もしあの年の高校野球で○○だったら
戦前・戦中
- 1915~41年
1915年
- 優勝校が異なっていたら
- 秋田中
- 「白河の関」という言葉は高校球界に存在しなかった。
- その後一度も優勝がなかった場合は「もう一度・・・」と呼ばれるようになっていた。
- 「甲子園での」優勝が目標となる。
- 高野連から特例で「鳥羽高校は京都二中の後身校扱い」はされなかった。
- 秋田県が最も甲子園優勝から遠ざかっているといわれる。
- それだけに、2018年の金農旋風は史実以上だった。
- 金足農業が優勝していたら県としては103年ぶりと1世紀以上のブランク優勝になっていた。
- 早稲田実
- 2006年の優勝は「91年ぶり2回目」と史上最長ブランク優勝だった。
- 松山商とともに「大正」「昭和」「平成」の3元号優勝を達成していた(ただし昭和は選抜)。
1917年
- 関西学院中が優勝していたら
- 兵庫県勢優勝が早まった。
- 逆に愛知県勢は1931年まで待たなければならなかった。
- 敗者復活戦に対する批判は史実より弱かった。
- それでもどこかの時点で問題視され消されていたと思う。
- 少なくとも1942年の「幻の甲子園」では採用されていない。
- それでもどこかの時点で問題視され消されていたと思う。
1918年
- 予定通り開催されていたら
米騒動で中止された本大会。もし予定通り開催されていたら?
- 中学明善→明善高は数回は甲子園に出ていたかもしれない。
- 愛知一中の連覇もあったかも?
1926年夏
- 大連商が優勝していたら
- 未だに静岡県勢は夏優勝はなかった。
- 優勝旗が大陸に渡ったことになる。
- 中国での野球人気が史実よりも高かった。
- 漢民族には特に影響はなかったのでは(大連商のメンバーはおそらくほとんどが日本人)。
- 鄧小平~天安門数年後あたりから人気が上がっていた。
- 中国での野球人気が史実よりも高かった。
1931年夏
- 嘉義農林が優勝していたら
- 中京商3連覇は無かった。
- 「KANO 1931海の向こうの甲子園」のストーリーが変わっていた。
- 嘉義駅前のような目に付く場所に優勝記念碑が建てられていた。
- 終戦後も関係者の尽力により残されている。
1941年夏
- 予定通り開催されていたら
予選途中で中止された本大会。もし予定通り開催されていたら?
- 1942年の大会も朝日新聞社が関与し、回数にカウントされていたかもしれない。
- 史実でも朝日が優勝旗の継続使用と回数の連続化を要求して断られたという経緯があるのでそれは厳しい。
- 青森工、帝京商、畝傍はこの大会に初出場を果たし、帝京商と畝傍はその後も何度か甲子園に出場していたかもしれない。
- 畝傍の場合和歌山県勢との試合がまだある(史実では和歌山県で予選は行われず)。
- 外地勢の最後の出場がこの大会になっていた。
- このうち朝鮮からは史実で甲子園に行けずに消滅した学校が出ていた可能性がある。
戦前に沖縄の学校が出場していたら
- 多分出場は記念大会が中心になるだろう。
- 首里(県立1中)は無論、沖縄水産は史実より早い戦前に初出場
- 開南中学が出場していたら、沖縄戦で廃校にならず共学の開南高校として現存だったかもしれない。
- その場合は、今日興南か沖縄尚学が存在しない。
- 某氏は開南高校出身
- また、戦後の高校野球復帰が早まったかもしれない。
- 証拠となる品はその後の沖縄戦により焼失している。
- 写真すらも残ったかどうか怪しい。
外地チームが一度でも優勝していたら
- 戦前は日本領だった朝鮮・満州・台湾からも参加していました。
- 優勝旗は「海を渡る」という表現で示されていた。
- 津軽海峡越え(2004年)や関門海峡越え(1947年)よりも早く実現していたことになる。
- 戦前最後の大会で外地チームが優勝していた場合、戦後最初の大会で優勝したチームへの優勝旗授与が大幅に遅れた可能性がある。
- 実際に戦前最後の大会で全京城(朝鮮)が優勝した都市対抗野球の場合、戦後最初の大会で優勝した大日本土木(岐阜)への優勝旗(黒獅子旗)授与が、当時の全京城の主力選手によって命がけで持ち帰り、丸亀に優勝旗があることがわかるまでなされなかったというエピソードがある。
1946~1979年
1958年夏
- 徳島商業が魚津に負けていたら
- 板東英二はプロになっていなかった。
- 逆に村椿輝雄の方がプロ入りしていた。
- この試合がなくてもプロ入りは規定路線だと思うが・・・
- でも板東の現役生活が有意に延びることはなさそう。
- 延長自体なかったら「延長は18回までで打ち切り、翌日再試合」のルールはなかった。
- もしかしたら富山勢の決勝進出が見られたかもしれない。
- 「甲子園の砂」事件がなかったら
- 沖縄の首里高校は、敦賀高校に敗れた後、甲子園の砂を持ち帰りましたが、防疫法により那覇港で捨てられました。もしこの事件がなかったら・・・?
- 優勝していればそもそもこの事件は起こらなかったかも。
- 沖縄のその後の独立運動の勢いが少しだけ減っていた。
- 首里高校に「甲子園の石」が飾られることはなかった。
- 事前に検疫を想定してこっそり持ち帰っていた場合は大したエピソードにならなかった。
- 史実でも申告せず没収を免れた人がいたらしい。
1965年夏
- 三池工が優勝していなかったら
- 三池工は「1度だけ甲子園に出場した学校」程度の知名度だった。
- 甲子園勝率10割の学校は海南のみだった。
- 工業高校は未だに夏の甲子園優勝なしだった。
- 春の大宮工だけだった。
- これが知られておらず、度々「熊本工(など)が初の工業高校優勝なるか」なんて言われてる。
- 原貢監督が東海大相模の監督にならず、東海大系列の野球部の歴史も変わっていたかも・・・
1968年夏
- 興南が優勝していたら
- アメリカ施政権下での優勝となり、復帰後の「甲子園が先か大臣が先か」の論争はそもそもない。
- その後の沖縄勢の成績にいくらか好影響があり、沖縄水産や浦添商業、八重山商工だって優勝を果たしていた可能性すらある。
- よって深紅の大優勝旗の意義が薄らいでいた。
- 沖縄でも私学優位になり、公立勢が現実よりも弱かった。
1969年夏
- 三沢が優勝していたら
1969年夏の甲子園大会は松山商が優勝しましたが、三沢との決勝は壮絶なものでした。中でも延長15回には三沢が1アウト満塁でカウント0-3まで行きましたが、松山商がしのいで0点に抑えるなど、まさに決勝まで勝ち上がったチーム同士の意地のぶつかりあいが見られました。
もしこの大会で三沢が優勝していたら?
- 東北勢初優勝となっていた。
- 青森県勢の低迷もなかった。
- 逆に愛媛県勢が低迷していたかも。
- 太田幸司氏(高校卒業後、近鉄バファローズに入団)は史実以上に人気が出ていたかも。
- 1969年の時点で深紅の大優勝旗が白河の関を越えていたので、以後大優勝旗の行方は「津軽海峡越え」と言われるようになっていた。
- それも2004年で終焉。その後は?
- 三沢出身の寺山修司(当時33歳)が何らかの形でネタにしていた。
1971年夏
- 磐城が優勝していたら
- 磐城の田村隆寿投手は、プロ入りしていた可能性もある。
- 東北地方の初優勝となり、かねてから言われていた白河の関超え…ではなく、陸前浜街道経由で勿来の関超えと言われる。
- 当時人気が沸騰していた常磐ハワイアンセンターとともに磐城高校もいわき市の新しいシンボルになっていた。
1977年夏
- 東邦が優勝していたら
- 翌年、翌々年も東邦は出場していた可能性もある。
- その場合、坂本佳一投手はほぼ間違いなくプロ入りしていた。
- そして結局一軍には上がれず終わっていた。
- その場合、坂本佳一投手はほぼ間違いなくプロ入りしていた。
- 東邦の阪口慶三監督は2011年現在、大垣日大で監督をやっていなかった可能性もある。
- 東邦は夏は初の優勝。
1979年夏
- 箕島が星稜に負けていたら
- 箕島の春夏連覇はなかった(2010年時点で春夏連覇は5校)。
- 星稜は北陸勢初優勝を達成していたかもしれない。
- 以後星稜は高校野球の強豪と呼ばれるようになっていたかもしれない。
- 決勝で池田に負けて準優勝だったんじゃないかな。その場合池田の初優勝が3年早くなり、石川県勢初の決勝進出が16年早くなっていた。
- この試合は名勝負の1つではあるが史上最高の試合になることはなかった。
- 松山商-三沢か、横浜-PL学園が史上最高の試合だった。
- また教育テレビの最高視聴率をとることもなかった。
- 和歌山といえば智弁和歌山か桐蔭で、箕島は古豪の1つに成り下がっていた。
- 箕島という地名の知名度が現実よりも下がっていたかもしれない。
- JR箕島駅が「有田市」駅に改称されていたかもしれない。
- 14回裏の隠し球がもっとピックアップされていた
- 16回裏の伝説の大落球がなかったため当事者の加藤直樹氏は後にトップセールスになれなかった。
- 史実では「星稜-箕島戦の16回裏に落球した加藤です」という最強のつかみを生かして優秀なセールスマンとして活躍したという。
1980年代
1980年夏
- 早稲田実業が優勝していたら
- 準優勝であれほどのフィーバーなのだから、もっと「大輔」という名前の男の子が増えていた。
- 早稲田実業は荒木大輔の在学中にもう1回は優勝していたかも。
- 愛甲猛は・・・これもあまり変わらないか。
1981年夏
- 名古屋電気が優勝していたら
- その年のドラフト会議で、工藤公康の強行指名に踏み切る球団が複数出た可能性がある。
- その結果、西武以外の球団が交渉権を獲得していた場合、入団交渉が難航していた可能性がある。
- その後の成績も、史実より良かったかもしれない。
1983年夏
- 池田が優勝していたら
- 史上初の夏春夏3連覇を達成していた。
- KKコンビは1年の時点ではただのドラフト候補程度の評価だった。
- 翌年のPL学園の評価も少し下がっていた。
- むしろあまりプレッシャーがかからず、翌年春はPL学園が優勝していたかもしれない。
- その年のドラフトは、水野雄仁に一位指名が集中する。
- 江上も早大進学ではなくプロだったかも。
1984年春
- 歴代優勝校プレートが撤去されなかったら
1932年から続いてきた歴代優勝校プレートですが、1984年の大会でワンバウンドでラッキーゾーン入りした打球がホームランと間違って判定された際、歴代優勝校プレートがミスジャッジのやり玉に挙げられたため、その日の全試合終了後に全て撤去されてしまいました。
もし、優勝校プレートが撤去されずに残っていたら?
- 1984年以降も選抜名物として残っていた。
- ただ、プレートが1984年当時で55枚もあったことから、ラッキーゾーンが撤去された1992年以降はどっちみち廃止されていた可能性も。
- 今でも残っていた場合、ネット上で公開されているかも。
- 実物は甲子園歴史館に展示されている。
1984年夏
- 準決勝の桑田の逆転2ランがファールと判定されていたら
- 金足農は第1回大会以来秋田県勢69年ぶりの決勝に進出していた。
- そのまま東北勢初優勝していたかもしれない。
- またはPL学園は9回裏に逆転サヨナラ勝ちしていた。
- 優勝校が違っていたら
- 全般
- 茨城県勢の初優勝は21世紀まで持ち越しとなり、関東で最後だった。
- 高校野球では山梨は関東だぞ?
- テンプレート:北関東は公立校の優勝がない地域となっていた。
- PL学園
- 史実通り翌年も優勝していたら1933年の中京商以来51年ぶり、学制改革後初の3連覇達成だった。
- 2006年の駒大苫小牧は21年ぶり3回目の快挙に挑んでいた。
- 結果的に2006年の駒大苫小牧への注目度は少し下がっていた。
- 2006年の駒大苫小牧は21年ぶり3回目の快挙に挑んでいた。
- 金足農
- 東北勢初優勝はもちろんのこと、農業高校初の甲子園優勝でもあった。
- 2014年現在でも史上唯一。
- 金足農に対抗して全国の農業高校が野球部に力を入れていた。
- 2018年の金農旋風は史実ほどではなかった(もちろん「ブランク優勝なるか」とは盛り上がるが)。
1985年春
- PL学園が決勝に進出していたら
- 桑田真澄と清原和博は史上初の5季連続決勝進出となった。
- 優勝していた場合、PL学園は春夏連覇を果たしていた。
- 渡辺智男の高校時点での知名度はだいぶ下がっていただろう。
- ただし、社会人からプロへの歴史は史実どうりか
1985年夏
- 宇部商業が優勝していたら
- 「ミラクル宇部商伝説」の筆頭として現在まで語り継がれていた。
- KKコンビおよびPL学園の評価は史実とさほど変わらない。
- 藤井進は遅くとも大学経由でプロ入りしていた。
1987年夏
- 徳山・温品投手の悪送球がなかったら
- 山形県勢は1980年から1991年まで12年連続で初戦敗退し、青森を超える連敗記録を作っていた。
- ただし2009年に秋田に並ばれる
- 2010年に秋田が13連敗するまで1県1代表制になって以降最多の連敗記録になっていた。
- 東海大山形は29-7の汚名をさらに広げてた
- 温品投手はプロ入りしていたかもしれない。
1988年夏
- 優勝校が違っていたら
- 福岡第一
- 前田幸長はロッテ単独ではなく複数球団に1位で指名されていた。
- 九州のバースこと山之内健一の指名順位も現実より上だった。
- 浦和市立
- 埼玉県勢初の夏の甲子園優勝を果たしていた。
- 埼玉県勢初優勝は春夏とも初出場校が達成していた。
- ミラクル浦和市立伝説が現実以上に語り継がれていた。
- 町亞聖がチアリーダーをしていたことが現実以上に取り上げられていた。
1989年春
- 上宮が優勝していたら
- 東邦は2年連続選抜準優勝。
- 元木大介や種田仁の注目度がさらに上がっていた。
- 種田のドラフト指名順位はもっと高かっただろう。
- 元木はこの時点で巨人に指名され、浪人することなく入団できていたかも。
- 他球団の評価も上がって抽選で結局外していたかも。
- 外していた場合は史実通りの指名になりそうだが、元木より下の評価ということで大森が拒否して社会人の可能性はある。
- 元木1位大森2位だと3位は投手になるだろうから、元々投手とはいえ野手としての評価が高かった吉岡の指名はなかった可能性が高い。
- 他球団の評価も上がって抽選で結局外していたかも。
- 元木はこの時点で巨人に指名され、浪人することなく入団できていたかも。
- 種田のドラフト指名順位はもっと高かっただろう。
1989年夏
- 仙台育英が優勝していたら
- 1989年の時点で深紅の大優勝旗が白河の関を越えていたので、以後大優勝旗の行方は「津軽海峡越え」と言われるようになっていた。
- それも2004年で終焉。
- 大越基は高卒後即プロ入りしていた可能性も(史実では早大進学し中退→その後アメリカに留学しダイエーが1位指名)
- 2015年夏の決勝戦は現実ほど盛り上がらなかった。
- 準決勝、帝京対秋田経法大付属で中川申也が先発していなかったら
- ノーヒットに抑えていたため決勝が仙台育英対秋田経法大付属になっていた。
- どちらが勝っても勿論白河越え。
- 吉岡と中川の評価には影響せずプロ入り。
- 翌年の春の選抜の異例の東北枠3への増加もそのまま。
1990年代
1990年夏
- 優勝校が違っていたら
- 沖縄水産
※1991年夏に優勝した場合も同じ。
- 沖縄はひと夏中お祭り騒ぎ。
- あまり騒ぎすぎてクレームあったり。
- 「甲子園が先か大臣が先か」論争が逆の結果で決着。
- 沖縄県出身の「大臣」は興南の春夏連覇時点でも一人もいないそうですが…(参考)
- ここでいう「大臣」は「国務大臣」という意味なら1991年11月の宮沢内閣で誕生している。
- 沖縄県出身の「大臣」は興南の春夏連覇時点でも一人もいないそうですが…(参考)
- 1999年の沖縄尚学の春制覇は、「春も制覇!」であまり騒がれず。
- その代わり春・夏両方制覇県として北海道よりは威張れそう。
- 2010年に春・夏両方制覇県になりましたが…
- 決勝終了後のウェーブも見られなかったかもしれない。
- その代わり春・夏両方制覇県として北海道よりは威張れそう。
- 裁監督は全国制覇後に沖縄水産を退任していたかも。
- 新任高で史実の沖縄尚学より早く春制覇。
- 1991年夏に優勝した場合、スポーツ紙などでは「去年のリベンジ」の見出し(対戦相手は違うが)。
- 2010年の興南春夏連覇は現実よりもあまり騒がれず。
- 大野投手の酷使に対する栽監督への批判もそこまでなかった(1991年の場合)。
- 愛工大名電
- イチローは現実以上に高校時代から注目されていたかも。
- ひょっとしたらオリックス以外の球団に入団していたかもしれない。
- その場合、日米の球史は大きく変わっていた可能性がある。
- ひょっとしたらオリックス以外の球団に入団していたかもしれない。
- 翌1991年夏も甲子園に出場できていたかも(史実では東邦が出場)。
- 愛工大名電、ひいては愛知県勢のその後の低迷もなかったかもしれない。
- 同じく激戦区である大阪府・神奈川県と並ぶ強豪県になっていた。
1991年夏
- 優勝校が違っていたら
- 沖縄水産は上記項目を参照。
- 萩原誠の注目度が史実より低かった。
- 阪神がドラフト1位で指名することはなかったかも。
- 阪神に限らずドラフト2位以下で指名され、むしろ現実よりも活躍したかも。
- 阪神がドラフト1位で指名することはなかったかも。
- 大阪桐蔭の強豪化はなかったかもしれない。
- その場合、PLの弱体化とともに大阪、いや近畿勢の成績低迷が目立つようになっていた。
- 東北勢は遅くとも2012年には優勝を経験していた(史実では春夏とも青森県の光星学院(現八戸学院光星)が大阪桐蔭に負けて準優勝)。
- 星稜
- 石川県勢はもちろん、北陸勢としても春夏通じて初の優勝を果たしていた。
- 松井秀喜の注目度が上がっていた。
- 秋田
- 東北勢初の優勝に?
- 一番苦しめたのは秋田だし・・・・・・。
- サイクルヒットをした沢村の方が、萩原(初代)よりも注目される。
1992年夏
- 松井秀喜が5打席連続敬遠されなかったら
- 明徳義塾に対するブーイングはなかった。
- 星稜が順当に勝っていた可能性がある。場合によっては優勝!?
- 逆に実史通り明徳義塾が勝っていた場合、明徳の3回戦での大敗はなかった。こちらも場合によっては優勝!?
- 明徳の名が「あの時の明徳」ではなく、「ただの新興私立校」程度の認知度だった。
- しかし、その後の不祥事で結局明徳義塾のイメージは下がった
- 明徳と言えば朝青龍、あるいは三都主。
- 横峯さくらも。
- 松井は元西武の鈴木健程度の評価で終わった。
- どっちにしても同日の試合にさり気なく村田善則(佐世保実業)が出場していた。
- 明徳義塾の河野和洋投手は、プロ入りしていた可能性もある(ちなみに、現在メジャーリーグで活躍中の黒田博樹投手とは、大学で同期)。
- 新潟の長岡向陵は松井の星稜と対戦して11-0で大敗しただけの学校だった(松井と勝負したことは評価されず)。
- 明徳義塾が松井秀喜を全打席敬遠しながら敗れていたら
- 明徳義塾は非難というより「腰抜け野球」などと笑いものにされたかもしれない。特に松井の次打者の月岩信成に打たれて負けたのならなおさら。
- 「作戦上の全打席敬遠」は戦術としても有効でないという認識が確立したかも。
- 星稜の優勝もあったかもしれない。
- 松井の知名度・評価は史実とさほど変わらないだろう。
- もし明徳義塾が大差で負けていながら全打席敬遠した場合は、監督は徹底的に批判され選手は同情されただろう。
- 明徳義塾が大差で勝っていながら全打席敬遠していたら。
- 監督は鬼畜と史実以上に批判された。
- 逆に選手に対する批判は小さかった。
- 16年後、メジャー第4シリーズ放送でこのことを思い出す人がいた(大差で勝っていながら4番打者を敬遠するというシーンがあった)。
- 優勝校が違ったら
- 全般
- 福岡県は1965年の三池工以来優勝なしということになり、「人口の割に優勝できない県」と言われていた。
- 星稜
- ≒松井秀喜が5打席連続敬遠されなかったら、である。
- もし松井が5打席連続敬遠されながら優勝していたら、「松井だけの学校ではない」と言われていた。
- 松井以外にもプロ入りして活躍する人が出ていたかも。
- この年松井の後の打者だった月岩選手の人生も大きく変わっていたかもしれない。
- 松井以外にもプロ入りして活躍する人が出ていたかも。
- もし松井が5打席連続敬遠されながら優勝していたら、「松井だけの学校ではない」と言われていた。
- 言うまでもなく石川県勢・ひいては北陸勢初めての甲子園優勝だった。
- 2015年選抜の敦賀気比優勝は「北陸勢では初めての春優勝」と言われていた。
- 明徳義塾
- 「松井の5打席連続敬遠が全てだった」と言われていた。
- 本当の優勝校は星稜だった、とも言われていた。
- その後も有力選手が打席に入ったら全打席敬遠する学校が出てきたかも。
- 明徳義塾が史実より悲惨な目に遭ったのは確実なのでそれはなさそう。
- 決勝終了直後に73年のプロ野球シーズン最終戦の後(阪神-巨人)と同じような事態が発生していた。
- 乱入したファンの一部が明徳の選手や監督に暴行を働いていたかもしれない。
- 最悪の場合死者が出ていた恐れすら否定できない。
- 現在では「高校野球史上最悪の決勝戦」として語り継がれている。
- 乱入したファンの一部が明徳の選手や監督に暴行を働いていたかもしれない。
- 拓大紅陵
- 千葉県勢は平成時代にも甲子園優勝を経験していた。
- 但し夏だけで、春は2019年現在も優勝経験なし。
- その後の千葉県勢の低迷はなかったかもしれない。
1993年夏
- 優勝校が違っていたら
- 春日部共栄
- 優勝投手の土肥義弘(元西武、横浜)は早稲田に合格し、プロ入りが1年遅れた。
- 高校野球(春夏)、社会人(都市対抗)、プロ野球(日本シリーズ)で埼玉県勢は最後に残りながらすべて敗れた記録を達成せずに済んだ。
- クレヨンしんちゃんを使って優勝パレードが行われていた。
- 14年後、らき☆すたで「うちの学校の野球部はかつて甲子園で優勝したことがある」というネタができていた。
- 春日部共栄がその後の埼玉の盟主になり、浦和学院は強豪にならなかったかもしれない。
- この時点で浦和学院は既に強豪の一角なのでそれはない。共栄と浦学の位置づけが逆になるぐらいかと。
- 2017年夏の花咲徳栄の優勝は現実ほどの感動はなかった。
- 現実以上に広陵を応援する人が多かった。
- 常総学院
- リードされてノーゲーム、再試合で勝利した学校が優勝が実現していたことになる。
- 鹿児島商工が影の優勝校だと主張する人がいた。
- 鹿児島商工自身も降雨コールド勝ちがあったから一概には言えないが。
- 堀越が影の優勝校だと主張する人もいたりして…
- 鹿児島商工自身も降雨コールド勝ちがあったから一概には言えないが。
- 稚内大谷が出場していたら
稚内大谷は名寄支部予選で圧倒的な強さを見せ、北北海道大会でも3度の決勝進出を果たしていますが未だに甲子園出場がありません。特に1993年の夏は1-0でリードし甲子園初出場間近の9回2アウトからエラーで同点に追いつかれ、その後延長10回にサヨナラ負けを喫しました。もし、この年に稚内大谷が出場していたら…?
- この時点で日本最北端の甲子園出場校となっていた。
- その後も幾度か甲子園に出場していた。
- 逆に旭川大高の出場回数が史実より少なかった。
1994年夏
- 樟南が優勝していたら
- 鹿児島県内大盛り上がり。
- 1996年の選抜で鹿児島実が優勝する前に優勝を達成していた。
- 佐賀県勢の優勝は2007年の佐賀北に持ち越し。
- 2004年の駒大苫小牧同様、前年リードしていてノーゲームなり再試合負けからのリベンジと言われた。
- 夏は2010年夏に興南が優勝するまで最南端の優勝校になっていた。
1995年春
- 開催が中止されていたら
阪神大震災の影響で開催中止も検討されましたが、バスの乗り入れ自粛と応援時の鳴り物・楽器禁止でどうにか開催されました。ではもし開催中止されていたら?
- 1995年夏の選手権も中止に追い込まれていたかもしれない。
- その場合、夏は各都道府県で独自大会が開催されていた。
- 夏にセンバツの出場校を集めた交流試合が開かれていたかもしれない。
- 高校球児たちの心境やいかに?
- 2011年春の選抜も中止されていた可能性がある。
- 異常な酷暑に見舞われていた2018年夏も中止を求める意見が出ていた。
- 2020年のセンバツと夏の甲子園は3月に入る段階で中止が発表されていた。
- この大会に初出場しその後甲子園出場がない清陵情報は「幻の甲子園出場」になっていた。
- 場合によってはこの大会の優勝校観音寺中央も(同年夏も出場したが選抜が中止になってたら夏の出場もなかったかも)。
- 電波ゆんゆんが話題となることもなかった。
- 香川県の甲子園優勝は1960年の高松商を最後になかった。
- 東京ドームで開催されていたら
阪神大震災で被災した甲子園に代わって代替開催できないか検討された
- 開催期間中の東京じゅうのホテルは満室になっていた。
- 応援団はしょうがないので列車の中で寝てもらう措置がとられていたかもしれない。
- 埼玉、神奈川、千葉のホテルも使えば何とかなったのでは。
- 応援団はしょうがないので列車の中で寝てもらう措置がとられていたかもしれない。
- それでも夏の大会からは甲子園に戻るだろう。
- 高校球児の気持ちはいかに…。
- これが成功していたら、2000年台以降猛暑を機に球児の健康面を考え夏の大会の東京ドーム移転が検討されるようになっていた。
- 2年後に完成した大阪ドームは高校野球全国大会の開催も想定した球場として建設されていた。
1995年夏
- 星稜が優勝していたら
- 石川県勢はもちろん、北陸勢としても春夏通じて初の優勝を果たしていた。
- OBである松井秀喜がお祝いのメッセージを送っていた。
- 「自分が達成できなかった優勝を後輩が成し遂げてくれた」と。
- 準決勝で帝京が負けていたら
- 決勝戦のカードは敦賀気比×星稜という、史上初の北陸対決でしかも福井と石川の隣県対決になっていた。
- どちらが勝っても北陸勢としては初優勝になるので、北陸の人々の盛り上がりは凄かった。
- 敦賀気比が優勝した場合、2015年春の優勝時は史実ほど盛り上がらなかった。
1996年夏
- 決勝での「奇跡のバックホーム」がなかったら
1996年夏の甲子園決勝・熊本工vs松山商の延長10回裏(熊本工の攻撃)、1死満塁の場面で松山商が起こしたビッグプレーです。参考もし、この「奇跡のバックホーム」がなかったら…。
- 熊本工業は初優勝を飾っていた。
- 当然熊本県勢としても夏の甲子園初優勝を飾っていた。
- 熊本市内がお祭り騒ぎとなっていた。
- 反対に、愛媛県内は失望していたかも。
- ライトの矢野が監督や選手からものすごく批判されていた。
- よって、愛媛朝日放送に入社することなどあり得ない。
- 選手はともかく監督はOBらからボロクソに叩かれていたことは間違いないだろう(このプレーは交代直後に出たため)。
- よって、愛媛朝日放送に入社することなどあり得ない。
- 1978年夏のPL学園レベルの大逆転優勝と言われていた。
- 松山商-熊本工は激闘・延長戦ではなく世紀の逆転劇に掲載されていた。
- 2016年に熊本で決勝戦の再戦が行われることはなかったかも。
- 2010年に興南が優勝するまで、夏の優勝旗の最南端記録の高校になっていた。
- 決勝が9回裏で決着していたら
- 矢野は注目されなかった。
- 大学には進学していただろうが、卒業後に愛媛朝日テレビに入社することは無かった。
- 熊本のスポーツバー「たっちあっぷ」も生まれていない。
- 熊本工業の同点ホームランがなかったら
- 松山商が初回表の得点だけで勝ったことになる。
- この試合が名勝負として語り継がれることはなかった。
- ヒーローインタビューに投手の新田が出ていた。
- 熊本工業が逆転サヨナラ勝ちしていたら
- PL以上の大逆転優勝と言われる。
- 澤村の注目度が上がっていた。
1997年春
- 中京大中京が優勝していたら
- 低迷期からの脱却、復活優勝に、愛知県内はお祭り騒ぎ。
- では2009年夏の復活優勝の際は、愛知県内はお祭り騒ぎだったのか…?
- 「春夏連覇したらその後優勝できない」ジンクスが12年早く破られてた。
- 2006年春に横浜がジンクスを破ったので12年ではなく9年。
1997年夏
- 横浜高校が甲子園に出場していたら
- 97年、98年と夏2連覇を成し遂げていた。
- 98年春も優勝しているので夏春夏3連覇になっていた。
- 松坂大輔はその分肩が消耗し、プロでは大成しなかった。
- 捕手である上地雄輔が注目されプロ入り。ヘキサゴンでのおバカ解答もなかった。
- 控えだったのでプロ入りはなかったと思う。結局芸能界に入って板東英二とセットにされていた。
- 茨城ゴールデンゴールズあたりにいたかも。
- 控えだったのでプロ入りはなかったと思う。結局芸能界に入って板東英二とセットにされていた。
- 史実で甲子園に出場していた桐蔭学園の平野恵一・浅井良は注目度が少し下がっていた。
- 阪神やオリックスが獲得に動く事もなかった。
- ただし、大学で評価を上げた場合は別。
- 秋田商・石川雅規が死球を食らっていなかったら
- 秋田県初の優勝?
- 高校NO1左腕は川口ではなく石川に。
- 県内でもっと注目されていた仁部(前広島)、太陽、後松(前メッツ)がドラフト指名される。
- 青学にいかずにプロ入り、古田に(全日本で)投げる機会がなくヤクルト入りはない。
- 豊田大谷が3回戦に進出していたら
- 翌1998年の成績がもう少し良かったかもしれない。
- 少なくとも宇部商業戦は延長15回まで行かずに勝利していた。
- 古木への注目度も史実より上がった。
1998年夏
- 横浜高校が準々決勝か準決勝で敗れていたら
- 松坂大輔の評価はそれでも変わっていない。
- しかし、小池正晃、後藤武敏、小山良男の評価には影響していたかも。
- 優勝は明徳義塾になっていた(史実より4年早い初優勝)。
- 準決勝がPL-明徳でもPLが延長で疲れていて現実と同じような試合展開になっていた。
- 明徳の寺本四郎と高橋一正はもう少し上の順位でドラフト指名されていた。
- 宇部商業藤田投手のサヨナラボークがなかったら
- 既にノーアウト満塁だったのでどっちにしろ豊田大谷が勝っていた。
- 宇部商業が勝っていた場合、東愛知のレベルが低いと言われ90回大会の愛知の区分けが変わっていたかもしれない。
- この試合が横浜vsPL学園のように語り継がれることはなかった
- 宇部商業が勝った場合、「ミラクル宇部商」を代表するゲームとして語り継がれていた。
- ジャニーズJr.のコンサートが大騒動にならなかったら
この年は開会式に先立って行われましたが、コンサートだけを見て帰る客が続出して物議をかもしました
- 記念大会では芸能人のコンサートが開かれるのが恒例となっていた。
- 2018年大会では嵐が甲子園で歌っていたかも。
- それでも芸能人目当てに徹夜組などのチケット争奪が問題になった。
1999年春
- 沖縄尚学が優勝していなかったら
- 2008年のセンバツも優勝していなかったかも。
- 沖縄県勢の優勝は2010年の興南まで持ち越し。
- 比嘉公也投手が母校の監督に就任していなかったかもしれない。
- 史実通り就任して2008年の春に優勝したら、「選手として果たせなかった優勝を監督になって達成した」と言われていた。
- 優勝していたのは水戸商か準決勝で死闘を演じたPL学園。
1999年夏
- 優勝校が違っていたら
- 全般
- 群馬県勢の優勝は2013年の前橋育英まで持ち越し。
- 正田投手はプロ入り出来ていなかったかもしれない。してたとしても上位指名はされていない。
- プロ入り後の成績は史実通りだろう。
- 岡山理大付
- 岡山県勢としては夏の甲子園初優勝となっていた。
- 決勝の相手が桐生第一だった場合、2004年夏の再戦は桐生第一が勝っていた。
- 森田選手はプロ入りしてたかも。
- 智弁和歌山
- 翌年も優勝していたら連覇を達成していた。
- 翌年のセンバツも優勝してたかもしれない。そうすると史上初の3季連続優勝を達成していた。
- 樟南
- 鹿児島県勢としては夏の甲子園初優勝となっていた。
- 1994年の夏のリベンジを果たしたと言われていた。
- 優勝した後の戦績も史実よりマシだったかも。
- 少なくとも2001年から2003年の間に甲子園で1勝以上はしていた(史実ではこの間に春夏合わせて4回出場していずれも初戦敗退)。
2000年以降
2020年代
2020年に高校野球が廃止になっていたら
2021年度からの実施を目処に9月入学への移行が検討されていて、もし実現していたら高校野球はこの年の中止どころか廃止の危機になっていた。もし9月入学が実現し、それにより高校野球が廃止されていたら?
- 9月入学の可決・施行が決定した翌日(おそらく2020年9月ごろ)に廃止の発表が出ていた。
- 高野連は2020年9月をもって解散。
- 履正社高校が史上最後の甲子園優勝校となり、校舎の前に記念碑が立てられていた。
- プロ野球の下部組織として高校生育成チームができる。
- またはリトルリーグ、シニアリーグと上部カテゴリーとして高校生の硬式野球チームが結成される。
- もしかしたら1・2年生のみが出られる夏の甲子園のみ存続したかもしれない。
- だが甲子園に出られるチャンスが5回から2回に激減し、高校野球人気の低下は避けられない。
- 高校サッカーと高校ラグビーは9月入学になっても今まで通り冬に実施。
- 高校スポーツ最大の花は高校サッカーに移行する。
- 高校生の部活の大会の「○○甲子園」の呼び名はどうなるのだろうか?
- 国立か花園に呼び名変更か?
- 高校野球ファンと関係者の政府への批判・不満は最高潮に達していた。
- 将来、令和生まれの代表的な特徴の1つとして「甲子園を知らない」が上げられていた。
- 高校生のスポーツや部活の大会を「○○の甲子園」と言ってしまうと昭和・平成生まれのおっさん扱いされる象徴になっていた。