「武将伝/日本」の版間の差分

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#平将門と示し合わせて乱を起こしたと言われているが、疑わしい。
#平将門と示し合わせて乱を起こしたと言われているが、疑わしい。
#*将門が敗死するまでは大した動きを見せていないので。
#*将門が敗死するまでは大した動きを見せていないので。
#のちの住友財閥の祖先。


===小野好古===
===小野好古===
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===源護===  
===源護===  
#「みなもとのまもる」と読むらしい。無理だw
#「みなもとのまもる」と読むらしい。無理だw
#*どう考えても「げんご」だろw
#平将門に喧嘩売ってフルボッコにされる。
#平将門に喧嘩売ってフルボッコにされる。


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<!--#*白河法皇の寵愛を受けた祇園女御の猶子となった。女御の妹が生母だろうと言われているが、この妹も白河法皇の側室のひとりで、妊娠したまま平忠盛に下げ渡されたのではないかと。-->
<!--#*白河法皇の寵愛を受けた祇園女御の猶子となった。女御の妹が生母だろうと言われているが、この妹も白河法皇の側室のひとりで、妊娠したまま平忠盛に下げ渡されたのではないかと。-->
#*少年時代からおそろしく官位の昇進が早かったのがその傍証とされる。
#*少年時代からおそろしく官位の昇進が早かったのがその傍証とされる。
#*防衛規制における合理化の一種。貴族たちの嫉妬や武力への畏怖が、こんな噂を生んだ気もする。
#福原(現在の[[神戸市|神戸]]あたり)に遷都しようとした。
#福原(現在の[[神戸市|神戸]]あたり)に遷都しようとした。
<!--#*音戸ノ瀬戸の開鑿や厳島神社の保護などと合わせて、瀬戸内海を通じて海外交易を盛んにしようとした清盛の考え方が見て取れる。日本最初の重商主義者と言っても良い。-->
<!--#*音戸ノ瀬戸の開鑿や厳島神社の保護などと合わせて、瀬戸内海を通じて海外交易を盛んにしようとした清盛の考え方が見て取れる。日本最初の重商主義者と言っても良い。-->
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#海を渡ってチンギス汗になった……という壮大な説もある。
#海を渡ってチンギス汗になった……という壮大な説もある。
#*機動騎馬隊の活用以外、あんまり共通点は無さそうだが。
#*機動騎馬隊の活用以外、あんまり共通点は無さそうだが。
===那須与一===
#源平合戦のうち、屋島の戦いで海上から扇を射抜いた伝承で有名な人。
#通称「与一」。本名・宗高(むねたか)。
#*本当は十一男だったので「余一」、つまり「余り者」だったらしい。義経に従ったのは、実家に居ても余り者扱いで、うだつが上がりそうになかったからだとか。


==鎌倉時代の武将==
==鎌倉時代の武将==
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#*旅費を作るため、家財産の一切を処分したらしい。訴えが認められなかったらそのままホームレスになるところだった。
#*旅費を作るため、家財産の一切を処分したらしい。訴えが認められなかったらそのままホームレスになるところだった。
#**馬も売り払ったので、当然全部徒歩。
#**馬も売り払ったので、当然全部徒歩。
#**中世の裁判は、原告が動かないと全く進まないからしょうがない。
#*幸い安達泰盛に訴えが認められ、地頭に取り立てられる。
#*幸い安達泰盛に訴えが認められ、地頭に取り立てられる。
#自分の活躍を劇画にする。
#自分の活躍を劇画にする。
#*「蒙古襲来絵詞」という。この劇画のおかげで、元寇の実態がかなりわかる。
#*「蒙古襲来絵詞」という。この劇画のおかげで、元寇の実態がかなりわかる。
#**ただし加筆や修正が多すぎる。科学調査をしても、どこまでが元のままか分からないレベル。
#*状況からすれば、モンゴル兵が悪鬼のように書かれていても不思議でないのに、のどかさを感じるシーンがあるほど自然に書かれている。単に絵師が描けなかっただけかもしれないが。


===楠木正成===
===楠木正成===
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#「七生滅敵」の言葉と南朝方の忠臣だったことから戦時中のヒーロー。
#「七生滅敵」の言葉と南朝方の忠臣だったことから戦時中のヒーロー。
#*[[皇居]]外苑に銅像がある。外国の方も写真撮ってたりするが、↑のことは、、、忘れておいてください。
#*[[皇居]]外苑に銅像がある。外国の方も写真撮ってたりするが、↑のことは、、、忘れておいてください。
#**銅像自体は高村光雲作の戦前日本を代表する名品。写真に撮りたくもなるだろ。
#*明治になってから正一位を追贈された。
#*明治になってから正一位を追贈された。
#籠城戦では熱湯かけたりウンコかけたり。
#籠城戦では熱湯かけたりウンコかけたり。
#*''自称''100万の敵に勝利
#*ガセネタばらまいて空き城を大軍で攻めさせる手も使い、「騙される方が悪いんや!ざまみい!」と高笑い。


===新田義貞===
===新田義貞===
#後醍醐天皇麾下の総大将だったのに、戦前は楠木正成の人気に隠れ、戦後は足利尊氏復権のあおりを食って二流武将扱いされ続けている不遇な人。
#後醍醐天皇麾下の総大将だったのに、戦前は楠木正成の人気に隠れ、戦後は足利尊氏復権のあおりを食って二流武将扱いされ続けている不遇な人。
#*よく調べれば、すごく頑張ってるんだけどねえ……
#*よく調べれば、すごく頑張ってるんだけどねえ……
#**戦い以外は、積極的に行動しているとは言い難い。特に政治的な工作をほとんどやっていないのが致命的。そりゃ足利に負けるだろ。
#足利氏とはもともと同族だが仲が悪かった。
#足利氏とはもともと同族だが仲が悪かった。
<!--#*源義家の次男・義国が両家の先祖。-->
<!--#*源義家の次男・義国が両家の先祖。-->
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#*六波羅探題を落とした足利尊氏より功績はどう考えても上。
#*六波羅探題を落とした足利尊氏より功績はどう考えても上。
#*刀を海に投げ入れると潮が引き海側から攻めたという逸話がある。これは伝説にすぎないといわれていたが、最近事実だということが判明。
#*刀を海に投げ入れると潮が引き海側から攻めたという逸話がある。これは伝説にすぎないといわれていたが、最近事実だということが判明。
#*ただし、勝利後は戦後処理や戦勝宣伝、寺社対策を全くしておらず時間を空費している。功績を横取りされてもしょうがない。
#京都に呼び出されてからは、あまり勝ち戦が無い。
#京都に呼び出されてからは、あまり勝ち戦が無い。
#*常に公家が同格もしくは上位者として同行し、作戦に口を出すばかりか勝手な動きばかりしていたので、そのフォローのために戦機を失い続けた観がある。
#*常に公家が同格もしくは上位者として同行し、作戦に口を出すばかりか勝手な動きばかりしていたので、そのフォローのために戦機を失い続けた観がある。
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<!--#**大将みずから偵察行動をしなければならない理由は全然無かったので、無駄死にと言われても仕方がないかも。-->
<!--#**大将みずから偵察行動をしなければならない理由は全然無かったので、無駄死にと言われても仕方がないかも。-->
#*自称、新田流の黄門様により、討死にしたと伝わる地域から立派な兜が発見され、その地を新田義貞討死の地とし地名は新田塚と名付けられた。
#*自称、新田流の黄門様により、討死にしたと伝わる地域から立派な兜が発見され、その地を新田義貞討死の地とし地名は新田塚と名付けられた。
===高師直===
===高師直===
#足利尊氏の肖像画である(と推測されていた)太刀を担いだ騎馬武者の絵は実はこの人だったという説が出た。でも、実はこの人でもないみたい。
#足利尊氏の肖像画である(と推測されていた)太刀を担いだ騎馬武者の絵は実はこの人だったという説が出た。でも、実はこの人でもないみたい。
#「太平記」には神仏恐れず、天皇家の権威をも恐れず。「院や王(天皇)は皆どこぞへ流刑にしてしまえ!その代わりに金か木で作ったのを置いとけば良かろう!」と豪語したと書かれている。


===土岐頼遠===
===土岐頼遠===
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#*1387年説と1400年説がある。13年も差があるって……
#*1387年説と1400年説がある。13年も差があるって……
#母親については遊女説がある。弟の義詮から「Son of ○itch」と罵声を吐かれたことで、足利家と袂を分かつことを決意したらしい。
#母親については遊女説がある。弟の義詮から「Son of ○itch」と罵声を吐かれたことで、足利家と袂を分かつことを決意したらしい。
#*[[大河ドラマファン]]にとっては真田広之と宮沢りえの隠し子、というイメージしかない。


===今川了俊===
===今川了俊===
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#*それまで非正規戦闘者の扱いだった「足軽」に禄を与えて集団訓練を施し、歩兵軍団として活用。
#*それまで非正規戦闘者の扱いだった「足軽」に禄を与えて集団訓練を施し、歩兵軍団として活用。
#*のち北条早雲に受け継がれて関東を席巻する。
#*のち北条早雲に受け継がれて関東を席巻する。
#*上記の足軽訓練を怠けた者から罰金徴収。しかし、自分の懐に入れず訓練に耐えた者に「茶代にせい」と与えた。名目は茶代だが、実際は飲み代。
#扇谷上杉定正の家老。
#扇谷上杉定正の家老。
#*城作りも足軽戦法も、定正のためにやっていたのだが、力量がありすぎて警戒される。
#*城作りも足軽戦法も、定正のためにやっていたのだが、力量がありすぎて警戒される。
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#**「俺を殺したらもう山内には勝てずに滅亡するしかないのに、バカな殿よ」というほどの意味だったろうか。
#**「俺を殺したらもう山内には勝てずに滅亡するしかないのに、バカな殿よ」というほどの意味だったろうか。
#和歌が好き。でも[[和歌山]]は好きかな?
#和歌が好き。でも[[和歌山]]は好きかな?
#*和歌好きになるきっかけのエピソードが、後世の落語ネタになった。


===伊達政宗===
===伊達政宗===
299行目: 320行目:
#芦名家や相馬家を滅ぼしてはいません。
#芦名家や相馬家を滅ぼしてはいません。
#親と兄弟は殺していません。恐らく。
#親と兄弟は殺していません。恐らく。
#'''こっちの'''政宗って、何か世に知られたエピソードはあるのか?
#*「伊達政宗の乱」なるものがあるらしいが……


==戦国時代の武将==
==戦国時代の武将==

2009年12月10日 (木) 11:45時点における版

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征夷大将軍

平安時代の武将

平将門

  1. 西国の植民地みたいなものだった関東地方に、はじめて独立運動を展開した人。
    • まあ、本人にそこまでの自覚とビジョンがあったわけではなく、なりゆきでそうなってしまったという感が強いが。
    • ともあれ「新皇」を名乗り、京都の朝廷とは別個の勢力圏を築こうとしたのは革新的。
  2. 若い頃比叡山に登って天下制覇の野望を抱いたと言われているが、疑わしい。
    • 頼ってくる者、救いを求めてきた者を、義侠心と正義感で助けているうちに、いつの間にか巨大勢力になってしまった感じ。野望を抱いたとしたら最終段階だろう。
    • 言ってみれば、とびきり気っぷのいい任侠の親分というところではなかったか。
  3. 東京の守護神になっているという噂。
    • 大手町あたりに首塚があり、開発のため撤去や移築をしようとすると必ず事故が起こるそうな。
  4. 身体は全身鉄でできているけど、こめかみの部分だけ生身だとか。そこを藤原秀郷に射られて討ち取られた。
    • だが、サイボーグ化した際に用意しておいた非常プログラムで、首だけになった状態で関東まで逃げ去った。
      • ブ×ッ×ン伯爵か!
  5. 先祖は皇族。

藤原純友

  1. 海賊退治を命じられて瀬戸内海に行ったが、海賊稼業のうまみを知って自分が海賊の首領になってしまった。
  2. 平将門と示し合わせて乱を起こしたと言われているが、疑わしい。
    • 将門が敗死するまでは大した動きを見せていないので。
  3. のちの住友財閥の祖先。

小野好古

  1. 藤原純友の乱を平定した老将。
  2. 妹子ちゃんの子孫。
    • 小野小町のいとこだかはとこだか。
  3. 元祖・好古なのに知名度は秋山好古にボロ負け。

源護

  1. 「みなもとのまもる」と読むらしい。無理だw
    • どう考えても「げんご」だろw
  2. 平将門に喧嘩売ってフルボッコにされる。

源頼義

  1. 前九年の役を平定する。
    • 実は、関東地方のフロンティアがだいぶ少なくなってきたので、東北地方に目をつけた頼義が、難癖をつけて有力者の安倍氏を圧迫したのが前九年の役の発端。
      • 頼義が執拗に朝廷に働きかけ、陸奥守とか鎮守府将軍とかの官位を貰っているので、彼の野望は大体見当がつく。
    • 当初、安倍貞任と藤原経清の連合軍の前に手も足も出ず敗退を重ねる。
      • 特に黄海(きのみ)の合戦では惨敗。
    • 出羽の清原氏に三拝九拝し、側面攻撃をかけて貰ってようやく安倍氏を亡ぼす。
    • 正直言って、勝つには勝ったが、かなりみっともない勝ち方。
      • そのため子孫たちは、頼義ではなく子の義家を称揚した。

安倍貞任

  1. 身長190cmを越す巨漢。おまけに胸囲は230cmもあったらしい。どう見てもハート様です。本当にありがとうございました。
  2. 源頼義、源義家と死闘を繰り広げ、最期は義家に秘孔を突かれて「ひでぶ!」という断末魔の叫びと共に爆散して果てた。
    • どっちかというと清原武則に秘孔を突かれた(不意打ち食らった)んではないかと。源氏の父子には連戦連勝してました。
    • 断末魔は「あべし!」ではなかったかな。安倍氏だけに。

藤原経清

  1. 奥州藤原氏の祖。
    • ただの地方豪族と思われていたが、そこそこの官位を持つれっきとした官人であったと近年判明。
  2. 安倍貞任の妹を嫁にしていた。
    • 経清が貞任と共に敗死すると、その嫁は子供ごと清原軍に捕まり、清原武貞の嫁にされる。のち、武貞の先妻の子(真衡)、嫁の連れ子(清衡)、武貞と嫁の子(家衡)の間がややこしいことになり、後三年の役へともつれこむ。
      • 後三年の役が終わってみると清衡のひとり勝ちになっていた。つまり経清の息子が奥州を制した。
  3. 源頼義の不条理な安倍氏圧迫に義憤を覚えて安倍側に加担。
    • 頼時・貞任の軍師としてしばしば源氏軍を打ち破った。
    • 頼義にとっては怒り心頭だったようで、処刑する時、わざとナマクラ刀で首を切らせるという嫌がらせをした。
      • この辺のネクラさが、頼義の人気の無さの原因と思われる。対照的にその子・義家のさわやかぶりが目立って、源氏の象徴といえば義家になった。

源義家

  1. 頼義の息子。八幡太郎。武家源氏の象徴みたいな人。
  2. 後三年の役を平定すべく出陣したが、清原(藤原)清衡には翻弄され、朝廷からは私戦として恩賞を貰えず、あんまりいいところ無し。
    • 仕方なく自分の所領の中から配下に恩賞を分け与えたところ、「これは頼もしい大将だ」と思いがけず人気沸騰。源氏興隆の礎を築く。
  3. 雁の飛び方の乱れから伏兵を見抜いたとして、その眼力を賞賛される。
    • 大江匡房から教わった兵法。でもこれって、野戦の将として、人に教わらなければわからないようなことか?

源義光

  1. 義家の弟。甲斐源氏(武田氏)の祖。
    • 信濃源氏(小笠原氏)や常陸の佐竹氏などの祖でもある。
  2. 通称、新羅三郎。
    • この名前のため、「源氏は新羅出身の韓国人ニダ。その証拠に新羅三郎というのが居るニダ。ホルホルホル」と勘違いする連中が湧いて、うざいことこの上ない。
    • 大津の新羅明神で元服式を挙げただけのことなんだが……
      • 「新羅明神で元服式を挙げたのは新羅出身だったからに違いないニダ。ホルホルホル」と勘違いする懲りない連中も居そうだ。

平清盛

  1. 保元の乱、平治の乱と順調に勝ち組に乗り、ついには藤原氏を押しのけて天皇の外戚の座を仕留めた幸運児。
    • 武家では初めて太政大臣に任ぜられた。
    • ちなみに「平氏にあらざれば人にして人にあらず」とゴーマンかましたのは清盛ではなく、嫁・時子の弟だった平時忠。武家ではなく、公家平氏の人。
  2. 本当は白河法皇の子だという噂。
    • 少年時代からおそろしく官位の昇進が早かったのがその傍証とされる。
    • 防衛規制における合理化の一種。貴族たちの嫉妬や武力への畏怖が、こんな噂を生んだ気もする。
  3. 福原(現在の神戸あたり)に遷都しようとした。
  4. 清盛の死後の平氏の瓦解は早かった。
    • わずか数年で滅亡。平氏の繁栄が清盛の個人的な才覚と立ち位置によるものだったことが窺える。
    • 「自分が死んでも塔を建てたり法事をしたりしなくていいから、頼朝の首を墓に供えろ。」と遺言した。やはり自分の死後の平家のことを案じていたのだろう。

源義朝

  1. 為義の息子。頼朝の父親。
  2. 保元の乱では勝ち組。平治の乱では負け組。
    • 同じ立場だった藤原信西に密着しすぎていたか?
  3. かなりの艶福家。
    • 都でいちばんの美女と評判の「常磐」を手に入れた。義経などの母になる。
  4. 最後は平氏方に寝返った配下に風呂で殺される。
    • 場所は知多半島の先っぽ。
      • 後世、同じ場所で切腹に追い込まれた織田信孝が、秀吉への恨みを込めて
        「昔より主を内海(討つ身)の野間なれば報ひを待てや羽柴筑前」
        という辞世を詠んだのはこの故事による。義朝を討った長田忠致はのちに頼朝に斬られた。
        • ちなみに、「内海」も「野間」も知多半島尖端の地名。
        • 長田忠致は頼朝に、「そなたは父を殺した憎きヤツなれど、よく勤めれば美濃・尾張を与えよう」と言われ、懸命に働いて手柄を立て、得意満面で頼朝のもとに帰った。すると頼朝は「約束通り『身の終わり』を与えよう」と言って長田を斬ってしまった。ダジャレで斬られた長田の立場って。
          • 長田忠致の最後の言葉は「誰がうまいことを言えとwww」であったとかなかったとか。

源為朝

  1. 為義の息子、義朝の弟。
  2. 鎮西八郎とも呼ばれる。
    • 剛力な上に、おそるべき弓の名手で、子供の頃から大変な暴れん坊。
    • あんまり暴れん坊なので九州に追い出されたが、九州でも暴れ回ってそこらの豪族や武将をみんな配下にしてしまったらしい。それで「鎮西」のあだ名を奉られた。
  3. 保元の乱では父に従って崇徳上皇側に就く。
    • 夜襲を進言するが、あっけなく却下される。
      • 「正義の軍がそのような卑怯なことができるか」という理由。
      • 一方後白河天皇側は容赦なく夜襲をかけてきて、上皇軍ボロ負け。
    • しかし為朝の強弓は後白河側の多くの将兵を斃し、怖れられた。
  4. 保元の乱ののち捕縛され、もう弓が引けないように右腕の腱を断ち切られて、伊豆大島に流される。
    • しかし一向にしょげもせず、大島を乗っ取ってしまう。
    • 大島ばかりでなく、艦隊を組織して伊豆七島を完全征服。
    • 大軍による討伐を受け、ついに自害して果てる。が……
      • 大島に押し寄せた敵に向かって矢を放つと、船の底板をぶち抜いて沈めたという。ほとんど対艦ミサイル。
  5. 実は伊豆で敗れてからが為朝伝説の真骨頂。
    • 自害はせず、弧舟で南西諸島へ逃れ、沖縄を征服し、尚氏王朝の祖となったとも言われる。
      • なんと尚氏王朝の正史にちゃんと記されているので、伝説ではあるが必ずしもトンデモ説ではない。
      • 滝沢馬琴の『椿説弓張月』はその辺を小説化してある。
    • しかし沖縄程度の島におさまる器量ではなく、さらに大艦隊を仕立ててフィリピンやインドネシア方面への征旅に発ったという壮大な伝説もある。

山本義経

  1. 源義経とであったことがある。ちなみに彼も源氏なので、彼が源義経と名乗っていたりすることもある。

源義経

  1. 義朝の九男。頼朝の弟。
    • 幼名「牛若丸」が有名。
    • 「九郎義経」の名前は自分でつけたらしい。
    • 検非違使少尉に任ぜられたので、唐名の「判官」をつけて「九郎判官」とも呼ばれる。
  2. 敗将義朝の息子として鞍馬寺にやられるが、脱走して奥州藤原氏を頼る。
    • のちの騎馬隊の発想は、奥州滞在中に得た可能性が強い。
  3. 頼朝の部将となって大活躍。
    • 宇治川の合戦で木曽義仲を撃破。
    • 一ノ谷、屋島、壇ノ浦で平氏軍と戦い、いずれも快勝。平氏を滅亡させる。
      • 速度を活かした奇襲戦法が得意。一ノ谷では機動騎馬隊、屋島では荒天を衝いた渡海作戦による回り込み攻撃で勝利した。
        • いずれも当時としては斬新な戦術だが、その頃の武士の美意識からすると「卑怯」な印象が強く、庶民や下級武士には人気があったが、上級武士たちからは嫌われた。
  4. 壇ノ浦の戦勝のあと、頼朝と再会することなく、討伐されるはめに。
    • 義経が「平氏征伐」だけを目標としていたのに対し、頼朝は「東国政権の確立」を狙っていたという、目的意識の差が反目の原因となった。頼朝の狙いからすれば、義経の行動がいちいち目障りだった。
      • 勝手に後白河法皇から官位を貰ったり、勝手に平氏の重要人物の助命を確約したり。
    • 義経もうかつだったが、頼朝もちゃんと言っとけよという気はする。
  5. 若き日を過ごした奥州に逃げ込むが、頼朝の恫喝に屈した藤原泰衡に討たれる。
    • 討たれたのは身代わりで、実は逃がされたという説も根強い。
      • 首桶に収められた首は、焼け焦げた上に不必要な日数がかかったせいで、鎌倉に着いた時には腐敗しきってほとんど判別不能だったらしい。
      • 泰衡は、将来訪れるであろう頼朝との決戦に備えて、義経を逃がして温存していたが、頼朝の行動が早すぎ、義経を呼び戻す間もなく亡ぼされてしまった……というシナリオ。
    • 義経の生存伝説を辿ってゆくと、津軽半島の三厩まではほぼ一本の線になる。北海道に入ると支離滅裂になるので、三厩までは逃れてきたと見ても良いのではないか、という人も居る。
  6. 海を渡ってチンギス汗になった……という壮大な説もある。
    • 機動騎馬隊の活用以外、あんまり共通点は無さそうだが。

那須与一

  1. 源平合戦のうち、屋島の戦いで海上から扇を射抜いた伝承で有名な人。
  2. 通称「与一」。本名・宗高(むねたか)。
    • 本当は十一男だったので「余一」、つまり「余り者」だったらしい。義経に従ったのは、実家に居ても余り者扱いで、うだつが上がりそうになかったからだとか。

鎌倉時代の武将

源範頼

  1. 義朝の六男。頼朝の弟で義経の兄。
  2. 義経と一緒に木曽義仲や平氏と戦うが、義経と較べられて損をしている人。
    • 義経は遊撃隊を率いて奇襲することが多く、主力部隊は常に範頼が率いていたのだから、総大将としての力量は認めてあげるべき。
      • 一ノ谷の奇襲も、範頼が東側から平氏の軍勢とがっぷり四つに組み、戦線を膠着させていたからこそ効果があったのだし。
  3. 義経没落の理由をよく知っていたらしい。決して出過ぎることなく、すべて頼朝の指示をあおいで警戒されることを避けた。
  4. 些細な難癖をつけられて殺される。

平景清

  1. 歴史としてよりもむしろ歌舞伎や能の主人公として有名。
    • 近松門左衛門も「出世景清」とかで書いてる。
  2. 体がでかく、力持ちだったので、通称は悪七兵衛。
    • ただ、この異名は景清が叔父を疑心暗鬼でぶっ殺したためついたとかいう嫌な説もある。
  3. 名前は平だが、元は平氏ではなかったっぽい。
    • 藤原忠清の子で伊勢藤原氏。先祖は藤原秀郷(俵藤太)で、実は名門の出。

梶原景時

  1. 義経ファンからは蛇蝎のごとく嫌われている。
    • 義経に軍監としてつけられた。義経が没落したのはコイツが頼朝にあること無いこと讒言したからだと思われている。
      • 癖のある男ではあったようだが、やや気の毒。
  2. 義経を陥れたというのは濡れ衣だったかもしれないが、頼朝べったりでゴマをすりまくっていたのは事実だったようで、頼朝が死ぬと他の御家人たちから総スカンを食い、謀反の疑いをかけられて族滅された。
    • 一代の権力者にやたらとすり寄るのは考えもの、という教訓を遺した。
    • 北条氏にとってウザい存在だったから陥れられたというのが真相なんじゃないだろうか。

三浦義村

  1. 源実朝暗殺事件の黒幕という噂がある。
    • 二代将軍頼家の遺児・公暁の傅人だった。
    • 公暁をうまく焚きつけ、実朝と北條義時が揃って鶴岡八幡宮に参拝する時を狙って殺させる計画を立てたようだ。
      • もちろんその目的は、公暁を四代将軍とし、北條氏に代わって幕府執権の座におさまるため。
    • 実朝は首尾良く斃したが、義時はドタキャンしてその場に現れず健在。計画が破綻したので、帰ってきた公暁を殺して口をぬぐった……というのだが。

畠山重忠

  1. 馬を背負って急峻な崖を降りるという前代未聞の行為をやってのけた凄い人。
  2. 基本的に善玉として描かれることが多い。義経以上に「判官贔屓」されてる。
  3. 好漢で人望も厚かったようだが、一方で血の気が多く喧嘩っ早い。陥れられたとはいえ、最期粛清されたのもむべなるかな。
  4. 豪傑のイメージが強いが管弦や舞踊にも造詣が深いという優等生。

竹崎季長

  1. 元寇の時に活躍した肥後の御家人。
    • 何代か前に所領争いで敗れてジリ貧になっていたので、一発逆転の恩賞をアテにして奮闘したらしい。
  2. 恩賞に洩れたので、鎌倉まで長旅をして幕府に直訴。
    • 旅費を作るため、家財産の一切を処分したらしい。訴えが認められなかったらそのままホームレスになるところだった。
      • 馬も売り払ったので、当然全部徒歩。
      • 中世の裁判は、原告が動かないと全く進まないからしょうがない。
    • 幸い安達泰盛に訴えが認められ、地頭に取り立てられる。
  3. 自分の活躍を劇画にする。
    • 「蒙古襲来絵詞」という。この劇画のおかげで、元寇の実態がかなりわかる。
      • ただし加筆や修正が多すぎる。科学調査をしても、どこまでが元のままか分からないレベル。
    • 状況からすれば、モンゴル兵が悪鬼のように書かれていても不思議でないのに、のどかさを感じるシーンがあるほど自然に書かれている。単に絵師が描けなかっただけかもしれないが。

楠木正成

  1. 領地を持った武士ではなかったので「悪党」扱いされる。河内地方の運送業のおっちゃん。
  2. 「七生滅敵」の言葉と南朝方の忠臣だったことから戦時中のヒーロー。
    • 皇居外苑に銅像がある。外国の方も写真撮ってたりするが、↑のことは、、、忘れておいてください。
      • 銅像自体は高村光雲作の戦前日本を代表する名品。写真に撮りたくもなるだろ。
    • 明治になってから正一位を追贈された。
  3. 籠城戦では熱湯かけたりウンコかけたり。
    • 自称100万の敵に勝利
    • ガセネタばらまいて空き城を大軍で攻めさせる手も使い、「騙される方が悪いんや!ざまみい!」と高笑い。

新田義貞

  1. 後醍醐天皇麾下の総大将だったのに、戦前は楠木正成の人気に隠れ、戦後は足利尊氏復権のあおりを食って二流武将扱いされ続けている不遇な人。
    • よく調べれば、すごく頑張ってるんだけどねえ……
      • 戦い以外は、積極的に行動しているとは言い難い。特に政治的な工作をほとんどやっていないのが致命的。そりゃ足利に負けるだろ。
  2. 足利氏とはもともと同族だが仲が悪かった。
  3. 鎌倉を落とし、幕府を覆した殊勲者。
    • 六波羅探題を落とした足利尊氏より功績はどう考えても上。
    • 刀を海に投げ入れると潮が引き海側から攻めたという逸話がある。これは伝説にすぎないといわれていたが、最近事実だということが判明。
    • ただし、勝利後は戦後処理や戦勝宣伝、寺社対策を全くしておらず時間を空費している。功績を横取りされてもしょうがない。
  4. 京都に呼び出されてからは、あまり勝ち戦が無い。
    • 常に公家が同格もしくは上位者として同行し、作戦に口を出すばかりか勝手な動きばかりしていたので、そのフォローのために戦機を失い続けた観がある。
    • 足利軍が京都に攻め寄せた時は、朝廷を丸ごと避難させたのち、鮮やかに勝利し、尊氏を九州まで追い落とす。やっぱり口出しするヤツさえ居なければ、充分にできる子。
  5. 後醍醐天皇から勾当内侍という美女を賜ったそうな。
    • この美女にうつつを抜かして戦機を失った愚将だと思われがちだが、詳細に日付を見てゆくと、女のために軍事行動をおろそかにしたと考えられる時期は全然存在しない。「太平記」の記述で悪いイメージが作られてしまった例。
  6. 最後の死に方はちょっと間抜けっぽい。これもまた愚将のイメージのもとになっている。
    • 自称、新田流の黄門様により、討死にしたと伝わる地域から立派な兜が発見され、その地を新田義貞討死の地とし地名は新田塚と名付けられた。

高師直

  1. 足利尊氏の肖像画である(と推測されていた)太刀を担いだ騎馬武者の絵は実はこの人だったという説が出た。でも、実はこの人でもないみたい。
  2. 「太平記」には神仏恐れず、天皇家の権威をも恐れず。「院や王(天皇)は皆どこぞへ流刑にしてしまえ!その代わりに金か木で作ったのを置いとけば良かろう!」と豪語したと書かれている。

土岐頼遠

  1. 今よりずっと皇族が神聖視されていた時代に皇族の人を「犬」呼ばわりした気概のある人。
    • 悪く言えば、ただのDQN。

室町時代の武将

足利直冬

  1. 足利義詮の庶兄で、足利直義の養子になった。
    • 尊氏の長男だが、母親の身分が低かったので家督が継げず、息子の居なかった叔父・直義に引きとられた。
  2. 実父と養父が仲違いしたり仲直りしたりするたびに、討伐令を受けたり官職を与えられたりと扱いがコロコロ変わり、振り回され続けた気の毒な人。
  3. ついにぶち切れて九州で自立。弟の義詮の天下支配を決して認めようとしなかった。
  4. れっきとした将軍家の一族でありながら、死んだ時もはっきりしない。
    • 1387年説と1400年説がある。13年も差があるって……
  5. 母親については遊女説がある。弟の義詮から「Son of ○itch」と罵声を吐かれたことで、足利家と袂を分かつことを決意したらしい。

今川了俊

  1. 室町時代初期を飾る智将。
  2. 懐良親王や足利直冬の分立でわけがわからない状態になっていた九州を、丹念に平定。南朝勢力を駆逐する。
    • 南朝がついに息切れして北朝の軍門に下るのは、了俊が九州を平定してしまったためと言っても良い。その意味では南北朝時代を終息させた殊勲者と言える。
  3. 足利義満に疑われて野に下る。
    • 応永の乱を起こした大内義弘に加担したと疑われた。
    • でも本当は、功績が大きすぎて扱いに困ったからではないかと思われる。
  4. 文人としても一流。
    • 「難太平記」を書いた。「太平記」への反論本。
    • 九州へ行く時の紀行エッセイや和歌集にも見るべきものがある。

足利持氏

  1. ダメ上司の典型のような人物。
    • 気性の激しさは宿敵義教と同じだが、政略・軍略に関しては足元にも及ばないヘタレだった。
    • 鶴岡八幡宮に奉納した血染めの感状の話とか…そこまであからさまにしなくても。

上杉憲実

  1. 中間管理職の悲哀をそのまま表したような人物。
    • 凄腕だがワンマン経営の独裁社長と、そいつと犬猿の仲で、出世欲だけ一流の支店長の狭間で悩まされ続けた。
      • 「お前は俺より社長の言う事を聞くんだな!」「そういうつもりはございません!」
    • その他、義絶した息子が元上司の息子に殺されたり、後半生はこれでもかというほどに不幸続き。流浪の末最後は山口で一生を終えたそうな。

太田道灌

  1. 江戸城を築いた人。徳川家康と答えた者は不正解。
    • 江戸城だけでなく、川越城、岩槻城など、平地型の城をたくさん築いた。
      • 築いたのは大工さんじゃない?
  2. 足軽戦法の創始者。
    • それまで非正規戦闘者の扱いだった「足軽」に禄を与えて集団訓練を施し、歩兵軍団として活用。
    • のち北条早雲に受け継がれて関東を席巻する。
    • 上記の足軽訓練を怠けた者から罰金徴収。しかし、自分の懐に入れず訓練に耐えた者に「茶代にせい」と与えた。名目は茶代だが、実際は飲み代。
  3. 扇谷上杉定正の家老。
    • 城作りも足軽戦法も、定正のためにやっていたのだが、力量がありすぎて警戒される。
  4. 対立する山内上杉顕定の反間の策が入り、定正によって殺される。
    • 風呂場で殺される時、道灌が叫んだ言葉は「当方滅亡!」のひとことだったとか。
      • 「俺を殺したらもう山内には勝てずに滅亡するしかないのに、バカな殿よ」というほどの意味だったろうか。
  5. 和歌が好き。でも和歌山は好きかな?
    • 和歌好きになるきっかけのエピソードが、後世の落語ネタになった。

伊達政宗

  1. 独眼竜ではありません。
    • 幼少の頃に天然痘に感染したことなんてありません。
  2. 芦名家や相馬家を滅ぼしてはいません。
  3. 親と兄弟は殺していません。恐らく。
  4. こっちの政宗って、何か世に知られたエピソードはあるのか?
    • 「伊達政宗の乱」なるものがあるらしいが……

戦国時代の武将