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==1リーグ制時代== | |||
;1936年の大東京軍 | |||
#シーズン開幕前のオープン戦(vs東京瓦斯)で9回にエラーが重なり9点を取られて逆転負け。監督の永井武雄はその場で解任されてしまった。 | |||
#後任の伊藤勝三が選手兼任監督として指揮を執った(11月に小西得郎に監督交代)が春季・夏季シーズンは1勝も出来ず、秋季シーズンも5勝しか出来なかった。 | |||
# | |||
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;1944年の日本プロ野球 | |||
# | #太平洋戦争の戦局悪化に伴い、日本野球連盟は名前を「日本野球報国会」に改称。 | ||
# | #*選手達は平日は軍需工場で働き、試合は週末を中心に行われた。 | ||
# | #*徴兵による出兵などで選手数も激減。4月の開幕時点で6球団合わせて僅かに74人という事態に…。 | ||
# | #*「個を主張してはならない」との理由で、背番号も廃止されてしまった。 | ||
# | #春季リーグ・夏季リーグはなんとか開催されたが、夏季リーグの終了時点で徴兵される選手が続出。 | ||
#*この時点で9人揃っているのは阪神だけとなり、秋季リーグは中止。 | |||
#**2球団混成で3チームを作り「日本野球総進軍優勝大会」を秋季リーグの代替として開催した。 | |||
#11月13日に日本野球報国会は活動の休止を表明。 | |||
#*但しこの中に「在京球団の選手で希望するものは関西球団に委託」という文章があり、この時点で関西での試合はまだ可能と判断されていた。 | |||
#**事実、関西の4球団(阪神・阪急・朝日・<!--南海→-->近畿日本)は甲子園や西宮で12月まで試合を行っていた模様。[http://www.genmatsu.com/rekisi/kojo.htm 参考資料] | |||
#*翌1945年も「正月大会」として数試合が開催され、全試合の終了後に「サヨナラ大会」を3月に行うと選手たちに通達されたが、直前の大阪大空襲で試合は中止となってしまった。 | |||
#*この時、かのスタルヒンも白人ということで軽井沢に軟禁される(本当はソ連の対日宣戦前な上に白系ロシア人のスタルヒンは敵国人ではない) | |||
== | ==1950~60年代== | ||
# | ;1950年の松竹ロビンス | ||
# | #「水爆打線」と呼ばれた豪快な打線でセントラル・リーグの初代王者に輝いたが…。 | ||
#日本シリーズ(当時は日本ワールドシリーズ)開幕から終了後の時期に、39勝を挙げたエースの真田重男と51本塁打を記録した主砲の小鶴誠の間で対立が発生。 | |||
#内紛を抱えたまま挑んだ日本シリーズでは毎日オリオンズに2勝4敗で敗れてしまった。 | |||
#*シリーズ終了後に監督の小西得郎は「こんなチームの監督はやってられない」と監督を辞任。 | |||
;1952年の松竹ロビンス | |||
# | #勝率低迷の切り取り決により大洋と合併する羽目になった。 | ||
<!--;1958年の読売ジャイアンツ | |||
# | #ゴールデンルーキー長嶋加入、日本シリーズでは王手からの連敗。--> | ||
;1959年の[[読売ジャイアンツ]] | |||
# | #ペナントレースではリーグ5連覇を達成するも、日本シリーズでは杉浦忠を擁する南海ホークスに4連敗した。 | ||
# | #*日本シリーズで引き分けを挟まず4連敗したのはこの時の巨人が最初。 | ||
;1960年の大毎オリオンズ | |||
# | #「ミサイル打線」と渾名された強力打線を擁してリーグ優勝したが、日本シリーズでは魔術師:三原脩監督率いる大洋ホエールズに4連敗した。 | ||
# | #*シーズン中に大毎は引き分けを挟んでの18連勝を記録するなど絶好調だったたが終盤に失速、結局優勝を決めたのは最終戦の2試合前だった。 | ||
# | #この年の大毎オリオンズを率いたのは後に阪急や近鉄で黄金時代を築く西本幸雄だったが、日本シリーズで敗戦した際にオーナーからの電話で口論になりシリーズ終了後に1年で解任されてしまった。 | ||
;1961年の大洋ホエールズ | |||
# | #前年日本シリーズ4連勝で日本一に輝いたが、この年はタイトルホルダーこそ出したものの最下位に沈んだ。 | ||
# | #*日本プロ野球史上初めての「日本一のチームが翌年最下位」という事態に陥った。 | ||
# | #*さらに翌年と3年後の1962、64年はあと一歩のところで阪神に優勝をさらわれた。そして結局、1960年は「大洋ホエールズ」としての最初で最後の日本一(リーグ優勝)ということになってしまった。 | ||
;1961年の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]] | |||
# | #開幕直後に4連敗、4月中旬に8連敗、5月中旬に6連敗、その後も6月から8月にかけて10連敗を3度も記録するなど大型連敗を繰り返した。 | ||
# | #*最終的な成績は36勝103敗1分、勝率は.261。 | ||
#**優勝した南海には51.5ゲーム差、5位の阪急にも18ゲーム差と大きく引き離されて4年連続の最下位となり、千葉監督は責任を取って辞任。 | |||
#6月3日、西宮球場での阪急ブレーブス戦でジャック・ブルームが「ヤンキー・ゴー・ホーム!」とヤジを飛ばした観客に激怒し、スタンドに乗り込んでその観客を蹴り飛ばし、制裁金5万円・出場停止7日間という処分を受けてしまった。 | |||
#この年、後に近鉄の主力打者となる土井正博が入団したが、この年の一軍出場は無かった。 | |||
=== | ==1970~80年代== | ||
;1973年の[[阪神タイガース]] | |||
#巨人と激しい優勝争いを展開し、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、中日球場での対中日戦で敗戦、甲子園での巨人との最終戦に至っては1勝もできず(0対9)、巨人のV9を許した。 | |||
#最終戦終了後、阪神のあまりの惨敗っぷりに怒ったファンがグラウンドに乱入し、巨人ベンチを襲撃するなど暴動を起こしたのは有名な話。 | |||
#シーズン終了後にはこの年に実働20年の連盟表彰を受けていた権藤正利が金田正泰監督を殴る事件が発生した。 | |||
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;1975年の読売ジャイアンツ | |||
# | #長嶋茂雄が監督に就任して1年目の巨人だったが、チーム創設以来初めてリーグ最下位に終わった。 | ||
#*なお、巨人が最下位に終わったのはこの年が唯一である。 | |||
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;1977年の南海ホークス | |||
# | #この年の南海の成績は2位とさほど悪い成績ではなかったが、残り2試合を残した9月28日に野村克也監督の電撃解任を発表。 | ||
#*当時はまだ愛人関係にあった沙知代(当時伊東芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で、野村を大事にしていた川勝傳オーナーの耳にも入り解任に至った。 | |||
#野村と打撃コーチの高畠康真はロッテに、柏原純一は日本ハムに、江夏豊は広島にそれぞれ移籍。 | |||
#* | #この年を最後に南海はAクラスに入ることなく、1988年にダイエーに身売りされた。 | ||
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;1978年の[[阪急ブレーブス]] | |||
# | #日本シリーズ第7戦でヤクルトの大杉勝男のHR判定を巡って上田利治監督が1時間19分の猛抗議をするも判定は覆らず。先発していた足立光宏が試合再開後に降板し、その後はヤクルトにボコボコにされ、シリーズ4連覇の夢は消えてしまった。 | ||
#* | #*上田は抗議の責任を取る形で、翌日監督を辞任。 | ||
;1979年のヤクルトスワローズ | |||
# | #前年阪急との死闘の末悲願だった日本一に輝いたが、この年は最下位に沈んだ。 | ||
# | #*皮肉なことに広岡達朗監督が「守れない選手はいらない」と放出したチャーリー・マニエルを獲得した近鉄バファローズがこの年球団史上初のリーグ優勝を決めている。 | ||
;1981年の横浜大洋ホエールズ | |||
# | #開幕から低迷が続き、シーズン終盤の9月24日の試合を最後に土井淳監督は休養。残りの試合は山根俊英投手コーチが指揮を執った。 | ||
# | #最終成績は42勝80敗4分で最下位。優勝した巨人からは31.5ゲーム差・5位の中日からも15.5ゲーム差を付けられてしまった。 | ||
# | #唯一の明るい話題は山下大輔がベストナインとダイヤモンドグラブ賞のタイトルを獲得したことぐらい。 | ||
;1987年の阪神タイガース | |||
#掛布とバースが相次いで交通違反で検挙、更に仲田幸司への指導を巡って新山コーチと野村コーチが対立するなど開幕前から悪いニュースが続いた。 | |||
# | #チームも4月の後半に最下位転落。西武から獲得した田尾安志も5月に入るとスタメンから外れるようになり最下位を独走していく。 | ||
# | #投手陣はキーオが11勝、打撃陣はバースが37本塁打を記録し孤軍奮闘したが、それ以外の選手が軒並み不振だった。 | ||
# | #最終成績は41勝83敗6分、勝率は球団ワーストの.331で9年ぶりの最下位に転落。吉田義男監督は日本一から僅か2年で監督を解任された。 | ||
;1988年の[[中日ドラゴンズ]] | |||
# | #4月終了時点で首位の広島に8ゲーム差の最下位、その後巻き返したが7月頭に巨人との北海道シリーズで3タテを喫してしまう。この時点での成績は29勝31敗2分で2つの借金。 | ||
# | #ここから怒涛の巻き返しを見せ、50勝15敗3分・勝率.769という驚異の成績で、10月7日のヤクルト戦を大勝し6年ぶり4度目の優勝。 | ||
#* | #*しかし昭和天皇の体調悪化もあり、祝勝会(ビールかけ)は自粛となってしまう。 | ||
# | #西武との日本シリーズではシーズンで18勝を挙げた小野和幸が第1戦・第5戦と打たれ、更に主砲の落合博満も本塁打・打点ともに0と西武に封じ込まれ、1勝4敗で無念の敗退。 | ||
;1988年の近鉄バファローズ | |||
# | #終盤に前年までリーグ3連覇中の西武と熾烈な優勝争いを繰り広げ、残り3戦を3勝が優勝の絶対条件となるも、伝説の10.19・VSロッテ戦(川崎球場)で第2試合で時間切れ引き分けとなり、西武の4連覇を許す羽目に。 | ||
== | ;1989年の近鉄バファローズ | ||
#宿敵西武、オリックスを打ち破りリーグ優勝。日本シリーズでも巨人に序盤3連勝し、日本一まであと一歩だったのにその後4連敗。巨人に逆転優勝を許してしまった。 | |||
==1990年代== | |||
# | ;1990年の読売ジャイアンツ | ||
#ペナントレースでは88勝、2位と22ゲーム差という大独走で優勝するも、日本シリーズでは西武ライオンズに4連敗した。 | |||
;1994年の中日ドラゴンズ | |||
# | #シーズン中盤まで巨人との首位争いとなったが、8月に8連敗を喫し広島に逆転を許す。 | ||
#しかし、9月に入ると持ち直し、9月20日からの9連勝などで、10月7日時点で巨人と69勝60敗で同率首位となる。 | |||
#巨人をあと一歩まで追い詰めたものの、例の10.8決戦で3-6で敗戦し、優勝を逃した。 | |||
;1994年の[[北海道日本ハムファイターズ/東京時代|日本ハムファイターズ]] | |||
# | #前年は西武と熾烈な優勝争いを展開したが、この年は5球団全てに負け越し最下位。 | ||
# | #*打率・得点・安打・打点・防御率・失点・盗塁もリーグ最下位。 | ||
#本拠地最終戦終了後のセレモニーで大沢啓二監督は土下座。この年限りで監督を辞任している。 | |||
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;1995年の中日ドラゴンズ | |||
#前年は巨人と熾烈な優勝争いを展開したが、打撃陣の怪我続出・投手陣の崩壊で前半は最下位。 | |||
# | #6月3日には高木守道監督が休養(その後解任)、徳武定祐ヘッドコーチが監督代行に就任したが流れは変わらずオールスター前の7月23日に解任。 | ||
# | #*残りのシーズンは二軍監督の島野育夫が指揮を執った。 | ||
# | #最後の阪神との4連戦には勝ち最下位は免れたが、優勝したヤクルトには32ゲーム差・4位の横浜にさえ16ゲーム差を付けられてしまった。 | ||
;1996年の福岡ダイエーホークス | |||
# | #王貞治監督を招聘、低迷脱却とはいかず王監督を中傷する横断幕、バス囲みも。 | ||
# | #結局、首位オリックスと22ゲーム差の最下位に終わった。 | ||
#*この年で南海時代から19年連続Bクラスとなり、それまで広島が記録した連続Bクラス日本記録である1950年から1967年までの18年連続を更新した。 | |||
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;1997年の読売ジャイアンツ | |||
# | #清原獲得で話題をさらうも一塁手が飽和、Bクラスに終わる。 | ||
# | #*それも中盤まで最下位にいたほどだった。 | ||
;1997年の中日ドラゴンズ | |||
# | #この年から本拠地が狭いナゴヤ球場から広いナゴヤドームに変わったが、前年最後まで優勝争いをしたこともあり開幕前は優勝候補の一角に挙げられていた。 | ||
# | #しかし開幕後は自慢の強竜打線が沈黙。8月の大きな負け越しが響き、最終成績は5年ぶりの最下位となってしまった。 | ||
#* | #投手陣は18勝7敗で最多勝のタイトルを獲得した山本昌、38セーブを挙げた宣銅烈、2年目の門倉健が10勝12敗と二桁勝利を挙げたこと以外は全体的に不振だった。 | ||
#* | #*特に前年チーム最多勝の14勝を挙げた今中慎二が2勝2敗、前年7勝4敗の前田幸長が2勝13敗だったのが痛かった。 | ||
#打撃陣も前年の39本塁打でホームラン王を獲得した山崎武司が半減の19本、前年38本塁打の大豊泰昭が約3分の1の12本、前年.340で首位打者のパウエルが.253と全体的に不振だった。 | |||
#*新外国人のゴメスは3割30本(.315 31本)をクリアしたのだが…。 | |||
#シーズン終了後、星野監督は不振だった大豊泰昭と2番手捕手の矢野輝弘を阪神にトレードで放出し、関川浩一・久慈照嘉を獲得。 | |||
#コーチ陣では小松辰雄投手コーチや柏原純一打撃コーチなどが成績不振の責任を取り辞任した。 | |||
;1998年の福岡ダイエーホークス | |||
#前年に発覚したプロ野球脱税事件に関与した小久保浩紀、ヒデカズ、斉藤貢、本間満、藤井将雄の主力5選手が3-8週間の出場停止処分を下され、開幕からしばらく出場出来なかった。 | |||
#また、シーズン中には地元・西日本新聞のスクープで、いわゆる「スパイ疑惑」が報道される。 | |||
#なお、その年は3位に入り、連続Bクラスの記録が20でストップした。 | |||
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;1998年の千葉ロッテマリーンズ | |||
# | #ダブルストッパーの成本年秀、河本育之がそろって故障するなど投手陣が崩壊し、プロ野球新記録の18連敗を記録。エース黒木知宏は最多勝と最高勝率の2冠に輝いたが18連敗はあまりにも重くチームは最下位に低迷、責任を取って近藤昭仁監督は辞任した。 | ||
# | #*おまけに近藤監督は辞任会見の席上で「もっと強いチームで監督をやりたかった」と発言し、ロッテファンの非難を浴びた。 | ||
# | #*本当に「18連敗さえなければ」大分まともな成績だった。 | ||
;1999年の中日ドラゴンズ | |||
# | #開幕11連勝もあり開幕ダッシュに成功。6月に一日だけ阪神に首位の座を譲ったが7月以降は再び独走態勢に。 | ||
# | #終盤に巨人の猛追を喰らったが8連勝で振り切り、9月30日のヤクルト戦(神宮)で11年ぶりのリーグ優勝を決めた。 | ||
# | #しかし日本シリーズではレギュラーシーズンで活躍した山崎武司の負傷欠場や関川浩一・福留孝介・井上一樹の不調が響き、ダイエーに1勝4敗で敗退。 | ||
== | ;1999年の阪神タイガース | ||
#ノムさんこと野村克也の監督就任1年目の阪神。6月に中日を抜いて一時首位に立った。 | |||
# | #しかし、勢いはすぐに無くなり、それどころか球団記録タイの12連敗を喫し、2年連続の最下位に終わった。 | ||
# | #一方二軍はウエスタンリーグを2年連続で制覇し、さらにファーム日本選手権も制し初の日本一となった。 | ||
#* | ==2000年代== | ||
# | ;2000年の[[中日ドラゴンズ]] | ||
# | #初の2連覇を目指すも五輪で来日して獲得したディンゴが不発、巨人に目の前で劇的優勝を見せられる。 | ||
#投手陣は新外国人のメルビン・バンチが14勝8敗、山本昌が11勝9敗、宣銅烈の穴埋めで獲得したエディ・ギャラードがリーグ最多の35セーブと活躍したが、前年19勝の野口茂樹が9勝・前年9勝の武田一浩が3勝・前年8勝の川上憲伸が2勝と総じて不振。 | |||
#*パ・リーグからの移籍組だった小池秀郎・佐野重樹・鈴木平の成績不振も大きかった。 | |||
#打撃陣は立浪和義・山崎武司・レオ・ゴメスこそ例年通りの活躍だったが…。 | |||
#*関川浩一(打率は前年.330から.260に下がった)・福留孝介(前年.284・16本塁打が.253・13本塁打に数字を落とした)の不振が大きかった。 | |||
;2002年の横浜ベイスターズ | |||
# | #この年から経営母体がマルハからTBSに譲渡されたが…。 | ||
# | #谷繁元信・小宮山悟の移籍による戦力の低下、更に主力メンバーの不振が蔓延した結果、開幕から記録的な低迷を続け16年ぶりの13連敗を喫するなど最下位を独走。 | ||
# | #*結局シーズン終盤の9月25日に森祇晶監督は契約を一年残して解任された。 | ||
#* | #**監督代行はヘッド兼打撃コーチだった黒江透修がシーズン最終戦まで務めた。 | ||
#* | #チーム防御率・失点はリーグ5位、打率・得点・安打・本塁打はリーグ最下位、サヨナラ勝ちもなし、観客動員も大幅減少と、踏んだり蹴ったりのシーズンとなってしまった。 | ||
#*明るい話題は2年目の吉見祐治が11勝を挙げて新人王を争ったことぐらい。 | |||
;2002年の阪神タイガース | |||
# | #この年より星野仙一が監督に就任。当時5年連続リーグ最下位を喫し「ダメ虎」と言われた阪神の改革を任されたが…。 | ||
#開幕戦の巨人戦で勝利し12年ぶりに開幕戦を勝利で飾る。勢いそのままに巨人を3タテし開幕7連勝でスタートし、序盤こそ巨人と首位争いを繰り広げる。 | |||
#しかし、夏に差し掛かるとレギュラー選手に相次いで故障離脱が続出。 | |||
#*特に赤星・矢野の離脱は痛かった。 | |||
#*日韓ワールドカップの開催による変則日程の影響も少なからずあると思う。 | |||
#**因みにワールドカップ開催中の6月の阪神の成績は4勝13敗。 | |||
#後半戦には、当時の阪神名物であった大型連敗8を喫し、星野監督の怒りは頂点に。 | |||
#結局、最下位は脱出したものの、Aクラス進出に失敗し4位に終わる。 | |||
#*オフには「血の入れ替え」とも称される大改革を決行し大量20人が退団。さらには、巨人もびっくりの大型補強を実施。 | |||
#**これが翌年の18年ぶりの優勝につながったという見方もある。 | |||
;2002年の西武ライオンズ | |||
# | #ペナントレースでは90勝、近鉄やダイエーと16.5ゲーム差という1990年の巨人を彷彿とさせる大独走で優勝するも、この年の日本シリーズは1990年とは逆のパターンで巨人に4連敗した。 | ||
;2002年のオリックス・ブルーウェーブ | |||
# | #8年間監督を務めた仰木彬が前年に退任、新監督に西武黄金時代のチームリーダー・石毛宏典が就任したが…。 | ||
#他球団に移籍した田口壮・アリアス・加藤伸一の穴を埋められず、最終成績は50勝87敗3分で39年ぶり・オリックスになってからは初の最下位となってしまった。 | |||
#投手陣は金田政彦(防御率1位)・具臺晟(防御率2位)・山口和男(ダイエー戦で158㌔を2回計測)などまずまず良かった(チーム防御率は3.58で前年より向上している)が、打撃陣チーム打率.235(前年は.263)と大不振。 | |||
#*こんな状況のため、金田は4勝、具臺晟は5勝しか挙げられなかった。 | |||
#唯一の明るい話題は打率.326・41盗塁を記録しベストナインを獲得した谷佳知ぐらい。 | |||
;2003年のオリックス・ブルーウェーブ | |||
# | #負け数・勝率こそセ・リーグ最下位の横浜に及ばないものの、140試合で927失点、チーム防御率が史上最悪の5.95で最下位になった。 | ||
# | #*あまりの低迷に石毛宏典監督が解任されるも、後任のレオン・リー監督では投壊に拍車がかかった。 | ||
# | #優勝したダイエー相手に20失点以上の敗戦が4回もあった。 | ||
# | #*しかも7月27日に7-26で負け、そのわずか5日後の8月1日にまた1-29で負けた。 | ||
# | #*なお上記以外の2試合ではオリックスも11点取っている。 | ||
;2005年の東北楽天ゴールデンイーグルス | |||
# | #記念すべき球団創設1年目のシーズン。開幕戦のロッテ戦こそ岩隈久志の好投で3-1で勝利したが、その翌日の試合では0-26という歴史的大敗を喫してしまう。 | ||
# | #その後は戦力差や経験不足もあり2度の11連敗を記録するなど最下位を独走。 | ||
# | #*シーズン100敗こそなんとか回避したが、最終成績は38勝97敗1分という結果に終わった。 | ||
# | #投手陣は岩隈久志が9勝15敗、福盛和男が49試合に登板して4勝3敗11セーブ、吉田豊彦が50試合に登板して2勝2敗1セーブ12ホールドと奮闘したが…。 | ||
# | #*先発として期待されたケビン・ホッジスが2勝12敗、ゲーリー・ラスが3勝9敗、新人の一場靖弘は3勝10敗と散々な成績だった。 | ||
#打撃陣は前年オフにオリックスを自由契約となった山崎武司が25本塁打・65打点をマーク。元近鉄勢の礒部公一・吉岡雄二・高須洋介も気を吐いたが…。 | |||
#*4番として期待されていたルイス・ロペスが打率.223・12本塁打(但し得点圏打率は3割)、途中獲得のアンディ・トレーシーも打率.209・6本塁打と精彩を欠く結果に。 | |||
#シーズン終了後に田尾安志監督は辞任。後任には社会人野球・シダックス監督の野村克也が就任することとなった。 | |||
;2006年の読売ジャイアンツ | |||
# | #原監督復帰、李承燁獲得で快進撃も故障者続出で初の2年連続Bクラス。 | ||
#* | #*開幕直後は首位を独走するも、セ・パ交流戦で11連敗を喫する大失速。一時は最下位に沈む大転落ぷりとなった。 | ||
# | #**特にロッテ相手には6戦全敗と、「巨人はロッテより弱い」を地で行く結果に。 | ||
;2006年の横浜ベイスターズ | |||
#前年Aクラス(3位)だったことから大きな補強をせずにシーズン開幕となったが…。 | |||
# | #親会社のTBSから派遣されたフロントと牛島和彦監督が対立し、チームも4月・5月と大負けを繰り返し最下位に転落。 | ||
# | #*6月に一瞬復調の兆しを見せたが、8月以降は黒星先行となり最終成績は58勝84敗4分で2年ぶりの最下位となってしまった。 | ||
#投手陣は門倉健(10勝9敗)・三浦大輔(8勝12敗)・クアトロK(木塚敦志・川村丈夫・加藤武治・クルーン)が奮闘したが…。 | |||
#*吉見祐治が2勝9敗、那須野巧が3勝8敗、土肥義弘が3勝7敗と負け越したのが痛くチーム防御率は4.25でリーグ最下位。 | |||
#一方で打撃陣は村田修一が34本塁打・114打点を記録しチームの4番に成長、吉村裕基がチーム2位の26本塁打を記録するなど若手の成長が目立つ一年となった。 | |||
#結局、牛島監督は最下位の責任を取って辞任しTBSの野球解説者に復帰。後任には1998年の日本一の土台を作った大矢明彦が就任した。 | |||
;2007年の読売ジャイアンツ | |||
# | #第2次原監督時代として初のリーグ優勝を果たすも、この年より導入したクライマックスシリーズで中日に3連敗を喫する。 | ||
# | #*そのため、リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できなかったチームはこの巨人が初となった。 | ||
;2008年の阪神タイガース | |||
# | #2位と最大13ゲーム差からのまさかのV逸。 | ||
# | #そして2位で迎えたCSも中日に破れ、日本一への道も閉ざされる。 | ||
# | #某掲示板では「Vやねん!」が未だにネタにされるほど。 | ||
# | #このV逸の責任をとり岡田彰布監督が辞任した。 | ||
# | #矢野輝弘、新井貴浩、 藤川球児が北京オリンピックに出てよかったことなんて無かった。 | ||
;2008年の横浜ベイスターズ | |||
# | #前年の成績は借金1の4位と健闘したこともあり、大矢監督は開幕前に「優勝は難しいが今年こそCSを目指す」と宣言。 | ||
# | #しかし4月に7勝18敗と躓き、その後もズルズルと負けを重ね最下位を独走。 | ||
#*シーズン終盤には球団タイ記録の14連敗を喫し、最終的には5位のヤクルトにも19ゲーム差を付けられ2年ぶりの最下位となってしまった。 | |||
#投手陣はチームで唯一規定到達の三浦大輔が7勝10敗・防御率3.56、クルーンの巨人移籍で抑え抜擢となった寺原隼人が22セーブを挙げるなど奮闘したが、チーム防御率はリーグ最下位の4.74を記録。 | |||
#一方で主砲の村田修一がキャリアハイの46本塁打で2年連続のホームラン王獲得、内川聖一が.378の高打率で首位打者獲得と打撃陣は良かったのだが…。 | |||
#因みにこの年の横浜の勝率は.338(48勝94敗2分)で内川の打率(.378)を下回っている。 | |||
#*この「首位打者の打率が所属チームの勝率を上回った」のは、1944年・近畿日本軍の岡村俊昭選手以来64年ぶりの珍記録だった。 | |||
;2008年の福岡ソフトバンクホークス | |||
# | #開幕戦でサヨナラ勝ち・交流戦では初優勝を達成。 | ||
#* | #*8月終了時点で2位だったが、9月に入ると10連敗・7連敗と大失速。 | ||
#* | #**8月末の西武との首位攻防戦での3連続引き分けが流れを変えたとも言われている。 | ||
#楽天とのシーズン最終戦は延長12回表に松中信彦が痛恨のゲッツー。 | |||
# | #*その裏に馬原孝浩が山崎武司にサヨナラタイムリーを喰らい、12年ぶりの最下位が決まってしまった。 | ||
#* | |||
== | ==2010年代== | ||
;2010年の福岡ソフトバンクホークス | |||
# | #ソフトバンク時代としては初となるリーグ優勝を果たすも、CSでロッテに日本シリーズ出場を献上した。 | ||
# | #*そのため、日本シリーズ出場&日本一は翌年まで待つ事になった。 | ||
;2011年の東京ヤクルトスワローズ | |||
# | #開幕直後から首位を独走していたが、10月に入ってから中日に逆転され、最終的にその中日にリーグ優勝を献上した。 | ||
;2011年の[[千葉ロッテマリーンズ]] | |||
# | #前年3位から日本一という「下克上」を達成するも、この年はチーム総本塁打数が西武の主砲・中村剛也一人に負けるという貧打(ロッテ46本、中村48本)で最下位に沈んだ。 | ||
#*ロッテはこれで1975年前期とあわせて「日本一の翌年最下位」を2度味わった唯一のチームとなった。 | |||
#* | |||
;2013年の[[北海道日本ハムファイターズ]] | |||
# | #前年優勝も大型トレードをして最下位、トレード相手のオリックスもブービー。 | ||
;2014年の[[東北楽天ゴールデンイーグルス]] | |||
#前年は田中将大らの活躍により球団初のリーグ優勝・日本一に輝いた楽天だったが、星野監督の休養や田中のメジャー移籍などが響いたのかこの年は最下位に沈んだ。 | |||
# | |||
;2014年の読売ジャイアンツ | |||
# | #ペナントレースは7ゲーム差つけてリーグ優勝を果たすも、CSでは阪神にまさかの4連敗。 | ||
#*なお、巨人は2007年もCSで中日に敗れたため、リーグ優勝した巨人が日本シリーズに出られなかったのはこれで2回目となった(西武が2年連続でCSでソフトバンクに敗れるまで、2回も日本シリーズに出られなかった唯一のチームだった)。 | |||
#* | |||
;2015年の[[横浜DeNAベイスターズ]] | |||
# | #開幕10試合消化時点で、首位に立つ。 | ||
#しかし、交流戦で10連敗を食らって、堂々の最下位。 | |||
#そこから脅威の巻き返しで、巨人や阪神とのマッチレースを交わして、前半戦を首位でターン。 | |||
#しかし、オールスター明けに大失速。広島・ヤクルトに抜かされ、終盤は、中日との最下位争いを演じる羽目に。 | |||
#クライマックスの進出も消滅。終いには最終戦に敗戦し、最下位が確定。 | |||
#*前半戦首位で折り返しながら、シーズンを最下位で終えるプロ野球史上初(2期制時のパは除く)の赤っ恥となる。 | |||
#この責任を取って、中畑清監督(当時)が、辞任した。 | |||
#*でも、キヨシのおかげで選手がやる気を出したのは大きい。 | |||
;2016年の[[福岡ソフトバンクホークス]] | |||
# | #前半戦は快調に首位を飛ばすも、途中から最大11.5ゲーム差あった日本ハムの怒涛の追い上げを喰らい失速。終わってみればまさかのV逸。 | ||
# | #そして2位で迎えたCSもロッテには勝利したもののファイナルでまたしても日本ハムに破れ、日本一への道も閉ざされた。 | ||
# | #近年のホークスとしては珍しくリーグ優勝または日本一になれずに終わった数少ないシーズンである。 | ||
;2016年の[[オリックス・バファローズ]] | |||
# | #開幕'''前'''から1軍・2軍共に低迷した結果、なんとオープン戦、パ・リーグレギュラーシーズン、セ・パ交流戦、ウエスタン・リーグ全てで最下位に終わり、史上初の'''完全最下位'''という結果に。 | ||
# | #*オフもFAで糸井嘉男が阪神に移籍したり、逆に陽岱鋼(当時日本ハム)を獲得し損ねるなど低迷は止まらなかった。 | ||
;2017年の[[広島東洋カープ]] | |||
# | #1980年以来となる2年連続のリーグ優勝を果たすも、CSではDeNAに敗れた。 | ||
;2017年の東京ヤクルトスワローズ | |||
# | #打撃陣が故障者続出、投手陣も二桁勝利無し(小川泰弘の8勝が最多)、球団ワーストの96敗を記録し真中監督は辞任。 | ||
;2018年の[[埼玉西武ライオンズ]] | |||
# | #開幕から首位のまま10年ぶりのリーグ優勝を果たすも、CSではソフトバンクに敗れた。 | ||
;2018年の阪神タイガース | |||
# | #本拠地の甲子園で勝てず、主に横浜スタジアムで勝ち星を拾い、17年ぶり最下位。 | ||
;2019年の[[東京ヤクルトスワローズ]] | |||
#序盤は快進撃も大型連勝も記録せず49年ぶりの球団ワーストタイ16連敗を喫して最下位。 | |||
#この年の収穫は村上宗隆が高卒2年目で36本塁打・96打点を挙げ新人王に輝いたぐらいか。 | |||
#暗黒時代の横浜やオリックスですら達成した事のない、対戦したセ・パ11球団全てに負け越しという史上初の不名誉な記録まで達成してしまった。 | |||
==関連項目== | ==関連項目== | ||
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2021年3月4日 (木) 20:09時点における版
1リーグ制時代
- 1936年の大東京軍
- シーズン開幕前のオープン戦(vs東京瓦斯)で9回にエラーが重なり9点を取られて逆転負け。監督の永井武雄はその場で解任されてしまった。
- 後任の伊藤勝三が選手兼任監督として指揮を執った(11月に小西得郎に監督交代)が春季・夏季シーズンは1勝も出来ず、秋季シーズンも5勝しか出来なかった。
- 1944年の日本プロ野球
- 太平洋戦争の戦局悪化に伴い、日本野球連盟は名前を「日本野球報国会」に改称。
- 選手達は平日は軍需工場で働き、試合は週末を中心に行われた。
- 徴兵による出兵などで選手数も激減。4月の開幕時点で6球団合わせて僅かに74人という事態に…。
- 「個を主張してはならない」との理由で、背番号も廃止されてしまった。
- 春季リーグ・夏季リーグはなんとか開催されたが、夏季リーグの終了時点で徴兵される選手が続出。
- この時点で9人揃っているのは阪神だけとなり、秋季リーグは中止。
- 2球団混成で3チームを作り「日本野球総進軍優勝大会」を秋季リーグの代替として開催した。
- この時点で9人揃っているのは阪神だけとなり、秋季リーグは中止。
- 11月13日に日本野球報国会は活動の休止を表明。
- 但しこの中に「在京球団の選手で希望するものは関西球団に委託」という文章があり、この時点で関西での試合はまだ可能と判断されていた。
- 事実、関西の4球団(阪神・阪急・朝日・近畿日本)は甲子園や西宮で12月まで試合を行っていた模様。参考資料
- 翌1945年も「正月大会」として数試合が開催され、全試合の終了後に「サヨナラ大会」を3月に行うと選手たちに通達されたが、直前の大阪大空襲で試合は中止となってしまった。
- この時、かのスタルヒンも白人ということで軽井沢に軟禁される(本当はソ連の対日宣戦前な上に白系ロシア人のスタルヒンは敵国人ではない)
- 但しこの中に「在京球団の選手で希望するものは関西球団に委託」という文章があり、この時点で関西での試合はまだ可能と判断されていた。
1950~60年代
- 1950年の松竹ロビンス
- 「水爆打線」と呼ばれた豪快な打線でセントラル・リーグの初代王者に輝いたが…。
- 日本シリーズ(当時は日本ワールドシリーズ)開幕から終了後の時期に、39勝を挙げたエースの真田重男と51本塁打を記録した主砲の小鶴誠の間で対立が発生。
- 内紛を抱えたまま挑んだ日本シリーズでは毎日オリオンズに2勝4敗で敗れてしまった。
- シリーズ終了後に監督の小西得郎は「こんなチームの監督はやってられない」と監督を辞任。
- 1952年の松竹ロビンス
- 勝率低迷の切り取り決により大洋と合併する羽目になった。
- 1959年の読売ジャイアンツ
- ペナントレースではリーグ5連覇を達成するも、日本シリーズでは杉浦忠を擁する南海ホークスに4連敗した。
- 日本シリーズで引き分けを挟まず4連敗したのはこの時の巨人が最初。
- 1960年の大毎オリオンズ
- 「ミサイル打線」と渾名された強力打線を擁してリーグ優勝したが、日本シリーズでは魔術師:三原脩監督率いる大洋ホエールズに4連敗した。
- シーズン中に大毎は引き分けを挟んでの18連勝を記録するなど絶好調だったたが終盤に失速、結局優勝を決めたのは最終戦の2試合前だった。
- この年の大毎オリオンズを率いたのは後に阪急や近鉄で黄金時代を築く西本幸雄だったが、日本シリーズで敗戦した際にオーナーからの電話で口論になりシリーズ終了後に1年で解任されてしまった。
- 1961年の大洋ホエールズ
- 前年日本シリーズ4連勝で日本一に輝いたが、この年はタイトルホルダーこそ出したものの最下位に沈んだ。
- 日本プロ野球史上初めての「日本一のチームが翌年最下位」という事態に陥った。
- さらに翌年と3年後の1962、64年はあと一歩のところで阪神に優勝をさらわれた。そして結局、1960年は「大洋ホエールズ」としての最初で最後の日本一(リーグ優勝)ということになってしまった。
- 1961年の近鉄バファローズ
- 開幕直後に4連敗、4月中旬に8連敗、5月中旬に6連敗、その後も6月から8月にかけて10連敗を3度も記録するなど大型連敗を繰り返した。
- 最終的な成績は36勝103敗1分、勝率は.261。
- 優勝した南海には51.5ゲーム差、5位の阪急にも18ゲーム差と大きく引き離されて4年連続の最下位となり、千葉監督は責任を取って辞任。
- 最終的な成績は36勝103敗1分、勝率は.261。
- 6月3日、西宮球場での阪急ブレーブス戦でジャック・ブルームが「ヤンキー・ゴー・ホーム!」とヤジを飛ばした観客に激怒し、スタンドに乗り込んでその観客を蹴り飛ばし、制裁金5万円・出場停止7日間という処分を受けてしまった。
- この年、後に近鉄の主力打者となる土井正博が入団したが、この年の一軍出場は無かった。
1970~80年代
- 1973年の阪神タイガース
- 巨人と激しい優勝争いを展開し、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、中日球場での対中日戦で敗戦、甲子園での巨人との最終戦に至っては1勝もできず(0対9)、巨人のV9を許した。
- 最終戦終了後、阪神のあまりの惨敗っぷりに怒ったファンがグラウンドに乱入し、巨人ベンチを襲撃するなど暴動を起こしたのは有名な話。
- シーズン終了後にはこの年に実働20年の連盟表彰を受けていた権藤正利が金田正泰監督を殴る事件が発生した。
- 1975年の読売ジャイアンツ
- 長嶋茂雄が監督に就任して1年目の巨人だったが、チーム創設以来初めてリーグ最下位に終わった。
- なお、巨人が最下位に終わったのはこの年が唯一である。
- 1977年の南海ホークス
- この年の南海の成績は2位とさほど悪い成績ではなかったが、残り2試合を残した9月28日に野村克也監督の電撃解任を発表。
- 当時はまだ愛人関係にあった沙知代(当時伊東芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で、野村を大事にしていた川勝傳オーナーの耳にも入り解任に至った。
- 野村と打撃コーチの高畠康真はロッテに、柏原純一は日本ハムに、江夏豊は広島にそれぞれ移籍。
- この年を最後に南海はAクラスに入ることなく、1988年にダイエーに身売りされた。
- 1978年の阪急ブレーブス
- 日本シリーズ第7戦でヤクルトの大杉勝男のHR判定を巡って上田利治監督が1時間19分の猛抗議をするも判定は覆らず。先発していた足立光宏が試合再開後に降板し、その後はヤクルトにボコボコにされ、シリーズ4連覇の夢は消えてしまった。
- 上田は抗議の責任を取る形で、翌日監督を辞任。
- 1979年のヤクルトスワローズ
- 前年阪急との死闘の末悲願だった日本一に輝いたが、この年は最下位に沈んだ。
- 皮肉なことに広岡達朗監督が「守れない選手はいらない」と放出したチャーリー・マニエルを獲得した近鉄バファローズがこの年球団史上初のリーグ優勝を決めている。
- 1981年の横浜大洋ホエールズ
- 開幕から低迷が続き、シーズン終盤の9月24日の試合を最後に土井淳監督は休養。残りの試合は山根俊英投手コーチが指揮を執った。
- 最終成績は42勝80敗4分で最下位。優勝した巨人からは31.5ゲーム差・5位の中日からも15.5ゲーム差を付けられてしまった。
- 唯一の明るい話題は山下大輔がベストナインとダイヤモンドグラブ賞のタイトルを獲得したことぐらい。
- 1987年の阪神タイガース
- 掛布とバースが相次いで交通違反で検挙、更に仲田幸司への指導を巡って新山コーチと野村コーチが対立するなど開幕前から悪いニュースが続いた。
- チームも4月の後半に最下位転落。西武から獲得した田尾安志も5月に入るとスタメンから外れるようになり最下位を独走していく。
- 投手陣はキーオが11勝、打撃陣はバースが37本塁打を記録し孤軍奮闘したが、それ以外の選手が軒並み不振だった。
- 最終成績は41勝83敗6分、勝率は球団ワーストの.331で9年ぶりの最下位に転落。吉田義男監督は日本一から僅か2年で監督を解任された。
- 1988年の中日ドラゴンズ
- 4月終了時点で首位の広島に8ゲーム差の最下位、その後巻き返したが7月頭に巨人との北海道シリーズで3タテを喫してしまう。この時点での成績は29勝31敗2分で2つの借金。
- ここから怒涛の巻き返しを見せ、50勝15敗3分・勝率.769という驚異の成績で、10月7日のヤクルト戦を大勝し6年ぶり4度目の優勝。
- しかし昭和天皇の体調悪化もあり、祝勝会(ビールかけ)は自粛となってしまう。
- 西武との日本シリーズではシーズンで18勝を挙げた小野和幸が第1戦・第5戦と打たれ、更に主砲の落合博満も本塁打・打点ともに0と西武に封じ込まれ、1勝4敗で無念の敗退。
- 1988年の近鉄バファローズ
- 終盤に前年までリーグ3連覇中の西武と熾烈な優勝争いを繰り広げ、残り3戦を3勝が優勝の絶対条件となるも、伝説の10.19・VSロッテ戦(川崎球場)で第2試合で時間切れ引き分けとなり、西武の4連覇を許す羽目に。
- 1989年の近鉄バファローズ
- 宿敵西武、オリックスを打ち破りリーグ優勝。日本シリーズでも巨人に序盤3連勝し、日本一まであと一歩だったのにその後4連敗。巨人に逆転優勝を許してしまった。
1990年代
- 1990年の読売ジャイアンツ
- ペナントレースでは88勝、2位と22ゲーム差という大独走で優勝するも、日本シリーズでは西武ライオンズに4連敗した。
- 1994年の中日ドラゴンズ
- シーズン中盤まで巨人との首位争いとなったが、8月に8連敗を喫し広島に逆転を許す。
- しかし、9月に入ると持ち直し、9月20日からの9連勝などで、10月7日時点で巨人と69勝60敗で同率首位となる。
- 巨人をあと一歩まで追い詰めたものの、例の10.8決戦で3-6で敗戦し、優勝を逃した。
- 1994年の日本ハムファイターズ
- 前年は西武と熾烈な優勝争いを展開したが、この年は5球団全てに負け越し最下位。
- 打率・得点・安打・打点・防御率・失点・盗塁もリーグ最下位。
- 本拠地最終戦終了後のセレモニーで大沢啓二監督は土下座。この年限りで監督を辞任している。
- 1995年の中日ドラゴンズ
- 前年は巨人と熾烈な優勝争いを展開したが、打撃陣の怪我続出・投手陣の崩壊で前半は最下位。
- 6月3日には高木守道監督が休養(その後解任)、徳武定祐ヘッドコーチが監督代行に就任したが流れは変わらずオールスター前の7月23日に解任。
- 残りのシーズンは二軍監督の島野育夫が指揮を執った。
- 最後の阪神との4連戦には勝ち最下位は免れたが、優勝したヤクルトには32ゲーム差・4位の横浜にさえ16ゲーム差を付けられてしまった。
- 1996年の福岡ダイエーホークス
- 王貞治監督を招聘、低迷脱却とはいかず王監督を中傷する横断幕、バス囲みも。
- 結局、首位オリックスと22ゲーム差の最下位に終わった。
- この年で南海時代から19年連続Bクラスとなり、それまで広島が記録した連続Bクラス日本記録である1950年から1967年までの18年連続を更新した。
- 1997年の読売ジャイアンツ
- 清原獲得で話題をさらうも一塁手が飽和、Bクラスに終わる。
- それも中盤まで最下位にいたほどだった。
- 1997年の中日ドラゴンズ
- この年から本拠地が狭いナゴヤ球場から広いナゴヤドームに変わったが、前年最後まで優勝争いをしたこともあり開幕前は優勝候補の一角に挙げられていた。
- しかし開幕後は自慢の強竜打線が沈黙。8月の大きな負け越しが響き、最終成績は5年ぶりの最下位となってしまった。
- 投手陣は18勝7敗で最多勝のタイトルを獲得した山本昌、38セーブを挙げた宣銅烈、2年目の門倉健が10勝12敗と二桁勝利を挙げたこと以外は全体的に不振だった。
- 特に前年チーム最多勝の14勝を挙げた今中慎二が2勝2敗、前年7勝4敗の前田幸長が2勝13敗だったのが痛かった。
- 打撃陣も前年の39本塁打でホームラン王を獲得した山崎武司が半減の19本、前年38本塁打の大豊泰昭が約3分の1の12本、前年.340で首位打者のパウエルが.253と全体的に不振だった。
- 新外国人のゴメスは3割30本(.315 31本)をクリアしたのだが…。
- シーズン終了後、星野監督は不振だった大豊泰昭と2番手捕手の矢野輝弘を阪神にトレードで放出し、関川浩一・久慈照嘉を獲得。
- コーチ陣では小松辰雄投手コーチや柏原純一打撃コーチなどが成績不振の責任を取り辞任した。
- 1998年の福岡ダイエーホークス
- 前年に発覚したプロ野球脱税事件に関与した小久保浩紀、ヒデカズ、斉藤貢、本間満、藤井将雄の主力5選手が3-8週間の出場停止処分を下され、開幕からしばらく出場出来なかった。
- また、シーズン中には地元・西日本新聞のスクープで、いわゆる「スパイ疑惑」が報道される。
- なお、その年は3位に入り、連続Bクラスの記録が20でストップした。
- 1998年の千葉ロッテマリーンズ
- ダブルストッパーの成本年秀、河本育之がそろって故障するなど投手陣が崩壊し、プロ野球新記録の18連敗を記録。エース黒木知宏は最多勝と最高勝率の2冠に輝いたが18連敗はあまりにも重くチームは最下位に低迷、責任を取って近藤昭仁監督は辞任した。
- おまけに近藤監督は辞任会見の席上で「もっと強いチームで監督をやりたかった」と発言し、ロッテファンの非難を浴びた。
- 本当に「18連敗さえなければ」大分まともな成績だった。
- 1999年の中日ドラゴンズ
- 開幕11連勝もあり開幕ダッシュに成功。6月に一日だけ阪神に首位の座を譲ったが7月以降は再び独走態勢に。
- 終盤に巨人の猛追を喰らったが8連勝で振り切り、9月30日のヤクルト戦(神宮)で11年ぶりのリーグ優勝を決めた。
- しかし日本シリーズではレギュラーシーズンで活躍した山崎武司の負傷欠場や関川浩一・福留孝介・井上一樹の不調が響き、ダイエーに1勝4敗で敗退。
- 1999年の阪神タイガース
- ノムさんこと野村克也の監督就任1年目の阪神。6月に中日を抜いて一時首位に立った。
- しかし、勢いはすぐに無くなり、それどころか球団記録タイの12連敗を喫し、2年連続の最下位に終わった。
- 一方二軍はウエスタンリーグを2年連続で制覇し、さらにファーム日本選手権も制し初の日本一となった。
2000年代
- 2000年の中日ドラゴンズ
- 初の2連覇を目指すも五輪で来日して獲得したディンゴが不発、巨人に目の前で劇的優勝を見せられる。
- 投手陣は新外国人のメルビン・バンチが14勝8敗、山本昌が11勝9敗、宣銅烈の穴埋めで獲得したエディ・ギャラードがリーグ最多の35セーブと活躍したが、前年19勝の野口茂樹が9勝・前年9勝の武田一浩が3勝・前年8勝の川上憲伸が2勝と総じて不振。
- パ・リーグからの移籍組だった小池秀郎・佐野重樹・鈴木平の成績不振も大きかった。
- 打撃陣は立浪和義・山崎武司・レオ・ゴメスこそ例年通りの活躍だったが…。
- 関川浩一(打率は前年.330から.260に下がった)・福留孝介(前年.284・16本塁打が.253・13本塁打に数字を落とした)の不振が大きかった。
- 2002年の横浜ベイスターズ
- この年から経営母体がマルハからTBSに譲渡されたが…。
- 谷繁元信・小宮山悟の移籍による戦力の低下、更に主力メンバーの不振が蔓延した結果、開幕から記録的な低迷を続け16年ぶりの13連敗を喫するなど最下位を独走。
- 結局シーズン終盤の9月25日に森祇晶監督は契約を一年残して解任された。
- 監督代行はヘッド兼打撃コーチだった黒江透修がシーズン最終戦まで務めた。
- 結局シーズン終盤の9月25日に森祇晶監督は契約を一年残して解任された。
- チーム防御率・失点はリーグ5位、打率・得点・安打・本塁打はリーグ最下位、サヨナラ勝ちもなし、観客動員も大幅減少と、踏んだり蹴ったりのシーズンとなってしまった。
- 明るい話題は2年目の吉見祐治が11勝を挙げて新人王を争ったことぐらい。
- 2002年の阪神タイガース
- この年より星野仙一が監督に就任。当時5年連続リーグ最下位を喫し「ダメ虎」と言われた阪神の改革を任されたが…。
- 開幕戦の巨人戦で勝利し12年ぶりに開幕戦を勝利で飾る。勢いそのままに巨人を3タテし開幕7連勝でスタートし、序盤こそ巨人と首位争いを繰り広げる。
- しかし、夏に差し掛かるとレギュラー選手に相次いで故障離脱が続出。
- 特に赤星・矢野の離脱は痛かった。
- 日韓ワールドカップの開催による変則日程の影響も少なからずあると思う。
- 因みにワールドカップ開催中の6月の阪神の成績は4勝13敗。
- 後半戦には、当時の阪神名物であった大型連敗8を喫し、星野監督の怒りは頂点に。
- 結局、最下位は脱出したものの、Aクラス進出に失敗し4位に終わる。
- オフには「血の入れ替え」とも称される大改革を決行し大量20人が退団。さらには、巨人もびっくりの大型補強を実施。
- これが翌年の18年ぶりの優勝につながったという見方もある。
- オフには「血の入れ替え」とも称される大改革を決行し大量20人が退団。さらには、巨人もびっくりの大型補強を実施。
- 2002年の西武ライオンズ
- ペナントレースでは90勝、近鉄やダイエーと16.5ゲーム差という1990年の巨人を彷彿とさせる大独走で優勝するも、この年の日本シリーズは1990年とは逆のパターンで巨人に4連敗した。
- 2002年のオリックス・ブルーウェーブ
- 8年間監督を務めた仰木彬が前年に退任、新監督に西武黄金時代のチームリーダー・石毛宏典が就任したが…。
- 他球団に移籍した田口壮・アリアス・加藤伸一の穴を埋められず、最終成績は50勝87敗3分で39年ぶり・オリックスになってからは初の最下位となってしまった。
- 投手陣は金田政彦(防御率1位)・具臺晟(防御率2位)・山口和男(ダイエー戦で158㌔を2回計測)などまずまず良かった(チーム防御率は3.58で前年より向上している)が、打撃陣チーム打率.235(前年は.263)と大不振。
- こんな状況のため、金田は4勝、具臺晟は5勝しか挙げられなかった。
- 唯一の明るい話題は打率.326・41盗塁を記録しベストナインを獲得した谷佳知ぐらい。
- 2003年のオリックス・ブルーウェーブ
- 負け数・勝率こそセ・リーグ最下位の横浜に及ばないものの、140試合で927失点、チーム防御率が史上最悪の5.95で最下位になった。
- あまりの低迷に石毛宏典監督が解任されるも、後任のレオン・リー監督では投壊に拍車がかかった。
- 優勝したダイエー相手に20失点以上の敗戦が4回もあった。
- しかも7月27日に7-26で負け、そのわずか5日後の8月1日にまた1-29で負けた。
- なお上記以外の2試合ではオリックスも11点取っている。
- 2005年の東北楽天ゴールデンイーグルス
- 記念すべき球団創設1年目のシーズン。開幕戦のロッテ戦こそ岩隈久志の好投で3-1で勝利したが、その翌日の試合では0-26という歴史的大敗を喫してしまう。
- その後は戦力差や経験不足もあり2度の11連敗を記録するなど最下位を独走。
- シーズン100敗こそなんとか回避したが、最終成績は38勝97敗1分という結果に終わった。
- 投手陣は岩隈久志が9勝15敗、福盛和男が49試合に登板して4勝3敗11セーブ、吉田豊彦が50試合に登板して2勝2敗1セーブ12ホールドと奮闘したが…。
- 先発として期待されたケビン・ホッジスが2勝12敗、ゲーリー・ラスが3勝9敗、新人の一場靖弘は3勝10敗と散々な成績だった。
- 打撃陣は前年オフにオリックスを自由契約となった山崎武司が25本塁打・65打点をマーク。元近鉄勢の礒部公一・吉岡雄二・高須洋介も気を吐いたが…。
- 4番として期待されていたルイス・ロペスが打率.223・12本塁打(但し得点圏打率は3割)、途中獲得のアンディ・トレーシーも打率.209・6本塁打と精彩を欠く結果に。
- シーズン終了後に田尾安志監督は辞任。後任には社会人野球・シダックス監督の野村克也が就任することとなった。
- 2006年の読売ジャイアンツ
- 原監督復帰、李承燁獲得で快進撃も故障者続出で初の2年連続Bクラス。
- 開幕直後は首位を独走するも、セ・パ交流戦で11連敗を喫する大失速。一時は最下位に沈む大転落ぷりとなった。
- 特にロッテ相手には6戦全敗と、「巨人はロッテより弱い」を地で行く結果に。
- 開幕直後は首位を独走するも、セ・パ交流戦で11連敗を喫する大失速。一時は最下位に沈む大転落ぷりとなった。
- 2006年の横浜ベイスターズ
- 前年Aクラス(3位)だったことから大きな補強をせずにシーズン開幕となったが…。
- 親会社のTBSから派遣されたフロントと牛島和彦監督が対立し、チームも4月・5月と大負けを繰り返し最下位に転落。
- 6月に一瞬復調の兆しを見せたが、8月以降は黒星先行となり最終成績は58勝84敗4分で2年ぶりの最下位となってしまった。
- 投手陣は門倉健(10勝9敗)・三浦大輔(8勝12敗)・クアトロK(木塚敦志・川村丈夫・加藤武治・クルーン)が奮闘したが…。
- 吉見祐治が2勝9敗、那須野巧が3勝8敗、土肥義弘が3勝7敗と負け越したのが痛くチーム防御率は4.25でリーグ最下位。
- 一方で打撃陣は村田修一が34本塁打・114打点を記録しチームの4番に成長、吉村裕基がチーム2位の26本塁打を記録するなど若手の成長が目立つ一年となった。
- 結局、牛島監督は最下位の責任を取って辞任しTBSの野球解説者に復帰。後任には1998年の日本一の土台を作った大矢明彦が就任した。
- 2007年の読売ジャイアンツ
- 第2次原監督時代として初のリーグ優勝を果たすも、この年より導入したクライマックスシリーズで中日に3連敗を喫する。
- そのため、リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できなかったチームはこの巨人が初となった。
- 2008年の阪神タイガース
- 2位と最大13ゲーム差からのまさかのV逸。
- そして2位で迎えたCSも中日に破れ、日本一への道も閉ざされる。
- 某掲示板では「Vやねん!」が未だにネタにされるほど。
- このV逸の責任をとり岡田彰布監督が辞任した。
- 矢野輝弘、新井貴浩、 藤川球児が北京オリンピックに出てよかったことなんて無かった。
- 2008年の横浜ベイスターズ
- 前年の成績は借金1の4位と健闘したこともあり、大矢監督は開幕前に「優勝は難しいが今年こそCSを目指す」と宣言。
- しかし4月に7勝18敗と躓き、その後もズルズルと負けを重ね最下位を独走。
- シーズン終盤には球団タイ記録の14連敗を喫し、最終的には5位のヤクルトにも19ゲーム差を付けられ2年ぶりの最下位となってしまった。
- 投手陣はチームで唯一規定到達の三浦大輔が7勝10敗・防御率3.56、クルーンの巨人移籍で抑え抜擢となった寺原隼人が22セーブを挙げるなど奮闘したが、チーム防御率はリーグ最下位の4.74を記録。
- 一方で主砲の村田修一がキャリアハイの46本塁打で2年連続のホームラン王獲得、内川聖一が.378の高打率で首位打者獲得と打撃陣は良かったのだが…。
- 因みにこの年の横浜の勝率は.338(48勝94敗2分)で内川の打率(.378)を下回っている。
- この「首位打者の打率が所属チームの勝率を上回った」のは、1944年・近畿日本軍の岡村俊昭選手以来64年ぶりの珍記録だった。
- 2008年の福岡ソフトバンクホークス
- 開幕戦でサヨナラ勝ち・交流戦では初優勝を達成。
- 8月終了時点で2位だったが、9月に入ると10連敗・7連敗と大失速。
- 8月末の西武との首位攻防戦での3連続引き分けが流れを変えたとも言われている。
- 8月終了時点で2位だったが、9月に入ると10連敗・7連敗と大失速。
- 楽天とのシーズン最終戦は延長12回表に松中信彦が痛恨のゲッツー。
- その裏に馬原孝浩が山崎武司にサヨナラタイムリーを喰らい、12年ぶりの最下位が決まってしまった。
2010年代
- 2010年の福岡ソフトバンクホークス
- ソフトバンク時代としては初となるリーグ優勝を果たすも、CSでロッテに日本シリーズ出場を献上した。
- そのため、日本シリーズ出場&日本一は翌年まで待つ事になった。
- 2011年の東京ヤクルトスワローズ
- 開幕直後から首位を独走していたが、10月に入ってから中日に逆転され、最終的にその中日にリーグ優勝を献上した。
- 2011年の千葉ロッテマリーンズ
- 前年3位から日本一という「下克上」を達成するも、この年はチーム総本塁打数が西武の主砲・中村剛也一人に負けるという貧打(ロッテ46本、中村48本)で最下位に沈んだ。
- ロッテはこれで1975年前期とあわせて「日本一の翌年最下位」を2度味わった唯一のチームとなった。
- 2013年の北海道日本ハムファイターズ
- 前年優勝も大型トレードをして最下位、トレード相手のオリックスもブービー。
- 2014年の東北楽天ゴールデンイーグルス
- 前年は田中将大らの活躍により球団初のリーグ優勝・日本一に輝いた楽天だったが、星野監督の休養や田中のメジャー移籍などが響いたのかこの年は最下位に沈んだ。
- 2014年の読売ジャイアンツ
- ペナントレースは7ゲーム差つけてリーグ優勝を果たすも、CSでは阪神にまさかの4連敗。
- なお、巨人は2007年もCSで中日に敗れたため、リーグ優勝した巨人が日本シリーズに出られなかったのはこれで2回目となった(西武が2年連続でCSでソフトバンクに敗れるまで、2回も日本シリーズに出られなかった唯一のチームだった)。
- 2015年の横浜DeNAベイスターズ
- 開幕10試合消化時点で、首位に立つ。
- しかし、交流戦で10連敗を食らって、堂々の最下位。
- そこから脅威の巻き返しで、巨人や阪神とのマッチレースを交わして、前半戦を首位でターン。
- しかし、オールスター明けに大失速。広島・ヤクルトに抜かされ、終盤は、中日との最下位争いを演じる羽目に。
- クライマックスの進出も消滅。終いには最終戦に敗戦し、最下位が確定。
- 前半戦首位で折り返しながら、シーズンを最下位で終えるプロ野球史上初(2期制時のパは除く)の赤っ恥となる。
- この責任を取って、中畑清監督(当時)が、辞任した。
- でも、キヨシのおかげで選手がやる気を出したのは大きい。
- 2016年の福岡ソフトバンクホークス
- 前半戦は快調に首位を飛ばすも、途中から最大11.5ゲーム差あった日本ハムの怒涛の追い上げを喰らい失速。終わってみればまさかのV逸。
- そして2位で迎えたCSもロッテには勝利したもののファイナルでまたしても日本ハムに破れ、日本一への道も閉ざされた。
- 近年のホークスとしては珍しくリーグ優勝または日本一になれずに終わった数少ないシーズンである。
- 2016年のオリックス・バファローズ
- 開幕前から1軍・2軍共に低迷した結果、なんとオープン戦、パ・リーグレギュラーシーズン、セ・パ交流戦、ウエスタン・リーグ全てで最下位に終わり、史上初の完全最下位という結果に。
- オフもFAで糸井嘉男が阪神に移籍したり、逆に陽岱鋼(当時日本ハム)を獲得し損ねるなど低迷は止まらなかった。
- 2017年の広島東洋カープ
- 1980年以来となる2年連続のリーグ優勝を果たすも、CSではDeNAに敗れた。
- 2017年の東京ヤクルトスワローズ
- 打撃陣が故障者続出、投手陣も二桁勝利無し(小川泰弘の8勝が最多)、球団ワーストの96敗を記録し真中監督は辞任。
- 2018年の埼玉西武ライオンズ
- 開幕から首位のまま10年ぶりのリーグ優勝を果たすも、CSではソフトバンクに敗れた。
- 2018年の阪神タイガース
- 本拠地の甲子園で勝てず、主に横浜スタジアムで勝ち星を拾い、17年ぶり最下位。
- 2019年の東京ヤクルトスワローズ
- 序盤は快進撃も大型連勝も記録せず49年ぶりの球団ワーストタイ16連敗を喫して最下位。
- この年の収穫は村上宗隆が高卒2年目で36本塁打・96打点を挙げ新人王に輝いたぐらいか。
- 暗黒時代の横浜やオリックスですら達成した事のない、対戦したセ・パ11球団全てに負け越しという史上初の不名誉な記録まで達成してしまった。
関連項目
- ざんねんな野球チーム事典(複数年にまたがる場合はこちらへ)