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#実は成り上がり距離は秀吉に肉薄し、おそらく齋藤道三や北条早雲を上回る戦国第二位。
#実は成り上がり距離は秀吉に肉薄し、おそらく齋藤道三や北条早雲を上回る戦国第二位。
#*22歳まで貧しい農民として過ごしていたのに、30年ほどのうちに大和・紀伊のほぼ全域を領する120万石の大大名に。
#*22歳まで貧しい農民として過ごしていたのに、30年ほどのうちに大和・紀伊のほぼ全域を領する120万石の大大名に。
#**おまけに官位は関白太政大臣秀吉、内大臣徳川家康に次ぐ大納言。
#突っ走り気味な兄貴をよく支え、天下盗りを助けた殊勲者。
#突っ走り気味な兄貴をよく支え、天下盗りを助けた殊勲者。
#*自分の手柄を決して吹聴しようとしなかった。戦国人としては稀有なタイプ。
#*自分の手柄を決して吹聴しようとしなかった。戦国人としては稀有なタイプ。
#*そのため地味な印象があるが、実は戦場ではほとんど負け知らず。秀長自身の責任による敗戦は皆無に近い。
#*そのため地味な印象があるが、実は戦場ではほとんど負け知らず。秀長自身の責任による敗戦は皆無に近い。
#**攻撃も手堅かったが、防衛戦にはもっと強かった。賤ヶ岳で秀吉が勝てたのは、大返しの奇襲効果もさることながら、前線にいた秀長が佐久間盛政の猛攻に耐えて一歩も引かなかったおかげ。
#**攻撃も手堅かったが、防衛戦にはもっと強かった。賤ヶ岳で秀吉が勝てたのは、大返しの奇襲効果もさることながら、前線にいた秀長が佐久間盛政の猛攻に耐えて一歩も引かなかったおかげ。
#***おねさん (高台院)、そしてこの秀長が秀吉の脇を固めていたことが秀吉最大の幸運かもしれない。
#*秀吉も秀長の働きを大きく評価し、木下家→羽柴家→豊臣家の総収入の中の1割を常に秀長に与えていたらしい。
#*秀吉も秀長の働きを大きく評価し、木下家→羽柴家→豊臣家の総収入の中の1割を常に秀長に与えていたらしい。
#**知行300貫の美濃時代は30貫、12万石の長浜城主時代は1万2千石、などなど。
#**知行300貫の美濃時代は30貫、12万石の長浜城主時代は1万2千石、などなど。

2021年9月17日 (金) 21:48時点における版

独立項目

太原雪斎

  1. お坊さんだが活躍した時期、時代背景の関係から戦国武将にカテゴライズされる事が多い。
  2. 今川家の参謀。軍事に外交に八面六臂の大活躍。雪斎の死が今川家滅亡を早めたとまで言われるほど。
  3. デスラー総統はハマリ役でした。
  4. 元々は僧侶になるはずだった義元の師だったが、義元が還俗して今川家の家督を継いだため、そのまま義元に付いてきて軍師になった。

高橋紹運

  1. 立花宗茂の実父。
  2. わずか700名で岩屋城に立て籠もって島津の大軍を迎え撃ち、3000人もの損害を与えて散ったその壮絶な最期は、後々まで語り草になった。
    • 正確には763名。一方寄せ手の島津勢は2万名。
    • 彼が玉砕してまで稼いだ時間のおかげで秀吉の援軍が間に合い、主家である大友家は救われる事となる。
  3. 敵将・島津忠長は彼の死後にその首に対し涙を流しながら正座して向かい、秀吉は自ら「乱世の華」と称えてその死を惜しんだという。
    • 紹運が忠長宛に遺した手紙には一言「これも義によってである。理解して頂きたい」。忠長は、「ああ、この男と友であったなら。武士とは恨めしいものよ」と涙したと伝えられる。
  4. 許婚が疱瘡にかかってしまい破談を申し入れられるが、「自分は顔で嫁を選んだのではない」と強引に結婚。生まれたのが後の立花宗茂。

武田勝頼

  1. 長篠の戦いで大敗し、あげくに信長に亡ぼされてしまったので、すっかりダメ武将扱いされているが、実はけっこう知勇兼備だったらしい。
    • ただ偉大な父・信玄の影に常にプレッシャーを感じて、焦りすぎた気配はある。
    • 信長のやっていた「城下町作り」「楽市楽座」「鉄砲隊の充実」など革新的な施策の意義をよく理解していたようだが、実現するための財力と時間が無かった。
      • かろうじて城下町作り(新府城)には取り掛かったが、完成させることなくタイムオーバー。
    • 信玄のころまで武田家を支えていた甲州金が、この人の代になってさっぱり採れなくなったとか。ちょっと同情。
  2. 謙信亡き後の上杉家の内紛に首を突っ込んだのが命取りだった。
    • 北条氏政の弟である景虎が上杉を継ぐと、北条家の力が強大になりすぎると見て、景勝に肩入れ。局所的に見れば、関東の勢力を均衡させる、悪くない判断なのだが……
      • いかに常陸 (茨城県) の佐竹と交戦中とはいえ、北条側は景虎の救援はおろか救出にすら消極的だしね。勝頼は曲がりなりにも信越国境くらいまでは出陣しているし、北条が文句言える立場にはないと思うが。
    • おかげで北条家と決定的に仲違いし、大事なところで助けて貰えず命を落とすはめに。織田家が大きくなりすぎて、関東で勢力均衡を図っているような場合ではなかったのであった。
    • 勝頼の後妻は北条氏政の妹。
  3. 信玄の跡継ぎとされたのは勝頼の息子の信勝で、勝頼は信勝が成長するまでの後見役に過ぎなかったという説もある。
    • 勝頼は本来、武田軍団中の信濃衆(諏訪衆)旗頭としての役割を期待されていた。もともとの後継者であった兄・義信が失脚・落命したために、急遽全軍を率いることになったので、部将たちからの人望がイマイチだったようだ。
      • なにせ若い頃は「諏訪四郎勝頼」だったくらいだしね。
      • それをなんとかしようと、豪族の寄合である武田家の政体を中央集権型に変えようとしたが、部将達から反発食らって失敗。
      • そもそも武田氏は大名への権力集中が非常に遅れていた。
        • 有力部将の多くは、武田氏成立とそう変わらない11世紀から12世紀に遡れるほど古い家系で、その時の領国支配構造が鎌倉時代南北朝を経ても相当残っていたため。
        • 信虎は権力を集中しようとして失敗、しかも有力家臣のクーデターという形で代替わりしたため、彼らに担ぎ出された信玄は家臣の扱いには非常に気を遣わざるを得なかった。
          • 信玄も晩年は自分に忠実な直臣や官僚を育てていて、勝頼もその路線を引き継いでいたが、やっぱり時間が足りなかった・・・。
          • 跡部勝資や長坂長閑斎などがその種の官僚タイプで、大変有能でもあったのだが、後世の評価は「佞臣」。
            • 長閑斎なんぞ長篠に出てないにもかかわらず、上司である高坂弾正から「跡部や長閑斎が決戦を主張した」と甲陽軍鑑に書いたくらい。
          • 松永久秀、石田三成など、主君の側につかえている官僚というのは悪い噂を立てられるものらしい。
  4. 信玄からも気づかれていたようだ。「勝頼では信長や家康に対抗できまい」と…。
  5. 実史の立ち位置や立場を考えると、もう少し生まれ時がずれていたら、問答無用の名将だったかもしれない。
  6. とはいえ、没落ですまずにほぼ完全滅亡までいってしまったのは褒められたものではなかろう。今川はなんだかんだで続いたし、北条も跡継ぎが若死にしたからポシャったが再興の目はあった。武田の最期は・・・
  7. 長篠では兵以上に信玄が育て、勝頼の言うことまあ聞く家臣団がやられたのが痛すぎる。そしてうるさい親類集はおよそ逃げたというね。

武田信虎

  1. 息子の信玄に追放された親父。
  2. 暴君として有名だけれど、実際はそこまでひどくはなかったらしい。
    • 中央集権化を断行しようとして家臣団の反発を買い、追放されたというのが有力説。
  3. 信玄の死後まで生き、81歳の天寿を全うした。
    • 追放後の人生のほうが充実していたのではなかろうか。
  4. 今川氏真の祖父でもある。でも仲は悪かったらしい。
    • 生き方は結構似てはいるのだが。
  5. 追放後は結局甲斐には戻れなかった。信濃の高遠までは来たらしいが。

立花道雪

  1. 豊後大友家の重臣。通称カミナリ親父、もとい雷神の化身。
  2. 下半身不随で戦場には家臣に担がせた輿に乗っていたが、常に最前線で指揮を執っていた。
    • 手に持った棒で輿をガンガン叩いて兵を叱咤し、自らかけ声を上げて突撃していたんだとか。
      • 「おまいら、逃げたくなったら輿を敵陣のど真ん中に置いて逃げるように!」と常々言っていた。
  3. 下半身不随になった理由は、雷を斬る剣を会得しようと剣を振っていて落雷に遭ったから。
    • このとき雷の中にいた雷神を斬ったとされ、愛刀に「雷切」と名付けていた。命中率とかダメージにボーナスが付きそうだ。
    • あれ?木陰で休憩していたら、その木に落雷があって、道雪が雷神を木ごと切ったため、と聞いたが。
      • 曰く、「落雷を切ったら手応えがあった」とか。そりゃ感電しながら木を切れば手応えはあろうに。
  4. どうにも腰が定まらない主君にたびたび諫言していた。
  5. その勇名は東国にも伝わり、武田信玄から「是非会いたい」とラブレターをもらったとか。
  6. 本名は戸次鑑連。彼自身は立花姓を名乗ってはいない。
    • 読み方は「べっき・あきつら」。一部ではベッキーの愛称で親しまれている。
    • 本人は立花姓を名乗ろうとしていたが、先代の立花鑑載が2回も反乱を起こしたもんだから大友本家が許さなかった、という噂も。
  7. 武功のないやつ俺んとこに来い、がモットー。必ず手柄をあげさせてやると公言していた。
    • 同時に軍規は非常に厳格。戦の最中に家に帰った兵に討手を差し向け、本人と、家族も同罪として討殺した。

立花直次

  1. 兄をよく助けた。
  2. 柳川藩の藩主はこの人の子孫が受け継いだ。
    • 兄には子がいなかったし、直次の子も一人息子だった。兄弟揃ってこの子供の少なさは何だろう。
      • スマン。たくさんいたらしいorz

立花宗茂

  1. 豊後大友家の猛将・高橋紹運を実父とし、同じく猛将・立花道雪を養父とする、猛将のサラブレッドみたいな人。
    • でもお坊ちゃんで、関ヶ原の後まで雑炊というものを出されるまで知らなかったらしい。
      • 雑炊は知っていたんだが、宗茂「雑炊が食べたければ食べたいと言うから、気を使わなくてもいいぞ」 家臣(米が足りないから雑炊にしたって言えねえ……)ということらしい。お坊ちゃんなのは確かだ。
    • 実父、養父に対し、隣国を治め親交が深かった小早川隆景が心の父とも言われているらしい。
  2. 嫁は道雪の娘・誾千代。
    • 悠に一軍の将が務まるだけの能力と器量がある姫君だったらしい。
      • 男子がいなかったからとはいえ誾千代が立花家の家督を継いでいることから、その器量推して知るべし。
      • 豊臣秀吉が名護屋城に滞在していたとき、側室候補にと誾千代を呼び寄せたが鉄砲を構え武装して表れたため断念したそうだ
    • 宗茂との夫婦仲が悪かったというのが通説だが、個々のエピソードを見ると、むしろ仲良し夫婦だったような印象がある。
      • 不仲説は二人の間に子供が生まれていないせいらしいが、宗茂は他の妻妾にも子供は産ませられなかったから、もともと種無しだったかもしれない。
        • つか、彼は世間知らずだったらしいから、やり方を知らなかっただけかもしれない。
          • 案外戦国無双で表現されていた二人の関係が実像に近いのかもしれない。
    • 高橋家と立花家の領地は隣り合っていたので、親同士の付き合いで城を訪問したりしていたらしい。幼馴染やね。
  3. とにかく戦争にめっぽう強かった。
    • 若い頃から、対秋月戦、対島津戦で大活躍。
    • 朝鮮の役でも大活躍。
    • 関ヶ原の戦いでは、大津城を攻めてこれまた大活躍。
      • 宗茂が大津城など置き捨てて関ヶ原に来ていれば、戦闘の様相も変わっていたかもしれない。
      • 敗軍となっても、自城にこもって頑強に抵抗。加藤清正・鍋島直茂・黒田如水の連合軍を相手に一歩も引かず、攻めあぐねた連合軍は仕方なく説得にかかってようやく開城させた。
        • 宗茂の人柄を惜しむ加藤清正が単身乗り込んで「立花殿。貴殿ほどの方をむざむざ槍にかけるは、不本意にござる。城をお出でなされよ。身の安全はこの清正が保証致す」と殺し文句で説得。清正の人柄を知る宗茂は「清正殿にお任せ致す」と決意を語って城を明け渡す。
        • このエピソードは父親(高橋)を彷彿とさせるね。血は争えないということか。
    • 島原の乱にまで顧問格で出兵。
      • 一揆勢の立てこもった原城は、食糧が無くなれば自然に落ちると見て、宗茂は長期包囲を進言したが、幕府軍は言うことを聞かずに積極攻勢に出て大苦戦。言わんこっちゃない。
      • なお出征前将軍か誰かに「太平の世では武士はだらけるから、この島原の乱はもう少し続いてもいい」と言ったそうな。
    • このように、宗茂自身の持ち場の戦闘においてはほとんど負け無しだったが、なぜか全体の勝敗としては敗軍に属していることが多かった。だからこそ強さが光ったのかもしれない。
  4. 関ヶ原の戦後改易されたのに、旧領に大名として返り咲くことができた唯一の武将。
    • 応援する人が多かった。志操の明快さでみんなに愛されていたらしい。
    • 最終的な復帰は本多忠勝の推挙によるもので徳川家の軍事顧問のような立場になった。
  5. 一騎打ちで敵将の鼻毛だけを斬ってみせたという逸話がある。
  6. 生い立ちと数々のエピソードといい、大河ドラマの主役にうってつけだと思うが、いまだ映像化されたことはない。
    • 適役が思い浮かばん…。剛毅さと涼やかさと世間しらずを併せ持ったこの人物を誰が演じられるんだろうか?
      • 朝鮮の話を入れないといけないからだろ。いかん砲しか放たない政府が許可せんのだろうよ。
  7. 関が原の敗戦後に堺から九州に戻る船で島津義弘と一緒になり「父君(高橋紹運)の仇を討って東軍に寝返りましょう」と勧める家臣を叱って義弘一行と一緒に酒を飲んで話をしたと言う俗説がある。
  8. 「宗茂」というのは一番最後に名乗った名前。初名の「統虎」から、10回以上改名している。

伊達成実

  1. 伊達正宗の従兄弟。武の伊達成実として有名。
    • 従兄弟というのは母方から見た場合。父は政宗の大叔父(祖父・晴宗の弟)なので、父方から見れば従兄弟違い。
  2. 政宗より1歳下で、兄弟同然の育ち仲はかなり良好だった。
  3. 戦における政宗最大のピンチだった人取橋の合戦では奮戦して政宗を逃がし、摺上原の合戦でも政宗勝利に多大な貢献をした。
  4. しかしその後謎の出奔。
    • 白石城合戦時に帰参。それからは再び政宗の腹心として活躍。
  5. 帰参後も政宗との仲はかなり良かったようで、「特に用は無いけどしばらく会ってないから手紙書いたよ。また今度城まで遊びに来てね。」という政宗から成実に送った女子会の誘いみたいな手紙が残っている。
  6. 成実記という自伝小説を書いた。
    • 内容は情け容赦ない。「政宗殿、〇〇の戦いに負けた。こうこうこう攻めろと意見したのに聞かないからだ。だから言わんこっちゃない」的な。流石イトコ殿である。
  7. 兜にムカデなんか付けていた。
    • 毛虫説もある。どっちにしろ「後ろに退かない」心意気を表すものには変わりないけど。
      • 思ってたよりは気持ち悪くない。
  8. 「なるみ」と読みたくなるが、正しくは「しげざね」。
  9. 居城の亘理城は後年に亘理要害になる。一国一条の令から例外扱いされなかったからだが。

伊達稙宗

  1. いろいろと暴れまくっていたが、晴宗のおかげで全部おじゃんに。
    • 稙宗「もはやあやつとは親でもなければ子でもないわ!」晴宗「うっせ~あのクソ親父!何で相馬ごときにウチの領地くれてやんなきゃなんねぇんだ!」…結果、天分の大乱に。
  2. 太閤立志伝Ⅴでは、やたらと能力が高い。でも年だし、仕官する気もないので、宝の持ち腐れ。
  3. 南東北の名だたる大名・豪族を全部姻族にしてしまった。んで、天文の乱の後も一進一退状態にとどまり、しがらみを無くして近代大名になるのは曾孫の代になったからだった。

伊達輝宗

  1. 独眼竜政宗の父親。
  2. 「信長の野望」では下手したら政宗よりメジャーな存在だ。
  3. 温厚でいい人っぽいイメージだが、政宗をあんな感じに育成したのもこの人。
    • 体格も武将としては小柄だったらしい。
  4. 働き盛りの時期に隠居。
  5. 俺を撃て!!

伊達晴宗

  1. 伊達政宗の祖父。
  2. 政策について父と対立した結果、東北中を巻き込む盛大な親子喧嘩に発展した。
  3. 他所に行く予定の花嫁を強奪して自分の嫁にした。

田中吉政

  1. 農民から出世した。
  2. 三成を捕らえた人。
    • 三成に目をかけられて出世したため捕らえるのを躊躇したってぇ話が小説で出てくるが実際どうなんだろ…?
  3. 水郷柳川を作った。
  4. 都市計画を得意とし、現在でも評価されている。
  5. たった二代で筑後32万石が潰されたのは惜しい。
    • よそ者だし、凡将だし、都市化のために圧政を敷いた人らしいので地元民的にはそんなに惜しくないのが本音。
  6. 墓は柳川の某寺の床下にある。

種子島時尭

  1. 日本の鉄砲はこの男から始まった。
  2. 流れ着いた南蛮人から鉄砲を取り上げるのではなく、わざわざ娘を嫁がせたりして製法を教わった。
  3. 「信長の野望・武将風雲録」では本土にいる。
    • 「種子島」の意味無し

田村隆顕

  1. 田村マロの子孫。

長宗我部国親

  1. 元親の父親で、元親より知名度が低いが、当時は元親よりずっと偉大だとされていた。
  2. 似た苗字の香宗我部氏を養子縁組で従属させた。

長宗我部元親

  1. 最初「土佐の姫若子」といわれていた。
    • 別に女の子みたいに可愛らしかったわけではない。
      • その代わり、性格が女々しかったそうだ。
    • 初陣を華々しく飾った後は鬼若子に昇格した。
      • 初陣が22歳になってからと、超遅咲き。他家では10代半ばで初陣してたからなぁ。
        • 後世書かれた軍記本では、家臣に戦いのやり方を教わったとか槍の突き方知らなかったとかミソクソに書かれてる。
  2. もし10年早かったら天下を…という意見もあるが、当人は四国の覇者になれれば満足だったらしい。
  3. 戦国無双でもBASARAでも有名であり、後世のゲーマー達に論争の種を与えている武将の一人である。
  4. 後半生および子孫は悲惨すぎる・・・・・・。
    • 秀吉の命令で駆り出された戦で嫡男を喪い、以後精神的に不安定になってしまった。
    • 大名が息子を失ってしまい、心身を悪くしてしまうのは意外と珍しい事という訳でもなかった。
      • 他の例として、大内義隆(文治に傾倒。後に大寧寺の変へ)や三好長慶(兄弟も相次いで失う)などがいる。
      • とりわけ元親が悲惨に見えるのは、嫡男・信親を失った戸次川の戦いが、あまりにバカげたいくさであったためではなかったかと。
        • 元親も、僚将の十河存保も、島津軍の伏兵を見抜いて自重を訴えたのに、功を焦った仙石秀久の突出で戦闘に巻き込まれ、「案の定」の伏兵でやられてしまった。
    • 戸次川の戦いでは、信親だけでなく家臣の跡取りも数多く戦死した。以後長宗我部は、家臣団の再建や後継者争いによる内紛で弱体化していく。
  5. 嫁は明智光秀の片腕だった齋藤利三の妹。
  6. 長曽我部とも書く。どっちでもいいらしい。
  7. 信長からはコウモリ呼ばわりされてた。
    • 「どっちつかず」の意味のコウモリではなく、「鳥無き里」のほうのコウモリね。
      • 意味は「鳥がいない場所ではコウモリのような弱い動物でも栄えられるのだ」といった感じだろうか。「狼無き里の犬」「虎無き里の猫」とか言うともっと分かりやすいかも。
  8. まさか、後世、「超スケベ元痴漢」などとネタにされるなんて、夢にも思っていなかったろう・・・。

長宗我部盛親

  1. 元親の四男。長兄・信親が戸次川で戦死したため、家督を継ぐ。
    • 家中には、三兄・親忠を推す勢力もあって、相続時にちょっとゴタゴタした。
      • しかもそのゴタゴタが、ちょうど秀吉の死から関ヶ原の戦いに向かう時期だった。おかげで長宗我部家は情報収集もままならないまま、成り行きで西軍に属すことになってしまった。
    • 親忠が殺害されてお家騒動は終息。
      • 盛親が指令したのか、盛親派の家臣が先走ったのか、微妙なところ。
      • 長宗我部家が取り潰されたのは、実は西軍に属したためではなく、この兄殺しを咎められたからだという説も。だとすれば馬鹿なことをしたものだ。
        • 徳川からすればていのいい口実を用意してくれた、ってとこだ。
    • 信親が戦死した直後、秀吉から後継者に指名されたのは次兄の親和だったのだが、元親のゴリ押しで後継者に指名されたという経緯もある。
      • そしてその直後、親和は病死。暗殺、自殺説もある。
  2. 関ヶ原の戦いでは、戦場に出る道を毛利勢(というか吉川広家)に塞がれて、まるっきり戦闘に参加しないまま敗軍となる。あんまりだ。
    • そもそも西軍に属した理由が徳川へ送った密使がヘタレで、三成の関所網を越えられずに戻ってきたから東軍に参加できず成り行きで、らしい。あんまりだ。
  3. 土佐を追われた後、大岩祐夢と名乗って、寺子屋の先生になった。
  4. 大坂の陣では、誘われて勇んで大坂に入城。
    • 単身で配流場所を抜け出したが、山内一豊に迫害されていた元家臣たちが途中で次々と駆けつけ、たちまち大軍勢となって大坂入りを果たし、人々を驚かせた。
    • 短期間とはいえ大名だったのは彼だけだったので、城内ではなかなか人望もあったらしい。
      • あとの大坂方の将は、「元大名の子」とか「大名の元重臣」とかがほとんど。
    • 冬の陣ではあんまり見せ場が無かったが、夏の陣では藤堂勢との遭遇戦で鮮やかな大勝利。
      • かろうじて、名将であったことを死ぬ前に証明できたのは何より。本人ももって瞑すべきであろう。
      • が、ここで部隊も壊滅してしまい翌日の最終決戦には参加できず。
    • 夏の陣の後、脱出しようとして捕まり、斬られた。
      • 生存伝説もある。若狭に逃れて行ったと言う。
    • 実は事前に徳川からも「大阪攻めになったらどうすんの?」と聞かれて「手柄を立てて人生挽回したいッス」と回答していた。が、それは嘘で油断させて大阪方に。人生一攫千金はいいのか悪いのか・・・。

津軽為信

  1. 津軽地方の英雄。でも旧南部氏の領土だった場所ではすこぶる評判が悪い。
    • もともと南部氏一族で旧姓は大浦。しかし南部本家に無断で津軽地域を乗っ取った上に一地方の津軽を姓にした。そればかりか本家を圧迫しまくった。反乱っぽくみえるが、所詮同族同士の争い。でも南部氏旧領地域では「反乱」の扱い。
    • 南部からの独立戦争の最中に、籠城している敵将兵の妻や子供を城の前で嬲り殺し強○しまくるという鬼のような所業をさせて降伏開城させた。なお実行部隊は博徒等のならず者であり津軽(大浦)の仕業では無いらしい
  2. 南部氏よりも先に秀吉に謁見して、独立を認めさせた。
  3. 肖像画はすごいヒゲだ。
    • 三国志の関羽にあやかって伸ばしていたとか。
  4. ライバルの南部信直が上方でホームシックにかかったのに比べて、先祖ゆかりの(伝承レベルだけど)名門公家の養子になるなど、都会生活をエンジョイしていたようだ。
    • 盂蘭盆会では巨大灯籠を作って街中を練り歩かせた。これがねぶた祭の元だとも言われる。

筒井順慶

  1. 梟雄松永久秀と死闘を繰り広げた末信長を後ろ盾があったものの遂には久秀を追い詰め引導を渡した。これだけでも凄い武将である。
  2. なのに世間は裏切者とか日和見主義者とか、そういうマイナスの面ばかりピックアップする。
    • いわゆる「洞ヶ峠」。
      • 昔順慶の遠縁の子孫にあたるSF作家の筒井康隆が「洞ヶ峠で滞陣していたのは順慶ではなく順慶の援軍を待つ光秀だった」という説を小説の形で発表している。
        • 現在ではこの説がむしろ主流。
  3. 筒井筒という仮名でも漢字でも回文になる茶器を所有していた。
  4. 生まれも育ちも没地も大和郡山市
  5. 「右近左近」と併称されるイカした家臣が居た。
    • 松倉右近と島左近。
    • 島左近のほうはのちに石田三成の謀臣となり、関ヶ原で華やかに散って有名になったが、松倉右近のほうはいまいち知名度が低い。
      • 息子が島原の乱の原因になった。
  6. 父親が急死したために2歳で家督相続。成人するまでは木阿弥という僧が父親の影武者をしていた。
    • そのうち順慶が成人したので、お役御免になった影武者は旧名に戻る。「元の木阿弥」の由来だそうな。

土岐頼芸

  1. つわものどもが夢のあと
  2. 絵画に関しては類稀な奇才の持ち主だったらしい。
    • 特にの絵を得意としていた。「土岐の鷹」として有名。
  3. 斎藤道三に追われた後も各地を逍遥しながら生き延び、80歳以上の長寿を全うしている。
  4. 名前の読みは「よりのり」「よりなり」「よりよし」「よりあき」と諸説ある。
    • ライゲイさんと呼ぶこともあるらしい。
      • 冗談だわな。
        • 有識読みというか、音読みで言えば、別に間違いではない。
  5. 斎藤義龍いわく「本当の父親」。

藤堂高虎

  1. 当時の人物の平均身長(160cm前後)からえらく乖離した、六尺三寸(190cm)を越える大男。
  2. 戦国武将の中では加藤清正に比肩する築城の達人として名高い。
    • 高虎「石垣は高くてナンボ、あとはお堀で補うべし」清正「いやいや、石垣は反りを大きくして人が登れないようにしないとな」という具合に特徴が違うらしい
  3. 浅井長政に始まり徳川家康まで幾度も主を変えたため、変節漢、裏切者と言うネガティヴな印象で語られることが多い。
    • 実際は優秀な人材があちこちから引っ張りダコにされるようなもので、彼自身が謀反を起こしたとかは一度もない。
    • 3番目の主君の磯野員昌や5番目の羽柴秀長は敬愛していたようで、後に大名になったときに員昌の子を召抱え、大坂の陣の後に加増もしている。
      • 逆に4番目の津田信澄には嫌われていて、手柄を上げても加増されなかったから嫌になって浪人になっていたところを秀長に拾われた。
        • 呂布「そうだな、恩賞少なければもらえる所に行かないとな!! こいつはわかっている」
  4. 外様だが、徳川政権下でも譜代並に重用された。
    • その重用たるや外様筆頭なんていわれたり、西に対する要衝の伊勢・伊賀・志摩の国を与えたり、さらに家康の臨終にも特別に枕元へ呼ばれたりと外様の割にはかなりの破格。
  5. 頭の切れる印象が強いが、本人の腕っ節もかなりのものだった。
    • 腕っ節だけでもひとかどの人物だったが、「上に登るのに必要なスキルは何か?」と考えて築城や外交術を勉強した偉い人。
  6. 晩年、目が見えなくなった。将軍秀忠が「廊下をまっすぐにして迷わず俺ンとこ来れるようにしようか?」と持ちかけるも丁重に辞退。
  7. 遺訓は「主君に仕える際は誠心誠意、力の限り奉公せよ。それで数年経っても評価してもらえないならば、いっそ主君を変えてしまえ」という内容だった。
    • でも子孫の高猷は幕府軍からあっさりと政府軍に鞍替えしたもんで、「藩祖の薫陶が行き届いているな」という皮肉で敵味方問わず「裏切り者」扱いになっちゃったりもしている。
      • 当家元来豊家の家臣でございます。
  8. 貧しいときに餅をめぐんでくれた三河吉田の宿の主人に、大名になった後手厚く恩返しをした。
    • このときのエピソードから生まれたのが「三つ餅」の旗指物、らしい。
  9. 朝鮮へはなぜか水軍の将として出陣。

徳川信康

  1. 家康の長男。母親は今川義元の養女の築山殿。
    • なかなか武勇にすぐれていたらしく、関ヶ原の戦いがやや膠着状態になっていた時に、家康が
      「あやつが生きておればなあ」
      と述懐したとか。
  2. 嫁は信長の娘。
    • 「五徳」という名前であったとされるが、疑わしい。女の名前じゃないだろ、こんなの。
      • 「徳姫」とも言われるが、これは織田側から見て「徳川家に嫁入りした姫」というだけの意味。「五徳」の徳も同様。
        • 同様に秀忠の妻「お江 or お江与の方」も江戸に嫁入りした女、という意味合い。
      • 「五」のほうは本人の手紙に書かれた署名なので、「五」を含む名前であったのは確かと思われる。
        • 当時の女性の署名は、名前の最初の一文字(今で言うイニシャル)を書くだけというのが普通だった。
      • 息子に奇妙とか、茶筅とかつける信長だからなぁ・・・。女の名前じゃないのも良いんじゃないかと思う。
      • 織田家の記録に「ごとくひめ」とあるから名前は五徳でほぼ決着済み
      • そもそも五徳とは仁義礼智信の五つの徳のことだからそんな変な言葉でもない。
  3. 夫婦喧嘩の末に命を落とす。
    • 嫁が勢いに任せて、実家にあることないこと12箇条ばかり言いふらした。
    • 義父の信長は、徳川家の重臣・酒井忠次を呼んで事情を訊いたが、12箇条のうち10箇条について申し開きができなかった。
      • 実は忠次が信康を嫌っていたので、あえて申し開きをしなかったという説も。
    • 信長は家康に、信康の誅殺を命じる。家康、逆らえずに実行。
      • 検分役の配下に、信康をこっそり逃がすようにそれとなく指示したが、その配下が堅物で空気を読めず、あっさり殺してしまったのだとも言われる。
      • 実は信長はそんなことを命じておらず、家康が勝手に(対立していた)信康を誅殺して、あとで信長のせいにした……とも言われる。
  4. 父に見捨てられていた弟の秀康を救済し、父と対面させたという美談もある。
  5. 徳川の姓を継ぐ前に処刑されたので「松平信康」が正解、という説も結構ある
    • むしろ史学的には一応「松平信康」の方が正しいらしいのだが、秀忠も相続前から「徳川秀忠」と呼ばれるのでその理論はお察し
      • 「岡崎信康」と言う呼び方も、あるようだが・・・。
        • まあ家康が浜松本拠にしてから、信康が岡崎城の城主だったし。

豊臣秀次

  1. 無能と言われるが、負けたのは小牧・長久手の戦いのみ。
  2. 暴君か名君か評価の分かれる人物。
    • 宣教師の記録だと、性格は温厚で、物事を熟慮するタイプだったらしい。江戸時代だったらいい殿様だったかもしれないが、戦国武将としては微妙だったのだろう。
  3. 最後は高野山で自害させられた。彼の一族もみな粛清されたという。
    • 側室や子供に至っては、殺されてまとめて埋められた後、塚がひとつ建てられたのみ。名も『畜生塚』という酷いもの。
      • 「殺生関白」の一族だからという理由だが、誰もそう思わなかった。「畜生は×××××だろう……」と。
      • 側室の実家で亡骸を引き取ることも許されなかった。側室には大名の娘も多かったので、秀吉の評判、上も下も等しく下落。
      • その塚を整備したのは天竜川の開発で有名な角倉了以である。
        • 高瀬川の開削作業中に荒れ果てた『畜生塚』を憐れんで「畜生」の2文字を削って塚を修復し、さらに供養のために瑞泉寺を建立したという。
      • 見世物感覚で集まった庶民は、鴨川を血に染めるほどの余りの処刑の惨たらしさに執行人に対して罵声を浴びせたとか、見に来たのを後悔したという民が多数だったとか。
      • 中には最上義光の娘・駒姫の様にまだ旦那とあったことすらないのにもかかわらず、秀次の妻という事でとばっちりを食う形で同じく処断された。義光が後の関ヶ原の戦いで徳川方に付く遠因になったとされる。
      • 側室の実家で亡骸を引き取ることも許されなかった。側室には大名の娘も多かったので、秀吉の評判、上も下も等しく下落。
    • 原因として石田三成の讒言説もあるらしいが、全くのでっち上げ。三成自身、取り潰された秀次家臣を多く石田家に採用している。
    • 一族もそうだが、木村常陸介や前野長康といった秀次付きの家臣はことごとく切腹を命じられ、秀次の縁戚の菊亭晴季、果ては小早川秀秋や里村紹巴、曲直瀬玄朔、瀬田正忠(利休の高弟)など、多くの公卿・大名・家臣などが罰せられている。もはや、耄碌した秀吉のヒステリーと言わざるを得ない。
      • なお秀次と懇意にしていた伊達政宗は「豊臣家の二代目に尽くすのは当然でしょ」と言い訳して華麗に回避。 一番怪しいやつなのに。この危機回避能力は流石である。
  4. 秀頼誕生後の秀吉からの疎まれようは尋常じゃない。

豊臣秀長

  1. 秀吉の弟。
    • 異父弟説と実弟説がある。
      • 異父弟説の根拠は、当時の噂としてある公家が日記に書き留めているということと、幼名「小竹」が秀吉の継父の名前「竹阿弥」と通じるかららしい。
      • 実弟説の根拠は、秀吉の実父が死んだのが秀長誕生より後のことだったらしいから。秀吉の母が、実父と離婚して竹阿弥と再婚したとは考えづらいので。
    • 大河ドラマ「秀吉」で、原作者の堺屋太一が原作本の中でかなりのスペースをとって実弟説を考証していたのに、ドラマになるとその点はガン無視、通説どおり異父弟ということになっていた。
      • ただでさえ大河好きのじっさま達の知ってる話とはかけ離れてたから(がんまく=石川五右衛門とか)史実かどうかは別として多少は通説どおりの設定もいれとかねぇと、とでも思ったか。
  2. 実は成り上がり距離は秀吉に肉薄し、おそらく齋藤道三や北条早雲を上回る戦国第二位。
    • 22歳まで貧しい農民として過ごしていたのに、30年ほどのうちに大和・紀伊のほぼ全域を領する120万石の大大名に。
      • おまけに官位は関白太政大臣秀吉、内大臣徳川家康に次ぐ大納言。
  3. 突っ走り気味な兄貴をよく支え、天下盗りを助けた殊勲者。
    • 自分の手柄を決して吹聴しようとしなかった。戦国人としては稀有なタイプ。
    • そのため地味な印象があるが、実は戦場ではほとんど負け知らず。秀長自身の責任による敗戦は皆無に近い。
      • 攻撃も手堅かったが、防衛戦にはもっと強かった。賤ヶ岳で秀吉が勝てたのは、大返しの奇襲効果もさることながら、前線にいた秀長が佐久間盛政の猛攻に耐えて一歩も引かなかったおかげ。
        • おねさん (高台院)、そしてこの秀長が秀吉の脇を固めていたことが秀吉最大の幸運かもしれない。
    • 秀吉も秀長の働きを大きく評価し、木下家→羽柴家→豊臣家の総収入の中の1割を常に秀長に与えていたらしい。
      • 知行300貫の美濃時代は30貫、12万石の長浜城主時代は1万2千石、などなど。
    • 島津軍に圧迫されてたまらず上京した大友宗麟を懇切に元気づけ、「うちうちのことは利休に、おおやけのことはこの秀長にお申し付け下され」と言った。弟なのにうちうちのことにタッチしなかったあたりが賢明である。
    • 一言で言うと、秀吉のキルヒアイス
  4. 秀吉に先立って死去。
    • 秀吉は「大納言(秀長)が死んだら豊臣の家はどうなるんじゃあ」と泣き叫んだらしい。その後の経過を見ると、秀吉の本音だったようだ。
    • 息子はおらず、姉の子(秀保)を養子にしていた。しかしこの秀保、兄の秀次以上に狂騒人で、結局非業の死を遂げた。
      • 小姓に「そこの崖から飛び降りてみよ」と命令したところ、やけになった小姓が秀保を抱きかかえたまま飛び降り、二人とも墜落死した……という不気味な話も。
        • その話も秀次を悪人に仕立て上げるために、その兄弟も悪人に仕立て上げた作り話だろう。
  5. もともとの名乗りは長秀だったが丹羽長秀に遠慮して秀長にしたと堺屋太一が小説のなかで書いてたけど…実際どうなんだろう?
    • 上位者からの偏諱を先にするのが礼儀なので、最初長秀だったのはたぶん本当。紛らわしいから逆にしたのだと思われる。
      • ただし「長秀」時代には、この名乗りを用いるような機会はほとんど無かっただろう。

鳥居強右衛門

  1. 奥平家に仕えた武将…というか、一介の足軽。長篠の戦いにおけるキーパーソンの一人。
  2. 名前だけ見れば前髪が特徴的なボンボンと青狸のフュージョンと感じる。

鳥居元忠

  1. タヌキの最も信頼していた男らしい。
    • その割には、捨石にしているので実際にはどうだったのか。
      • あんなヤバイ役本当に信頼してなきゃ任せられん。家名こそ誉、討死も軍功の内の価値観で見れば、そこら辺は最大限の抜擢だ。
    • 一応、清州にも駿府にも付いて行っていたらしい。
  2. 忠臣として江戸時代には有名だった。
    • その名は、明治維新の時の新政府軍も敬意を払うほどで、江戸城内に置かれていた元忠血染めの畳は、一切傷を付けられることなく、鳥居家所縁の寺に送られたそうな、
  3. 実は玄孫が大石内蔵助であるというのは知られていない。

戸沢盛安

  1. 出羽角館の大名。なのに小田原の役では秀吉を西から追いかけていた。

関連項目

戦国武将
あ~お/か~こ/さ~そ/た~と/な~の/は~ほ/ま~わ