「バカ人物志/日本」の版間の差分

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>人造人間だみゃ~ん
>面毒斎
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#*道真が九州に行ったまま死んでしまったりしたので、その後災厄があると、うしろめたい気分だった連中が、道真の怨霊のせいにしたのだろうが……
#*道真が九州に行ったまま死んでしまったりしたので、その後災厄があると、うしろめたい気分だった連中が、道真の怨霊のせいにしたのだろうが……
#*鎮魂のために、北野天満宮が建立される。
#*鎮魂のために、北野天満宮が建立される。
===藤原惺窩===
#日本初の「プロの学者」。
#*朝廷や大名家に仕官することなく、生涯民間に居て著述と後進育成に専念した。仕官もせず、僧になることもなかった学者は彼以前には見当たらない。
#**家康に仕えた林羅山は彼の弟子。
#現代の東大教授などに時々見られる、「脳内お花畑」な学者の元祖でもある。
#*[[李氏朝鮮|朝鮮]]の儒者・姜沆に向かって、<BR>「日本は戦に強いヤツばかりが威張っているんだお。徳のある者が上に立っている[[明|明国]]やあんたの国がめっさうらやましいお。わしゃこんな国さっさと出て行きたいお」と愚痴りまくった。
#**もちろん、明国の皇帝(当時は万暦帝)や朝鮮国王(当時は宣祖)にホントに徳があるかどうかをちゃんと検証した形跡はない。もっぱら古い書物だけからの知識。そのあたりが現代のサヨク学者とそっくりだったりする。


===平賀源内===
===平賀源内===

2010年9月5日 (日) 23:08時点における版

  • 大正期までの人物ということにいたします。

独立項目

貴族伝

藤原道長

  1. 『御堂関白記』という歌集があるから、関白だったと思われているが、実は関白にはなってない。
    • 関白になると重役会議に出席できず、天皇と共に議決内容に判子を押す側に回ってしまうため。これを嫌った道長は、左大臣と関白に準じる役職に就き、会議をリードする政治手法を好んだ。
  2. 独裁者でもない。
    • むしろ根回しの天才。あの手この手で人をたらしこみ、自分の思い通りになるよう誘導して行くのがうまかった。
    • 簡略な内容が多い御堂関白記でも、会議の出欠状況や誰がどんな進物を持ってきたかは詳細に記録している。常にこうしたチェックを怠らずに配慮を欠かさなかった事が成功の秘訣だろう。
  3. 五男だったのに兄4人が立て続けに病死したおかげでトップに躍り出た幸運な人。
  4. 「栄花物語」という一代記が書かれた。
  5. 娘たちを次々に天皇の后にして藤原氏の栄華を握った。後の藤原氏や平家による権力掌握法のはしり。
    • つーか、藤原氏はずっと以前からそういうやり方をしてたんだが、道長の娘が実にうまいタイミングで皇子を産んでくれたので、代表例として特に目立つ。
  6. 「男の価値は妻で決まる」と思っていた。いかにも後宮政治の権化らしい台詞。
    • 自身の妻も高貴な血筋たる源氏から迎えている。親や兄が中級貴族から迎えているのに比べて対照的で、こうしたことが道長の娘の価値を高めたのだろう。

藤原通憲(信西)

  1. 「保元の乱」で後白河天皇側の総参謀長を務めた秀才。
    • 貴族権力争いに武力を導入するという「禁じ手」を使って一挙に解決する。後に自分もその武力に滅ぼされるのは皮肉と言うべきか、当然と言うべきか・・・。
  2. そのすさまじい洞察力で、平氏や源氏などの武家が今後おそるべき存在になることを見通していたらしい。
    • 保元の乱の後始末で、崇徳上皇側についた源為義の処刑を子の義朝に、同じく平忠正の処刑を甥の清盛に命じた。
      • 平氏・源氏の中に内部抗争のタネを仕込んでおいたのだという噂も。
  3. 平安時代を通してほぼ廃止されていた死刑を復活。
    • その峻厳さは、むしろ民衆から支持されたそうな。
  4. 確乎とした理念に基づいて政治をおこなったようだが、それゆえにだんだん独裁的になってゆき、同族の藤原信頼に追い落とされる。
    • この反独裁クーデターが「平治の乱」。
    • やろうとしたことに比して、後白河の寵愛という極めて脆弱な権力基盤に依ってのが敗因。

北畠親房

  1. 新田さんでも勝てなかった尊氏に勝利。鎌倉から追い払う。
  2. 天皇親政を目指していた後醍醐天皇に対し、彼は公家政治を目指していたとか。同床異夢。
  3. お手紙大好き。内容は「お前ら武士は南朝に味方して当然だろうが」。
    • でもそのお手紙が日本の後世の歴史学に大きな影響を与えることになるとは、本人も思いもよらなかっただろう。

山科言継

  1. 戦国時代の公家。「信長の野望」にも出てくるので、この時代の公家の中では少しは有名か?
  2. この人の日記『言継卿記』は戦国時代の重要史料。
  3. 名前は「ことつぐ」ではなく「ときつぐ」。
    • 「いいつぐ」って読んじまった・・・。
  4. 貧乏だった当時の朝廷のために諸大名から金を集めた。
    • 金集めの基本的な方法は、大名のところに行く→飲み比べをして酔い潰す→言うことを聞かせる。
    • 本人も相当な酒好き。行った先で禁酒令が出ていたときは、「京に帰るまで酒は無しか。あーあ」と日記に書き残している。
  5. 都の貴人としての教養があり、酒に強く、なにより朝廷のために一生懸命だったので、諸大名もかなり好意的に接していた。

菊亭晴季

  1. 秀吉のサポーター。
    • 足利義昭の養子になろうとして断られ、落ち込んでいた秀吉のもとへ、関白就任の話を持ってくる。
    • 「豊臣」姓の創設の時にも晴季が動いたらしい。
  2. 秀次が関白になると、先走って秀次に近づく。
    • 娘を嫁がせてしまう。おかげで秀次失脚に伴って晴季も失脚。

僧侶伝

久米仙人

  1. 日本初の墜落事故者。
    • 修行して仙術でお空を飛べるようになるも、川で洗濯している女性の美白の足に萌えてしまい、墜落。
      • アフガン航空相撲?
    • でもその後、再び飛べるようになり、高市に遷都の際、大量の材料を運んだと言うことで天皇に免田(年貢免除の田)をもらって久米寺を建てたと伝えられる。

道鏡

  1. 孝謙/称徳天皇に寵愛された僧。
    • 巨根伝説は濡れ衣のようだ。
      • 「道鏡座れば膝三つ」
    • 孝謙上皇(淳仁天皇に譲位したあと)が病気の時に祈祷にあたり、以後深く信頼された。
    • 学識豊かな高僧だったので、政治顧問として相談を受けていたと思われる。
  2. 称徳天皇から皇位を譲られかけた。
    • 危ない危ない。
    • 本人にさほどの権勢欲は無かったようで、称徳天皇の没後はひたすらにその菩提を弔い続け、巻き返しを図ったりすることは無かった。

最澄

  1. 日本での天台宗の祖。比叡山に寺を造る。
    • 伝教大師ともいう。わりとそのまんまな大師号。
  2. に短期留学し、厖大な書物を購入して帰ってきたが、それらを整理する時間がとれないほど忙しい人だった。
    • 桓武天皇に寵愛されてちょくちょく呼ばれるし、奈良の旧仏教からは論争を挑まれるし、盟友と思っていた空海との間はぎくしゃくするし、常人ならテンパりまくること必定。
    • おかげで多くの仏典が未整理で残り、それがかえって後継者たちの創意工夫を育てた。法然も親鸞も道元も日蓮も、一度は叡山に僧籍を置いて勉強している。
  3. 論争最長!
  4. 「比叡山に奈良東大寺と同じ受戒(僧侶の資格認定)の権利をください。格式も東大寺と同じで」という無茶をこく。国家公務員の任命権を民間企業にくれと言うようなもの。
    • 「くれなきゃ怨霊になって祟ります」と言い残して死去。結局祟りを恐れて要求を認めることになる。

空海

  1. 真言宗の祖。高野山に寺を造る。
    • 弘法大師の名のほうがよく知られている。大師号はいろんな坊さんに与えられているが、単に「お大師さん」といえば空海のこと。
  2. ただの僧侶ではなく、漢詩や書道はでも驚かれるほどの腕前だし、戯曲は書くし、建築や水利にも詳しいし、万能の巨人と言っても言い過ぎではない。
    • 香川の満濃池の堤防は空海が造ったといわれている。
  3. に留学し、密教を学ぶ。
    • 20年分の学費を持って行ったが、それをわずか2年で全部使い果たして、しかも密教の奥義まで授けられて帰ってきた。
      • しかもその2年のうち、密教の伝承者である恵果のもとへは、1年近く行っていない。だから恵果のもとで修行したのは1年ちょっと。
        • 長安の社交界で空海の名が知られるようになり、密教を学びに来たことも公言していたので、むしろ恵果のほうが「あの日本の僧はまだウチに来ないのか」と気にしていたとか。
        • セルフプロデュースの巧みな空海としては、「恵果に待たれる形」を作ったのも意図的な演出だったろう。
    • 実は日本に居るうちにほとんど奥義に達しており、最終的な口伝の部分だけ長安で恵果に教われば充分だったらしい。
      • とはいえ、何十年も自分の下で修行している弟子たちをさしおいて、わずかな期間だけ身を寄せた異国の青年にすべてを託してしまった恵果の決断には驚かされる。
  4. 最澄と違って、奈良仏教とはケンカしなかった。
    • むしろ奈良仏教側が、最澄との論戦のために空海に頼った感じ。
    • 最澄とは最初良好な関係だったが、やがて訣別。密教に対する考え方の相違が深刻なものになったらしい。
      • 空海のもとに出張してきていた最澄の弟子(泰範)が、空海に私淑してしまって帰らなくなったりしたこともあった。
      • 密教を極めたければ、自分の弟子になるのが筋だと最澄に通告したのがきっかけ。言っていること自体は空海の方が正論なのだが、そんなことは最澄の立場上出来るわけがないことは空海も承知していたはずであり、底意地の悪さを感じるのは自分だけだろうか。
  5. 真言宗の中では、まだ生きていることになっている。
    • 金剛峯寺のお堂にこもって瞑想しているとか。
    • 高野山では、空海に食膳を運ぶ儀式が毎朝行われている。
  6. 現代風に一言で言うと宗教起業家。彼の興した事業の大半が今も続いていることを思えば、その卓越っぷりが理解できる。
  7. 唐では「五筆和尚」というあだ名があった。
    • 両手・両足・口に筆をとって字が書けたから「五筆」……と言われているが、さすがに嘘だろう。
    • 篆・隷・楷・行・草の五書体を完璧にマスターしていたからだろうという説が妥当。
      • 雑体書と呼ばれる呪術めいた表現を駆使した作品もある。
        • 人魂や一反木綿のような奇っ怪な文字を見ると、ほんとにこの人一般に言われているような聖人かと疑いたくなる。
    • 日本では最高の能書家とされる。友人だった嵯峨天皇・橘逸勢と共に「日本三筆」と呼ばれる。
      • 「弘法筆を選ばず」「弘法も筆の誤り」とコトワザにもなっている。
        • 都の門に掲げる額に点を1つ書き忘れるも、筆を額に投げつけて点を打つ。「弘法大師流石だな」と大ウケ。
  8. 何か食うかい?

親鸞

  1. 浄土真宗の祖。
  2. 坊さんが肉食・妻帯できるようになったのはこの人のおかげ。
    • もっとも親鸞自身は、自分は僧侶ではなく、半僧半俗であると称していた。その後の肉食妻帯している坊さんたちは、どういう理屈をつけているのだろう。
  3. プロテスタントの考え方に非常に近い。
    • 人間それぞれの善悪や営みに関係なく、阿弥陀如来はすべての人を救おうとしているというのが親鸞の思想。
      • 師匠の法然に既にそうした発想があり、親鸞はそれを徹底化させた。法然をルターとすると、親鸞はカルヴァンにあたるだろう。
    • プロテスタントでは、人間が自分のケチな考えで善行をしたり悪行をしたりしても、神の最後の審判には影響がないと考える。
    • 「ビジネス」とか「近代社会」というのは、こういう考え方の上にしか成立しないという論もある。
  4. 寺は持たない主義だったが、8代目の孫・蓮如が本願寺を造り、戦国時代には一大勢力となる。
  5. 「善人が往生できるなら悪人ならなおさら」なんて逆説的なことを言ったばっかりに、「んじゃ悪いことした方がいいじゃん」とか言い訳するDQNに悩まされる。

栄西

  1. 日本の臨済宗の祖。
  2. 臨済宗は上級武士や公家に流行し、室町時代には五山文化などを生み出したが、難解すぎるせいか庶民への普及はイマイチ。
    • いま見ても、いかにも知識人向けの宗派だという気がする。
  3. 一般には、お茶をもたらした人として知られる。
    • 栄西がはじめて持ってきたわけでもなかろうが、お茶の効能を記した「喫茶養生記」という本を書いたので、有名になった。
      • 今の健康本のハシリ。
    • 将軍が病気の際にもお茶を薬として献上したそうだ。

道元

  1. 日本の曹洞宗の祖。
  2. 同じ禅宗でも、先発の臨済宗と違い、下級武士や庶民に受け入れられた。
    • 「清規」という形で、基本的なエチケットや立ち居振る舞いの訓練が含まれていたからかも。
    • 不立文字の考え方がより徹底していて、読み書きができない人々でも修行ができたのも大きかったろう。
  3. 騒動宗ではない。

日蓮

  1. 法華宗の祖。
    • 日蓮宗とも言う。考えてみれば日本の仏教諸派で、創始者の名前が冠されているのはこれだけかも(新興宗教は別ですが)。
  2. 日本人には珍しく非妥協的な男だった。
    • 「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」などと他宗を誹謗中傷。あんまり好き勝手言っているので鎌倉幕府に睨まれ、流罪となる。
      • 本当は死罪になるところ落雷があって死刑を執行できず、罪一等を減ぜられたといういわゆる「龍ノ口の法難」の話は少々眉唾。
      • これを「宗教弾圧」と言う人が居るが、疑わしい。たぶん誹謗中傷を咎められただけの話。
  3. 蒙古襲来を予言。
    • ぶっちゃけ論拠は牽強付会で元寇以外は外れまくりなのだが、その辺はスルー。
  4. 柄に数珠を巻いたことから数珠丸という名がある、立派な日本刀を所持。現在、重要文化財で天下五剣のひとつ。
    • 僧侶が日本刀を持つのは違和感があるが、絵巻物でも描かれている例があり、当時はそれほど奇異なことではなかったらしい。

文観

  1. 南朝の黒幕……と言って悪ければスポンサー。
    • 後醍醐天皇はよく見ると文観の人脈に頼り切っている。楠木正成も名和長年も児嶋高徳も、実は文観に連なる寺社系の人物らしい。
  2. 文殊菩薩と観音菩薩を合わせた、大それた僧名を名乗っている。
    • 「殊音」という異名もあるので、間違いなく両菩薩からとった名前。

一休

  1. とんちで有名な臨済宗の坊さん。
    • 僧名は「宗純」。「一休」は号である。
    • アニメの「一休さん」では小坊主だったが、「一休」は成人してからの号で、小坊主時代の名前は「周建」だったらしい。
  2. 後小松天皇の皇子であったという噂。
    • 母・伊予の局が南朝遺臣の娘だったので、警戒されて僧籍に入れられたと言われる。
    • ただの貴種流離の作り話だと断じるセンセイも居るが、後花園天皇の即位に一休の推輓があったという話もあるから、皇室と全く無関係ではなかっただろう。
  3. 臨済宗だが公然と肉食妻帯。
    • こそこそと肉食妻帯している他の坊主どもを批判していた。
    • でも男色も好きだった。
    • これだけならただの生臭坊主だが、こうした人間臭さと宗教的境地が高いレベルで一体化しているのが一休の凄さだと思う。
      • それまで相反すると考えられていた世俗性と宗教性が両立することを、自身の生き方そのもので示す。この事が中世までの宗教に縛られていた人の心を開放し、近世への道を切り開く切っ掛けになった。
  4. 政所代の蜷川親当とは親友。
    • アニメの新右衛門さんのモデル。本当は一休のほうが年上らしい。

蓮如

  1. 本願寺の開祖。親鸞の8世の孫。
  2. 布教にあたっては、なかなかの戦略家ぶりを発揮。
    • 村々の地主・庄屋クラスに的を絞って布教し、彼らの下の小作人や村人を根こそぎ帰依させた。
    • 先に村人たちを帰服させてしまうので、その村にある他宗の寺が浮き上がってしまう。そこで住職を説き、寺ごと改宗させてしまうという荒技も。
  3. メールマガジンの発明者でもある。
    • 各地の信者に、講話を綴った手紙を定期的に出しまくった。まさにメルマガ。
  4. 坊さんなので一夫一妻だが、子供が二十数人いる子沢山。側室がいた人を除けばきっと日本記録保持者。

良寛

  1. 子供たちに大人気だったそうだが、いまいち何をした人なのかわからない。
  2. 書家としても有名。地元の旧家にはこの人作の掛軸があることが多いとか。

学者伝

菅原道真

  1. 学問の神様になった。
    • 「学問をしても成功しなかった」実例のような気がするので、受験生が詣るのは本当のところいかがなものか……
    • ともあれ学識のほどは凄かった。
      • 11歳の時に、平仄の完全な漢詩を作って周囲を驚かせた。
      • 渤海国の使者の接待をして、その詩才と語学力を賞賛された。
  2. 宇多天皇と藤原基経の間の紛争を首尾良くおさめて、宇多天皇に絶大な信頼を受ける。
    • 基経が死ぬと、その子・時平とリンクさせるように道真を取り立てる。
      • 藤原氏との縁が薄かった宇多天皇としては、藤原氏に対抗できる腹心の臣下が欲しかったのだろう。
    • 右大臣まで昇りつめる。非門閥出身者としては稀有なこと。
  3. 政治家としては、大したことはやってない。
    • 目立つのは遣唐使の廃止くらい。
    • 何かやろうとしても、まわりが藤原氏ばかりなので、ほとんど動きがとれなかったものと思われる。
      • 藤原氏の内部の対立をうまく利用すれば、かなりのことができたかも……と考えられるが、根っからの学者にそんな政治的策謀を期待しても無理である。
    • 最近は政治家としても有能だったとする研究もある。
      • 家は代々官僚養成学校を営んでおり、現代で言えば東大法学部の学長のような立場。その人脈を活用し、政治改革を行おうとした。
      • 道真の時代に、税を人から土地にかける方法に切り替えはじめる。人とは違い、移動しない土地から徴収する事により安定した税収を得るだけでなく、後の封建体制へつながる極めて重要な改革と評価出来る。
  4. 醍醐天皇の廃立を図ったというかどで九州へ左遷され、そこで死ぬ。
    • 左遷は左遷だが、言われるほど悲惨な「流刑」であったかどうか疑問。
      • 道真が就かされた「大宰権帥」は九州総督代理(上役の「大宰帥」は遙任職なので現地には居ない)というべき役職で、やりようによっては莫大な財産の築ける、ものすごいうまみのある地位である。
    • 天皇廃立という「大逆罪」への刑としてはヌルすぎる。どうも全体が八百長臭い。
      • 「時平たちが何しろうざいんだよ。あんた、しばらく大宰府に行って風向きを見てたら?」と宇多上皇あたりに薦められた可能性もある。
  5. 死後、悪霊となって京都を恐怖のどん底に叩き込む。
    • 道真が九州に行ったまま死んでしまったりしたので、その後災厄があると、うしろめたい気分だった連中が、道真の怨霊のせいにしたのだろうが……
    • 鎮魂のために、北野天満宮が建立される。

藤原惺窩

  1. 日本初の「プロの学者」。
    • 朝廷や大名家に仕官することなく、生涯民間に居て著述と後進育成に専念した。仕官もせず、僧になることもなかった学者は彼以前には見当たらない。
      • 家康に仕えた林羅山は彼の弟子。
  2. 現代の東大教授などに時々見られる、「脳内お花畑」な学者の元祖でもある。
    • 朝鮮の儒者・姜沆に向かって、
      「日本は戦に強いヤツばかりが威張っているんだお。徳のある者が上に立っている明国やあんたの国がめっさうらやましいお。わしゃこんな国さっさと出て行きたいお」と愚痴りまくった。
      • もちろん、明国の皇帝(当時は万暦帝)や朝鮮国王(当時は宣祖)にホントに徳があるかどうかをちゃんと検証した形跡はない。もっぱら古い書物だけからの知識。そのあたりが現代のサヨク学者とそっくりだったりする。

平賀源内

  1. 本業は本草学者だが、発明はするわ、ユーモア小説や浄瑠璃台本は書くわ、油絵は描くわ、陶芸はするわ、イベント屋はするわ、鉱山開発はするわ、しかもそのどれもが結構な水準に達していたスーパーマルチ人間。一名「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」。
    • ただ、どれも一流半歩手前な感がある。どれか一つに専念していたら、超一流になれたのに・・・。
  2. 四国・高松藩の貧乏藩士の子として生まれる。
    • 高松では郷土の偉人として顕彰されているが、その高松の殿様(松平頼恭)に源内がパワハラを受けていたことには誰も触れない。
      • うんざりして致仕を申し出ると、他家仕官お構いにされ、どこまでも嫌がらせを受ける。おかげで一生浪人暮らし。
      • まあ、殿様としては、藩の予算で長崎だの大坂だのに留学させてやったのに、その成果をちっとも藩に還元しようとせず、江戸で田沼意次に見出されるやそっちに鞍替えしようとした源内に腹を立てるのも無理はなかったのだが。
      • 殿様自身もちょっとした本草学者だったので、余計に話がややこしくなったらしい。
  3. いろいろ発明。
    • エレキテル(起電機)を発明。当時なんの役に立ったのかは微妙。
      • 10代将軍徳川家治のオネショの治療に使われたという話も。効果あるのか?
      • 発明と言うより、オランダ製の機械を修理しただけという説もある。
    • 火浣布を発明。アスベストのことだが、これを繊維状にして織ったのがオリジナル。
    • 竹とんぼを発明。史上初のプロペラらしい。
  4. 作家としても一流。
    • 浄瑠璃で今でも有名なのは「神霊矢口渡」。他にも沢山書いている。
    • ユーモア小説「風流志道軒傳」は「ガリバー旅行記」の翻案らしい。
    • 「放屁論」という爆笑エッセイもある。
    • もちろん、学者としてちゃんとした論文も書いている。「物類品隲」など。
  5. 画家としては一流かどうか微妙だが、とにかく西洋画の技法は完全に身につけていた。
    • 「西洋婦人図」などが有名。
    • 秋田の洋画家・小田野直武は源内から西洋画を習った。
    • 浮世絵の進歩にも一役買っているらしい。たぶん絵の具の改良を試みたと思われる。
  6. 「平賀焼」「水無焼」などの陶芸品も作っている。
    • 最近は「源内焼」と呼ばれることが多い。デザインを一言で言えば「文人趣味を取り入れた黄瀬戸・織部焼」かな。
      • どちらも華南三彩を元ネタにしているため、色合いが似ている。
  7. イベント企画力も凄腕。
    • 三井をスポンサーにして博覧会を開催。
      • 海外からの輸入品を国産品でまかない、外貨の流出を防ごうという意図があったという。
    • 「土用の丑の日にウナギを食べる」というのは源内のキャッチコピーで普及した習俗。
      • 「夏場の暑い時には、ウナギみたいな脂っこいものが全然売れないんです。源内先生なんとかなりませんか」とウナギ屋に泣きつかれて考案したらしい。
  8. 鉱山開発のほうはあまりうまく行かなかったが、秋田藩に招かれて阿仁鉱山の再生に力を尽くしている。
    • 田沼意次をスポンサーに、北海道あたりでもっと大がかりな鉱山開発をもくろんでいたという話も。
  9. 最後は殺人罪で逮捕され、獄中で死ぬ。
    • 誰を殺したのか、なぜ殺したのかもはっきりしていない。殺す気はなかったのに間違えて殺したとも、誤解がもとで殺したとも、乱心して殺したとも言われる。
    • 杉田玄白が墓碑銘を書いた。「ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」
  10. 出張なんでも鑑定団でおなじみ。
  11. 1971年のNHKテレビの連続時代劇「天下御免」の最終回では、気球に乗って、フランス革命下のフランスに脱出したことになっている。

南方熊楠

  1. 粘菌の研究で有名。
  2. 民俗学の研究でも有名。
  3. 寺社林の保護の観点から神社の合祀に反対した。日本における環境保護の先駆けみたいな人。
  4. いつでもどこでも反吐をはけたらしい。反芻動物。
    • で、その反吐に繁殖した菌を観察していたらしい。
  5. 大ボラふき、大風呂敷を広げる人。
    • 曰く、外国語はその言語で書かれた本と日本語で書かれた本を一冊読み比べれば習得できる、らしい。
  6. オヤジの遺産の相続で実弟と大げんか。弟にすればこっちは真面目に商売しているのに、仕事もせんと意味のわからん好き勝手ばっかしてる兄貴に金はやれんかったんかな。

商人伝

ルソン助左衛門

  1. ルソンから茶壺を輸入して財をなす。
    • が、実はその壺は現地では糞壺として使われていたものだったとか。
      • で、それが豊臣秀吉にバレたのか、嫌われて没落。
  2. 本名は納屋助左衛門。
  3. 大河ドラマの主人公になったこともある。

鴻池新六

  1. 尼子十勇士の筆頭・山中鹿介の遺児。
    • 上月城が落ちて父が囚われ、のちに毛利に斬られたのち、武士として生きるのをやめ、商人に。
  2. 清酒を発明した。
    • うっかり酒樽の中に灰を落としてしまったところ、酒の濁りがすっきり取れて、見事な無色透明になっていたという。
    • つまり、信長の時代くらいまでの酒盛りシーンで透明な酒が出てきたら、そのドラマは考証不足ということになります。
      • 半透明くらいな「澄んだ酒」はそれ以前にもあったようだが。
  3. 鴻池財閥の基礎を築く。つまり三菱東京UFJ銀行の祖。

茶屋四郎次郎

  1. 徳川家康の御用商人。
  2. 活躍が目立つのは伊賀越えから。
    • 家康に本能寺の変をいち早く知らせた。
    • 危険な伊賀越えの道を、カネをばらまくことで安全に通過。以後家康から絶大な信頼を得る。
  3. 3代にわたって家康に寵愛されるが、3代目四郎次郎が奨めたタイの天ぷらに当たって家康死亡。
    • その責任を問われたわけではなかったが、秀忠以降の将軍からはさほど優遇もされず、そのうちなんとなく没落してしまった。

紀伊国屋文左衛門

  1. 通称「紀文」。
    • でもかまぼこ屋の紀文とは直接の関係はない。
    • 書店チェーンの紀伊国屋とも関係はない。
    • 「紀文お大尽」とかとも。
  2. ミカンを江戸に運んで大儲け。
    • 紀州で大豊作だったので上方では大暴落、一方江戸では「ふいご祭」にミカンが必要なのに荒天で船が着かず大高騰。文左衛門は嵐の中頑張って船を出し、ただ同然の上方からミカンを輸送し、その利ざやで一躍お大尽となる。
    • その後、鮭を上方まで運んでこれまた大儲け。
  3. 調子に乗って貨幣鋳造まで請け負うが、粗悪品を作って信用を落とし、没落。
    • まあ実際は、元禄時代の右肩上がり経済が、一転してマイナス成長になってしまったため、それまでの拡大戦略が頓挫し、方針転換に対応しきれなかったのが没落の原因と思われる。

芸術家伝

清少納言

  1. 王朝の林真理子。
  2. 森羅万象を自分の美意識だけでズバズバ斬ってゆくさまはなかなか爽快。
  3. 中宮・定子に仕えた。
    • むしろ定子が清少納言の才能を引き出したと言えるかもしれない。なかなか教養のあるすぐれた女性だった模様。
  4. 後世の人に「せいしょう・なごん」と、変なとこで切られて呼ばれるのを、もどかしく思ってる。

紫式部

  1. 自分の小説のヒロインの名前で呼ばれるようになり、本名は忘れ去られた人。
    • 小説家としては本望というべきか、残念というべきか……
      • 夏目漱石を「猫文学士」と呼ぶようなものだからなあ。
  2. 近年「源氏物語の作者は男だった」という説が唱えられているが、今のところは珍説の域を出ていない。
  3. 近眼だったらしい。
    • 文章の中に、風景の描写が著しく少ないのでそう推定できるとか。
  4. 源氏物語ばかり有名だが、「紫式部日記」もなかなか面白いぞ。
    • 同時代の有名人についていろいろ書いてある。
      • 清少納言はボロクソ。赤染衛門はベタ褒め。和泉式部は辛口ながら認めている模様。
        • そのせいで紫式部は結構性悪だったんじゃないかと言われることがある。
      • 藤原道長に口説かれたなんて話も。
        • ただしその後この話が発展した形跡は無いので、道長が本気だったとは思えない。
        • 逆に道長は本気だったけど紫式部は本気じゃなく、結果的に道長はフラれた→道長がウザかったから日記には書かなかったって可能性は無いかな?

鳥羽僧正(覚猷)

  1. 日本最古のマンガ家。
    • 現代のマンガ家やアニメ関係者は、みなこの人に感謝すべき。
      • マンガが世間から俗悪視されるたびに、「いや日本には『鳥獣戯画』というマンガが古来からあってね……」と反論する根拠になっていた。
        • 今の若い人には「マンガが俗悪視される」こと自体、想像できないかもなあ……(オッサンの繰り言)。
        • ぶっちゃけ直接今の漫画に繋がっているわけではないのだが、歴史上こういう物があったというのはやはり特筆すべき事だろう。
    • 将来「マンガの日」とかできたら、この人の命日(10月27日)がふさわしいと思う。
  2. 「鳥獣戯画」が有名だが、「放屁合戦」「陽物くらべ」などの爆笑作品も。
    • 相当後の写本しか残ってないのが残念。
    • 弟子の絵にリアリティが無いとイチャモンつけるも、エロ絵は強調しないと絵にならないと反論されて言い負かされる。
      • だから今のエロマンガが、やたら性的部位が大きかったり、人体で有り得ないほど汁が出てたり、台詞が色々頭おかしいのも、日本の伝統と理念に則った正統的文化的に極めて妥当な行為。何もオカシクはない。
  3. 臨終の席で、弟子から遺産の分与について訊ねられると、「腕力で決めろ」とひとこと言って大往生。どこまでもお茶目さん。

世阿弥

  1. 能の完成者。
    • 実技だけでなく、「花伝書」というレッスン・ノートを遺してくれたのが良かった。
      • 「花伝書」は今の楽器やバレエのレッスンなんかにも応用が利く。
  2. 足利義満に寵愛される。
    • でも足利義満を暗殺したなんて噂もある。

雪舟

  1. 足でも絵が描けた天才画家。
    • 寺の小坊主だった頃に、絵ばかり描いていたので和尚さんに叱られ、お仕置きに柱に縛られた。その時、流れ出る自分の涙と足の指を使って床にネズミを描いた。雪舟がネズミにかじられるかと驚いた和尚さんが紐を解いてくれた……という有名な伝説がある。
      • 彼が描いたネズミは後にアメリカで「ミッキー」と呼ばれることになる。
  2. 残っている作品のほとんどは国宝か重要文化財。
  3. 外国の切手に初めて印刷された日本人。

千利休

  1. 千家流茶道の創始者。
  2. もとはしがない魚屋の「田中与四郎」だったが、茶の湯の流行によって一躍時代の寵児に。
    • 信長・秀吉に寵愛された他、数多くの武将を弟子にした。
    • おかげで隠然たる権勢をふるうことに。
      • 大友宗麟が秀吉の弟・秀長と会った時、「うちうちのことは利休に、おおやけのことはこの秀長にご相談下され」と言われたほど。
  3. 外国の粗悪な陶器でも、利休が認めれば何十両もの価値を持つ芸術品に早変わり。
    • おかげで大儲け。一代で巨万の富を築く。
    • 秀吉の弟・秀長の暗黙の協力があったらしい。
    • ちょっとやりすぎて、秀吉の不信を買ってしまう。
  4. 武将ではなかったがやはり典型的な戦国人。壮絶な辞世を残して切腹し果てる。
    • 秀吉との確執を、「芸術家の権力に対する抵抗」もしくは「価値観の相違による対立」とする、えらく高尚な見方が一時期流行ったが、どうだかねえ。
      • 単に、秀吉の威を借りてえげつなく儲け過ぎたから睨まれた、程度ではないかという気もする。
        • そうならば、そのおこぼれに与った親類縁者、特に販売に共に関わった商人も連座し、それが当時の常識のはずだが、実際に処罰されたのは利休ただ一人。やはり原因は利休個人にあると考えた方が妥当。
      • 利休の茶の根本は、今の茶道の姿からすれば信じられないが、「茶の湯に決まりはない」という一種の革命思想。秀吉からすれば、天下を統一するまでは旧習を改革するのに都合のいい考えだけれども、天下を統一し自分が支配体制を確立する段階になると、その革命思想は自らの権力を否定することになりかねなかった。
        • 利休が殺されたのが統一直後で、その排斥に強く動いたのが石田三成をはじめとした秀吉体制の組織者たちというのがそれを裏付けていると思う。
        • また、そう考えると後の古田織部の場合もすんなり説明できる。
          • 当時他に幾らでも織部より年期のある茶人がいたのに、彼らを押し退けて織部が天下一の茶人になれたのは、利休の革新性を最もよく受け継いでいたから。しかしそれ故に、師と同様非業の死を遂げることになる。
    • 「ごめんなさいって言えば許してやってもいいよ」と秀吉から言われるが、「誰がごめんなさいなんて言うもんか。あっかんべー」と意地を張って、結局切腹するはめに。
    • 辞世の句「堤(ひっさぐ)る我が得具足(えぐそく)の一太刀(ひとつたち) 今此時ぞ天に抛(なげうつ)」
    • 「ド真ん中に傷がある花入れ」だの「真ん中に節があり、しかもそこがくの字に曲がった茶杓」だのを美しいと言い切るためには、それくらいの確固な信念がいるのだろう。
  5. 本人は横死したが、有力な弟子が多かったので、千家流は茶道の本流として今に伝わる。
    • でもけっこう浅ましい本家争いがあって、表と裏に分かれる。
      • 本人も後継者も、芸術上は「わびさび」を重んじたが、実際の処世は「わびさび」には程遠かったようだ。
    • 当時は小堀遠州や片桐石州の武人茶道の方が流行っており、それらに対抗するためには利休の功績を過度に強調し、自分はその後継者だから正当なのだという宣伝をして門弟を得ようとした。家門を守るためには仕方がない面もあるのだが、結果として利休のやったことを絶対視し、茶の湯の持っていた創造性は抜け落ちてしまった。
  6. リキュール×1000
  7. 鮮の利求ではない。

出雲阿国

  1. 歌舞伎の元祖。
  2. 出雲大社の巫女上がりと言われているが、真偽のほどは微妙。
    • 遊女上がりとも言うが、巫女兼遊女というのも別に珍しくはないので、両方とも正しいのかも。
  3. 脚本、演出、主演、音響監督、プロデューサーなどを一手に引き受けたスーパー芸能人。
    • 蒲生氏郷の小姓だった名古屋山三郎をパトロン兼スーパーバイザーにつけ、歌舞伎をさらに洗練する。
      • 山三郎がしょーもないケンカ沙汰で殺されるや、そのネタで一本興行してしまうという抜け目の無さも。

伊藤若冲

  1. 「奇想の画家」。おそらくここ最近で最も人気のある絵師の一人。
  2. 絵しか興味のないオタク
    • とされていたが、最近の研究ではそれだけではないということが分かりつつある。
      • 友人の僧侶が若冲は絵以外全く興味が無かった書いているのは、絵の凄さを強調するための一種の文飾で、実際は絵が一番好きだったのは確かだろうけど、世事もある程度こなせる人だったのだろう。
      • スケールは大分違うが、絵を歴史、商売を軍事に置き換えれば、ヤン・ウェンリーみたいな人だったと思う。
    • 生涯独身。
      • では性欲は全くなかったかというと、若冲の絵に性的な物を感じる人は多い。
        • 女子大生に若冲のレポートを書かせると、雪の描き方が○子に見えるという生徒が多いらしい・・・。
        • 妙に逞しく描かれた鶏の尾や奇矯な岩を○根に見立てる論者もいる。
      • 絵を精神分析すれば、なかなか面白い結果が出そうだ。
  3. 自分の好きなものを、好きなように、好きなだけ描いた。羨ましい。
    • コストを度外視して高価な絵の具や画材を使いまくったため、今でも色鮮やかな作品が多い。
      • 正直、絵の具に助けられている部分があると思うが、これも個性だろう。

葛飾北斎

  1. 日本最強の引越し魔。
    • 画号も変えまくり。
      • 晩年の号「画狂老人卍」なんてネーミングセンスは江戸時代の人とは思えない。
        • 今週のジャンプの新キャラで使われてもおかしくないレベル。
  2. 彼の書いた「赤い富士山」は米軍の目に留まり、太平洋戦争中に実行する計画が立てられた。
  3. 駿河湾で大津波が起こっているところを富士山と一緒に絵に表した色んな意味で凄いヤツ。
    • あの舟は無事だったのだろうか・・・。
  4. 90才の長寿。だのに本人は「あと10年生きれたらほんまもんの絵描きになれたのに」とか言ってた。