もしあの鉄道車両が実用化されていたら/国鉄

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製造・改造に至らなかった車両がもし、実用化していたら?

  • 乱立防止の為、記載は実際に元ネタがあるものに限ります。
    • 項目内にそれに関する文章を書いていただければ幸いです。
  • 新規追加は「形式が若い順→形式不明(50音)」の順にお願いします。
  • 便宜上、実際に導入された形式の改造車についてもこちらで扱います。
関連項目

電車

新幹線

個室ひかり

夜行新幹線用として企画されたが、実現しなかった。

  1. 961形をベースに登場。
    • もしかしたらこっちが「100系」を名乗っていたか。
  2. いずれにしても国鉄分割民営化後、のぞみ登場と同時に消滅。
  3. 東北・上越新幹線にも同等の設備を有する車両が投入された。
    • 「スーパーやまびこ」中心の運用に使われる。
  4. 最後はこだま用として山陽新幹線で生涯を終えていた。
    • もしくは「ウエストひかり」を中心に運行していたかもしれない。

在来線特急用

187系電車

碓氷峠(横川-軽井沢間)を補機なしで自走できる特急形電車が計画されていましたが、実現しませんでした。もし、実現していたら?

  1. 量産車は新車として導入された。
    • 試作車だけ他車と異なるので阪神8000系第1編成のように珍車扱いされ、注目されていた。
  2. 187系をベースにした一般形電車も製作された。
    • 107系に似た車両になっていた。
      • 165系ベースでしょう。
  3. EF63形は史実より早く余剰廃車になっていた。
  4. 横川-軽井沢間が廃止されることはなかった。
  5. サロ183形がサロ110形300番代に改造されることはなかった。
    • サロ110形0番代が分割民営化後も多く生き残っていた。
      • 153系の生き残りとして注目されていた。
  6. 北陸新幹線開業後は「あずさ」に転用されていた。
    • E257系は製作されなかった。
    • 房総特急で活躍しているかも。
    • 史実通り製造された場合、新型NEXと似た感じの車両になり、E257と259の形式があべこべになる。
      • 妙高、ムーンライト信州は187系で運行。
        • 日光、きぬがわは187系が種車だった可能性も。
      • 183系のように波動用で活躍。
      • むしろキハ183系500番台に似た車両になっていた。
  7. 勢い余って487系もできる。
    • ただし、国鉄がそこまで赤字でなかった場合。
    • 「白山」に投入されていた。
      • 「白山」廃止後は「能登」に転用。
        • 「能登」は上越線経由にならなかった。
  8. 189系は電化されたばかりの北近畿地区に転用されていた。
    • 183系485系改造車はなかった。
      • 七尾線電化後も普通列車は気動車のままだった。
        • 七尾線には521系が新製投入されていた。
  9. 平坦区間でも電気を無駄食いするため、「扱いにくい」車両になっていた。
    • このため他に転用する際一部車両が電装解除されていた。
    • 結局EF200の二の舞になり、早期淘汰の対象に。
      • EF63の余剰廃車が早かっただけでは?

福知山・山陰本線用381系

福知山・山陰本線の特急「北近畿(現・こうのとり)」には381系新造車を投入する計画がありましたが結局は他から485系が転用されました。

  1. 381系は国鉄分割民営化直前の1980年代中盤まで製造されていた。
  2. 振り子式車両なので「北近畿」の所要時間は短縮されていた。
  3. それでも山陰本線京都口電化開業時の「はしだて」「きのさき」「たんば」用には北陸本線から485系が転用されていた。
  4. 287系が初めて投入されたのは紀勢本線の「くろしお」だった。
    • 現実と異なり振り子式になっていたかも。
  5. 福知山線用の増備車の座席は簡易リクライニングシートではなく、100系新幹線などと同様の背面テーブル付き新型リクライニングシートとなっていた。

交直流対応振子式特急車両

591系として開発が進んでましたが、投入予定路線である東北本線に平行して東北新幹線を建設することが決まったため各地を転々とし、結局は381系として製造されました。

  1. 東北新幹線が開業する前までは「ひばり」に先行投入されていた。
    • その後北陸や九州に転用。
  2. 485系の量産数が減っていた。

急行・近郊用

モハ70系

湘南電車投入計画の一つに「63系を3扉にしたようなロングシートの車両にする」案があったそうです

  • なお、ここで述べるモハ70系は史実とは別の車両です。
  1. 後継の111系などの近郊型電車もオールロングシートになっていたかもしれない。
    • それでも地方線区に転用されるときはセミクロスシートに改造されていた可能性も。
  2. 185系・117系の登場が早まったか。

113系1000番台初期車の総武快速・横須賀地下線乗り入れ

113系1000番台は総武快速・横須賀地下線への乗り入れを視野に入れて製造されましたが、初期車は地下線に乗り入れることはなく、早いうちに他線へ転用されました。

  1. さすがにATC設置改造くらいはされている。
  2. その分、0番台が史実より多く製造されていた。
  3. 更新時期が早まるので211系・213系総武快速・横須賀線用の登場が実現していた。
  4. クハ111-1310が阪和線に転出することなく、阪和色の113系1000番台は存在しなかった。
    • 湘南色の113系1000番台も国鉄時代には存在していなかった。

サロ115形

115系のグリーン車(1等車)として全自動ドア装備で検討された。

東北・高崎線用新製車
  1. 普通車より一足早く冷房化された。
  2. 15両化も早まっていた。
  3. サロ165-14がスカ色にならなかった。
  4. 1973年の暴動がもっと大規模になっていた。
    • だが事件後に急行型使用の普通列車グリーン車が自由開放されることはなかった。
  5. 211系1000・3000番台も最初からサロを組み込んで登場したため、サハ211の製造両数は少なかった。
宇野線用改造車

四国連絡快速用にサロ113を改造しての投入が計画された。

  1. 首都圏で113系グリーン車が不足し、特急・急行型からのサロ110への編入改造が史実より多く行われた。
  2. 備讃ライナー→マリンライナーにもグリーン車がついている。

117系関東仕様

急行「伊豆」の153系の置き換え用としてデッキのない転換クロスシート車両(=117系)が考えられていたが、居住性に問題があると判断され、さらに「伊豆」の特急格上げが決まったことにより結局は185系となった。

  1. 特急「あまぎ」と急行「伊豆」の統合は遅れていた可能性が高い。統合は分割民営化後になった可能性も十分考えられる。
    • 「谷川」「草津」「あかぎ」「なすの」の特急格上げも遅れた。下手すりゃ「なすの」は廃止まで急行だった。
      • 逆に快速に格下げされた可能性も。
  2. 「新特急」と言う名称は存在しなかった。
  3. 通勤形である事を生かして休日臨時快速→快速アクティーにも使われていた。
    • しかし2ドアのため遅延多発。211系に置き換えられていた。
  4. 結局有料新快速扱いされるのは変わらない。

123系クモユ143形改造車

郵便輸送廃止で余剰となったクモユ143形を国鉄所有にして123系への改造も考えられていたが、実現しなかった。

  1. 旧型国電は国鉄時代に全廃することが出来ていた。
    • しかし、車両不足からクモハ84形の登場は史実通りになるだろう。
  2. 小野田線本山支線や鶴見線大川支線に投入されていた。
  3. 冷房装置は郵便車時代のものを再利用していた。

153系寝台電車

夜行寝台急行列車の電車化が計画され、本系列を寝台車電車に改造・投入するものであった。

  1. 急行銀河の廃止が数年伸びていた。
  2. 急行きたぐに(大阪ー青森)の車両にも使われていたかもしれない。
    • 153系は直流専用だから無理があるのでは?
      • 451~475系ベースの交直両用版が開発される。
  3. 581系は誕生しなかった。
  4. 国鉄末期に通勤格下げ車両が出現していたりして。
  5. 「ちくま」が客車に戻されることはなかった。

163系電車

付随車のみ存在したが、当初は153系の出力アップ型として165系と同時期に暖地向けに導入が検討されていたようだ。(ただし抑速ブレーキはなし。)もしこれが実用化されていたら…、

  1. 結局、新幹線の延伸や特急運転区間の拡大で余剰となり、113系増備のための種車となってしまう。
    • 113系1500番台や2000番台はこの車両のハコ替えだった。
  2. あるいは大阪地区の新快速は153系が撤退した後、この車両を部分改造して充当される。
  3. いずれは車種統一のため抑速ブレーキ取り付け改造を行い165系に編入された。
    • 1975年の山陽新幹線博多開業時に改造され、165系200番台となる。また、捻出したCS12系制御器はその頃増備された113系新製冷房車に転用。
    • 平坦地向けなので、東京~下田・修繕寺および房総急行に使用されていた.
    • 捻出した153系は、3ドア化・デッキ撤去のうえ、静岡・名古屋地区の普通電車に転用。
    • 抑速付けられるのなら瀬野八も越えられるな!→「安芸」他に導入。

185系急行形電車

元々急行形電車として開発されましたが、投入予定だった急行伊豆が特急に格上げ(踊り子)されたため、本来の用途ではない特急形として運用されることになりました。もし、急行形として投入されていたら?

  1. 国鉄末期の急行列車の統廃合で余剰化。
    • 波動用として重宝される。
    • ジョイフルトレインとして改造される車両も登場。

211系・213系電車総武快速・横須賀線用

国鉄時代、総武快速・横須賀線にも211系・213系電車を投入する計画がありましたが、実現しませんでした。もし、実現していたら?

  1. 基本11両編成、付属4両編成になっていた。
  2. 111系は国鉄時代に形式消滅していた。
    • 四国には史実より早く113系が配置されていた。
  3. 動労千葉の勢力は弱くなっていた。
    • 弱くなるというか、元々弱いからこうなったわけで。
  4. E217系は製作されなかった。
    • 今頃、E231系かE233系に置き換えられ、房総各線に転用されている。
      • 東海道線と同時期にE233に置き換えが一番ありそう。
      • わざわざスカ色から変える必要性がないので菜の花色は存在しない可能性も。
      • 209系は北関東か長野送り。
  5. 213系は2ドア転換クロスシートというより1M方式という認識となっていた。
    • JR東海の211系6000番台は213系6000番台として登場していた。
  6. JR発足後には2階建てグリーン車が組み込まれていた。

211系関西地区用

京阪神の新快速用や福知山線電化用として投入する計画があったが、前者は117系のマイナーチェンジ車(100番台)が、後者は113系初期車を改造(800番台)して投入された。もし、関西地区にも211系が投入されていたら?

  1. 221系が開発されなかった。
    • 現実の223系が221系を名乗っていた。新快速に3扉転換クロスシート車が投入されるのは阪神・淡路大震災後の輸送力増強が名目だった。
      • 新快速用は117系と比べて見劣りがしたので後にこれに置き換えられていた。
  2. 大和路線や阪和線にも投入されていた。
  3. 今頃は体質改善工事が行われ転換クロスシートに改造されている。
    • むしろ製造当初から転換クロスシートになっていたのでは?
      • 3ドア初の転換クロスシートといえば近鉄5200系ではなくこの車両のことを指していた。
  4. カラーリングは千葉地区用に似たものになっていた。
  5. 1000番代をベースに製造され、1500番代に区分されていた。

211系広島地区用

国鉄の財政難で話が消えたらしい

  1. 111系・115系に廃車が発生していた。
  2. もしかしたら岡山地区に転属して213系と共通運用になっていた。
  3. 227系導入で廃車になっていたかも。
  4. 温暖な地域とはいえ、1000番台をベースに導入されていたと思われる。
  5. カラーリングは115系3000番台に倣い、青20号の帯を施していた。
    • 415系1500番台と混同されていた。

413系電車475系改造車

413系電車は475系電車からの改造計画もありましたが、実現しませんでした。もし、413系電車が475系電車までも改造されていたら?

  1. 471系・475系の延命工事はなかった。
  2. 521系は419系の置き換え分で製造が打ちきられていた。
  3. 若い車体を活用して機器更新がされていた。
  4. 413系200番台になっていた。

793系

サイリスタ位相制御+回生ブレーキ搭載の3扉交流電車

  1. 鹿児島本線博多地区か東北本線仙台地区に投入されていた。
  2. 417系・713系はなかったかも。

4扉近郊電車

1960年代に101系と同等の車体でオールクロスの車両が計画されていた。

  1. 首都圏の混雑が緩和されていた。
    • しかし上尾事件は史実どおり起こった。
  2. 近郊形・通勤形車両の区分が曖昧化し、その後の形式は一般形と称するようになっていた。
  3. 実史の近鉄2610系がそうだったように、クロスシートのシートピッチが狭すぎたため後年オールロングシートに改造されていた。

三扉簡易寝台電車

  • 平日は横須賀線の通勤用、休日は中央線登山客の仮眠用として使用される予定だったが、実用性に乏しいので却下された。
  1. 上記内容を見るに塗装はスカ色で間違いないだろう。
  2. いずれ簡易寝台が邪魔になり、115系に編入改造される。
  3. 中央東線・篠ノ井線の夜行普通列車はこの車両で電車化された。

通勤用

72系970番台武蔵野線用

武蔵野線用に投入が計画されていました。

  1. いずれ103系3000番台への編入改造が行われていた。
  2. 101系1000番台は存在しなかった。
  3. 武蔵野線への205系の投入数はもう少し多かったかもしれない。
  4. ナンバーがインフレ化し、6桁台に突入していた。

101系横須賀線用

かつて横須賀線の逗子~久里浜間の輸送力の適正化と高頻度運転化の為、101系の投入が検討されていました。

  1. 横須賀線は逗子で分断されていた。
  2. 国鉄末期からJR初期の間に103系への置き換えが行われていた。
    • その後E217系の付属編成で置き換え。
      • 場合によっては205系か209系が転用されていたかもしれない。

101系常磐快速線用

中間加速度が劣る103系にかわり、赤羽線と京浜東北線から101系を転属させる話があったようだ

  1. 常磐緩行線の103系は常磐快速線に転用されなかった。
    • 105系に改造される車両が増えていたかもしれない。
  2. 常磐線快速電車の15両化が遅れていた。
    • 上記の緩行線103系を快速線に転用できなかったので。
    • E501系の製造量数が増えていたかも。

103系5扉車

103系の開発にあたって1両辺りのドアの数を5つとすることが検討されていたが、車両に冷房などない時代に窓面積が減少するのは厳しいとして没となった。

  1. その後の通勤車両は5扉がデフォになっていた。
    • サハ204は7扉になっていた。
    • 各路線へのホームドアの設置が遅れていたかもしれない。
  2. 冷房化が早まっていたかもしれない。
  3. 京阪5000系の影が薄くなっていた。
    • 但し同系で初採用された座席昇降装置は現実よりも普及していたかも。

103系1000番台筑肥線転用

1980年代当時の鉄道雑誌に噂として書かれていたようです。

  1. 転用にあたって塗装はブルー系に変更されていた。
  2. さすがに冷房改造は行われていただろう。
    • もし行われなかった場合、福岡市営の車両との格差はさらに大きくなっていた。
  3. これの置き換え用として303系の投入両数が増えていた。
    • 305系は登場しなかった。
  4. 103系1500番台は登場しなかった代わり、奈良・和歌山線電化時には新造の105系0番台が投入されていた。

仮称105系電車

京阪神緩行線への投入が考えられていた駅間距離の長い線区向けの4扉通勤形電車。史実の105系とは異なる。もしこの車両が登場していたら…。

  1. 103系は現実ほど製造両数が多くならなかった。
  2. 101系のMT54搭載版という位置づけになっていた。
    • 歯車比は1:5.60で、419系や715系と同じ走行音を立てていた。
    • 付随車の形式は101系と共用するが、前面形状が103系と同時に変更される。
  3. 史実の105系は「107系」になっていた。
    • こちらもMT54を搭載していた。
      • 119系も。
    • 史実の107系は「109系」
  4. 常磐快速線にもこの車両が投入される。
    • 中央快速線にも特別快速用としてこの車両が投入されていた。中央快速線向けは高尾以西への直通を考慮してパンタグラフ部分が低屋根(若しくはPS24形パンタ搭載)とされ、モハ104形800番台が製造されていた(?).
      • 201系の初導入先は中央総武緩行線だった。
  5. 東武8000系は「私鉄の103系」ではなく「私鉄の105系」と呼ばれていた。因みに性能面では東武8000系は103系よりもむしろ仮称105系に近い。
    • いや103系でしょ。規模的に。
  6. その後321系により駆逐。環状線や広島地区に転属。
    • 國鐵廣島では103系の中間車として活用される例も現れる。

105系(汎用電車)

ロングシート・クロスシートの両方に転換可能なタイプの座席で計画されていたという。

  1. ホリデー快速によく使用されていた。
  2. 首都圏中電のオールロング化が遅れていた。
  3. 民営化後、ホームライナーに使用されるが、苦情が来たため数年で中止。
  4. 近鉄L/Cカーは現実よりも早く登場していた。
    • 5200系は登場しなかったかもしれない。その場合JR西日本221系などにも影響を与えていた。
  5. 首都圏の大手私鉄にも類似の車両が投入されていたかもしれない。
    • その場合、首都圏でも平日昼間や休日は運賃だけでクロスシートに乗れるようになっていた。その結果国鉄→JRとの競争が有利になりJRのグリーン料金も安くなっていたかもしれない。
    • 京急2000形はこのタイプの座席かつ3扉で登場していた。2100形は登場せず、二代目600形がこのタイプの座席で登場し増備されていた。
    • 東武6050系や西武4000系もこのタイプの座席かつ3扉で登場していた。

105系0番台飯田線用

飯田線豊橋口用に105系0番台を投入する計画があったが、実現しなかった。

  1. 飯田線の普通列車に165系が転用されることはなかった。
    • それでも119系の投入は史実通り。
  2. しかし、トイレなし車両で長距離運用に不向きな車両であるため、結局は飯田線に165系が再配置され、静岡地区に転用される。
    • ここでも他の近郊型と性能が合わないため、結局は211系に追われる形で御殿場線に転用される。
      • よって、御殿場線に211系6000番代が投入されることはなかった。
    • 119系と運用を交換してするがシャトルに転用していたかも?(なお165系再配置の理由は119系のするがシャトル転用)
  3. それでも2010年代には313系に置き換えられる。
  4. JR発足後は東海カラーに変更されていた。

105系0番台富山港線用

富山港線に105系0番台を投入する計画があったが、実現しなかった。

  1. 置き換え対象である72系と同じく青22号となっていた。
  2. 城川原車庫は廃止されなかった。
    • JR移行時に金沢の支所となっていた。
  3. 富山ライトレール転換時に他線区に転用される。

201系山手線用

国鉄時代、山手線に201系を導入する予定でしたが、当時の国鉄は財政難だった為製造費の高かった201系の導入を断念しました。もし、実現していたら?

  1. 205系の誕生が遅れていた。
    • 初導入の路線は横浜線だった。
      • いや、京浜東北線だったかもしれない。
    • 205系はJR東日本の車両として登場していた。
      • 関西地区に205系が投入されることはなかったかも。
  2. ウグイス色201系は1980年代の時点で見る事ができた。
    • ウグイス色の201系という都市伝説は生まれなかった。
  3. 山手線への6ドア車導入は史実のE231系500番台まで待つことに。
    • その場合、11両編成化が行われただろうか。
      • そもそも6ドア化無しで増車という可能性もある。
    • もしくはサロ124・125の如くサハ200がステンレス車体で製造されていた。(=史実のサハ204とほぼ同様)
      • E231系500番台投入以降は全車両が205系に編入改造されていた。
  4. 201系の性能をフルに発揮できていた。
    • 電機子チョッパ制御は低速で加減速が多いほうが省エネ効果が大きいため。
    • 201系に対する評価も大きく上がっていた。

205系中央・総武緩行線用

国鉄時代、山手線に次いで中央・総武緩行線へ投入することが計画されていたが、実現しなかった。東中野事故の補充として投入された2編成とは別物。

  1. 東西線直通用の301系・103系1200番台の帯色変更が早まっていた。
  2. 当時の津田沼電車区に集中投入され、101系・103系を置き換えていた。
    • よって209系500番台は存在しなかった。
    • 209系950番台は別の路線に投入されていた。
  3. 場合によっては中央・総武緩行線へE231系は投入されず、同線の201系・205系の置き換えはE233系が行っていたかもしれない。

401系(2代目)

常磐快速線電車の土浦延伸の為に計画された交直流形通勤電車。

  1. 415系ロングシート車は登場しなかった。
  2. 史実の401・403系は411・413系(史実とは別の車両)に形式変更された。
  3. それでも史実通りにE531系に置き換えられるが、全車ロングシートで製造された。

気動車

キハ47系両運転台車

キハ40の暖地仕様(2000番台)は当初両開き2扉のキハ47を両運転台にしたような形態になる予定でしたが、暖房配管の都合でキハ40と同様の片開き2扉になりました。

  1. 形式は「キハ41」という新形式が与えられていた。
    • 現実にキハ47を両運転台改造して登場した車両は本系列の新区分番台に分類されていた。
  2. トイレはキハ23・53と同じく運転台後部に設置されていた。
  3. キハ40の製造両数が減っていた。

ガスタービン車

非電化線区の高速化のために試作車としてキハ391系が製作されましたが、もし、量産車に相当する形式が登場したら?

  1. 高速化により非電化路線沿線の過疎化を遅らせることができた。
  2. 沿線では騒音問題が深刻化していた。
  3. 鉄道は環境を破壊する乗り物と非難されていた。
  4. 国鉄の財政を現実以上に逼迫させ民営化が5年早まっていた。
  5. 燃料費が莫大なものに。
  6. 後にターボ・エレクトリック方式のガスタービン機関車が開発され、北海道に投入されていた。
    • 電気系統の制御にはVVVF+IGBTが採用されている。
  7. 確実にニコニコ動画の「迷列車シリーズ」の題材にされていた。
  8. 電車列車の非電化路線直通が実現していた?
  9. 導入線区はどこになるか。電化が進んでいたせいで導入されなかったわけで。
    • 史実の振り子気動車が導入されている線区あたりか。
      • これらの後継車もガスタービン車。JR東海管内にあったらカミンズエンジンを使うのだろうけど。
      • 流石に2000年代以降は環境配慮とコストダウンで新車は製造されないが。

キクユニ

キハ10系列の気動車と併結するために計画された2軸の郵便荷物付随車。

  1. 使い勝手の悪さから、1両が試作されたのみで終わっていた可能性が高い。
    • その後の郵便荷物改造気動車の登場は史実通り。

新系列急行形気動車

国鉄末期、転換クロスシートの新系列急行形気動車が計画されましたが、実現しませんでした。もし、実現していたら?

  1. キハ151系になっていた。
    • キハ185系は登場しなかった。
      • 高徳線・徳島線では今も急行列車のまま。
      • 久大本線・豊肥本線も急行「由布」「火の山」のまま。
  2. 急行列車が現実より衰退することはなかった。
    • むしろ格下げ改造を前提とした設計で登場していた。
  3. 185系電車も急行形として製作され、171系電車になっていた。
    • 特急格上げもなく、「最悪の特急」と揶揄されることはなかった。
    • 373系も登場しなかった。

寝台気動車

10系客車ベースの急行用車両。

  1. 東京発九州行急行あたりに初投入されていた。
    • むしろ山陰急行あたりでは?
  2. 581系は誕生せず、153系寝台電車が誕生していたかもしれない。しかも新製車で。
    • 汎用性とを考えるとそれはないのでは?

ステンレス製特急形気動車

前後に動力車を配置した準動力集中方式。四国に投入されるはずだった。

  1. キハ185は無かった。
    • 振り子式気動車?なにそれ美味しいの?
      • 土讃線の速度向上などを考えるとTSE以降の振子車は史実通りなんじゃないだろうか。
        • 登場は90年代中頃になっていたかもしれない。
    • むしろこっちがキハ185系になっていたかと。
  2. 四国の特急は動力集中方式に・・・なったのかなあ。
    • JR東海のキハ85系辺りが動力集中型になっていたかもしれない。
  3. 基本的に3両編成になっていたと思われる。
  4. 使い勝手にもよるが、JR九州への売却はおそらく史実通り。
  5. 先頭動力車の形式は「キヤ」になっていた。

機関車

AH100形原子力機関車

原子力の技術的可能性を検討するため、調査目的として計画案として練られた車両。

  1. あくまでも調査目的なので1両のみ製造されていた。
  2. EH10を超える巨体であるため「マンモス」の愛称はこちらについていた。
  3. 仮に実用化された場合、日本の原子力発電はそれほど発展しなかったかもしれない。
  4. 少なくとも旅客運用にはついていない。

C63形蒸気機関車

設計図こそ完成したものの、製造には至らなかった。

  1. 国鉄最後の蒸気機関車となっていた。
  2. 1両は梅小路蒸気機関車館に保存されていた。
  3. 最後の地はやはり北海道か?
  4. 国鉄からSLが消える時期はおそらく史実と変わらなかった。
    • むしろ2~3年ほどずれて1978年10月改正の頃になっていた。
  5. 「やまぐち号」に使用されていた可能性もある。
  6. マイクロエースではなくKATOが模型化していた。

EB90形(AB90形)

ED71形を入換用蓄電池式機関車に改造する計画がありましたが、実現しませんでした。もし、実現していたら?

  1. 環境に優しい車両として注目されていた。
  2. 量産車は新車として製作された。
    • AB11形になっていたかも。
  3. DE10形の製作は打ち止めになっていた。
    • 国鉄分割民営化後はDE10は旅客会社にしか引き継がれなかった。
    • JR貨物へは本形式が引き継がれていた。
  4. 入換用機関車は蓄電池式機関車が主体になっていた。
    • ハイブリッド? 何それ?
      • HD300形は製作されなかった。

EF70形直流化改造車

1980年代初期、北陸本線へのEF81形進出により余剰化したEF70形を直流機に改造し、EF58形の代替車として東海道・山陽本線に投入する計画があったそうです。

  1. 交流専用のタップ制御は廃止され、基本的な制御装置は全てEF65形から流用される。
    • 最高出力も2550kWに揃えられる。
  2. 当時の国鉄の事情では、新形式の「EF68形」を名乗るのは困難だったかもしれない。
    • 結果、EF65形のジャンプナンバー(1500番代?)となる。
      • しかしカラーの塗り分けは0番代と共通。
    • EF70の1000番台車についてはEF65の550番台となり、塗り分けも500番台・1000番台と同じになる。
  3. JR発足時には全機JR西日本に引き継がれていた。
    • 史実のEF62形の代わりだが、民営化前に全機廃車の憂き目には遭わなかったかもしれない。
    • 但し、2011年現在まで稼動していたかどうかは不明。
  4. KATOの青のEF70は絶版にならなかった。

EH50形電気機関車

昼行客車特急の高速化を目的に導入が検討されていたが、151系(登場時は20系)電車の登場により幻になったようだ。もし、151系に先んじてこの車両が誕生していたら…

  1. 151系登場後は夜行列車の牽引に回されていた。
    • 今でもブルートレインを下関まで牽引している。
      • 1978年に史実通りEF65PFに置き換えられ、その後は荷物列車牽引で余生を送ったのち1986年に廃車。
  2. EF65はF機のみでP機は存在しなかった。
    • EF60の500番台も当然存在しなかった。
  3. その後の電気機関車史は違ったものになっている。
    • EF66やEF81は下手すると登場しなかったかもしれない・・。
    • EH50の交流版や交直流版が開発されることに・・。
  4. EH50にはクイル駆動方式が導入されていた可能性もあるので、もしEH50でクイル式が成功していたら、その後の国鉄電気機関車の駆動方式はクイル式が定番となる。
  5. 山陽新幹線全通後に一部がEH10に改造される。

ED95(ED63)

EF58やEF15の置き換え用として開発されていた、電機子チョッパ制御のD級直流電気機関車。まずED95を試作し、その後ED63として量産予定だったが、1982年11月のダイヤ改正で機関車が余って開発中止に。もし量産化されていたら?

  1. EF66のような流線形に、デッキ付の貫通扉(乗務員扉)という奇抜なデザインが、鉄道ファンの間で賛否両論となる。
  2. 民営化後にJR貨物が開発する機関車が、ステンレス車体になっていた。

客車

マイテ30

「かもめ」用に使われる予定だったドーム展望車。

  1. 計画とは異なり「つばめ」「はと」に投入され、捻出されたマイテ49あたりが「かもめ」に使われていた。
    • 当然青大将塗装にもなっていた。
  2. 後に事業用車に改造されていた。
    • 1960年から1963年の間は「かもめ」「みずほ」に使用された。その後は団体臨時列車に転用されたものの、東海道新幹線開業後は使用頻度が低下し1968年までに事業用車に改造され、1987年の国鉄民営化まで車籍が残った。

オニ22形

パンタグラフと電動発電機を搭載した直流区間専用の20系電源荷物車。実際には非電化区間兼用のカニ22形が登場したため実現しなかった。

  1. いずれは下関「あさかぜ」「瀬戸」「安芸」に集中使用される。
    • 「瀬戸」用の20系は最初から広島・下関所属だった。
  2. 24系に下枠交差型パンタグラフ搭載の電源車が登場する。
    • 代わりにスハ25が生まれない。
  3. やがて「銀河」へ転用され、オヤ22に改造される。
  4. むしろ使い勝手の問題から早期に淘汰されたか、あるいはディーゼル発電機に乗せ換えて簡易電源車に改造された。
    • マヤ20形は旧型客車からではなく、当形式から改造されていた。

その他

超音速滑走体

  • 昭和30年代後半から名城大学において実験が行われていたが計画断念に終わる。実現していれば東京-大阪間を14分で結ぶ事が出来たという。
    • 実用化するとすればおそらく国鉄だろうから便宜上ここへ。
  1. 新幹線以上に騒音が問題になっていた。
    • チューブ内を走る関係上全線地下になっていてもおかしくはない。
    • 軌道内は真空になるから音は伝わるかな?
  2. 実験では加速時に30Gもの衝撃がかかっていたそうなので、衝撃緩和に関しても対処がなされているはず。
  3. リニアモーターカーの計画はすぐさま放棄されていただろう。
  4. 大阪企業の東京移転、並びに関西経済の地盤沈下は現実より早いペースで起こっていた。
    • 大阪は東京の衛星都市みたいな感じになっていた。大阪から東京へ通勤する人もいたかも。
    • それでも大阪の昼夜間人口比率が100未満にはならないはず。
    • 逆に大阪企業の東京移転は抑制されていたかもしれない。
  5. 名古屋に停まっていたかどうかも気になるところ。
    • おそらく停車する列車もあるとは思うが、加速方式が普通の列車とは異なる(ロケットエンジンを使っていたらしい)のでノンストップが中心になっていたと思う。
    • もし停車できなかったとしたら史実の名古屋飛ばしの比ではないほどの大騒動になっていただろう。実験を行っていた名城大学が名古屋の大学である事を考えると尚更。
  6. 果たして運賃はどうなっていたか…。
    • 普通に考えるととてつもなく高くなっていたかも。
    • 現実のリニア新幹線はのぞみより1000円高くなるらしいが、この場合だと2倍~3倍高くなりそう。
      • 採算ベースにのせるには片道100万円以上かかるなんて話も。
  7. さすがに14分は無理だろうが、30分か45分で結ばれていたか。
  8. 航空機の国内線の数はかなり減っていた。
    • 伊丹空港・小牧空港は廃止になっていた。
  9. 死亡事故が起きて休止か廃止という可能性もあったかも。
  10. 後々アメリカでのハイパーループ建設の際の参考にされる。
  11. こうなっていた。

鉄道省のクルーズトレイン計画

1940年の東京オリンピックに合わせて計画されていたが、同大会の中止に伴い幻となった。

  1. ほぼ間違いなく客車として製造されていたと見られる。
  2. どちらにしろ終戦までまともな形で動くことはできなかった。
    • 戦中には展望車と同じく地方に疎開されていた。
      • 戦後は進駐軍専用列車に優先的に使用され、一般人が乗れるようになるまでには更なる時間を要した。
  3. 末期は専ら団体専用列車として使用され、バブル期のジョイフルトレインの投入でその役目を終えていた。
    • 現在ではこの車両がジョイフルトレインの始祖として扱われている。
    • 上手くいけば交通博物館→鉄道博物館への保存が実現していたかもしれない。

関連項目