街道
2015年7月10日 (金) 20:56時点における>吉田宅浪による版 (→柳生街道)
広域
東北
奥州街道
- 基本的に今の国道4号。果ては海を越えて函館まで。
- 幕府的には江戸から白河まで。いわゆる直轄国道の走りみたいなものか。
陸前浜街道
- 現在の国道6号。
- 今でも地図に書いてある街道名だが、実際に公式に使われたのは国道に制定されるまでの10年ちょっとの間。
- 藩によって呼び方がバラバラだった。
- 江戸浜街道だったり仙台通だったり水戸路だったり磐城街道だったり…。
- 藩によって呼び方がバラバラだった。
- もともとは東海道。
- といっても律令時代の話である。
- 御三家の水戸藩の中をあまり通りたくない人が多かったため、参勤交代にはあまり使われなかった。
会津西街道
- 現在の国道121号と下郷町と会津美里町を結ぶ県道。
- 会津から見たら日光宇都宮に行くための道なので下野街道。
- 会津藩主保科正之が整備した。
- モーレツ県令三島通庸が会津三方道路を整備したのを期に衰退。
- 一時湖底に沈んだ。
- 往時の町並みを残す大内宿は有名。
会津中街道
- 会津西街道が水没した時に松平正容によって整備された道。
- 結局会津西街道が復活したらお役御免となった。
- その後、会津西街道を水没させていた五十里湖が決壊。現在の藤原町から宇都宮にかけて土石流に襲われた。
関東
鎌倉街道
- 御家人が「いざ鎌倉」の時に通る道。
- あっちこっちに「鎌倉街道」があってどの鎌倉街道がどの鎌倉街道と一続きなのか分岐したものなのかさっぱりわからん。
大山街道
- 名の通り相模の大山へ参詣する道。
- 現在ではおおよそ国道246号がその後継。
- 古い道も結構残っており、246と重複しない箇所も多い。(というか、246が幹線としてしっかり直線化するのに別ルートをとっている、というべきか。)
- 三軒茶屋~用賀あたりは古い大山街道と新しい大山街道が結構分かれる。
- 道としては割と残っているんだが、昔の街道筋の街以外もすっかり市街地化が連担してしまっていて道の風景にあんまり街道っぽさは分からなくなっている。
甲信越
北国街道(信越)
- 一般広く知られた北国街道というとこちらのルートらしい。江州方面のとは別もんだがどちらも中山道→北陸道という橋渡しの役目を負っていた。
- 北国街道というより善光寺への参詣道という感じがする。
- 一説によれば、高田から先、出雲崎、長岡などへ至るルートも北国街道といったらしい。因みに、長岡藩や佐渡奉行もこのルートで参勤交代や赴任先への出勤をしたとか。三国峠越は当時の技術では厳しすぎるもんね。
- この他、加賀前田家なども利用したとか。今では考えられないくらい交通量が多かったんだろうね。
千国街道
- 俗にいう「塩の道」。
- 地味に峠越えが多い。三坂峠迄は川沿いに登れば良いのに姫川渓谷などを避けるために無駄に峠越え区間を多くしたのが原因。
- 実はこれでも当時の街道にしては結構線形改良は進んでいたらしい。
- 信州の古道は他の地域よりも道路脇の道祖神が多いらしいが、ここはそれが特に顕著。それだけ道が大切にされてきたということなんだろう。
- 起終点は糸魚川と松本。でも糸魚川市のページにはこの街道についての投稿は未だ存在せず……
野麦街道
- 『あゝ野麦峠』
- 飛騨の貧しい家の女子供が出稼ぎに行くため通って行った街道として有名。政井ミネの「あゝ飛騨が見える」は今でも泣ける話しである。
- 冬は氷が刃となって女工の脚を容赦なく傷つけたとか、雪道が赤く染まったとかいう話。他にも滑落事故が多かったらしい。
- 実は、金森長近の時代にある程度整備されていたらしい。
- 飛騨郡代もそのルートを維持管理していたとか。でも名称は野麦街道ではなく江戸街道とされていたっぽい。古い石標は大半が「江戸街道」
- 明治に入ってからの女工の話が有名だが、実は飛騨郡代も松本側の庄屋もこの街道の危険性を認識していたっぽい。
北陸
北国街道・北陸道
- 区間:鳥居本~長浜~木之本~深坂越(江越国境)~敦賀~木の芽峠~今庄~武生~浅水~福井~金津~細呂木~大聖寺~小松~粟生~松任~金沢~津幡~倶利伽羅峠(加越国境)~石動~高岡~小杉~岩瀬~水橋~滑川~魚津~泊~境~市振~青海~糸魚川~能生~名立~越後高田など。
- 実はルート変更が多かったりしてどれが正規ルートなのか今一つ良くわからない街道。
- 時代によっては親不知海岸は船で越したという話だってあるのに、正規ルート云々というのがあるのかと言われると何とも言えないが……
- 元々は、東山道を山科で分岐し、小関越え経由で西近江路(今のR161)を敦賀へ抜けるルートだったが、そんなルートは江戸期にはずいぶん廃れていたらしいし。
- 一番分からんのが敦賀~琵琶湖北岸。一時期は栃ノ木峠経由だった時期もあるらしいし、かと思えば塩津街道ルートだった時代や七里半越経由の時代もあったみたいだし。
- 実は、富山の中心部には寄らないルートだったらしい。小杉から岩瀬浜へ出て海沿いに魚津を目指すのが北陸街道。
- 江戸前期迄は富山どころか高岡にすら寄らないルートだったとか。何だこの富山とばし。
- 加賀藩と福井藩の為だけのルート。九頭竜川以北は加賀藩の参勤交代と物資輸送などのため、以南は福井藩の参勤交代と物資輸送などのため。
- 他の藩は誰も使えないし使ってなかったらしい。そういう意味では究極の私道。そのくせ、塩硝街道~野麦街道経由に参勤交代ルートを切り替えようとした前田さんちってアホとちゃうか。
- 細呂木~大聖寺の国境区間は街道っぽい雰囲気を味わっていたかと思えば急にゴルフ場の真ん中を行くという道になる。
- 道中で1、2の難所である木の芽峠の頂上には今も峠の関守さんが居らっしゃる。本願寺の蓮如上人が吉崎へ下った時のルートを一向宗では毎年重荷を担いで、京都から歩き通すらしいが、ここで必ず休憩させてもらえることになっているらしい。
- 一度、北陸路でこの隊列を見たことがあるが、沿道から人が出てきて蓮如上人の魂(?)だかに頭を下げて手を合わしている地元の方が結構いてらっしゃり、さすがは一向一揆の里北陸と妙に感心してしまった。
近畿
熊野古道
- 和歌山県の田辺~本宮~那智、新宮のいわゆる中辺路ばかりが有名だが、大阪の淀川の岸辺から延々続いているし、海岸線沿いの大辺路や奈良の吉野から続く奥駆け道や、伊勢からの道もある。
- 起点は天満橋駅のすぐ近くにある。
- 天満橋駅の項目の1.にある港というのが起点である。
- 起点は天満橋駅のすぐ近くにある。
- ハイキングルートとして整備されている「熊野古道」と呼ばれている物の中には、実は近年出来た物もある。
- 昔からの「熊野古道」は農道としても使われ、アスファルト舗装されてしまったために別にハイキング用に道を造ったらしい。
- 熊の鼓動と書いたテディベアのポスターがある。
- CLANNADの伊吹風子風子のポスターもある…
- 「たかりユネスコ」
- 胴切り坂は歩くだけでも結構な急坂が続きつらいが、石畳なので下り坂(那智→本宮方向)で雨降りのあとだとさらにきついと思われる。
- 三重県内には世界遺産登録に反対する地主が反対声明を木にスプレーで書いていたりするそうな。
- 登録範囲は道から両側50mの範囲で、そこは勝手に木を切ったらいかんらしい。地主が昔から林業を営んでいたところですら。
- 地主の許可なく勝手に道路引っ張って、あげく木を切るなじゃ、まあ、キレてもしゃあないわな。
- 古民家の軒先を行くようなところもある。
- その辺は吉野熊野の山の上にあるので、眺めが素晴らしい。
伊勢本街道
- 大阪から暗越で奈良へ出てそこから榛原、御杖、飯高、松阪と抜けて伊勢神宮へと行く。
- 「もうちょっとマシなルート無かったんか?」と思ったが、青山峠越えのリスクとか伊賀国経由する危険を思うと案外悪くないかも。
- 今でも年末になると大阪の玉造から歩き通す人々が数多く出る。元日の夜明け前に伊勢へ着こうと夜通しで。
- 近鉄乗ったら、特急(深夜運行の臨時便)で酒盛りしとる間に御伊勢さん着くのにね。
- 東の旅で清八と喜六がひたすら歩く歩く。
- 玉造稲荷神社で旅出のお詣り、深江で傘を買うて……
暗越奈良街道
- 江戸期以降は伊勢本街道の一部としてあつかわれたが元々は奈良時代の官道。難波津と平城京を結ぶ最速ルート。日の出と同時に出れば日暮れには着ける。
- 関西で最も有名な酷道こと酷道308号の原型。新石切以東に至ってはルートどころか道幅も変わらず(奈良三条通の区間を除く)。
- 以西も旧308号と殆ど変わらぬルート。付かず離れずを繰り返す。
- ほぼ全線トレース可能なのが嬉しかったりする。だからといって自転車でってのはやめたほうがよろしいで。
- 峠の上には未だに茶店がある。でも営業しているのを見たことがない。
- 一応、高麗橋が起点だが気分的には玉造から始まる感じ。
紀州街道
- 熊野街道とほぼ併走するが、こちらは海側を通る。紀州和歌山藩の参勤交代の道、確か。
- 熊野古道が雄山峠で和泉山脈(大阪-和歌山県境)を超すのに対し、こちらは孝子峠越え。だいたい国道26号(の、古い方や府道204号)と思えばよいか。
- 熊野古道がJR阪和線(鳳以南はおおよそ山側)、紀州街道は南海本線(の、海側)と思えばよいか。
- 熊野古道が雄山峠で和泉山脈(大阪-和歌山県境)を超すのに対し、こちらは孝子峠越え。だいたい国道26号(の、古い方や府道204号)と思えばよいか。
- 岸和田や貝塚や泉佐野や、宿場町ではないけれど、古い町を実感できるところを通る。泉佐野では商店街になっている。
- 戦国時代に本願寺の顕如さんが織田信長と和睦後に紀州へ逃れたのもこの道。岬町あたりには追ってくる信長軍を松に上って眺めたとか、殺生するわけにいかんから風上から灰を撒いて目つぶししてそのすきに逃れたとか、伝承が残る。
- 和睦しているのに軍勢が追いかけてくるのも変やし、今まで石山本願寺でさんざん鉄砲打ちかけておいて今さら「殺生できんから」とかおかしな話なんですが、そこはまぁ伝承ということで。
水間街道
- 区間:貝塚~水間
- 紀州街道から分かれて水間寺へお参りする道。
- 水間鉄道や府道40号、近木川に併走。現在の行政区では貝塚市内で完結。
- 古民家や宿場町があるわけではないが、それなりに街道っぽい昔からの街を通る。
- 豊臣秀吉が根来衆・雑賀衆を攻めたときにはこの街道・近木川が根来衆・雑賀衆の防衛ライン。積善寺城、千石堀城、森城など、街道沿いの地名の城があった。ほとんど史跡は残ってないけど。
粉河街道
- 区間:貝塚~犬鳴(泉佐野市) ~粉河
- 粉河寺へ参る道。だいたい府道63号。
- 貝塚から粉河へ直線に繋がずに犬鳴の方を迂回しているのは地形上の制約。大木越え~志野峠越えがあのあたりでは一番まし。
- かつては犬鳴温泉から今の県境のところを越えて、和泉山脈の稜線を越えるまえに神通で大きく西側へ迂回して土仏峠を越えていたそうな。確かに地形・流域をみるとそちらへ曲がる二瀬川の方が流域面積が広く、水の流れもあるし、直線的に行く方に比べ土地も開けて見える。
- 今の直線ルートを切り拓いたのは犬鳴の下の大木の集落に住んでいた間瀬(だったかな?)という怪力の男。それまではどーしょーもない奴だったのに、道を切り開いた集落の英雄に、という民間伝承。
鯖街道
- 一応広義の意味だと周山街道も鯖街道扱い。でも普通は出町桝形商店街から八瀬、大原、途中、葛川、朽木、熊川、小浜と行くルートが一般的。
- 信長の金ヶ崎の退き口で京へ逃げ帰るルートにもなった。東側比叡山やけど怖ないんかと。
- 花折断層の上をそのまま走る感じ。
- 道中「鯖寿司」ののぼりがちらほらあった記憶が。
京街道
- 京都と大阪を淀川左岸を通って結ぶ。
- 京阪電鉄はこれに沿って敷設された。
- 但し、枚方~守口は京阪が門真市内を経由するのに対し、京街道は淀川沿いを通る。淀川の堤防上を通ってる場所も。
- 現在の東海道本線は淀川右岸を通るが、鉄道開通以前は左岸が京阪間のメインルートだった。
- 京阪電鉄はこれに沿って敷設された。
- 一般に東海道は江戸から京までの五十三次だが、この京街道を含めて江戸~大坂の五十七次と解釈する場合がある。
- 京都を避けたい人が江戸-大阪を直行するためのルート。要はイケズとばし。
- 守口市内で高架状になっている道路はこの街道の名残り。
野崎街道
- 大阪から野崎観音への参詣道だった。
- ほぼ全区間が府道161号(深野南寺方大阪線)。
- 千林商店街もルートに含まれる。
北国街道(江州)
- 追分から善光寺を経て高田へ(上越市HPより)というのが関東方面で知られた北国街道だが、関西方面で北国街道というと、鳥居本~木之本を北陸道と共通で走り、そこから栃ノ木峠越えで今庄へ行き、北陸道と合流して終いというルートを指すのが一般的。
- 信越地方の北国街道も中山道から別れて北陸道と合流するという偶然の一致。いずれも中山道から北国へ向かう街道なので当たり前といえば当たり前か。
- 江戸、岐阜方面から越前へは当初はこのルートを利用していたらしいが、後に、関ヶ原から伊吹山山麓を経て木之本へ至る北国脇往還が誕生し、福井藩の参勤交代ルートもこれへ取って代わられることとなる。以降は木之本~鳥居本は関西~北陸の幹線道路化。
- この道路自体が、そもそも旧北陸道だと敦賀付近で峠越えを2回しなくてはならないところを1回に軽減するために出来たバイパスと見る向きもあるので、そういう意味では、信越の方の北国街道とは意味合いが異なるとも言える。
- 木之本と今庄が本コース最大の見所。いずれも古い町並みが残る。
- 後は、栃ノ木峠越えという国境の峠を越える楽しみもある。但し今はただの山岳国道だけど。
西国街道
- 要は今のイナイチ。
- 大阪を避けたい京都人が山陽地方へ向かうためのルート。要は大阪とばし。
- ルート的に余分な寄り道がない分京街道→大阪→山陽道よりもかなり速く山陽方面へ行けたことは間違いないだろう。
- 実は山崎~西宮は奈良時代の山陽道のルートに同じらしい。因みに全区間通して平安時代の山陽道と同じ。
- 中国大返しで秀吉が駆け戻ったルート。摂津三人衆が彼に味方することがどれだけ山崎の戦いの結果に大きく結びついたかがわかる。
- 向日市や長岡京市にはちょろっとだけだが街道の雰囲気を出そうと石畳もどきを整備したエリアがある。この辺りは神社仏閣や旧跡もあるのでそういう点で見ても結構楽しい。
- それは結構なんだが、だったら電線を地中化しろよと思わないでもない件。
- 山崎から西宮まではほぼ直線的。まあ遮るものがないので当然だわね。
柳生街道
- 奈良公園の南側を春日山原始林に向けてひたすら行くと原始林の中を行く石畳の道になる。これが柳生街道。ちなみに全区間が東海自然歩道に指定されている。
- 石切峠付近までは通称滝坂道と呼ばれるルートである。お地蔵さんが何体もあったりするなどいかにも旧街道という感じ。
- 奈良奥山ドライブウェイを過ぎると石切峠はすぐそこ。これを過ぎると傍らに風情ある茶店がある。
- 忍辱山には円成寺という古刹があり、その境内を抜けていく。
- 忍辱山から山を下った所にある大柳生の夜支布山口神社は平安時代の延喜式神名帳にも記載されている古い神社。
- 大柳生の南明寺を過ぎると阪原峠という小さい峠を越える。これが終わると柳生の里へ抜ける。
- 下る途中というか終盤になると疱瘡地蔵という地蔵が出てくる。これは、「柳生の徳政碑文」として日本史で有名な正長の土一揆の事実を語る資料としても有名。
- 柳生の里は陣屋跡や家老屋敷、芳徳寺や菖蒲園などが中心街に固まっており、街道の終点であることを感じさせる。
中国
萩往還
- 三田尻~萩をほぼ直線で結んでいる。おかげで峠越えが3回もある。
- 因みに、防長国境の坂東峠に至っては標高500m超。こんなん所で籠を持たされた侍は仕事とはいえ可哀想である。
- 大半が、国道や県道に再編。山口なので当然国のお陰で快走路続き。
- 所によっては有料道路に切り替えた区間もあった。現在は旧街道も復元済み。
- 近年県の観光課がやたらプッシュしているらしい。
- 萩市街へ下る手前の道の駅も「萩往還」やったし、「幕末の志士がここを通りました!」みたいな宣伝していたなぁ。
四国
大洲街道
- 区間:松山城下~松前~郡中~上灘~犬寄峠~中山~内子~新谷~大洲城下
- 松山~大洲を内子周りの山越えで行くルート。
- 内子周りだから街道っぽい区間(内子町内)も残って、観光資源という意味では助かったと言える。
- 海側周りに比べ歩くものの負担はデカかっただろうと思われる。
- 昔、これに並行する松山道を車で走ったが、山越え後下ること下ること。高速の場合トンネルぶち抜きでチーティングしてる分、当時の峠道はもっときつかっただろうなと。
- でも気になって調べてみると標高にして300mちょいらしい。思ったほど高くもなかったのかと思ったが、海岸から300mを一気に駆け上がることを考えるとやっぱ急だよな。
- 内子の町の入口には今も枡形区画の跡地が残ってる。今時珍しい、というか明治の頃に区画整理をしなかったのかと……
- こういったものを随所に取り入れた造りをしていることを考えるとこの道路は防衛上の利点もあったのかとも思えてくる。犬寄峠といい、内子→大洲の鳥越の辺りとか、大洲側が防衛線を張るには最高の造り。
梼原街道
- 司馬遼太郎が愛した街道として有名。
- 土佐側は司馬の『街道をゆく』で有名になり、町も観光振興の一環で脱藩道として整備したが、愛媛側が結構曖昧。正規のルートはどういうルートなんでしょ?
- にしても10年以上行きたくて仕方がないのに行かなかったってのはすごく精神衛生的に良くないと思うんだが……取材にかこつけて行くことだって出来たでしょうに。
- 須崎~梼原までは、土佐側も梼原街道と呼んでいるが、伊予国の部分は伊予の人間しか呼んでないらしい。これがまた街道ルートを曖昧にする要因かも。
海外
アッピア街道
- 数あるローマ街道の中でも一番有名なのはおそらくここ。
- 「全ての道はローマに通ずる」の典型例としてよく挙げられる。
- キロポストや一里塚の始祖とも言えるマイルストーンが初めて置かれたのはここ。
- と言ってもローマ帝国時代のマイルが基準なので、現在のマイルとは距離が異なるらしい。
ドイツ・メルヘン街道
- 「メルヘン」の名が示す通り、グリム童話にゆかりのある街道である。
- 故に『赤ずきん』や『ブレーメンの音楽隊』、『ハーメルンの笛吹き男』などのモデルとなった建物や像が通過する地域に存在する。