もしあの力士が横綱になっていたら
2016年4月26日 (火) 23:53時点における>急行おがによる版 (→一ノ矢充)
- 項目の新規追加は五十音順でお願いします。
- 既に現役を引退している力士限定で。
あ行
安芸乃島勝巳
- 金星の数が多い横綱になった。
- 金星数は史実よりも少ないだろう
- 下位の力士に取りこぼすことが多いため金星配給数も多いだろう。
- 横綱昇進後の成績が振るわない場合は「広島県出身の横綱→昇進後は地味」というジンクスが好角家の間でささやかれる。
朝潮太郎(四代目)
- 朝青龍も少しは大人しくなっていたかと。
- 千代の富士単独時代はなかった。
- 横綱になれたところでどのみち若い大乃国や双羽黒などと共に千代の富士にいいようにやられ、独走を許していたと思う。
- 2人目の学生相撲出身横綱になった。
- 北の湖に対戦成績で勝ち越していることがさほど不思議に思われない。
- 『ワイはアサシオや』(いしいひさいち)がアニメ化されていた。
維新力浩司
- 歴代横綱では最も体重が軽い力士になった。
- 体重が倍以上の小錦と大乃国に勝てばその取組は「小さい力士が大きい力士に勝った」として語り草になる。
- 引退後も相撲界に残り大鳴戸部屋を継いだ。
- 週刊誌などにたびたび八百長疑惑を書きたてられていた。
- イメージが被る舞の海の人気が史実より落ちている。
板井圭介
- 幕内最終場所で15戦全敗を記録することはなかった。
- 双葉山以来の大分県出身横綱になっていた。
- 運が良ければ双葉山の69連勝を超えていた。
- 千代の富士の53連勝はなかった。
- 引退時に年寄名跡襲名が認められた。
- 八百長相撲を告発することはなかった。
一ノ矢充
- 国立大卒で初の横綱になった。
- 母校相撲部に入部者が続々来るかも。
- 46歳11ヶ月での引退は横綱の最年長引退記録となった。
- 昇進してしまうと勝つことへの世間の期待が強くなるので到底そこまで続けられたようには思えない。
- 引退後は部屋のマネージャーでなく、もちろん親方になった。
大内山平吉
- 曙以前に身長2mを超える横綱になった。
- 時期的から見て千代の山、鏡里、吉葉山、栃錦と同じ頃で5横綱になった。
- あるいは誰か一人が大関止まりだった。
- 双葉山はもう一人横綱を育てたことになった。
- 千代の山や朝潮との取組は大型横綱同士の取組として注目された。
か行
魁皇博之
- 2004年九州場所後に横綱昇進していたら
先場所は優勝しましたが、この場所では優勝を逃し、綱とりに失敗しましたものの、12勝という好成績を収めていました。もしここで優勝し、横綱昇進を決めていたら?
- 間違いなく、長くても2006年限りで引退の短命横綱になっていた。
- のちに最多勝記録、幕内在場所記録などを更新することはなかった。
- それでも朝青龍単独横綱の期間は短くなっていた。
- 現時点で日本人最後の横綱となっている。
- 「大関互助会の会長」とは千代大海のことを指していた。
- 翌2005年初場所(史実は途中休場)で優勝していても横綱に昇進できたと思うが、その後の内容はほとんど変わらないと思う。
- 魁皇の横綱昇進と栃東の大関陥落で千代大海の1人大関となるため「横綱大関」の名称が平成になって初めて番付に載る。
- 白鵬の昇進時に土俵入りを指導した。
- 昇進時には特急「かいおう」が特別塗装車で運転された。
魁傑將晃
- 「休場は試合放棄だ」と最後まで出場し、皆勤での負け越しが多い横綱になった。
- 師匠の大ノ海は横綱を3人育てたことになった。
- 大乃国が横綱に昇進した時、土俵入りを指導した。
- 中国地方の全ての県が横綱を輩出したことになっていた。
霧島一博
- 小錦も横綱になっていた場合、2強時代が続いていた。
- 仮に2人が横綱昇進できたとしても年齢的に曙,貴花田ら新世代の勢いを食い止めるのは困難だっただろう。
- 小錦が大関止まりだった場合、貴重な1人横綱として重宝された。
- 「勝ノ浦」株は借りなかった。
- 錣山も。
- 大関3年特権制度の導入が遅れていた。
- 四代目西ノ海嘉治郎襲名。
琴稲妻佳弘
- 頭髪の部分だけで「平成の栃木山」や「栃木山の再来」などと言われていた。
- ブラマヨ小杉の琴稲妻ネタで小杉が「琴稲妻ってハゲて引退した力士やないかコラ!」とわざわざつっこまなくてもみんな意味が分かりもっと笑いがとれていた。
- ブラマヨのネタとして世の中に定着した可能性も
- 琴櫻を襲名していた可能性も
- 結局,娘婿の琴ノ若が部屋は継承するので,独立し粂川部屋を設立していただろう。
琴欧洲勝紀
- 初のヨーロッパ出身横綱が誕生していた。
- 明治ブルガリアヨーグルトがバカ売れ。
- 母国ブルガリアでは日本でいうところの「人間国宝」扱い。
- それでも白鵬には対抗できず、もし63連勝辺りの時期に東西横綱で並んでいたら比較されて苦しんだだろう。
琴風豪規
- ヒザの悪化で短命に終わってしまうだろう。
- 土俵入りは不知火型で行う。
- 1984年秋場所千秋楽の対戦相手が小錦でなかったかもしれない。
琴光喜啓司
- 日大から二人目の横綱になった。
- 御当所の名古屋場所での応援はもっとすごいものになった。
- 野球賭博で解雇されたため、横綱としては最も不名誉な形で相撲界を去ることになる。
小錦八十吉(六代目)
- 曙・武蔵丸と並び称えられていた。
- 今でも十分並び称えられてると思いますが…
- 史上最重量級の横綱と言われていた。
- 相撲協会に残り、高砂浦五郎を襲名していた。
- 21世紀になってもハワイ出身の関取が出続けていた。
- 「初の外国人横綱」は曙ではなく小錦になっていた。
- 北勝海の引退から曙の横綱昇進までの横綱不在はなかった。
- もっとも、北勝海引退直前の1992年3月場所では横綱昇進の可能性があったはずなので。
- 旭富士や北勝海の引退土俵入りで太刀持ちを務める。
- 「小錦が横綱になれないのは人種差別のせいだ」という迷言は生まれなかった。
- 1993年以降も成績は降下せず、曙と貴乃花の壁になっていた。
- 横綱になれたところで若い曙や貴乃花と張り合える力はもうなくて短命で終わっていたと思う。
- 小錦をハワイでスカウトした高見山が横綱昇進伝達式の使者として派遣されたかもしれない。
- 高見山はお祝いの言葉を掛け、握手を交わした。
- 明治時代に小錦八十吉(初代)が横綱になっているので、歴代横綱一覧では二人の「小錦八十吉」が登場していた。
- 横綱昇進後に問題を起こしていた場合は外国人横綱に対するイメージが悪化していた。
- 横綱昇進条件への「日本国籍を有すること」の追加が真剣に検討された恐れあり。
さ行
蔵玉錦敏正
- 四股名だけで「ザ・玉錦」「玉錦の再来」と言われていた。
- または「柏戸」を襲名。
- 千代の富士と戦後初の別部屋同期生横綱になった。
- 引退後は鏡山部屋を継承し、借り株で綱渡りを繰り返すことはなかった。
逆鉾伸重
- 寺尾とともに横綱昇進を果たしていた場合、史上初の兄弟横綱となっていた。
- ひょっとしたら「西ノ海」を襲名していたかもしれない。
- 引退時期が早まった。
- 実父の鶴ヶ嶺が霧島に部屋を継がせようと考えることもなかった。
- 弟子の鶴竜が横綱に昇進した時、土俵入りを指導した。
清水川元吉
- 角界復帰のエピソードがもっと有名になったはず。
- 追手風部屋が立浪部屋に吸収されることもなかった。
- 自身の停年後は間垣(清水川明於)が継承。
たな行
貴ノ浪貞博
- 若乃花より先に昇進していたら、一つの部屋に横綱3人もいらないとして若乃花の昇進が見送られる。
- それでもやっぱり兄弟横綱っていう話題性に負けて若乃花も昇進させたと思う。
- 個人別総当たり制の導入が真剣に検討される。
- 「貴乃浪」に改名していた。
- 若乃花より先に昇進していた場合,若乃花昇進時点での大関が武蔵丸1人になり,史実通り翌年武蔵丸が横綱昇進した場合その時点での大関は千代大海1人になり5横綱1大関という何ともバランスの悪い番付になっていた。
- 1999年1月に曙の引退届が受理されていたか、若乃花が秋場所で負け越した直後に引退した可能性がある。
- 元横綱ならさすがに独立して音羽山部屋を設立したかもしれない。
- 心臓疾患で生死の境をさまよったから、健康上の理由で部屋経営はやらないと思う。
- 史実では平成11年に大関から陥落しているので11年か翌年の12年くらいには引退を余儀なくされたと思う。
- 大関陥落後平幕に落ちて武蔵丸に勝ち、金星を得たが、金星ゼロのまま引退する。
- 土俵入りの型は不知火型を選択するだろう。若乃花は雲竜型で土俵入りを行なう。
- あの当時でも賛否両論あった独特の取り口が現在ではもっと評価されているのではないかと思う。
- 現役力士にも関わらず物言いをつけたことが史実以上に語り継がれている。
貴ノ花利彰
- 歴代横綱の中でもトップクラスの人気を誇っていた。
- 次男よりも先に「貴乃花」を名乗っていただろう。
- それよりも「若乃花」を襲名していた気がする。
- 史実の二代目若乃花は「若三杉」のままだった。
- 史実で4場所だけ「貴乃花」に改名していたことがあります。
- 自動的に二子山部屋の後継者になるので、二代目若乃花の師匠の娘との政略結婚、離婚はなかった。
- 藤島部屋も創設されず、三杉里が貴花田の天敵となることもなかった。
- のちに史上初の親子横綱が実現していた。
- 「貴輪時代」の呼称がさらに定着している。
高見盛精彦
- 朝青龍以上の人気横綱になったかも。
- 「気合入れ」を真似る他の力士が現れたかも。
- 懸賞の本数がさらに多くなっていた。
- 「一番につき50本まで」の制限は2006年より前に設けられた。
- 元横綱が潮丸の部屋の部屋付き親方ではさすがに違和感ありまくりなので東関部屋を継承したかも
- 「気合入れ」が横綱の品格にふさわしいのかと横綱審議委員会で問題になる。
- 現役時代に結婚できていたかもしれない。
高見山大五郎
- 貴ノ花とともに横綱昇進を果たしていた場合、千秋楽結びの一番は常に大歓声に包まれていた。
- 後の「曙 vs 若貴」は史実以上に大盛り上がり。
- 「初の外国人横綱」の称号は高見山に与えられていた。
- 史実より早く帰化したかも。
千代大海龍二
- 朝青龍の強力なライバルになっていた。
- 2010年初場所を以て、引退してしまいました…
- 横綱になれたとしてもその後の成績を見る限り朝青龍のライバルっていうほどの存在にはなれなかったと思う。
- 晩年は怪我や体調不良,力の衰えなどで思うような結果を残せず,かといって唯一の日本人横綱として引退も決断しにくく休場や途中休場を繰り返し苦しんだと思う。
- 唯一の日本人横綱としてとても重宝されただろう。
- 双葉山以来の大分県出身横綱になっていた。
出島武春
- 輪島以来の本名が四股名の横綱になるか、横綱昇進を機に改名をさせられることになる。
- 「色白の横綱」と呼ばれる。
- 取り口的にあまり安定した成績は残せなかったかもしれない。
- 史実では大関に陥落した2001年頃には若くして引退に追い込まれていた。
- 武双山ではなく出島が部屋の後継者になった可能性も。
- 武蔵川部屋が藤島部屋でなく「大鳴戸部屋」になっていたかもしれない。
- 中央大から初の横綱になった。
寺尾常史
- 逆鉾とともに横綱昇進を果たしていた場合、史上初の兄弟横綱となっていた。
- そのルックスから、女性人気No.1の横綱となっていた。
- 意外と引退が史実より早かったかもしれない。(史実では2002年に引退)
- おそらく「源氏山」への再改名があった。
- 某ゲームソフトの売り上げが伸びる。
- 通算最多敗は記録していない。
栃東大裕
- ただ一人の日本人横綱として重んじられた。
- 技巧派の横綱とされた。
栃乃若導大
- この人たちが大喜び。
- 「日本出身横綱」と報道するマスコミは間違いなくある。
豊國福馬
- 時津風部屋の豊國は違う四股名を名乗っていた。
- 「豊ノ海」とか「豊ノ島」だったりして。
- あるいは自身が廃業せずに井筒部屋を継ぎ、彼を入門させた。
- 逆に「小野川」時代に昇進していたら四股名に関する揉め事は起きなかった。
は行
把瑠都凱斗
- ヨーロッパ初の横綱として、祖国では英雄視される。
- 日本でのエストニアの知名度増強にも貢献できた。
- 怪我で大関から落ち、さらに十両まで落ちて早く引退することはなかった。
- 土俵入りの指導は北の湖理事長が行うだろう。
- 明るい気さくなキャラクター故に世間や横審の求めるいわゆる「横綱像」とは異なる部分があったので誤解されやすく失言や品格問題などで世間から叩かれまくったかもしれない。
北天佑勝彦
- 名実ともに「双葉山を超える存在」と称されていた。
- 大関在位44場所という結果にはなっていない。
- おそらく44場所のうち30場所位が横綱在位期間となっていた。
- やはり千代の富士単独時代はなかった。
- 才能を見事開花させ横綱昇進した場合は間違いなくそうなりますよね
- 実弟のかわいがり被害がより問題視される。
不動岩三男
- 確かな記録のある力士における最高身長の横綱になっていた。
ま行
舞の海秀平
- 技巧派横綱の代表格となっていた。
- 引退後即協会を離れることはなかった。
- 出羽海部屋を継承していた可能性もある
- 解説の際に史実ほどアナウンサーに嫌味を言われたり発言に対して冷淡な態度をとられることもなかった。
- 朝青龍に「顔じゃないよ」とか「おう,秀平」とか言われることもなかった。
- トリッキーな取り口をしばしば横審に問題視された。
増位山太志郎
- 「相撲は横綱、歌も横綱」と言われた。
- しかし横綱が歌いまくるのを世間が許したか?
- そして後年「師匠は横綱、弟子は学生横綱」という言い回しが流行るのですね。分かり増す。
- 幕内勝率が5割未満と歴代横綱の中では最低のものになった。
増健亘志
- 某巨大掲示板でいじられまくりになる。
- 史実でも十二分にいじられてい増すが・・・
- 「史上最弱の横綱」と揶揄される。
- 綱を腰に締めるのではなく首からぶら下げた。
- 三保ヶ関部屋が閉鎖されることはなかったはず。
- 一代年寄「増健」として後進の指導にあたり、2035年頃には「増健理事長」になっていたであろう。
- パチスロ「闘神雷電花田勝」の後継機として、「日下開山増健亘志」が発売される。
- 横綱土俵入りは、従来の型にとらわれない「増健型」。無気力にひざをつく所作で、場内が大いに湧く。
- 番付が落ちないのをいいことに、パチスロを打ちたい時は休場する。
- パチンコチェーン「ジャパンニューアルファ」は、日馬富士ではなく増健のタニマチになっていた。
丸山孝彦
- 下の名を第3代と同じ「権太左衛門」に改めた。
- 福岡の京都がより有名に
- 幕内の公傷適用第一号にならなかったかもしれない。
水戸泉政人
- 膝の故障さえなければ…。
- 結びの一番で常に大量の塩が飛び交っていた。
- 少なくとも、結婚はしていたかと。
- 引退後は当初の予定通り高砂部屋を継承。よって若松部屋との合併はなかった。
- 少なくとも横綱不在期間はなかった。
- 若手時代の曙、若貴の壁になった可能性も
雅山哲士
- 若い頃の勢いで大関から横綱に昇進していた場合、その後の失速を見る限り25歳くらいで引退に追い込まれていた。
- 当然、大関陥落後の相撲人生はなく世間の雅山という力士の印象がいつまでも「21世紀最初のお荷物」であり、史実の印象とは全く異なるものになっていた。
- もしかすると相撲協会にも残らなかったかもしれない。
- 廃業や死亡等を除くと横綱の最年少引退になっていた。
- 横綱昇進当時は恐らく次世代の大横綱として期待された。
- 大関陥落後に再び這い上がり横綱昇進を果たした場合は魁傑を凌ぐ奇跡のカムバック劇として語り継がれた。
武双山正士
- 一つの部屋に横綱2人と大関2人いるという状況になっていた。
- 武双山が横綱になったことでライバルの魁皇も刺激を受け横綱になったかもしれない。
- 引退時期が少し早まった。
- 貴乃花の長期休場期間中、武蔵丸が一人横綱として無理をして左手を悪化させることもなく、もう少し現役が長く続いていたかもしれない。
- 公傷認定を巡る議論が紛糾しなかった。
やらわ行
豊山勝男
- 学生出身の横綱第一号になっていた。
- 優勝なしで引退すれば昇進させたことが問題視される。
- 優勝なしのまま廃業した双羽黒がそれほど批判されない。
- 長浜の十両昇進を待たずに結婚したかも。
- 鏡里が時津風部屋を継ぐことはなかった。
若嶋津六夫
- 史実より早く引退している。
- 高卒で入門する力士がもっと早い段階から増えていた。
- 結婚前後から衰えたため高田みづえは「さげまん」と陰口をたたかれる。
- 師匠の初代若乃花は横綱を3人育てたことになった。
- 1986年の時点で横綱になっているか引退しているため、北尾(双羽黒)を無理して横綱に上げることはなかった。