑されたと誤伝され、劉備はその後継者として帝位に就いてしまった。あとで献帝が生きていることがわかったが、今さら劉備の即位を取り消すわけにはゆかず、蜀では献帝の生存は触れてはいけない話題となった。
        • ↑どうなんだろ? 実は劉備が皇帝になりたかったから「献帝が殺された」ことにして、その跡を継いで季漢皇帝についた。あるいは臣下が「献帝が殺された」ことにして劉備に帝位についてもらえば「正式に漢の臣下を名乗れる」から劉備にそう伝えた、とも考えられる。
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