「バカ人物志/中国」の版間の差分
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#三世皇帝も擁立しようとしたが、当の本人(子嬰)がそもそも趙高の専横に憤っていたので、なかなか参内せず、しびれを切らした趙高が直接催促に来ると手ずから誅殺した。 | #三世皇帝も擁立しようとしたが、当の本人(子嬰)がそもそも趙高の専横に憤っていたので、なかなか参内せず、しびれを切らした趙高が直接催促に来ると手ずから誅殺した。 | ||
#「馬鹿」という言葉の由来になったという俗説がある。ある意味chakuwikiの恩人。 | #「馬鹿」という言葉の由来になったという俗説がある。ある意味chakuwikiの恩人。 | ||
===司馬遷=== | |||
#[[漢]]の武帝に仕えた。 | |||
#「史記」という歴史好きのバイブルみたいな書物を書いた。「史聖」と呼んでも過言ではない。 | |||
#*書き始めたのはパパの司馬談だったが、忙しいパパに代わって各地を取材して歩き、パパの死後執筆を引き継いで完成させた。 | |||
#**なお、パパは武帝が「封禅」の儀式をおこなう際、当然史官である自分に諮問があるとばかり思っていたら、ひとことの相談も無かったので、気落ちして死んでしまったという。 | |||
#*この人の開発した「紀伝体」という歴史記述の方法は、その後の史書に踏襲された。ただし、「書」という歴史評論の部分は、ものすごい知識と知見が必要なため、後世の歴史家はびびって手を出さなかったという。 | |||
#もともとは宦官ではなかったが、宮刑というち*こを切り取る刑罰を受けて宦官になった。 | |||
#*匈奴討伐に向かったが、力及ばず降伏した李陵を弁護したため。このころの武帝は人の言うことに聞く耳を持たなかったらしい。 | |||
===蔡倫=== | |||
#[[後漢]]の明帝から安帝までの5代の皇帝に仕えた。 | |||
#紙の発明者として知られていたが、類似のものがそれ以前からあったことが判明し、現在では紙の改良者ということにされている。 | |||
#*しかし、現代と基本的にほぼ同じ製法を確立したのが彼だったのは確か。それまでの類似物とは格段にクオリティが違ったので、わざわざ「蔡侯紙」と呼ばれたらしい。 | |||
#和帝とその奥さんの鄧太后から深く信任され、宦官でありながら竜亭侯という爵位を貰う。 | |||
#*後漢の後期になると、叙爵される宦官はやたらと増えたが、蔡倫はその嚆矢となった。そのため後代の宦官たちの憧れの的になった。 | |||
#*彼の作った紙が「蔡侯紙」と呼ばれたのも、実際に「侯」だったから。 | |||
#安帝の時の政変に巻き込まれて、自殺。 | |||
#*宦官としてではなく、あくまで諸侯として自裁した。この辺の進退も、のちの宦官のうち硬骨の者たちの模範となった。 | |||
===曹騰=== | |||
#[[後漢]]の順帝に仕えた。 | |||
#三国志の英傑、[[王侯伝/中国#曹操|曹操]]のお祖父ちゃん。 | |||
#*もちろん宦官なので本当の子孫は作れなかったが、一族の中から嵩という子供を選んで養子にした。この曹嵩が曹操のパパ。 | |||
#順帝の幼い頃からの学友で、けっこう教養と節度を持っていた人だったらしい。 | |||
#*ただし子供(曹嵩)には甘かった。官職に就けるために一億銭という大金をはたいた。 | |||
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2011年4月19日 (火) 01:02時点における版
- 一応、清朝滅亡までとしましょうか。辛亥革命以後の近代史をからめるとややこしいので。
独立項目
- 皇帝伝
思想家伝
孔子
- 儒学の祖。礼楽の元締めとして多数の弟子を育てる。
- とはいえ、出自は貧乏な武士の子で、国家儀礼にタッチする機会は無さそうだったし、ちゃんとした先生から礼楽を教わった形跡もない。孔子の教えた礼楽は、民間習俗を独学と想像で練り上げた、思いっきりオリジナルなものだった可能性が高い。
- 弟子たちとの会話などをまとめたのが『論語』。
- 礼楽の書としてはともかく、世間智の書としてはなかなかよくできており、今でもファンが多い。
- マックス・ヴェーバーには「インディアンの酋長のおしゃべり」と酷評されたが……
- それを言ったらお前らの所だって、道行く人を取っ捕まえて問答を始めるハタ迷惑な人じゃないか…。
- 現代の高度な思想書が幾らでも世の中では素朴な議論だが、ほぼ東洋最古の思想書で、まさに思想が神話や原始宗教から離れて立ち現れる瞬間を記録した貴重な書物。
- おおよそ紀元前6世紀から5世紀にかけて、古代ギリシャやインド、中国において後の世界史に多大な影響を及ぼす思想家が次々と生まれている。人類は古代文明が成熟したこの時期に思想に目覚めたと言えるだろう。
- 論語に徳を北極星に例える話がある。一見なんてこと無い話に見えるが、ここに孔子の東洋で初めて真理をつかんだという確信と、他の人と一緒に回ることのできない孤独、あるいは一種の傲慢が込められていると思う。
- ちゃんとした諸侯に仕えて、自分の理想を実現してみたいと熱望していたが、結局誘いをかけてきたのは陽虎のようなヤバいヤツばっかり。
- 晩年、もう少しで斉の景公に仕えることができそうだったのだが、晏嬰に阻止される。
- リアリストの晏嬰は、孔子の言う空想的な礼楽を採り入れたらとんでもないことになると見抜いていたらしい。
- 晩年、もう少しで斉の景公に仕えることができそうだったのだが、晏嬰に阻止される。
- 魯の国の歴史書「魯国春秋」は孔子が編纂したと言われ、「春秋経」として大変な権威を持ったが、眉唾。
- 魯の高官でも史官でもなんでもなかった孔子が、国家事業である歴史書編纂に携われたとは考えられない。
荘子
- 老荘思想の第一人者。老子は実在がはっきりしていないので、荘子が祖と言っても良いかもしれない。
- 実存、実用などに関する荘子の考え方は、現代でも充分通用するものがあり、2500年近く前の人とはとても思えない。
- しかも、文章は非常に読みやすく、ユーモアにあふれている。作家・エッセイストとしても超一流。
- ちょくちょく文章の中に孔子やその弟子たちを登場させてはおちょくりまくっているのが笑える。
- 恵子という論敵が居たが、荘子の文章を読む限り、論敵と言っても飲み仲間みたいな感じ。しょっちゅう悪口を言い合う仲良しさんだったのだろう。
墨子
- 絶対平和主義の専守防衛主義者。
- しかし、決して非戦論者ではない。防衛のための兵器の開発に力を注ぎ、攻められている国へ出かけて行っては侵略者を撃退しまくっていた。
- MD兵器にさえ猛反対するどこかの党首にもぜひ見習って欲しい。
- 墨子が防衛にあたった城は必ず守り抜けたので、人々は彼の鉄壁の守備を「墨守」と呼んで讃えた。
- 「墨守」という言葉が、だんだん「融通の利かない」「旧態依然」というような悪い意味になって行ったのは残念。
孟子
- 儒家では孔子に次ぐ巨人。「亜聖」と呼ばれる。
- 母親が有名な教育ママ。
- 息子がろくでもない遊びばかりしているので、3度も引っ越しをした。
- 斉の臨淄で諸子百家の一員となるが、ひときわ態度がでかかった。
- 他の学者たちなど眼中になく、王様が自分だけを特別扱いしてくれないってんでヘソを曲げ、臨淄を出てしまう。
- 国境を越えるまで、王様が慰留の使者をよこすのではないかと後方を気にしており、弟子にからかわれる。もちろん、使者など来なかった。
韓非子
- 韓の国の王族だったらしい。法家の第一人者。
- 「韓非子」を読むと、意外と道家のような文章が含まれている。これを韓非子の作とみるか、後世の偽作とするか、仮に偽作でも法家の思想のエッセンスがそこに含まれているとするかで解釈が変わる。
- 法家というのはぶっちゃけ「聖天子の徳治(つまり人力)に頼らなくても社会が破綻無く運営できる方法」を考える思想なので、「人力など大したものではない」と考える老荘思想とは案外相性が良い。むしろ社会科学化された老荘思想と言っても良いくらいで、老荘的な部分は少なくとも韓非子の本意に逆らうものではないと思われる。
- 「韓非子」を読むと、意外と道家のような文章が含まれている。これを韓非子の作とみるか、後世の偽作とするか、仮に偽作でも法家の思想のエッセンスがそこに含まれているとするかで解釈が変わる。
- 秦王・政(のちの始皇帝)が彼の著作の一部を読み、「この著者に会えたら死んでもいい!」と叫んだとか。
- 韓に兵を出し、講和の使節に韓非子を指名するというまわりくどい手段を用いて招聘。
- 政は喜び勇んで韓非子の講義を受ける。韓非子の教えは、のちの秦帝国の思想的バックボーンとなる。
- ただし、韓非子の厳密な法家思想では、王もまた法の下にあるものとしていたようだ。政はこの部分だけは断固拒否し、そのために体系に歪みが生じて、秦帝国を短命なものにしてしまったように思われる。
- 政は韓非子が他の国に利用されるのを怖れ、この恩師を殺してしまった。
- 政の側近で、韓非子と同門だった李斯が、自分の地位を脅かされるのを怖れて讒言し殺させた、というのが定説になっているが、疑わしい。やはり政が自分の意思で殺したと見るべきだろう。
- 極度のどもり症だったらしい。
- それだから余計、著作に熱がこもっていたのかもしれない。
叔孫通
- 漢の高祖に仕えた儒者。
- 儒者嫌いの高祖をうまく言いくるめて、儒礼による儀式を確立。その後の中華帝国の儀式の原型を作った。
- 高祖自身も行儀の悪い男だったが、家来たちのガラの悪さに辟易していたところ、叔孫通が「儀式を作りましょう」と申し出た。
- 「まあやってみるといいや。でも俺にできる程度のにしてくれよ」と高祖に言われ、叔孫通は本来の儒礼をかなり簡略化した儀式をプログラミングした。
- いよいよ儀式の日が来ると、あの乱暴者たちが一糸乱れぬ厳粛さで整列し、神妙な顔つきでうなだれているのを見て、高祖は驚愕。「俺は今日はじめて皇帝がどんだけ偉いかわかったよ」と述懐。儒者の使い道を納得したらしい。
- 一般には、権力者に迎合した日和見主義者と思われているが、彼が居なければ儒教は始皇帝の焚書坑儒で衰えたまま消えて行ったに違いない。少なくとも後世の儒者は叔孫通に感謝すべき。
朱熹
- 南宋時代の儒者。朱子学の祖。
- いま儒教と考えられている思想体系は大体この人が構築した。
- 国土の北半分を女真族の金に押さえられている時代の思想家だけに、異民族に対する敵愾心が強く表れた思想。ぶっちゃけていえば漢族至上主義。
- それまでは比較的グローバルな思想であった儒学を、ナショナリスティックな狭隘なものにした影響は大きい。しかし、それだけに思想体系としては精緻になっている。
- そのため後世の朱子学者は、朱子をただ祖述するだけの存在。余りに朱子学が精緻なため、もし自分なりの解釈を少しでも入れようとすると、結局他の部分も手直しを加えざるをえず、別の思想に変質してしまうため。
- 万物の根源は「理」と「気」であるとする。このように、儒教を一種の宇宙理論化したあたりが斬新ではある。
- 当初は偽学として弾圧されたが、漢族至上主義を採る朱子学はもともと漢族にとって心地よいものではあり、ほどなく解禁され、しかも国学となった。
- 朱子学びいきの南宋第5代皇帝には「理宗」という宗廟名が贈られている。いうまでもなく万物の根源の片一方。
王陽明
- 明時代の儒者。陽明学の祖。
- 青白きインテリではなく、武将として叛乱軍討伐で功績を挙げたりもした行動派。
- そのため、陽明学では言行一致(知行合一)を重んじる。
- すでに国学として権威を持っていた朱子学をやんわり批判したりもしている。当時としては甚だ危険なこと。
- 中国より、江戸時代後期の日本で人気があった。
- 大塩平八郎など、陽明学を学んで過激な行動に出た人も多い。幕末志士の多くも陽明学の信奉者だった。
康有為
- 清末の儒者。
- 西太后の権勢に反対しつつ、立憲君主制を唱えたので、開明的な人物と思われがちだが、実は思想的にはガチガチの保守反動。
- 極端な孔子絶対主義を唱えた。
- それまでは、孔子以前に「先王の教え」があり、特に周公旦が重視されていたが、康有為は「『先王の教え』も『周公旦の教え』も、全部孔子が作ったものだ」と主張。それらは孔子が古代に仮託して述べたのである、とのこと。
- これによって「孔子神学」が完成されたと見る人も居る。が、間もなく「打倒孔家店」の運動が活発になって儒学そのものがはやらなくなった。掉尾の勇とはこのこと。
- 極端な孔子絶対主義を唱えた。
女子伝
妺喜
- 夏の桀王に愛された女性。
- 桀王に咎めを受けた「有施氏」の君主から献上されたとか。
- 最初の字は「いもうと」ではない。要注意。
- 絹の布を引き裂く音が好きという、変な趣味があった。
妲己
- 殷の紂王に愛された女性。
- 紂王の咎めを受けた「有蘇氏」の君主から献上されたとか。
- 狐が化けた美女だったという噂もある。
褒姒
- 西周の幽王に愛された女性。
- 黒竜の唾液から生まれたという噂もある。
- 「笑わずの姫」として有名。
- 何をどうされても笑顔を見せたことはなかったが、間違えて上げられた狼煙を見て集まった諸国の軍勢がうろたえているところを見た時だけ、なぜか笑い出したとか。
- レアな笑顔にいかれてしまった幽王は、褒姒を笑わせようと意味もなく狼煙を上げ続け、そのうち誰も集まらなくなってしまった。王宮が犬戎に攻められて本当にヤバいことになってからも誰も集まらず、西周は滅亡した。
- 何をどうされても笑顔を見せたことはなかったが、間違えて上げられた狼煙を見て集まった諸国の軍勢がうろたえているところを見た時だけ、なぜか笑い出したとか。
夏姫
- 春秋時代の鄭の国に生まれた美女。
- 何度も結婚したが、相手がみんな早死にしてしまう魔性の女でもあった。
- 成人した息子が居る齢になっても美貌は一向に衰えず、各国の王侯貴族を惑わしまくった。
- 息子の夏徴舒はなんとクーデターを起こして、当時中程度の実力を持った国だった「陳」を一時は乗っ取ってしまった。
- 陳の君主・霊公と、重臣の孔寧・儀行父が、3人がかりでママをもてあそんでいるのを知ってぶち切れたそうな。
- その頃夏姫はどんなに若く見積もっても35歳近くにはなっていたはずで、現代のイメージでは40代後半くらいだろう。どんだけ色気があったのかと。
- 陳の君主・霊公と、重臣の孔寧・儀行父が、3人がかりでママをもてあそんでいるのを知ってぶち切れたそうな。
- 息子の夏徴舒はなんとクーデターを起こして、当時中程度の実力を持った国だった「陳」を一時は乗っ取ってしまった。
- 最後の夫は楚の重臣だった巫臣。二人で晋の国に亡命し、その後は穏やかに余生を送った。
西施
- 越王勾践から呉王夫差に献上された美女。
- 夫差に敗戦し、屈辱の日々を送っていた勾践が、夫差を骨抜きにするべく送り込んだハニートラップである。
- もっとも、どの程度効果があったかは微妙。夫差が亡んだのは、中原の覇権争いに首をつっこんで足元がおろそかになったせいと考えられるし。
- しかめっ面が魅力的だったという不思議な美女。
- ちなみに「ひそみに倣う」という慣用句は、西施が胸を押さえて眉をひそめているのを見た不細工な女が、真似をしたという故事から生まれた。
虞美人
- 項羽に愛された女性。
- 「美人」は後宮の身分のひとつに過ぎず、本名は不明。
- つーか人となりもさっぱり不明。大体の年齢や出身地さえわからない。
- 「四面楚歌」の状態に陥った項羽が、最後に歌った「垓下の歌」のラストで「虞や虞やなんじをいかんせん」と哀惜を込めて触れられているので、よっぽど愛されてた女が居たんだろうな~と思われたわけ。
- そんなわけで、本によって人物像は全然違うので要注意。
- 足手まといになるので、本人納得の上、項羽に刺殺された。
- その時落ちた血が「虞美人草(ヒナゲシ)」になったという。
呂后
→呂后
王昭君
- 漢の元帝の頃、匈奴との和平に際して贈られた女性。
- 野蛮人の国に売られた女性として、古来同情する人が多いが、大きなお世話かも。
- 漢の後宮に居るだけでは、一生皇帝に寵愛されることもなくむなしく老いてゆく可能性が高いが、匈奴に行けば皇后みたいな立場。女としてどっちが幸せかということです。
- 元帝は匈奴に贈る女性を選ぶために、後宮の女官の似顔絵を描かせたが、王昭君は絵師にワイロを渡さなかったので醜く描かれ、それで贈られるはめになってしまった。いよいよ出立の日、元帝がはじめてナマの彼女を見たところ、すごい美人だったので後悔し、絵師を処刑した……というような伝説があるが、きわめて疑わしい。
- 長年の強敵だった匈奴が和平を求めてきたのだから、腫れ物に触るような扱いだったはずで、わざわざ醜い女を選ぶはずがないし、似顔絵だけで決めるなんてこともあり得ない。いわば女性全権大使だから、才色兼備の美女が慎重に選ばれたと考えるのが妥当。
- 実際、匈奴に行ってからは、漢と匈奴の仲立ちとしてかなり活躍している。
王政君
- 漢の元帝の皇后。前漢末期のキーパーソン。
- 元帝にはあんまり愛されなかったらしい。
- 元帝が愛した女は、皇太子時代に病死。落ち込んでいるのを見かねて、母后が何人かの女と見合いさせた。元帝は全然その気になれなかったが、母の顔を立てるだけのためにひとり選んだ。これが王政君だった。
- もっとも、一応元帝の子供は産んでいる。そのため、元帝没後は皇太后、さらに太皇太后として朝廷に君臨することになる。
- 前漢を亡ぼして新を建てる王莽は彼女の甥。
- 王政君は血縁の者を次々に高官に取り立てたが、漢王朝を乗っ取ろうとは少しも思っておらず、王莽から伝国の玉璽を要求された時には激怒したらしい。
- 「そんなに欲しいなら自分で作ればいい! 莽の十八番じゃないの!」と言ったそうな。王莽に関する数々の奇瑞が、すべて王莽自身のでっち上げてだったことを、まるっとお見通しだったらしい。
- 王政君は血縁の者を次々に高官に取り立てたが、漢王朝を乗っ取ろうとは少しも思っておらず、王莽から伝国の玉璽を要求された時には激怒したらしい。
陰麗華
- 後漢光武帝の皇后。
- 光武帝が若い頃から惚れていた。当初は高嶺の花みたいな存在だったらしい。
- 「官に就くなら執金吾、嫁をめとらば陰麗華」と口癖のように言っていたとか。
- ちなみに執金吾は警視総監のような、近衛隊長のような役職。制服がカッコいいので若き日の光武帝が憧れていたらしい。
- 「官に就くなら執金吾、嫁をめとらば陰麗華」と口癖のように言っていたとか。
- なかなかできた人だった。
- 光武帝のほうが惚れ抜いていたのに、当面第二夫人の地位に甘んじていた。
- 最初の皇后は郭聖通という女性で、その一族の力を光武帝が必要としていたことを陰麗華はよく理解しており、自分から申し出て側室となったという。
- 郭皇后が廃されたあとで皇后になったが、自分の一族を要職に就けることは一切なかった。外戚にひっかきまわされることの多かった後漢の中では珍しい存在。
- 光武帝のほうが惚れ抜いていたのに、当面第二夫人の地位に甘んじていた。
班昭
- 後漢前期の女流歴史家。
- いわば歴女の元祖。しかもとてつもないスケール。
- 司馬遷の「史記」に続く正史「漢書」は、班昭と彼女の長兄・班固の共同執筆。こんなに堂々たる史観と知識と文才を併せ持った女性は、中国史上でも珍しい。
- しかも彼女の次兄は、西域の鬼傑として有名な班超将軍。すごい兄妹である。
貂蝉
- 三国志演義に出てくる美女。架空の人物らしい。
- 呂布が董卓のところの婢女とねんごろになったのは本当のようなので、それがモデルだろう。
- 演義では王允の養女で、董卓と呂布の間を裂くために送り込まれたハニートラップだということになっている。両者を手玉に取り、呂布に董卓を殺させる。
- その後の消息は明らかでない……いや、架空の人物なんだから消息も何も無いんだが。
- 呂布夫人として最後まで付き従ったが、関羽に見そめられたなんて話もある。
- 関羽が呂布の未亡人を欲しがったという話は一応噂としてあったらしい。上記の婢女とは別人だろうが。
- 呂布夫人として最後まで付き従ったが、関羽に見そめられたなんて話もある。
馮后
- 北魏の文成帝の皇后。夫が若死にした後、皇太后として献文帝・孝文帝を後見する。
- 後見というより、実質は彼女が皇帝みたいなものだったらしい。献文帝は彼女のお眼鏡にかなわず、6年で息子の孝文帝に譲位させられた。
- 専横をふるっていた丞相の乙渾を誅殺するなど果断なところもあるが、西太后のようなむちゃくちゃなオバハンではなく、政治を充分に心得た女性だった。
- 均田法、三長法などの革新的な政策を施行。孝文帝時代の北魏の全盛期を準備したと言える。
木蘭
- 南北朝時代に居たと伝えられるスーパーヒロイン。モデルは居たかもしれないがたぶん架空の人物。
- 老いた父に代わって男装して従軍し、突厥など北方民族を相手に大活躍。
- 京劇のヒットナンバーとしては有名だったが、中国の外ではほとんど知られていなかったのに、近年になってデ*ズニーのアニメ映画に取り上げられ、急に知名度が上がった。
- ただし、「ムーラン」を「木蘭」だと理解している人はどのくらい居ることやら……
武則天
→武則天
韋后
- 唐の中宗の皇后。
- シュウトメの武則天が縁者を次々に皇位に取り立てているのを見て、中宗が即位したのを幸い、自分の縁者を取り立てるよう亭主に強要。
- でも武則天(当時は武太后)から見ると韋后の縁者は無能なヤツばかりだったようで、全部クビ。ついでに嫁の言いなりだった息子の中宗も廃位してしまう。当然、韋后も皇后ではなくなる。
- 武則天が亡くなり、中宗が返り咲くと、彼女も再び皇后に返り咲く。
- シュウトメが武氏の王朝「周」を作ったのを真似して、自分の王朝を作ろうと画策。
- 娘の安楽公主も乗り気。皇太子になって、韋氏王朝第二代皇帝になるつもりだった。
- いくらなんでも中宗が承知する筈がないので、なんと母娘しめし合わせて、中宗を毒殺してしまう。そのあと中宗の側室の子を帝位に就け、禅譲させるつもりだったらしい。
- が、さすがに王朝を開くのは無理だった。武則天の愛娘の太平公主と、中宗の甥の李隆基(玄宗)によって阻止され、娘ともども斬られてしまう。
楊貴妃
- 唐の玄宗皇帝に愛された美女。
- もともとは玄宗の息子の後宮に居たが、愛妾を失って落ち込んでいた玄宗に見そめられたらしい。
- 一旦後宮を出して女道士にし、あらためて還俗させて玄宗の後宮に入れるというややこしい手順をとった。
- 美女の代名詞みたいになっているが、現代の基準で美女と言えるかどうか。
- なにせまるまると肥っていた。玄宗の他の愛妾で、スレンダー型だった梅妃は、玄宗が楊貴妃のところに入り浸りなのを憎み、彼女を「肥婢!」と罵っている。「デブ女中め!」というところ。
- 本人は特に権勢好きの女というわけではなかったようだが、玄宗が彼女の機嫌をとるために、彼女の縁者を次々と取り立てた。宰相にまでなった楊国忠は彼女のイトコだが、街のばくち打ちだったとか。
- ライチが大好き。
陳円円
- 明末の伎女。
- 山海関を護る将軍・呉三桂に身請けされるが、北京城内で旦那の帰りを待っているうちに、李自成の叛乱軍により北京が陥落。李自成の部将・劉宗敏の物になってしまう。
- 愛妾を奪われ怒り心頭の呉三桂は、李自成の帰順勧告を拒否、今の今まで戦っていた清軍を引き入れて李自成軍を蹴散らす。
- その後陳円円がどうなったのかは誰も知らない。
- 以上の内容の「円円曲」というバラードを清初の文人が作って大流行。当の呉三桂は大変迷惑し、内容を書き換えるよう作者に頼んだが、すでに人口に膾炙していて無駄だったそうな。
西太后
- 清の咸豊帝の夫人。
- 咸豊帝の皇后ではなかったが、次の同治帝の生母だったので、咸豊帝の没後は「西太后」と尊称された。ちなみに皇后は「東太后」と呼ばれた。
- 当初、同治帝が幼少だったので、東太后の垂簾政治となったが、東太后はあんまり政治向きのことがわからなかった。その点西太后はなかなか果断であったので東太后の相談役となり、そのうち東太后より権威を持つようになった。
- 東太后の死後は、同治帝やその次の光緒帝(西太后の甥にあたる)を尻目に朝廷に君臨し、清末の内外情勢をひっかき回した。
- 宮廷内の権勢争いには卓越した力量を示し、反対者を次々と粛正したが、国際政治や行政に関してはさっぱりだった。
- え、これって女版オザ……うわなにをするやめry
- 東太后も西太后に暗殺された説がある。
- 光緒帝も西太后の死の直前の不自然な若死にだったので、死期を悟った西太后が毒殺したという噂が根強い。
- 宮廷内の権勢争いには卓越した力量を示し、反対者を次々と粛正したが、国際政治や行政に関してはさっぱりだった。
- 日清戦争には大反対。
- 還暦の祝いを戦争で台無しにされたくないというのがその理由。
- 北洋海軍の予算を削って離宮の頤和園造営に回したという噂も根強い。だとすればある意味日本にとっては恩人だったりする。
- イメルダ・マルコスも真っ青の衣装持ち。
- 映画「西太后」では咸豊帝の寵愛を争った相手の手足を切って酒甕に漬けるシーンが出てきたが、あれは武則天がやったという伝説がもと。
- さらにその伝説自体、呂后の話のアレンジである可能性が高い。
宦官伝
- 宦官一般についてはこちら。
勃鞮
- 「閹楚」という名前も伝えられる。春秋時代の晋の国で献公・恵公・文公に仕えた宦官。
- 文公(重耳)をつけ狙う悪役として登場。
- 若い愛妾にたぶらかされ、年長の息子たちを排除しようとした献公の命令で、次男だった重耳を暗殺しようとする。きわどく逃げて無事。
- 恵公(献公の三男)も、兄貴が生きていると剣呑なので、勃鞮に重耳暗殺を指令。これにより重耳は中国全土を巡るような逃避行に出ざるを得なくなった。
- たびたび暗殺を命じられているところを見ると、宦官のくせに武芸の達人だったと思われる。
- 重耳が帰国して文公になると、誰もが誅殺されるだろうと思ったが、恵公時代の重臣の叛乱の企てを密告して、あっさり許され、以後文公に仕えた。
- さすがに最初は文公も勃鞮を殺そうとしたが、勃鞮は逆に文公を説教して認められた。
- 時の君主の命令を忠実に果たそうとしただけだというのが勃鞮の言い分。今は文公が君主なのだから文公に誠心誠意仕えるということ。文公もなるほどと思った。
- さすがに最初は文公も勃鞮を殺そうとしたが、勃鞮は逆に文公を説教して認められた。
嫪毐
- 秦の始皇帝に仕えたが、実はニセ宦官。
- 始皇帝のママはもともと文信侯・呂不韋の愛人だったのが、始皇帝のパパ荘襄王に望まれて王妃になった人。亭主が亡くなると元彼の呂不韋とよりを戻したがったが、太后と密通などというはめになるのを好まなかった呂不韋は、代わりの男を差し向ける。それが嫪毐。
- ただし、普通の男では後宮に入れないので、名目だけ宦官ということにした。
- とにかくち*こがでかく、そのため太后にいたく寵愛される。
- でかいだけではなく強靱だった。桐の車輪をち*こにはめて見事に廻したそうな。
- 寵愛されたあげくに長信侯という爵位まで貰う。ち*こだけでそこまで栄達したヤツは空前絶後だろう。
- 当然そのうち子供ができ、その子を王位に就けようとして始皇帝に謀反を起こしたが、事前にばれて処刑される。
- 車裂きという極刑。
- 嫪毐を太后にあてがったのが呂不韋だったこともばれ、呂不韋も失脚。
- もっとも、始皇帝は何かと煙たい存在であった呂不韋を排除しようとしており、これ幸いと連座させたというのが実際のところだったらしい。
趙高
- 秦の始皇帝・二世皇帝に仕えた。
- 始皇帝の歿後、遺勅を偽造して末子の胡亥を二世皇帝に擁立。
- 遺勅では長子の扶蘇を指名していたという。だが、密室のことではあり、ホントのところはよくわからない。
- 二世皇帝を巧みにまるめこみ、絶大な権勢を獲得。
- 悪だくみ仲間だった宰相の李斯もおとしいれて処刑。もう怖いものなし。
- 陳勝呉広の乱にはじまる全国の叛乱も、徹底的な箝口令を敷いて二世皇帝には隠していた。
- 叛乱が手がつけられない状態になり、さすがに二世皇帝にも伝わりそうになると、それまでの悪行がばれるのを怖れて二世皇帝を殺害。
- 三世皇帝も擁立しようとしたが、当の本人(子嬰)がそもそも趙高の専横に憤っていたので、なかなか参内せず、しびれを切らした趙高が直接催促に来ると手ずから誅殺した。
- 「馬鹿」という言葉の由来になったという俗説がある。ある意味chakuwikiの恩人。
司馬遷
- 漢の武帝に仕えた。
- 「史記」という歴史好きのバイブルみたいな書物を書いた。「史聖」と呼んでも過言ではない。
- 書き始めたのはパパの司馬談だったが、忙しいパパに代わって各地を取材して歩き、パパの死後執筆を引き継いで完成させた。
- なお、パパは武帝が「封禅」の儀式をおこなう際、当然史官である自分に諮問があるとばかり思っていたら、ひとことの相談も無かったので、気落ちして死んでしまったという。
- この人の開発した「紀伝体」という歴史記述の方法は、その後の史書に踏襲された。ただし、「書」という歴史評論の部分は、ものすごい知識と知見が必要なため、後世の歴史家はびびって手を出さなかったという。
- 書き始めたのはパパの司馬談だったが、忙しいパパに代わって各地を取材して歩き、パパの死後執筆を引き継いで完成させた。
- もともとは宦官ではなかったが、宮刑というち*こを切り取る刑罰を受けて宦官になった。
- 匈奴討伐に向かったが、力及ばず降伏した李陵を弁護したため。このころの武帝は人の言うことに聞く耳を持たなかったらしい。
蔡倫
- 後漢の明帝から安帝までの5代の皇帝に仕えた。
- 紙の発明者として知られていたが、類似のものがそれ以前からあったことが判明し、現在では紙の改良者ということにされている。
- しかし、現代と基本的にほぼ同じ製法を確立したのが彼だったのは確か。それまでの類似物とは格段にクオリティが違ったので、わざわざ「蔡侯紙」と呼ばれたらしい。
- 和帝とその奥さんの鄧太后から深く信任され、宦官でありながら竜亭侯という爵位を貰う。
- 後漢の後期になると、叙爵される宦官はやたらと増えたが、蔡倫はその嚆矢となった。そのため後代の宦官たちの憧れの的になった。
- 彼の作った紙が「蔡侯紙」と呼ばれたのも、実際に「侯」だったから。
- 安帝の時の政変に巻き込まれて、自殺。
- 宦官としてではなく、あくまで諸侯として自裁した。この辺の進退も、のちの宦官のうち硬骨の者たちの模範となった。