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鳴り物入りでプロ入りしたけれどあまり活躍できなかった選手、あるいはプロ野球選手を辞めたあと他のスポーツなどで活躍した選手が、もしプロ野球選手として成功していたらどうなったかを考える。
{{Pathnav|もしあのイベントが○○だったら|name=万国博覧会}}
*新たに追加される場合は50音順でお願いします。
*日本人選手限定で。
==あ行==
===荒木大輔===
#スワローズはもっと早く2度目の優勝を果たしていた。
#21世紀初頭までエースとして活躍していた。
#90年代になっても男の子の名前1位が「大輔」だった。
#多分「松坂」の前にメジャー入り。
#神宮球場とクラブハウスを結ぶ「荒木トンネル」が自宅まで掘られていた。


===石毛博史===
==独立項目==
#2000年代半ばまで巨人のクローザーを務めていた。
*[[もし大阪万博が○○だったら]]
#*近鉄や阪神に移籍することはなかった。
#佐々木主浩や高津臣吾とともに90年代のセリーグを代表するクローザーになっていた。
#槙原寛己が現役晩年にクローザーへ転向することはなかった。
#*河原純一がクローザーへ転向することもなかったので、史実よりも早く放出されていた。


===大森剛===
==開催されていたら==
#ポスト原として4番を打っていた。
===東京万博(1940年)===
#初年度から活躍した場合、翌年のドラフトでわざわざ元木を指名することもなかった。
#[[もし1940年の東京オリンピックが開催されていたら|東京オリンピックも開催されていた。]]
#*ポジションかぶらないからそれは問題ないだろう。
#入場券が大阪花博や愛知万博で使われることはなかった。
#世界都市博覧会は開かれたとしても別の形になっていた。
#東京都中央区晴海一帯は万博記念公園になっていた。
#*太平洋戦争を挟んでいるため普通に市街地になっている気がする。
#大阪万博が開催されたかどうか怪しい。
#*東京五輪決定時点で「西日本にも同じような国際的なイベントが必要」という声が上がっていたので開催されているのでは。
#*ただし東京が開催地候補として名乗りを上げることはなかった。
#戦災や乱開発のせいで建造物の遺構はほぼ残っていない。
#日本の衛星国ではない国で出展したのはドイツ、イタリア、ブラジルくらいと寂しい博覧会になっていた。


===尾崎将司===
==失敗していたら==
#黒い霧事件の際は、池永正明の無実を晴らすために奔走していた。
===ロンドン万博(1851年)===
#弟の健夫・直道も野球選手になっていた。
#1855年の第1回パリ万博が最初の万国博覧会とされていたかもしれない。
#*実際健夫はヤクルトに指名されたが拒否している。
#*下手をするとロンドンの失敗が原因で万国博自体広まらなかった可能性も。
#日本でのゴルフはマイナーなままだったかもしれない。
#水晶宮は忌まわしい失敗のシンボルとして会期終了後にとっとと解体されていた。
#*丸山茂樹もゴルフ以外の道を歩んでいただろう。
#*「クリスタル・パレス」という地名もない。
#自己破産もなかった。
#ヴィクトリア朝時代の後世におけるイメージにも影響があった。


==か行==
===パリ万博(1855年)===
===香川伸行===
#その後パリで万博が開かれることは二度となかった。
#南海・ダイエーの正捕手として長きに渡り君臨し、本塁打王を何度も獲得していた。
#*それどころかフランスが万博に参加すること自体しばらくなかった。
#王監督の後任は秋山ではなく香川。
#*1867年の博覧会もないため「獅子の時代」の内容もかなり変わっている。
#*1900年の万博に合わせて建てられたエッフェル塔もない。
#パリっ子には「イギリスの猿真似なんかするから・・・」と陰口をたたかれていた。


===川口知哉===
===パリ万博(1867年)===
#オリックスの左のエースとして2009年現在も活躍している。
#完全にナポレオン3世の道楽呼ばわりされていた。
#もちろんビッグマウスも健在。
#その後の万博はさらに教育色を強めていた。
#オリックスが00年代前半に低迷する事はなかった。
#*遅くとも第2次大戦までには人々に飽きられ消滅していた。
===河原純一===
#薩摩藩が幕府と別にパビリオンを出していたこともこの博覧会のまずい運営を象徴する事柄として批判的に取り上げられていた。
#1990年代後半には[[巨人]]のエースピッチャーとなっていた。
#*恐らく阪神の暗黒時代には天敵となっていた。
#2002年のリーグ優勝時には史実と同じく抑えピッチャーとして活躍。
#[[西武ライオンズ|西武]]への移籍や[[中日ドラゴンズ|中日]]へのテスト入団はなかった。
#*よって2009年現在も巨人に在籍。
#**または米大リーグに移籍していた。


===木田勇===
===フィラデルフィア万博(1876年)===
#80年代の日本ハムは西武と激しい優勝争いを演じていた。
#その後の万博もヨーロッパ中心で進んでいた。
#大洋にトレードされることも無かった。
#*少なくともシカゴ(1893)やセントルイス(1904)の万博はなかった。
#史実ではこの博覧会で国際的に注目されたベルの電話の普及がやや遅れていた。


===紀田彰一===
===セントルイス万博(1904年)===
#多村仁は21世紀に入る前に自由契約にされていた。
#「人間動物園」の展示が識者に激しく批判された。
#FAでニューヨーク・ヤンキースに'''選手として'''入団していたかも。
#*この手の先住民の「展示」はこの時点でタブー化された。
#*現在ではアメリカに強烈な人種差別がはびこっていた時代の象徴の一つとされている。
#会場が広すぎたことが史実以上に問題視された。
#同時開催の五輪も後世になってもっと叩かれていた。
#*「万博とオリンピックを同時に行うとろくなことにならない」というジンクスはより確固たるものになっていた。


===源五郎丸洋===
===シカゴ万博(1933年)===
#阪神の不動のエースとして活躍し、1992年の亀新フィーバー時には現実とは逆に阪神がヤクルトを押しのけ優勝を果たしていた。
#アンコール開催などされるわけがない。
#その名字が色んな所で度々ネタにされていた。
#場合によってはテーマ付きの万博はこれが最初で最後になっていた。
#*ラグビーの五郎丸歩(ヤマハ)の話題では引き合いにされていた。
#現在のような体験や芸術などを通した複合演出のスタイルがあったかどうか怪しい。
#*中野渡進(元横浜)、下敷領悠太(ロッテ)については言うまでもない。
#*あったとしても次のニューヨーク万博が起源とされていた。
#史実では大人気だったフォード館も「単に工場を見せただけ」と酷評されていた。


===近藤真一===
===パリ万博(1937年)===
#先発投手の左右バランスが取れていたので、90年代の中日はもっと優勝できていた。
#「国際情勢の緊迫化に翻弄された悲劇の万博」と称されていた。
#特に展示内容がイデオロギー全開だったドイツとソ連が失敗の元凶呼ばわりされている。
#戦後長い間パリで万博が行われなかった理由は間違いなくこの博覧会の失敗。
#出展された「ゲルニカ」(ピカソ)の評価にも影響があったかもしれない。


===権藤博===
===ニューヨーク万博(1939年)===
#史上最速で200勝を達成していた。
#原因は間違いなく会期中に勃発した第2次大戦。
#中日はもっと優勝できていたし、巨人のV9もなかった。
#*英仏など有力国の大量閉館もありえた。
#与那嶺要か中利夫の後任あたりで中日の監督になっていたかも。
#*「明日の世界の建設と平和」というテーマもさんざん皮肉られていた。
#見た目に統一方針のないパビリオンの集まりがごみ溜め呼ばわりされていた。
#その後も万博では企業パビリオンはあまり大きな顔ができなかった。


==さ行==
===ブリュッセル万博(1958年)===
===佐々木信也===
#「科学文明とヒューマニズム」というテーマが中途半端だと叩かれていた。
#1960年のオリオンズ優勝の原動力となっていた。
#「戦後世界に万博は不要ではないか」という議論が起こっていた。
#プロ野球ニュースのキャスターにはなっていなかった。
#*アメリカのBIE脱退がかなり早まっていた恐れもある。
#*プロ野球の存在自体も現実よりマイナーになっていたかも。
#シンボルタワーのアトミウムはブリュッセルのシンボルどころか負の遺産扱い。
#*口の悪い人からは「寄生体」「有害物質の分子」などとも呼ばれていた。


===定岡正二===
===モントリオール万博(1967年)===
#江川・西本・定岡の三本柱による巨人黄金時代を築いた。
#モントリオール・エクスポズ(現・ワシントン・ナショナルズ)の球団名が変わっていた。
#引退後もバラエティ番組で弄られることなんてありえない。
#当然ながらモントリオールオリンピックは開催構想すら無かった。
#近鉄へのトレードも話にすら挙がらなかった。
#当初開催予定だったソ連は「わが国で行えばこんなことにはならなかった」と言い放っていた。
#*70年代後半あたりに万国博覧会を行っていた可能性あり。
#失敗原因はおそらく支持率の低さ。
#その後もテーマはメイン1つだけ。
#*ゴチャゴチャとサブテーマを設けるのは邪道とされた。
#大阪万博関係者は史実とは異なりこの博覧会を反面教師にしていた。


==たな行==
===大阪万博(1970年)===
===長嶋一茂===
#その後大阪花博や愛知万博が開かれていなかったかも。
#巨人のクリーンナップとして活躍、本塁打王等のタイトルを何度も獲得していた。
#*愛知万博については名古屋オリンピック招致失敗なら現実と変わらないかもしれない。
#むしろヤクルトの不動の4番として父親率いる巨人の前に立ちはだかった。
#*むしろポートピア81に始まる地方博への影響の方が大きい。
#*ヤクルト黄金期と共に、飯田・荒井・古田・長嶋・広澤・池山~のような打順。
#北大阪急行の運賃があんなに安かったか怪しい。
#父親の半分程度の、10年で1200安打200本塁打800打点ぐらいの成績を残している。
#太陽の塔は取り壊されていた。
#ミスタースワローズと呼ばれている。
#*当初の予定通りエキスポタワーが永久保存されていたかもしれない。
#子供(茂雄の孫)を球場に忘れてくる遺伝子も引き継いでいる。
#跡地に国立産業技術史博物館の建設が検討される…も結局実現しなさそう。
#原因は間違いなく70年安保。
#*あるいは史実のように若いクリエーターを起用できず退屈な内容になったから。
#『ひなろじ』の京橋万博の名前が変わっていた。
#日本人は現実ほど万博好きにはならなかっただろう。
#この万博が後々まで語り継がれることもなかった。


==は行==
===つくば科学万博(1985年)===
===馬場正平===
#つくばの学術都市としての発展はなかった。
<!--あえて本名で-->
#*民間企業ではなく公的機関ばかりが目についていた。
#巨人から移籍後の[[横浜ベイスターズ|大洋]]で大活躍することになるので、「馬場=大洋」という図式になっていた。
#つくばエキスプレスは名前が変わっていた。
#その後の日本プロレス史が現実とかなり異なっていた。
#[[つくば市]]は誕生しなかった。
#*BI砲や全日も誕生しない。
#*漢字表記の「筑波市」になっていたかもしれない。
#引退後にタレント活動する際も、本名を名乗っていた。
#日本の科学技術は史実より低いレベルにとどまっていた。
#60過ぎて現役というのは有り得ないので、癌を早期に発見できていた可能性も。
#*史実より文高理低の傾向が強く、ChakuwikiやWikipedia日本語版では科学技術系の記事は貧弱なままだった(史実におけるWikipedia日本語版のチェスの記事レベル)。
#「つくば」と言うと筑波山を思い浮かべる人が大半だった。
#入場者数は下手をすると1000万人を切っていた。
#国内向けと国外向けでテーマにずれがあったことが激しく批判されていた。
#ビジネスモデルを確立できなかったため地方博ブームはそれほど大きくならなかった。


===パンチ佐藤(佐藤和弘)===
===国際花と緑の博覧会(1990年)===
#仰木監督の引退勧告を糧にして主にDHや代打の切り札として活躍。95-96年連覇のシーズンも活躍。震災後の神戸を明るく励ましている。
#バブル崩壊が少し早まっていた。
#イチローとパンチのコンビが長く続いている。
#鶴見緑地の知名度が現実よりも低くなっている。
#*少なくとも関西意外で知っている人はほとんどいなかった。
#*園内にあるいのちの塔と国際庭園は老朽化により解体されていた。
#大阪が2025年の万博を誘致することはなかった。
#[[京阪電気鉄道|京阪]]の利用客数は現実よりも早く減少に転じていた。
#*1970年代後半が利用客数のピークだった。
#*特急の停車駅増加は20世紀のうちに行われていた。
#その後全国各地で「○○花博」と名の付くイベントは開催されなかった。


===板東英二===
===セビリア万博(1992年)===
#60〜70年代の中日の大ストッパーとして長くに渡り君臨していた。
#「冷戦の時代とともに万博の時代も終わった」と言われていた。
#*「権藤、権藤、雨、板東、雨、雨、権藤、雨、板東」という流行語になっていた。
#*愛知県の万博招致構想はこの時点で引っ込められた。
#現実の第一次星野監督時代の時期に中日の監督に就任していた。
#*最悪これが最後の万博になっていたかもしれない。
#タレントなんてやってなかったかも・・・
#現在では「遺産はAVEと安土城天主の復元だけ」と低評価を下されている。
#現役時代から事業に手を出していたために思うような活躍ができなかったので、現実以上の活躍なら副業などもやっていないはず。
#この博覧会のテーマを「西欧中心的すぎる」と批判していた人々は「それみたことか」と大喜び。
#*島田紳助も彼から手解きを受けていないので、同様に副業はしていなかった。
#現在も「万博とオリンピックを一つの国が同じ年に開催するとろくなことにならない」というジンクスが健在だった。
#ゆで卵協会の名誉会長就任。


===平本学===
===愛・地球博(2005年)===
#ロケットボーイズの3人目として、2009年現在も活躍している。
#愛知はハノーバー万博並みの赤字を被った。
#<!--サイドスローの速球派という点で平本と被るので-->林昌勇はヤクルトに入団できず、中日かロッテでプレーしていた。
#海上の森の知名度が上がることはなかった。
#モリゾーとキッコロの番組をNHKが制作することはなかったかもしれない。
#2005年の今年の漢字は「愛」ではなくなっていた。
#*同年は福知山線脱線事故があったことから、それに関連する字になっていたかも。
#東部丘陵線リニモが、長久手市の人気向上までしばらく無駄路線と揶揄されたかもしれない。
#会場となった公園の現在の名称は開催前と同じ「愛知青少年公園」。
#この失敗を機に万博制度の根幹に関わる何らかの大改革が実行されていた。
#*例:国単位の出展の禁止、パビリオン以外の出展形態の導入など


===星山忠弘===
===上海万博(2010年)===
#阪神のタフネスな中継ぎとして活躍。
#大阪万博の最多入場数記録は今も破られていない。
#大学の後輩の脇谷と巨人戦で対決していただろう。
#中国当局は「西側メディアがネガティブキャンペーンを繰り広げたせいだ」と非難していた。
#PRソングの盗作問題がもっと騒がれていた。
#この失敗が原因で中国経済にも悪影響があった恐れあり。
#*そもそも博覧会の失敗の原因をリーマン・ショックに始まる国際的不況に求める人もいる。
#次回のミラノ万博(2015年)への反対運動がさらに拡大していた。
#新興国開催でも失敗となり「21世紀に万博の存在意義はない」という見方が支配的になっていた。
#*2010年代中頃からBIEを脱退する国が出始めていた。


==まやらわ行==
==成功していたら==
===八名信夫===
===沖縄国際海洋博覧会(1975年)===
#40歳くらいまで現役で投げていた。
#「海洋博後遺症」という言葉は生まれなかった。
#現役引退後に[[北海道日本ハムファイターズ|日ハム]]の監督に就任していた。
#[[もしあの建造物が現存していたら#アクアポリス|アクアポリスは解体されなかった。]]
#*大沢親分以上に強面の監督として知られていた。
#その後の地方博ブームに合わせ沖縄でも何らかの博覧会が行われていた。
#俳優に転職はしていない。
#*本土復帰20年の92年あたりが有力。
#*悪役商会は誕生していない。
#この博覧会の演出に関わった金城哲夫にとっては輝かしい実績になっていた。
#*[[もしあの人が健在だったら|76年の転落死は避けられた可能性が高い。]]


===山村路直===
===ハノーバー万博(2000年)===
#斉藤和巳はダイエーではブレイクできず、他球団にトレードされていた。
#もちろん目標入場者数は達成している。
#これまでの万博のように前向きな内容なら本当に実現できていたとしても不思議ではない。
#次回の愛・地球博の内容にも少なからず影響があった。
#*史実のハノーバーばりの大赤字に悩まされた恐れもある。
#この成功を機に先進国の博覧会では既存の見本市会場などの転用が定石になった。
#*この場合、日本は博覧会に対応できる程度の規模の見本市会場がごくわずかしかないため、愛知万博の形態が変更される。
#**ポートメッセなごやを拡張して万博対応のものにする。
#**名古屋市の反発がなければ、愛知県国際展示場が中部国際空港と同時に開業し、そこが万博会場になったかもしれない。↑と二か所での開催かもしれない。


===与田剛===
===麗水万博(2012年)===
#2000年代まで中日の抑えを務めていた。
#マスコミがこぞって取り上げ、ロンドン五輪開幕まで話題の中心となっていた。
#毎年佐々木主浩や高津臣吾と最優秀救援争いを繰り広げていた。
#連呼リアンがこれをネタに煽っていた。
#*通算セーブ数で佐々木・高津を上回っていたかも。
#日本のネット右翼がこの博覧会へのテロ予告を掲示板に書き込み国際問題になっていた。
#*佐々木・高津同様メジャー入りもあったかも。
#同年の大統領選挙では朴槿恵(与党)がさらに大差をつけて当選していた。
#宣銅烈が中日に入団することは無かった。
#日本政府はこの博覧会同様にミラノ万博でも震災ネタを持ち出していた。
#*岩瀬仁紀も当面は中継ぎのままだった。
#革新的な試みにより成功できた場合韓国は「万博の救世主」と持ち上げられていた。
#*ギャラードは佐々木に代わる抑えとして横浜に入団していた。
#*将来的な登録博開催を期待する声も上がっている。


[[Category:歴史のif検討委員会 日本プロ野球史|あのせんしゆかけんしつよりかつやく]]
[[Category:歴史のif検討委員会|はんこくはくらんかい]]
[[Category:イベント|もしはんこくはくらんかい]]

2018年6月30日 (土) 15:46時点における版

独立項目

開催されていたら

東京万博(1940年)

  1. 東京オリンピックも開催されていた。
  2. 入場券が大阪花博や愛知万博で使われることはなかった。
  3. 世界都市博覧会は開かれたとしても別の形になっていた。
  4. 東京都中央区晴海一帯は万博記念公園になっていた。
    • 太平洋戦争を挟んでいるため普通に市街地になっている気がする。
  5. 大阪万博が開催されたかどうか怪しい。
    • 東京五輪決定時点で「西日本にも同じような国際的なイベントが必要」という声が上がっていたので開催されているのでは。
    • ただし東京が開催地候補として名乗りを上げることはなかった。
  6. 戦災や乱開発のせいで建造物の遺構はほぼ残っていない。
  7. 日本の衛星国ではない国で出展したのはドイツ、イタリア、ブラジルくらいと寂しい博覧会になっていた。

失敗していたら

ロンドン万博(1851年)

  1. 1855年の第1回パリ万博が最初の万国博覧会とされていたかもしれない。
    • 下手をするとロンドンの失敗が原因で万国博自体広まらなかった可能性も。
  2. 水晶宮は忌まわしい失敗のシンボルとして会期終了後にとっとと解体されていた。
    • 「クリスタル・パレス」という地名もない。
  3. ヴィクトリア朝時代の後世におけるイメージにも影響があった。

パリ万博(1855年)

  1. その後パリで万博が開かれることは二度となかった。
    • それどころかフランスが万博に参加すること自体しばらくなかった。
    • 1867年の博覧会もないため「獅子の時代」の内容もかなり変わっている。
    • 1900年の万博に合わせて建てられたエッフェル塔もない。
  2. パリっ子には「イギリスの猿真似なんかするから・・・」と陰口をたたかれていた。

パリ万博(1867年)

  1. 完全にナポレオン3世の道楽呼ばわりされていた。
  2. その後の万博はさらに教育色を強めていた。
    • 遅くとも第2次大戦までには人々に飽きられ消滅していた。
  3. 薩摩藩が幕府と別にパビリオンを出していたこともこの博覧会のまずい運営を象徴する事柄として批判的に取り上げられていた。

フィラデルフィア万博(1876年)

  1. その後の万博もヨーロッパ中心で進んでいた。
    • 少なくともシカゴ(1893)やセントルイス(1904)の万博はなかった。
  2. 史実ではこの博覧会で国際的に注目されたベルの電話の普及がやや遅れていた。

セントルイス万博(1904年)

  1. 「人間動物園」の展示が識者に激しく批判された。
    • この手の先住民の「展示」はこの時点でタブー化された。
    • 現在ではアメリカに強烈な人種差別がはびこっていた時代の象徴の一つとされている。
  2. 会場が広すぎたことが史実以上に問題視された。
  3. 同時開催の五輪も後世になってもっと叩かれていた。
    • 「万博とオリンピックを同時に行うとろくなことにならない」というジンクスはより確固たるものになっていた。

シカゴ万博(1933年)

  1. アンコール開催などされるわけがない。
  2. 場合によってはテーマ付きの万博はこれが最初で最後になっていた。
  3. 現在のような体験や芸術などを通した複合演出のスタイルがあったかどうか怪しい。
    • あったとしても次のニューヨーク万博が起源とされていた。
  4. 史実では大人気だったフォード館も「単に工場を見せただけ」と酷評されていた。

パリ万博(1937年)

  1. 「国際情勢の緊迫化に翻弄された悲劇の万博」と称されていた。
  2. 特に展示内容がイデオロギー全開だったドイツとソ連が失敗の元凶呼ばわりされている。
  3. 戦後長い間パリで万博が行われなかった理由は間違いなくこの博覧会の失敗。
  4. 出展された「ゲルニカ」(ピカソ)の評価にも影響があったかもしれない。

ニューヨーク万博(1939年)

  1. 原因は間違いなく会期中に勃発した第2次大戦。
    • 英仏など有力国の大量閉館もありえた。
    • 「明日の世界の建設と平和」というテーマもさんざん皮肉られていた。
  2. 見た目に統一方針のないパビリオンの集まりがごみ溜め呼ばわりされていた。
  3. その後も万博では企業パビリオンはあまり大きな顔ができなかった。

ブリュッセル万博(1958年)

  1. 「科学文明とヒューマニズム」というテーマが中途半端だと叩かれていた。
  2. 「戦後世界に万博は不要ではないか」という議論が起こっていた。
    • アメリカのBIE脱退がかなり早まっていた恐れもある。
  3. シンボルタワーのアトミウムはブリュッセルのシンボルどころか負の遺産扱い。
    • 口の悪い人からは「寄生体」「有害物質の分子」などとも呼ばれていた。

モントリオール万博(1967年)

  1. モントリオール・エクスポズ(現・ワシントン・ナショナルズ)の球団名が変わっていた。
  2. 当然ながらモントリオールオリンピックは開催構想すら無かった。
  3. 当初開催予定だったソ連は「わが国で行えばこんなことにはならなかった」と言い放っていた。
    • 70年代後半あたりに万国博覧会を行っていた可能性あり。
  4. 失敗原因はおそらく支持率の低さ。
  5. その後もテーマはメイン1つだけ。
    • ゴチャゴチャとサブテーマを設けるのは邪道とされた。
  6. 大阪万博関係者は史実とは異なりこの博覧会を反面教師にしていた。

大阪万博(1970年)

  1. その後大阪花博や愛知万博が開かれていなかったかも。
    • 愛知万博については名古屋オリンピック招致失敗なら現実と変わらないかもしれない。
    • むしろポートピア81に始まる地方博への影響の方が大きい。
  2. 北大阪急行の運賃があんなに安かったか怪しい。
  3. 太陽の塔は取り壊されていた。
    • 当初の予定通りエキスポタワーが永久保存されていたかもしれない。
  4. 跡地に国立産業技術史博物館の建設が検討される…も結局実現しなさそう。
  5. 原因は間違いなく70年安保。
    • あるいは史実のように若いクリエーターを起用できず退屈な内容になったから。
  6. 『ひなろじ』の京橋万博の名前が変わっていた。
  7. 日本人は現実ほど万博好きにはならなかっただろう。
  8. この万博が後々まで語り継がれることもなかった。

つくば科学万博(1985年)

  1. つくばの学術都市としての発展はなかった。
    • 民間企業ではなく公的機関ばかりが目についていた。
  2. つくばエキスプレスは名前が変わっていた。
  3. つくば市は誕生しなかった。
    • 漢字表記の「筑波市」になっていたかもしれない。
  4. 日本の科学技術は史実より低いレベルにとどまっていた。
    • 史実より文高理低の傾向が強く、ChakuwikiやWikipedia日本語版では科学技術系の記事は貧弱なままだった(史実におけるWikipedia日本語版のチェスの記事レベル)。
  5. 「つくば」と言うと筑波山を思い浮かべる人が大半だった。
  6. 入場者数は下手をすると1000万人を切っていた。
  7. 国内向けと国外向けでテーマにずれがあったことが激しく批判されていた。
  8. ビジネスモデルを確立できなかったため地方博ブームはそれほど大きくならなかった。

国際花と緑の博覧会(1990年)

  1. バブル崩壊が少し早まっていた。
  2. 鶴見緑地の知名度が現実よりも低くなっている。
    • 少なくとも関西意外で知っている人はほとんどいなかった。
    • 園内にあるいのちの塔と国際庭園は老朽化により解体されていた。
  3. 大阪が2025年の万博を誘致することはなかった。
  4. 京阪の利用客数は現実よりも早く減少に転じていた。
    • 1970年代後半が利用客数のピークだった。
    • 特急の停車駅増加は20世紀のうちに行われていた。
  5. その後全国各地で「○○花博」と名の付くイベントは開催されなかった。

セビリア万博(1992年)

  1. 「冷戦の時代とともに万博の時代も終わった」と言われていた。
    • 愛知県の万博招致構想はこの時点で引っ込められた。
    • 最悪これが最後の万博になっていたかもしれない。
  2. 現在では「遺産はAVEと安土城天主の復元だけ」と低評価を下されている。
  3. この博覧会のテーマを「西欧中心的すぎる」と批判していた人々は「それみたことか」と大喜び。
  4. 現在も「万博とオリンピックを一つの国が同じ年に開催するとろくなことにならない」というジンクスが健在だった。

愛・地球博(2005年)

  1. 愛知はハノーバー万博並みの赤字を被った。
  2. 海上の森の知名度が上がることはなかった。
  3. モリゾーとキッコロの番組をNHKが制作することはなかったかもしれない。
  4. 2005年の今年の漢字は「愛」ではなくなっていた。
    • 同年は福知山線脱線事故があったことから、それに関連する字になっていたかも。
  5. 東部丘陵線リニモが、長久手市の人気向上までしばらく無駄路線と揶揄されたかもしれない。
  6. 会場となった公園の現在の名称は開催前と同じ「愛知青少年公園」。
  7. この失敗を機に万博制度の根幹に関わる何らかの大改革が実行されていた。
    • 例:国単位の出展の禁止、パビリオン以外の出展形態の導入など

上海万博(2010年)

  1. 大阪万博の最多入場数記録は今も破られていない。
  2. 中国当局は「西側メディアがネガティブキャンペーンを繰り広げたせいだ」と非難していた。
  3. PRソングの盗作問題がもっと騒がれていた。
  4. この失敗が原因で中国経済にも悪影響があった恐れあり。
    • そもそも博覧会の失敗の原因をリーマン・ショックに始まる国際的不況に求める人もいる。
  5. 次回のミラノ万博(2015年)への反対運動がさらに拡大していた。
  6. 新興国開催でも失敗となり「21世紀に万博の存在意義はない」という見方が支配的になっていた。
    • 2010年代中頃からBIEを脱退する国が出始めていた。

成功していたら

沖縄国際海洋博覧会(1975年)

  1. 「海洋博後遺症」という言葉は生まれなかった。
  2. アクアポリスは解体されなかった。
  3. その後の地方博ブームに合わせ沖縄でも何らかの博覧会が行われていた。
    • 本土復帰20年の92年あたりが有力。
  4. この博覧会の演出に関わった金城哲夫にとっては輝かしい実績になっていた。

ハノーバー万博(2000年)

  1. もちろん目標入場者数は達成している。
  2. これまでの万博のように前向きな内容なら本当に実現できていたとしても不思議ではない。
  3. 次回の愛・地球博の内容にも少なからず影響があった。
    • 史実のハノーバーばりの大赤字に悩まされた恐れもある。
  4. この成功を機に先進国の博覧会では既存の見本市会場などの転用が定石になった。
    • この場合、日本は博覧会に対応できる程度の規模の見本市会場がごくわずかしかないため、愛知万博の形態が変更される。
      • ポートメッセなごやを拡張して万博対応のものにする。
      • 名古屋市の反発がなければ、愛知県国際展示場が中部国際空港と同時に開業し、そこが万博会場になったかもしれない。↑と二か所での開催かもしれない。

麗水万博(2012年)

  1. マスコミがこぞって取り上げ、ロンドン五輪開幕まで話題の中心となっていた。
  2. 連呼リアンがこれをネタに煽っていた。
  3. 日本のネット右翼がこの博覧会へのテロ予告を掲示板に書き込み国際問題になっていた。
  4. 同年の大統領選挙では朴槿恵(与党)がさらに大差をつけて当選していた。
  5. 日本政府はこの博覧会同様にミラノ万博でも震災ネタを持ち出していた。
  6. 革新的な試みにより成功できた場合韓国は「万博の救世主」と持ち上げられていた。
    • 将来的な登録博開催を期待する声も上がっている。