武将伝/日本
2009年8月12日 (水) 16:54時点における>面毒斎による版 (→室町時代の武将)
征夷大将軍
平安時代の武将
平将門
- 西国の植民地みたいなものだった関東地方に、はじめて独立運動を展開した人。
- まあ、本人にそこまでの自覚とビジョンがあったわけではなく、なりゆきでそうなってしまったという感が強いが。
- ともあれ「新皇」を名乗り、京都の朝廷とは別個の勢力圏を築こうとしたのは革新的。
- 若い頃比叡山に登って天下制覇の野望を抱いたと言われているが、疑わしい。
- 頼ってくる者、救いを求めてきた者を、義侠心と正義感で助けているうちに、いつの間にか巨大勢力になってしまった感じ。野望を抱いたとしたら最終段階だろう。
- 言ってみれば、とびきり気っぷのいい任侠の親分というところではなかったか。
- 東京の守護神になっているという噂。
- 大手町あたりに首塚があり、開発のため撤去や移築をしようとすると必ず事故が起こるそうな。
藤原純友
- 海賊退治を命じられて瀬戸内海に行ったが、海賊稼業のうまみを知って自分が海賊の首領になってしまった。
- 平将門と示し合わせて乱を起こしたと言われているが、疑わしい。
- 将門が敗死するまでは大した動きを見せていないので。
小野好古
- 藤原純友の乱を平定した老将。
- 妹子ちゃんの子孫。
- 小野小町のいとこだかはとこだか。
- 元祖・好古なのに知名度は秋山好古にボロ負け。
源護
- 「みなもとのまもる」と読むらしい。無理だw
- 平将門に喧嘩売ってフルボッコにされる。
源頼義
- 前九年の役を平定する。
- 実は、関東地方のフロンティアがだいぶ少なくなってきたので、東北地方に目をつけた頼義が、難癖をつけて有力者の安倍氏を圧迫したのが前九年の役の発端。
- 頼義が執拗に朝廷に働きかけ、陸奥守とか鎮守府将軍とかの官位を貰っているので、彼の野望は大体見当がつく。
- 当初、安倍貞任と藤原経清の連合軍の前に手も足も出ず敗退を重ねる。
- 特に黄海(きのみ)の合戦では惨敗。
- 出羽の清原氏に三拝九拝し、側面攻撃をかけて貰ってようやく安倍氏を亡ぼす。
- 正直言って、勝つには勝ったが、かなりみっともない勝ち方。
- そのため子孫たちは、頼義ではなく子の義家を称揚した。
- 実は、関東地方のフロンティアがだいぶ少なくなってきたので、東北地方に目をつけた頼義が、難癖をつけて有力者の安倍氏を圧迫したのが前九年の役の発端。
源義家
- 頼義の息子。八幡太郎。武家源氏の象徴みたいな人。
- 後三年の役を平定すべく出陣したが、清原(藤原)清衡には翻弄され、朝廷からは私戦として恩賞を貰えず、あんまりいいところ無し。
- 仕方なく自分の所領の中から配下に恩賞を分け与えたところ、「これは頼もしい大将だ」と思いがけず人気沸騰。源氏興隆の礎を築く。
- 雁の飛び方の乱れから伏兵を見抜いたとして、その眼力を賞賛される。
- 大江匡房から教わった兵法。でもこれって、野戦の将として、人に教わらなければわからないようなことか?
源義光
- 義家の弟。甲斐源氏(武田氏)の祖。
- 信濃源氏(小笠原氏)や常陸の佐竹氏などの祖でもある。
- 通称、新羅三郎。
- この名前のため、「源氏は新羅出身の韓国人ニダ。その証拠に新羅三郎というのが居るニダ。ホルホルホル」と勘違いする連中が湧いて、うざいことこの上ない。
- 大津の新羅明神で元服式を挙げただけのことなんだが……
- 「新羅明神で元服式を挙げたのは新羅出身だったからに違いないニダ。ホルホルホル」と勘違いする懲りない連中も居そうだ。
平清盛
- 保元の乱、平治の乱と順調に勝ち組に乗り、ついには藤原氏を押しのけて天皇の外戚の座を仕留めた幸運児。
- 武家では初めて太政大臣に任ぜられた。
- ちなみに「平氏にあらざれば人にして人にあらず」とゴーマンかましたのは清盛ではなく、嫁・時子の弟だった平時忠。武家ではなく、公家平氏の人。
- 本当は白河法皇の子だという噂。
- 白河法皇の寵愛を受けた祇園女御の猶子となった。女御の妹が生母だろうと言われているが、この妹も白河法皇の側室のひとりで、妊娠したまま平忠盛に下げ渡されたのではないかと。
- 少年時代からおそろしく官位の昇進が早かったのがその傍証とされる。
- 福原(現在の神戸あたり)に遷都しようとした。
- 音戸ノ瀬戸の開鑿や厳島神社の保護などと合わせて、瀬戸内海を通じて海外交易を盛んにしようとした清盛の考え方が見て取れる。日本最初の重商主義者と言っても良い。
- 清盛の死後の平氏の瓦解は早かった。
- わずか数年で滅亡。平氏の繁栄が清盛の個人的な才覚と立ち位置によるものだったことが窺える。
源義朝
- 為義の息子。頼朝の父親。
- 保元の乱では勝ち組。平治の乱では負け組。
- 同じ立場だった藤原信西に密着しすぎていたか?
- かなりの艶福家。
- 都でいちばんの美女と評判の「常磐」を手に入れた。義経などの母になる。
- 最後は平氏方に寝返った配下に風呂で殺される。
- 場所は知多半島の先っぽ。
- 後世、同じ場所で切腹に追い込まれた織田信孝が、秀吉への恨みを込めて
「昔より主を内海(討つ身)の野間なれば報ひを待てや羽柴筑前」
という辞世を詠んだのはこの故事による。義朝を討った長田忠致はのちに頼朝に斬られた。- ちなみに、「内海」も「野間」も知多半島尖端の地名。
- 長田忠致は頼朝に、「そなたは父を殺した憎きヤツなれど、よく勤めれば美濃・尾張を与えよう」と言われ、懸命に働いて手柄を立て、得意満面で頼朝のもとに帰った。すると頼朝は「約束通り『身の終わり』を与えよう」と言って長田を斬ってしまった。ダジャレで斬られた長田の立場って。
- 長田忠致の最後の言葉は「誰がうまいことを言えとwww」であったとかなかったとか。
- 後世、同じ場所で切腹に追い込まれた織田信孝が、秀吉への恨みを込めて
- 場所は知多半島の先っぽ。
源為朝
- 為義の息子、義朝の弟。
- 鎮西八郎とも呼ばれる。
- 剛力な上に、おそるべき弓の名手で、子供の頃から大変な暴れん坊。
- あんまり暴れん坊なので九州に追い出されたが、九州でも暴れ回ってそこらの豪族や武将をみんな配下にしてしまったらしい。それで「鎮西」のあだ名を奉られた。
- 保元の乱では父に従って崇徳上皇側に就く。
- 夜襲を進言するが、あっけなく却下される。
- 「正義の軍がそのような卑怯なことができるか」という理由。
- 一方後白河天皇側は容赦なく夜襲をかけてきて、上皇軍ボロ負け。
- しかし為朝の強弓は後白河側の多くの将兵を斃し、怖れられた。
- 夜襲を進言するが、あっけなく却下される。
- 保元の乱ののち捕縛され、もう弓が引けないように右腕の腱を断ち切られて、伊豆大島に流される。
- しかし一向にしょげもせず、大島を乗っ取ってしまう。
- 大島ばかりでなく、艦隊を組織して伊豆七島を完全征服。
- 大軍による討伐を受け、ついに自害して果てる。が……
- 大島に押し寄せた敵に向かって矢を放つと、船の底板をぶち抜いて沈めたという。ほとんど対艦ミサイル。
- 実は伊豆で敗れてからが為朝伝説の真骨頂。
- 自害はせず、弧舟で南西諸島へ逃れ、沖縄を征服し、尚氏王朝の祖となったとも言われる。
- なんと尚氏王朝の正史にちゃんと記されているので、伝説ではあるが必ずしもトンデモ説ではない。
- 滝沢馬琴の『椿説弓張月』はその辺を小説化してある。
- しかし沖縄程度の島におさまる器量ではなく、さらに大艦隊を仕立ててフィリピンやインドネシア方面への征旅に発ったという壮大な伝説もある。
- 自害はせず、弧舟で南西諸島へ逃れ、沖縄を征服し、尚氏王朝の祖となったとも言われる。
山本義経
- 源義経とであったことがある。ちなみに彼も源氏なので、彼が源義経と名乗っていたりすることもある。
源義経
- 義朝の九男。頼朝の弟。
- 幼名「牛若丸」が有名。
- 「九郎義経」の名前は自分でつけたらしい。
- 検非違使少尉に任ぜられたので、唐名の「判官」をつけて「九郎判官」とも呼ばれる。
- 敗将義朝の息子として鞍馬寺にやられるが、脱走して奥州藤原氏を頼る。
- のちの騎馬隊の発想は、奥州滞在中に得た可能性が強い。
- 頼朝の部将となって大活躍。
- 宇治川の合戦で木曽義仲を撃破。
- 一ノ谷、屋島、壇ノ浦で平氏軍と戦い、いずれも快勝。平氏を滅亡させる。
- 速度を活かした奇襲戦法が得意。一ノ谷では機動騎馬隊、屋島では荒天を衝いた渡海作戦による回り込み攻撃で勝利した。
- 回り込み作戦が使えなかった壇ノ浦ではやや苦戦したが、敵船の漕ぎ手を射殺するという禁じ手で勝つ。
- いずれも当時としては斬新な戦術だが、その頃の武士の美意識からすると「卑怯」な印象が強く、庶民や下級武士には人気があったが、上級武士たちからは嫌われた。
- 壇ノ浦の戦勝のあと、頼朝と再会することなく、討伐されるはめに。
- 義経が「平氏征伐」だけを目標としていたのに対し、頼朝は「東国政権の確立」を狙っていたという、目的意識の差が反目の原因となった。頼朝の狙いからすれば、義経の行動がいちいち目障りだった。
- 勝手に後白河法皇から官位を貰ったり、勝手に平氏の重要人物の助命を確約したり。
- そもそも壇ノ浦の戦争目的のひとつであった「三種の神器と安徳天皇の確保」には失敗している。戦闘には勝ったが戦争目的を果たせなかったわけ。
- 義経もうかつだったが、頼朝もちゃんと言っとけよという気はする。
- 義経が「平氏征伐」だけを目標としていたのに対し、頼朝は「東国政権の確立」を狙っていたという、目的意識の差が反目の原因となった。頼朝の狙いからすれば、義経の行動がいちいち目障りだった。
- 若き日を過ごした奥州に逃げ込むが、頼朝の恫喝に屈した藤原泰衡に討たれる。
- 海を渡ってチンギス汗になった……という壮大な説もある。
- 機動騎馬隊の活用以外、あんまり共通点は無さそうだが。
鎌倉時代の武将
源範頼
- 義朝の六男。頼朝の弟で義経の兄。
- 義経と一緒に木曽義仲や平氏と戦うが、義経と較べられて損をしている人。
- 義経は遊撃隊を率いて奇襲することが多く、主力部隊は常に範頼が率いていたのだから、総大将としての力量は認めてあげるべき。
- 一ノ谷の奇襲も、範頼が東側から平氏の軍勢とがっぷり四つに組み、戦線を膠着させていたからこそ効果があったのだし。
- 義経は遊撃隊を率いて奇襲することが多く、主力部隊は常に範頼が率いていたのだから、総大将としての力量は認めてあげるべき。
- 義経没落の理由をよく知っていたらしい。決して出過ぎることなく、すべて頼朝の指示をあおいで警戒されることを避けた。
- 些細な難癖をつけられて殺される。
- 富士の巻狩りで曾我兄弟の仇討ち騒ぎがあった時、鎌倉には「頼朝も殺された」という風聞が伝わった。範頼はすぐ頼朝夫人・政子のもとへ駆けつけ、
「この範頼が居ります限り、噂のようなことがあったとしてもご心配には及びませんぞ」と頼もしく発言。これを、頼朝に取って代わるつもりかと曲解された。 - 弁明書を出したが、「源範頼」と署名してあったのでこれまた咎められる。「臣下のくせに源姓を用いるとはなんたる僭越、やはり頼朝に代わって源氏の棟梁になるつもりに違いない」という理由。
- 要するに頼朝や北條氏としては、他の連中に担がれるおそれのある範頼を、何がなんでも抹殺しておく必要があったとしか。
- 富士の巻狩りで曾我兄弟の仇討ち騒ぎがあった時、鎌倉には「頼朝も殺された」という風聞が伝わった。範頼はすぐ頼朝夫人・政子のもとへ駆けつけ、
楠木正成
- 領地を持った武士ではなかったので「悪党」扱いされる。河内地方の運送業のおっちゃん。
- 「七生滅敵」の言葉と南朝方の忠臣だったことから戦時中のヒーロー。
- 皇居外苑に銅像がある。外国の方も写真撮ってたりするが、↑のことは、、、忘れておいてください。
- 明治になってから正一位を追贈された。
- 籠城戦では熱湯かけたりウンコかけたり。
新田義貞
- 後醍醐天皇麾下の総大将だったのに、戦前は楠木正成の人気に隠れ、戦後は足利尊氏復権のあおりを食って二流武将扱いされ続けている不遇な人。
- よく調べれば、すごく頑張ってるんだけどねえ……
- 足利氏とはもともと同族だが仲が悪かった。
- 源義家の次男・義国が両家の先祖。
- 義国の長男・義重が新田氏を興し、次男・義康が足利氏を興した。
- が、義重は先に家を出たため、なんとなく義国家の家督を辞退したような形になってしまい、以後足利氏が嫡流のような印象ができた。
- しかも足利氏は、頼朝や北條氏に機敏に接近して高位を得ていたが、新田氏は代々剛直かつ融通の利かない当主が続き、義貞誕生時にはすっかり落ちぶれていた。
- 鎌倉を落とし、幕府を覆した殊勲者。
- 幕府のかなりの兵力が上方に行っていたため、鎌倉がやや手薄になっていたという事情はあったものの、難攻不落の要塞都市を落とすのは容易でなかったはず。
- 六波羅探題を落とした足利尊氏より功績はどう考えても上。
- 刀を海に投げ入れると潮が引き海側から攻めたという逸話がある。これは伝説にすぎないといわれていたが、最近事実だということが判明。
- 京都に呼び出されてからは、あまり勝ち戦が無い。
- 常に公家が同格もしくは上位者として同行し、作戦に口を出すばかりか勝手な動きばかりしていたので、そのフォローのために戦機を失い続けた観がある。
- 箱根の合戦や比叡山の合戦では特にその印象が強い。
- 足利軍が京都に攻め寄せた時は、朝廷を丸ごと避難させたのち、鮮やかに勝利し、尊氏を九州まで追い落とす。やっぱり口出しするヤツさえ居なければ、充分にできる子。
- 尊氏が九州から復活して攻めてきた際も、同じ手で戦おうとしたが、「一年の内に二度も動坐するなどとんでもない」という理由で却下される。仕方なく水際で叩こうと湊川に出陣したが、楠木正成を失う敗戦となる。
- 関東に帰って精兵を募ってくることを申し出たが、却下される。
- 公家側の言い分は「帝のお墨付きがあるのだから、兵など日本中どこからでも集められるはずではないか」というもの。
- 義貞が一旦関東に帰ったら、そこで自立して戻ってこないのではないかという警戒心もあったようだ。
- 常に公家が同格もしくは上位者として同行し、作戦に口を出すばかりか勝手な動きばかりしていたので、そのフォローのために戦機を失い続けた観がある。
- 後醍醐天皇から勾当内侍という美女を賜ったそうな。
- この美女にうつつを抜かして戦機を失った愚将だと思われがちだが、詳細に日付を見てゆくと、女のために軍事行動をおろそかにしたと考えられる時期は全然存在しない。「太平記」の記述で悪いイメージが作られてしまった例。
- 最後の死に方はちょっと間抜けっぽい。これもまた愚将のイメージのもとになっている。
- 越前の灯明寺畷で、自ら偵察行動に出ていたところ斯波高経の軍勢と遭遇してしまい、戦死。
- 大将みずから偵察行動をしなければならない理由は全然無かったので、無駄死にと言われても仕方がないかも。
- 自称、新田流の黄門様により、討死にしたと伝わる地域から立派な兜が発見され、その地を新田義貞討死の地とし地名は新田塚と名付けられた。
- 越前の灯明寺畷で、自ら偵察行動に出ていたところ斯波高経の軍勢と遭遇してしまい、戦死。
高師直
- 足利尊氏の肖像画である(と推測されていた)太刀を担いだ騎馬武者の絵は実はこの人だったという説が出た。でも、実はこの人でもないみたい。
室町時代の武将
足利持氏
- ダメ上司の典型のような人物。
- 気性の激しさは宿敵義教と同じだが、政略・軍略に関しては足元にも及ばないヘタレだった。
- 鶴岡八幡宮に奉納した血染めの感状の話とか…そこまであからさまにしなくても。
上杉憲実
- 中間管理職の悲哀をそのまま表したような人物。
- 凄腕だがワンマン経営の独裁社長と、そいつと犬猿の仲で、出世欲だけ一流の支店長の狭間で悩まされ続けた。
- 「お前は俺より社長の言う事を聞くんだな!」「そういうつもりはございません!」
- その他、義絶した息子が元上司の息子に殺されたり、後半生はこれでもかというほどに不幸続き。流浪の末最後は山口で一生を終えたそうな。
- 凄腕だがワンマン経営の独裁社長と、そいつと犬猿の仲で、出世欲だけ一流の支店長の狭間で悩まされ続けた。
太田道灌
- 江戸城を築いた人。徳川家康と答えた者は不正解。
- 江戸城だけでなく、川越城、岩槻城など、平地型の城をたくさん築いた。
- 足軽戦法の創始者。
- それまで非正規戦闘者の扱いだった「足軽」に禄を与えて集団訓練を施し、歩兵軍団として活用。
- のち北条早雲に受け継がれて関東を席巻する。
- 扇谷上杉定正の家老。
- 城作りも足軽戦法も、定正のためにやっていたのだが、力量がありすぎて警戒される。
- 対立する山内上杉顕定の反間の策が入り、定正によって殺される。
- 風呂場で殺される時、道灌が叫んだ言葉は「当方滅亡!」のひとことだったとか。
- 「俺を殺したらもう山内には勝てずに滅亡するしかないのに、バカな殿よ」というほどの意味だったろうか。
- 風呂場で殺される時、道灌が叫んだ言葉は「当方滅亡!」のひとことだったとか。