ページ「もし戦前の外地が今でも日本領だったら」と「もし放送界であの事件がなかったら/1990年代以前」の間の差分

(ページ間の差分)
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
(1990年代修正)
 
1行目: 1行目:
==全般==
{{Pathnav|もし放送界であの事件がなかったら|name=1990年代以前}}
#現在でも、世界第2位の経済大国の地位が揺るぐことは無かった。
*事件がきっかけで番組が打ち切られた場合、「打ち切られずにすんだ」のは基本的に当然のことなのでご遠慮ください。
#史実より中国から舐められることはなかった。
*'''問題発生から最低3カ月間は投稿禁止'''とします。
#*その代わり「日本は大連・台湾を不法占拠している」と事あるごとに国際的な反日プロパガンダを行っていた。
*新規追加は年代順で。
#**現在でも領有し続けているということは中国含めた国際社会に認められているということでは。
*アニメ・特撮関連は[[もしアニメ・特撮であの事件がなかったら]]で。
#朝鮮・台湾における総督府は、1970年頃までには廃止されていた。
*'''芸能人の問題発言'''(ドラマでの発言を除く)は[[もしあの芸能人の問題発言がなかったら]]で。
#*だが国際社会からは「時代遅れの植民地帝国」と非難されていた。
#**少なくとも同時代のポルトガルと同じような批判からは逃れられなかった。
#***その為、日本の友好国はイスラエルや南アフリカになっていたかもしれない。その場合、日本の産業は兵器産業に重点が置かれていた。
#*[[スコットランド]]や[[北アイルランド]]のように「朝鮮自治政府」「台湾自治政府」が設置され(法規上は総督府の改称)、原則としてそれぞれ朝鮮人・台湾人で構成されるようになった。
#**しかしそれでもテロリストが存在するので「テロとの戦い」というフレーズが史実よりは国民に受け入れられていた。
#**一部[[沖縄]]人が「沖縄(琉球)自治政府」の設置を主張していた。
#朝鮮人も日本人となる為、日本の国際的な評価は史実より多少低くなっていた。
#*スポーツの実力は多少は上がっていた。
#日本は世界一受験戦争が厳しい国として知られるようになっていた。
#年代が進むにつれて、内地人(日本人)と外地人(朝鮮人・本島人・南洋群島のポリネシア系住民)の通婚・混血が多くなっていた。
#朝鮮料理・台湾料理・パラオ料理なども日本料理の一部となる為、日本の食文化は史実より豊かなものとなり、日本料理は中華料理・フランス料理・トルコ料理とならんで「世界四大料理」に列せられていた。
#*台湾が日本領だとしても、料理は中華料理の一部として扱われるだろうし朝鮮料理があっても豊かにはならない。
#*それは朝鮮料理を蔑視した見方にしか思えない。
#**現実でも鶴橋や愛友市場(広島市)には日朝折衷の料理が存在している。
#史実通り太平洋戦争に敗れた場合、外地の日本復帰は沖縄同様大幅に遅れていた。
#*特に朝鮮戦争が起こった場合、北朝鮮は未だに復帰していない。
#*順番的には南洋(小笠原諸島と同時期)→台湾(沖縄と同時期)→朝鮮(南部のみ)だろうか。
#**それぞれの復帰式典は史実よりも大規模になっていた。
#そもそも太平洋戦争で勝つか開戦を回避しているかしないとこうはならない。
#*一応戦勝国扱いのイタリアでも大戦中にイギリスが占領したアフリカの植民地は返還されなかった。
#*それに戦後の脱植民地化の流れを踏まえると日本だけが戦前の植民地を保持できる理由は見当たらない。
#**形式的には「内地同様」にしても戦前の外務省あたりの資料をもとに植民地として認定されてしまう。
#*また日本の戦争継続能力剥奪の観点から見ても連合国が日本に植民地の継続保有を許すようには見えない。
#世界各国の植民地も独立していなかったかもしれない。
#*流石に全部植民地のままと言うことは無いだろうが、アフリカの独立国も史実より少なかった。
#学校教育で「国語」として朝鮮語や客家語が含まれるようになる。
#*「朝鮮語」は漢字ハングル交じり文になっていた。
#*「台湾語」。客家語は少数派。
#少なくとも独立運動は起こっていた。
#2002年のサッカーワールドカップは「日本」単独開催となっていた。
#*平壌や台北でも試合があったかもしれない。


==朝鮮半島==
==独立項目==
#三星・LG・現代は日本企業となっていた。
*[[もしあのCMの発言・演出が問題にならなかったら]](CM中の発言・演出に関してはこちらへ)
#*ソニーやトヨタの子会社である。
*[[もしあの番組のやらせ・捏造が問題にならなかったら]](やらせ・捏造に関してはこちらへ)
#世代が進むにつれて、朝鮮語を解さない朝鮮人も出るようになっていた。
*[[もしあのアナウンサーのあの事件がなかったら]](アナウンサーの出来事に関してはこちらへ)
#*ハングルは朝鮮文学研究の為のみに使われるものとなっていた。
#*[[ウェールズ|ウェールズ語]]のように朝鮮語保存運動が盛んになり、学校で教えられている。
#朝鮮人は短気・わがまま・厚かましいと評価され、日本人や本島人からは疎まれるようになっていた。
#*国内で公然と朝鮮人差別が行われ国際社会の批判を浴びる。
#京城は日本第2の都市となっていた。
#*第2はデカ過ぎ。札幌台北大連平壌と同列で5番手。
#京城大学は、東京大学・京都大学と並んで日本の最高学府の一つとなっていた。
#高麗大学・延世大学は、早稲田大学・慶應義塾大学と並んで私学の雄に数えられていた。
#高木正雄(朴正煕)が、福田赳夫の次あたりで朝鮮人及び自衛隊出身者として初となる総理大臣となり、高い支持率から長期政権となり、中曽根康弘の首相就任が史実より多少遅くなっていた。
#*娘の高木恵(朴槿恵)も政治家になり、自民党あたりに所属している。
#豊田大中(金大中)が社会党右派の重鎮となっており、自社さ政権が成立していた場合、自民党から総理大臣に担ぎ出されていた。
#*月山明博(李明博)は当初自民党で、その後民主党あたりに移る。
#日韓海底トンネルが現実のものとなっていた。
#JRが新幹線「だんくん」「ゆうじょ」「はくとうさん」「かんこう」を走らせていた。
#*社名は「JR朝鮮」。
#*ロシア、欧州への直通列車も走っている。
#**定年退職者や旅行マニア、鉄道マニアがよく利用する。
#**国際貨物列車もある。
#山岳部などでは今でも独立ゲリラが抵抗中。
#*都市部では内地人や内地系企業を標的としたテロが頻発する。
#*現実の中華人民共和国にとってのチベットやウイグル同様の存在になっていた。
#*独立ゲリラ=[[北朝鮮|朝鮮労働党]]
#高木正雄などを輩出した地であるものの、朝鮮は伝統的に社会党など左派勢力の地盤になっていた。
#マツタケやシジミ、アサリは[[咸鏡道]]産や[[江原道]]産が多く流通していた。


==台湾==
==1950〜80年代==
#高雄は日本と東南アジア諸国の交易拠点となっていた。
===日本初のテレビCM事故(1953年)===
#本島人が内地の企業に就職した場合は、日本人や朝鮮人より出世競争の面で多少不利になっていた。
#日本初のテレビ放送事故は[[#笑福亭鶴瓶『独占!男の時間』全裸事件(1975年)|これ]]になっていた…と思う。
#JRが新幹線「にいたか」「たかさご」を走らせていた。
#*それはありえない。草創期の日本のテレビ放送では毎日のように放送事故が起きていた。例えば1958年5月20日の[[中部日本放送]]だけでも、[http://web.archive.org/web/20030323033205/http://www002.upp.so-net.ne.jp/TVCM_archeology/essay/owabi.html これだけ]の放送事故があった。
#*社名は「JR台湾」。
#*新幹線で走っている車両は現実とあまり変わらない。
#バブル崩壊後あたりに、岩里政男(李登輝)が本島人で初となる総理大臣に選出された際は、永らく二等国民とされていた本島人の間では歓喜の渦が広がっていた。
#内地でも檳榔が、タバコと同列の嗜好品として愛好されるようになっていた。
#沖縄と同様に、在日米軍の基地が多く置かれるようになっていた。
#高砂義勇隊記念館が建設されていた。
#本島人・高砂族の美しい風俗嬢を買いに、週末になると内地や朝鮮半島から買春ツアーの男性客が大挙して押し寄せるようになっていた。
#八田與一の逸話は本土でも広く知られていた。
#台湾大学は日本の重要大学の一つとなり、沖縄あたりから進学する学生も多かった。
#*琉球大学は無かったかもしれない。
#**流石に駅弁大学としての琉球大学が設置されなかったことは有り得ない。
#左翼勢力の一部が[[中華人民共和国|共産中国]]に亡命する。
#「本島人」という呼称は後に廃れ「台湾人」と呼ばれるようになる。
#*ただし「関西人」「九州人」などと似たニュアンスでしかない。
#台湾が「日本列島」の一部と考えられていた。
#[[台湾福建省|金門・馬祖]]は中華人民共和国の手に落ち、「中華民国」はこの世から消滅していた。
#*アメリカ辺りに亡命政府があるが、米中国交正常化以降の活動は退潮気味。
#日本で流通するバナナは台湾産が主流だった。


==関東州==
===『荒野の素浪人』抗議事件(1974年)===
#かつてのイギリスにおける香港の様な位置づけになっていた。
ドラマ『荒野の素浪人』の劇中で「きちがい」という語句が使用されたことに精神障害者の家族会が抗議した事件。この事件が日本のメディアで「きちがい」という語句の使用が控えられるきっかけの一つになったとされることが多い。翌年1975年以降、差別用語が本格化。
#*と言うか香港・マカオ同様90年代末には返還されている。
#それでも「きちがい」という語はいわゆる「放送禁止用語」の仲間入りをしていた。
#中国との交易の拠点となっていた。
#*当時近畿地方のある精神障害者の家族会が様々な番組に対し同様の抗議を行っていたため。
#サンフランシスコ講和条約締結の時点でここだけ施政権を返上していたかもしれない。
#ドラマ自体の現在の知名度は史実よりやや落ちている。
#*その代わり別の「発端になった」とされる番組の知名度がわずかに上がっていた。


==南洋群島==
===笑福亭鶴瓶『独占!男の時間』全裸事件(1975年)===
#日本人にとって定番のリゾート地となり、夏休みや年末年始になると、本土から大挙して観光客が押し寄せるようになっていた。
*詳細は[[wikipedia:ja:独占!男の時間|こちら]]を参照。
#観光客が出す大量のゴミの処理や、リゾート開発などによる環境破壊が問題となっていた。
#鶴瓶はテレビ東京を出入り禁止されることはなく、テレ東との関係が悪化することはなかった。
#どのような法的根拠で保有し続けているのか想像できない。
#鶴瓶の東京進出は史実より早く成功していた。
#*史実通りの経過だと日本は敗戦国の上国際連合非加盟期間があるため信託統治への移行は無理だと思われる。
#『FNS27時間テレビ』での下半身露出もなかっただろう。
#戦後無理やり日本領に編入したら「オセアニアのナミビア」と呼ばれるようになっていた。
#*2004年の『FNS27時間テレビ』で鉄のパンツを穿かされることもなかった。
#果たしてどこの都道府県に所属したのだろうか?
#*『うわさのチャンネル』で{{あきまへん}}を露出して山口百恵を号泣させることもなかった。
#*普通に考えたら伊豆・小笠原諸島と同じ東京都だが独立した都道府県ということもありうる。その場合は小笠原諸島も同じ県内に含まれていたかもしれない。
#*仮に27時間テレビで史実通り露出した場合、活動自粛か最悪引退に追い込まれていた。


==関連項目==
===『吉田拓郎のオールナイトニッポン』吉田拓郎死亡放送事件(1981年)===
*[[もし樺太が日本領だったら]]
*詳細は[[wikipedia:ja:吉田拓郎のオールナイトニッポン#吉田拓郎死亡放送事件|こちら]]を参照。
#『とんねるずのみなさんのおかげです』で木梨憲武が復帰企画が組まれた時、木梨の追悼番組に見せかけたドッキリ事件はなかった。
#『金田一少年の事件簿』でもこのネタが使われることはなかった。


[[category:歴史のif検討委員会 日本史|せんせんのかいちかいまてもにほんりよう]]
===[[wikipedia:ja:TBSビデオ問題|TBSビデオ問題]](1989年~1996年)===
#ワイドショー空白期間が無かった。
#*それでも平日昼は惨敗のまま。
#**ベストタイムやひるおび!のような情報番組路線が敷かれなかった可能性もあるので、史実より長く低迷していたかもしれない。
#**朝の番組『おはようクジラ』に関しては実史通り。(『おはようクジラ』開始は、TBSビデオ問題が'''直接'''の要因では無い為。但し、開始時期は、変わっていたかもしれない。)
#*特に午後のワイドショーが日テレ独り勝ちになることもなかった。
#ロゴマークが未だにミクロコスモス。
#*ドリームプレスででてくるあれ?
#**それは社名変更から90年までずっと使われていた筆記体ロゴ。ちなみにミクロコスモスは91年から94年。
#***でも94年ならTBS事件関係なくない!?>>ミクロコスモス
#****TBS事件の反省により今のやつに変えたって言う噂がある。
#*むしろドリームプレスのロゴのままだったかも。
#薬丸が主婦層に高感度が上がることはなかった。
#「痛快!明石家電視台」のネット局が今ほど増えなかった。
#「ワンダフル」もなかった。
# 証券会社から損失補てんを受けるというほどモラルが低下していなかった可能性もあり、田中氏は1995年(赤坂ビッグハット完成後)の株主総会で勇退。
#*その後引田氏か志甫氏が社長に。磯崎氏は社長になれず亡くなったかも。
#[[もし現在までTBS黄金期が続いていたら|黄金時代が再来]]する。
#MBS・CBCを始め、系列局との関係もそこまで悪くはならなかった。
#*ただ、CBCの場合は上記の事件より相変わらず険悪。
#とりあえず、現在まで続く改編が起こるごとに視聴者が離れる・・・というスパイラルな改編も起こらなかった。
#*それでも水曜19時台はずっと低迷したまま。
#赤坂サカスはなかったし、スタイリングライフHD(プラザ、マキシム・ド・パリ日本法人の親会社)の買収もなかった。
#*赤坂メディアビル(旧社屋)は改修を施されてどこかに売却された。
#テレビ朝日の悪いイメージが続いていた。
#*ABCとの関係改善は現実より遅れていた。
#**ABCはテレ朝に対する嫌悪感がますます強くなり、ついにはTBS系列に戻りたいと思っていたでしょうね。
#*でもいずれにせよいつかはテレ朝のイメージがよくなる日が来ていた。
#*そういえば椿事件もこの時期だったような。
#TBSは現在もワイドショーのイメージが強い。
#TBSのラジオとテレビが引き離されることもなかった。
#*CBCに関しても同じく。
 
===『夜のヒットスタジオR&N』FM東京事件(1989年)===
覆面バントタイマーズが『夜のヒットスタジオR&N』でFM東京を中傷する過激な替え歌を生演奏して、演奏後に司会の古舘伊知郎が謝罪する事態になった。
#FM東京がタイマーズの楽曲を放送禁止にしなければこのような事態にならなかった。
#『お○んこ野郎』や『政治家の手先』などFM東京に対する風評被害が起きなかった。
#同じレコード会社に所属していた松任谷由実が巻き添えを喰らうこともなかった。
 
==1990年代前半==
===『M10』たかじん・味の素激昂事件(1992年)===
やしきたかじんが、当時テレビ朝日で放送されていた深夜番組『M10』の料理コーナーで隠し味にどうしても必要だった「味の素」が見つからず、番組スタッフに「味の素はどこじゃー!!」と殴って、生放送中に帰宅した伝説の事件。
#やしきたかじんは、「M10」以降も東京で番組を持っていた。
#*もちろん、たかじんが「こんな腐った番組辞めたらぁ!!」と「M10」を降板することもなかった。
#*当然「たかじんのそこまで言って委員会」が日テレでも放送されていただろう。
#**「たかじん胸いっぱい」もフジテレビで放送されていた。
#***「胸いっぱい」はともかく「そこまで」は放送自体されなかった気がする。「シャベタリーノ」は東京収録だったかも。
#たかじんはアンチ東京になることはなく、関西ローカル番組で東京を積極的に批判することはなかった。
 
===『オールスター感謝祭』アマンドいたずら電話事件(1992年)===
#予定通り休憩時間前にアマンドから商品が発注されていた。
#翌年(の春)以降も出前発注は継続されていた。
#*序盤から出前発注は飽きたということで、史実より遅れてビュッフェスタイルになってた。
 
===『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』ウォン・カークイ事故死事件(1993年)===
#フジテレビ土曜20時台は『めちゃ×2イケてるッ!』がヒットするまで迷走することはなかった。
#裏番組の『マジカル頭脳パワー!!』が打ち切りまたは枠移動に追い込まれていた。
#*それでも史実通りに枠移動していただろ。
#BEYONDは中華圏だけではなく日本でも史実以上にヒット曲を連発していた。
#マセキ芸能社とアミューズの関係も悪化しなかった。
 
===『ハッスルかましてよかですか!?』 岡村隆史が浜田雅功にどつかれた事件 (1994年) ===
フジテレビの正月番組『ハッスルかましてよかですか!?』の『くつ下リーグ選手権』で岡村隆史がくつ下をうまく飛ばせなかった後、浜田雅功に襲われてボコボコにされた事件。ナインティナインがテレビでダウンタウンと共演しなかったのはこの事件が原因だった。
#1997年の『27時間テレビ』でダウンタウンが怖くて、うまく、進行が出来ないナインティナインにダウンタウンが怒ることなんてなかった。
#*ナインティナインが何度も、ダウンタウンと絡んで、番組を盛り上げることが出来た。
#TBS『リンカーン芸人大運動会』にナインティナインが参加していた。
#*岡村は浜田組(赤)、矢部は松本組(白)に入っていた。
#「Re:Japan」にナインティナインも参加していた。
 
===梅垣義明「イヨマンテの夜」事件(1994年) ===
#梅垣義明は「イヨマンテの夜」の芸を封印しなかった。
#*梅垣は史実より多くのテレビに出演していた。
#*ガキ使の笑ってはいけないシリーズでも芸を披露していただろう。
#「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」は打ち切りにならずに済んだ。
#*復活版が放送された際の視聴率はもっと高かった。
 
==1990年代後半==
===江頭2:50のトルコ全裸事件(1997年)===
#「ザ・道場破り!」の知名度は史実より上がっていた。
#江頭がこれ以降過激な行動をテレビですることはなかったかも。
#江頭2:50が「嫌いな芸人ランキング」で1位になることはなかった。
#*同時にそこまで知名度が上がることもなかっただろう。
#『電波少年』の企画と誤解されることもなく、「トルコの江頭はウチではありません」とテロップを表記することもなかった。
#『笑っていいとも!』で橋田寿賀子に抱き付いたりキスをすることもなかった。<!--橋田はこの事件後にトルコに行ったらひどい目にあったとコメントしたため-->
#*スタジオアルタを出入り禁止されることもなかった。
#**とはいえ別の騒動を起こして出禁を受けていた可能性も否定できない。
 
===『ダウンタウンのごっつええ感じ』プロ野球中継差し替え事件(1997年)===
*詳細は[[wikipedia:ja:ダウンタウンのごっつええ感じ#突然の番組終了|こちら]]を参照。
#松本人志が叩かれることはなかった。
#「エキセントリック少年ボウイ」の本編がお蔵入りすることはなかった。
#*ということで、『エキセントリック少年ボウイ』は史実以上の知名度を得ていた。
#*木村祐一扮する猪豚ピッグの登場が実現していた。
#「ダウンタウンのごっつええ感じ」は少なくとも2000年頃まで放送が続いていたであろう。
#*うまくいけば「とんねるずのみなさんのおかげでした」や「めちゃ×2イケてるッ!」が放送終了する時期までは続いていたかも。
#余談だが、第1回目のスポンサーの中には皮肉にも'''「[[ヤクルト|ヤ◯ルト]]」が入っていた。'''
 
===『救命病棟24時』盗作疑惑(1999年)===
#『ER緊急救命室』の二番煎じと揶揄されることはなかった。
#第1シーズンもDVD化されていた。
#*大人の事情が減っていた。
#第1シーズンの再放送も精力的に行われていた。
#*第4話がカットされることもなかった。
#第2シーズン以降の路線変更もなかった。
#*第2シーズンには松嶋菜々子も出演していた。
 
===『ニュースステーション』所沢ダイオキシン訴訟(1999年)===
#久米宏の人気が下がることはなかった。
#食品において「風評被害」という言葉が登場するのはもっと後になっていた。
#ダイオキシン問題はもっと注目されていた。
#「買ってはいけない」などもそこまで叩かれることはなかった。
 
{{DEFAULTSORT:あのしけんがなかつたら1990ねんたいいせん}}
[[Category:歴史のif検討委員会 放送局史]]
[[Category:歴史のif検討委員会 テレビ番組史]]

2020年2月5日 (水) 17:45時点における版

独立項目

1950〜80年代

日本初のテレビCM事故(1953年)

  1. 日本初のテレビ放送事故はこれになっていた…と思う。
    • それはありえない。草創期の日本のテレビ放送では毎日のように放送事故が起きていた。例えば1958年5月20日の中部日本放送だけでも、これだけの放送事故があった。

『荒野の素浪人』抗議事件(1974年)

ドラマ『荒野の素浪人』の劇中で「きちがい」という語句が使用されたことに精神障害者の家族会が抗議した事件。この事件が日本のメディアで「きちがい」という語句の使用が控えられるきっかけの一つになったとされることが多い。翌年1975年以降、差別用語が本格化。

  1. それでも「きちがい」という語はいわゆる「放送禁止用語」の仲間入りをしていた。
    • 当時近畿地方のある精神障害者の家族会が様々な番組に対し同様の抗議を行っていたため。
  2. ドラマ自体の現在の知名度は史実よりやや落ちている。
    • その代わり別の「発端になった」とされる番組の知名度がわずかに上がっていた。

笑福亭鶴瓶『独占!男の時間』全裸事件(1975年)

  1. 鶴瓶はテレビ東京を出入り禁止されることはなく、テレ東との関係が悪化することはなかった。
  2. 鶴瓶の東京進出は史実より早く成功していた。
  3. 『FNS27時間テレビ』での下半身露出もなかっただろう。
    • 2004年の『FNS27時間テレビ』で鉄のパンツを穿かされることもなかった。
    • 『うわさのチャンネル』で×××××を露出して山口百恵を号泣させることもなかった。
    • 仮に27時間テレビで史実通り露出した場合、活動自粛か最悪引退に追い込まれていた。

『吉田拓郎のオールナイトニッポン』吉田拓郎死亡放送事件(1981年)

  1. 『とんねるずのみなさんのおかげです』で木梨憲武が復帰企画が組まれた時、木梨の追悼番組に見せかけたドッキリ事件はなかった。
  2. 『金田一少年の事件簿』でもこのネタが使われることはなかった。

TBSビデオ問題(1989年~1996年)

  1. ワイドショー空白期間が無かった。
    • それでも平日昼は惨敗のまま。
      • ベストタイムやひるおび!のような情報番組路線が敷かれなかった可能性もあるので、史実より長く低迷していたかもしれない。
      • 朝の番組『おはようクジラ』に関しては実史通り。(『おはようクジラ』開始は、TBSビデオ問題が直接の要因では無い為。但し、開始時期は、変わっていたかもしれない。)
    • 特に午後のワイドショーが日テレ独り勝ちになることもなかった。
  2. ロゴマークが未だにミクロコスモス。
    • ドリームプレスででてくるあれ?
      • それは社名変更から90年までずっと使われていた筆記体ロゴ。ちなみにミクロコスモスは91年から94年。
        • でも94年ならTBS事件関係なくない!?>>ミクロコスモス
          • TBS事件の反省により今のやつに変えたって言う噂がある。
    • むしろドリームプレスのロゴのままだったかも。
  3. 薬丸が主婦層に高感度が上がることはなかった。
  4. 「痛快!明石家電視台」のネット局が今ほど増えなかった。
  5. 「ワンダフル」もなかった。
  6. 証券会社から損失補てんを受けるというほどモラルが低下していなかった可能性もあり、田中氏は1995年(赤坂ビッグハット完成後)の株主総会で勇退。
    • その後引田氏か志甫氏が社長に。磯崎氏は社長になれず亡くなったかも。
  7. 黄金時代が再来する。
  8. MBS・CBCを始め、系列局との関係もそこまで悪くはならなかった。
    • ただ、CBCの場合は上記の事件より相変わらず険悪。
  9. とりあえず、現在まで続く改編が起こるごとに視聴者が離れる・・・というスパイラルな改編も起こらなかった。
    • それでも水曜19時台はずっと低迷したまま。
  10. 赤坂サカスはなかったし、スタイリングライフHD(プラザ、マキシム・ド・パリ日本法人の親会社)の買収もなかった。
    • 赤坂メディアビル(旧社屋)は改修を施されてどこかに売却された。
  11. テレビ朝日の悪いイメージが続いていた。
    • ABCとの関係改善は現実より遅れていた。
      • ABCはテレ朝に対する嫌悪感がますます強くなり、ついにはTBS系列に戻りたいと思っていたでしょうね。
    • でもいずれにせよいつかはテレ朝のイメージがよくなる日が来ていた。
    • そういえば椿事件もこの時期だったような。
  12. TBSは現在もワイドショーのイメージが強い。
  13. TBSのラジオとテレビが引き離されることもなかった。
    • CBCに関しても同じく。

『夜のヒットスタジオR&N』FM東京事件(1989年)

覆面バントタイマーズが『夜のヒットスタジオR&N』でFM東京を中傷する過激な替え歌を生演奏して、演奏後に司会の古舘伊知郎が謝罪する事態になった。

  1. FM東京がタイマーズの楽曲を放送禁止にしなければこのような事態にならなかった。
  2. 『お○んこ野郎』や『政治家の手先』などFM東京に対する風評被害が起きなかった。
  3. 同じレコード会社に所属していた松任谷由実が巻き添えを喰らうこともなかった。

1990年代前半

『M10』たかじん・味の素激昂事件(1992年)

やしきたかじんが、当時テレビ朝日で放送されていた深夜番組『M10』の料理コーナーで隠し味にどうしても必要だった「味の素」が見つからず、番組スタッフに「味の素はどこじゃー!!」と殴って、生放送中に帰宅した伝説の事件。

  1. やしきたかじんは、「M10」以降も東京で番組を持っていた。
    • もちろん、たかじんが「こんな腐った番組辞めたらぁ!!」と「M10」を降板することもなかった。
    • 当然「たかじんのそこまで言って委員会」が日テレでも放送されていただろう。
      • 「たかじん胸いっぱい」もフジテレビで放送されていた。
        • 「胸いっぱい」はともかく「そこまで」は放送自体されなかった気がする。「シャベタリーノ」は東京収録だったかも。
  2. たかじんはアンチ東京になることはなく、関西ローカル番組で東京を積極的に批判することはなかった。

『オールスター感謝祭』アマンドいたずら電話事件(1992年)

  1. 予定通り休憩時間前にアマンドから商品が発注されていた。
  2. 翌年(の春)以降も出前発注は継続されていた。
    • 序盤から出前発注は飽きたということで、史実より遅れてビュッフェスタイルになってた。

『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』ウォン・カークイ事故死事件(1993年)

  1. フジテレビ土曜20時台は『めちゃ×2イケてるッ!』がヒットするまで迷走することはなかった。
  2. 裏番組の『マジカル頭脳パワー!!』が打ち切りまたは枠移動に追い込まれていた。
    • それでも史実通りに枠移動していただろ。
  3. BEYONDは中華圏だけではなく日本でも史実以上にヒット曲を連発していた。
  4. マセキ芸能社とアミューズの関係も悪化しなかった。

『ハッスルかましてよかですか!?』 岡村隆史が浜田雅功にどつかれた事件 (1994年)

フジテレビの正月番組『ハッスルかましてよかですか!?』の『くつ下リーグ選手権』で岡村隆史がくつ下をうまく飛ばせなかった後、浜田雅功に襲われてボコボコにされた事件。ナインティナインがテレビでダウンタウンと共演しなかったのはこの事件が原因だった。

  1. 1997年の『27時間テレビ』でダウンタウンが怖くて、うまく、進行が出来ないナインティナインにダウンタウンが怒ることなんてなかった。
    • ナインティナインが何度も、ダウンタウンと絡んで、番組を盛り上げることが出来た。
  2. TBS『リンカーン芸人大運動会』にナインティナインが参加していた。
    • 岡村は浜田組(赤)、矢部は松本組(白)に入っていた。
  3. 「Re:Japan」にナインティナインも参加していた。

梅垣義明「イヨマンテの夜」事件(1994年)

  1. 梅垣義明は「イヨマンテの夜」の芸を封印しなかった。
    • 梅垣は史実より多くのテレビに出演していた。
    • ガキ使の笑ってはいけないシリーズでも芸を披露していただろう。
  2. 「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」は打ち切りにならずに済んだ。
    • 復活版が放送された際の視聴率はもっと高かった。

1990年代後半

江頭2:50のトルコ全裸事件(1997年)

  1. 「ザ・道場破り!」の知名度は史実より上がっていた。
  2. 江頭がこれ以降過激な行動をテレビですることはなかったかも。
  3. 江頭2:50が「嫌いな芸人ランキング」で1位になることはなかった。
    • 同時にそこまで知名度が上がることもなかっただろう。
  4. 『電波少年』の企画と誤解されることもなく、「トルコの江頭はウチではありません」とテロップを表記することもなかった。
  5. 『笑っていいとも!』で橋田寿賀子に抱き付いたりキスをすることもなかった。
    • スタジオアルタを出入り禁止されることもなかった。
      • とはいえ別の騒動を起こして出禁を受けていた可能性も否定できない。

『ダウンタウンのごっつええ感じ』プロ野球中継差し替え事件(1997年)

  1. 松本人志が叩かれることはなかった。
  2. 「エキセントリック少年ボウイ」の本編がお蔵入りすることはなかった。
    • ということで、『エキセントリック少年ボウイ』は史実以上の知名度を得ていた。
    • 木村祐一扮する猪豚ピッグの登場が実現していた。
  3. 「ダウンタウンのごっつええ感じ」は少なくとも2000年頃まで放送が続いていたであろう。
    • うまくいけば「とんねるずのみなさんのおかげでした」や「めちゃ×2イケてるッ!」が放送終了する時期までは続いていたかも。
  4. 余談だが、第1回目のスポンサーの中には皮肉にもヤ◯ルト」が入っていた。

『救命病棟24時』盗作疑惑(1999年)

  1. 『ER緊急救命室』の二番煎じと揶揄されることはなかった。
  2. 第1シーズンもDVD化されていた。
    • 大人の事情が減っていた。
  3. 第1シーズンの再放送も精力的に行われていた。
    • 第4話がカットされることもなかった。
  4. 第2シーズン以降の路線変更もなかった。
    • 第2シーズンには松嶋菜々子も出演していた。

『ニュースステーション』所沢ダイオキシン訴訟(1999年)

  1. 久米宏の人気が下がることはなかった。
  2. 食品において「風評被害」という言葉が登場するのはもっと後になっていた。
  3. ダイオキシン問題はもっと注目されていた。
  4. 「買ってはいけない」などもそこまで叩かれることはなかった。