ページ「もしAKB48があのジャンルの音楽ユニットだったら」と「もし芸能界であの事件がなかったら/1990年代以前」の間の差分

(ページ間の差分)
ナビゲーションに移動 検索に移動
(文字列「(\*|#).+お(や|止)め(くだ|下)さい.*\n」を「」に置換)
 
(文字列「(\*|#).+お(や|止)め(くだ|下)さい.*\n」を「」に置換)
 
1行目: 1行目:
{{Pathnav|もしAKB48が○○だったら|name=音楽ジャンル}}
{{Pathnav|もし芸能界であの事件がなかったら|name=1990年代以前}}
*新規追加は年代順で。
*放送番組での出来事については[[もし放送界であの事件がなかったら]]へ。
*アニメ・特撮及び声優関連での出来事については[[もしアニメ・特撮であの事件がなかったら]]へ。
*本や雑誌での出来事については[[もし出版業界であの事件がなかったら]]へ。


==独立済み==
*[[もしあの芸能人が不倫をしていなかったら]]
*[[もしあの芸能人の問題発言がなかったら]]
*[[もしあの芸能人の薬物所持事件がなかったら]]
*[[もしあの芸能人が性犯罪を犯していなかったら]]
*[[もしあの芸能人が未成年飲酒・喫煙をしていなかったら]]


==男性アイドル==
==1970年代以前==
#各事務所の若手イケメンタレントが所属。
===トニー谷長男誘拐事件(1955年)===
#*ジャニーズ事務所所属のタレントが大半?
#トニー谷はテレビに出ることはできず史実通りに人気が落ち、生涯舞台で食い繋ぐ日々だったかもしれない。
#**そこは、非ジャニーズグループとして結成させたほうが無難かと。
#*テレビ番組での「♪あなたのお名前なんてえの」で人気が復活することはなかった。
#*むしろAKBのスタンスではビジュアルや歌手力よりも審査員のご厚意が第一とされるのでフツメンがそれなりにいるグループとなっていた。中にはイロモノキャラも。
#何れにしてもいつも行っていた女性芸能人への{{あきまへん}}で{{あきまへん}}にまで至ったかもしれない。
#**ファンの恣意的な解釈で「クラスで2番目(以下)の美男子」というコンセプトが生まれてしまう。
#*もしくは毒舌がエスカレートして裁判沙汰になったかもしれない。
#***秋元康は「そんなことは言っていない。全力で美男子を集めたつもりだ」と否定される。
#芸人になる前の壮絶な過去は死ぬまで明かされなかったかもしれない。
#**バラエティに富んだメンバー構成であり、メンバーの個性が重視される。
#*古い知人がマスコミに暴露してもシラを切り通しただろう。
#**イケメンもブサイクも共存しているグループになっていた。
#***♪ブサイクもイケメンも紙一重~(byNMB48)
#女性ファンが大半を占めていた。
#ジャニーズとはライバル関係になる。
#*派生ユニットに、NEWSやKAT-TUN・関ジャニ∞、嵐に相当するものを作ってジャニーズに堂々と戦いを挑む。
#*反対に、ジャニーズが総選挙方式を採用。
#**その得票数によって、NEWSやKAT-TUN・関ジャニ∞、嵐のメンバーをシャッフルする。
#***とすると、E-girlsみたいな体制になるわけか。
#*いや、ジャニーズとは明確な棲み分けがされる。
#**衣装もジャニーズやEXILEなどと差別化しており、ブレザー+チェックのズボンという、男子高校生そのものの衣装だった。
#**史実通りの路線ではジャニーズから一目置かれるかどうかは微妙。
#世の女性ファンはAKB派とジャニーズ派の真っ二つに分かれる。
#活動拠点は嵐山か河原町あたり。
#*阪急阪神東宝グループが経営に関わっていた。
#非ジャニーズグループとしてデビューし実史ほど売れていたら、ジャニーズは壊滅的な被害を受けていた。
#ジャニーズの影響力の強いミュージックステーション(テレビ朝日)にはなかなか出られないかも。
#アニメ「AKB0048」は別の内容になっていた。
#「マジすか学園」は男子校が舞台となっていた。
#*「キャバすか学園」ならぬ「ホストすか学園」が放送されていた。
#「AKB49~恋愛禁止条例~」は別の内容になっていた。
#*男装女子が主人公になっていた。
#*あるいはなかった。
#SKE・NMB・HKTも早々にできていた。
#*北海道にもチームができていた。
#*実史の通り、海外にもチームができていた。
#**中国・韓国あたりは確実か?
#「私立バカレア高校」の内容が変わっていた。


==女性声優==
===高島忠夫長男殺害事件(1964年)===
#1990年代~=林原めぐみ・椎名へきる・國府田マリ子・桜井智、2000年代~=水樹奈々・堀江由衣・田村ゆかり・平野綾らが主要メンバー。
#おそらく長男も政宏や政伸同様に芸能界デビューさせていただろう。
#*「スフィア」も組み入れられていた。
#*メディアでの呼び方が「高島兄弟」ではなく「高島三兄弟」になっていた。
#**「放課後ティータイム」もグループ内ユニットとして誕生している。
#*もしくは高島夫妻が政宏や政伸を産まなかったか。
#***「スフィア」自体が史実AKBの「ノースリーブ」や「DiVA」に、「放課後ティータイム」自体が史実AKBの「渡り廊下走り隊」に相当している。
#寿美花代が湯船につかることができないことを告白することはなかった。
#***「ミルキィホームズ」もグループ内ユニットとして誕生している。
#もしかしたら高島忠夫が糖尿病や鬱病を発症することはなかったかも。
#***「後ろから這いより隊」や「かとふく」もここから誕生している。
#***特に「Aice5」は伝説のグループ内ユニットとして語り継がれている。
#****「やまとなでしこ」もお忘れなく。
#***「μ's」や「Aqours」もグループ内ユニットとして誕生。
#***「Wake up girls」や「どうぶつビスケッツ」もグループ内ユニットとして誕生。
#**後に茅原実里・坂本真綾も加入。
#**1995年頃には宮村優子も加入。
#**当然井上喜久子も1990年代に加入しており、釘宮理恵も2000年代に加入している。
#*水樹が常にセンター。
#**初代センターは椎名。
#**「たかみな」とは、高山みなみ(ここでの1990年加入メンバー)のことを指す。
#**「まゆゆ」とは、麻績村まゆ子(1996年代加入メンバー)のことを指す。
#**「マリ子様」とは、先述した國府田マリ子のことを指す。
#**「ともちん」とは、先述した桜井智のことを指す。
#**「キタリエ」ではなく、「キタエリ」こと喜多村英梨がいる。
#**「ゆきりん」ではなく、先述した「ゆかりん」こと田村ゆかりがいる。
#*平野が男性問題で謹慎。
#**史実と同じく写真流出がきっかけ。
#**結局平野も丸坊主。
#*アニラジはほとんど彼女たちの冠番組。
#**1980年代に結成されていたら、潘恵子・日高のり子・佐久間レイ・松井菜桜子らが初期主要メンバーとなっている。
#***小森まなみも追加。「私はラジオのトークジョッキー」という理由で当初は加入を拒んでいたが、声優業も行ったことやアイドル的なルックスが買われAKB48入りする。
#***その場合、小山茉美も海モモへのゲスト出演を機にAKB48入りしていた可能性がある(小森まなみが海モモの前期主題歌を、林原めぐみが海モモ役と後期主題歌を担当したことによるもの)。
#***更に冨永みーな、川村万梨阿、かないみかも1980年代後半に加入。
#***その為、潘恵子&潘めぐみ(2010年代加入)はAKB48唯一の親子二代メンバーとなる。
#****後に、井上喜久子の実娘である井上ほの花も加入し、唯一の親子2代メンバーでなくなる。
#**自前でアテレコ兼アニラジ専用スタジオ『AKB48-STUDIO』を所有しており、アニメのAKBメンバー出演部分のアテレコや、アニラジ番組の収録が行われており、週に数回その模様が観客に公開されている。また、月に数回メンバーによるライブを兼ねた朗読劇公演が催されている。
#**当然、STUDIO内には「アニメイト」又は「ゲーマーズ」が出店しており、AKBグッズ並びに彼女たちが出演したアニメのグッズを販売している。
#**STUDIO内の案内放送も彼女達が交代で兼務している。
#*アニメ・声優・ゲーム雑誌の表紙グラビアを飾るのも殆ど彼女達。
#MJアニソンスペシャル(NHK)とアニサマの常連となっている。
#悠木碧・花澤香菜・竹達彩奈は研究生として在籍。
#*林原めぐみが篠田麻里子みたいになっている。
#*悠木・竹達・花澤と同様2010年頃から小倉唯・石原夏織・能登有沙・松永真穂も研究生として在籍し、後に派生ユニット「StylipS」を結成している。
#**2010年代の主力メンバーは悠木・竹達・花澤・小倉・石原・能登・松永・寿美菜子・戸松遥・上坂すみれら90年代生まれ。
#*更には小岩井ことりが研究生として新加入するが、作詞・作曲・動画編集の才能が評価され楽曲提供を兼任し、告知映像の制作も手掛けている。
#三嶋章夫と矢吹俊郎の共同プロデュース。
#*初期プロデューサーは大月俊倫と三ツ矢雄二。
#*彼らの上のゼネラルプロデューサーは野沢雅子。
#楽曲は岡崎律子が存命時に参加。岡崎逝去後はElements gardenが担当。
#*主に水樹奈々・SAYURI・林原めぐみが作詞、志倉千代丸・矢吹俊郎・上松範康・永野椎菜が作曲を担当。
#**「TWO-MIX」はこの過程で生まれたグループ内ユニットである。
#*更に菅野よう子も参加。
#*振り付けは榊原ゆい(2000年代加入)が担当。
#「マジすか学園」はアニメで製作された。
#アニメ「AKB0048」は当然彼女たち自身がそれぞれ一人二役でキャスティングされる。
#*キャラクター例:襲名メンバー=「○代目☆水樹奈々」「○代目☆田村ゆかり」
#*原案(原作)=矢吹俊郎・三島章夫・上松範康・都築真紀の共同で、キャラクターデザイン=奥田泰弘または小池智史。
#**当然史実と同じく河森正治も原作(原案)に参加。
#*音楽はもちろん[[Elements Gardenファン|Elements Garden]]。
#**主題歌(OP)は史実の水樹の「Astrogation」辺りを使用。
#*内容的には襲名メンバーが実際の本人が過去に演じたキャラをイメージした武器と「声と歌の力」で深銀河貿易機構と戦うストーリー。
#**特に「○代目☆水樹奈々」が日本刀やバルディッシュ風の武器で戦うシーンは圧巻もの。
#*どちらかといえば、『戦姫絶唱シンフォギア』に近い内容となっている。
#総選挙は新作アニメのキャスティングを決定するためのイベントとなっている。
#*「もしドラ」は最初からTV版・劇場版共にアニメで制作されていた。
#*総選挙の中継は、ラジオ=文化放送、映像配信=ニコニコ動画・Youtubeで、TV放送は行わない。
#*総選挙の司会は立木文彦・若本規夫・内海賢二ら男性声優が交代で担当。
#*「アイマス」メンバーや、「ラブライブ」のμ'sもこの総選挙で選抜されたメンバーで結成されている。
#メンバーの年齢の幅は10代後半~40代前半と幅広い。
#*メンバーの一部は「永遠の17歳」である。
#*結婚&出産しても暫くは卒業せず継続するメンバーもいる。
#**メンバーが結婚する際には、史実の林原めぐみのようにウェディングドレス姿でAKB48-STUDIO併設の劇場のステージで発表する。
#**新山志保・川上とも子逝去の際にはAKB48-STUDIO併設の劇場にてAKB葬を執り行っていた。
#***松来未祐逝去の際には、定期的にESウィルス症候群撲滅のイベントを劇場内で行っている。
#**日高のり子(1980年代加入)・林原めぐみ(1990年代加入)らが『終身名誉メンバー』となっている。
#*史実のSDN48に相当するグループ内ユニットは「帝国華撃団」が受け持っている。
#バラエティ番組などの本編内ナレーションも彼女たちが担当したりする。
#*特にNHKの各番組でよく聞くナレーションのほとんどを担当する。
#「アイドルマスター」シリーズは彼女たちとのタイアップで制作される。
#「GKB3P」と言うゲハ用語が出来ていた。
#*史実通り自殺防止キャンペーンに採用された場合、日本政府は[http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E9%87%91-%E5%8B%87%E6%BE%88/dp/4862381855 これ]に引っ掛けて「ソニー共和国」と呼ばれていた。
#アニオタの間では盛り上がるが、世間一般での認知度はいまひとつ。
#*ニコニコ動画等の動画サイトがきっかけで世間一般にもブレイクし、認知度も上昇する。
#メンバーは、各声優事務所ごとに予備オーディションが行われ、その後本オーディションでAKB入りが決定する。
#「AKB0048」ではなく「AKB49~恋愛禁止条例~」がアニメ化される。
#*「49人目」浦川みのり役は一般公募、実質的に公開オーディションといった形に。
#渡辺麻友・仲谷明香あたりもちゃっかり加入している。
#*石田晴香・秦佐和子も。
#*大谷育江・宍戸留美・千葉千恵巳・山本百合子も加入していたと思われる。
#*桃井はるこも加入して、楽曲制作も兼務している。
#舞台演劇兼業の『チームAct』(福圓美里や沢城みゆきが所属)と、歌手兼業の『チームVocal』(水樹奈々や田村ゆかりが所属)にチーム分けされる。
#*『チームAct』=別名「劇団AKB」、『チームVocal』=選抜メンバーが「DiVA」と「Twei-wings」にシャッフルされる。
#いつの間にか声優界の女性エリート集団となっており、「AKBに加入する=エリート声優になる」というのが声優としてのステイタスとなっている。
#*当然のごとくスタジオジブリ作品での起用はかなわぬ夢。
#**逆に声優を俳優起用している三谷幸喜作品(TVドラマ・映画・舞台)に起用される。
#「アニメイト」や「ゲーマーズ」のCMも彼女達が声の出演している。
#秋葉原駅のアナウンスにも彼女達の声が使われている。
#NMB48が結成されたら、松岡由貴が初代センターになっていた。
#*SKE・HKTは誰が初代センターになることやら…
#**SKE48初代センター=平野綾(男性問題で謹慎の後、AKB48からの移籍)。
#***2代目センター=戸松遥(後に派生ユニット「スフィア」に抜擢)。
#**HKT48中心メンバー=田村ゆかり(AKB兼任)・中原麻衣・斎藤千和。
#*NMB48の2代目センターは植田佳奈(2000年代加入)で、山本彩みたいなポジションになる。
#**後に植田は「AKB麻雀部」を結成する。


==フュージョン==
===ザ・タイガース奈良あやめ池公演事故(1967年)===
#結成はマイルス・デイヴィスのアルバム「ビッチェズ・ブリュー」がリリースされた1969年。
#ザ・タイガースの不良イメージは史実ほど拡大しなかった。
#*「ビッチェズ・ブリュー」はフュージョンの源流と呼ばれるアルバム。
#*それでも、髪型や服装に眉をひそめる大人はいた。
#*日本のジャズミュージシャンがマイルスが推し進めたエレクトリック・ジャズ路線に刺激を受け日本でもジャズの枠を超えた音楽活動をするユニットを誕生させようと考えAKB48が結成された。
#NHKが長髪系GSを締め出すことはなかったかもしれない。
#結成時の主要メンバーは渡辺貞夫・菊池雅章・川崎燎・松岡直也ら。その後ロック・ポップス界から高中正義・大村憲司・是方博邦らがAKB48入りする。
#*この年のNHK紅白歌合戦にザ・タイガース(とおそらくザ・スパイダースも)が出場できていた。
#*1970年代半ばに日野皓正・渡辺香津美・増尾好秋・本多俊之・安藤正容・伊東たけし・野呂一生・向谷実・神保彰らがAKB48入りする。
#**THE SQUARE(後のT-SQUARE)やカシオペアもAKB48から派生した。
#**本田竹曠・峰厚介・和田アキラ・森園勝敏も1970年代にAKB48入りする。
#***ネイティヴ・サンやプリズムもAKB48から派生した。
#*1980年代の主要メンバーは以前からメンバーだった渡辺貞夫・渡辺香津美・安藤正容らに加え、新たにAKB48入りした田中豊雪・和泉宏隆・則竹裕之・角松敏生・堀井勝美・本田雅人ら。
#**MALTAも1980年代にAKB48入りする。
#*1990年代には勝田一樹・小野塚晃・宮崎隆睦らがAKB48入りする。
#**DIMENSIONもAKB48から派生した。
#*2000年代には河野啓三・坂東慧・小林香織らがAKB48入りする。
#ジョージ・ベンソンやクルセイダーズ、スパイロ・ジャイラやシャカタクといった日本国外のフュージョンのアーティストとも共演する。
#*チック・コリアやウェザー・リポート、リー・リトナーやデイヴ・グルーシンとも共演。
#フュージョンユニットは管楽器がフロント、ドラム・ベースがリズムセクションと位置づけられる音楽のため、サックス奏者やトランペット奏者がセンターを務める。
#*結成時のセンターは渡辺貞夫、1970年代後半から日野皓正・本多俊之・伊東たけしがセンターを務める。
#**峰厚介も1970年代にセンターを務める。
#**1980年代にはMALTAもセンターを務める。
#*1990年代に本田雅人・宮崎隆睦・勝田一樹がセンターを務め、2000年代に入ってからは小林香織がセンターを務める。
#*ギターとキーボードはフュージョンではリズムセクションと位置づけられないが、4ビートのジャズではリズムセクションと位置づけられる楽器のため、ギタリストやキーボーディストがセンターを務めることはない。但しメロディをギターやピアノが演奏する楽曲は存在する。
#伊藤八十八と青木幹夫の共同プロデュース。
#[[フュージョンファン]]の間で盛り上がる。
#*一般の認知度は当初は低かったが、「月刊エレクトーン」や「JAZZ LIFE」といったフュージョンのアーティストを積極的に取り上げている雑誌に毎号のようにAKB48が登場することにより一般人の間でも認知度が高くなる。
#渡辺貞夫の『CALIFORNIA SHOWER』や日野皓正の『CITY CONNECTION』、カシオペアの『ASAYAKE』やスクェアの『OMENS OF LOVE』はいずれもAKB48の楽曲として発表された。
#*当然最初に収録されたアルバムはナベサダ・ヒノテル・カシオペア・スクェア名義のアルバムではなく、AKB48名義のアルバムである。
#*ナベサダの『ORANGE EXPRESS』やヒノテルの『PYRAMID』、カシオペアの『HALLE』やスクェアの『TRUTH』も『CALIFORNIA SHOWER』や『CITY CONNECTION』や『ASAYAKE』や『OMENS OF LOVE』同様AKB48の楽曲として発表され、AKB48のアルバムに収録された。
#*松岡直也の『今をフリージング』やMALTAの『SEXY GALAXY』、DIMENSIONの『Se.le.ne.』もAKB48の楽曲として発表され、AKB48のアルバムに収録された。
#日本国内は勿論、日本国外のジャズフェスティバルにも積極的に出演する。
#*ジャズフェスは正統派のジャズミュージシャン(いわゆる4ビート)のみならずフュージョンのアーティストも多数出演しているため。
#松井咲子もキーボーディストとしてちゃっかり加入している。
#SKE48・NMB48・HKT48が結成された場合、本拠地近辺の出身者が各ユニットに参加。
#*SKE48には安藤正容が所属。
#*NMB48には則竹裕之・宮崎隆睦・坂東慧が所属し、宮崎がセンターを務める。
#*HKT48では伊東たけしがセンターを務める。


==プログレッシブロック==
===フランク・ザッパのコンサートでの火事(1971年)===
#結成はキング・クリムゾンのアルバム「クリムゾンキングの宮殿」がリリースされた1969年。
#ディープ・パープルの『Machine Head』は当初の予定通りモントルーのカジノでレコーディングされた。
#*日本で初めてメロトロンとmoogシンセを活用したグループとなる。
#*当然、「Smoke on the Water」も誕生しなかった。
#*キング・クリムゾンに負けないプログレバンドを日本人の手で結成し、プログレの日本化を推進すべくAKB48が結成された。
#エマーソン,レイク&パーマーのキース・エマーソンばりのアクションをするメンバーもいる。
#*松井咲子がハモンドオルガンのパフォーマンスをライブで披露し、ファンから「女エマーソン」と呼ばれるようになる。


==テクノ==
===津川雅彦長女誘拐事件(1974年)===
#KRAFTWERK(クラフトワーク)の影響を受け坂本龍一とヒカシューが中心メンバーとなって結成される。
#津川雅彦が東京新聞に対して不信感を抱くことはなかった。
#*小室哲哉と浅倉大介も参加。
#*晩年の津川雅彦が右翼的な発言をすることも減っていた。
#YAMAHAやKORG等の国産デジタル・シンセサイザーの開発に参与している。
#長女こと真由子が芸能界デビューすることはなかったかもしれない。
#ライブの際には、ノートパソコン48台を使用する。
#システムエンジニアのすごさが世に知られることもなかった。
#「YMO」や「P-model」は、グループ内プロジェクトとして結成される。
#個人情報保護法の施行あたりまで芸能人の子供の顔が隠されることはなかった。
#実際にKRAFTWERKやDaft Punkとライブで共演する。


==男性声優==
===岡田奈々監禁事件(1977年)===
#1990年代だと緑川光・草尾毅・林延年、2000年代初頭だと神谷浩史・関智一・森久保祥太郎らが主要メンバーになっていた。
#短大は卒業していたと思う。
#*今なら入野自由・宮野真守・福山潤・小野大輔といったところが主要メンバーか?
#アイドル歌手として史実より長く人気を得ていた。そのため女優専念も30前後まで遅れていた。
#**当然、子安武人や三木眞一郎も1990年代に加入し、谷川紀章や鈴村健一も2000年代に加入する。
#遅くても30代前半までには結婚していた。
#**石田彰も1990年代に加入し、保志総一朗も2000年代に加入する。
#AKB48メンバーの名前が岡田奈々でなかった。
#**2010年代になると岡本信彦、中村悠一、松岡禎丞、梶裕貴も加入。
#*もし活動休止していなければこのAKBの岡田奈々との共演も見られたかも。
#80年代に結成された場合は古谷徹、鈴置洋孝、古川登志夫、塩沢兼人、三ツ矢雄二らが初代主要メンバーになっていた。
#*こちらの岡田奈々は本名であり、7日生まれが由来なので関係ないと思うが。
#「マジすか学園」は男子校を舞台にアニメで製作された。
#70年代後半以降に生まれた世代における知名度も史実より高かった。
#アニメ「AKB0048」は別の内容になっていた。
#*メンバーは本人役とキャラクターの一人2役を担当。
#**キャラクター例:襲名メンバー=「○代目☆入野自由」「○代目☆宮野真守」
#**AKBを目指す少年たちのセリフ「俺達は、AKBになるっ!」
#いつの間にか声優界の男性エリート集団となっており、「AKBに加入する=エリート声優になる」というのが声優としてのステイタスとなっている。
#プロデューサーと楽曲提供スタッフは上記の女性声優の場合と同じ。
#SKE・NMB・HKTは出来ていただろうか…?
#*NMBは小野坂昌也あたりが初代センターになっていた。
#**二代目センターは鈴村健一あたり。
#総選挙は新作アニメのキャスティングを決定するためのイベントとなっている。
#DIVAや渡り廊下走り隊、ノースリーブスやフレンチキスなど派生ユニットに相当するユニットも続々結成されていた。
#*ST☆RISHはこのユニットから派生していた。
#秋葉原駅のアナウンスにも彼らの声が使われている。
#メンバーは、各声優事務所ごとに予備オーディションが行われ、その後本オーディションでAKB入りが決定する。
#顔も声もいいアイドルグループとして世間に認知される。
#もし、CDを出す場合はあえてジャニーズ系ユニットと発売日を一緒にして真っ向勝負を挑む。
#*非ジャニーズグループとして実史ほど売れていたら、ジャニーズは壊滅的な被害を受けていただろう。
#[[もし塩沢兼人が健在だったら|塩沢兼人]]・[[もしあの人が健在だったら/男性声優#鈴置洋孝|鈴置洋孝]]逝去の際にはAKB48-STUDIO併設の劇場にてAKB葬を執り行っていた。


==イージーリスニング==
==1980年代==
#日本発のイージーリスニングアーティストを輩出しようと考えAKB48を結成。
===ザ・ドリフターズ競馬ノミ事件(1981年)===
#*史実では日本のイージーリスニングのアーティストは存在しない。
#当然、当事者で仲本工事と志村けんの謹慎はなかった。
#**<!--↑↑日本発は変換ミス?-->つまり日本初。
#『8時だョ!全員集合』も史実よりは続いていたかもしれない。
#**ゴンチチ、喜多郎、宗次郎、姫神、加古隆、S.E.N.S.あたりは?
#ドリフメンバー(特に志村といかりや、仲本と志村)の仲も史実のように悪くなることもなかった。
#史実の日本ではポール・モーリアの代表曲として知られている『恋はみずいろ』はAKB48が演奏したものが一番ヒットし、AKB48の代表曲となっていた。
#*『ドリフ大爆笑』のオープニングを20年も使い回さず、長くても3年くらいで更新していた。
#*同じく日本ではリチャード・クレイダーマンの代表曲として知られている『渚のアデリーヌ』もAKB48が演奏したものが一番ヒットし、AKB48のヒット曲として知られていた。
#**オープニング曲のアレンジが変更されることもなかった。
#*フランク・ミルズの『街角のカフェ』やニニ・ロッソの『夜空のトランペット』、パーシー・フェイスの『夏の日の恋』も日本ではAKB48が演奏したものがヒットし有名になっていた。
#*志村もピンでの活動はそれほど多くなかった。
#史実でも音大でピアノを専攻している松井咲子はアイドルではなくイージーリスニングのピアニストを目指しちゃっかりAKB48に加入している。
#**『バカ殿様』も『ドリフ大爆笑』のコントのまま継続され、スピンオフはなかった。
#*やがて松井は「日本のリチャード・クレイダーマン」「女性版フランク・ミルズ」と呼ばれる程のピアニストになっている。
#*いかりや亡き後も4人が集まる機会が最低でも年1回はあったような気がする。
#[[イージーリスニングファン]]の間で盛り上がる。
#*『踊る大捜査線』『取調室』などいかりや出演ドラマでメンバーがゲスト出演も十分考えられた。
#*一般への浸透度は当初は低いがその後静かなブームを巻き起こし、史実以上に幅広いファン層を獲得することになる。
#**場合によってはいかりやの俳優への転向も遅れていたかもしれない。
#**史実でも現役のリチャード・クレイダーマンは勿論、半ば引退状態にあるフランク・ミルズも、既に他界したポール・モーリアやニニ・ロッソ、パーシー・フェイスも多くのリスナーによって楽曲が今も聴かれ続けているため。
#*『全員集合』の人気が低下することもなく、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』はなかったかもしれない。
#リチャード・クレイダーマン、カラベリ、ジェームス・ラスト、フランク・ミルズ、ピエール・ポルトといった日本国外のイージーリスニングのアーティストとも共演する。
#ドリフメンバーの誰かに(または5人揃って)公営競技関連の仕事が舞い込んだかもしれない。
#*レイモン・ルフェーヴル、ポール・モーリア、フランク・プゥルセル、ビリー・ヴォーン、ジョニー・ピアソン、ニニ・ロッソ、マントヴァーニ、パーシー・フェイスといった今では故人となっているアーティストも、彼らの存命中にAKB48が結成されていたら勿論AKB48と共演していた。


==クラシック・オーケストラ==
===高部知子ニャンニャン事件(1983年)===
#正式名称''':“秋葉原フィルハーモニー交響楽団”'''
#高部知子の人生が大幅に変わっていた。
#秋元康が常任指揮者を務め、名誉指揮者は小澤征爾。
#*(高部がメンバーとして参加していた)わらべも1985年3月の解散まで3人組だった。
#*そもそも秋元って指揮できるの?
#**あるいは解散せず、現在も活動していた。
#*「歌謡チャリティコンサート」(2016年5月に実際にたかみなが司会をしました)の場合は藤野浩一さんという方が指揮をすることになる。
#***阪神大震災や東日本大震災の復興支援コンサートを開いていた。
#彼女らの活躍でクラシックへの関心が高まった結果、明らかに力量が上であるNHK交響楽団が彼女ら以上に注目される。
#**「欽ちゃんのどこまでやるの!?」も史実より長く放送されていた。
#年末には東京ドームに大勢のファンを集め、“五万人の第九”を開催する。
#**新幹線「のぞみ」がデビューした時出発式に招待されていた。
#「女性のみの楽団」ということで世界的な話題となる。
#*第二の大竹しのぶとして、若くして本格派天才女優の道を邁進してたかも。
#*女子十二楽坊のクラシック音楽版ってことね。
#**『水戸黄門』第14部・27話にも予定通りゲスト出演していた(史実では、ニャンニャン事件の影響で降板)。
#メンバーの平均年齢は現実のAKBより確実に高くなっていた。
#*欽ちゃんファミリーの一員として、21世紀に入っても大手を振ってTVに出れたことは確実である。
#テレビ初出演は「題名のない音楽会」あたりかもしれない。
#**『噂の!東京マガジン』に、山口良一や風見しんご(両者とも欽ちゃんファミリーのメンバー)とともに出演していた。
#「夕やけ'''ニャンニャン'''」はなかったor別タイトルになっていた。
#*おニャン子クラブはよりブレークしなかった可能性はあった。
#ニャンニャンを{{あきまへん|SEX}}を意味する用法で使われることはなかった。
#*『ニャンニャン倶楽部』などのエロ本のタイトルに使われることもなかった。
#倉沢淳美がサイン会で襲われることもなかった。


==古楽器音楽(和楽器・中国伝統楽器等)==
===ダン池田『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』騒動(1985年)===
#正式名称:秋葉四十八楽坊
#ニューブリードのバンドマスターを交代させられることは無かった。
#新作曲も演奏する。中には、一見、いや一聞しただけでは普通のポップス曲に聞こえるようなのもある。
#ダン池田はこれ以降も表舞台で活躍していた。
#*「あの人は今!?」に出演することも無かった。


==演歌==
===たけし軍団フライデー襲撃事件(1986年)===
#結成された時代によって誰がプロデュースするかは異なるが、終戦後~1960年代前半に結成されたら古賀政男がプロデューサーになっていた。
1986年12月、ビートたけしが交際相手の女性に対する記者の常軌を逸した取材に激怒し、講談社の写真週刊誌「フライデー」編集部を襲撃する、という「フライデー事件」が起こりましたが、もし講談社側が謝罪するなり、たけしが襲撃をやめるなりして、フライデー事件を起こしていなかったらいったいどうなっていたでしょうか?
#*1960年代後半~1980年代前半に結成されたら船村徹がプロデューサーになっていた。
#当然たけしの6ヶ月間の謹慎処分はなく、その時間を利用して受験問題集を読むこともなかったから「平成教育委員会」は生まれなかった。
#*1980年代後半以降に結成されたら史実と同じく秋元康がプロデューサーになっていた。
#*当然、1992年と1993年の『FNSの日』は「平成教育テレビ」ではなく、「テレビ夢列島」のままだった。
#**秋元はJ-POPのみならず美空ひばりの『川の流れのように』等演歌の作詞も手がけているため。
#後に景山民夫が「講談社フライデー全国被害者の会」への入会を勧めることもなかった。
#ファンの平均年齢は現実のAKBより確実に高くなっていた。
#*「俺は被害者じゃない。加害者の会だ」という、たけしの名文句は生まれていない。
#*若者の[[演歌ファン]]もいるとはいえ、演歌ファンの大半を占める中高年がこぞってAKB48のファンになっていたため。
#この事件をきっかけに写真週刊誌の取材方法に対しても批判がおきることもなかったから、現在でも似たような問題が起きていた。
#1950年代までに結成されたら美空ひばりがAKB48のメンバーになっていた。
#そのため「Emma」「FOCUS」「Touch」の休刊も史実より遅れていたか、今も存在していた。
#*1970年代までに結成されたら森昌子がAKB48のメンバーになっていた。
#たけしの謹慎中に長嶋茂雄が自分からゴルフに誘っておいてゴルフ場で「やあたけしさん、今日はゴルフですか?」と言った、というエピソードもなかった。
#*1980年代までに結成されたら長山洋子や城之内早苗がAKB48のメンバーになっていた。
#「オレたちひょうきん族」は実史よりも長く続いていた。
#岩佐美咲も史実と同じく演歌歌手を目指しちゃっかり加入している。
#*「ビートたけしのスポーツ大将」も。
#花柳糸之社中がAKB48の専属バックダンサーとなっていた。
#オフィス北野もなかったか、もっと後に創立されていた。
#演歌歌手の大島優子はここのメンバーになっていたか?
#*たけしとAKBメンバーが同じ時期に太田プロに所属していることになっていたかも知れない。
#**「指原バカヤロ」というギャグが出来ていたかも知れない。
#*ダチョウ倶楽部、土田晃之、有吉、インスタントジョンソン等はたけし軍団にいた可能性もあり。
#*爆笑問題もたけしがいるうちに太田プロ入りしていた(史実ではたけし独立前後に爆問が事務所入りした)。
#*「T.N.ゴン」の設立は、まあ、史実通りだったと思う。
#*「なべやかん」や「山本モナ」のようないわゆる「問題児」系は芸能活動を続けられなかった可能性が高い。
#「たけしの挑戦状」のCMが自粛されることも無く流れてたため、史実より売れ行きはよかった。
#*大橋巨泉と共演のアサヒビールのCMもお蔵入りにならなかった。
#山田邦子が「女たけし」と呼ばれるほどの活躍を見せることもなかった。
#もしかすると江頭秀晴(江頭2:50)もたけし軍団入りしていたかもしれない(フライデー事件の直前位にたけしの弟子入りを志願して出待ちしていた)。


==ヘヴィメタル・ハードロック==
===ラフィン・ノーズ日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)===
#結成はブラック・サバスのアルバム「黒い安息日」がリリースされた1970年。
#チャーミーが狂気路線に行くことはなかった。
#1980年代に結成された場合、寺田恵子・浜田麻里らが主要メンバーになっていた。
#*狂気路線についていけなくなったポンとナオキがラフィン・ノーズを脱退することはなかった。
#*浜田麻里の妹の浜田絵里もメンバー入りしていた。
#BABYMETALはAKB48の派生グループという位置づけになっていたか。
#*その際、中元すず香・水野由結・菊地最愛もAKB48入りする。
#ももクロみたく、KISSやイングヴェイ・マルムスティーンとも共演する。
#山本彩もボーカル&ギタリストとして加入。


==カントリー==
===角野秀行交通事故(1988年)===
#本名陽子の「カントリー・ロード」をカバーしていた。
TUBEの角野秀行が起こした交通事故。同乗者である当時の彼女も事故死させる事故であり、その後のTUBEの活動にも影響を及ぼした。
#Dan+Shayの「テキーラ」がきっかけでテキーラを飲むメンバーが増えていた。
#TUBEの解散が検討されることはなかった。
#角野の彼女が事故死することもなかった。
#*もしかしたら当時の彼女と結婚することができていたかも。
#織田哲郎はTUBEのプロデュースから手を引くこともなかった。
#*TUBE自身が完全に作詞・作曲する路線への変更が遅れていた。
#*渚のオールスターズの活動停止もなかった。
#「Remenber Me」のジャケットがネタにされてしまうこともなかった。
#TUBEは夏を主体する活動に移行することはなかった。
#*TUBEはサザンの仕事をいくつも奪っていた。
#**その分サザンは夏以外でも通用するバンドにはなれなかった。
#*楽曲も夏をテーマにした曲に偏重することなくバラエティに富んでいた。
#栗林誠一郎が暫定的にベーシストを務めることはなかった。
#前田亘輝と春畑道哉のソロ活動が増えることもなかった。
#*松本玲二のレーシングドライバーへの進出もなかったか?
#キリンレモンのCMを降板させられることはなかった。
#*懸賞であるTUBEと行くサマークルーズが中止されることもなかった。


==関連項目==
===中森明菜自殺未遂事件(1989年)===
*[[もし坂道シリーズが○○だったら]]
#近藤真彦と同席しての謝罪会見(いわゆる「金屏風事件」)もなかった。
#中森明菜の研音からの独立もなかったか遅れていた。
#*明菜の全盛期ももっと長く続いていた。
#マッチも同様に人気が翳るのが遅れていた。
#*史実ほどモータースポーツに力を入れなかっただろう。
#もしかすると数年後に2人で結婚していたかもしれない。


{{もしアイドル}}
==1990年代前半==
[[Category:もしAKB48が○○だったら|しやんる]]
===タモリヨット事故(1990年)===
#タモリのサングラスと髪型が変わることはなかった。
#カツラ疑惑が囁かれることもなかった。
#*「ボキャブラ天国」でタモリの頭髪をいじるネタも生まれなかった。
#*小倉智昭、小林稔侍、加山雄三も同類とみなされることはなかった。
#**太田光が「ヅラ」発言をすることもなく、爆笑問題と小倉智昭の関係悪化も起きなかった。
 
===なべやかん替え玉受験事件(1991年)===
#たけし軍団入りすることはなかった。
#そもそも芸能人として活躍することはなく、芸能界入りを叩かれることはなかった。
#当然、明治大学に入学しており、明大生になっていた。
#*当の本人は高校1年留年さらに2浪していたほど成績が悪かったので、Fラン大学の学生になっていた可能性が高い。
#**もし進学を諦めた場合、父のコネも利用してどこかの芸能事務所の裏方になったかもしれない。
#*もし成績が優秀だったら成城大学に内部進学していた。
#栗本慎一郎は明大教授を辞任することはなかった。
#*野球部元監督らの逮捕もなかった。
#父親のなべおさみもまたレギュラー番組を降板するなどして表舞台から姿を消すこともなかった。
#*『ルックルックこんにちは』のコーナー『ドキュメント女ののど自慢』の司会は夏木ゆたかに交代することなく最終回まで完走した。
#嘉門達夫が替え歌メドレーでネタにすることもなかった。
#なべやかん以外の替え玉受験は史実通りだった場合。
#*やはり父親に対して息子の疑いが掛けられていて弁解を繰り返す日々を送っていただろう。
 
===若人あきら失踪事件(1991年)===
#芸名を我修院達也に改名することはなかった。
#郷ひろみの物まねを封印することはなかった。
 
===加勢大周事務所移籍問題(1991年~1992年)===
#新加勢大周を送り出すことはなかった。
#*その後の坂本一生への改名もなかった。
#*村上隆の「加瀬大周宇Zプロジェクト」も存在しなかった。
#加勢大周の絶頂期は続いていた。
#*その後も織田裕二・吉田栄作とともに御三家と言われ続けていた。場合によっては同世代の福山雅治と比較されていた。
#*[[もしあの芸能人の薬物所持事件がなかったら#加勢大周|薬物事件]]もなかったかもしれない。
#*『あの人は今』に登場することもなかった。
 
===坂上忍飲酒運転事件(1995年)===
#山本未来と交際していたことも明らかになることはなかった。
#「バイキング」で他の有名人が飲酒運転したことに対しては自分の事を棚に上げていると叩かれることもなかった。
#*傲慢な司会者ぶりを晒すこともなかった。
#小説を書くこともなかった。
#坂上忍にとっての黒歴史が減っていた。
#「坂上忍 カーチェイス」という検索がタブー視されることもなかった。
 
===田村英里子ファンホテル侵入事件(1995年~1996年)===
#愛知県で行われる予定だったイベントが中止されることはなかった。
#一時的な活動休止もなかった。
#アメリカへ単身留学することはなかった。
#ハリウッド進出もなかった。
 
==1990年代後半==
===高知東急芸名使用差し止め訴訟(1996年~1998年)===
#高知東生への芸名変更は当然なかった。
#グッチ裕三やオール阪神・巨人、サンプラザ中野くんなどと比べられることもなかった。
#この事件がきっかけでブレイクすることもなかった。
#*高島礼子と結婚することもなかった。
#芸名が縁で[[東急電鉄]]のCMキャラクターに起用されるようになっていたかも。
 
===岸部四郎自己破産事件(1998年)===
#『ルックルックこんにちは』を降板することはなかった。
#「俺は誰やと思ってんねん!元金持ちだぞ」というネタは生まれなかった。
#再婚の妻を早死にすることはなかった。
#『クロサギ』のネタにされることはなかった。
#その後の体調不良も起きなかった。
#松本竜介と自己破産した者同士でコンビ結成をオファーさせられることはなかった。
#兄の岸部一徳もセミリタイアしていたかもしれない。
#*甥の岸部大輔がバンド組んでCDデビューしなかったかもしれない。
 
===広末涼子早稲田大学裏口入学騒動(1998年)===
#不登校疑惑が出ることもなかった。
#広末涼子のアンチが増えることもなかった。
#*「裏口入学阻止」と書かれた立て看板が出ることもなかった。
#*一時的に人気が落ちることはなく、一貫して人気女優として大活躍していた。
#NTTドコモ埼玉支店の私設掲示板が荒れることもなかった。
#*閉鎖に追い込まれることもなかった。
#早稲田大学での盗撮騒動もなかった。
#*授業中に携帯を操作していることを晒されることもなかった。
#未成年喫煙疑惑も出なかった。
#100%自分の実力で早大に入っていた場合、吉永小百合と並び称されていた。
#*「第2の吉永小百合」「平成の吉永小百合」と呼ばれていた。
#*結婚相手や結婚の時期も現実とは違っていたかも。
#**離婚・再婚もなかったかもしれない。
 
===Toshl(X JAPAN)洗脳騒動(1998年)===
Toshlがロックオペラ「ハムレット」で共演した守谷香に勧められて入ったMASAYAのセミナーでMASAYAに洗脳されていたことが1998年に発覚し、Toshlがロックオペラ「ハムレット」で守谷香と共演しなければ起きなかった事件。
#ToshiがToshlに改名することはなかった。
#ToshlがX JAPANを脱退することはなかった。
#*X JAPAN解散もなかった。
#Toshlが自己破産することはなかった。
#YOSHIKIとの不仲説が浮上する事も無かったかも知れない。
#*YOSHIKIがhydeとコラボする事も無かったかも知れない。
 
===松本恵(現・松本莉緒)事務所移籍問題(1999年)===
#松本恵は事実上の引退に追い込まれることはなかった。
#復帰に際して'''松本莉緒'''名義で再出発することはなかった。
#*復帰後にモデルに進出したりヨガインストラクターとして活動したりするなど仕事の幅を広げることはなかった。
#*現在に至るまで正統派女優として活躍していた。
#松本恵の絶頂期は続いていた。
#*吹石一恵の良きライバル女優として活躍していた。
#*「ポスト広末涼子」と呼ばれたとおり、広末涼子の仕事を奪っていた。
#*同世代の深田恭子や加藤あいが必要以上に働かされることもなかったはず。
 
===千堂あきほストーカー被害(1999年〜2000年)===
#事務所独立はなかったかあるいは円満な形で独立していた。
#結婚後も芸能活動を縮小することはなかった。
#*よって、[[もしあの女性芸能人が結婚と同時に引退・活動縮小していなかったら#千堂あきほ|ここ]]に書かれていることの幾つかは現実のものとなっていた。
#活躍の場を関西、北海道に移すこともなかった。
#*北海道への移住もなかった。
 
[[Category:歴史のif検討委員会 芸能史|あのしけんがなかつたら1990]]

2021年2月20日 (土) 00:28時点における版

独立済み

1970年代以前

トニー谷長男誘拐事件(1955年)

  1. トニー谷はテレビに出ることはできず史実通りに人気が落ち、生涯舞台で食い繋ぐ日々だったかもしれない。
    • テレビ番組での「♪あなたのお名前なんてえの」で人気が復活することはなかった。
  2. 何れにしてもいつも行っていた女性芸能人への××××××××××にまで至ったかもしれない。
    • もしくは毒舌がエスカレートして裁判沙汰になったかもしれない。
  3. 芸人になる前の壮絶な過去は死ぬまで明かされなかったかもしれない。
    • 古い知人がマスコミに暴露してもシラを切り通しただろう。

高島忠夫長男殺害事件(1964年)

  1. おそらく長男も政宏や政伸同様に芸能界デビューさせていただろう。
    • メディアでの呼び方が「高島兄弟」ではなく「高島三兄弟」になっていた。
    • もしくは高島夫妻が政宏や政伸を産まなかったか。
  2. 寿美花代が湯船につかることができないことを告白することはなかった。
  3. もしかしたら高島忠夫が糖尿病や鬱病を発症することはなかったかも。

ザ・タイガース奈良あやめ池公演事故(1967年)

  1. ザ・タイガースの不良イメージは史実ほど拡大しなかった。
    • それでも、髪型や服装に眉をひそめる大人はいた。
  2. NHKが長髪系GSを締め出すことはなかったかもしれない。
    • この年のNHK紅白歌合戦にザ・タイガース(とおそらくザ・スパイダースも)が出場できていた。

フランク・ザッパのコンサートでの火事(1971年)

  1. ディープ・パープルの『Machine Head』は当初の予定通りモントルーのカジノでレコーディングされた。
    • 当然、「Smoke on the Water」も誕生しなかった。

津川雅彦長女誘拐事件(1974年)

  1. 津川雅彦が東京新聞に対して不信感を抱くことはなかった。
    • 晩年の津川雅彦が右翼的な発言をすることも減っていた。
  2. 長女こと真由子が芸能界デビューすることはなかったかもしれない。
  3. システムエンジニアのすごさが世に知られることもなかった。
  4. 個人情報保護法の施行あたりまで芸能人の子供の顔が隠されることはなかった。

岡田奈々監禁事件(1977年)

  1. 短大は卒業していたと思う。
  2. アイドル歌手として史実より長く人気を得ていた。そのため女優専念も30前後まで遅れていた。
  3. 遅くても30代前半までには結婚していた。
  4. AKB48メンバーの名前が岡田奈々でなかった。
    • もし活動休止していなければこのAKBの岡田奈々との共演も見られたかも。
    • こちらの岡田奈々は本名であり、7日生まれが由来なので関係ないと思うが。
  5. 70年代後半以降に生まれた世代における知名度も史実より高かった。

1980年代

ザ・ドリフターズ競馬ノミ事件(1981年)

  1. 当然、当事者で仲本工事と志村けんの謹慎はなかった。
  2. 『8時だョ!全員集合』も史実よりは続いていたかもしれない。
  3. ドリフメンバー(特に志村といかりや、仲本と志村)の仲も史実のように悪くなることもなかった。
    • 『ドリフ大爆笑』のオープニングを20年も使い回さず、長くても3年くらいで更新していた。
      • オープニング曲のアレンジが変更されることもなかった。
    • 志村もピンでの活動はそれほど多くなかった。
      • 『バカ殿様』も『ドリフ大爆笑』のコントのまま継続され、スピンオフはなかった。
    • いかりや亡き後も4人が集まる機会が最低でも年1回はあったような気がする。
    • 『踊る大捜査線』『取調室』などいかりや出演ドラマでメンバーがゲスト出演も十分考えられた。
      • 場合によってはいかりやの俳優への転向も遅れていたかもしれない。
    • 『全員集合』の人気が低下することもなく、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』はなかったかもしれない。
  4. ドリフメンバーの誰かに(または5人揃って)公営競技関連の仕事が舞い込んだかもしれない。

高部知子ニャンニャン事件(1983年)

  1. 高部知子の人生が大幅に変わっていた。
    • (高部がメンバーとして参加していた)わらべも1985年3月の解散まで3人組だった。
      • あるいは解散せず、現在も活動していた。
        • 阪神大震災や東日本大震災の復興支援コンサートを開いていた。
      • 「欽ちゃんのどこまでやるの!?」も史実より長く放送されていた。
      • 新幹線「のぞみ」がデビューした時出発式に招待されていた。
    • 第二の大竹しのぶとして、若くして本格派天才女優の道を邁進してたかも。
      • 『水戸黄門』第14部・27話にも予定通りゲスト出演していた(史実では、ニャンニャン事件の影響で降板)。
    • 欽ちゃんファミリーの一員として、21世紀に入っても大手を振ってTVに出れたことは確実である。
      • 『噂の!東京マガジン』に、山口良一や風見しんご(両者とも欽ちゃんファミリーのメンバー)とともに出演していた。
  2. 「夕やけニャンニャン」はなかったor別タイトルになっていた。
    • おニャン子クラブはよりブレークしなかった可能性はあった。
  3. ニャンニャンを×××××を意味する用法で使われることはなかった。
    • 『ニャンニャン倶楽部』などのエロ本のタイトルに使われることもなかった。
  4. 倉沢淳美がサイン会で襲われることもなかった。

ダン池田『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』騒動(1985年)

  1. ニューブリードのバンドマスターを交代させられることは無かった。
  2. ダン池田はこれ以降も表舞台で活躍していた。
    • 「あの人は今!?」に出演することも無かった。

たけし軍団フライデー襲撃事件(1986年)

1986年12月、ビートたけしが交際相手の女性に対する記者の常軌を逸した取材に激怒し、講談社の写真週刊誌「フライデー」編集部を襲撃する、という「フライデー事件」が起こりましたが、もし講談社側が謝罪するなり、たけしが襲撃をやめるなりして、フライデー事件を起こしていなかったらいったいどうなっていたでしょうか?

  1. 当然たけしの6ヶ月間の謹慎処分はなく、その時間を利用して受験問題集を読むこともなかったから「平成教育委員会」は生まれなかった。
    • 当然、1992年と1993年の『FNSの日』は「平成教育テレビ」ではなく、「テレビ夢列島」のままだった。
  2. 後に景山民夫が「講談社フライデー全国被害者の会」への入会を勧めることもなかった。
    • 「俺は被害者じゃない。加害者の会だ」という、たけしの名文句は生まれていない。
  3. この事件をきっかけに写真週刊誌の取材方法に対しても批判がおきることもなかったから、現在でも似たような問題が起きていた。
  4. そのため「Emma」「FOCUS」「Touch」の休刊も史実より遅れていたか、今も存在していた。
  5. たけしの謹慎中に長嶋茂雄が自分からゴルフに誘っておいてゴルフ場で「やあたけしさん、今日はゴルフですか?」と言った、というエピソードもなかった。
  6. 「オレたちひょうきん族」は実史よりも長く続いていた。
    • 「ビートたけしのスポーツ大将」も。
  7. オフィス北野もなかったか、もっと後に創立されていた。
    • たけしとAKBメンバーが同じ時期に太田プロに所属していることになっていたかも知れない。
      • 「指原バカヤロ」というギャグが出来ていたかも知れない。
    • ダチョウ倶楽部、土田晃之、有吉、インスタントジョンソン等はたけし軍団にいた可能性もあり。
    • 爆笑問題もたけしがいるうちに太田プロ入りしていた(史実ではたけし独立前後に爆問が事務所入りした)。
    • 「T.N.ゴン」の設立は、まあ、史実通りだったと思う。
    • 「なべやかん」や「山本モナ」のようないわゆる「問題児」系は芸能活動を続けられなかった可能性が高い。
  8. 「たけしの挑戦状」のCMが自粛されることも無く流れてたため、史実より売れ行きはよかった。
    • 大橋巨泉と共演のアサヒビールのCMもお蔵入りにならなかった。
  9. 山田邦子が「女たけし」と呼ばれるほどの活躍を見せることもなかった。
  10. もしかすると江頭秀晴(江頭2:50)もたけし軍団入りしていたかもしれない(フライデー事件の直前位にたけしの弟子入りを志願して出待ちしていた)。

ラフィン・ノーズ日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)

  1. チャーミーが狂気路線に行くことはなかった。
    • 狂気路線についていけなくなったポンとナオキがラフィン・ノーズを脱退することはなかった。

角野秀行交通事故(1988年)

TUBEの角野秀行が起こした交通事故。同乗者である当時の彼女も事故死させる事故であり、その後のTUBEの活動にも影響を及ぼした。

  1. TUBEの解散が検討されることはなかった。
  2. 角野の彼女が事故死することもなかった。
    • もしかしたら当時の彼女と結婚することができていたかも。
  3. 織田哲郎はTUBEのプロデュースから手を引くこともなかった。
    • TUBE自身が完全に作詞・作曲する路線への変更が遅れていた。
    • 渚のオールスターズの活動停止もなかった。
  4. 「Remenber Me」のジャケットがネタにされてしまうこともなかった。
  5. TUBEは夏を主体する活動に移行することはなかった。
    • TUBEはサザンの仕事をいくつも奪っていた。
      • その分サザンは夏以外でも通用するバンドにはなれなかった。
    • 楽曲も夏をテーマにした曲に偏重することなくバラエティに富んでいた。
  6. 栗林誠一郎が暫定的にベーシストを務めることはなかった。
  7. 前田亘輝と春畑道哉のソロ活動が増えることもなかった。
    • 松本玲二のレーシングドライバーへの進出もなかったか?
  8. キリンレモンのCMを降板させられることはなかった。
    • 懸賞であるTUBEと行くサマークルーズが中止されることもなかった。

中森明菜自殺未遂事件(1989年)

  1. 近藤真彦と同席しての謝罪会見(いわゆる「金屏風事件」)もなかった。
  2. 中森明菜の研音からの独立もなかったか遅れていた。
    • 明菜の全盛期ももっと長く続いていた。
  3. マッチも同様に人気が翳るのが遅れていた。
    • 史実ほどモータースポーツに力を入れなかっただろう。
  4. もしかすると数年後に2人で結婚していたかもしれない。

1990年代前半

タモリヨット事故(1990年)

  1. タモリのサングラスと髪型が変わることはなかった。
  2. カツラ疑惑が囁かれることもなかった。
    • 「ボキャブラ天国」でタモリの頭髪をいじるネタも生まれなかった。
    • 小倉智昭、小林稔侍、加山雄三も同類とみなされることはなかった。
      • 太田光が「ヅラ」発言をすることもなく、爆笑問題と小倉智昭の関係悪化も起きなかった。

なべやかん替え玉受験事件(1991年)

  1. たけし軍団入りすることはなかった。
  2. そもそも芸能人として活躍することはなく、芸能界入りを叩かれることはなかった。
  3. 当然、明治大学に入学しており、明大生になっていた。
    • 当の本人は高校1年留年さらに2浪していたほど成績が悪かったので、Fラン大学の学生になっていた可能性が高い。
      • もし進学を諦めた場合、父のコネも利用してどこかの芸能事務所の裏方になったかもしれない。
    • もし成績が優秀だったら成城大学に内部進学していた。
  4. 栗本慎一郎は明大教授を辞任することはなかった。
    • 野球部元監督らの逮捕もなかった。
  5. 父親のなべおさみもまたレギュラー番組を降板するなどして表舞台から姿を消すこともなかった。
    • 『ルックルックこんにちは』のコーナー『ドキュメント女ののど自慢』の司会は夏木ゆたかに交代することなく最終回まで完走した。
  6. 嘉門達夫が替え歌メドレーでネタにすることもなかった。
  7. なべやかん以外の替え玉受験は史実通りだった場合。
    • やはり父親に対して息子の疑いが掛けられていて弁解を繰り返す日々を送っていただろう。

若人あきら失踪事件(1991年)

  1. 芸名を我修院達也に改名することはなかった。
  2. 郷ひろみの物まねを封印することはなかった。

加勢大周事務所移籍問題(1991年~1992年)

  1. 新加勢大周を送り出すことはなかった。
    • その後の坂本一生への改名もなかった。
    • 村上隆の「加瀬大周宇Zプロジェクト」も存在しなかった。
  2. 加勢大周の絶頂期は続いていた。
    • その後も織田裕二・吉田栄作とともに御三家と言われ続けていた。場合によっては同世代の福山雅治と比較されていた。
    • 薬物事件もなかったかもしれない。
    • 『あの人は今』に登場することもなかった。

坂上忍飲酒運転事件(1995年)

  1. 山本未来と交際していたことも明らかになることはなかった。
  2. 「バイキング」で他の有名人が飲酒運転したことに対しては自分の事を棚に上げていると叩かれることもなかった。
    • 傲慢な司会者ぶりを晒すこともなかった。
  3. 小説を書くこともなかった。
  4. 坂上忍にとっての黒歴史が減っていた。
  5. 「坂上忍 カーチェイス」という検索がタブー視されることもなかった。

田村英里子ファンホテル侵入事件(1995年~1996年)

  1. 愛知県で行われる予定だったイベントが中止されることはなかった。
  2. 一時的な活動休止もなかった。
  3. アメリカへ単身留学することはなかった。
  4. ハリウッド進出もなかった。

1990年代後半

高知東急芸名使用差し止め訴訟(1996年~1998年)

  1. 高知東生への芸名変更は当然なかった。
  2. グッチ裕三やオール阪神・巨人、サンプラザ中野くんなどと比べられることもなかった。
  3. この事件がきっかけでブレイクすることもなかった。
    • 高島礼子と結婚することもなかった。
  4. 芸名が縁で東急電鉄のCMキャラクターに起用されるようになっていたかも。

岸部四郎自己破産事件(1998年)

  1. 『ルックルックこんにちは』を降板することはなかった。
  2. 「俺は誰やと思ってんねん!元金持ちだぞ」というネタは生まれなかった。
  3. 再婚の妻を早死にすることはなかった。
  4. 『クロサギ』のネタにされることはなかった。
  5. その後の体調不良も起きなかった。
  6. 松本竜介と自己破産した者同士でコンビ結成をオファーさせられることはなかった。
  7. 兄の岸部一徳もセミリタイアしていたかもしれない。
    • 甥の岸部大輔がバンド組んでCDデビューしなかったかもしれない。

広末涼子早稲田大学裏口入学騒動(1998年)

  1. 不登校疑惑が出ることもなかった。
  2. 広末涼子のアンチが増えることもなかった。
    • 「裏口入学阻止」と書かれた立て看板が出ることもなかった。
    • 一時的に人気が落ちることはなく、一貫して人気女優として大活躍していた。
  3. NTTドコモ埼玉支店の私設掲示板が荒れることもなかった。
    • 閉鎖に追い込まれることもなかった。
  4. 早稲田大学での盗撮騒動もなかった。
    • 授業中に携帯を操作していることを晒されることもなかった。
  5. 未成年喫煙疑惑も出なかった。
  6. 100%自分の実力で早大に入っていた場合、吉永小百合と並び称されていた。
    • 「第2の吉永小百合」「平成の吉永小百合」と呼ばれていた。
    • 結婚相手や結婚の時期も現実とは違っていたかも。
      • 離婚・再婚もなかったかもしれない。

Toshl(X JAPAN)洗脳騒動(1998年)

Toshlがロックオペラ「ハムレット」で共演した守谷香に勧められて入ったMASAYAのセミナーでMASAYAに洗脳されていたことが1998年に発覚し、Toshlがロックオペラ「ハムレット」で守谷香と共演しなければ起きなかった事件。

  1. ToshiがToshlに改名することはなかった。
  2. ToshlがX JAPANを脱退することはなかった。
    • X JAPAN解散もなかった。
  3. Toshlが自己破産することはなかった。
  4. YOSHIKIとの不仲説が浮上する事も無かったかも知れない。
    • YOSHIKIがhydeとコラボする事も無かったかも知れない。

松本恵(現・松本莉緒)事務所移籍問題(1999年)

  1. 松本恵は事実上の引退に追い込まれることはなかった。
  2. 復帰に際して松本莉緒名義で再出発することはなかった。
    • 復帰後にモデルに進出したりヨガインストラクターとして活動したりするなど仕事の幅を広げることはなかった。
    • 現在に至るまで正統派女優として活躍していた。
  3. 松本恵の絶頂期は続いていた。
    • 吹石一恵の良きライバル女優として活躍していた。
    • 「ポスト広末涼子」と呼ばれたとおり、広末涼子の仕事を奪っていた。
    • 同世代の深田恭子や加藤あいが必要以上に働かされることもなかったはず。

千堂あきほストーカー被害(1999年〜2000年)

  1. 事務所独立はなかったかあるいは円満な形で独立していた。
  2. 結婚後も芸能活動を縮小することはなかった。
    • よって、ここに書かれていることの幾つかは現実のものとなっていた。
  3. 活躍の場を関西、北海道に移すこともなかった。
    • 北海道への移住もなかった。