ページ「もしあの鉄道路線のルートが○○だったら/私鉄」と「もしあの鉄道車両が実用化されていたら/国鉄」の間の差分

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{{Pathnav|もしあの鉄道路線のルートが○○だったら|name=私鉄}}
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{{Pathnav|もしあの鉄道車両が実用化されていたら|name=国鉄}}
==独立項目==
製造・改造に至らなかった車両がもし、実用化していたら?
*[[もし京浜急行電鉄が○○だったら#桜木町経由だったら|もし京浜急行電鉄が桜木町経由だったら]][[もし京浜急行電鉄が○○だったら#久里浜線が浦賀経由だったら|/久里浜線が浦賀経由だったら]]
*乱立防止の為、記載は実際に元ネタがあるものに限ります。
*[[もし東武鉄道が○○だったら#日光線が佐野経由だったら|もし東武鉄道日光線が佐野経由だったら]]
**項目内にそれに関する文章を書いていただければ幸いです。
*[[もし京阪本線が○○だったら#全線が京街道沿いに建設されていたら|もし京阪本線全線が京街道沿いに建設されていたら]]
*新規追加は「形式が若い順→形式不明(50音)」の順にお願いします。
*[[もし京阪中之島線が○○だったら#梅田経由で建設されていたら|もし京阪中之島線が梅田経由で建設されていたら]]
*便宜上、実際に導入された形式の改造車についてもこちらで扱います。
*[[もし阪急神戸線が○○だったら#伊丹経由だったら|もし阪急神戸線が伊丹経由だったら]]
*[[もしも借箱/鉄道#鉄道のルート]]


==大手私鉄==
;関連項目
===東急電鉄===
*[[勝手に鉄道車両開発/JR]] - 根も葉もない鉄道車両を作りたければこちらへ。
====大井町線====
*[[もしあの鉄道車両が実用化されていたら/JR]] - 民営化後に導入が検討されていた物はこちらへ。
;品川が起点だったら
*[[もしあの鉄道車両が更に増備されていたら/JR]] - 実際に導入された車両はこちらへ。
#路線名は勿論「品川線」になる。
#田園都市線からの移動は史実より進んでいた。
#急行運転開始はもう少し早かったかもしれない。
#休日の大井町線と田園都市線の直通急行はお台場アクセスではなく新幹線アクセスが目的になる。
#*平日も走る。


====池上線====
==電車==
;品川が起点だったら
===新幹線===
#高輪に東急百貨店が出来ていた。
====個室ひかり====
#五反田から品川まで高架になっていた。
夜行新幹線用として企画されたが、実現しなかった。
#車両の長さが20mになっていた。
#961形をベースに登場。
#*もしかしたらこっちが「100系」を名乗っていたか。
#いずれにしても国鉄分割民営化後、[[のぞみ]]登場と同時に消滅。
#東北・上越新幹線にも同等の設備を有する車両が投入された。
#*「スーパーやまびこ」中心の運用に使われる。
#最後はこだま用として山陽新幹線で生涯を終えていた。
#*もしくは「ウエストひかり」を中心に運行していたかもしれない。


;国道1号線沿いだったら
===在来線特急用===
*当初池上電気鉄道は雪谷から国分寺への路線も計画していたが、もし最初から五反田から池上を通って蒲田を結ぶ計画だったらと仮定。
====187系電車====
#五反田~蒲田はほぼ最短距離で結ばれ、山手線と京浜東北線を乗り継ぐより早くついた。
碓氷峠(横川-軽井沢間)を補機なしで自走できる特急形電車が計画されていましたが、実現しませんでした。もし、実現していたら?
#*当然経路探索でも五反田~蒲田は池上線経由がトップで出てくる。
#量産車は新車として導入された。
#都営浅草線の五反田~西馬込とほぼ同じルートだった。
#*試作車だけ他車と異なるので阪神8000系第1編成のように珍車扱いされ、注目されていた。
#*駅は都営浅草線より以下のように多く設置されただろう(実際にはない駅は仮称)。
#187系をベースにした一般形電車も製作された。
#**五反田-大崎広小路-戸越銀座-戸越三丁目-中延-荏原町(大井町線荏原町付近)-馬込-西馬込(都営浅草線の駅より北、今の立正高校付近)-南馬込-池上(史実の池上駅より北、池上本門寺付近)-南池上(史実の池上駅)-蓮沼-蒲田
#*107系に似た車両になっていた。
#急行運転はないだろうが、20m車両化や5両編成くらいに増強されていただろう。
#**165系ベースでしょう。
#大井町線急行は中延に停車し、中延を2面4線の待避駅にしていた。
#EF63形は史実より早く余剰廃車になっていた。
#*ただそれだと待避駅が路線の大井町寄りにかなり偏ってしまうが。
#横川-軽井沢間が廃止されることはなかった。
#**上野毛に下りにも待避線を設置していたか。
#サロ183形がサロ110形300番代に改造されることはなかった。
#都営浅草線の泉岳寺~西馬込は建設されなかった。
#*サロ110形0番代が分割民営化後も多く生き残っていた。
#*ただしそれだと車庫がないので、代わりに[[#浅草線|都営浅草線]]が中原街道沿いに雪谷地区に延長し、雪が谷大塚に車庫を作っていた。
#**153系の生き残りとして注目されていた。
#*池上線の車庫は西馬込にできる。
#北陸新幹線開業後は「あずさ」に転用されていた。
#東急バスの川01系統もなかった。
#*E257系は製作されなかった。
#もしかしたら起点は目黒になっていたかも(当初は目黒の予定だったのが目蒲電鉄とターミナル駅がかぶるために五反田に変更したが、この経路だと目黒~蒲田は目蒲電鉄より確実に早い)。
#*房総特急で活躍しているかも。
#*その場合目黒-西五反田-戸越銀座-上記のルート、になっていた。
#*史実通り製造された場合、新型NEXと似た感じの車両になり、E257と259の形式があべこべになる。
#**妙高、ムーンライト信州は187系で運行。
#***日光、きぬがわは187系が種車だった可能性も。
<!--#****能登とあいづは史実では485系を使用していたし187系は直流専用だからあり得ないのでは?-->
#**183系のように波動用で活躍。
#**むしろキハ183系500番台に似た車両になっていた。
#勢い余って487系もできる。
#*ただし、国鉄がそこまで赤字でなかった場合。
#*「白山」に投入されていた。
#**「白山」廃止後は「能登」に転用。
#***「能登」は上越線経由にならなかった。
#189系は電化されたばかりの北近畿地区に転用されていた。
#*183系485系改造車はなかった。
#**七尾線電化後も普通列車は気動車のままだった。
#***七尾線には521系が新製投入されていた。
#平坦区間でも電気を無駄食いするため、「扱いにくい」車両になっていた。
#*このため他に転用する際一部車両が電装解除されていた。
#*結局EF200の二の舞になり、早期淘汰の対象に。
#**EF63の余剰廃車が早かっただけでは?


;荏原町・上池台経由だったら
====福知山・山陰本線用381系====
*当初は荏原町・上池台を経由する計画でしたが[[ベタな鉄道忌避伝説の法則|住民の反対]]により迂回することになりました。
福知山・山陰本線の特急「北近畿(現・こうのとり)」には381系新造車を投入する計画がありましたが結局は他から485系が転用されました。
#池上線の路線距離は2キロほど短縮されていた。
#381系は国鉄分割民営化直前の1980年代中盤まで製造されていた。
#*そのため五反田~蒲田を乗り通す人も増えていた。
#振り子式車両なので「北近畿」の所要時間は短縮されていた。
#現在の駅は五反田-大崎広小路-戸越銀座-荏原中延-荏原町-夫婦坂-上池台(横須賀線との交差地点)-仲池上-池上本門寺-池上-蓮沼-蒲田、になっていた。
#それでも山陰本線京都口電化開業時の「はしだて」「きのさき」「たんば」用には北陸本線から485系が転用されていた。
#車庫は上池台付近にできていた。
#287系が初めて投入されたのは[[紀勢本線]]の「くろしお」だった。
#大井町線急行は荏原町に停車し、荏原町を2面4線の待避駅にしていた。
#*現実と異なり振り子式になっていたかも。
#横須賀線は西大井ではなく[[もしあの駅が開業したら#大田区内新駅(横須賀線)|上池台]]に駅を作っていた。
#福知山線用の増備車の座席は簡易リクライニングシートではなく、100系新幹線などと同様の背面テーブル付き新型リクライニングシートとなっていた。
#*史実の御嶽山に駅がないことを考えると、案外池上線との接続を避けるためにそのまま西大井になってたかもしれない。


;終点が大森だったら
====交直流対応振子式特急車両====
*計画当時は大森が終点の予定でした
591系として開発が進んでましたが、投入予定路線である東北本線に平行して東北新幹線を建設することが決まったため各地を転々とし、結局は381系として製造されました。
#大森は「単独駅の乗降客数最多の駅」にはならなかった。
#東北新幹線が開業する前までは「ひばり」に先行投入されていた。
#大森は大井町、蒲田より乗降客数が多かった。
#*その後北陸や九州に転用。
#東急多摩川線は「蒲田線」を名乗っていた。
#485系の量産数が減っていた。
#*蒲田線は池上線と線路がつながらないため、車庫は今でも奥沢を使っていた。
<!--
#旗の台に大井町線との連絡線が設けられ、他の東急線とつながっていた。
====783系====
#五反田~大森は五反田~蒲田より遠回りになるため乗り通す人は史実の以上に少ない。
国鉄末期に、九州向けの特急形交流電車の開発計画があったが、民営化により時間切れになったため、JR化後に783系として登場することになった。もし、国鉄時代に開発が終了して投入されていたら?-->
#*「新宿~池袋間を丸ノ内線」とともに関東の変人ルートになっていた。


====田園都市線====
===急行・近郊用===
;南林間が終点だったら
====モハ70系====
#小田急線の快速急行は南林間に停車し、中央林間には今でも各駅停車しか停まらなかった。
湘南電車投入計画の一つに「63系を3扉にしたようなロングシートの車両にする」案があったそうです
#東武線内でよく見る行き先も「南林間」になっていた。
*なお、ここで述べるモハ70系は史実とは別の車両です。
#主要駅なのに「南」がつくのはおかしいから別の駅名に改称されていたかもしれない。
#後継の111系などの近郊型電車もオールロングシートになっていたかもしれない。
#*それでも地方線区に転用されるときはセミクロスシートに改造されていた可能性も。
#185系・117系の登場が早まったか。


====世田谷線====
====113系1000番台初期車の総武快速・横須賀地下線乗り入れ====
;経堂を通り桜上水を終点としていたら
113系1000番台は総武快速・横須賀地下線への乗り入れを視野に入れて製造されましたが、初期車は地下線に乗り入れることはなく、早いうちに他線へ転用されました。
#世田谷線の乗客は実際より多かった。
#さすがにATC設置改造くらいはされている。
#経堂には小田急線の急行が史実より早く停車していた。
#その分、0番台が史実より多く製造されていた。
#*千代田線開業とともにホームが10両に延長され、千代田線直通の準急は最初から停車していた。
#更新時期が早まるので211系・213系総武快速・横須賀線用の登場が実現していた。
#下高井戸には京王線の各駅停車しか停まらなかった。
#クハ111-1310が阪和線に転出することなく、阪和色の113系1000番台は存在しなかった。
#*2001年の八幡山・仙川の快速停車の際にも快速停車駅にはならなかっただろう。
#*湘南色の113系1000番台も国鉄時代には存在していなかった。
#千歳烏山の他に桜上水も特急・準特急停車駅の候補にあがるが結局実現しなかった。
#日大文理学部の辺りに駅が出来ていた。


===小田急電鉄===
====サロ115形====
====多摩線====
115系のグリーン車(1等車)として全自動ドア装備で検討された。
;当初の計画通りに建設されていたら
;東北・高崎線用新製車
*当初案では喜多見-稲城-多摩中央(現:多摩センター)-橋本(多摩中央-橋本間は京王よりも北側を経由)-城山と言うルートになる予定だったらしい。
#普通車より一足早く冷房化された。
#おそらく千代田線も喜多見止まりになっていた。
#15両化も早まっていた。
#*多摩線の列車は本線よりも千代田線への乗り入れを中心とした運用になっていた。
#サロ165-14がスカ色にならなかった。
#**本線の複々線化が計画されたかどうか怪しい。
#1973年の暴動がもっと大規模になっていた。
#新百合ヶ丘駅は開業しなかった。
#*だが事件後に急行型使用の普通列車グリーン車が自由開放されることはなかった。
#*ルートによっては読売ランド前駅が改称されていたかもしれない。
#211系1000・3000番台も最初からサロを組み込んで登場したため、サハ211の製造両数は少なかった。
#相模原市中心部への延伸構想はあくまでも市民の構想止まりになっていた。
;宇野線用改造車
#*史実のように唐木田に車庫が出来ていなかったら尚更そうなりそうな気がする。
四国連絡快速用にサロ113を改造しての投入が計画された。
#かなりの区間で京王と並行・近接して走るので、史実以上に競合関係が強まっていた可能性が高い。
#首都圏で113系グリーン車が不足し、特急・急行型からのサロ110への編入改造が史実より多く行われた。
#備讃ライナー→マリンライナーにもグリーン車がついている。


===東武鉄道===
====117系関東仕様====
====野田線====
急行「伊豆」の153系の置き換え用としてデッキのない転換クロスシート車両(=117系)が考えられていたが、居住性に問題があると判断され、さらに「伊豆」の特急格上げが決まったことにより結局は185系となった。
;浦和経由だったら
#特急「あまぎ」と急行「伊豆」の統合は遅れていた可能性が高い。統合は分割民営化後になった可能性も十分考えられる。
#ルートは恐らく「浦和-駒場-三室-七里(別の場所)-岩槻」になっていただろう。
#*「谷川」「草津」「あかぎ」「なすの」の特急格上げも遅れた。下手すりゃ「なすの」は廃止まで急行だった。
#今でも旧浦和市に東武バスが走っていた。
#**逆に快速に格下げされた可能性も。
#「新特急」と言う名称は存在しなかった。
#通勤形である事を生かして休日臨時快速→快速アクティーにも使われていた。
#*しかし2ドアのため遅延多発。211系に置き換えられていた。
#結局有料新快速扱いされるのは変わらない。


;鉄道博物館経由だったら
====123系クモユ143形改造車====
#結局大成駅ではなくこちらが北大宮駅になっていたかもしれない。
郵便輸送廃止で余剰となったクモユ143形を国鉄所有にして123系への改造も考えられていたが、実現しなかった。
#*後に、鉄道博物館駅に改名される。
#旧型国電は国鉄時代に全廃することが出来ていた。
#それでも史実通り、川越線・高崎線は当駅には止まらない。
#*しかし、車両不足からクモハ84形の登場は史実通りになるだろう。
#土呂駅は流石に経由しない。
#小野田線本山支線や鶴見線大川支線に投入されていた。
#冷房装置は郵便車時代のものを再利用していた。


====東上線====
====153系寝台電車====
;熊谷経由だったら
夜行寝台急行列車の電車化が計画され、本系列を寝台車電車に改造・投入するものであった。
#戦前には東武熊谷線と直通運転を開始していた。
#急行銀河の廃止が数年伸びていた。
#*東武熊谷線自体が東武東上線になっている可能性もありそう。その場合太田駅まで延長する。
#急行きたぐに(大阪ー青森)の車両にも使われていたかもしれない。
#*153系は直流専用だから無理があるのでは?
#**[[国鉄457系電車|451~475系]]ベースの交直両用版が開発される。
#581系は誕生しなかった。
#国鉄末期に通勤格下げ車両が出現していたりして。
#「ちくま」が客車に戻されることはなかった。


;川越~東松山が最短ルートだったら
====163系電車====
*当初の計画では川越~東松山はほぼ最短コースで小坂(旧名細村)を経由する予定でしたが、坂戸町からの誘致があったため迂回するルートになりました。
付随車のみ存在したが、当初は153系の出力アップ型として165系と同時期に暖地向けに導入が検討されていたようだ。(ただし抑速ブレーキはなし。)もしこれが実用化されていたら…、
#名細村は川越市ではなく坂戸町と合併していた。
#結局、新幹線の延伸や特急運転区間の拡大で余剰となり、113系増備のための種車となってしまう。
#*市名は「小坂市」?
#*113系1500番台や2000番台はこの車両のハコ替えだった。
#川越~東松山の所要時間は短縮されていた。
#あるいは大阪地区の新快速は153系が撤退した後、この車両を部分改造して充当される。
#川越~東松山の駅は川越-川越市-鯨井-小坂(坂戸市中小阪)-横沼(現在の坂戸IC付近)-赤尾-高坂-東松山、になっていた。
#いずれは車種統一のため抑速ブレーキ取り付け改造を行い165系に編入された。
#越生線は小坂から坂戸を経由して越生までの路線になっていた。
#*1975年の山陽新幹線博多開業時に改造され、165系200番台となる。また、捻出したCS12系制御器はその頃増備された113系新製冷房車に転用。
#県道61号線を通る川越~東松山の東武バスはなかった。
#*平坦地向けなので、東京~下田・修繕寺および房総急行に使用されていた.
#*代わりに川越~坂戸のバスが運転されている。
#*捻出した153系は、3ドア化・デッキ撤去のうえ、静岡・名古屋地区の普通電車に転用。
#*抑速付けられるのなら瀬野八も越えられるな!→「安芸」他に導入。


;終点が小前田だったら
==== 185系急行形電車 ====
*渋川まで延伸する当初の計画では小前田を経由する予定でした。
元々急行形電車として開発されましたが、投入予定だった急行伊豆が特急に格上げ(踊り子)されたため、本来の用途ではない特急形として運用されることになりました。もし、急行形として投入されていたら?
#「小前田」の知名度が上がっていた。
#国鉄末期の急行列車の統廃合で余剰化。
#*池袋で「小前田」行きを見ることができた。
#*波動用として重宝される。
#**いずれは10両化で小川町~寄居間のように分断されていた
#*ジョイフルトレインとして改造される車両も登場。
#一方で小川町の知名度が下がっていた。
#*「小川町」といえば都営新宿線の駅のイメージが強くなっていた。
#小前田には秩父鉄道の急行が停車していた。
#*武川か寄居は停車しなかった。
#**寄居には止まっていたと思う。ついでに現在でも小前田-寄居間で秩父鉄道への乗り入れが残っているかもしれない。
#八高線も小前田を経由していたかもしれない。
#花園町は深谷市と合併せず、寄居町などと合併して「花園市」になっていたかもしれない。


;川島町経由だったら
====211系・213系電車総武快速・横須賀線用====
#坂戸市と鶴ヶ島市に鉄道が通るのは東武越生線のみ。
国鉄時代、総武快速・横須賀線にも211系・213系電車を投入する計画がありましたが、実現しませんでした。もし、実現していたら?
#*それほど大きな駅になる事はになかっただろう。
#基本11両編成、付属4両編成になっていた。
#川島町はとっくに市制していた。
#111系は国鉄時代に形式消滅していた。
#非常に所要時間短縮されていた。
#*四国には史実より早く113系が配置されていた。
#西武新宿線を川島駅まで伸ばす計画を立つが、実現されていない。
#[[動労千葉]]の勢力は弱くなっていた。
#*弱くなるというか、元々弱いからこうなったわけで。
#E217系は製作されなかった。
#*今頃、E231系かE233系に置き換えられ、房総各線に転用されている。
#**東海道線と同時期にE233に置き換えが一番ありそう。
#**わざわざスカ色から変える必要性がないので菜の花色は存在しない可能性も。
#**209系は北関東か長野送り。
#213系は2ドア転換クロスシートというより1M方式という認識となっていた。
#*JR東海の211系6000番台は213系6000番台として登場していた。
#JR発足後には2階建てグリーン車が組み込まれていた。


===相模鉄道===
==== 211系関西地区用 ====
====本線====
京阪神の新快速用や福知山線電化用として投入する計画があったが、前者は117系のマイナーチェンジ車(100番台)が、後者は113系初期車を改造(800番台)して投入された。もし、関西地区にも211系が投入されていたら?
;綾瀬市内を通っていたら
#221系が開発されなかった。
#綾瀬市が神奈川県で唯一鉄道がない市になることはなかった。
#*現実の223系が221系を名乗っていた。新快速に3扉転換クロスシート車が投入されるのは阪神・淡路大震災後の輸送力増強が名目だった。
#綾瀬市役所の近くに綾瀬駅ができていた。
#**新快速用は117系と比べて見劣りがしたので後にこれに置き換えられていた。
#*千代田線・常磐緩行線の綾瀬駅は「武蔵綾瀬」か「足立綾瀬」になっていた。
#大和路線や阪和線にも投入されていた。
#終点は厚木か本厚木
#今頃は体質改善工事が行われ転換クロスシートに改造されている。
#相模線の海老名駅と厚木駅が史実と同じ位置にあれば、小田急の快速急行・急行は海老名ではなく厚木に停車していた。
#*むしろ製造当初から転換クロスシートになっていたのでは?
#厚木米軍基地がなかったらありえたかもしれない。
#**3ドア初の転換クロスシートといえば近鉄5200系ではなくこの車両のことを指していた。
#カラーリングは千葉地区用に似たものになっていた。
#1000番代をベースに製造され、1500番代に区分されていた。


====いずみ野線====
==== 211系広島地区用 ====
;長後が終点だったら
国鉄の財政難で話が消えたらしい
#小田急線の快速急行は長後に停車し、湘南台には今でも各駅停車しか停まらなかった。
#111系・115系に廃車が発生していた。
#横浜市営地下鉄も長後を終点にしていた。
#もしかしたら岡山地区に転属して213系と共通運用になっていた。
#227系導入で廃車になっていたかも。
#温暖な地域とはいえ、1000番台をベースに導入されていたと思われる。
#カラーリングは115系3000番台に倣い、青20号の帯を施していた。
#*415系1500番台と混同されていた。


===名古屋鉄道===
====413系電車475系改造車====
====名古屋本線====
413系電車は475系電車からの改造計画もありましたが、実現しませんでした。もし、413系電車が475系電車までも改造されていたら?
;栄町経由だったら
#471系・475系の延命工事はなかった。
#ルートはおそらく「金山→上前津→栄町→丸の内→則武→東枇杷島」になっていたか?
#521系は419系の置き換え分で製造が打ちきられていた。
#丸ノ内駅は別の名前になっていただろう。
#若い車体を活用して機器更新がされていた。
#並行するJRに対しては都心の栄に直通できることを売りにしていた。
#413系200番台になっていた。
#*特に現実ではJRに対して苦戦を強いられている岐阜・一宮方面から栄に向かう場合名鉄を選ぶ人が多くなっていた。
#*ちょうど博多ではなく天神に向かう西鉄天神大牟田線と同じような状況になっている。
#瀬戸線は1978年に栄町延伸を果たした時点で離れ小島を解消していた。
#犬山・常滑線なども栄に乗り入れていたかも。


===阪急電鉄===
====793系====
====京都本線====
サイリスタ位相制御+回生ブレーキ搭載の3扉交流電車
;全線JR京都線より北を通っていたら
#鹿児島本線博多地区か東北本線仙台地区に投入されていた。
大山崎~南方間はJR京都線より南を通っていますが、その区間も北を通っていたら?
#417系・713系はなかったかも。
#全体的に名神高速道路付近を通っていた。
#*府境はトンネルで超えており、さらに大阪府内にもいくつかトンネルがある。
#大山崎~高槻間はJR京都線のすぐ北隣を通っていた。
#大阪モノレールとは宇野辺駅で接続していた。
#阪急千里線との交点は豊津駅か関大前駅。
#地下鉄御堂筋線とは江坂駅で接続していた。


===阪神電気鉄道===
====4扉近郊電車====
====阪神なんば線====
1960年代に101系と同等の車体でオールクロスの車両が計画されていた。
;弁天町経由だったら
#首都圏の混雑が緩和されていた。
#伝法から国道43号沿いに進み、弁天町・大正・桜川を経由して大阪難波に向かっていた。
#*しかし上尾事件は史実どおり起こった。
#*千鳥橋・西九条・九条・ドーム前の各駅は存在しない。
#近郊形・通勤形車両の区分が曖昧化し、その後の形式は一般形と称するようになっていた。
#*駅間距離を考えると伝法~弁天町間に駅が開業していた可能性が高い。
#実史の近鉄2610系がそうだったように、クロスシートのシートピッチが狭すぎたため後年オールロングシートに改造されていた。
#**ここで桜島線と接続していた。
#九条を経由しなかったことから商店街の反対がないため、当初の予定通り昭和40年代に開業していた。
#大阪環状線と地下鉄中央線との接続は弁天町駅で行われていた。
#*弁天町のターミナルとしての拠点性が現実よりも高くなっていた。
#*[[日本交通]]のバスターミナルも廃止されなかった。


==地下鉄==
====三扉簡易寝台電車====
===東京地下鉄===
*平日は横須賀線の通勤用、休日は中央線登山客の仮眠用として使用される予定だったが、実用性に乏しいので却下された。
====日比谷線====
#上記内容を見るに塗装はスカ色で間違いないだろう。
;麻布十番経由だったら
#いずれ簡易寝台が邪魔になり、115系に編入改造される。
*計画では麻布十番を通る予定でしたが地元の反対により六本木経由に変更されました。もし麻布十番を通っていたら?
#中央東線・篠ノ井線の夜行普通列車はこの車両で電車化された。
#六本木は大江戸線開業まで鉄道がないところだった。
#六本木があまり発展しなかった。
#六本木と麻布十番の立場が入れ替わっていた。
#六本木ヒルズが麻布十番周辺にできて、「麻布ヒルズ」になっていたかもしれない。
#*テレビ朝日も麻布十番周辺にできていたかもしれない。
#日比谷線と南北線が麻布十番で乗り換えられていた。
#広尾駅は天現寺橋交差点あたりにできていた。
#*駅名は「天現寺橋」になっていたかもしれない。
#広尾~麻布十番の中間、古川橋あたりにも駅ができていたかもしれない。
#麻布十番~神谷町は直線で結ぶか、赤羽橋経由で今よりきついカーブができていた。
#都営バスの都06系統は過密路線にはならず、橋85系統のままで都市新バス化もされなかった。
#逆に都01系統は史実以上の過密路線になっていた。
#六本木の発展が史実並だった場合、渋谷~六本木を結ぶ地下鉄が緊急整備されていたかもしれない。


;終点が渋谷だったら
===通勤用===
#駅は渋谷-南青山-西麻布-六本木か。
====72系970番台武蔵野線用====
#東横線とは渋谷で直接乗り入れ。
武蔵野線用に投入が計画されていました。
#*昭和時代から東横線渋谷駅は地下だった。
#いずれ103系3000番台への編入改造が行われていた。
#[[もしあの路線の直通運転が行われていたら/関東#京王井の頭線・東京メトロ日比谷線|渋谷から京王井の頭線に乗り入れる計画もあった]]。
#101系1000番台は存在しなかった。
#東横線の特急・通勤特急は中目黒を通過し、埼京線・湘南新宿ラインも恵比寿を通過した。
#武蔵野線への205系の投入数はもう少し多かったかもしれない。
#渋谷~六本木の都営バスの都01系統は過密路線にならなかった。
#ナンバーがインフレ化し、6桁台に突入していた。
#*廃止されていたか、存在しても都市新バス化もされなかった。
#一方で広尾を経由する都06・品97・黒77・橋86系統の本数が増えていた。
#*都06系統が都市新バス第1号となって都01系統になり、品97系統が都市新バス化されて都06系統になっていた。


====千代田線====
====101系横須賀線用====
千代田線の当初計画では小田急の混雑緩和のために喜多見を終点としていましたが、小田急が複々線化で対応するとしたため代々木上原が終点になりました。
かつて横須賀線の逗子~久里浜間の輸送力の適正化と高頻度運転化の為、101系の投入が検討されていました。
#代々木上原以西は池ノ上~淡島~若林~世田谷~桜丘(東京農大前)~砧公園~成城南~喜多見 か?
#横須賀線は逗子で分断されていた。
#明治神宮前~喜多見で急行運転が行われる。
#国鉄末期からJR初期の間に103系への置き換えが行われていた。
#小田急線はもちろん、田園都市線の混雑も緩和される。
#*その後E217系の付属編成で置き換え。
#小田急の複々線化は喜多見~向ヶ丘遊園(あるいは新百合ヶ丘)のみになる。
#**場合によっては205系か209系が転用されていたかもしれない。
#やはり小田急に乗り入れるのだろうか?


====南北線====
====101系常磐快速線用====
;終点が品川だったら
中間加速度が劣る103系にかわり、赤羽線と京浜東北線から101系を転属させる話があったようだ
*もしも南北線が赤羽岩淵~駒込~後楽園~永田町~白金高輪~品川の路線だったら
#常磐緩行線の103系は常磐快速線に転用されなかった。
#品川から京急に乗り入れ
#*105系に改造される車両が増えていたかもしれない。
#*その場合、南北線、埼玉高速鉄道は標準軌で開通していた。
#常磐線快速電車の15両化が遅れていた。
#高輪台にも駅が出来ていた。
#*上記の緩行線103系を快速線に転用できなかったので。
#*E501系の製造量数が増えていたかも。


====副都心線====
====103系5扉車====
;有楽町線との重複区間が無かったら
103系の開発にあたって1両辺りのドアの数を5つとすることが検討されていたが、車両に冷房などない時代に窓面積が減少するのは厳しいとして没となった。
#路線は渋谷~新宿三丁目~池袋~光が丘~朝霞だった
#その後の通勤車両は5扉がデフォになっていた。
#池袋で西武直通が分岐、もしくは有楽町線への渡り線がここから出ていた。
#*サハ204は7扉になっていた。
#*各路線へのホームドアの設置が遅れていたかもしれない。
#冷房化が早まっていたかもしれない。
#[[京阪5000系電車|京阪5000系]]の影が薄くなっていた。
#*但し同系で初採用された座席昇降装置は現実よりも普及していたかも。


===都営地下鉄===
====103系1000番台筑肥線転用====
====三田線====
1980年代当時の鉄道雑誌に噂として書かれていたようです。
;起点が上板橋だったら
#転用にあたって塗装はブルー系に変更されていた。
*初期の計画では実際に上板橋が起点だったらしい。
#さすがに冷房改造は行われていただろう。
#高島平経由よりは遠回りにならないので、東武東上線との乗り入れには成功していた。
#*もし行われなかった場合、福岡市営の車両との格差はさらに大きくなっていた。
#一方で史実のルートも車庫用地の確保のため造られていた可能性が高い。
#これの置き換え用として303系の投入両数が増えていた。
#*但し浅草線の西馬込方面のように折り返し運用が主になっていた。
#*305系は登場しなかった。
#103系1500番台は登場しなかった代わり、奈良・和歌山線電化時には新造の105系0番台が投入されていた。


;終点が品川だったら
====仮称105系電車====
#西馬込で浅草線と車庫を兼用。
京阪神緩行線への投入が考えられていた駅間距離の長い線区向けの4扉通勤形電車。史実の105系とは異なる。もしこの車両が登場していたら…。
#*その場合、浅草線との交点~西馬込駅が三線軌条になっていた。
#103系は現実ほど製造両数が多くならなかった。
#*共用しているなら三田開業の時点でもうやっているだろうから史実通り車庫は別になると思う。
#101系のMT54搭載版という位置づけになっていた。
#東急との乗り入れはなし。
#*歯車比は1:5.60で、419系や715系と同じ走行音を立てていた。
#京急の泉岳寺-品川間を都営に移管しないと運賃計算が面倒な事になっていた。
#*付随車の形式は101系と共用するが、前面形状が103系と同時に変更される。
#史実の105系は「107系」になっていた。
#*こちらもMT54を搭載していた。
#**119系も。
#*史実の107系は「109系」
#常磐快速線にもこの車両が投入される。
#*中央快速線にも特別快速用としてこの車両が投入されていた。中央快速線向けは高尾以西への直通を考慮してパンタグラフ部分が低屋根(若しくはPS24形パンタ搭載)とされ、モハ104形800番台が製造されていた(?).
#**201系の初導入先は中央総武緩行線だった。
<!-- #**いいえ、201系の初導入先は史実通り中央快速線。  -->
#東武8000系は「私鉄の103系」ではなく「私鉄の105系」と呼ばれていた。因みに性能面では東武8000系は103系よりもむしろ仮称105系に近い。
#*いや103系でしょ。規模的に。
#その後321系により駆逐。環状線や広島地区に転属。
#*國鐵廣島では103系の中間車として活用される例も現れる。


====浅草線====
====105系(汎用電車)====
;五反田以西が中原街道沿いだったら
ロングシート・クロスシートの両方に転換可能なタイプの座席で計画されていたという。
*=[[#池上線|東急池上線が国道1号線沿いだったら]]
#ホリデー快速によく使用されていた。
#駅は今の東急池上線より少ない。
#首都圏中電のオールロング化が遅れていた。
#*五反田-西五反田(今の戸越銀座駅の西)-荏原中延(平塚橋交差点付近)-旗の台-石川-雪谷(今の雪が谷大塚駅付近)
#民営化後、ホームライナーに使用されるが、苦情が来たため数年で中止。
#車庫は雪谷にできる。
#近鉄L/Cカーは現実よりも早く登場していた。
#雪谷からさらに丸子橋、武蔵小杉まで延伸。
#*5200系は登場しなかったかもしれない。その場合[[JR西日本221系電車|JR西日本221系]]などにも影響を与えていた。
#*史実の西馬込から先の延伸計画よりは具体化している。
#首都圏の大手私鉄にも類似の車両が投入されていたかもしれない。
#**多分こちらでも東急の反発が邪魔すると思われるが。
#*その場合、首都圏でも平日昼間や休日は運賃だけでクロスシートに乗れるようになっていた。その結果国鉄→JRとの競争が有利になりJRのグリーン料金も安くなっていたかもしれない。
#*武蔵小杉まで延伸した結果今より乗客増
#*京急2000形はこのタイプの座席かつ3扉で登場していた。2100形は登場せず、二代目600形がこのタイプの座席で登場し増備されていた。
#**これだと[[#池上線|上]]と合わせて東急にとっても都営にとってもこのほうがメリットあるな。
#*東武6050系や西武4000系もこのタイプの座席かつ3扉で登場していた。


===横浜市営地下鉄===
====105系0番台飯田線用====
====ブルーライン====
飯田線豊橋口用に105系0番台を投入する計画があったが、実現しなかった。
;東神奈川経由だったら
#飯田線の普通列車に165系が転用されることはなかった。
#横浜~新横浜の駅が横浜-東神奈川-六角橋-岸根公園-新横浜、になっていた。
#*それでも119系の投入は史実通り。
#横浜市営バス39系統(横浜駅~中山駅)はなかった。
#しかし、トイレなし車両で長距離運用に不向きな車両であるため、結局は飯田線に165系が再配置され、静岡地区に転用される。
#横浜~新横浜間の輸送で横浜線より有利に立っていた。
#*ここでも他の近郊型と性能が合わないため、結局は211系に追われる形で御殿場線に転用される。
#三ツ沢球技場への輸送はバスに限定されていた。
#**よって、御殿場線に211系6000番代が投入されることはなかった。
#*119系と運用を交換してするがシャトルに転用していたかも?(なお165系再配置の理由は119系のするがシャトル転用)
#それでも2010年代には313系に置き換えられる。
#JR発足後は東海カラーに変更されていた。


;小机経由だったら
====105系0番台富山港線用====
#=[[もし新幹線が○○ではなく○○に通っていたら/東海道/新横浜#横浜線沿線|東海道新幹線新横浜駅が小机にあったら]]
富山港線に105系0番台を投入する計画があったが、実現しなかった。
#片倉町~仲町台の駅が片倉町-烏山町-小机-川向町-折本町-仲町台、になっていた。
#置き換え対象である72系と同じく青22号となっていた。
#*または横浜~仲町台の駅が横浜-東神奈川-六角橋-岸根町-小机-川向町-折本町-仲町台、になっていた。
#城川原車庫は廃止されなかった。
#*小机が「新横浜」になるだろうから、代わりに川向町が「小机」か「新小机」になっていたかもしれない。
#*JR移行時に金沢の支所となっていた。
#車庫は新横浜公園付近にできていた。
#富山ライトレール転換時に他線区に転用される。
#*小机が2面4線になり小机止まりの電車が設定されていた。
#横浜市営バス39系統(横浜駅~中山駅)はなかったか、本数が減っていた。
#路線距離は2キロ(東神奈川・小机経由なら4キロ)ほど短縮された。


;鴨居経由だったら
====201系山手線用====
#=[[もし新幹線が○○ではなく○○に通っていたら/東海道/新横浜#横浜線沿線|東海道新幹線新横浜駅が鴨居にあったら]]
国鉄時代、山手線に201系を導入する予定でしたが、当時の国鉄は財政難だった為製造費の高かった201系の導入を断念しました。もし、実現していたら?
#*経由地からして[[もし新幹線が○○ではなく○○に通っていたら/東海道/新横浜#その他|横浜羽沢]]でも。
#205系の誕生が遅れていた。
#横浜~センター南の駅が横浜-三ツ沢下町-峰沢町-横浜羽沢-菅田-西菅田-鴨居-池辺町-東方町-センター南、になっていた。
#*初導入の路線は横浜線だった。
#車庫は池辺町付近に建設されていた。
#**いや、京浜東北線だったかもしれない。
#路線距離は2キロほど短縮された。
#*205系はJR東日本の車両として登場していた。
#グリーンラインのセンター北~中山は建設されず、センター北~鴨居をブルーラインと共用していた。
#**関西地区に205系が投入されることはなかったかも。
#横浜駅~鴨居駅の市営バスは実際より少なかった。
<!-- #*いいえ、そんなことはありません。 -->
#ウグイス色201系は1980年代の時点で見る事ができた。
#*ウグイス色の201系という都市伝説は生まれなかった。
#山手線への6ドア車導入は史実のE231系500番台まで待つことに。
#*その場合、11両編成化が行われただろうか。
#**そもそも6ドア化無しで増車という可能性もある。
#*もしくはサロ124・125の如くサハ200がステンレス車体で製造されていた。(=史実のサハ204とほぼ同様)
#**E231系500番台投入以降は全車両が205系に編入改造されていた。
#201系の性能をフルに発揮できていた。
#*電機子チョッパ制御は低速で加減速が多いほうが省エネ効果が大きいため。
#*201系に対する評価も大きく上がっていた。


;終点がたまプラーザだったら
====205系中央・総武緩行線用====
*東急側は終点を田園都市線快速が停車するたまプラーザを要求しましたが、建設が容易なあざみ野が終点になりました。
国鉄時代、山手線に次いで中央・総武緩行線へ投入することが計画されていたが、実現しなかった。東中野事故の補充として投入された2編成とは別物。
#あざみ野は現在でも田園都市線は各駅停車しか停まらなかった。
#東西線直通用の301系・103系1200番台の帯色変更が早まっていた。
#あざみ野発着のバス路線の一部はたまプラーザか江田発着になっていた。
#当時の津田沼電車区に集中投入され、101系・103系を置き換えていた。
#*よって209系500番台は存在しなかった。
#*209系950番台は別の路線に投入されていた。
#場合によっては中央・総武緩行線へE231系は投入されず、同線の201系・205系の置き換えはE233系が行っていたかもしれない。


===名古屋市交通局===
====401系(2代目)====
====地下鉄東山線====
常磐快速線電車の土浦延伸の為に計画された交直流形通勤電車。
;高針地区を通っていたら
#415系ロングシート車は登場しなかった。
東側の終点を高針地区にする予定でしたが、地元住民の反対で藤が丘方面に変更されました。
#史実の401・403系は411・413系(史実とは別の車両)に形式変更された。
#日進市方面への延伸構想が上がっていた。
#それでも史実通りにE531系に置き換えられるが、全車ロングシートで製造された。
#*その場合終点は岩崎城あたりか?
#史実とは逆に整備計画路線の東部線が藤が丘・長久手方面として計画された。
#*結局リニモが星ヶ丘起点になりそうな気がしないでもない。


===大阪市交通局===
==気動車==
====地下鉄谷町線====
===キハ47系両運転台車===
;城北公園通の地下を経由していたら
キハ40の暖地仕様(2000番台)は当初両開き2扉のキハ47を両運転台にしたような形態になる予定でしたが、暖房配管の都合でキハ40と同様の片開き2扉になりました。
#都島で北に向きを変え、赤川付近で城北公園通に入り、太子橋今市西方で現行のルートに合流していた。
#形式は「キハ41」という新形式が与えられていた。
#都島区・旭区北部の鉄道空白地帯が一部解消していた。
#*現実にキハ47を両運転台改造して登場した車両は本系列の新区分番台に分類されていた。
#*大阪市バス34系統は現実ほど本数は多くならなかった。
#トイレはキハ23・53と同じく運転台後部に設置されていた。
#[[おおさか東線]]が新大阪まで延伸すると、赤川付近に谷町線との接続駅が設置される。
#キハ40の製造両数が減っていた。
#門真市以西の京阪の利用客は現実ほど減っていない。


====長堀鶴見緑地線====
===ガスタービン車===
;上町筋を経由していたら
非電化線区の高速化のために試作車としてキハ391系が製作されましたが、もし、量産車に相当する形式が登場したら?
#京橋~谷町六丁目間のルートは京阪東口~馬場町~上本町一丁目と経由していた。
#高速化により非電化路線沿線の過疎化を遅らせることができた。
#*恐らく片町・大手前・法円坂に駅が設置されている。法円坂で中央線に連絡。
#沿線では騒音問題が深刻化していた。
#ルート上に難波宮跡があるため、難工事となっていた。
#鉄道は環境を破壊する乗り物と非難されていた。
#*その分工期も延びていただろう。
#国鉄の財政を現実以上に逼迫させ民営化が5年早まっていた。
#OBPに鉄道の駅ができることはなかった。
#燃料費が莫大なものに。
#後にターボ・エレクトリック方式のガスタービン機関車が開発され、北海道に投入されていた。
#*電気系統の制御にはVVVF+IGBTが採用されている。
#確実にニコニコ動画の「迷列車シリーズ」の題材にされていた。
#電車列車の非電化路線直通が実現していた?
#導入線区はどこになるか。電化が進んでいたせいで導入されなかったわけで。
#*史実の振り子気動車が導入されている線区あたりか。
#**これらの後継車もガスタービン車。JR東海管内にあったらカミンズエンジンを使うのだろうけど。
#**流石に2000年代以降は環境配慮とコストダウンで新車は製造されないが。


====四つ橋線====
===キクユニ===
;御堂筋線に並行する形で建設されていたら
キハ10系列の気動車と併結するために計画された2軸の郵便荷物付随車。
*四つ橋線の大国町以北は当初、四つ橋筋ではなく御堂筋線のすぐ西側に線増する計画もありました。もしこうなっていたら?
#使い勝手の悪さから、1両が試作されたのみで終わっていた可能性が高い。
#御堂筋線の混雑緩和という本来の目的を果たしていた。
#*その後の郵便荷物改造気動車の登場は史実通り。
#梅田~大国町が方向別複々線になっていた可能性が高い。
#*その場合、増設された線路が急行線になっていた可能性もある。
#そもそも「四つ橋線」ではなかった。
#*大国町~住之江公園は御堂筋線の支線という扱いになっていた。
#計画中のなにわ筋線は現実とは異なり四つ橋筋を通るように計画される。
#阪急新大阪支線の再計画は成されないまま終わっていた。


==その他==
===新系列急行形気動車===
===関東鉄道===
国鉄末期、転換クロスシートの新系列急行形気動車が計画されましたが、実現しませんでした。もし、実現していたら?
====常総線====
#キハ151系になっていた。
;柏経由だったら
#*キハ185系は登場しなかった。
#関東鉄道が千葉県にも通る事に。
#**高徳線・徳島線では今も急行列車のまま。
#さすがに「柏発茂木行き」は無いだろう。
#**久大本線・豊肥本線も急行「由布」「火の山」のまま。
#急行列車が現実より衰退することはなかった。
#*むしろ格下げ改造を前提とした設計で登場していた。
#185系電車も急行形として製作され、171系電車になっていた。
#*特急格上げもなく、「最悪の特急」と揶揄されることはなかった。
#*373系も登場しなかった。
 
===寝台気動車===
10系客車ベースの急行用車両。
#東京発九州行急行あたりに初投入されていた。
#*むしろ山陰急行あたりでは?
#581系は誕生せず、[[#153系寝台電車|153系寝台電車]]が誕生していたかもしれない。しかも新製車で。
#*汎用性とを考えるとそれはないのでは?
 
===ステンレス製特急形気動車===
前後に動力車を配置した準動力集中方式。四国に投入されるはずだった。
#キハ185は無かった。
#*振り子式気動車?なにそれ美味しいの?
#**土讃線の速度向上などを考えるとTSE以降の振子車は史実通りなんじゃないだろうか。
#***登場は90年代中頃になっていたかもしれない。
#*むしろこっちがキハ185系になっていたかと。
#四国の特急は動力集中方式に・・・なったのかなあ。
#*JR東海のキハ85系辺りが動力集中型になっていたかもしれない。
#基本的に3両編成になっていたと思われる。
#使い勝手にもよるが、JR九州への売却はおそらく史実通り。
#先頭動力車の形式は「キヤ」になっていた。
 
==機関車==
===AH100形原子力機関車===
原子力の技術的可能性を検討するため、調査目的として計画案として練られた車両。
#あくまでも調査目的なので1両のみ製造されていた。
#EH10を超える巨体であるため「マンモス」の愛称はこちらについていた。
#仮に実用化された場合、日本の原子力発電はそれほど発展しなかったかもしれない。
#少なくとも旅客運用にはついていない。
 
===C63形蒸気機関車===
設計図こそ完成したものの、製造には至らなかった。
#国鉄最後の蒸気機関車となっていた。
#1両は梅小路蒸気機関車館に保存されていた。
#最後の地はやはり北海道か?
#国鉄からSLが消える時期はおそらく史実と変わらなかった。
#*むしろ2~3年ほどずれて1978年10月改正の頃になっていた。
#「やまぐち号」に使用されていた可能性もある。
#[[マイクロエース]]ではなく[[KATO]]が模型化していた。
 
===EB90形(AB90形)===
ED71形を入換用蓄電池式機関車に改造する計画がありましたが、実現しませんでした。もし、実現していたら?
#環境に優しい車両として注目されていた。
#量産車は新車として製作された。
#*AB11形になっていたかも。
#DE10形の製作は打ち止めになっていた。
#*国鉄分割民営化後はDE10は旅客会社にしか引き継がれなかった。
#*JR貨物へは本形式が引き継がれていた。
#入換用機関車は蓄電池式機関車が主体になっていた。
#*ハイブリッド? 何それ?
#**HD300形は製作されなかった。


===埼玉高速鉄道===
===EF70形直流化改造車===
;越谷経由だったら
1980年代初期、北陸本線へのEF81形進出により余剰化したEF70形を直流機に改造し、EF58形の代替車として東海道・山陽本線に投入する計画があったそうです。
#東武伊勢崎線直通運転し、東武動物公園や日光に行くのが便利となる。
#交流専用のタップ制御は廃止され、基本的な制御装置は全てEF65形から流用される。
#*最高出力も2550kWに揃えられる。
#当時の国鉄の事情では、新形式の「EF68形」を名乗るのは困難だったかもしれない。
#*結果、EF65形のジャンプナンバー(1500番代?)となる。
#**しかしカラーの塗り分けは0番代と共通。
#*EF70の1000番台車についてはEF65の550番台となり、塗り分けも500番台・1000番台と同じになる。
#JR発足時には全機JR西日本に引き継がれていた。
#*史実のEF62形の代わりだが、民営化前に全機廃車の憂き目には遭わなかったかもしれない。
#*但し、2011年現在まで稼動していたかどうかは不明。
#KATOの青のEF70は絶版にならなかった。


===東京臨海高速鉄道りんかい線===
===EH50形電気機関車===
;品川経由だったら
昼行客車特急の高速化を目的に導入が検討されていたが、151系(登場時は20系)電車の登場により幻になったようだ。もし、151系に先んじてこの車両が誕生していたら…
*天王洲アイルから品川シーサイド・大井町と迂回して大崎に向かってますが、これがそのまま北西に向かって品川経由だったら。
#151系登場後は夜行列車の牽引に回されていた。
#新幹線や東海道線など品川に発着する路線からお台場に行くのが便利になっていた。
#*今でもブルートレインを下関まで牽引している。
#*東京駅の京葉線との乗り換えが不便なので、ディズニーランドに行くのも便利になっていた。
#**1978年に史実通りEF65PFに置き換えられ、その後は荷物列車牽引で余生を送ったのち1986年に廃車。
#**りんかい線品川駅は地下ホームになると思われるので、こちらでの乗り換えもやはり不便になる。
#EF65はF機のみでP機は存在しなかった。
#埼京線は目黒の手前かで地下に入り、白金台、高輪二丁目付近を通って品川に向かう。
#*EF60の500番台も当然存在しなかった。
#*大崎・大井町経由より距離が短くなるので所要時間が3分ほど短縮。
#その後の電気機関車史は違ったものになっている。
#大崎に湘南新宿ラインが停車することはなかった。
#*EF66やEF81は下手すると登場しなかったかもしれない・・。
#*大崎は今でも山手線単独駅なので閑散していた。
#*EH50の交流版や交直流版が開発されることに・・。
#*恵比寿に特別快速が停まっていた。
#EH50にはクイル駆動方式が導入されていた可能性もあるので、もしEH50でクイル式が成功していたら、その後の国鉄電気機関車の駆動方式はクイル式が定番となる。
#*湘南新宿ラインも品川経由になっていたかも。
#山陽新幹線全通後に一部がEH10に改造される。
#**山手線とりんかい線の乗り換えは五反田で行なわれていた。
#大井町を通らないので、東急大井町線でりんかい線の宣伝はなかった。
#*中央林間から大井町までの直通急行の運転もなかった。
#多分ゆりかもめと同じかそれ以上の混雑率になっていた。
#*早期に黒字化できたかもしれない。
#*ゆりかもめの利用率が減っていた。
#天王洲アイルの乗り換えも今より便利。
#*楽天・バンダイナムコはここに移転していたかもしれない。
#大崎・大井町周辺の客以外は明らかにこっちのほうがいいこと尽くめか・・・。
#ながら号はもっと人気になっていたんだろうな。(現状では品川まで言って一駅山手線で大崎へ戻る。)


;羽田空港経由だったら
===ED95(ED63)===
#羽田空港から乗り換えなしでお台場にいけるようになる。
EF58やEF15の置き換え用として開発されていた、電機子チョッパ制御のD級直流電気機関車。まずED95を試作し、その後ED63として量産予定だったが、1982年11月のダイヤ改正で機関車が余って開発中止に。もし量産化されていたら?
#*…が、埼京線との直通運転は無いので便利さは現実よりいまいち低いかもしれない。
#EF66のような流線形に、デッキ付の貫通扉(乗務員扉)という奇抜なデザインが、鉄道ファンの間で賛否両論となる。
#ゆりかもめに影響が出る。
#民営化後にJR貨物が開発する機関車が、ステンレス車体になっていた。


===つくばエクスプレス===
==客車==
;秋葉原~北千住が日光街道経由だったら
===マイテ30===
#距離は少し短くなっていた。
「かもめ」用に使われる予定だったドーム展望車。
#駅は秋葉原-御徒町-上野-三ノ輪-北千住、になっていた。
#計画とは異なり「つばめ」「はと」に投入され、捻出されたマイテ49あたりが「かもめ」に使われていた。
#*南千住の近くも通るが駅は設けない。
#*当然青大将塗装にもなっていた。
#史実同様快速・区間快速は秋葉原~北千住は各駅停車になるが、それほど苦情はなかった。
#後に事業用車に改造されていた。
#*御徒町と三ノ輪は通過すべきという意見はあった。
#*1960年から1963年の間は「かもめ」「みずほ」に使用された。その後は団体臨時列車に転用されたものの、東海道新幹線開業後は使用頻度が低下し1968年までに事業用車に改造され、1987年の国鉄民営化まで車籍が残った。


===湘南モノレール江の島線===
===オニ22形===
;国道467号線沿いに建設されていたら
パンタグラフと電動発電機を搭載した直流区間専用の20系電源荷物車。実際には非電化区間兼用のカニ22形が登場したため実現しなかった。
#「湘南ジェットコースター」などと揶揄される急なルートにはならなかった。
#いずれは下関「あさかぜ」「瀬戸」「安芸」に集中使用される。
#藤沢駅が起点
#*「瀬戸」用の20系は最初から広島・下関所属だった。
#江ノ電の藤沢-江ノ島間は廃止されていた。
#24系に下枠交差型パンタグラフ搭載の電源車が登場する。
#乗客数は現実よりかなり少なかった。
#*代わりにスハ25が生まれない。
#やがて「銀河」へ転用され、オヤ22に改造される。
#むしろ使い勝手の問題から早期に淘汰されたか、あるいはディーゼル発電機に乗せ換えて簡易電源車に改造された。
#*マヤ20形は旧型客車からではなく、当形式から改造されていた。


===北越急行===
==その他==
;現実より南に通っていたら
===超音速滑走体===
#松之山町は十日町市と合併しなかったかもしれない。
*昭和30年代後半から名城大学において実験が行われていたが計画断念に終わる。実現していれば東京-大阪間を14分で結ぶ事が出来たという。
#越後湯沢ー六日町、犀潟ー直江津間のJR乗り入れは無かった。
**実用化するとすればおそらく国鉄だろうから便宜上ここへ。
#飯山線の交点に新津南駅が開業していた。
#新幹線以上に騒音が問題になっていた。
#津南や松之山などの小規模自治体しか通過しないため特急しか通らないような運行形態にはなっていた。
#*チューブ内を走る関係上全線地下になっていてもおかしくはない。
#=[[wikipedia:ja:北越急行ほくほく線#南北戦争からルートの決着まで|北越南線]]
#*軌道内は真空になるから音は伝わるかな?
#実験では加速時に30Gもの衝撃がかかっていたそうなので、衝撃緩和に関しても対処がなされているはず。
#リニアモーターカーの計画はすぐさま放棄されていただろう。
#大阪企業の東京移転、並びに関西経済の地盤沈下は現実より早いペースで起こっていた。
#*大阪は東京の衛星都市みたいな感じになっていた。大阪から東京へ通勤する人もいたかも。
#*それでも大阪の昼夜間人口比率が100未満にはならないはず。
#*逆に大阪企業の東京移転は抑制されていたかもしれない。
#名古屋に停まっていたかどうかも気になるところ。
#*おそらく停車する列車もあるとは思うが、加速方式が普通の列車とは異なる(ロケットエンジンを使っていたらしい)のでノンストップが中心になっていたと思う。
#*もし停車できなかったとしたら史実の名古屋飛ばしの比ではないほどの大騒動になっていただろう。実験を行っていた名城大学が名古屋の大学である事を考えると尚更。
#果たして運賃はどうなっていたか…。
#*普通に考えるととてつもなく高くなっていたかも。
#*現実のリニア新幹線はのぞみより1000円高くなるらしいが、この場合だと2倍~3倍高くなりそう。
#**採算ベースにのせるには片道100万円以上かかるなんて話も。
#さすがに14分は無理だろうが、30分か45分で結ばれていたか。
#航空機の国内線の数はかなり減っていた。
#*伊丹空港・小牧空港は廃止になっていた。
#死亡事故が起きて休止か廃止という可能性もあったかも。
#後々アメリカでの[[Wikipedia:ja:ハイパーループ|ハイパーループ]]建設の際の参考にされる。
#[[もし東京・名古屋・大阪が近接していたら|こうなっていた。]]


===愛知環状鉄道===
===鉄道省のクルーズトレイン計画===
;尾張旭経由だったら
1940年の東京オリンピックに合わせて計画されていたが、同大会の中止に伴い幻となった。
#終点が神領駅になっていた。
#ほぼ間違いなく客車として製造されていたと見られる。
#*神領に中央西線の快速が停車していた。
#どちらにしろ終戦までまともな形で動くことはできなかった。
#**逆に高蔵寺には快速が停車しなかったかも。
#*戦中には展望車と同じく地方に疎開されていた。
#*橋上化が早まった。
#**戦後は進駐軍専用列車に優先的に使用され、一般人が乗れるようになるまでには更なる時間を要した。
#駅は岡崎-…-瀬戸口(立地は史実と異なる)-尾張旭-志段味-神領
#末期は専ら団体専用列車として使用され、バブル期のジョイフルトレインの投入でその役目を終えていた。
#国鉄の建設計画時は「旭線」になっていた。
#*現在ではこの車両がジョイフルトレインの始祖として扱われている。
#愛環に名古屋市内を通っていた。
#*上手くいけば交通博物館→鉄道博物館への保存が実現していたかもしれない。


===沖縄都市モノレール線===
==関連項目==
;沖縄県営鉄道 嘉手納線のルート
*[[もしあの鉄道車両が計画されなかったら]]
#那覇空港ではなくバスターミナルや県庁付近が起点であるため観光客より地元民の利用客が大多数。
#利用者は現実よりかなり少ない。
#*浦西延長よりも那覇空港への延伸の方が急務。


[[Category:もしあの鉄道路線のルートが○○だったら|してつ]]
[[Category:歴史のif検討委員会 国鉄・JR史|あのてつとうしやりようかしつようかこくてつ]]
[[category:歴史のif検討委員会 私鉄史|あのろせんのるうと]]
[[Category:日本国有鉄道の車両|もししつようか]]

2017年12月13日 (水) 21:04時点における版

テンプレート:半保護

製造・改造に至らなかった車両がもし、実用化していたら?

  • 乱立防止の為、記載は実際に元ネタがあるものに限ります。
    • 項目内にそれに関する文章を書いていただければ幸いです。
  • 新規追加は「形式が若い順→形式不明(50音)」の順にお願いします。
  • 便宜上、実際に導入された形式の改造車についてもこちらで扱います。
関連項目

電車

新幹線

個室ひかり

夜行新幹線用として企画されたが、実現しなかった。

  1. 961形をベースに登場。
    • もしかしたらこっちが「100系」を名乗っていたか。
  2. いずれにしても国鉄分割民営化後、のぞみ登場と同時に消滅。
  3. 東北・上越新幹線にも同等の設備を有する車両が投入された。
    • 「スーパーやまびこ」中心の運用に使われる。
  4. 最後はこだま用として山陽新幹線で生涯を終えていた。
    • もしくは「ウエストひかり」を中心に運行していたかもしれない。

在来線特急用

187系電車

碓氷峠(横川-軽井沢間)を補機なしで自走できる特急形電車が計画されていましたが、実現しませんでした。もし、実現していたら?

  1. 量産車は新車として導入された。
    • 試作車だけ他車と異なるので阪神8000系第1編成のように珍車扱いされ、注目されていた。
  2. 187系をベースにした一般形電車も製作された。
    • 107系に似た車両になっていた。
      • 165系ベースでしょう。
  3. EF63形は史実より早く余剰廃車になっていた。
  4. 横川-軽井沢間が廃止されることはなかった。
  5. サロ183形がサロ110形300番代に改造されることはなかった。
    • サロ110形0番代が分割民営化後も多く生き残っていた。
      • 153系の生き残りとして注目されていた。
  6. 北陸新幹線開業後は「あずさ」に転用されていた。
    • E257系は製作されなかった。
    • 房総特急で活躍しているかも。
    • 史実通り製造された場合、新型NEXと似た感じの車両になり、E257と259の形式があべこべになる。
      • 妙高、ムーンライト信州は187系で運行。
        • 日光、きぬがわは187系が種車だった可能性も。
      • 183系のように波動用で活躍。
      • むしろキハ183系500番台に似た車両になっていた。
  7. 勢い余って487系もできる。
    • ただし、国鉄がそこまで赤字でなかった場合。
    • 「白山」に投入されていた。
      • 「白山」廃止後は「能登」に転用。
        • 「能登」は上越線経由にならなかった。
  8. 189系は電化されたばかりの北近畿地区に転用されていた。
    • 183系485系改造車はなかった。
      • 七尾線電化後も普通列車は気動車のままだった。
        • 七尾線には521系が新製投入されていた。
  9. 平坦区間でも電気を無駄食いするため、「扱いにくい」車両になっていた。
    • このため他に転用する際一部車両が電装解除されていた。
    • 結局EF200の二の舞になり、早期淘汰の対象に。
      • EF63の余剰廃車が早かっただけでは?

福知山・山陰本線用381系

福知山・山陰本線の特急「北近畿(現・こうのとり)」には381系新造車を投入する計画がありましたが結局は他から485系が転用されました。

  1. 381系は国鉄分割民営化直前の1980年代中盤まで製造されていた。
  2. 振り子式車両なので「北近畿」の所要時間は短縮されていた。
  3. それでも山陰本線京都口電化開業時の「はしだて」「きのさき」「たんば」用には北陸本線から485系が転用されていた。
  4. 287系が初めて投入されたのは紀勢本線の「くろしお」だった。
    • 現実と異なり振り子式になっていたかも。
  5. 福知山線用の増備車の座席は簡易リクライニングシートではなく、100系新幹線などと同様の背面テーブル付き新型リクライニングシートとなっていた。

交直流対応振子式特急車両

591系として開発が進んでましたが、投入予定路線である東北本線に平行して東北新幹線を建設することが決まったため各地を転々とし、結局は381系として製造されました。

  1. 東北新幹線が開業する前までは「ひばり」に先行投入されていた。
    • その後北陸や九州に転用。
  2. 485系の量産数が減っていた。

急行・近郊用

モハ70系

湘南電車投入計画の一つに「63系を3扉にしたようなロングシートの車両にする」案があったそうです

  • なお、ここで述べるモハ70系は史実とは別の車両です。
  1. 後継の111系などの近郊型電車もオールロングシートになっていたかもしれない。
    • それでも地方線区に転用されるときはセミクロスシートに改造されていた可能性も。
  2. 185系・117系の登場が早まったか。

113系1000番台初期車の総武快速・横須賀地下線乗り入れ

113系1000番台は総武快速・横須賀地下線への乗り入れを視野に入れて製造されましたが、初期車は地下線に乗り入れることはなく、早いうちに他線へ転用されました。

  1. さすがにATC設置改造くらいはされている。
  2. その分、0番台が史実より多く製造されていた。
  3. 更新時期が早まるので211系・213系総武快速・横須賀線用の登場が実現していた。
  4. クハ111-1310が阪和線に転出することなく、阪和色の113系1000番台は存在しなかった。
    • 湘南色の113系1000番台も国鉄時代には存在していなかった。

サロ115形

115系のグリーン車(1等車)として全自動ドア装備で検討された。

東北・高崎線用新製車
  1. 普通車より一足早く冷房化された。
  2. 15両化も早まっていた。
  3. サロ165-14がスカ色にならなかった。
  4. 1973年の暴動がもっと大規模になっていた。
    • だが事件後に急行型使用の普通列車グリーン車が自由開放されることはなかった。
  5. 211系1000・3000番台も最初からサロを組み込んで登場したため、サハ211の製造両数は少なかった。
宇野線用改造車

四国連絡快速用にサロ113を改造しての投入が計画された。

  1. 首都圏で113系グリーン車が不足し、特急・急行型からのサロ110への編入改造が史実より多く行われた。
  2. 備讃ライナー→マリンライナーにもグリーン車がついている。

117系関東仕様

急行「伊豆」の153系の置き換え用としてデッキのない転換クロスシート車両(=117系)が考えられていたが、居住性に問題があると判断され、さらに「伊豆」の特急格上げが決まったことにより結局は185系となった。

  1. 特急「あまぎ」と急行「伊豆」の統合は遅れていた可能性が高い。統合は分割民営化後になった可能性も十分考えられる。
    • 「谷川」「草津」「あかぎ」「なすの」の特急格上げも遅れた。下手すりゃ「なすの」は廃止まで急行だった。
      • 逆に快速に格下げされた可能性も。
  2. 「新特急」と言う名称は存在しなかった。
  3. 通勤形である事を生かして休日臨時快速→快速アクティーにも使われていた。
    • しかし2ドアのため遅延多発。211系に置き換えられていた。
  4. 結局有料新快速扱いされるのは変わらない。

123系クモユ143形改造車

郵便輸送廃止で余剰となったクモユ143形を国鉄所有にして123系への改造も考えられていたが、実現しなかった。

  1. 旧型国電は国鉄時代に全廃することが出来ていた。
    • しかし、車両不足からクモハ84形の登場は史実通りになるだろう。
  2. 小野田線本山支線や鶴見線大川支線に投入されていた。
  3. 冷房装置は郵便車時代のものを再利用していた。

153系寝台電車

夜行寝台急行列車の電車化が計画され、本系列を寝台車電車に改造・投入するものであった。

  1. 急行銀河の廃止が数年伸びていた。
  2. 急行きたぐに(大阪ー青森)の車両にも使われていたかもしれない。
    • 153系は直流専用だから無理があるのでは?
      • 451~475系ベースの交直両用版が開発される。
  3. 581系は誕生しなかった。
  4. 国鉄末期に通勤格下げ車両が出現していたりして。
  5. 「ちくま」が客車に戻されることはなかった。

163系電車

付随車のみ存在したが、当初は153系の出力アップ型として165系と同時期に暖地向けに導入が検討されていたようだ。(ただし抑速ブレーキはなし。)もしこれが実用化されていたら…、

  1. 結局、新幹線の延伸や特急運転区間の拡大で余剰となり、113系増備のための種車となってしまう。
    • 113系1500番台や2000番台はこの車両のハコ替えだった。
  2. あるいは大阪地区の新快速は153系が撤退した後、この車両を部分改造して充当される。
  3. いずれは車種統一のため抑速ブレーキ取り付け改造を行い165系に編入された。
    • 1975年の山陽新幹線博多開業時に改造され、165系200番台となる。また、捻出したCS12系制御器はその頃増備された113系新製冷房車に転用。
    • 平坦地向けなので、東京~下田・修繕寺および房総急行に使用されていた.
    • 捻出した153系は、3ドア化・デッキ撤去のうえ、静岡・名古屋地区の普通電車に転用。
    • 抑速付けられるのなら瀬野八も越えられるな!→「安芸」他に導入。

185系急行形電車

元々急行形電車として開発されましたが、投入予定だった急行伊豆が特急に格上げ(踊り子)されたため、本来の用途ではない特急形として運用されることになりました。もし、急行形として投入されていたら?

  1. 国鉄末期の急行列車の統廃合で余剰化。
    • 波動用として重宝される。
    • ジョイフルトレインとして改造される車両も登場。

211系・213系電車総武快速・横須賀線用

国鉄時代、総武快速・横須賀線にも211系・213系電車を投入する計画がありましたが、実現しませんでした。もし、実現していたら?

  1. 基本11両編成、付属4両編成になっていた。
  2. 111系は国鉄時代に形式消滅していた。
    • 四国には史実より早く113系が配置されていた。
  3. 動労千葉の勢力は弱くなっていた。
    • 弱くなるというか、元々弱いからこうなったわけで。
  4. E217系は製作されなかった。
    • 今頃、E231系かE233系に置き換えられ、房総各線に転用されている。
      • 東海道線と同時期にE233に置き換えが一番ありそう。
      • わざわざスカ色から変える必要性がないので菜の花色は存在しない可能性も。
      • 209系は北関東か長野送り。
  5. 213系は2ドア転換クロスシートというより1M方式という認識となっていた。
    • JR東海の211系6000番台は213系6000番台として登場していた。
  6. JR発足後には2階建てグリーン車が組み込まれていた。

211系関西地区用

京阪神の新快速用や福知山線電化用として投入する計画があったが、前者は117系のマイナーチェンジ車(100番台)が、後者は113系初期車を改造(800番台)して投入された。もし、関西地区にも211系が投入されていたら?

  1. 221系が開発されなかった。
    • 現実の223系が221系を名乗っていた。新快速に3扉転換クロスシート車が投入されるのは阪神・淡路大震災後の輸送力増強が名目だった。
      • 新快速用は117系と比べて見劣りがしたので後にこれに置き換えられていた。
  2. 大和路線や阪和線にも投入されていた。
  3. 今頃は体質改善工事が行われ転換クロスシートに改造されている。
    • むしろ製造当初から転換クロスシートになっていたのでは?
      • 3ドア初の転換クロスシートといえば近鉄5200系ではなくこの車両のことを指していた。
  4. カラーリングは千葉地区用に似たものになっていた。
  5. 1000番代をベースに製造され、1500番代に区分されていた。

211系広島地区用

国鉄の財政難で話が消えたらしい

  1. 111系・115系に廃車が発生していた。
  2. もしかしたら岡山地区に転属して213系と共通運用になっていた。
  3. 227系導入で廃車になっていたかも。
  4. 温暖な地域とはいえ、1000番台をベースに導入されていたと思われる。
  5. カラーリングは115系3000番台に倣い、青20号の帯を施していた。
    • 415系1500番台と混同されていた。

413系電車475系改造車

413系電車は475系電車からの改造計画もありましたが、実現しませんでした。もし、413系電車が475系電車までも改造されていたら?

  1. 471系・475系の延命工事はなかった。
  2. 521系は419系の置き換え分で製造が打ちきられていた。
  3. 若い車体を活用して機器更新がされていた。
  4. 413系200番台になっていた。

793系

サイリスタ位相制御+回生ブレーキ搭載の3扉交流電車

  1. 鹿児島本線博多地区か東北本線仙台地区に投入されていた。
  2. 417系・713系はなかったかも。

4扉近郊電車

1960年代に101系と同等の車体でオールクロスの車両が計画されていた。

  1. 首都圏の混雑が緩和されていた。
    • しかし上尾事件は史実どおり起こった。
  2. 近郊形・通勤形車両の区分が曖昧化し、その後の形式は一般形と称するようになっていた。
  3. 実史の近鉄2610系がそうだったように、クロスシートのシートピッチが狭すぎたため後年オールロングシートに改造されていた。

三扉簡易寝台電車

  • 平日は横須賀線の通勤用、休日は中央線登山客の仮眠用として使用される予定だったが、実用性に乏しいので却下された。
  1. 上記内容を見るに塗装はスカ色で間違いないだろう。
  2. いずれ簡易寝台が邪魔になり、115系に編入改造される。
  3. 中央東線・篠ノ井線の夜行普通列車はこの車両で電車化された。

通勤用

72系970番台武蔵野線用

武蔵野線用に投入が計画されていました。

  1. いずれ103系3000番台への編入改造が行われていた。
  2. 101系1000番台は存在しなかった。
  3. 武蔵野線への205系の投入数はもう少し多かったかもしれない。
  4. ナンバーがインフレ化し、6桁台に突入していた。

101系横須賀線用

かつて横須賀線の逗子~久里浜間の輸送力の適正化と高頻度運転化の為、101系の投入が検討されていました。

  1. 横須賀線は逗子で分断されていた。
  2. 国鉄末期からJR初期の間に103系への置き換えが行われていた。
    • その後E217系の付属編成で置き換え。
      • 場合によっては205系か209系が転用されていたかもしれない。

101系常磐快速線用

中間加速度が劣る103系にかわり、赤羽線と京浜東北線から101系を転属させる話があったようだ

  1. 常磐緩行線の103系は常磐快速線に転用されなかった。
    • 105系に改造される車両が増えていたかもしれない。
  2. 常磐線快速電車の15両化が遅れていた。
    • 上記の緩行線103系を快速線に転用できなかったので。
    • E501系の製造量数が増えていたかも。

103系5扉車

103系の開発にあたって1両辺りのドアの数を5つとすることが検討されていたが、車両に冷房などない時代に窓面積が減少するのは厳しいとして没となった。

  1. その後の通勤車両は5扉がデフォになっていた。
    • サハ204は7扉になっていた。
    • 各路線へのホームドアの設置が遅れていたかもしれない。
  2. 冷房化が早まっていたかもしれない。
  3. 京阪5000系の影が薄くなっていた。
    • 但し同系で初採用された座席昇降装置は現実よりも普及していたかも。

103系1000番台筑肥線転用

1980年代当時の鉄道雑誌に噂として書かれていたようです。

  1. 転用にあたって塗装はブルー系に変更されていた。
  2. さすがに冷房改造は行われていただろう。
    • もし行われなかった場合、福岡市営の車両との格差はさらに大きくなっていた。
  3. これの置き換え用として303系の投入両数が増えていた。
    • 305系は登場しなかった。
  4. 103系1500番台は登場しなかった代わり、奈良・和歌山線電化時には新造の105系0番台が投入されていた。

仮称105系電車

京阪神緩行線への投入が考えられていた駅間距離の長い線区向けの4扉通勤形電車。史実の105系とは異なる。もしこの車両が登場していたら…。

  1. 103系は現実ほど製造両数が多くならなかった。
  2. 101系のMT54搭載版という位置づけになっていた。
    • 歯車比は1:5.60で、419系や715系と同じ走行音を立てていた。
    • 付随車の形式は101系と共用するが、前面形状が103系と同時に変更される。
  3. 史実の105系は「107系」になっていた。
    • こちらもMT54を搭載していた。
      • 119系も。
    • 史実の107系は「109系」
  4. 常磐快速線にもこの車両が投入される。
    • 中央快速線にも特別快速用としてこの車両が投入されていた。中央快速線向けは高尾以西への直通を考慮してパンタグラフ部分が低屋根(若しくはPS24形パンタ搭載)とされ、モハ104形800番台が製造されていた(?).
      • 201系の初導入先は中央総武緩行線だった。
  5. 東武8000系は「私鉄の103系」ではなく「私鉄の105系」と呼ばれていた。因みに性能面では東武8000系は103系よりもむしろ仮称105系に近い。
    • いや103系でしょ。規模的に。
  6. その後321系により駆逐。環状線や広島地区に転属。
    • 國鐵廣島では103系の中間車として活用される例も現れる。

105系(汎用電車)

ロングシート・クロスシートの両方に転換可能なタイプの座席で計画されていたという。

  1. ホリデー快速によく使用されていた。
  2. 首都圏中電のオールロング化が遅れていた。
  3. 民営化後、ホームライナーに使用されるが、苦情が来たため数年で中止。
  4. 近鉄L/Cカーは現実よりも早く登場していた。
    • 5200系は登場しなかったかもしれない。その場合JR西日本221系などにも影響を与えていた。
  5. 首都圏の大手私鉄にも類似の車両が投入されていたかもしれない。
    • その場合、首都圏でも平日昼間や休日は運賃だけでクロスシートに乗れるようになっていた。その結果国鉄→JRとの競争が有利になりJRのグリーン料金も安くなっていたかもしれない。
    • 京急2000形はこのタイプの座席かつ3扉で登場していた。2100形は登場せず、二代目600形がこのタイプの座席で登場し増備されていた。
    • 東武6050系や西武4000系もこのタイプの座席かつ3扉で登場していた。

105系0番台飯田線用

飯田線豊橋口用に105系0番台を投入する計画があったが、実現しなかった。

  1. 飯田線の普通列車に165系が転用されることはなかった。
    • それでも119系の投入は史実通り。
  2. しかし、トイレなし車両で長距離運用に不向きな車両であるため、結局は飯田線に165系が再配置され、静岡地区に転用される。
    • ここでも他の近郊型と性能が合わないため、結局は211系に追われる形で御殿場線に転用される。
      • よって、御殿場線に211系6000番代が投入されることはなかった。
    • 119系と運用を交換してするがシャトルに転用していたかも?(なお165系再配置の理由は119系のするがシャトル転用)
  3. それでも2010年代には313系に置き換えられる。
  4. JR発足後は東海カラーに変更されていた。

105系0番台富山港線用

富山港線に105系0番台を投入する計画があったが、実現しなかった。

  1. 置き換え対象である72系と同じく青22号となっていた。
  2. 城川原車庫は廃止されなかった。
    • JR移行時に金沢の支所となっていた。
  3. 富山ライトレール転換時に他線区に転用される。

201系山手線用

国鉄時代、山手線に201系を導入する予定でしたが、当時の国鉄は財政難だった為製造費の高かった201系の導入を断念しました。もし、実現していたら?

  1. 205系の誕生が遅れていた。
    • 初導入の路線は横浜線だった。
      • いや、京浜東北線だったかもしれない。
    • 205系はJR東日本の車両として登場していた。
      • 関西地区に205系が投入されることはなかったかも。
  2. ウグイス色201系は1980年代の時点で見る事ができた。
    • ウグイス色の201系という都市伝説は生まれなかった。
  3. 山手線への6ドア車導入は史実のE231系500番台まで待つことに。
    • その場合、11両編成化が行われただろうか。
      • そもそも6ドア化無しで増車という可能性もある。
    • もしくはサロ124・125の如くサハ200がステンレス車体で製造されていた。(=史実のサハ204とほぼ同様)
      • E231系500番台投入以降は全車両が205系に編入改造されていた。
  4. 201系の性能をフルに発揮できていた。
    • 電機子チョッパ制御は低速で加減速が多いほうが省エネ効果が大きいため。
    • 201系に対する評価も大きく上がっていた。

205系中央・総武緩行線用

国鉄時代、山手線に次いで中央・総武緩行線へ投入することが計画されていたが、実現しなかった。東中野事故の補充として投入された2編成とは別物。

  1. 東西線直通用の301系・103系1200番台の帯色変更が早まっていた。
  2. 当時の津田沼電車区に集中投入され、101系・103系を置き換えていた。
    • よって209系500番台は存在しなかった。
    • 209系950番台は別の路線に投入されていた。
  3. 場合によっては中央・総武緩行線へE231系は投入されず、同線の201系・205系の置き換えはE233系が行っていたかもしれない。

401系(2代目)

常磐快速線電車の土浦延伸の為に計画された交直流形通勤電車。

  1. 415系ロングシート車は登場しなかった。
  2. 史実の401・403系は411・413系(史実とは別の車両)に形式変更された。
  3. それでも史実通りにE531系に置き換えられるが、全車ロングシートで製造された。

気動車

キハ47系両運転台車

キハ40の暖地仕様(2000番台)は当初両開き2扉のキハ47を両運転台にしたような形態になる予定でしたが、暖房配管の都合でキハ40と同様の片開き2扉になりました。

  1. 形式は「キハ41」という新形式が与えられていた。
    • 現実にキハ47を両運転台改造して登場した車両は本系列の新区分番台に分類されていた。
  2. トイレはキハ23・53と同じく運転台後部に設置されていた。
  3. キハ40の製造両数が減っていた。

ガスタービン車

非電化線区の高速化のために試作車としてキハ391系が製作されましたが、もし、量産車に相当する形式が登場したら?

  1. 高速化により非電化路線沿線の過疎化を遅らせることができた。
  2. 沿線では騒音問題が深刻化していた。
  3. 鉄道は環境を破壊する乗り物と非難されていた。
  4. 国鉄の財政を現実以上に逼迫させ民営化が5年早まっていた。
  5. 燃料費が莫大なものに。
  6. 後にターボ・エレクトリック方式のガスタービン機関車が開発され、北海道に投入されていた。
    • 電気系統の制御にはVVVF+IGBTが採用されている。
  7. 確実にニコニコ動画の「迷列車シリーズ」の題材にされていた。
  8. 電車列車の非電化路線直通が実現していた?
  9. 導入線区はどこになるか。電化が進んでいたせいで導入されなかったわけで。
    • 史実の振り子気動車が導入されている線区あたりか。
      • これらの後継車もガスタービン車。JR東海管内にあったらカミンズエンジンを使うのだろうけど。
      • 流石に2000年代以降は環境配慮とコストダウンで新車は製造されないが。

キクユニ

キハ10系列の気動車と併結するために計画された2軸の郵便荷物付随車。

  1. 使い勝手の悪さから、1両が試作されたのみで終わっていた可能性が高い。
    • その後の郵便荷物改造気動車の登場は史実通り。

新系列急行形気動車

国鉄末期、転換クロスシートの新系列急行形気動車が計画されましたが、実現しませんでした。もし、実現していたら?

  1. キハ151系になっていた。
    • キハ185系は登場しなかった。
      • 高徳線・徳島線では今も急行列車のまま。
      • 久大本線・豊肥本線も急行「由布」「火の山」のまま。
  2. 急行列車が現実より衰退することはなかった。
    • むしろ格下げ改造を前提とした設計で登場していた。
  3. 185系電車も急行形として製作され、171系電車になっていた。
    • 特急格上げもなく、「最悪の特急」と揶揄されることはなかった。
    • 373系も登場しなかった。

寝台気動車

10系客車ベースの急行用車両。

  1. 東京発九州行急行あたりに初投入されていた。
    • むしろ山陰急行あたりでは?
  2. 581系は誕生せず、153系寝台電車が誕生していたかもしれない。しかも新製車で。
    • 汎用性とを考えるとそれはないのでは?

ステンレス製特急形気動車

前後に動力車を配置した準動力集中方式。四国に投入されるはずだった。

  1. キハ185は無かった。
    • 振り子式気動車?なにそれ美味しいの?
      • 土讃線の速度向上などを考えるとTSE以降の振子車は史実通りなんじゃないだろうか。
        • 登場は90年代中頃になっていたかもしれない。
    • むしろこっちがキハ185系になっていたかと。
  2. 四国の特急は動力集中方式に・・・なったのかなあ。
    • JR東海のキハ85系辺りが動力集中型になっていたかもしれない。
  3. 基本的に3両編成になっていたと思われる。
  4. 使い勝手にもよるが、JR九州への売却はおそらく史実通り。
  5. 先頭動力車の形式は「キヤ」になっていた。

機関車

AH100形原子力機関車

原子力の技術的可能性を検討するため、調査目的として計画案として練られた車両。

  1. あくまでも調査目的なので1両のみ製造されていた。
  2. EH10を超える巨体であるため「マンモス」の愛称はこちらについていた。
  3. 仮に実用化された場合、日本の原子力発電はそれほど発展しなかったかもしれない。
  4. 少なくとも旅客運用にはついていない。

C63形蒸気機関車

設計図こそ完成したものの、製造には至らなかった。

  1. 国鉄最後の蒸気機関車となっていた。
  2. 1両は梅小路蒸気機関車館に保存されていた。
  3. 最後の地はやはり北海道か?
  4. 国鉄からSLが消える時期はおそらく史実と変わらなかった。
    • むしろ2~3年ほどずれて1978年10月改正の頃になっていた。
  5. 「やまぐち号」に使用されていた可能性もある。
  6. マイクロエースではなくKATOが模型化していた。

EB90形(AB90形)

ED71形を入換用蓄電池式機関車に改造する計画がありましたが、実現しませんでした。もし、実現していたら?

  1. 環境に優しい車両として注目されていた。
  2. 量産車は新車として製作された。
    • AB11形になっていたかも。
  3. DE10形の製作は打ち止めになっていた。
    • 国鉄分割民営化後はDE10は旅客会社にしか引き継がれなかった。
    • JR貨物へは本形式が引き継がれていた。
  4. 入換用機関車は蓄電池式機関車が主体になっていた。
    • ハイブリッド? 何それ?
      • HD300形は製作されなかった。

EF70形直流化改造車

1980年代初期、北陸本線へのEF81形進出により余剰化したEF70形を直流機に改造し、EF58形の代替車として東海道・山陽本線に投入する計画があったそうです。

  1. 交流専用のタップ制御は廃止され、基本的な制御装置は全てEF65形から流用される。
    • 最高出力も2550kWに揃えられる。
  2. 当時の国鉄の事情では、新形式の「EF68形」を名乗るのは困難だったかもしれない。
    • 結果、EF65形のジャンプナンバー(1500番代?)となる。
      • しかしカラーの塗り分けは0番代と共通。
    • EF70の1000番台車についてはEF65の550番台となり、塗り分けも500番台・1000番台と同じになる。
  3. JR発足時には全機JR西日本に引き継がれていた。
    • 史実のEF62形の代わりだが、民営化前に全機廃車の憂き目には遭わなかったかもしれない。
    • 但し、2011年現在まで稼動していたかどうかは不明。
  4. KATOの青のEF70は絶版にならなかった。

EH50形電気機関車

昼行客車特急の高速化を目的に導入が検討されていたが、151系(登場時は20系)電車の登場により幻になったようだ。もし、151系に先んじてこの車両が誕生していたら…

  1. 151系登場後は夜行列車の牽引に回されていた。
    • 今でもブルートレインを下関まで牽引している。
      • 1978年に史実通りEF65PFに置き換えられ、その後は荷物列車牽引で余生を送ったのち1986年に廃車。
  2. EF65はF機のみでP機は存在しなかった。
    • EF60の500番台も当然存在しなかった。
  3. その後の電気機関車史は違ったものになっている。
    • EF66やEF81は下手すると登場しなかったかもしれない・・。
    • EH50の交流版や交直流版が開発されることに・・。
  4. EH50にはクイル駆動方式が導入されていた可能性もあるので、もしEH50でクイル式が成功していたら、その後の国鉄電気機関車の駆動方式はクイル式が定番となる。
  5. 山陽新幹線全通後に一部がEH10に改造される。

ED95(ED63)

EF58やEF15の置き換え用として開発されていた、電機子チョッパ制御のD級直流電気機関車。まずED95を試作し、その後ED63として量産予定だったが、1982年11月のダイヤ改正で機関車が余って開発中止に。もし量産化されていたら?

  1. EF66のような流線形に、デッキ付の貫通扉(乗務員扉)という奇抜なデザインが、鉄道ファンの間で賛否両論となる。
  2. 民営化後にJR貨物が開発する機関車が、ステンレス車体になっていた。

客車

マイテ30

「かもめ」用に使われる予定だったドーム展望車。

  1. 計画とは異なり「つばめ」「はと」に投入され、捻出されたマイテ49あたりが「かもめ」に使われていた。
    • 当然青大将塗装にもなっていた。
  2. 後に事業用車に改造されていた。
    • 1960年から1963年の間は「かもめ」「みずほ」に使用された。その後は団体臨時列車に転用されたものの、東海道新幹線開業後は使用頻度が低下し1968年までに事業用車に改造され、1987年の国鉄民営化まで車籍が残った。

オニ22形

パンタグラフと電動発電機を搭載した直流区間専用の20系電源荷物車。実際には非電化区間兼用のカニ22形が登場したため実現しなかった。

  1. いずれは下関「あさかぜ」「瀬戸」「安芸」に集中使用される。
    • 「瀬戸」用の20系は最初から広島・下関所属だった。
  2. 24系に下枠交差型パンタグラフ搭載の電源車が登場する。
    • 代わりにスハ25が生まれない。
  3. やがて「銀河」へ転用され、オヤ22に改造される。
  4. むしろ使い勝手の問題から早期に淘汰されたか、あるいはディーゼル発電機に乗せ換えて簡易電源車に改造された。
    • マヤ20形は旧型客車からではなく、当形式から改造されていた。

その他

超音速滑走体

  • 昭和30年代後半から名城大学において実験が行われていたが計画断念に終わる。実現していれば東京-大阪間を14分で結ぶ事が出来たという。
    • 実用化するとすればおそらく国鉄だろうから便宜上ここへ。
  1. 新幹線以上に騒音が問題になっていた。
    • チューブ内を走る関係上全線地下になっていてもおかしくはない。
    • 軌道内は真空になるから音は伝わるかな?
  2. 実験では加速時に30Gもの衝撃がかかっていたそうなので、衝撃緩和に関しても対処がなされているはず。
  3. リニアモーターカーの計画はすぐさま放棄されていただろう。
  4. 大阪企業の東京移転、並びに関西経済の地盤沈下は現実より早いペースで起こっていた。
    • 大阪は東京の衛星都市みたいな感じになっていた。大阪から東京へ通勤する人もいたかも。
    • それでも大阪の昼夜間人口比率が100未満にはならないはず。
    • 逆に大阪企業の東京移転は抑制されていたかもしれない。
  5. 名古屋に停まっていたかどうかも気になるところ。
    • おそらく停車する列車もあるとは思うが、加速方式が普通の列車とは異なる(ロケットエンジンを使っていたらしい)のでノンストップが中心になっていたと思う。
    • もし停車できなかったとしたら史実の名古屋飛ばしの比ではないほどの大騒動になっていただろう。実験を行っていた名城大学が名古屋の大学である事を考えると尚更。
  6. 果たして運賃はどうなっていたか…。
    • 普通に考えるととてつもなく高くなっていたかも。
    • 現実のリニア新幹線はのぞみより1000円高くなるらしいが、この場合だと2倍~3倍高くなりそう。
      • 採算ベースにのせるには片道100万円以上かかるなんて話も。
  7. さすがに14分は無理だろうが、30分か45分で結ばれていたか。
  8. 航空機の国内線の数はかなり減っていた。
    • 伊丹空港・小牧空港は廃止になっていた。
  9. 死亡事故が起きて休止か廃止という可能性もあったかも。
  10. 後々アメリカでのハイパーループ建設の際の参考にされる。
  11. こうなっていた。

鉄道省のクルーズトレイン計画

1940年の東京オリンピックに合わせて計画されていたが、同大会の中止に伴い幻となった。

  1. ほぼ間違いなく客車として製造されていたと見られる。
  2. どちらにしろ終戦までまともな形で動くことはできなかった。
    • 戦中には展望車と同じく地方に疎開されていた。
      • 戦後は進駐軍専用列車に優先的に使用され、一般人が乗れるようになるまでには更なる時間を要した。
  3. 末期は専ら団体専用列車として使用され、バブル期のジョイフルトレインの投入でその役目を終えていた。
    • 現在ではこの車両がジョイフルトレインの始祖として扱われている。
    • 上手くいけば交通博物館→鉄道博物館への保存が実現していたかもしれない。

関連項目