「もしあの鉄道事故が○○だったら/1990年代以前」の版間の差分
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;起きていなかったら | ;起きていなかったら | ||
#近鉄になって以降、南大阪線への設備投資が積極的に行われた。 | #近鉄になって以降、南大阪線への設備投資が積極的に行われた。 | ||
#大軌とは合併せず、戦時中にようやく近鉄入り。その後独立するか、南海の路線になっていた。 | |||
===西成線脱線火災事故=== | ===西成線脱線火災事故=== | ||
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#**電化自体は事故以前から計画されてたので、史実より1.2年ほど後になってそう。 | #**電化自体は事故以前から計画されてたので、史実より1.2年ほど後になってそう。 | ||
#ゆめ咲線には今頃、昔の京葉線に例えるとシャトルマイハマのような車両が走っている。 | #ゆめ咲線には今頃、昔の京葉線に例えるとシャトルマイハマのような車両が走っている。 | ||
#キハ126系以降の一般形は3扉が標準だったかも。 | |||
#ガソリンカーは燃料統制で(エンジンなど軍事転用を目論み)客車化を避けられなかったかも。 | |||
;事故車両の車掌が労働組合員だったら | ;事故車両の車掌が労働組合員だったら | ||
#関西には関東でいう千葉動労のような組織ができている。 | #関西には関東でいう千葉動労のような組織ができている。 | ||
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*現実では乗務員は車掌のみ死亡しましたがではもし運転士も死亡していたら。 | *現実では乗務員は車掌のみ死亡しましたがではもし運転士も死亡していたら。 | ||
#極めて珍しい運転士・車掌ともに死亡した事故となっていた。 | #極めて珍しい運転士・車掌ともに死亡した事故となっていた。 | ||
;事故車が気動車でなかったら | |||
#死者はいなかったか少なかった。 | |||
===北条線列車脱線転覆事故=== | ===北条線列車脱線転覆事故=== | ||
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;起きていなかったら | ;起きていなかったら | ||
#生駒トンネルの付け替えが現実より遅れていた。 | #生駒トンネルの付け替えが現実より遅れていた。 | ||
#ブレーキの取替が遅れていた | |||
===塩狩峠での暴走事故=== | ===塩狩峠での暴走事故=== | ||
詳細は[[Wikipedia:ja:塩狩峠#鉄道事故 | 詳細は[[Wikipedia:ja:塩狩峠#鉄道事故]]を参照 | ||
;職員が線路に飛び降りなかったら | ;職員が線路に飛び降りなかったら | ||
#事故が史実以上に大きくなり多数の死者が出ていた。 | #事故が史実以上に大きくなり多数の死者が出ていた。 | ||
107行目: | 113行目: | ||
#伊勢志摩方面への輸送で近鉄に客を奪われる時期は史実より10年以上遅くなっていた。 | #伊勢志摩方面への輸送で近鉄に客を奪われる時期は史実より10年以上遅くなっていた。 | ||
#JR東海もSLの動態運転に積極的になっていた。もちろん葛西氏の勢力は強くならなければの話だが。 | #JR東海もSLの動態運転に積極的になっていた。もちろん葛西氏の勢力は強くならなければの話だが。 | ||
#定期運行のSLの全廃は史実より10年遅くなっていた(動力近代化計画でSL全廃方針を打ち出したのはこの事故で多数の死傷者が出たことが一因)。 | |||
#*本州以南でのSL定期運行全廃は1984年1月末、北海道でのSL定期運行全廃は1986年10月末となっていた。 | |||
;別の時代に起きていたら | ;別の時代に起きていたら | ||
*2011年 | *2011年 | ||
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;起きていなかったら | ;起きていなかったら | ||
#三河島事故がなかったら起きなかった。 | #三河島事故がなかったら起きなかった。 | ||
#JR東日本は、複々線区間でトラブルがあったときに、平行する線路全てを止めることはなかった。 | |||
===名鉄パノラマカー踏切事故=== | |||
;起きていなかったら | |||
#パノラマカーは「ダンプキラー」と呼ばれなかった。 | |||
===第一富士脱線事故=== | ===第一富士脱線事故=== | ||
;起きていなかったら | |||
#クロ151-7は新性能電車廃車第1号にならなかった。 | #クロ151-7は新性能電車廃車第1号にならなかった。 | ||
#*新幹線開業後に格下げ改造され「クハ181-57」を名乗る。 | #*新幹線開業後に格下げ改造され「クハ181-57」を名乗る。 | ||
142行目: | 156行目: | ||
#153系「かえだま」の記録写真が少なくなる。 | #153系「かえだま」の記録写真が少なくなる。 | ||
#157系が新潟県内で営業運転することはなかった。 | #157系が新潟県内で営業運転することはなかった。 | ||
;事故を起こしたのが○○だったら | |||
*他の151系 | |||
#上りの特急列車だった場合、クハ151が衝突に遭っていた。 | |||
#*代替の先頭車は新製された。 | |||
#車番によっては九州乗り入れ対応の改造工事に影響が出ていた。 | |||
#下り「第一つばめ」以外の場合、80系が大阪以西を代走することはなかった。 | |||
*153系 | |||
#先頭車に乗っていた運転士や一部の乗客が犠牲になっていたかもしれない。 | |||
#事故車の補充としてクハ165がその編成に組み込まれた。 | |||
*157系 | |||
#先頭が動力のあるクモハなので損傷が小さく、廃車にならず復帰した可能性も。 | |||
#「こだま」ではなく「ひびき」に153系が抜擢され「ひげき」のあだ名が付く。 | |||
*客車列車 | |||
#先頭が動力のある機関車なので損傷が小さく、修理を受けて復帰した可能性も。 | |||
#寝台特急だった場合は1961年の準急「あきよし」追突事故後の「さくら」同様、暫定的に10系と20系を併結していた。 | |||
#*下りだと電源車も被害を受けるため、代役としてマヤ20が東京口に顔を出すことに。 | |||
===近鉄河内国分駅列車追突事故=== | ===近鉄河内国分駅列車追突事故=== | ||
178行目: | 209行目: | ||
#**阪堺電気軌道の発足もなかったか現実より遅れていた。 | #**阪堺電気軌道の発足もなかったか現実より遅れていた。 | ||
#***貴志川線撤退の時は両備グループに売らず近鉄でいう伊賀鉄道・養老鉄道のような方式の分社化で対応した。 | #***貴志川線撤退の時は両備グループに売らず近鉄でいう伊賀鉄道・養老鉄道のような方式の分社化で対応した。 | ||
#20000系二代目こうや号はあと2編成ほど増備され、史実より早く通年運転が実施されていた。 | |||
#阪和線直通列車とサービス水準を合わせるため、南紀直通列車の「きのくに」にも冷房付きの新型車が投入されていた。 | |||
#*南紀直通列車の廃止は史実より1年半遅く1986年11月のダイヤ改正であった。 | |||
#*キハ65をベースにした南海仕様の車両(キハ6501形)か、名鉄キハ8000系のような冷房付き転換クロスシートの車両(キハ8001形)が投入されていた。 | |||
#*キハ5501系は冷房付きの新形式車が投入された後は、関東鉄道や有田鉄道に譲渡されていた。また冷房車(キハ6501形?もしくはキハ8001形?)も南紀直通列車の廃止後は全国の第三セクター鉄道などに譲渡された。 | |||
===寝台特急日本海北陸トンネル列車火災事故=== | ===寝台特急日本海北陸トンネル列車火災事故=== | ||
200行目: | 236行目: | ||
#***21020系・22600系以降の特急車には車体傾斜装置が設置されていた。 | #***21020系・22600系以降の特急車には車体傾斜装置が設置されていた。 | ||
#**旧青山トンネルが現役のため、心霊スポットになることもなかった。 | #**旧青山トンネルが現役のため、心霊スポットになることもなかった。 | ||
#**東青山駅前の「四季のさと」もなかった。 | |||
#*現実の鳥羽線が戦前に[[もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら#近鉄鳥羽線|開業していたら]][[大阪万博#1970年日本万国博覧会の噂|最初の大阪万博]]までに複線化された。 | |||
#**下手すれば[[もし大阪電気軌道が破産していたら|大軌が破産していたかも]]。 | |||
#*名古屋線の伊勢中川駅構内の複線化も遅れていたかもしれない。 | |||
#近鉄とは関係ないが、東武日光線の全線複線復活(合戦場-新鹿沼の複線復活、史実では1973年)も1980年代まで実施されなかったかもしれない。 | #近鉄とは関係ないが、東武日光線の全線複線復活(合戦場-新鹿沼の複線復活、史実では1973年)も1980年代まで実施されなかったかもしれない。 | ||
;事故車両が違っていたら | ;事故車両が違っていたら | ||
207行目: | 247行目: | ||
#*但し前面スタイルは12200系に類似したものになっていた。 | #*但し前面スタイルは12200系に類似したものになっていた。 | ||
#*VISTA CARのロゴも10100系や20100系のデザインを踏襲していた。 | #*VISTA CARのロゴも10100系や20100系のデザインを踏襲していた。 | ||
;別の時代におきていたら | |||
*1970年 | |||
#3~9月に起こっていた場合、[[大阪万博]]に行った人が事故に巻き込まれていた。 | |||
#*乗車率も高かったので、死傷者も増えていたかも。 | |||
===北陸トンネル火災事故=== | ===北陸トンネル火災事故=== | ||
247行目: | 291行目: | ||
#半鋼製車両の地下線乗り入れが禁止されていた。 | #半鋼製車両の地下線乗り入れが禁止されていた。 | ||
#*京阪1300・1700・山陽820系などの廃車が早まっていたか、車体の載せ替えが行われていた。 | #*京阪1300・1700・山陽820系などの廃車が早まっていたか、車体の載せ替えが行われていた。 | ||
;規則を無視してトンネルを抜けていたら | |||
#被害は最小限で済んだだろう。 | |||
#*場合によっては乗客の避難に成功し、死者0だったかもしれない。 | |||
#**後に2024年1月2日の羽田での日航機事故と比較されるようになっていた。 | |||
#それでも乗務員は規則に違反したとして何らかの処分を受けていた。 | |||
#*ただマスコミは「規則を無視してでも多くの乗客を救った」として当該乗務員を賞賛し、直後に国鉄側も規定を改正した。 | |||
#3年前に起こった「日本海」の火災事故と比較されていた。 | |||
===東海道新幹線回送列車脱線事故=== | ===東海道新幹線回送列車脱線事故=== | ||
269行目: | 320行目: | ||
#大都市の蒸気機関車運転が躊躇されることはなかった。 | #大都市の蒸気機関車運転が躊躇されることはなかった。 | ||
#*C57 1は山口線ではなく奈良線や山陰線などで運転されていた。 | #*C57 1は山口線ではなく奈良線や山陰線などで運転されていた。 | ||
#**梅小路蒸気機関車館が作られたのはそのためだということがよく知られていた。 | |||
#***蒸気機関車館から直接本線に乗り入れるイベント列車なんかも運行されていただろう。 | |||
#**電化も早まっていたかも。 | |||
#*「SL北びわこ号」の運転開始も早かった。 | #*「SL北びわこ号」の運転開始も早かった。 | ||
#鉄道事故は起きなくても群衆事故はそのうち起きただろうから史実と大差ないような。 | #鉄道事故は起きなくても群衆事故はそのうち起きただろうから史実と大差ないような。 | ||
316行目: | 370行目: | ||
#*京急も2000形以降の先頭車はモーターなしだった。 | #*京急も2000形以降の先頭車はモーターなしだった。 | ||
#**京急は先頭モーターありが伝統だったので変わっていないだろう。 | #**京急は先頭モーターありが伝統だったので変わっていないだろう。 | ||
#枚方市・寝屋川市両駅の高架化が遅れていたかもしれない。 | |||
;脱線したのが5000系ではなかったら | ;脱線したのが5000系ではなかったら | ||
326行目: | 381行目: | ||
#現在までに続く京阪電鉄100年以上の自慢であった「創業以来旅客死亡事故・従業員死亡事故ゼロ」がこの時点で途切れていた。 | #現在までに続く京阪電鉄100年以上の自慢であった「創業以来旅客死亡事故・従業員死亡事故ゼロ」がこの時点で途切れていた。 | ||
#*「京阪グループ全社では1回も死者を出した事件・事故は起こしていません」という自慢はできなかった。 | #*「京阪グループ全社では1回も死者を出した事件・事故は起こしていません」という自慢はできなかった。 | ||
#**それでも自社による責任事故に関しては死亡事故は0だった。 | |||
#死者が出たため置石をした中学生の親にはもっと責任が重くなっていた。 | #死者が出たため置石をした中学生の親にはもっと責任が重くなっていた。 | ||
#*少年法の改正や少年犯罪の厳罰化も1980年代前半に実施されていた(当時は中学校での校内暴力も多発していたので)。 | |||
#**バイトテロやバカッターなどによるいたずらによって生じた被害に対しても多額の損害賠償が請求されるようになっていた。 | |||
#線路侵入対策は史実以上に徹底されている。 | #線路侵入対策は史実以上に徹底されている。 | ||
#*新幹線特例法が一般の鉄道にも拡大適用されていたかも。 | |||
#枚方市や寝屋川市付近の高架化が早まっていた。 | #枚方市や寝屋川市付近の高架化が早まっていた。 | ||
#*平成のうちに枚方市以西が完全に立体交差化されていた。 | #*平成のうちに枚方市以西が完全に立体交差化されていた。 | ||
#被害規模が2005年の福知山線脱線事故並みだった場合、1980年代初頭に京阪の塗装が変更されていた。 | #被害規模が2005年の福知山線脱線事故並みだった場合、1980年代初頭に京阪の塗装が変更されていた。 | ||
#*6000系以降は当初から新塗装で登場していた。 | #*6000系以降は当初から新塗装で登場していた。 | ||
#*そうなった場合、その後もこの事故についてマスコミに取り上げられる機会が増えていた。特に事故の起こった日には毎年「事故から◯年」というふうに報道されていた。 | |||
#**事故現場で毎年慰霊祭も開催されている。 | |||
#事故後事故現場に慰霊碑を設置。 | #事故後事故現場に慰霊碑を設置。 | ||
===富士川鉄橋流失事故=== | ===富士川鉄橋流失事故=== | ||
344行目: | 404行目: | ||
#*早くて国鉄時代のうちに廃止されていた。 | #*早くて国鉄時代のうちに廃止されていた。 | ||
#*夜行列車の衰退も現実より早まっていた。 | #*夜行列車の衰退も現実より早まっていた。 | ||
#*青春18きっぷも1996年ごろに廃止されていた。 | |||
;起きていなかったら | ;起きていなかったら | ||
358行目: | 419行目: | ||
#JR東海は鉄道ゲームや前面展望ビデオ、鉄道イベントに観光列車に積極的になっていた。 | #JR東海は鉄道ゲームや前面展望ビデオ、鉄道イベントに観光列車に積極的になっていた。 | ||
#*JR東海では葛西さんの力は強くならず須田さんの力が強かった。 | #*JR東海では葛西さんの力は強くならず須田さんの力が強かった。 | ||
#*それはむしろ[[ | #*それはむしろ[[もしJR東海が○○だったら#新幹線至上主義に走らなかったら|もし新幹線至上主義に走らなかったら]]じゃない? | ||
#**葛西さんはJR東海の社長にならなかった。須田寛氏はJR東海のCEOに昇進。 | #**葛西さんはJR東海の社長にならなかった。須田寛氏はJR東海のCEOに昇進。 | ||
#*JR西日本の新幹線の前面展望ビデオで新神戸駅で終了なんてこともなかった。 | |||
#運転士の飲酒運転を晒すこともなかった。 | #運転士の飲酒運転を晒すこともなかった。 | ||
#*職員のモラルのなさと関係のこじれを晒すこともなかった。 | #*職員のモラルのなさと関係のこじれを晒すこともなかった。 | ||
365行目: | 427行目: | ||
#*既に当時、この事故がなくても国鉄の民営化は不可避の情勢となっていたが、6分割ではなく全国一元維持か東西2分割で行われ、国労・動労の組織解体などは行われなかった。 | #*既に当時、この事故がなくても国鉄の民営化は不可避の情勢となっていたが、6分割ではなく全国一元維持か東西2分割で行われ、国労・動労の組織解体などは行われなかった。 | ||
#**その場合、労組の衰退がなかったので、新自由主義という考え方が生まれず、バブル崩壊後の失われた20年もなかったかもしれない。 | #**その場合、労組の衰退がなかったので、新自由主義という考え方が生まれず、バブル崩壊後の失われた20年もなかったかもしれない。 | ||
#***政治の面でも自民党の1強状態になることもなく、社会党などの野党もある程度の力を持っていた。 | |||
#スハネフ14の24系からの改造車は全車JRに引き継がれていた。 | #スハネフ14の24系からの改造車は全車JRに引き継がれていた。 | ||
;死者が出ていたら | |||
*現実には比較的空いていたため、けが人も最小限で止められました。 | |||
#寝台列車の衰退が現実以上に早まっていた。 | |||
#*「北斗星」「トワイライトエクスプレス」「サンライズエクスプレス」は誕生しなかったかもしれない。 | |||
#*寝台列車は早ければ20世紀中に全廃されていた。 | |||
#**その分新幹線網の整備が早く行われ、北陸新幹線・北海道新幹線・西九州新幹線は平成のうちに全通していた。 | |||
#*JR東海が寝台列車の経由を拒否したことから、「さくら」「はやぶさ」「富士」「出雲」「瀬戸」などの東京~中四国・九州を結ぶ列車は北陸回りになっていた可能性もある。 | |||
#東京~紀伊勝浦を運行する夜行バスが現実より早く運行開始していた。 | |||
#この事故を教訓に職員の教育が徹底されたため、2年後の西明石駅における「富士」脱線事故は起こらなかった。 | |||
===阪急六甲駅衝突事故=== | ===阪急六甲駅衝突事故=== | ||
373行目: | 446行目: | ||
#**その分阪神は近鉄との直通に力を入れていたかも。 | #**その分阪神は近鉄との直通に力を入れていたかも。 | ||
#*同時に山陽電鉄は8両対応に施設を改良し、阪急も山陽車両が乗り入れられるように車両限界を拡大していた。 | #*同時に山陽電鉄は8両対応に施設を改良し、阪急も山陽車両が乗り入れられるように車両限界を拡大していた。 | ||
#**それに伴って京都線用車両も神宝線に乗り入れが可能となり、9000系以降の車両は神宝京各線・山陽電鉄・地下鉄堺筋線への乗り入れが全て可能になったので、阪急の車両は規格が統一されて、ロングシート車については形式も統一されていた。 | |||
#***規格統一後に登場した下3桁が300番台の形式は京都線特急用のクロスシート車向けの形式となっていた。 | |||
#阪急2000系のトップナンバーは能勢電鉄に移籍して今も健在。 | #阪急2000系のトップナンバーは能勢電鉄に移籍して今も健在。 | ||
#*能勢電鉄から引退後は正雀工場あたりで保存される。 | #*能勢電鉄から引退後は正雀工場あたりで保存される。 | ||
395行目: | 470行目: | ||
#***場合によっては阪神の子会社になっていたか吸収合併されていた。 | #***場合によっては阪神の子会社になっていたか吸収合併されていた。 | ||
#****神鉄粟生線のように廃止論議が発生していた。 | #****神鉄粟生線のように廃止論議が発生していた。 | ||
#*****輸送量的にそれはありえない。 | |||
;事故車両がアルミ車だったら | ;事故車両がアルミ車だったら | ||
424行目: | 500行目: | ||
#*青函トンネルが開通しても「北斗星」「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」は設定されず、当初から貨物主体となっていた。 | #*青函トンネルが開通しても「北斗星」「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」は設定されず、当初から貨物主体となっていた。 | ||
#*東北・九州・北陸新幹線の全通が早まっていた。 | #*東北・九州・北陸新幹線の全通が早まっていた。 | ||
#2012年のツアーバス藤岡事故なみに凄惨な事故だったことは間違いない。 | |||
===能登線急行能登路脱線事故=== | ===能登線急行能登路脱線事故=== | ||
429行目: | 506行目: | ||
#能登線・七尾線の和倉温泉-輪島間が電化していた。 | #能登線・七尾線の和倉温泉-輪島間が電化していた。 | ||
#のと鉄道は誕生せず今もJRが運行。 | #のと鉄道は誕生せず今もJRが運行。 | ||
#*もちろん廃止されていない。奥能登への観光路線として特急も乗り入れていた。 | |||
#**サンダーバードの輪島及び蛸島乗り入れもあったかも。 | |||
;別の時代に起きていたら | ;別の時代に起きていたら | ||
*2000年 | *2000年 | ||
#のと鉄道は現実以上に経営悪化。 | #のと鉄道は現実以上に経営悪化。 | ||
#*よって全線廃止になっていた可能性も。 | |||
#12月に起きた場合、京福の事故も起きていたら北陸地方の地方鉄道の安全性が問われていた。 | #12月に起きた場合、京福の事故も起きていたら北陸地方の地方鉄道の安全性が問われていた。 | ||
437行目: | 517行目: | ||
;起きていなかったら | ;起きていなかったら | ||
#降雪が原因の事故は東急東横線の事故のイメージが強かった。 | #降雪が原因の事故は東急東横線の事故のイメージが強かった。 | ||
#耐雪ブレーキは2000系に設置されなかった。 | |||
;別の車両で起きていたら | |||
*401系・701系・801系 | |||
#電制なしが仇となり史実より早く淘汰されていた。 | |||
#新501系のみは耐雪ブレーキ化の対象になった。 | |||
===余部鉄橋列車転落事故=== | ===余部鉄橋列車転落事故=== | ||
444行目: | 529行目: | ||
#*「あすか」は登場しなかった。 | #*「あすか」は登場しなかった。 | ||
#*ブルーリボン賞orローレル賞を受賞していた。 | #*ブルーリボン賞orローレル賞を受賞していた。 | ||
#*阪急に「京とれいん雅洛」が登場すると車内に庭園があるという意味でこれと比較されていた。 | |||
;営業列車だったら | ;営業列車だったら | ||
*現実には回送列車でした | *現実には回送列車でした | ||
450行目: | 536行目: | ||
#*あの高さから落ちていたら生存者の方が少ないと思われる。 | #*あの高さから落ちていたら生存者の方が少ないと思われる。 | ||
#*あの「カサンドラ・クロス」(1976年制作の欧州映画)での惨劇が現実のものとなっていた。欧米でも「カサンドラ・クロス」に酷似した列車事故として有名になっていた。 | #*あの「カサンドラ・クロス」(1976年制作の欧州映画)での惨劇が現実のものとなっていた。欧米でも「カサンドラ・クロス」に酷似した列車事故として有名になっていた。 | ||
#*国鉄最後の大惨事として史実以上に語り継がれていた。 | |||
#事故後直ちに余部鉄橋は架け替えられていた。 | #事故後直ちに余部鉄橋は架け替えられていた。 | ||
#*智頭急行も史実よりも早く開業していた。 | #*智頭急行も史実よりも早く開業していた。 | ||
#*旧鉄橋の一部が保存されることもなかった。 | #*旧鉄橋の一部が保存されることもなかった。 | ||
#**「事故を思い出す」ということで完全に解体されていた。 | |||
#**京都鉄道博物館に保存されることもなかった。 | |||
#むしろ乗客の重みで転落しなかったのかもしれない。 | #むしろ乗客の重みで転落しなかったのかもしれない。 | ||
#計画運休という考え方が昭和の頃から存在し、台風が接近すると予め電車を止めることになっていた。 | |||
#*台風ではないが、2005年の羽越本線「いなほ」脱線事故も事前に運休していたので起こらなかったかもしれない。 | |||
===上海列車事故=== | ===上海列車事故=== | ||
496行目: | 587行目: | ||
#カナリアイエローが忌み嫌われることはなかった。 | #カナリアイエローが忌み嫌われることはなかった。 | ||
#*103系のカナリア色が関西では2021年現在でも現役。 | #*103系のカナリア色が関西では2021年現在でも現役。 | ||
;別の路線で起きていたら | |||
;阪和線 | |||
#[[もしあの鉄道事故が○○だったら/1990年代以前#阪和線天王寺駅車止め追突事故|「天王寺の事故」]]は忘れたのかといわれた。 | |||
===阪和線天王寺駅車止め追突事故=== | ===阪和線天王寺駅車止め追突事故=== | ||
505行目: | 600行目: | ||
#*ターミナル駅のため利用者を巻き添えにして死者が出ていた。 | #*ターミナル駅のため利用者を巻き添えにして死者が出ていた。 | ||
#JR西日本のクラッシャブルゾーンの導入が早まっていた。 | #JR西日本のクラッシャブルゾーンの導入が早まっていた。 | ||
#JR西の体質がこの時点で白日の元に晒されるため、その後経営改善が行われる。福知山線脱線事故もなかったかもしれない。 | |||
;事故車両が〇〇だったら | ;事故車両が〇〇だったら | ||
538行目: | 634行目: | ||
#途中の行き違い設備やJRとの連絡線は現在でも残っている。 | #途中の行き違い設備やJRとの連絡線は現在でも残っている。 | ||
#*運転本数が増便され、JRとの直通も残っていたかも。 | #*運転本数が増便され、JRとの直通も残っていたかも。 | ||
#**場合によっては電化されていた。 | |||
#信楽高原鐵道が経営難に陥ることはなかった。 | #信楽高原鐵道が経営難に陥ることはなかった。 | ||
#2013年に豪雨で被災した際も早くに復旧できていた。 | #2013年に豪雨で被災した際も早くに復旧できていた。 | ||
545行目: | 642行目: | ||
#*「サンダーバード」の宇奈月温泉・立山直通も2015年3月の北陸新幹線開業まで廃止されなかった。 | #*「サンダーバード」の宇奈月温泉・立山直通も2015年3月の北陸新幹線開業まで廃止されなかった。 | ||
#*JR各社間またがりの列車の削減も史実ほど進んではいなかった。 | #*JR各社間またがりの列車の削減も史実ほど進んではいなかった。 | ||
#**九州からの下関以東への直通やJR西日本車両の大垣乗り入れが廃止されることもなかったかも。 | |||
#**大糸線も南小谷駅から現在でも気動車が電化路線に直通していたかも。 | |||
#***リゾートビューふるさとが糸魚川まで乗り入れていたかもしれない。 | |||
#*東武東上線は秩父鉄道への直通特急「みつみね」「ながとろ」も廃止されなかった(こちらは秩父鉄道のATS導入絡みもあるが)。 | #*東武東上線は秩父鉄道への直通特急「みつみね」「ながとろ」も廃止されなかった(こちらは秩父鉄道のATS導入絡みもあるが)。 | ||
#**東武は多くの線区で系統を分断することもなかった。 | #**東武は多くの線区で系統を分断することもなかった。 | ||
#*それでも[[もし西日本鉄道が○○だったら#宮地岳線|地下鉄箱崎線と西鉄宮地岳線の相互直通]]は実現しなかった。 | #*それでも[[もし西日本鉄道が○○だったら#宮地岳線|地下鉄箱崎線と西鉄宮地岳線の相互直通]]は実現しなかった。 | ||
#*JR西日本からあいの風とやま鉄道に入る臨時列車が運行されていた。 | |||
#**一部のサンダーバードは北陸新幹線金沢開通後も富山への乗り入れが残っていた。 | |||
#*阪急と山陽電鉄の相互乗り入れも中止されなかったかもしれない。 | |||
#富士重工LE-carシリーズが生産中止になることもLE-DCが標準化されることもなかった。 | #富士重工LE-carシリーズが生産中止になることもLE-DCが標準化されることもなかった。 | ||
#史実では、当時の本場所で負けが込んで「体力の限界、気力も無くなった」と言って事故当日の夜に引退した大横綱・千代の富士がどうなっていたか? | #史実では、当時の本場所で負けが込んで「体力の限界、気力も無くなった」と言って事故当日の夜に引退した大横綱・千代の富士がどうなっていたか? | ||
553行目: | 656行目: | ||
#信楽高原鐡道所属車両の塗色変更はなかった。 | #信楽高原鐡道所属車両の塗色変更はなかった。 | ||
#ICカードが使えるようになっていたかもしれない。 | #ICカードが使えるようになっていたかもしれない。 | ||
#信楽町が水口町や甲賀町などと合併することもなかったかもしれない。 | |||
#信楽から石山方面に向かう帝産バスは史実よりも早く廃止されていた。 | |||
;直後に火災が発生していたら | ;直後に火災が発生していたら | ||
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;近畿圏 | ;近畿圏 | ||
#JR西日本の労組が[[動労千葉]]並みの力に。 | #JR西日本の労組が[[動労千葉]]並みの力に。 | ||
;別の時代に起きていたら | |||
*全般 | |||
#木製車の場合その淘汰が早まった。 | |||
#*[[もしあの鉄道事故が○○だったら/1990年代以前#八高線列車脱線転覆事故|「八高線の事故」]]がなかったらこうなった可能性も。 | |||
*2005年 | |||
#4月25日前後の場合[[福知山線#福知山線脱線事故|「福知山線脱線事故」]]が[[もしJR福知山線脱線事故が○○だったら#踏切事故|「踏切事故」]]と思われた。 | |||
===島原鉄道列車正面衝突事故=== | ===島原鉄道列車正面衝突事故=== | ||
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#*その後同じルートでリニア地下鉄が計画され、住之江公園以東も長居公園通の地下を喜連瓜破まで延伸されていた。 | #*その後同じルートでリニア地下鉄が計画され、住之江公園以東も長居公園通の地下を喜連瓜破まで延伸されていた。 | ||
#*つまりシーサイドライン暴走事故の後シーサイドラインは廃止されてたか? | #*つまりシーサイドライン暴走事故の後シーサイドラインは廃止されてたか? | ||
#*むしろそれ以後有人運転になっていた。 | |||
;回送列車だったら | ;回送列車だったら | ||
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#****JR東海はイベントが一番多いといわれていた。あと観光列車もしている。JR東海の葛西さんの勢力は強くならなかった。 | #****JR東海はイベントが一番多いといわれていた。あと観光列車もしている。JR東海の葛西さんの勢力は強くならなかった。 | ||
#**セキュリティに対し過敏になることもなかった。テレビの取材を受けてもぼかしだらけになることはなかった。 | #**セキュリティに対し過敏になることもなかった。テレビの取材を受けてもぼかしだらけになることはなかった。 | ||
#**JR東海の在来線特急用グリーン車は383系以降の車両も3列のままであった。 | |||
===京浜急行電鉄脱線事故(1997年)=== | ===京浜急行電鉄脱線事故(1997年)=== |
2024年3月21日 (木) 18:08時点における最新版
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1960年代以前[編集 | ソースを編集]
大阪駅清水太右衛門殉職事故[編集 | ソースを編集]
- 清水太右衛門が助かっていたら
- 清水太右衛門は昇進していた。
参宮線列車転覆事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 一身田駅は悪い意味で有名になっていない。
根府川駅列車転落事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- =もし関東大震災が起きていなかったらである。
大鉄電車三重衝突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 近鉄になって以降、南大阪線への設備投資が積極的に行われた。
- 大軌とは合併せず、戦時中にようやく近鉄入り。その後独立するか、南海の路線になっていた。
西成線脱線火災事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 西成線の電化が遅れた。
- 関西線奈良地区が先に電化していた。なぜならこの時、西成線と関西線奈良地区のどちらを先に電化するかといわれていたので。
- ガソリンカーの全廃はヨン・サン・トオのころになっていた。
- 安治川口駅が悪い意味で有名にならなかった。今でもマイナーな駅のまま。
- 電化はおそらく環状線開業と同じ時期になっていた。
- 電化自体は事故以前から計画されてたので、史実より1.2年ほど後になってそう。
- ゆめ咲線には今頃、昔の京葉線に例えるとシャトルマイハマのような車両が走っている。
- キハ126系以降の一般形は3扉が標準だったかも。
- ガソリンカーは燃料統制で(エンジンなど軍事転用を目論み)客車化を避けられなかったかも。
- 事故車両の車掌が労働組合員だったら
- 関西には関東でいう千葉動労のような組織ができている。
- JR西日本の砂丘色のような派手なキハ58系は登場しなかった。
- JR西労組もJR総連から脱退しなかった。よってJR連合は誕生せず。
- 運転士も死亡していたら
- 現実では乗務員は車掌のみ死亡しましたがではもし運転士も死亡していたら。
- 極めて珍しい運転士・車掌ともに死亡した事故となっていた。
- 事故車が気動車でなかったら
- 死者はいなかったか少なかった。
北条線列車脱線転覆事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 飛行機が原因の鉄道事故は発生していない。
八高線列車脱線転覆事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 八高線のイメージがそれほど悪くなっていなかった。
- 西成線脱線事故の知名度が史実より上がっていた。
- 1945年の正面衝突事故もなければ、八高線絡みの事件といえば線路内の犬の立ち入りになっていた。
- Chakuwiki住民以外には知られてないだろうが。
- 木造客車の鋼体化は史実より遅れ、木造客車の全廃はヨンサントオ改正の頃になっていた。また、オハネ17(→スハネ16)・オシ16は木造車の台枠を流用して製作された。
- 別の時代に起きていたら
- 全般
- 死者は現実より少なかったはず。
- なぜなら戦後の混乱期で定員の3倍もの乗客を乗せていたため。
- 国鉄末期ならけが人が何人か出たぐらいだったかもしれない。
- 1960年
- 事故車は気動車になっていた。
- 死者の数は史実より少なかった。
- 1985年
- 日本航空123便の事故と重なった場合、その事故の遺族の身元確認にも影響が出ていた。
- 距離が離れていたので高崎付近のみの折り返し運転で対応したか。
- 1994年
- 八王子~高麗川の電化工事に影響が出ていた。
- 1~2年ほど延期されていたかもしれない。
- 史実同様「超満員の乗客による事故」だった場合、電化と同時期に6両編成化も行われていた。
- 中央線の乗り入れが行われていた場合、逆に五日市線が4両になっていた。
- 1996年3月
- 非電化時代最後の事故になっていた。
- 気動車によるラストランなどは行われず、電車化も少し遅れていた。
- 1996年4月以降
- 事故車は電車だった。
- 電化早々の事故となり、八高線への不信感が強まっていた。
- 中央線との直通運転はなかった。
- 一時的に女性専用車が導入されることもなかった。
- 福知山線事故の知名度が史実より下がっていた。
近鉄奈良線暴走追突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 生駒トンネルの付け替えが現実より遅れていた。
- ブレーキの取替が遅れていた
塩狩峠での暴走事故[編集 | ソースを編集]
詳細はWikipedia:ja:塩狩峠#鉄道事故を参照
- 職員が線路に飛び降りなかったら
- 事故が史実以上に大きくなり多数の死者が出ていた。
- 三浦綾子がこの職員をモデルとして「塩狩峠」を書くことはなかった。
- 起きていなかったら
- 塩狩信号所(後の塩狩駅)はなかったかもしれない。
- この場合も小説「塩狩峠」は存在せず。
- かつて発売されていた「ご当地入場券」の設定駅も和寒駅になっていた。
桜木町事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 非常用ドアコックの設置が遅れていた。
- 逆に三河島事故は防げていたかもしれない。
- 63系の置換えが遅れた。
- 73系への改番は1960年代になってからで、同時に72系920番台と同じ車体への載せ替えも併せて行われた。また、モハ63形のうち855-858は1959年の形式称号改正時にクモハ73形400番台に改番された。
六軒事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 三重県内のJR東海にもフリークエンシーダイヤが導入されている。
- 快速みえの利用客も多かった。
- 伊勢線・参宮線・紀勢本線は全線電化されていた。
- 伊勢線は3セク転換されなかった。
- 伊勢志摩方面への輸送で近鉄に客を奪われる時期は史実より10年以上遅くなっていた。
- JR東海もSLの動態運転に積極的になっていた。もちろん葛西氏の勢力は強くならなければの話だが。
- 定期運行のSLの全廃は史実より10年遅くなっていた(動力近代化計画でSL全廃方針を打ち出したのはこの事故で多数の死傷者が出たことが一因)。
- 本州以南でのSL定期運行全廃は1984年1月末、北海道でのSL定期運行全廃は1986年10月末となっていた。
- 別の時代に起きていたら
- 2011年
- 事故車両は快速みえだった。
- 東海の会社のカラー自体変えることになっていた。
- 現実以上に利用客が近鉄に流れていた。
- 事故車両が〇〇だったら
- 現実ではSL同士でした。
- キハ55系
- キハ55系同士の場合、SLではないため水蒸気漏れはなかった。
- その代わり西成線事故のように炎上していた。
- ディーゼル車であるため、むしろそこまで深刻なものではない(西成線の事故はガソリン車だから余計に炎上させた)。
- その代わり西成線事故のように炎上していた。
三河島事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 三河島は今でもマイナーな地名のまま。
- むしろ荒川区の行政地名としての「三河島」が存続していた。
- 古参の相撲ファンには三河島事件のイメージを持たれる。
- 国鉄がスワローズをフジサンケイグループに売却することはなかった。
- それでも1980年代に国鉄分割民営化が決まる前後には売却されていた。ただ売却先はヤクルトではないかも。
- ATSの整備が遅れていた。
- 常磐無線アンテナも存在しなかった。
- 漫才の春日三球・照代コンビは誕生していない。
- JR東日本では首都圏の複々線と3複線路線において何か発生した場合、全ての線路を止めることはなかった。
鶴見事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 三河島事故がなかったら起きなかった。
- JR東日本は、複々線区間でトラブルがあったときに、平行する線路全てを止めることはなかった。
名鉄パノラマカー踏切事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- パノラマカーは「ダンプキラー」と呼ばれなかった。
第一富士脱線事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- クロ151-7は新性能電車廃車第1号にならなかった。
- 新幹線開業後に格下げ改造され「クハ181-57」を名乗る。
- もちろんクロ150-3→クハ181-53は誕生しない。
- 国鉄特急型初の先頭車化改造車はクロ481-50番台だった。
- 153系「かえだま」の記録写真が少なくなる。
- 157系が新潟県内で営業運転することはなかった。
- 事故を起こしたのが○○だったら
- 他の151系
- 上りの特急列車だった場合、クハ151が衝突に遭っていた。
- 代替の先頭車は新製された。
- 車番によっては九州乗り入れ対応の改造工事に影響が出ていた。
- 下り「第一つばめ」以外の場合、80系が大阪以西を代走することはなかった。
- 153系
- 先頭車に乗っていた運転士や一部の乗客が犠牲になっていたかもしれない。
- 事故車の補充としてクハ165がその編成に組み込まれた。
- 157系
- 先頭が動力のあるクモハなので損傷が小さく、廃車にならず復帰した可能性も。
- 「こだま」ではなく「ひびき」に153系が抜擢され「ひげき」のあだ名が付く。
- 客車列車
- 先頭が動力のある機関車なので損傷が小さく、修理を受けて復帰した可能性も。
- 寝台特急だった場合は1961年の準急「あきよし」追突事故後の「さくら」同様、暫定的に10系と20系を併結していた。
- 下りだと電源車も被害を受けるため、代役としてマヤ20が東京口に顔を出すことに。
近鉄河内国分駅列車追突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 10000系初代ビスタカーの先頭車であるモ10007が18200系に準じた貫通型に改造されることはなかった。
- 10000系は71年に引退するのは史実通りだが、電機品の流用先は2680系ではなく12200系(スナックコーナーのない後期型)に準じた外観・車体を持つ特急車(形式は10600系)となっていた。
- 2680系は登場せず、代わりに2800系3連車が近鉄通勤車初の冷房車として1年早く登場していた。
- 10600系は1990年代まで活躍したが、12200系と違って車体更新は実施されずそのまま廃車された。
- 性能の関係で主に名古屋線で運用されていた。
急行安芸食堂車全焼事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 戦前製食堂車の全廃が遅れた。
南海三大事故[編集 | ソースを編集]
男里川橋梁列車脱線転落事故・箱作駅構内列車衝突事故・天下茶屋駅列車衝突事故
- 起きていなかったら
- 南海の新塗装が史実と異なっていた。
- 新塗装は緑をベースにしていた。
- 羽車マーク→Vマーク→ファインレッドとブライトオレンジのCIマークへの変更もなく今もターミナル駅や広告は「NANKAI」ではなく「南海電鉄」と書いていた。
- 新塗装は緑をベースにしていた。
- 南海は女性乗務員を派遣会社に委託することはなかった。
- その結果、関西の鉄道で初めて南海は駅員と乗務員は全員スラックスになっている。
- 女性鉄道職員と言えばスカートがいいという輩から「南海の女性乗務員の制服は男性とそっくりでつまらない」といれれた。
- 「パッセンジャー・アテンダント」という造語もない。
- もしくは仮に女性乗務員を業務委託していても90年代中に女性乗務員の業務委託は廃止されてそれと同時に南海の鉄道職員の制服はスラックスのみに統一されていた。
- アバンという名の会社も登場していないかあっても今は解散して跡形もない。
- もしくは仮に女性乗務員を業務委託していても90年代中に女性乗務員の業務委託は廃止されてそれと同時に南海の鉄道職員の制服はスラックスのみに統一されていた。
- 「パッセンジャー・アテンダント」という造語もない。
- 女性鉄道職員と言えばスカートがいいという輩から「南海の女性乗務員の制服は男性とそっくりでつまらない」といれれた。
- その結果、関西の鉄道で初めて南海は駅員と乗務員は全員スラックスになっている。
- その後の南海ホークスは史実よりも成績が良かった。
- 1970年代のパ・リーグが阪急ブレーブスの一強にならなかった。
- 場合によってはダイエーに球団売却されることはなかった。
- それでも大阪球場は再開発のため撤去され、中百舌鳥あたりに新球場を作っていた。
- 11001系は元の形式のままで全車昇圧改造・冷房改造を受けて、1000系に形式名が変更されたり京福電鉄福井支社に譲渡されたりすることなく、1980年代後半まで南海本線で使命を全うした。
- 1974年に京福に譲渡されたのは別の私鉄の車両になっていた。また11001系(史実の2代目1001系)は1987年に引退後、一部は大井川鉄道に譲渡されていた。
- 泉北高速鉄道は当初から南海の路線として建設されていた。
- 1970年代以降関西大手私鉄における南海の政治力が現実よりも高くなっていた。
- 地下鉄に置き換えられて平野線と天王寺支線を失わなかったかもしれない。
- 阪堺電気軌道の発足もなかったか現実より遅れていた。
- 貴志川線撤退の時は両備グループに売らず近鉄でいう伊賀鉄道・養老鉄道のような方式の分社化で対応した。
- 阪堺電気軌道の発足もなかったか現実より遅れていた。
- 地下鉄に置き換えられて平野線と天王寺支線を失わなかったかもしれない。
- 20000系二代目こうや号はあと2編成ほど増備され、史実より早く通年運転が実施されていた。
- 阪和線直通列車とサービス水準を合わせるため、南紀直通列車の「きのくに」にも冷房付きの新型車が投入されていた。
- 南紀直通列車の廃止は史実より1年半遅く1986年11月のダイヤ改正であった。
- キハ65をベースにした南海仕様の車両(キハ6501形)か、名鉄キハ8000系のような冷房付き転換クロスシートの車両(キハ8001形)が投入されていた。
- キハ5501系は冷房付きの新形式車が投入された後は、関東鉄道や有田鉄道に譲渡されていた。また冷房車(キハ6501形?もしくはキハ8001形?)も南紀直通列車の廃止後は全国の第三セクター鉄道などに譲渡された。
寝台特急日本海北陸トンネル列車火災事故[編集 | ソースを編集]
- この時点で規定を改定していたら
- 急行きたぐにの火災事故は起きていない。
1970年代[編集 | ソースを編集]
富士急行列車脱線転覆事故[編集 | ソースを編集]
- 終点まで走って車止めに追突していたら
- 後の福島交通の事故と同じように思われた。
- 起こっていなかったら
- 5000形は登場しなかった。
- その分、京王5000系を多く譲受していた。
近鉄特急正面衝突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 近鉄大阪線の全線複線化はなかったか遅れていた。
- 恐らく全線複線化されていたとしても1980年代になっていた。
- 全線複線化されるにしても旧線に沿う形で線増されていた。そのため現実よりカーブが多くなり、大阪~名古屋・伊勢間の所要時間が増加していた。
- 「アーバンライナー」は振り子式車両になっていたかも。
- 21020系・22600系以降の特急車には車体傾斜装置が設置されていた。
- 旧青山トンネルが現役のため、心霊スポットになることもなかった。
- 東青山駅前の「四季のさと」もなかった。
- 「アーバンライナー」は振り子式車両になっていたかも。
- 現実の鳥羽線が戦前に開業していたら最初の大阪万博までに複線化された。
- 下手すれば大軌が破産していたかも。
- 名古屋線の伊勢中川駅構内の複線化も遅れていたかもしれない。
- 近鉄とは関係ないが、東武日光線の全線複線復活(合戦場-新鹿沼の複線復活、史実では1973年)も1980年代まで実施されなかったかもしれない。
- 事故車両が違っていたら
- 現実には12200系でした。
- 10100系
- 事故で廃車が出ることから、補充を目的に30000系ビスタⅢ世が現実(1978年)よりも6年程早く登場していた。
- 但し前面スタイルは12200系に類似したものになっていた。
- VISTA CARのロゴも10100系や20100系のデザインを踏襲していた。
- 別の時代におきていたら
- 1970年
- 3~9月に起こっていた場合、大阪万博に行った人が事故に巻き込まれていた。
- 乗車率も高かったので、死傷者も増えていたかも。
北陸トンネル火災事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 10系客車の早期廃車はなかった。
- JRマークが付いた車両が見れたかも。
- 燃焼実験のために廃車となることもなかった。
- その代わり旧型客車の廃車のペースが早かった。
- ナハ11形・ナハフ11形については冷房改造も実施されていた。
- 食堂車の衰退はなかった。
- 数年遅れた程度で、80年代には衰退していただろう。
- 24系客車は登場しなかった。
- 14系15形が1974年に登場し、史実の24系25形と同様の形態変化を見せる。
- 自動消火装置の実用化が遅れた。
- KATOのオシ17は違う車番になっていたかもしれない。
- 青函トンネルが気動車での自走ができなくなることもなかった。
- 客車が尾久所属だったら
- 確実に事故は起きていなかった(高砂工場のいい加減な施工と宮原区の検査手抜きが火災原因)。
- オシ17は50.3改正まで生き残っていた。
- でも、12・14・20系の急行運用は下手すると分割民営化直前の61.10改正まで無かったかも?
- 火災を起こしたのが○○だったら
- 現実では10系客車でした
- 気動車
- 事故が起こる1か月前まで特急白鳥はキハ82系気動車を使用していた
- 火災が気動車白鳥だった場合、特急の火災という事で国鉄内部のショックは大きかった。
- 後の石勝線火災事故と比較されていた。
- 石勝線は長大トンネルもあるので、むしろ開業時から電化されていただろう。
- その場合根室本線の新得-釧路間も電化されていた。
- 石勝線は長大トンネルもあるので、むしろ開業時から電化されていただろう。
- 後の石勝線火災事故と比較されていた。
- この事故以降長大トンネルでの気動車の通行が禁止されていた。
- 電車
- この事故が起きた直後に急行立山3号(電車)がトンネル内に進入しようとしていた
- 原因の一つに架線設備の故障が疑われていた。
- 電車の不燃化が推進されていた。
- 半鋼製車両の地下線乗り入れが禁止されていた。
- 京阪1300・1700・山陽820系などの廃車が早まっていたか、車体の載せ替えが行われていた。
- 規則を無視してトンネルを抜けていたら
- 被害は最小限で済んだだろう。
- 場合によっては乗客の避難に成功し、死者0だったかもしれない。
- 後に2024年1月2日の羽田での日航機事故と比較されるようになっていた。
- 場合によっては乗客の避難に成功し、死者0だったかもしれない。
- それでも乗務員は規則に違反したとして何らかの処分を受けていた。
- ただマスコミは「規則を無視してでも多くの乗客を救った」として当該乗務員を賞賛し、直後に国鉄側も規定を改正した。
- 3年前に起こった「日本海」の火災事故と比較されていた。
東海道新幹線回送列車脱線事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 1970年や2004年に起きた脱線事故の扱いが大きくなっていた。
- ATCの安全性が問題提起されることはなかった。
- 営業列車と衝突していたら
実際上下線とも数分違いで通過していました。
- もちろん新幹線の営業列車としての初めての事故に。
- 確実に死者が出ていた。
- 新幹線の安全神話は生まれず、利用者も史実ほど増えなかった。
- 現実よりも航空機に旅客がシフトしていた。
- 近鉄名阪特急も史実より数年早く回復していた。名阪ノンストップに18200系が使用されることはなかった。
- 基地から最寄り駅までの回送線と営業線の分離が検討されていた。
関西線平野駅列車脱線転覆事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 113系はその後も普通列車で運用。
京阪100年号事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 大都市の蒸気機関車運転が躊躇されることはなかった。
- C57 1は山口線ではなく奈良線や山陰線などで運転されていた。
- 梅小路蒸気機関車館が作られたのはそのためだということがよく知られていた。
- 蒸気機関車館から直接本線に乗り入れるイベント列車なんかも運行されていただろう。
- 電化も早まっていたかも。
- 梅小路蒸気機関車館が作られたのはそのためだということがよく知られていた。
- 「SL北びわこ号」の運転開始も早かった。
- C57 1は山口線ではなく奈良線や山陰線などで運転されていた。
- 鉄道事故は起きなくても群衆事故はそのうち起きただろうから史実と大差ないような。
西鉄大牟田線列車衝突脱線事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 2000系2041の廃車は現実より遅かった。
山陽線須磨駅ホーム転落事故[編集 | ソースを編集]
- 2人とも助かっていたら
- 大山車掌は昇進して新幹線の運転士になっていた。
高松琴平電鉄志度線列車正面衝突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 四国の鉄道では土佐くろしお鉄道の事故まで鉄道事故がなかった。
営団東西線列車横転事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 「地下鉄に鉄橋なんかあるわけない」と誤解されることはなかった。
- 『スパイダーマン』の映像のネタにされることはなかった。
- 横転したのが国鉄車だったら
- 103系1200番台が追加製造されていた。
- 10両化に影響が出た。
- 301系だったら103系との混結編成が史実より早く登場した。
常磐線列車衝突脱線転覆事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- モハ403-1がモハ401-26に改造されることはなかった。
- モハ401-7の寿命がもう少し延びた。
- クハ401-51は非冷房のまま廃車されたかもしれない。
- 「低運転台・デカ目・新塗装」の401系は存在しなかった。
- クハ401-83・84の前面強化はJR化後になってからだった。
- その際前照灯がシールドビーム化される。
- 1984年以降に起きていたら
- モハ403-1は電装解除されてサハ401-1になっていた。
1980年代[編集 | ソースを編集]
京阪置石脱線事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 関西の大手私鉄において線路脇のフェンスが高くなることはなかったか、設置が遅れていた。
- 5000系が4連で営業することはなかった。
- 京阪は関西私鉄で唯一重大鉄道事故は一回も起こしていない。
- 1966年に発生した蒲生信号所での衝突事故くらいだった。
- 蒲生の事故は小さな事故では?
- 1966年に発生した蒲生信号所での衝突事故くらいだった。
- 京阪の車両は6000系以降も先頭車はモーターなしの設計だった。
- 京急も2000形以降の先頭車はモーターなしだった。
- 京急は先頭モーターありが伝統だったので変わっていないだろう。
- 京急も2000形以降の先頭車はモーターなしだった。
- 枚方市・寝屋川市両駅の高架化が遅れていたかもしれない。
- 脱線したのが5000系ではなかったら
- 京都方先頭車がMc車の2200系などの場合、脱線はしても線路沿いのの民家に突っ込むことはなかった。
- 車両も修理されて復帰していた。
- 脱線したのが特急車の3000系だった場合、復旧まで一般車による代走が頻繁に発生していた。
- 死者が出ていたら
- 史実では死者は出ませんでしたがもし死者が出ていたら?
- 現在までに続く京阪電鉄100年以上の自慢であった「創業以来旅客死亡事故・従業員死亡事故ゼロ」がこの時点で途切れていた。
- 「京阪グループ全社では1回も死者を出した事件・事故は起こしていません」という自慢はできなかった。
- それでも自社による責任事故に関しては死亡事故は0だった。
- 「京阪グループ全社では1回も死者を出した事件・事故は起こしていません」という自慢はできなかった。
- 死者が出たため置石をした中学生の親にはもっと責任が重くなっていた。
- 少年法の改正や少年犯罪の厳罰化も1980年代前半に実施されていた(当時は中学校での校内暴力も多発していたので)。
- バイトテロやバカッターなどによるいたずらによって生じた被害に対しても多額の損害賠償が請求されるようになっていた。
- 少年法の改正や少年犯罪の厳罰化も1980年代前半に実施されていた(当時は中学校での校内暴力も多発していたので)。
- 線路侵入対策は史実以上に徹底されている。
- 新幹線特例法が一般の鉄道にも拡大適用されていたかも。
- 枚方市や寝屋川市付近の高架化が早まっていた。
- 平成のうちに枚方市以西が完全に立体交差化されていた。
- 被害規模が2005年の福知山線脱線事故並みだった場合、1980年代初頭に京阪の塗装が変更されていた。
- 6000系以降は当初から新塗装で登場していた。
- そうなった場合、その後もこの事故についてマスコミに取り上げられる機会が増えていた。特に事故の起こった日には毎年「事故から◯年」というふうに報道されていた。
- 事故現場で毎年慰霊祭も開催されている。
- 事故後事故現場に慰霊碑を設置。
富士川鉄橋流失事故[編集 | ソースを編集]
- 大垣夜行を巻き添えにしていたら
- 現実では富士駅で乗客待ちで遅れたため事故は防げました。
- 鉄橋流失で列車が巻き込まれる事故になっていた。
- 165系はJR化時点で定期運用を持たなかったかも。
- 現実の20系客車より早く全廃された。
- 大垣夜行の廃止が現実よりも早まっていた。
- 早くて国鉄時代のうちに廃止されていた。
- 夜行列車の衰退も現実より早まっていた。
- 青春18きっぷも1996年ごろに廃止されていた。
- 起きていなかったら
- 今も大幹線の鉄橋流失は起きていない。
- 鉄橋流失は現実以上にローカル線のイメージになっていた。
名古屋駅寝台特急「紀伊」 機関車衝突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 寝台特急紀伊は近鉄観光特急しまかぜ登場まで運行が続けられた。
- むしろ出雲と同時期じゃない?
- というか、紀伊の廃止はこの事故で利用客が離れたとみなされることもなかった。
- JR東海は2009年に客車と機関車の運用を廃止することもなかった。
- というか、機関士の養成に消極的になることはなかった。
- JR東海は鉄道ゲームや前面展望ビデオ、鉄道イベントに観光列車に積極的になっていた。
- JR東海では葛西さんの力は強くならず須田さんの力が強かった。
- それはむしろもし新幹線至上主義に走らなかったらじゃない?
- 葛西さんはJR東海の社長にならなかった。須田寛氏はJR東海のCEOに昇進。
- JR西日本の新幹線の前面展望ビデオで新神戸駅で終了なんてこともなかった。
- 運転士の飲酒運転を晒すこともなかった。
- 職員のモラルのなさと関係のこじれを晒すこともなかった。
- 西明石事故も起きなかった。
- 既に当時、この事故がなくても国鉄の民営化は不可避の情勢となっていたが、6分割ではなく全国一元維持か東西2分割で行われ、国労・動労の組織解体などは行われなかった。
- その場合、労組の衰退がなかったので、新自由主義という考え方が生まれず、バブル崩壊後の失われた20年もなかったかもしれない。
- 政治の面でも自民党の1強状態になることもなく、社会党などの野党もある程度の力を持っていた。
- その場合、労組の衰退がなかったので、新自由主義という考え方が生まれず、バブル崩壊後の失われた20年もなかったかもしれない。
- スハネフ14の24系からの改造車は全車JRに引き継がれていた。
- 死者が出ていたら
- 現実には比較的空いていたため、けが人も最小限で止められました。
- 寝台列車の衰退が現実以上に早まっていた。
- 「北斗星」「トワイライトエクスプレス」「サンライズエクスプレス」は誕生しなかったかもしれない。
- 寝台列車は早ければ20世紀中に全廃されていた。
- その分新幹線網の整備が早く行われ、北陸新幹線・北海道新幹線・西九州新幹線は平成のうちに全通していた。
- JR東海が寝台列車の経由を拒否したことから、「さくら」「はやぶさ」「富士」「出雲」「瀬戸」などの東京~中四国・九州を結ぶ列車は北陸回りになっていた可能性もある。
- 東京~紀伊勝浦を運行する夜行バスが現実より早く運行開始していた。
- この事故を教訓に職員の教育が徹底されたため、2年後の西明石駅における「富士」脱線事故は起こらなかった。
阪急六甲駅衝突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 阪急と山陽の相互直通運転が廃止されることはなかった。
- 直通特急は阪神梅田と阪急梅田双方に発着するようになっている。
- その分阪神は近鉄との直通に力を入れていたかも。
- 同時に山陽電鉄は8両対応に施設を改良し、阪急も山陽車両が乗り入れられるように車両限界を拡大していた。
- それに伴って京都線用車両も神宝線に乗り入れが可能となり、9000系以降の車両は神宝京各線・山陽電鉄・地下鉄堺筋線への乗り入れが全て可能になったので、阪急の車両は規格が統一されて、ロングシート車については形式も統一されていた。
- 規格統一後に登場した下3桁が300番台の形式は京都線特急用のクロスシート車向けの形式となっていた。
- それに伴って京都線用車両も神宝線に乗り入れが可能となり、9000系以降の車両は神宝京各線・山陽電鉄・地下鉄堺筋線への乗り入れが全て可能になったので、阪急の車両は規格が統一されて、ロングシート車については形式も統一されていた。
- 直通特急は阪神梅田と阪急梅田双方に発着するようになっている。
- 阪急2000系のトップナンバーは能勢電鉄に移籍して今も健在。
- 能勢電鉄から引退後は正雀工場あたりで保存される。
- 山陽3000系鋼製車の塗色変更はなかった。
- あったとしても後に復刻塗装が施されていた。
- 現実には2019年7月から行われたが、それが早まっていた。
- 恐らく3000系登場50年となる2014年か、神戸高速鉄道開業50周年となる2018年に行われていた。
- 現実には2019年7月から行われたが、それが早まっていた。
- あったとしても後に復刻塗装が施されていた。
- 死者が出ていたら
- 史実では衝突した阪急特急が山陽の車両に気がついて減速していたため、幸いにも死者は出なかったそうです。
- GWで車内も混雑していたため、最悪福知山線脱線事故級の大事故となっていたかも。
- 110km/hで衝突していたらあり得る(現実には阪急の運転士が山陽の車両に気がついて50km/hに減速していた)。
- 六甲駅構内に慰霊碑が立てられていた。
- 阪急と山陽の相互直通は事故後直ちに中止されていた。
- 阪神梅田~山陽姫路の直通特急が同時に実現してたかどうかは微妙。
- 早くても1991年(明石駅高架化=山陽6連対応)
- 山陽車の阪急神戸三宮乗り入れも廃止されていた。
- 阪急の神戸市営地下鉄西神・山手線への乗り入れ計画及び神戸高速線阪急神戸三宮~高速神戸間の廃止計画が現実よりも早く進んでいたかも。
- 阪神梅田~山陽姫路の直通特急が同時に実現してたかどうかは微妙。
- 山陽電鉄は事故後暫く運転見合わせを命じられていた。
- お陰で並行して走る国鉄が混雑し、史実よりも早く全ての新快速が姫路まで乗り入れるようになったかも。
- その結果、史実より早く山陽電鉄から国鉄→JRへの旅客流出が起こり、その対策として阪神大震災までに阪神・山陽直通特急を運転開始していた。
- 場合によっては阪神の子会社になっていたか吸収合併されていた。
- 神鉄粟生線のように廃止論議が発生していた。
- 輸送量的にそれはありえない。
- 神鉄粟生線のように廃止論議が発生していた。
- 場合によっては阪神の子会社になっていたか吸収合併されていた。
- その結果、史実より早く山陽電鉄から国鉄→JRへの旅客流出が起こり、その対策として阪神大震災までに阪神・山陽直通特急を運転開始していた。
- お陰で並行して走る国鉄が混雑し、史実よりも早く全ての新快速が姫路まで乗り入れるようになったかも。
- 事故車両がアルミ車だったら
- 史実では阪急、山陽とも鋼製車でしたが、もし、これが山陽3000系や阪急7000系などのアルミ車だったら?
- 阪急側の車両は7000系が代替新製されていた。
- 山陽側の車両は史実通りに復旧に尽力させるが、困難を極めていた。
- 最悪、代替新製された可能性も。
- 山陽側の車両はアルミ車も鋼製車と同様の塗装をされていた。
- 現在の塗装ではなく、旧塗装に塗られていた。
- 事故車両のどちらかがアルミ車だったらの場合
- 上述と同じかな。
東北新幹線小学生死亡事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 東北新幹線ではいまだに死亡事故は起きていない。
特急やくも列車脱線事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 運転士が助かって乗客が死亡した事故は起きていない。
西明石駅寝台特急列車脱線事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 寝台特急紀伊の事故がなかったら起きなかった。
- 死者が出ていたら
- 現実にはホームに衝突したのは通路側だったため死者は出ませんでした。
- 衝突したのが寝台側だったら十分あり得た。
- 寝台列車衰退が現実より早まっていた。
- 青函トンネルが開通しても「北斗星」「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」は設定されず、当初から貨物主体となっていた。
- 東北・九州・北陸新幹線の全通が早まっていた。
- 2012年のツアーバス藤岡事故なみに凄惨な事故だったことは間違いない。
能登線急行能登路脱線事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 能登線・七尾線の和倉温泉-輪島間が電化していた。
- のと鉄道は誕生せず今もJRが運行。
- もちろん廃止されていない。奥能登への観光路線として特急も乗り入れていた。
- サンダーバードの輪島及び蛸島乗り入れもあったかも。
- もちろん廃止されていない。奥能登への観光路線として特急も乗り入れていた。
- 別の時代に起きていたら
- 2000年
- のと鉄道は現実以上に経営悪化。
- よって全線廃止になっていた可能性も。
- 12月に起きた場合、京福の事故も起きていたら北陸地方の地方鉄道の安全性が問われていた。
西武新宿線田無駅列車追突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 降雪が原因の事故は東急東横線の事故のイメージが強かった。
- 耐雪ブレーキは2000系に設置されなかった。
- 別の車両で起きていたら
- 401系・701系・801系
- 電制なしが仇となり史実より早く淘汰されていた。
- 新501系のみは耐雪ブレーキ化の対象になった。
余部鉄橋列車転落事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 余部鉄橋が架け替えられることはなかった。
- 「みやび」はJRに継承されていた。
- 「あすか」は登場しなかった。
- ブルーリボン賞orローレル賞を受賞していた。
- 阪急に「京とれいん雅洛」が登場すると車内に庭園があるという意味でこれと比較されていた。
- 営業列車だったら
- 現実には回送列車でした
- 犠牲者の数がは現実よりもかなり多くなっていただろう。
- 特に事故を起こした列車が現実と同じ「みやび」か特急列車だった場合、恐らく福知山線脱線事故と同等かそれ以上になっていた。
- あの高さから落ちていたら生存者の方が少ないと思われる。
- あの「カサンドラ・クロス」(1976年制作の欧州映画)での惨劇が現実のものとなっていた。欧米でも「カサンドラ・クロス」に酷似した列車事故として有名になっていた。
- 国鉄最後の大惨事として史実以上に語り継がれていた。
- 事故後直ちに余部鉄橋は架け替えられていた。
- 智頭急行も史実よりも早く開業していた。
- 旧鉄橋の一部が保存されることもなかった。
- 「事故を思い出す」ということで完全に解体されていた。
- 京都鉄道博物館に保存されることもなかった。
- むしろ乗客の重みで転落しなかったのかもしれない。
- 計画運休という考え方が昭和の頃から存在し、台風が接近すると予め電車を止めることになっていた。
- 台風ではないが、2005年の羽越本線「いなほ」脱線事故も事前に運休していたので起こらなかったかもしれない。
上海列車事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 海外への修学旅行が減少することはなかった。
- 1990年代に入ると公立学校でも海外に修学旅行に行く学校が出ていた。
- 尾形大作の曲「無錫旅情」はこの事故の後に放送自粛をすることはなかった。
- 高知学芸高校の知名度は現実ほどではない。
- 中国国鉄は日本の旧国鉄並みの体質を晒すことはなかった。
サロンエクスプレスアルカディア火災事故[編集 | ソースを編集]
- 火災がトンネル内で発生していたら
- 現実では新清水トンネルを通過した後に火災が発生しました。
- 犠牲者が出ていたかもしれない。
- Kenjiへの改造は無く、全車両がこの時に廃車になっていた。
- この事故以降清水トンネルなどでの気動車運行がタブーになっていた。
- どうしても運行したい場合はトンネル部分のみ電気機関車による牽引となっていた。
- 長大トンネルを含む区間は原則として電化されることになっていた。
- その結果、石勝線の特急「おおぞら」の火災事故はなかったかもしれない。
- 智頭急行も電化路線になっていた。
- 全長5キロ以上のトンネルを持つ路線は気動車は出禁になっていた。
- 1972年に発生した北陸トンネル火災事故と比較されていた。
- 起きていなかったら
- JR東日本は団体用ジョイフルトレインの電車化を推進させことはなかった。
- E655系やTRAIN SUITE 四季島は汎用性を高めるため、気動車として製造されたかも。
- JR東日本は特急形気動車を保有しないと言われ続けることもなかった。
- E655系やTRAIN SUITE 四季島は汎用性を高めるため、気動車として製造されたかも。
- DMH17エンジンの取り換えもなかった。
- Kenjiも登場していない。
- サロンエクスプレスアルカディアは2000年代半ば頃に廃車となっていた。
- キハ58系は2000年代までにJRから運用を撤退している。
- 上越線を走る夜行を含む優等列車は1990年以降、臨時を含めて全く走っていなくて団体列車しか走っていない。
- アルカディアがJR西または東海の車両だったら起きなかった(JR東のいい加減な気動車の管理体制と上沼垂区の検査手抜きが火災要因)。
中央線東中野駅列車追突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- ATS-Pの導入が遅れていた。
- 中央・総武緩行線に205系が投入されることはなかった。
- 103系1200番台や301系の塗色変更も209系500番台投入時に行われていた。
- モハ103-334は2005年まで稼働した。
- 故・山之内秀一郎氏はJR東日本の社長になっていた。
- カナリアイエローが忌み嫌われることはなかった。
- 103系のカナリア色が関西では2021年現在でも現役。
- 別の路線で起きていたら
- 阪和線
- 「天王寺の事故」は忘れたのかといわれた。
阪和線天王寺駅車止め追突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 阪和線は遅れと運転見合わせが多いというジンクスはなかった。
- 101系を改造編入した103系がもう少し長く運用された。
- 車止めを突破していたら
- 宿毛の事故どころでは済まなかった。
- ターミナル駅のため利用者を巻き添えにして死者が出ていた。
- JR西日本のクラッシャブルゾーンの導入が早まっていた。
- JR西の体質がこの時点で白日の元に晒されるため、その後経営改善が行われる。福知山線脱線事故もなかったかもしれない。
- 事故車両が〇〇だったら
- 現実では103系でした。
- 113系
- 阪和線の113系は関空開港の時点で全廃されていた。
- 現実より早く奈良の221系を借り受けて113系を全廃していた。
- 廃車にならなくても湘南色に塗装変更されていた。
- 165系
- 165系は少なくとも日根野からは1994年に全廃になっている。
- 別の駅で起きていたら
- 上野駅
- 「東中野の事故」はなかったかも。
飯田線正面衝突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 飯田線の乗務員のモラルが問われることはなかった。
1990年代[編集 | ソースを編集]
日高線踏切事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- JR北海道の車両が高運転台化されることはなかった。
- その結果深川のスーパーカムイ踏切事故で死者が多数出た可能性が。
- キハ160形は登場しなかった。
- 少数派車両ゆえにハイブリッド試験車に改造されることもなかった。
信楽高原鐵道列車衝突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 「世界陶芸祭」は予定通り最終日まで開催されていた。
- 途中の行き違い設備やJRとの連絡線は現在でも残っている。
- 運転本数が増便され、JRとの直通も残っていたかも。
- 場合によっては電化されていた。
- 運転本数が増便され、JRとの直通も残っていたかも。
- 信楽高原鐵道が経営難に陥ることはなかった。
- 2013年に豪雨で被災した際も早くに復旧できていた。
- 地方私鉄・第3セクターとJRの臨時直通列車の廃止・削減はされなかった。
- 常磐線の海水浴列車である「あじがうら」「おおあらい」は廃止されなかった。
- 「ビーチイン大洗ひたち」の運行も実現していた。
- 「サンダーバード」の宇奈月温泉・立山直通も2015年3月の北陸新幹線開業まで廃止されなかった。
- JR各社間またがりの列車の削減も史実ほど進んではいなかった。
- 九州からの下関以東への直通やJR西日本車両の大垣乗り入れが廃止されることもなかったかも。
- 大糸線も南小谷駅から現在でも気動車が電化路線に直通していたかも。
- リゾートビューふるさとが糸魚川まで乗り入れていたかもしれない。
- 東武東上線は秩父鉄道への直通特急「みつみね」「ながとろ」も廃止されなかった(こちらは秩父鉄道のATS導入絡みもあるが)。
- 東武は多くの線区で系統を分断することもなかった。
- それでも地下鉄箱崎線と西鉄宮地岳線の相互直通は実現しなかった。
- JR西日本からあいの風とやま鉄道に入る臨時列車が運行されていた。
- 一部のサンダーバードは北陸新幹線金沢開通後も富山への乗り入れが残っていた。
- 阪急と山陽電鉄の相互乗り入れも中止されなかったかもしれない。
- 常磐線の海水浴列車である「あじがうら」「おおあらい」は廃止されなかった。
- 富士重工LE-carシリーズが生産中止になることもLE-DCが標準化されることもなかった。
- 史実では、当時の本場所で負けが込んで「体力の限界、気力も無くなった」と言って事故当日の夜に引退した大横綱・千代の富士がどうなっていたか?
- むしろマスコミの取り上げ方が大きくなっていたと思われる。
- 信楽高原鐡道所属車両の塗色変更はなかった。
- ICカードが使えるようになっていたかもしれない。
- 信楽町が水口町や甲賀町などと合併することもなかったかもしれない。
- 信楽から石山方面に向かう帝産バスは史実よりも早く廃止されていた。
- 直後に火災が発生していたら
- 死者が西成線事故に匹敵していた可能性がある。
- それでも信楽線が電化されることはあるまい。
関東鉄道常総線列車衝突事故[編集 | ソースを編集]
- なかったら
- 2000年代以降の茨城県内のローカル私鉄の廃止はなかった。
- おそらく湊線のように3セク化された可能性も。
- 現実のキハ2100以降の自社発注車は登場しなかったか遅れた。
成田線大菅踏切事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 113系などが前面強化されず、「鉄仮面」と呼ばれることはなかった。
- 「踏切事故撲滅キャンペーンCM」は製作されず、怖いCMとして話題になることも無かった。
- E217系以降のJR東日本の近郊型電車に衝撃吸収構造が採用されることはなかった。若しくは遅れていた。
- 別の地域で起きていたら
- 近畿圏
- JR西日本の労組が動労千葉並みの力に。
- 別の時代に起きていたら
- 全般
- 木製車の場合その淘汰が早まった。
- 「八高線の事故」がなかったらこうなった可能性も。
- 2005年
- 4月25日前後の場合「福知山線脱線事故」が「踏切事故」と思われた。
島原鉄道列車正面衝突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- キハ2500形の導入はなかったか遅れていた。
- 取手事故の二の舞になることはなかった。
- 島原鉄道の経営が悪化することはなかった。
- 島原外港-加津佐間の廃止もなかった。
- 種村直樹は島原鉄道への救援カンパ呼び掛けを打ち切ることなく、関係が悪化することもなかった。
- 信楽の場合と同様、ICカードが使えるようになっていた。
日豊本線竜ヶ水駅土石流事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 竜ヶ水駅は悪い意味で有名になっていない。
ニュートラム暴走衝突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 100系(初代の車両)の置き換えが数年遅れていた。
- それでも鋼製車体なので塩害の影響もあることから遅くとも20世紀中には置き換えられていただろう。
- 大阪市バスに「ニュートラム代行バス」の方向幕が用意されることはなかった。
- 車止めを突破して地上に落ちていたら
- 現実には出なかった死者が確実に出ていた。
- 最悪、車止めの真下の道路を走る車を直撃していた。
- 新交通システムにおける無人運転は現実よりも普及しなかった。
- 100系車両は1両も保存されることなく全車解体されていた。
- OTS線の利用客は現実ほど低迷しなかった。
- 大阪市交通局への運営移管はなかったか現実よりも遅れた。
- 大阪市交通局の赤字はひどくなり史実より早く民営化されている。
- それはむしろ起きていなかった場合じゃね?
- 大阪市交通局への運営移管はなかったか現実よりも遅れた。
- ニュートラムは廃止になり、バス転換された。
- その後同じルートでリニア地下鉄が計画され、住之江公園以東も長居公園通の地下を喜連瓜破まで延伸されていた。
- つまりシーサイドライン暴走事故の後シーサイドラインは廃止されてたか?
- むしろそれ以後有人運転になっていた。
- 回送列車だったら
- 無人運転なので、恐らくけが人はいなかった。
- 「もし営業列車だったら大変な惨事になっていただろう」とマスコミがコメントしていただろう。
- 人的被害はなかったものの、一応事故は起こったことになるので、安全対策の強化が求められるようになっていた。
- 史実と同様、事故後しばらくは運転席に係員を添乗させていた。
- 但し運行再開は現実よりも早かっただろう。
銚子電鉄列車正面衝突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 銚子電鉄の経営が悪化することはなかった。
- 映画「電車を止めるな!」は制作されなかった。
- 「澪つくし号」は現在でも運行していた。
- その後の減便もなかった。
- ICカードが使えるようになっていた。ぬれせんべいとたい焼きの購入にもICカードでの購入が可能になっていた。
三島駅乗客転落事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 現在も運行者責任での新幹線死亡事故は起きていない。
- 0系の廃車は史実より早かった。
- 全国各地で駆け込み乗車に起因するトラブルが社会問題になっていた。
- 須田寛氏はJR東海のCEOになっていた。
- その結果、JR東海はゲームや全面展望映像の商品化を断ったりイベントをほとんどしなくなることもなかった。
- JR東海ファンはもっと多くなっていた。東海地方の鉄道イベントはすべて自由参加になっていた。
- JR東海はイベントが一番多いといわれていた。あと観光列車もしている。JR東海の葛西さんの勢力は強くならなかった。
- JR東海ファンはもっと多くなっていた。東海地方の鉄道イベントはすべて自由参加になっていた。
- セキュリティに対し過敏になることもなかった。テレビの取材を受けてもぼかしだらけになることはなかった。
- JR東海の在来線特急用グリーン車は383系以降の車両も3列のままであった。
- その結果、JR東海はゲームや全面展望映像の商品化を断ったりイベントをほとんどしなくなることもなかった。
- 須田寛氏はJR東海のCEOになっていた。
京浜急行電鉄脱線事故(1997年)[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 土砂崩れでの事故は2012年が最初だった。
中央本線大月駅列車衝突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- あずさが旧あさま用の189系による代走はなかった。
- 「あさまずさ」と呼ばれることもなかった。
- E351系がもっと量産されていたかも。
- 引退も現実よりも遅かったかもしれない。
- もしくはスーパーあずさ引退後、宇都宮線に転属してスワローあかぎの宇都宮線版「スワローとちぎ」になっていた。
- 引退も現実よりも遅かったかもしれない。
ICE脱線事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 台湾高速鉄道はフランスのTGVとドイツのICEの技術が採用され、日本の新幹線の輸出はなかった。
- 「台湾新幹線」と呼ばれることはない。
- 日本の新幹線はヨーロッパに遅れをとっていると言われていた。
相模鉄道相模大塚駅脱線事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 3000系は10000系誕生まで使い続けられていた。
- さよなら運転も行われていた。
- もちろん湘南台入線も実現していた。