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#*後者の場合、2009年度は札幌テレビ・STVラジオの解説者に鞍替えしていた。
#*後者の場合、2009年度は札幌テレビ・STVラジオの解説者に鞍替えしていた。
#道新スポーツに連載コラム執筆もありえた。
#道新スポーツに連載コラム執筆もありえた。
===ヴィクトル・スタルヒン===
#現役引退から数年後、[[読売ジャイアンツ]]、または高橋ユニオンズのピッチングコーチに就任。
#*その後は[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]あたりの監督を務めていた。
#*あるいは[[阪神タイガース]]のコーチとして1962年・1964年の優勝に関わっている。(ともに監督は藤本定義)
#**「村山涙の退場」はなく、村山実を説得して下がらせたスタルヒンコーチが猛抗議して退場。意気に感じた村山は炎のパーフェクトピッチング。
#**トーマス・オマリーより遥か前に「ハンシンファンハ、イチバンヤー!」と叫んでスタンドを盛り上げていたかも。
#1960~70年代のON最盛期を解説者として盛り上げていた。
#*1980年代以降は一転、もっぱら巨人のフロントや補強方針に辛辣な批評を寄せていた。
#2000年頃まではご存命だったことでしょう。
#*共に彼の師である藤本定義氏、浜崎真二氏(両氏とも1981年没)の告別式で葬儀委員長を務めていたかもしれない。
#日本に帰化し、正式に「須田博」となっていた。
#*しかしソ連の崩壊後は、祖国[[ロシア]]に戻って野球を広める活動もしていたかも。
#**総監督としてロシア代表を率いてWBCにのり込んで来た可能性も。
#***予選は日・台・韓・露の対抗戦…。ファンが押し寄せること必至だね。
#当然だが、「旭川スタルヒン球場」は別の名前になっていた。
#*2009年4月の時点ですでに故人となっていた場合はその段階で命名されていた可能性も。
#**命名されてた場合、こけら落としのカードは巨人vs阪神。


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==関連項目==
*[[もしあの人が健在だったら/プロ野球団関係者]]
*[[もし沢村栄治が戦死せず、肩を壊してもいなかったら]]


[[Category:もしあの人が健在だったら|ふろやきゆう]]
[[Category:もしあの人が健在だったら|ふろやきゆう]]
[[Category:プロ野球|もしけんさい]]
[[Category:歴史のif検討委員会 日本プロ野球史|けんさい]]

2012年10月10日 (水) 21:54時点における版

あ行

板沢峰生

  1. 西武の黄金時代はもう少し早く来た。
  2. 2004年の伊東監督就任時に西武のコーチに就任。
    • そして、2007年シーズンオフに伊東の後任として西武の監督に就任していた。
      • その場合、(史実での後任である)渡辺久信は現在も西武のコーチのままだった。
  3. ひょっとしたら、ここここの解説者になってたかも。
  4. 1985年のキャンプイン直前に、田尾安志との交換トレードで中日ドラゴンズに移籍していた(史実では、大石友好と杉本正が中日に移籍)。
    • 1988年のリーグ優勝にも貢献していただろう。

稲尾和久

  1. 「今日感テレビ」のコメンテーターとマスターズリーグ・福岡ドンタクズの監督続行。
    • RKB毎日放送解説者としても健在。独特の視点と素人にもわかりやすい解説で「稲尾節」とアダ名され、ファン層拡大。
  2. 2008年の<ライオンズ・クラシック>で、西武ドーム福岡ドームで始球式やって大喝采浴びたはず。
  3. 幾度か、母校・県立別府緑ヶ丘高校(現在・県立芸術短期大学付属緑ヶ丘高校に校名変更の上大分市に移転)で講演していただろう。
  4. ライオンズの永久欠番は史実通りだろう。


仰木彬

  1. 体力が続く限りオリックス・バファローズの監督を続けている。
    • 中村監督の就任は2008年以降にずれている。
      • コリンズ監督の就任はなかったかもしれない。
      • ただ、仰木が2008年に監督に就いたとしても、実史通りの順位になったかは疑問である。
      • 後継は大石大二郎だろう。
    • 清原和博のオリックス入団会見に同席している。
      • でも結局、毎年「今年が正念場」と言いながらサボって働かない。
    • ひょっとしたらイチローの提案を受け入れ、背番号「51」をつけていたかもしれない。
    • 長谷川をヘッドコーチ、野茂を投手コーチ、田口を守備コーチに招聘。
    • 2008年5月21日に辞任したコリンズ監督の後任に急遽なる。
  2. WBC日本代表の監督も務めていたかもしれない。
    • 少年サンデーのMA○ORかよ!
  3. 北京五輪日本代表の監督も務めていたかもしれない。
    • もしかして2009年に開催されるWBCの監督も…。
  4. 最高齢退場記録は当然更新中。

大沢啓二

  1. 現在も「サンデーモーニング」の週刊御意見番に出演している。

大杉勝男

  1. 横浜大洋ホエールズが横浜ベイスターズに改名後も、しばらくは打撃コーチとして活躍。
  2. 後に、古巣の北海道日本ハムファイターズ(東映フライヤーズ)か東京ヤクルトスワローズの監督に就任。
    • 星野仙一や野村克也と因縁の対決を繰り広げていた。
    • 後者であれば永久欠番となった8番をつけていただろう。
    • ノムさんの後は後に史実通りになった若松さんか大杉さんかでフロントは迷っていた。
  3. プロ野球界から完全に引退していた場合、欽ちゃんとの関係で茨城ゴールデンゴールズのコーチをしているかも。
  4. セ・パ両リーグで200本塁打を無事達成していた。
    • さすがにそれはない。(引退は粛々と受け入れたと思う)
  5. 平成に入り、ドーム球場が次々と完成するのを見て「月に向かって打つ事はもうできないんだな」と嘆いていた。
  6. 実写版セーラームーンに特別出演
  7. サンデーモーニングで3人でを入れていた。
    • 現役引退後はフジサンケイ系と契約していたから難しいと思う。
      • なら、史実での関根潤三のポジションあたり。

小瀬浩之

  1. オリックス・阿部真宏⇔西武・赤田将吾のトレード話は存在しなかったかもしれない。
    • むしろ、小瀬自身がトレードに出されていた(2010年以降のシーズン成績にもよるが)。
  2. T-岡田は1軍出場に恵まれず戦力外になっていたかも。

か行

蔭山和夫

  1. 後のホークス暗黒時代は訪れ無かったかもしれず、身売り&福岡移転も無かったかもしれない。
    • いずれにしろ、ホークス史はガラリと変わっていただろう。
  2. 野村の監督就任が実史よりずっと遅れるので、サッチーがそこまで出しゃばらず事無く南海を追放される事もなかったかもしれない。
    • 野村克也は南海で現役生活を終えていた。しかし、選手兼監督になることはなかったので、江夏豊投手や柏原純一選手が南海に入団することはなかった。(実際、この2人は野村監督を慕って、南海入りしている)
    • したがって、古田敦也がヤクルトの選手兼監督になることもなかった。(古田自身は野村の影響を受けたと言っている)いや、それ以前に古田がヤクルト、強いては球界に入れていたかどうか、疑わしい。
    • 野村が監督にならなかった以上、ドン・ブレイザーがヘッドコーチになることもなかった。従って古葉竹織や島野育夫が指導者として球史に名を残すことはなかっただろう。(野村はブレイザーのヘッドコーチ就任を監督を引き受ける条件としていた。そして古葉、島野はブレイザーの「シンキング・ベースボール」の影響を受けている)
  3. 鶴岡一人はサンケイアトムズか東京オリオンズの監督に就任。
    • 東京の監督になっていた場合、下手したら蔭山南海、西本阪急との間で史実の1988年・89年のような熾烈な優勝争いが起きていたいたかも。
      • 永田ラッパと鶴岡親分は喧嘩別れに終わり、ほぼ史実どおりでロッテの経営権移譲と東京球場の終焉につながる
    • サンケイの監督に就任した場合は、軸になる選手がいないので2,3年采配を振るも浮上のきっかけをつかめず、とうぜん巨人のリーグ制覇は阻止できずお払い箱となる。
  4. 監督辞任後は、野球評論家として活躍。
    • 『プロ野球ニュース』にも出演。

加藤斌

  1. 作新学院時代チーム内のライバルだった八木沢荘六よりプロ時代の実績を残した。
  2. ドラゴンズで下手投げの投手と問われ、小川健太郎でも三沢淳でもなく彼だと返答するファンが多かった。
  3. もし中日で成績が芳しくなくなったら、ロッテオリオンズフライヤーズ→ファイターズあたりで投げていた
  4. 引退後は、東海ラジオのプロ野球解説者になってたかも。
  5. 交通事故から奇跡的に生還できた場合、ドキュメンタリー番組で取り上げられていた。
    • 交通事故防止を呼びかけるCMに自ら出演していただろう。
  6. 国政or栃木県知事選挙に最低1回は出馬していた。
    • 前者の場合、船田元と得票数を争っていたかも(どの党から出馬したかにもよるが)。
      • 仮に、民主党に所属していた場合、鳩山野田のいずれかの内閣で閣僚入りしていただろう。
  7. 2011年シーズンオフに落合博満氏の後任でドラゴンズの監督に就任していた。
    • その場合、高木守道氏の監督復帰はなかった。

加藤博一

  1. 今でも試合終盤の代打もしくは守備固め専門で出場してるかも。
  2. ここか湘南シーレックスの打撃コーチか守備走塁コーチ就任。
    • あるいは、ここの解説者のまま。ここから解説者就任のオファー来るかも。
  3. もし、ここの解説者のままなら、系列CS局の「フジテレビ739(現:TWO)」(2009年4月から「フジテレビONE」)の「プロ野球ニュース」にも登場し続けた。
  4. ニッポン放送「ショウアップナイター」にも解説者として出る可能性もありそう。

木村拓也

  1. それでも巨人は2010年シーズンのリーグ優勝は…微妙か?
    • 但し、CSの結果がどう変わっていたか…。その辺も未知数。
  2. 本人は2~3年ほど巨人のコーチとして在籍した後、古巣の広島に復帰。
    • 43~45歳くらいで広島の監督に就任したかも。

久保寺雄二

  1. 南海ホークスはもう少し強かった。
    • 少なくとも、ダイエーに身売りされる前後に最低一回はAクラス入りしていた。
  2. 福岡ダイエーホークスの初優勝を見届け引退。
    • スタンドの大「クボデラ」コールに包まれ宙を舞う。
  3. 湯上谷宏のレギュラー入りが遅れた。
    • 浜名千広の入団もなかった。
    • その後井口忠仁の入団で久保寺はセカンドに回った。
      • 井口がショート守ったら、久保寺はサードに戻る可能性無いかな?
  4. 引退後もホークスのコーチとして残り、2006年の王監督休養時には森脇の代わりに久保寺が監督代行を務めていた。
    • 仮に、野球解説者となった場合はMBSRKBあたりでやってたかも。
  5. 2000安打は間違いなく打ってたであろう。
    • 自ら持つ二塁打のリーグ記録更新もしてただろう。
      • 最多二塁打の日本記録作って「ミスターツーベース」の称号を得ただろう。
  6. ひょっとしたら、ホークスが福岡に移転する前後に結婚してたかも。

黒沢俊夫

  1. 巨人の戦後黄金時代到来は少し早まっていた。
  2. ウォーリー与那嶺が来日することはなかった。
    • 通算ホームスチール数は、史実での生涯通算の10個はもちろん、与那嶺がマークした日本記録の11個も超えていたのでは。
    • 中日の球団史にも影響が出ていただろう。
  3. 当時は稀だった「生涯成績1000安打・100盗塁」に迫っていただろう。
  4. 巨人で現役を終えた場合、背番号「4」は普通に後輩選手に引き継がれた。
    • 「1」が南村侑広から王貞治、「3」が千葉茂から長嶋茂雄…誰が継いでただろうか。
    • 漫画「侍ジャイアンツ」の主人公・番場蛮は別の背番号を付けていた。
  5. 沢村栄治のエピソードは語り継がれるものの神格化はされず、背番号も永久欠番にならなかった。

小林繁

  1. 2011年シーズンは佑ちゃん専属のコーチ状態だったかも。
    • そこまではいかなくても、多大な影響を与えていたに違いない。
  2. 江川卓とのわだかまりは完全に決着していた。
    • 既に、黄桜のあのCMでケリついていたのでは?

さ行

杉浦忠

  1. 現在も野球解説者として活躍している
    • ここここで連載コラムを持ち、健筆振るってるかも。
  2. 毎日放送がTBSの株主の関係でサンデーモーニングにもゲストで度々出演できた可能性も
  3. 04年のプロ野球再編騒動では合併に走らなかったダイエーに対していくらか評価していた
  4. ホークスの監督に就任し、王貞治はジャイアンツのコーチか監督に復帰、又はホークスのヘッドコーチに就任したかも。

鈴木貴久

  1. 近鉄の合併消滅を目の当たりにして嘆いていただろう。
    • 合併知らずに亡くなったのはある意味幸せかもしれない。
  2. 梨田監督の下、日本ハムのコーチに就任していた。
    • 北海道出身ということもあり、2005年から就任していたかも。
  3. 2007年のシーズンオフに大西宏明がトレードには出されない。
    • 当然、古木克明のオリックス移籍もない。
    • もしかしたらオリックスのコーチになって再び大西を指導していたかも。
  4. TVOTVhの野球解説者になってたかも。
    • 後者の場合、2009年度は札幌テレビ・STVラジオの解説者に鞍替えしていた。
  5. 道新スポーツに連載コラム執筆もありえた。

ヴィクトル・スタルヒン

  1. 現役引退から数年後、読売ジャイアンツ、または高橋ユニオンズのピッチングコーチに就任。
    • その後はロッテオリオンズあたりの監督を務めていた。
    • あるいは阪神タイガースのコーチとして1962年・1964年の優勝に関わっている。(ともに監督は藤本定義)
      • 「村山涙の退場」はなく、村山実を説得して下がらせたスタルヒンコーチが猛抗議して退場。意気に感じた村山は炎のパーフェクトピッチング。
      • トーマス・オマリーより遥か前に「ハンシンファンハ、イチバンヤー!」と叫んでスタンドを盛り上げていたかも。
  2. 1960~70年代のON最盛期を解説者として盛り上げていた。
    • 1980年代以降は一転、もっぱら巨人のフロントや補強方針に辛辣な批評を寄せていた。
  3. 2000年頃まではご存命だったことでしょう。
    • 共に彼の師である藤本定義氏、浜崎真二氏(両氏とも1981年没)の告別式で葬儀委員長を務めていたかもしれない。
  4. 日本に帰化し、正式に「須田博」となっていた。
    • しかしソ連の崩壊後は、祖国ロシアに戻って野球を広める活動もしていたかも。
      • 総監督としてロシア代表を率いてWBCにのり込んで来た可能性も。
        • 予選は日・台・韓・露の対抗戦…。ファンが押し寄せること必至だね。
  5. 当然だが、「旭川スタルヒン球場」は別の名前になっていた。
    • 2009年4月の時点ですでに故人となっていた場合はその段階で命名されていた可能性も。
      • 命名されてた場合、こけら落としのカードは巨人vs阪神。

た行

高野光

  1. 2001年からマスターズリーグに入団していた。
  2. 楽天のコーチになっていた。
    • 大学の先輩である原辰徳に請われて巨人のコーチ…ってこともあったかも。
  3. ヤクルトの背番号34番は日本人が背負い続けている。
    • 09年から日本人が背負うことになったが。
  4. サンケイスポーツの評論家になっていただろう。

高畠導宏

  1. 60歳で教師を定年退職後、筑紫台高校野球部の監督に就任していた。
    • 非常勤講師として教壇にも立っていた。
      • 筑紫台高校参与の肩書きもあったから、そちらの仕事も忙しくこなしてた。
        • 高畠門下生の元プロ選手がコーチ就任するかも…って監督もコーチも元プロだったら凄まじい野球部になるじゃねーかw 監督からして元プロのコーチだしw
  2. NHKのドラマ『フルスイング』は製作されず、代わりにNHKスペシャルで何度もドキュメントとして取り上げられていた。
  3. 肩書きは参与だけど、生徒達には以前の先生扱いのまま。勿論大人気。卒業生からも大人気。
    • 「肩書きは参与ですがね。実際の半分は生徒たちの相談相手ですよ」なんて苦笑してるかも。

津田恒実

  1. 40代前半頃まで広島東洋カープの抑えとして現役を続けていた。
    • FA権公使で他球団に移籍することはなかっただろう。
    • ただ、カープの黄金時代の終わりと共に酷使されて引退は意外と早かったかもしれない。
      • しかし酷使される前に先発に再転向し、150勝150セーブを達成する可能性はあった。
    • 佐々木の前にメジャーいってるかも。
    • 大野と佐々岡は先発専門。よって二人とも100勝100セーブは達成していない。ただし二人揃って200勝を達成している可能性はある。
  2. 引退後は直ちにカープのピッチングコーチに就任。
    • またはNHKの野球解説者になり、大野豊などとともに解説を行っている。
      • 津田が大野より先に引退なら、津田が「NHKプロ野球」解説者に、大野が在広民放局(多分RCCかHTV)の解説者になっていた。逆に大野が津田より先に引退なら、大野が(現状の)「NHKプロ野球」解説者に、津田が在広民放局の解説者になっていた。
      • tssの解説者になっていたら、系列CS局の「フジテレビ739(現:TWO)」(2009年4月から「フジテレビONE」)の「プロ野球ニュース」にも週1回ペースで登場した。
  3. 2007年現在では監督に就任していたかもしれない。
    • コーチに森脇浩司を招聘し、ホークスの本塁憤死が減っていた。
    • 達川光男もバッテリーコーチとして復帰していたかもしれない。
  4. カープの暗黒時代突入が数年遅れていた。
  5. ドラマ「最後のストライク」は存在しなかった。
  6. 広島市民球場で始球式をやっていたかも…。
    • 実現してたら、ピッチャー:津田・キャッチャー:達川・バッター:ブラウン(現監督)かな?

な行

西沢道夫

  1. 現役時代の背番号だった15は、ドラゴンズの永久欠番にならなかった。
    • 1959年に決定しているのでそれはない
    • 現在は山井大介(現実では29)あたりがつけてたかも。

は行

パンチョ伊東

  1. 現在もフジテレビ「すぽると!」で解説者を務めている。
    • いや、こっちじゃねぇか?「すぽると!」に収まりきれる格の人じゃねぇもん。
  2. WBC優勝に、涙してたに違いない。
    • 2009年に連覇果たす瞬間は、渡米してナマで見てただろうなぁ。
  3. 「ドラフト会議」の司会を今でも務めていた。

藤井将雄

  1. 息の長い中継ぎ投手として現在もソフトバンクで活躍している。
  2. 若田部がFAでベイスターズに移籍せずにホークスで現役を終えていた。
  3. 藤井将雄野球大会は開催されなかった。
    • あったとすれば引退後になった。
  4. 徳光和夫の失言語録が一項目減っていた。
    • 「藤井が死んで巨人の日本一が一歩近づいた!」
    • 2000年の日本シリーズで藤井が登板するたびに「もうだめだ…」とガックリきていた。
  5. 2003年オフに小久保と一緒に巨人に放出されていた……かもしれない。
    • 理由の一つは1997年の出来事。ただ、本間みたいにそのまま残っていたとは思うが。
    • 2004年から中日の岡本との間で最優秀中継ぎ投手争いが勃発。
      • 勃発して欲しかったよ…。相当見応えある激しい争いになっただろうし…。
  6. 引退後背番号15は普通に後輩に受け継がれていた。
  7. KBCTNCの解説者になっていただろう.
    • 解説者になってなかったとしたらソフトバンクの投手コーチ(ブルペン担当)になってただろう。そしてソフトバンクリリーバー陣は堅固なものになってただろう。
  8. 工藤の2010年西武での背番号は55にならなかったかもしれない(55は自らの誕生日と、藤井の15を意識して選んだとコメントしている)。

藤田元司

  1. 2005年オフの堀内監督解任の後、3度目の巨人軍監督を務めた。
    • 70歳過ぎてるからもう無理かも。
    • 人心掌握と育成に優れ、守りを重視する戦術をとるから、今の原巨人より余程手強い。
      • 実際藤田巨人はしぶといし、手強かったし、アンチ巨人としては嫌なチームだったが、他チームから4番とエースあさることは無かった。
        • 佐々木信也氏「選手ってそんなにカワイイもんかい?」藤田氏(目尻下げながら)「カワイイなんてもんじゃないよ」藤田氏の人柄。
    • 長島茂雄監督(現:終身名誉監督)勇退後の次期監督になったかも。
      • 監督に就かなければ、今頃NHKプロ野球の解説者か…。
        • NHKとの契約が切れていた場合、大学時代の同級生・佐々木信也氏に請われてこの番組に出演する可能性があるかも。

ま行

宮田征典

  1. 2006年末まで『ズームインサタデー』の野球解説を担当し、2007年に野球界に復帰。
    • もし中日に復帰していたら、川上憲伸の大リーグ移籍はなかった。
  2. 2008年度より、昨年度Bクラスに終わった西武ライオンズの立て直し役として監督に就任。
  3. 中京テレビ「スポスタ」の評論家グラサン座談会に出演、史実で川又米利相手にでかい口を叩いている川藤幸三も大人しくなっていた。

村山実

  1. 巨人の長嶋茂雄終身名誉監督に対抗して、阪神タイガースの終身名誉監督に就任。

関連項目