藤原氏
2018年8月11日 (土) 17:47時点における>もるみすちによる版 (→藤原北家の噂: 記事の追加)
藤原氏草創期の噂
鎌足ー不比等ー武智麻呂・房前・宇合・麻呂・宮子・光明子
鎌足(かまたり)
- 幼いころは、カマコと呼ばれていた。
- 当時の男子名は、最後に「子」を付けた。小野妹子みたいに。
- むしろ最後に「たり」と付けるのは珍しい。
- ただ「子」と付けられたのは、見目麗しい男子にだけと言われている。当時の解釈では、弁舌の爽やかさや明晰な頭脳など内面から醸し出される麗しさを見せる男子という意味のよう。
- もちろん、男色的な意味も少なからず込められている。遣隋使・遣唐使には隋・唐の皇帝の好きなタイプ情報をあらかじめ入手し、それに沿って人選していた。
- 当時の男子名は、最後に「子」を付けた。小野妹子みたいに。
- 政治改革を志し、二宮金次郎みたいな働きながら勉強するような生活だった。
- 当時没落していたとはいえ、豪族は豪族。そこまで落ちぶれてはいない。
- 中臣氏は、神道神職を職務とする氏族。保守的な氏族なので、中国渡来人学者に師事したというのは鎌足の氏族の掟破りだった。
- 当時の国際色豊かな氏族といえば、蘇我氏。多くの渡来人の学者技術者を配下に収めていた。
- 蘇我氏と物部氏が戦った時、中臣氏は物部氏に付いてる。物部氏は、保守派の代表。蘇我氏に対抗するというのは氏族の願いだった。
- 仏教を導入したとき、蘇我氏が賛成し、物部氏・中臣氏が反対した。
- 蘇我氏に対抗するには、国際は嫌だと言っていられない状況だった。
- あえて敵のやり方をマネしろみたいな。安倍さんも野党の政策を採用したりしてるね。
- 当時の国際色豊かな氏族といえば、蘇我氏。多くの渡来人の学者技術者を配下に収めていた。
- 中大兄(葛城)皇子とは、利害関係が完全一致だった。反蘇我・反国際。
- 蘇我氏打倒後、内臣というのになってるよね。これは実は官職じゃなくて、側近とか腹心とかいう意味。懐刀といってもよい。
- 朝廷の、事実上の最高官職だった。わざと形ある官職につかなかったのは、敵対勢力の動向をうかがうためだった。
- 中大兄皇子に「天皇になるな」と意見したのも、そういう目的だった。孝徳天皇退位後、天皇になるチャンスだったのに母親(もと皇極天皇)を再度即位させた。
- 天皇は祭祀的な存在にすぎないというリアルを教えたのは、鎌足だった。神職の家だったので、よく知っていた。
- 中大兄皇子に「天皇になるな」と意見したのも、そういう目的だった。孝徳天皇退位後、天皇になるチャンスだったのに母親(もと皇極天皇)を再度即位させた。
- 朝廷の、事実上の最高官職だった。わざと形ある官職につかなかったのは、敵対勢力の動向をうかがうためだった。
- 鎌足と中大兄皇子との私的な関係については、「菊の契り」という一部の間では有名な話がある。
- 古来、男子同士の契りとか誓いの話にはそういうものがつきもの。
- 雨月物語の「菊花の契り」もそうだよね。あと三国志の「桃園の誓い」も。
- 二人とも表舞台に立たず密室で密談するように政治方針を決めていたから、誤解された。
- 有間皇子や石川麻呂らを無実の罪で抹殺するなどの陰謀を二人で決めている。
- もちろん二人だけじゃなく、二人の共通の師である南淵請安(みなみぶちしょうあん)や僧の旻(みん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)も密議に参加している。
- 古来、男子同士の契りとか誓いの話にはそういうものがつきもの。
- 蘇我氏打倒後、内臣というのになってるよね。これは実は官職じゃなくて、側近とか腹心とかいう意味。懐刀といってもよい。
不比等(ふひと)
- 鎌足の子。
- 本名は、史(ふひと)。
- 権力者になってから、この表記に変えた。
- 他に並ぶ者がいないという最高権力を、書いて字のごとく表した。
- 権力者になってから、この表記に変えた。
- この子供たちと父親の間に挟まれて影が薄い、誰も知らない。
- 実は、大宝律令を制定した人物。いわば憲法の神様。
- 史の意味は、字を書き連ねること。この人物ならではの業績といえる。
- 実は、大宝律令を制定した人物。いわば憲法の神様。
武智麻呂(むちまろ)
- 不比等の長男。
- いわゆる藤四子政権の代表者、というか一番兄貴。
- なぜか藤子不二雄を連想した。この漫画家も、中身が2人。
- しかし政治的才能という点では、次の弟の房前に負けていた。
- 子孫は、南家という。
- アニメのみなみけが子孫かどうかは、定かでないが可能性がないとは言い切れない。
房前(ふささき)
- 不比等の次男。
- 藤四子政権の、二番手二番兄貴。
- 藤四子では、ずば抜けた政治的才能の持ち主。
- 子孫(北家)が摂関政治を始めたのは、まさに血筋。
- 奥州藤原氏も、房前の子孫。東北に独立国家を建設したその知恵も、やはり血筋。
- 長屋王事件というのは、王を頼みとした房前への、兄武智麻呂の妬みが原因。
- 長屋王との私的な関係も、話題になっている。
- あれは漫画の世界でしょう?そういう風習があったことは間違いないけれども。
宇合(うまかい)
- 不比等の三男。
- 本名は、馬養。
- 遣唐使に選ばれた時に、見映えのいい漢字表記に改めた。
- しかし、馬は大事だよ。馬がなければ戦争も勝てないし。
- この人物はのち、征夷大将軍と同じ職務(蝦夷反乱の制圧)に付いている。
- しかし、馬は大事だよ。馬がなければ戦争も勝てないし。
- 遣唐使に選ばれた時に、見映えのいい漢字表記に改めた。
- 子孫は、式家。
麻呂(まろ)
- 不比等の四男。
- 麻呂という名いかにも貴族という名前だけど、これひょっとして名前がないということ?
- 子孫は、京家。
宮子(きゅうし)
- 不比等の娘。
- 文武天皇の夫人で、聖武天皇の生母。
- 不比等の権力の源。
- これ、みやこでしょう?なぜ、きゅうしと読むのか?
光明子(こうみょうし)
- 不比等の娘。宮子よりはるかに年下。
- 母親が、県犬養三千代(あがたいぬかいみちよ)。
- この女性が、奈良時代のキーパーソンのひとり。あまり有名じゃないけど。
- はじめ皇族の美努王の妃で男子を何人か産んだ後、別れ、不比等の後妻になって光明子を産んだ。
- 県犬養氏はこのころ没落はしていたが巨額の財産を有していた。この財産を誰が相続するかが世間の関心事だった。
- 当時の人名は現在とは感じがかなり違うけど、この人の名前は現代っぽい。
- 新珠三千代と同じ名前。
- ただし名字(姓?)が仰々しいけど。
- この女性が、奈良時代のキーパーソンのひとり。あまり有名じゃないけど。
- 聖武天皇の皇后で、孝謙(称徳)女帝の生母。
藤原南家の噂
武智麻呂ー豊成・恵美押勝・巨勢麻呂・乙麻呂
- 武智麻呂の子孫。
- はちゃけた三姉妹がいたかどうかは定かでない。
- 奈良時代の中期が、全盛時代だった。
豊成(とよなり)
- 武智麻呂の長男。
恵美押勝(えみのおしかつ)
- 武智麻呂の次男。
- 本名は、仲麻呂。
- なぜか中国かぶれになり、名前を中国風に変えた。
保則(やすのり)
- 豊成の玄孫。
- 860~880年ころ地方官として今の岡山県や秋田県に派遣され、当時としては珍しい福祉政策を行った。
- わいろを一切受け取らなかったらしい。
季兼(すえかね)
- 武智麻呂三男の巨勢麻呂の子孫。
- 熱田神宮の初代大宮司。
- 子孫の娘が、源頼朝の生母になる。
信西(しんぜい)
- 武智麻呂三男の巨勢麻呂の子孫。
- 本名は、通憲(みちのり)。
- 平清盛政権のブレーン、つまり知恵袋だった。
- 「保元の乱」で後白河天皇側の総参謀長を務めた秀才。
- 貴族権力争いに武力を導入するという「禁じ手」を使って一挙に解決する。後に自分もその武力に滅ぼされるのは皮肉と言うべきか、当然と言うべきか・・・。
- そのすさまじい洞察力で、平氏や源氏などの武家が今後おそるべき存在になることを見通していたらしい。
- 保元の乱の後始末で、崇徳上皇側についた源為義の処刑を子の義朝に、同じく平忠正の処刑を甥の清盛に命じた。
- 平氏・源氏の中に内部抗争のタネを仕込んでおいたのだという噂も。
- 保元の乱の後始末で、崇徳上皇側についた源為義の処刑を子の義朝に、同じく平忠正の処刑を甥の清盛に命じた。
- 平安時代を通してほぼ廃止されていた死刑を復活。
- その峻厳さは、むしろ民衆から支持されたそうな。
- 確乎とした理念に基づいて政治をおこなったようだが、それゆえにだんだん独裁的になってゆき、同族の藤原信頼に追い落とされる。
- この反独裁クーデターが「平治の乱」。
- やろうとしたことに比して、後白河の寵愛という極めて脆弱な権力基盤に依ってのが敗因。
藤原式家の噂
宇合ー広嗣・良継・清成・田麻呂・百川・蔵下麻呂
- 宇合の子孫。
- 奈良時代の終わりころから平安時代の初期にかけてが、全盛期だった。
広嗣(ひろつぐ)
- 宇合の長男。
- ヤマト国家を揺るがすような大反乱を起こした。
- 時の聖武天皇はビビって、平城京を捨てて逃げた。伊勢まで逃げたらしい。
- 都から一生一歩も出ない天皇が都から外に出ただけでも、すごい反乱だったとわかる。
- 時の聖武天皇はビビって、平城京を捨てて逃げた。伊勢まで逃げたらしい。
良継(よしつぐ)
- 宇合の次男、広嗣の弟。
- 反乱を起こした兄のせいで、30年間政権に参加できなかった。苦節30年。
- その間無職だったのは2年間だけ。地方官とかけっこう上級の職を勤めている。
- 本来なら政権の中心人物になるべき家柄の生まれだったので、勤めていても不満いっぱいだった。
- その間無職だったのは2年間だけ。地方官とかけっこう上級の職を勤めている。
乙牟漏(おとむろ)
- 良継の娘。
- 桓武天皇がまだ皇太子のときに妃になり、のち皇后になった。
- しかしその皇后になった年には、父親は存命していなかった。
- 良継にはほかに子供がいなかったので、結果、桓武天皇は藤原氏の支配を受けず自由にいろいろとできた。
- 皇后も、平安京遷都の4年前に崩御している。
- しかしその皇后になった年には、父親は存命していなかった。
種継(たねつぐ)
- 宇合の三男・清成の子。
- 母親が、中国系の渡来人。つまりハーフ。
- 渡来人といっても日本人とかなり混血が進んでいて、純粋なハーフとはいえない。
- 母親の実家(というか種継が生まれ育った場所でもあるが)秦(はた)氏は、現在の京都市付近を本拠にしていた。
- 今も残ってるね、太秦(うずまさ)という地名。東映の映画村がある。
- 今や日本人が信仰しているお稲荷さんを初めて祭った。伏見稲荷を創建した。
- 種継が都を長岡京に移せと意見したのは、秦氏を政権に参加させたかったから。
薬子(くすこ)
- 種継の娘。
- 産んだ自分の娘が皇太子の女官に採用されたとき、付き添いで行って皇太子を誘惑してしまった。
- この皇太子が、のちの平城天皇(桓武天皇の長男)。
- このときはバレてしまい、薬子は皇居立ち入り禁止になった。
- 誘惑したとは限らない。皇太子のほうから言い寄った疑いもある。
- のち平城天皇をたぶらかし、平城京に再遷都するように仕向けた。
- ただその罪は本当は無実で、平城天皇(当時は上皇)の真意だったとも。薬子は身代わりにされた。上皇を処罰するわけにはいかないからね。
- 薬子にしても、兄の仲成にしても、本拠地は平安京付近なので平城京に行く利益がゼロ。
- 平城天皇は病気のためわずか3年ほどしか在位していない。病気が治った後、もっと天皇やりたいと駄々をこねた。
- ただその罪は本当は無実で、平城天皇(当時は上皇)の真意だったとも。薬子は身代わりにされた。上皇を処罰するわけにはいかないからね。
藤原北家の噂
房前ー永手・真楯・清河・魚名ー内麻呂ー冬嗣ー良房ー基経ー時平・忠平ー実頼・師輔ー伊尹・兼通・兼家ー道隆・道綱・道兼・道長ー頼通ー師実ー師通ー忠実ー忠通・頼長ー基実・基房・兼実ー
- 房前の子孫。
- 平安時代を通じて、全盛期だった。
- この北家の子孫が、五摂家。近衛とか、一条とか、二条とか、九条とか、鷹司とか。
- 摂政や関白になれる家柄。
- 同じ藤原氏でも大臣にはなれるが摂関にはなれない家柄があった。分家筋。
- 明治時代の三条実美とか、西園寺公望とか、徳大寺実則とかがその子孫。
永手(ながて)
- 房前の次男。
- 道鏡が天皇になろうとするのを阻止したのは和気清麻呂だが、実は清麻呂はロボットで、陰で操っていたのはこの人物。
- ただ跡継ぎがいなかったので、同じく清麻呂を陰で操っていた式家の百川一族に平安初期の権勢を奪われた。
- 跡継ぎは家依という人物がいたけど、真楯の三男坊との出世争いに負けた。
- ただ跡継ぎがいなかったので、同じく清麻呂を陰で操っていた式家の百川一族に平安初期の権勢を奪われた。
真楯(またて)
- 房前の三男。
- なんとも変わったおかしな名前だが、これは実は中国風の名前。
- 恵美押勝政権の中枢にいたからね、この人は。中国かぶれ政策をまともに浴びた。
- 本名は八束(やつか)と言うんだけど、これも変わってる。
- けっきょく恵美押勝の失脚・反乱と運命を共にした。命は助かったけど、本人はもちろん子孫は長い間出世コースから外れた。
- 長男次男共に五位以上の官職に就けなかった。
- 誰を上司に選ぶかで人生が変わるなんて、現代の中央官僚そっくり。
清河(きよかわ)
- 房前の四男。
- 47歳の年齢で遣唐使となって大陸に渡り、ついに帰国できなかった。阿倍仲麻呂と同じ運命をたどった。
- 唐では、皇帝の秘書官を務めていた。名前をひっくり返して「河清」と名乗っていた。
- けっきょく唐では73歳で亡くなるまで四半世紀を過ごした。
- 中国人の女性と結婚して娘が生まれ、その娘はのちに日本に帰ってきた。
- 帰ってきたのか、来日したのかは分からないけど。
- この女性を主人公にした小説がある。
魚名(うおな)
- 房前の五男。
- 母親は、房前の異母妹。
- ちなみに、永手、清河とは異母弟になる。
- 分家だったので、子孫は都での栄華をあきらめて地方に移住した。
- 子孫で有名なのは、奥州藤原氏、関東の戦国大名の小山氏や結城氏など。
- この有名になった人たちは、魚名の玄孫・秀郷(俵藤太)の子孫。
秀郷(ひでさと)
- 平将門を滅ぼした人物。
- 将門の関東王国を阻止したその子孫が、奥州王国を作るなんて皮肉としか言いようがない。
顕季(あきすえ)
- 魚名の子孫。秀郷とは別系統。
- 21歳の時から28年間、全国各地の何々の守(かみ)(国司)を勤めまくり、巨大な富を築いた。
- 白河法皇に献金しまくったため、法皇から「金袋」として保護された。
- 六条の名字を与えられ、以後、六条家ともいう。
成親(なりちか)
- 顕季の曽孫。
- 後白河法皇の取り巻きのひとり。
- 平家を倒そうと鹿ケ谷で開いた宴会(世にいうダジャレ宴会)のメンバーのひとり。
- 成親が発したダジャレは、立ち上がった拍子に倒れた瓶子(へいじ。とっくりのこと)を見て「ただいま平氏が倒れました。何とめでたい」というもの。
- 法皇は、このなんとも言えないダジャレに大爆笑した。
- 成親が発したダジャレは、立ち上がった拍子に倒れた瓶子(へいじ。とっくりのこと)を見て「ただいま平氏が倒れました。何とめでたい」というもの。
内麻呂(うちまろ)
- 真楯の三男。
- 自分の妻を桓武天皇に差し出し、子を懐胎させ、そのつてで出世した。
- ありえない。まるで悪魔の所業だ。
- 差し出したというよりは、家計を助けるため下級女官として宮中に勤めたんじゃないかな。それでたまたま桓武天皇のお手が付いたとか。
- お手が付いた後も、側室として認めてもらえなかった。
- 生まれた子供の名前は、良岑安世(よしみねやすよ)。歌集などの編さんに携わった。
- ちなみに、安世の子が遍昭。遍昭の子が素性。
- 平城天皇・嵯峨天皇と二人の上司にくっつき、どちらが転んでも出世できるように担保していた。
- 頭いい。というか、ずるい。というか、そんなことが許されたのか。
- 坂上田村麻呂と義兄弟の契りを結んでいた。
- 純粋なものだったか、それとも政治目的のためだったかは分からない。810年の薬子の変のとき東国に逃げようとした平城上皇一行を坂上の兵士を使って阻むことに成功した。
真夏(まなつ)
- 内麻呂の長男。
- 父親によって、平城天皇の側近にさせられていた。
- おかげで薬子の変の後クビになった。
- 薬子の変の前は、平城天皇が長男の高岳親王に譲位するというのがもっぱらの噂だったから、そうなっていたらこちらが摂関の先祖になっていた。
- 兄弟で、夏、冬なんて。お父さん、名前で遊んでる。
冬嗣(ふゆつぐ)
- 房前の三男の真楯の孫。内麻呂の次男。
- 父親も右大臣を務めているが、桓武天皇が自ら政治を指導していたので、国政の中枢にはいなかった。
- 36歳の壮年にもかかわらず810年当時、衛士尉(門を守る役人)でしかなかった。
- 父親によって嵯峨天皇(当時は親王)のそば仕えにさせられていた。
- 810年の平城天皇のクーデタ事件(薬子の変)のとき抜擢されて、蔵人頭という名称の臨時秘書官長兼金庫番に任命された。
- そのわずか11年後には右大臣になった。トントン拍子の出世。
- 以来蔵人頭は常設の官職になり、左右大臣が兼任する役職になった。
- 平安時代には若くして蔵人(秘書官)になったら、それは王道出世コース。
- 兄(名は真夏)がいたが、弟の大出世のため分家扱いとなってしまった。
- 子孫は、日野氏。南北朝時代の日野資朝や、足利義政夫人の日野富子が有名。
- 真夏の子孫にはほかに、広橋氏・柳原氏・烏丸氏もいる。藤原系の堂上家。
- 大正天皇の生母の柳原愛子という人は、この藤原氏。
- 冬嗣には、摂政関白になった子孫以外に、文筆家になった子孫もいた。紫式部である。
- 武家になった子孫も、いる。冬嗣の孫で勧修寺氏を称した高藤は、室町時代の鎌倉公方足利氏の執事の上杉氏の先祖。
長良(ながら)
- 冬嗣の長男。基経の実父。
- 反乱を起こした藤原純友の曽祖父でもある。
- 平安時代の終わりころまでは、この人物が摂関の祖とされていた。
- 娘の高子は、陽成天皇の生母。陽成天皇が退位していなかったら、北家の本流だった。
- 高子は、いわゆる恋多き女。陽成天皇の暴力的なのも、その情熱の遺伝。
- 娘の高子は、陽成天皇の生母。陽成天皇が退位していなかったら、北家の本流だった。
良房(よしふさ)
- 冬嗣の次男。
- 少年時代から嵯峨天皇にそば仕えしていたが、非常に可愛がられた。
- 嵯峨天皇の皇女を嫁にもらった。皇女を人臣がめとった前代未聞の出来事だった。
- 平成時代でも、相手の男子は一般市民に見えて実は皇族や貴族の血を引いていたりするし。
- といっても嵯峨天皇も、桓武天皇と藤原氏のハーフなんだけど。
- 渡来人とのクォーターでもある。
- 嵯峨天皇の皇女を嫁にもらった。皇女を人臣がめとった前代未聞の出来事だった。
- 政敵を陰謀で次々に抹殺した。
- 人臣としては史上初めて太政大臣になった。
- 太政大臣というのは、それまで皇太子が務める職だった。
- 「だいじょうだいじん」が本当の読み方。そう打ち込んでも変換されないところが悩ましいのだが。
- 明治時代は「だじょうだいじん」と読む。教養のない誰かが読み間違えたのが定着した。
- 人臣としては史上初めて摂政になった。
- 殺生やりまくりの結果。
- 墓参りは、天皇への墓参りと同じ扱いを受けた。
基経(もとつね)
- 良房の養子。良房は巨大な人物だったが、男子の子供がいなかった。
- 天下を取ったのに跡継ぎがいないというのはよくある話。
- 元服した場所が、皇居の中の皇太子がいるべき建物。
- 養父の墓が天皇陵として扱われたわけだから、むすこは皇太子として扱われたというわけ。
- 天皇が気に入らないと自宅に引きこもってストライキをした。
- この人がいないと政治が滞るので天皇自ら謝罪の手紙を書く羽目に。(宇多天皇)
- その手紙も一言一句チェックして少しでもおかしなところがあると、すねて突っ返した。
- 宇多天皇は臣下が代筆したことにして臣下に責任を取らせた。
- あくまで謝罪しないという天皇は、退位させた。(陽成天皇)
- 退位させるとき「この天皇は精神を病んでいる」と理由を説明した。
- 実は陽成天皇は、心身ともに完ぺきな健康体だった。その証拠に歌を詠んだり長生きしてるし。
- 退位させるとき「この天皇は精神を病んでいる」と理由を説明した。
- この人がいないと政治が滞るので天皇自ら謝罪の手紙を書く羽目に。(宇多天皇)
- 人臣として初めて関白になった。
- というかそれまで関白になった人はいない。
- 関白というのは、天皇に直接申し上げるという意味。つまり臣下の一番偉い人。
- 摂政は天皇の代理人だから、摂政のほうが偉い。
- この人は、摂政を務めた後で関白になっている。
- 摂政太政大臣より、関白太政大臣のほうがネーミングがカッコいい。
- 関白太政大臣豊臣秀吉の印象が強いからでは。
時平(ときひら)
- 基経の長男。元服の場所は宮中で、冠をかぶせる役をしたのはなんと光孝天皇。
- 完全に皇太子扱い。
- 年上の女性が好みだった。
- おじさんの妻(つまり、おば)を誘惑し愛人関係になっている。
- 菅原道真に無実の罪を着せて九州に追放した張本人。
- おかげで天神さんのばちが当たり、39歳で早死にした。
- この人の妹が産んだ皇太子も若くして亡くなった。
- 跡を継いだその皇太子の子供も5歳で亡くなった。たたりじゃー。
- 極めつけはその5年後、宮中に雷が落ちて大納言が即死。
- 間近にいた醍醐天皇(時平と組んで道真を追放)は激しく驚いて3か月後に崩御した。
- 怖すぎ。菅原道真という人はいったいどんなに偉い人物だったのか。
- 道真が偉かったというよりは、藤原氏が無実の人を次々に抹殺していてひどく恨まれていたからみな祟りと信じた。
忠平(ただひら)
- 時平の弟で、時平の早死にの後を受けて相続した。
- 舞うこと(ダンス)がとても得意でいろいろな儀式に引っ張りだこになり、政治家というより芸能人であった。
- もし家を継いでなかったら、平安のエグザイルになっていた。
- 家を継ぐ前に文徳天皇の孫娘と結婚した。
- 父親が臣籍に降下しているとはいえ事実上の皇女との結婚。さすが基経が天下を取っているだけある、家を継がない男子にまで皇女を嫁にやるとは。
- 家を継ぐ前、菅原道真を心配して九州にたびたび手紙を送り文通している。
- 真心からなのかな?それとも政治的なポーズとか?自分は兄とは違うからみな自分を支持してくださいみたいな。
- 大河ドラマファンは「風と雲と虹と」の仲谷昇の顔を連想する。
- 平将門が都で侍(ガードマン)として仕えた。
実頼(さねより)
- 忠平の長男なので、本当はこの人が本家。
- 村上天皇に嫁にやった娘が早くに亡くなってしまい、皇子を産めなかった。
- この人物の孫の実資というひとが道長全盛時代だったが、少ない力ながらちょこっと抵抗している。
- 三条天皇の意中の女性を入内させたり。
- 本妻(中宮)は、道長の娘だった。
- 九州で女真族(のちに金朝や清朝を建国する満州民族)の撃退を指揮した藤原隆家に恩賞を与えるよう運動して、実現させた。
- 道長は、隆家が政敵だった兄のむすこだったので無視していた。
- この人は毎日日記を書いていたが、まさか自分の日記が道長時代の重要な史料になるとは思ってなかっただろう。
- 三条天皇の意中の女性を入内させたり。
- 孫にはほかに、歌人の藤原公任(きんとう)や、書道家の藤原佐理(すけまさ)がいる。
- 公任は、清少納言や紫式部から「大師匠」と呼ばれていた。文壇の超大物だった。
- 道長でさえ風流の世界では公任を特別扱いしていた。「大先生は、詩、歌、管弦のどの舟を選ぶであろうか?」
- 佐理も、平安中期の三大字のうまい人の一人だった。
- 弘法大師は、平安初期の三大字のうまい人のひとり。
- 公任は、清少納言や紫式部から「大師匠」と呼ばれていた。文壇の超大物だった。
師輔(もろすけ)
- 実頼の弟で、本家を兄から奪った。
- 子供が17人いた。
- 村上天皇の中宮になった娘(安子)が、2人の天皇を産んだ。
- 生まれた時から天皇のはずがない。生まれた男子が次々に天皇になった。
- ただ村上天皇には愛する女性がいて、安子は激しく嫉妬してめちゃくちゃいじめた。
兼家(かねいえ)
- 道長の父親。しかし最初から本家だったわけでなく、2人の兄が早々と亡くなったので棚からぼた餅。
- 長兄の伊尹(これただ)はのちに花山天皇になる皇子の外祖父で摂政になっていたが、早死にした。
- 次兄の兼通が跡を継いで関白になったが、5年後に亡くなった。
- 藤原氏の歴史って、意外とこんなのばかり。内輪では、意外と安定していなかった。
- 自分の孫である皇子を天皇にするため、花山天皇をだまして宮中から追放した。
- 花山天皇に対しては初め無欲を装って関白職に就かなかった。
- あらかじめ四男の道兼を花山天皇のもとに送り込み仕込みをして、花山天皇が愛する女性を亡くし悲しみの底にいるときに「出家しましょう、私もいっしょに行きます」と言わせた。
- ここまでやった道兼が、まさかのちに七日天下とは。ばちが当たったね。
道長(みちなが)
- 『御堂関白記』という歌集があるから、関白だったと思われているが、実は関白にはなってない。
- 関白になると重役会議に出席できず、天皇と共に議決内容に判子を押す側に回ってしまうため。これを嫌った道長は、左大臣と関白に準じる役職に就き、会議をリードする政治手法を好んだ。
- 道長の時代を過ぎるとこうした積極的な姿勢が無くなり、会議の遅刻や欠席が当たり前になり、出席記録すら取らなくなっていく。こうした怠慢が武士に権力を奪われる遠因だろう。
- 関白になると重役会議に出席できず、天皇と共に議決内容に判子を押す側に回ってしまうため。これを嫌った道長は、左大臣と関白に準じる役職に就き、会議をリードする政治手法を好んだ。
- 独裁者でもない。
- むしろ根回しの天才。あの手この手で人をたらしこみ、自分の思い通りになるよう誘導して行くのがうまかった。
- 簡略な内容が多い御堂関白記でも、会議の出欠状況や誰がどんな進物を持ってきたかは詳細に記録している。常にこうしたチェックを怠らずに配慮を欠かさなかった事が成功の秘訣だろう。
- 織田信長と名前が似てるんで、つい同じ傍若無人キャラなのかなと思ってしまう。
- 五男だったのに兄4人が立て続けに病死したおかげでトップに躍り出た幸運な人。
- それに匹敵する幸運の持ち主はこの方くらいか。
- 上杉氏の初代の範国という人も五男で、兄3人が戦死、1人が出家して、跡を継いだ。
- 長兄は道隆といって娘が一条天皇の皇后になったので摂関になったが、わずか5年で亡くなった。
- その娘に仕えたのが、清少納言。
- 四兄の道兼も関白になったが、わずか7日後に亡くなった。
- 兄(三兄?)には道綱という人もいる。この人の母親が有名な愛人日記を残した女性。
- 「栄花物語」という一代記が書かれた。
- 娘たちを次々に天皇の后にして藤原氏の栄華を握った。後の藤原氏や平家による権力掌握法のはしり。
- つーか、藤原氏はずっと以前からそういうやり方をしてたんだが、道長の娘が実にうまいタイミングで皇子を産んでくれたので、代表例として特に目立つ。
- 一条天皇の第2皇后になった娘に仕えたのが、紫式部。
- 第1第2皇后同士の争いもすごかったが、清少納言とも互いにけなし合うような言い争いをしている。
- 一条天皇の第2皇后になった娘に仕えたのが、紫式部。
- つーか、藤原氏はずっと以前からそういうやり方をしてたんだが、道長の娘が実にうまいタイミングで皇子を産んでくれたので、代表例として特に目立つ。
- 「男の価値は妻で決まる」と思っていた。いかにも後宮政治の権化らしい台詞。
- 自身の妻も高貴な血筋たる源氏から迎えている。親や兄が中級貴族から迎えているのに比べて対照的で、こうしたことが道長の娘の価値を高めたのだろう。
- 晩年は糖尿病に苦しんだという説がある。
- 早くも30代からその兆候が見えるそうな。
- 平安時代の酒は糖度30~40%と超甘い。しかもアルコール度は数%で、頻繁に開かれる宴会で酔うまでがぶ飲みすれば、必然的に糖尿病になる。
- 道長に限らず、当時の貴族は糖尿病などの成人病が多い。
- 平安貴族たちが唐突に暴れる事件が頻発するのは、権力だけではなく不健康な食生活にも原因があるのだろう。
- 紫式部をナンパしようとしたが、失敗した。
頼通(よりみち)
- 道長のむすこで、父親が確立した権力のもと52年間も摂関を務めた。
- しかし、天皇・皇太子の外祖父になることはついになかった。
- この結果、後三条天皇という藤原氏と何の血縁関係もない天皇が誕生し、摂関を無視して政治を始めた。
- 宇治の別荘を寺にしたのが、平等院。
- 先祖が不比等という名前なので、ここで初めて平等に目覚めたか。
- 鳳凰堂は阿弥陀仏を祭る建物で、十円玉の絵柄になっている。
- 関白の職をむすこの師実に譲りたかったが、弟に奪われた。
- むすこが関白になったのは7年後。そのとき頼通は存命していなかった。
- 生きている間にむすこに関白を、の気持ちはわかるがちょっと貪欲すぎやしないか。その欲を捨てない限りこの人は阿弥陀仏に願っても浄土に行けない。
- 自分とは血のつながりのない白河天皇の存在をこころよく思わず、即位前から毎日いびりたおしていた。
- そんな皇子を保護し守っていたのは、頼通の弟の能信というひと。白河天皇の生母の養父という関係。
師実(もろざね)
- 外見上は堀河天皇の外祖父なんだけど、白河天皇に嫁にやった娘は実は養女で実父は村上源氏の源顕房。
- その娘が産んだ皇子は、実は皇太子になれなかった。
- 藤原氏嫌いの後三条天皇(白河天皇の父)が、藤原氏と関係のない皇子(白河天皇の弟)を皇太子に据えていた。
- その皇子が17年間皇太弟を務めたあげく亡くなったので、ようやく皇太子になった。
- やっと外祖父になれたが、父子間の権力継承に18年もかかりその間に後三条・白河天皇が好き放題やってしまった。
- もう昔には戻れないね、白河院政の始まり始まりー。
- その娘が産んだ皇子は、実は皇太子になれなかった。
- これ以後は、摂関の地位にあっても政治をリードできない時代になる。
師通(もろみち)
- 歯に衣着せぬ人柄だったので、白河上皇の強引な利益誘導政治を真っ向から非難した。
- 肝っ玉も図太かったみたいで、白河上皇でさえ意のままにならないと嘆いた延暦寺僧たちからの強訴に対し侍に命じて強訴の代表者(神人なので皆が手出しできなかった)を射殺している。
- 文武両道、多芸多才で、歌は詠むは字は上手いは詩心もあり琵琶の弾き語りに皆聞き惚れ、なんと平安サッカー(蹴鞠)の名選手でもあった。
- 38歳の若さで亡くなった。惜しい人を亡くした。
忠実(ただざね)
- 父親(師通)に見習ったのか、白河法皇と大喧嘩して朝廷の職務から外されている。
- 嫡男である長男(忠通)を毛嫌いし、次男(頼長)をとてもかわいがってひそかに跡継ぎにしようと企んだ。
- 次男がとびきりの秀才だったからね。
- この内輪の問題が、まさか保元の大乱の原因の一つになるとは。
- 源氏(為義)が侍を務めていて支えていた。
忠通(ただみち)
- 父親(忠実)に嫌われた理由は、父親から関白職を奪った形になったから。
- いや、この父親は初めから次男(頼長)に関白職を譲る気満々だった。忠通が何をやろうが関係なかったのでは。
- 保元の乱で、平清盛を味方につけ勝者側になった。
- ただむすこたちは、のちに平氏と激しく対立してるけどね。
- 政治的な思惑でくっついたり離れたりしてるから、そういうことはよくあるある。
- ただむすこたちは、のちに平氏と激しく対立してるけどね。
頼長(よりなが)
- 平安末期の超秀才。
- 読書に夢中になって、気が付いたら6日経っていた。徹夜を5夜連続したから。
- 牛車の中でも舟の上でも、いつも読書していた。
- しかし、こんな人間は平成時代にはいくらでもいる。車中スマホ、運転スマホ、寝床スマホ…。
- 読書に夢中になって、気が付いたら6日経っていた。徹夜を5夜連続したから。
- 父親(忠実)にかわいがられたというから優しかったのかと思ったら、肝が据わっていてしかも陰謀好きなキャラだったらしい。
- 父親も似たようなキャラだったので、馬が合った。
- あだ名を「悪左府」という。ワルの左大臣という意味。
- 兄の忠通は、あまり人をだまさない優しい人柄だった。
- 藤原氏の伝統に照らせば頼長のほうが適任だった。生き残ってたら歴史が変わって、たぶん鎌倉幕府はなかった。
- 父親も似たようなキャラだったので、馬が合った。
- 保元の乱のとき、流れ矢が目に刺さって亡くなった。平将門の最期に似ている。
- その後20年余り、朝廷では彼の祟りが極端に怖れられた。