もしあのプロ野球選手にアクシデントがなかったら/さ~わ行
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当ページではケガや病気について扱います。
あ行
赤星憲広
- 2007年、広島戦でダイビングキャッチを試みた際に首を強打しなかったら
- 2011年現在も現役を続けている。
- 城島・藤井・新井などと1976年度生まれの同級生集団を形成していた。
- マートンを獲得することもなかったか?
- 左から鉢、赤星そしてマートンと言う布陣が組めたかも。
- 現役の限り、盗塁数だけ車椅子を寄贈している。
- 2008年以降の阪神の成績も史実よりは良かった。
- リーグ優勝を果たしていた可能性もある。
- うまくいけば2010年・2014年にもリーグ優勝を果たしていたかもしれない。
- 2000本安打を達成するまで活躍を続ければ、間違いなく「通算本塁打最少での記録達成者」になっていた。おそらく通算で一桁本塁打のままでの達成だっただろう。
- 2009年にも同じアクシデントに見舞われなかっただろう。
秋山幸二
- 1991年のオールスターゲームで自打球を顔面に当てなかったら
- 野茂英雄が代打、工藤公康が守備でそれぞれ秋山の交代で出場することもなかった。
- 野茂が打席でオリックス・ブルーウェーブのヘルメットを着用したところが「オリックス・バファローズの予言」と話題にされることもなかった。
- オールスターゲームが9回規定引き分けになることもなかった。
浅尾拓也
- 右肩の故障に悩まされなかったら
- 現在も現役。
- 山口鉄也に通算ホールド数を抜かれることもなかった。
- 200ホールド達成も早かった。
- 中継ぎのMVPももう少し多かった。
- 名球会の規定にホールドが追加された。
安達了一
- 潰瘍性大腸炎にならなかったら
- 2016年以降は全試合出場したシーズンが何度かあった。
- オリックスの成績ももう少しまともだった。
- 大城滉二のブレイクが遅れていた。
- 源田壮亮や今宮健太を抑えてゴールデングラブ賞を受賞するシーズンも何度かあった。
新垣渚
- 小学生の時に交通事故で右足に人口骨を埋める手術をしていなかったら
- プロに入ってから怪我で苦しめられることが史実より減っていた。
- 通算100勝していた可能性もあった。(史実では通算64勝)
- 現役生活ももう少し長かった。
- 史実より暴投数は少なかった。
- 「暴投王」と呼ばれることもなかったかもしれない。
- 「ARAKAKI」と揶揄されることもなかったかもしれない。
- ドラフトでは、ダイエーとオリックス以外にも1位指名されていたかも。
- しかし、ダイエーじゃない限りいずれも入団拒否していただろう。
石井弘寿
- 2006年第一回WBCの第一次ラウンドの韓国戦で左肩症を発症しなかったら。
- 馬原孝浩が代理で召集されることもなかった。
- メジャー移籍を断念することもなかった。
- 上手くいけば250セーブを達成していたかもしれない。
- 40代まで現役を続けていたかもしれない。
伊藤智仁
- ひじ痛とルーズショルダーに悩まされなかったら
- 1990年代ヤクルトはさらなる黄金時代になっていた。優勝回数がいっそう増えていたか、V逸年でもBクラス転落はしなかった。
- その分阪神の成績は目も当てられない状態になっていた。
- あのお化けスライダーはルーズショルダーが生んだ産物だからただの速球派Pと終っていたと思う。
- その分阪神の成績は目も当てられない状態になっていた。
- 21世紀を迎えた頃にメジャーに移籍し活躍。
井上真二
- ブレークした1989年、夏場に阪神キーオから頭部死球を受けなかったら
- 規定打席到達の年度が数度はあったろう。
- 主軸を打つのは無理でも、末次くらいの存在にはなった可能性も。
- 20本塁打以上放っていた。
- 主軸を打つのは無理でも、末次くらいの存在にはなった可能性も。
- 90年代前半の巨人の外野陣が悲惨なことにはなっていなかった。
井端弘和
- 上皮角膜ヘルペスがなかったら
- 2009年の初めグアムに自主トレに行った際に目の腫れや痛みを訴え、帰国後の医師による診断で上皮角膜ヘルペスによるものだと判明した。
- ドーピングをすることはなかった。
- 2010年の燃えよドラゴンズは「2番井端がヒットエンドラン」になってた。
- 「きっと井端がよみがえる」という歌詞はなかった。
- 2000本安打達成してから引退した。
- 巨人移籍はなかった。
今中慎二
- 左肩の故障がなかったら
- 中日は一時、野口・山本昌・岩瀬とともにスーパー左腕王国を形成。
- 1999年の優勝貢献を置き土産にメジャー移籍し、日米通算200勝を達成。
- 中日に残留していれば、2006年の優勝ぐらいまで貢献し、最近までプレーしていた。その間にもう1-2度中日の優勝が増えていた可能性もあり、いずれかの年で10.8の借りを返していたかも。
- 著書の題名は『悔いは、ありません』になっていた。
- 門真市を代表する有名人となっていた。(今中は門真市出身)
落合博満
- 高校にまじめに通っていたら
- 入部早々四番に定着(史実通り)。秋田県のレベルを考えると甲子園に最低1回は出て独特の打法が注目を浴びる。
- 高卒後に、ドラフト指名されるが、OBに打法をけなされて自身をなくす。
- 1996年に野口の死球で手首を骨折しなかったら
- もう少し長く現役を続けていた。
- 1996年の日本シリーズも巨人が勝っていた。
- その場合、オリックスは平成時代は一度も日本一を経験できずに終わっていた。
- 全球団からホームランを達成していた(史実ではロッテからはホームランを打つことが出来なかった)。
- 落合監督就任時に野口が干されることはなく、FAで巨人へ行くこともなかった。
- 小田は中日に移籍せず、「やりましたー」という名言もなかった。
- 2004-5年の成績を見ればわかるが干されたのではなく力が落ちて使われなくなっただけ。史実と変わらなかった可能性も高い。
越智大祐
- 黄色靭帯骨化症になっていなかったら
- 西村がストッパーに転向することはなかった。
か行
掛布雅之
- もし1986年に斉藤学投手から死球を受けなかったら
- 1986年、優勝は無理でも優勝争いぐらいはできていた。翌87年も阪神の成績はあんな悲惨なものにはならなかった。
- どこかで同様のアクシデントに見舞われた可能性もあるが、それがなければ2000本安打・450本塁打ぐらいまで達成していたか。
- 阪神の暗黒時代の到来ももう少し遅れていた。結局は訪れたのは間違いないと思われるが…。
- 翌年に飲酒運転で検挙されることはなかったかもしれない。
- そのため阪神フロントとの軋轢は生まれず、引退後は監督に就任していた。
- ひいては野村監督、星野監督の招聘もなかったか。
- そのため阪神フロントとの軋轢は生まれず、引退後は監督に就任していた。
- もう少し長く現役を続けているので、上手くいけば1992年にチームを優勝させて優勝を置き土産に引退していたかも。
- 90年代半ばまで現役だったか。
- その場合、萩原誠(史実では1992年から背番号31を着用)の背番号は別の番号になっていた可能性が高い。
- 90年代半ばまで現役だったか。
門田博光
- 1979年のキャンプで右足のアキレス腱を断裂しなかったら
- アキレス腱断裂からの復帰後「走らずに済む方法」としてホームランを追求することもなかったので、故障前と同様の中距離の巧打者として大成。本塁打王ではなく首位打者のタイトルを何度も獲っていた。
- 打点王の受賞回数も史実より増えた。
- 少なくとも背番号44は付けていない。
- オリックスブレーブス時代の石嶺和彦は指名打者に専念していた。
- 1989年にブーマー・ウェルズとのハイタッチで右腕を脱臼していなかったら
- (当時、門田が在籍していた)オリックスが1989年度のリーグ優勝を近鉄にさらわれることはなかった。
- 門田の戦線離脱が、近鉄の巻き返しにつながったため。
- そうなれば後にブルーウェーブに改名することもなかっただろう。
- 門田がホークスに復帰することもなく、現役引退までオリックスでプレーしていただろう。
- 上手くいけば引退が1、2年遅れていた。
- 最低1年福岡ドームでもプレイしていた。
金本知憲
- 2010年に右肩を傷めなかったら
- 連続試合フルイニング出場、連続試合出場をそれぞれもっと続けられた。
- 2010年に阪神が優勝し、11年以降ももう少しまともな成績を残せた。
- 大和の外野へのコンバートはなかった。
- 福留孝介の獲得もなかった。あるいは福留の入団後に追われるように出番を減らしていた。
- 引退直前にコーチ兼任→引退翌年に監督就任していたかも。
- 史実より1,2年遅く引退ししばらくコーチを務めてから監督就任。
- 某野球掲示板で付けられてた蔑称の数が大幅に減ってた
亀山努
- 1995年開幕直後、外野守備中にグレン・デービスと衝突し腰椎骨折していなかったら
- 不動の一番打者として阪神打線を牽引し、20代で引退することはなかった。
- もう少し長く阪神で現役を続けていたら、2003年・2005年のリーグ優勝に貢献していたかも。
- 赤星憲広のブレイクが遅れていた。
- 怪我を恐れない思い切りのいい守備でゴールデングラブの常連となっていた。
- 1995年はチームが最下位になっていなかったかも。
- 阪神がリーグ優勝を果たし、オリックスとの日本シリーズになった場合、史上稀に見る盛り上がりを見せていた。
- チームの低迷は史実ほどのものにはならなかった。
- 少なくとも引退後、一度はコーチに就任している。
- あそこまで激太りすることもなさそう。
- 1999年、枚方リトルはリトルリーグ世界一になっていなかった。
- 彼が「1992年だけの一発屋」と見なされることもなかった。
- 同い年で誕生日が1日違いの桧山進次郎と比較されることもなかった。
- 桧山のブレイクが遅れていた。
岸川勝也
- 1991年8月9日の対近鉄戦でジム・トレーバーの打球にダイビングキャッチを試みた際に左膝半月板を損傷していなかったら
- 自己新ペースで30本塁打以上放っていた。
- 通算本塁打も200本以上放っていた。
- 1994年はリーグ優勝していたかもしれない。
- 6月に吉田修司との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍することはなかった。
- 佐藤真一、広永益隆が巨人へ移籍していたかも。
- いずれにしても根本陸夫を監督を勇退している。
- 6月に吉田修司との交換トレードで読売ジャイアンツへ移籍することはなかった。
- 移籍して来た秋山と4番の争いをしていた。
- ケビン・ライマーが入団することはなかった。
- もしくはブライアン・トラックスラーが入団せず、一塁手へコンバートされていた。
- 小久保裕紀のブレイクが遅れていた。
清原和博
- もし1989年にバット投げ事件を起こさなかったら
- 連続試合出場記録が途切れることはなかった。
- この年も西武が優勝しV10を成し遂げていた。
- 平沼定晴の知名度は上がらなかった。
- ちゃんとした調整ができていたら
- 2007年は一軍出場無しで終わることはなかった。
- そもそもオリックスに在籍した2006年からの3年間も1年間フルで1軍の戦力となれていた。
- そしてオリックスももう少しまともな成績を残しており2008年に優勝できていたかも。
- そもそもオリックスに在籍した2006年からの3年間も1年間フルで1軍の戦力となれていた。
- 最高出塁率だけでなく本塁打王や打点王も獲得できてた。
- もちろん「無冠の帝王」と呼ばれなかった。
- 2000本安打達成も史実より早かった。
- 野村貴仁からグリーニーを受け取ることもなかった。
- 覚醒剤所持もなかった。
- 逮捕されなかったので、引退後の彼の人生が大きく変わっていた。
- 遅かれ早かれ西武かオリックスでコーチや監督に就任していたかも。
- 逮捕されなかったので、引退後の彼の人生が大きく変わっていた。
- 覚醒剤所持もなかった。
マイク・グリーンウェル
- 1997年、自打球で足を骨折しなかったら
- もちろん「神のお告げ」発言からの途中退団はなかった。
- 阪神が同年途中にシークリスト、コールズを獲得することもなかった。
- 翌年に中日からパウエルを獲得することもなかった。
- 阪神が同年途中にシークリスト、コールズを獲得することもなかった。
- この年の阪神がAクラス入り出来ていたかもしれない。
- 勢い次第では20世紀中に優勝出来ていたかもしれない。
栗原健太
- 2012年、変形性肘関節症にならなかったら
- 堂林翔太のブレイクが遅れていた。
- 引退まで広島でプレー。
- 最多二塁打の打者として注目され続けた。
- それでも無冠の帝王で終わっていた可能性はある。
- 新井貴浩の広島復帰もなかったかもしれない。
桑田真澄
- もし1995年のダイビングキャッチ事故がなかったら
- まず通算200勝は達成して名球界入りしていた。
- 1996年はメークドラマではなく巨人の独走優勝。日本シリーズに勝てたかどうかはわからないが…。
- 1995年もヤクルト、広島と僅差の戦いになっていた可能性も。
- メジャーリーグ入りも史実より早く実現できていた。
- メジャー行けなかったのは借金のせいだから、巨人で活躍している(=見放されない)限り無理だったのでは?
- むしろケガなく活躍し続けていたら、史実よりも返済は早まったのではなかろうか。年俸もいい具合に上がり続けただろうし。
- メジャー行けなかったのは借金のせいだから、巨人で活躍している(=見放されない)限り無理だったのでは?
- 河合じゅんじの漫画でクワタは金儲けキャラにならなかった。
- これこそケガじゃなく借金のせいだろ。
源田壮亮
- 2019年4月に死球を受けなかったら
- もちろん連続試合フルイニング出場を続けられていた。
- 同時期に交際を公表した衛藤美彩が西武ファン特に源田ファンから叩かれることはなかった。
- 「愛のない雑音は気になりません」発言自体なかった。
- 乃木坂46ファンからの熱愛報道を惜しむ声は現実通りかもしれないが…。
- 二人の結婚が現実以上に祝福されていた。
- 「愛のない雑音は気になりません」発言自体なかった。
- 上手くいけば西武が前年のリベンジで日本シリーズに出場できていた。
小久保裕紀
- もし2003年のオープン戦で大怪我をしなかったら
- もちろんあの「小久保事件」は起きなかった。
- もちろんホークスの4番は小久保のまま。
- 松中信彦の出番は少なかった。
- 某球団へ移籍しないので、松田宣浩のブレイクも遅れていたかも。
- 吉武真太郎が巨人に移籍することは無かった。
- 2003年の強力打線が無かったことにされ、同年の日本一も無かった。
- あるいは史実どおり日本一になっていて、彼がいる分打線が尚更えげつなかったかも。
- 日本一は18年ぶりにリーグ優勝を果たした某球団に持っていかれた。
- もしかするとこの年はダイエーではなく、西武か近鉄が優勝していたかもしれない。
- 前者の場合、同年の日本シリーズは1985年以来の顔合わせになっていた。
- 後者の場合、同年の日本シリーズは稀に見る関西ダービーになっていた。
- 川崎宗則のブレイクも1年遅れていた。
- 2000本安打は2011年の内に達成できた。
- フリオ・ズレータが入団することはなかった。
さ~な行
斉藤和巳
- 肩の痛みに苦しめられなかったら
- あと数年は現役だった。
- 現在(2017年)まで現役かは微妙なところ。
- メジャーに挑戦していたかもしれない。
- 現在(2017年)まで現役かは微妙なところ。
- 200勝を達成できていたかもしれない。
- そうでなくても、2000年代での最多勝にはなっていた。
- 某所で「プロブロガー」と揶揄されることもなかった。
- リハビリ担当コーチになることもなかった。
- スザンヌとの交際、結婚そして離婚もなかった。
坂口智隆
- 2012年の5月17日の対巨人戦で、初回に坂本勇人の放った飛球をダイビングキャッチで好捕したが、この際に右肩を地面に強打し負傷退場。検査の結果、右肩肩鎖関節の脱臼、さらに靭帯も断裂と診断され、長期離脱を余儀なくされた。もしそれがなかったらどうなっていたか。
- ヤクルトへの移籍はなかった。
- オリックスでゴールデングラブ賞や100安打が途絶えることはなかった。
- 今なら2000本安打は達成できてるはず。
- オリックスで現実以上に活躍できていたので2013年にAクラス入りし、14年に優勝出来ていたかも。
デニス・サファテ
- 2018年、股関節の痛みに悩まされなかったら
- もちろん、外国人初の250セーブを達成できた。
- 外国人枠では2人目で投手としては初の名球会員になった。
- 森唯斗の守護神転向はなかったか、数年は遅れていた。
城島健司
- 2010年、腰を傷めなかったら
- 現役引退後は恩師のいるホークスへ指導者として出戻りしていた。
- 釣りタレントとしての顔はもっぱらオフ限定であった。
- 藤井彰人がFAで阪神入りする事はなく、「男前」の愛称も定着する事はなかった。
- 翌2011年以降も現実以上に活躍していて、阪神の成績ももう少しまともだった。
- 真弓〜和田監督時代に一度は優勝出来ていた。
- 2012年に一塁へのコンバートもなかった。
- 日米通産2000本安打を達成できてた。
- 引退の時期によっては、狩野恵輔の復活や梅野隆太郎と原口文仁の台頭・ブレイクが遅れていたかも。
- 梅野と原口が城島の影響を受け、現実以上に「打てる捕手」として活躍するかも。特に原口は城島と自主トレをしていたので尚更。
- 2013年以降も阪神に在籍しているので、WBC日本代表でチームメイトだった西岡剛や福留孝介と再会していた。
- 2014年頃から引退までバッテリーコーチ兼任になっていた。
- 引退まで1軍で出続けられていたかもしれないので、引退セレモニーも甲子園でのラストゲームorファン感謝デーで行われた。
- 同じく阪神時代に背番号2を付けた高橋慶彦、松永浩美と比較されることはなかった。
- その二人が阪神時代に怪我で選手生命を縮めたことからの、「背番号2の呪い」のジンクスをぶち破ったと話題になった。
杉内俊哉
- 2004年6月1日の対ロッテ戦に2回7失点で降板直後、悔しさのあまりベンチを素手で殴打して両手の小指付け根を骨折がなかったら
- 以降、シーズンを棒に振ることはなかった。
- この年、リーグ優勝を果たしプレーオフも日本シリーズ進出していた。
- そして日本一2連覇。
- メジャーリーグに移籍していた。
- 巨人移籍はなかった。
- 2012年5月30日の楽天戦でのノーヒットノーラン達成はなかった。
- 巨人移籍はなかった。
- 「利き手はやめろ、ブルガリア」という名言が生まれることもなかった。
鈴木誠也
- 2017年8月22日の対DeNA戦、右中間のフェンス際に放った飛球へのジャンピングキャッチ後の着地で右足首を負傷がなかったら
- この年、クライマックスシリーズ対DeNA戦を破り日本シリーズ進出していた。
- それでもソフトバンクに勝てたかどうかは微妙なところ。
- MVP、打点王に輝いていた。
- ひょっとしたら三冠王に?
ダリル・スペンサー
- 交通事故によるケガがなかったら
- 1965年には野村克也氏と三冠王争いをしていた際に、シーズンがあと2週間という中で交通事故でリタイヤし、結局、野村克也氏が三冠王になりました。
- 1965年の本塁打王はダリル・スペンサーとなり、野村克也氏が三冠王になることはなかったかもしれない。
- 本塁打王の記録で野村克也氏と並んでいた可能性もあった。
- 1966年には阪急ブレーブスは初のリーグ優勝を果たしていたかもしれない。
- その場合、監督信任投票事件はなかった。
高橋信二
- 2005年4月試合中に一塁へスライディングした際に左膝の靭帯を断裂しなかったら
- 鶴岡慎也のブレイクが遅れていた。
- 一塁転向もなかった。
- 2010年7月1日に藤田太陽から死球を受けなかったら
- マイカ・ホフパワーの獲得はなかったかもしれない。
- 巨人へのトレードもなかったかもしれない。
高橋慶彦
- 1991年のオープン戦の始球式でぶつけられなかったら
- 阪神移籍後も現実以上に活躍できていた可能性がある。
- 92年の優勝争いに貢献出来ていた。
- 阪神時代が黒歴史になることもなかった。
- 引退後はロッテだけでなく阪神でもコーチを務めていたかもしれない。
- 久慈照嘉のブレイクが遅れていた。
- 松永浩美の移籍もなかった。
- 但し当時の土井監督とは確執があったそうなので、1993年のオフにFA権を行使してダイエーに移籍していたかも?
- 松永のトレード相手の野田浩司はあまりブレイクせず、2000年代前半に阪神で引退。
- 松永浩美の移籍もなかった。
武田久
- インフルエンザや両膝の怪我に悩まされなかったら
- 250セーブを達成できたかもしれない。
- 増井浩俊は中継ぎのままだった。
- オリックス移籍後に抑えをやってたかは微妙。
田淵幸一
- 1970年、広島外木場義郎から左こめかみに死球を受け昏倒がなかったら
- この年、阪神が優勝していた。
- 捕手一筋として活躍。
- 「耳当て」付きヘルメットの使用が定着化の存在はなかった。
- 1983年、近鉄柳田からの死球による長期欠場がなかったら
- バースの前にホームラン日本新記録挑戦が話題になった。
- それまで55本超のホームランペース。
- 多少ペースは落ちるにせよ、50本以上は現実的だった。
- そしてこの年のMVPに
多村仁志
- 怪我をしなかったら
- スペランカーと呼ばれることはなかった。
- 史実での個々の怪我はともかく、ほとんどの怪我に無縁の選手だったというのであればそれはもはや多村では無い。
- メジャー移籍の話が出てきた。
- 2000本安打も達成できたかもしれない。
- 中日で育成契約もなかった。
- ホークスへのトレード要員にならなかった。
ダルビッシュ有
- 2014年の首の凝り、2015年の右肘内側側副靱帯の損傷に悩まされなかったら。
- 2015年はメジャー登板なしに終わることはなかった。
- 田中将大に通算勝利数を抜かれることもなかった。
- 今は200勝達成できたかもしれない。
多和田真三郎
- 自律神経失調症にならなかったら
- 2019年以降も西武のエースとして活躍している。
- 西武が2019年のCSで敗退することはなかった。
- 松坂大輔、内海哲也の両投手は2020年限りで引退していた。
チョ・ソンミン(趙成珉)
- 1998年のオールスターゲームで右肘を負傷しなかったら
- その年の後半戦も活躍し、二桁勝利を挙げていた。
- 1998年の巨人の成績は史実(3位)よりも良くなっていた。
- 2000年代前半にはMLB移籍の話が出ていた。
- 勿論2020年現在も存命。
- 金杞泰コーチらと再来日し、二軍で投手コーチを務めてたかもしれない。
津田恒美
- 脳腫瘍になっていなかったら
- 史実では脳腫瘍の他にも1990年に右肩や右膝靱帯を損傷するなど怪我を抱えていたため結局のところ長期離脱は避けられなかった。
- 大野豊は1992年に先発へ戻っていた。
- もちろん現在でも存命。
- 逆に現実ほど神格化されていない可能性も。
- 最悪の場合北別府学や大野豊同様「投手コーチとしては無能」の烙印を押されていた。
堂林翔太
- 2013年に左手第3中手骨を骨折しなかったら。
- 今でもレギュラー。
- 新井貴浩の広島復帰はあったかどうかは微妙。
- ポジションは史実と異なってたかもしれない。
中村紀洋
- 2006年に怪我をしなかったら
- オリックスでも現実以上に活躍できていて、同年のオリックスはAクラス入りを果たせていた。
- 翌年以降の成績次第では、中村勝広の監督解任→コリンズの監督就任もなかった。
- 勢いが続けば、2008年に優勝出来ていた。
- 中村自身もオリックスに残留し、中日などへの移籍もなかったか数年遅れていた。
- タフィー・ローズのオリックスでの背番号が異なっていた。
成本年秀・河本育之
- 1998年、故障しなかったら
- スコット・デービソンを獲得することはなかった。
- ロッテが18連敗することはなかった。
- 阪神が18連敗したロッテより弱いことが証明されることはなかった。
- 最下位に沈むこともなく、もしかしたらAクラス入りもあったかも知れない(この年のパ・リーグは大混戦だったので)。
- 連敗中に黒木が酷使されることはなかった。
- 共に退団が遅れて左右のダブルストッパーとして人気となった。
- 小林雅英は中継ぎでブレイクし、NKKの勝利の方程式が成立していた。
西岡剛
- 2014年の巨人との開幕シリーズで福留孝介との交錯がなかったら
- 上本博紀が「1番セカンド」でスタメン定着しなかった。
- 同年の阪神はCS以前にレギュラーシーズンでも優勝出来ていたかもしれない。
- 下手すりゃ日本一になれていて、「守備妨害で試合終了」もなかった。
- 西岡自身も2015年以降も活躍できていた。
- 下手すりゃ日本一になれていて、「守備妨害で試合終了」もなかった。
は行
濱中治
- 2003年に右肩を傷めなかったら
- 同年のオールスター戦のファン投票選出を辞退することはなかった。
- 阪神は日本一になれていた。
- 開幕当初一塁を守っていた桧山進次郎が外野に戻ることはなかった。
- 三塁もずっとアリアスだったかアリアスと片岡篤史の併用だった。
- 翌年に背番号を変更することもなかった。
- オリックスへの移籍もなさそう。
原辰徳
- 1986年9月の広島戦での津田恒美投手のストレートをファウルした時の左手首の骨折がなかったら
- 1986年はシーズン最後まで活躍し、巨人はリーグ優勝していたかもしれない(史実は広島)。
- その場合、徳光和夫の「巨人の優勝は日本シリーズ第1戦が始まるまで諦めない。だって広島の選手が乗った飛行機が墜落するかもしれないでしょ?」発言はなかっただろう。
- プロ通算で450号あるいは500号本塁打を達成していた。
- この時の負傷により原氏は「自分の思うようなバッティングが出来なくなった」と自ら語るほど左手首の後遺症に悩まされた。
- 成績上は翌年、翌々年と続けて3割30本塁打を達成しており、むしろキャリアハイを迎えていたことを考えると、そこまで大きく変わったか微妙。
- 1980年代後半のどこかの年にシーズン40本塁打を達成していた。
- この時の負傷により原氏は「自分の思うようなバッティングが出来なくなった」と自ら語るほど左手首の後遺症に悩まされた。
- 前世紀末まで主力として活躍していた。
- 現役として活躍する期間が長くなる分、コーチ・監督としての期間がその分短くなっていたかもしれない
- もしくは、解説者・評論家にはならずにコーチ就任は史実と同じタイミングになっていた
- 「チャンスに弱い4番」と揶揄される事なく(とはいえ実際には勝負強かったようだが)、「ONの後継者」と評されていた可能性も。
- 80年代後期に発売された野球ゲームにて原氏のパラメーターが強打者とは言い難かったような扱いをされていたような感じがするが(当時のチームメイトであったクロマティや吉村よりも低かったような)、強打者にふさわしいパラメーターになっていたかもしれない。
- 1989年に外野へコンバートされることはなかった。
- 2000本安打を達成して名球会入りしていた。
- 津田のボールを打ったのだけではなく疲労が蓄積して骨折したので、別の打席で結局疲労骨折していた。
東出輝裕
- 2013年2月24日の紅白戦で前十字靭帯を断裂しなかったら。
- 2000本安打達成まで現役を続けていたかもしれない。
- そうとなれば通産本塁打数20本以下での達成になってたかもしれない。
- 田中広輔のブレイクが遅れていた。
彦野利勝
- 1991年6月18日のナゴヤ球場での横浜大洋戦で盛田幸妃からサヨナラ本塁打を放ち一塁ベースで右膝の靭帯が断裂がなかったら
- 1991年はシーズン最後まで活躍し、中日はリーグ優勝していたかもしれない。
- 1988年から4年連続でゴールデングラブ賞を受賞していた。
- シーズン途中、オリックスから南牟礼豊蔵が移籍することはなかった。
- 1988年から4年連続でゴールデングラブ賞を受賞していた。
- 1994年もリーグ優勝を果たしていた。
- 本塁打も2桁を放っていた。
- うまくいけば1996年もリーグ優勝を果たしていたかも。
- 晩年に背番号57に戻すことはなかった。
- アロンゾ・パウエルが来日することはなかった。
- 音重鎮も中日へ復帰することはなかった。
平野恵一
- 2006年のロッテ戦でファウルフライの捕球の際の大怪我がなかったら
- 阪神へのトレードはなかった。
- 平野ではなく後藤が阪神に行っていたかも。
- FAで巨人に行っていた。
- 大引啓次のブレイクが遅れていた。
- 晩年のオリックスへの出戻りは現実通り。
エリック・ヒルマン
- 1997年に移籍後すぐに左肩を故障しなかったら
- この年、巨人が優勝していた。
- ヤクルトと20ゲーム差を付けられているのでそれはない。せいぜいAクラスぐらい。その場合、広島の連続Bクラスの始まりが1年早くなっていた。
- 「左肩に小錦が乗っているようだ」、「ミスター違和感」というフレーズはなく「昼マン」と揶揄されていなかった。
セシル・フィルダー
- 1989年、指を骨折しなかったら
- 翌年も阪神で活躍していた。
- 89年は本塁打王を獲得していた。
- 92年まで在籍していたら92年に阪神が優勝していた。
- 阪神暗黒期の成績は少しはマシになっていた。
- 90年にパリッシュが阪神に移籍してこなかった。
古田敦也
- 1994年の4月14日に前田智徳のファウルチップを受けての右手人差し指骨折がなかったら
- ヤクルトは4連覇を果たしていた。
- 巨人、中日の10.8自体は存在しなかった。
- グラッデンと中西親志の乱闘騒ぎも起こることはなかった。
- 西村龍次は近鉄へ放出されることも無かっただろう。
- 中西親志はこの年で現役を引退していた。
- 西村龍次は近鉄へ放出されることも無かっただろう。
- 2000本安打は2004年の内に達成できた。
ま~わ行
前田智徳
- 1995年にアキレス腱を断裂しなかったら
- 少なくとも慢性的な足の故障に悩まされることも無く、1996年以降もフル出場したシーズンは更にあった(史実では故障以降、2005年のみ)。
- 松中よりも先に三冠王を獲っていたか、トリプルスリーを達成していた可能性も。
- 2000本安打どころか、3000本安打も狙える位置にいたかも。
- 松井秀喜、福留孝介の最大のライバルとして君臨していた。
- 代打、またはDHに専念するのはもう少し遅くなっていた。
- 広島も優勝までとは行かなくても数回はAクラスに入ったシーズンが増えていたはず。
- FA宣言でメジャーリーグに移籍していたかも。
松井秀喜
- 2006年にスライディングキャッチの際に左手首を骨折していなかったら
- 当然、それ以降も連続出場記録は継続されていたはず。
- カル・リプケンの記録はさすがに抜けないまでも、衣笠の記録は越えていたかもしれない。
- その後も変わらず活躍していたと仮定した場合、2009年にヤンキースを退団することも無かった。
- もしかしたらイチローと共にプレーすることもあったかもしれない。
- 現役生活そのものも、うまくいけば2012年以降も続いたかもしれない(史実では2012年にレイズ退団後、オフに引退)。
- 国民栄誉賞の受賞もなかったか数年遅れていた。
- メジャー通算200本塁打を達成した可能性も十分あった。
- 日本球界復帰もあったか。
松坂大輔
- 2009年に右肩の疲労に悩まされなかったら
- 現在は日米通産200勝を達成できてるはず。
- 巨人が「松坂を取らなくて正解だった」ということもなかった。
- 日本復帰は史実より遅れていたかもしれない。
- ソフトバンクが獲得していたかどうかは微妙。
- 直接西武に復帰していたかも。
- 帰国後も現実以上に活躍できている。
- ソフトバンクが獲得していたかどうかは微妙。
松中信彦
- 2009年以降、肘や膝の怪我に悩まされなかったら
- 1999年以降続いた二桁本塁打も2011年にストップすることはなかった。
- 2013年以降は本塁打0で終わることもなかった。
- 2000本安打や400本塁打も達成できたかもしれない。
- 引退試合はヤフードームで行われた。
松永浩美
- 1993年開幕直後に肉離れを起こさなかったら
- 93年以降の阪神の成績がもっとマシになっていた。
- 93年も含めAクラス入りするシーズンも何度かあり、20世紀中に優勝出来ていた。
- 「甲子園は子供の砂場」発言もない。
- FA移籍第1号は彼ではなく落合博満だった。
- 入れ違いにオリックスへ移籍した野田浩司と悪い意味で比較されることもなかった。
- 同じく「パリーグから阪神へ移籍し背番号2を付けたスイッチヒッター」である高橋慶彦と良い意味で比較されていた。
- シーズン途中に背番号を変更することもなかった。
- 同じく元オリックスの石嶺和彦の移籍もなさそう。
- むしろ松永の移籍がないので、石嶺と再びチームメイトになっていたかも。
水谷実雄
- 1984年の開幕戦で死球を受けなかったら
- 1986年or1988年までプレーしていた。
- 1984年には打点王か本塁打王を獲得していたかもしれない。
- 1984年のオールスターゲームに出場していた可能性もある。
- 1984年の日本シリーズに出場し、阪急が日本一になっていた。
- 阪急でコーチをしなかったかコーチをやるのが遅れていたかもしれない。
- コーチとして、広島に復帰していたかもしれない。
簑田浩二
- 1985年に頭部に死球を受けなかったら
- その後巨人にトレードされることもなかった。
- フランチャイズ・プレイヤーになっている。
- プロゴルファー転身はなかった。
- オリックスの監督に就任している。
カルロス・ミラバル
- 2005年に故障しなかったら
- 上手くいけば日本ハム初の外国人100勝を達成できたかもしれない。
- 0及び00を永久欠番にすることもなかった。
- コリー・リーやブライアン・スウィーニー、ライアン・グリンを獲得しなかったかもしれない。
- 金村曉の移籍が早まってたかもしれない。
村田兆治
- 1982年に肘を故障して無かったら
- ロッテが1983年に最下位に沈むことは無く1984年に優勝してたかもしれない
- 200勝も1988年までに達成してた
- ロッテがマリーンズに改名した1992年以降もプレーしてた可能性すらある
- 場合によってはダイエーでのコーチ就任は無く古巣ロッテの監督やコーチに就任してたかも?
- フランク・ジョーブ博士の日本での知名度が上がるのが遅れた。
- NPBにおけるトミー・ジョン手術の第2号は荒木大輔になっていた。(第1号は史実通り三井雅晴)
森慎二
- 2006年のオープン戦で右肩を脱臼しなかったら
- MLBで活躍できていた場合、ここの通りになっていた。
- MLBで活躍できなかった場合でも、日本球界に復帰して2012年頃までは現役を続けられていた。
- 2010年までに古巣西武に復帰していた場合、2010年の西武は土壇場で優勝を逃すことはなかったかもしれない。
- 古巣西武でもあまり期待通りに活躍できなかった場合、間違いなく「俺達」メンバーの一員になっていた。
盛田幸妃
- 髄膜腫になっていなかったら
- もっと長生きしていた。
- 三澤興一が移籍することはなかった。
- 香田勲男の引退が早まっていた。
- 地元、北海道ということもあり北海道日本ハムファイターズへ移籍していた。
- 合併する年まで近鉄に在籍し、オリックスバファローズか楽天で現役を終えていた。
- そしてオリックスか楽天で投手コーチを務めた。
森本稀哲
- 汎発性円形脱毛症になっていなかったら
- サッカー選手になっていた。
- 『しくじり先生 俺みたいになるな!!』で先生として出演はなかった。
- 帽子をかぶる野球に傾倒しなかったか。
- 2000年代は北海道日本ハムファイターズがリーグ優勝できていたか微妙。
- 横浜移籍時にやったラーメンマンのコスプレが似合ってなかった。
- オールスターゲームでのザビエルのコスプレも似合ってなかった。
- そもそもスキンヘッドにしなかった。
山口高志
- 1978年にゴルフで腰を痛めてなかったら…
- 1978年に日本シリーズの前に開かれた祝勝会のゴルフコンペで腰を痛めたことにより、1978年の日本シリーズに登板することはできませんでした。
- 1978年の日本シリーズでは確実に優勝していた。
- ヤクルトは1993年まで日本一を果たすことができなかった。
- 第7戦の1時間19分の抗議も無いので、上田利治監督は辞任せず史実通り1990年まで監督を続けていた。
- 1979年もリーグ優勝を果たしていたかもしれない。
- 最低でも同年のパ・リーグプレーオフで近鉄がストレート勝ちをすることはなかった。
- 3年程長くプレーをしていたかもしれない。
- 1979年に最優秀救援投手のタイトルを獲得していた。
- 1979年のオールスターゲームに出場していたかもしれない。
- 1984年の日本シリーズでも前回(1975年)同様広島打線を抑え、阪急を日本一に導いていた。
- 佐藤義則がクローザーを務めることはなかった。
横田慎太郎
- 脳腫瘍がなかったら。
- 背番号24で桧山の後継者の呼び声高く、育成再契約もなかった。
- 『奇跡のバックホーム』はなかった。
吉田正尚
- 2016,17年に腰痛にならなかったら
- 2016年のオリックスは最下位を免れていて、2017年もCSに進出出来ていた。
- 正尚自身も2016年に新人王のタイトルを獲得していたかも。
吉見一起
- 2012年、左脚大腿二頭筋挫傷や右肘の肘頭骨棘骨折をしなかったら
- 第3回WBCの日本代表入りを辞退することはなかった。
- 2012年で二桁勝利が途絶えることもなかった。
- 2014年も未勝利で終わることはなかった。
- 2013年以降の中日は暗黒時代に突入することもなかったはず。
吉村禎章
- 栄村忠広との衝突事故がなかったら
- プロ通算200号本塁打を達成していた。
- 事故前の吉村の実力を考えれば200号どころではない。90年代を通して巨人の中軸打者として活躍し、350本塁打ぐらいは打っていたと思う。巨人の優勝回数も増えていたか。
- 1992年の阪神はAクラス入りできなかった。よって阪神は1987年から2002年までの16年間連続でBクラスに甘んじていた。
- 1992年のヤクルトのリーグ優勝時の甲子園での阪神ファンからの「帰れ」コールもなかった。
- 野村ヤクルトの初優勝も1992年ではなくもっと遅かった。
- 1992年のヤクルトのリーグ優勝時の甲子園での阪神ファンからの「帰れ」コールもなかった。
- 1992年の阪神はAクラス入りできなかった。よって阪神は1987年から2002年までの16年間連続でBクラスに甘んじていた。
- 90年代末の巨人の外野は「吉村・松井・高橋」と左の強打者が揃っていた。
- それくらいまで、現役続けられたら二岡の背番号は「7」以外の空き番号だった。
- 清水のレギュラー獲得は遅れていた。あるいはくすぶり続けたまま他球団にトレードされ開花していた
- 巨人不動の3番打者となっていた。
- 松井入団までの「不動の生え抜き4番」になっていた。
- 中日に移籍した落合の最大のライバルになっていた可能性も。
- 広沢がヤクルトからFAで移籍してくることはなかったかも。
- その場合広沢の阪神移籍もなく、ヤクルトで選手生命を終えていた。
- あるいはヤクルトを自由契約になった後野村監督の誘いで阪神へ移籍していた。
- その場合広沢の阪神移籍もなく、ヤクルトで選手生命を終えていた。
- 逆にFAを活用せず引き続き生え抜き路線だったか。
- 故障した1988年のシーズンに関して言えば、吉村と同じ主力選手であったクロマティも6月にデッドボールによる故障で戦線離脱した影響もあって、結果的にはリーグ優勝した中日に12ゲーム差をつけられて2位に終わったが、シーズン終盤まで巨人と中日の優勝争いになったかもしれない。
- この年の巨人は前半戦終了までは首位を維持していたが、後半戦は開始早々に中日に首位を奪われると大きくゲーム差をつけられて取り返す事無くシーズンが終わってしまった。
- 栄村は
- 代走、守備要員として巨人で数年過ごしたろう。
- その後、守備走塁コーチもしくはトレーニングコーチくらいにはなれたかも。
- やくみつるの漫画で、頭に角が生えた形で「悪魔」か「バイ菌」として悪意に満ちた描き方をされることはなかった。
- 巨人に何らかの形で残っていた可能性あり。
- 少なくとも審判の栄村孝康と勘違いされることはなかった。