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[[画像:Flag_of_Saitama_s.gif|frame|さいたま帝国国旗<br>由来:「太陽」「発展」「情熱」「力強さ」を表している。]]
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さいたま市が日本国から分離・独立してできた国。なお、千葉攻略直後に発生した時空の歪みにより、[[大さいたま帝国|パラレルワールド]]を生じた。別の世界では[[大さいたま帝国]]。
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*国名:正式名称はさいたまていこく。日本語表記はさいたま帝国。通称はさいたま、玉と略される。英語表記はThe Empire of Saitama。
※編集される方は「[[Chakuwiki:お願い/ざんねんなモノ事典]]」をご覧ください。
*首都:うらわ市
*「選手」とありますが監督としてざんねんだった方も含みます。
**おおみや市が首都であるという主張も一部にある。
==あ行==
*民族:さいたま人、東京人、千葉人、茨城人ほか
;相川亮二
*公用語:[[さいたまていこく|さいたま語]]
#2006年のWBC優勝メンバーであるが、リーグ戦では優勝に縁がなかった。
**語彙・文法など日本語に極めて近いが、漢字を全て廃止している。
#*最初に所属した横浜は1998年に優勝しているが、彼の1軍デビューはその翌年だった。
***カタカナ文化も廃れていった。事実上、ひらがなが国字になっている。
#*2009年にヤクルトに移籍するも、彼が巨人に移籍した翌年の2015年まで優勝から遠ざかっていた。
*宗教:主にさいたま教
#*そしてもっと優勝できそうな巨人に移籍したのに優勝を経験できず引退。
**太陽を唯一の神とする宗教。
*通貨:円
**独自通貨「玉」を作ろうとする動きも。
*GDP:30兆円
*国歌:[http://www.city.saitama.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020046&WIT_oid=saitama::Contents::4471 希望(ゆめ)のまち](旧さいたま市歌)
*国是:さいたまさいたまさいたま
[[画像:Saitama_2010.gif|frame|<center>'''さいたま帝国の版図'''(2010年)</center>]]
== 政治 ==
*皇帝:初代 つちやよしひこ
*総理大臣:あいかわそういち
*国防大臣:のはらしんのすけ


=== 政党 ===
;井川慶
*与党:うらわレッドダイヤモンズ党
#日本では沢村賞を受賞するなど大活躍を見せた。
*野党:おおみやアルディージャ党
#その後、ヤンキースでもプレーしたが、「ヤンキース史上最悪のFA補強」に選ばれてしまった。
*野党:せいぶライオンズ党
#阪神時代、何年も虎風荘から出たがらなかった。
*野党:チチビアン民主党
#*追い出されるように出て行った後もホテル暮らしだった。
**後にチチビアン民主独立党と名乗る。
#阪神でバッテリーを組んでいた矢野輝弘から「言うことを聞いてくれない」と言われるほどワガママが強かった。


=== 政策 ===
;宇野勝
*「一つのさいたま」政策
#例の「ヘディング事件」以来、珍プレー番組の常連となる。
**「さいたま帝国」以外のさいたまを認めない。
#*中京ローカルのお米屋さんのCMに出たことがある。しかし、「ヘディング事件」をネタに、米袋をヘディングする内容だった。
**熊谷はさいたま帝国の一部分である。
**熊谷併合を目論む。


=== 外交 ===
;石井浩郎
外交手段は主に'''戦争'''である。
#巨人移籍もファーストが飽和状態、ロッテに放出、横浜であと一歩で全球団本塁打を逃す、優勝経験なし、岡村孝子夫人と離婚。
#その後地元秋田で参議院議員選挙に自民党から立候補し当選したが、党員獲得数でワースト10になったことがある。


== 軍事 ==
;伊東勤
*作戦の立案と実行までの間にほとんどタイムラグがないのが特徴。
#西武監督時代の2007年に怪我人が相次ぎ、交流戦で10連敗を喫し、26年ぶりのBクラス (5位) に終わったことにより監督を辞任。
*突撃の時は「さいたまー!」と叫びながら。
#その後WBC日本代表総合コーチ→韓国・斗山ベアーズヘッドコーチを経て2013年に千葉ロッテの監督に就任。3位→4位→3位→3位と来て、最後の2017年は最下位で監督を辞任。
*徴兵制をとっており、20-30歳の男子に兵役の義務がある。
#*伊東自身にとって選手、監督通して31年目にして初の最下位だった。
*兵力:35万人
*軍事費:5兆円


=== [[ノート:さいたま帝国/参謀本部|参謀本部]] ===
;伊良部秀輝
#ロッテで最優秀防御率、最多奪三振のタイトルを獲得し、ヤンキース時代もMLBでアジア人で初のワールドシリーズ制覇を果たしただけでなく2回も果たすなど輝かしい実績を残したが…。
#メジャー移籍時パドレスを拒否しピンストライプのユニフォームを着たいとヤンキース移籍に固執したことで騒動となる。
#*ロッテのファン感謝デーで「ニューヨークに行ってくれ」と掲示されたが早く出てけという真意だったらしい。
#*さらに俺はミケランジェロ発言で大顰蹙を買う。
#ヤンキース1年目はアジア人初の初登板初先発初勝利を達成したのだが…。
#*その後調子を落としまくりブーイングするファンにツバを吐く愚行をしてしまう。
#*3年目のキャンプで「太ったヒキガエル」と酷評される。
#*そのワールドシリーズでは登板が一切無かった。
#その後モントリオール・エクスポズに移籍したが「エクスポズもピンストライプで良かった」とマスコミに皮肉られる。
#*度重なる怪我で活躍できなかっただけでなく泥酔で意識不明になったのが原因で解雇されてしまう。
#レンジャーズを経て阪神と契約し日本球界に復帰してリーグ優勝に貢献したが翌年は不振で戦力外通告となり一度目の引退を表明。
#引退の原因になった膝の痛みが消えたこともあって現役復帰し日米の独立リーグでプレーしたが腱鞘炎で2度目の引退。
#2011年首吊り自殺してしまうが、その後もさらに悲惨なことになってしまった。


=== 陸軍 ===
;上田利治
#選手時代は広島に在籍したものの、怪我で活躍できず早々と引退。
#ヤクルトとの1978日本シリーズ第7戦で6回裏一死からヤクルトの大杉勝男が左翼線に放った本塁打をファウルだと抗議し、そのためにシリーズ史上最長の1時間19分の中断を余儀なくされた。
#*その後試合は再開したものの、マニエルと再度大杉に本塁打を打たれた結果、阪急はヤクルト初の日本一を献上する形になり、上田はこの日本シリーズでの混乱の責任を取るため退任した。
#1988年10月23日、阪急ブレーブスとしての西宮球場最終戦終了後の挨拶で「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、最終的に福本の引退に繋がってしまった。
#1996年にはオリックスと熾烈な優勝争いを繰り広げたものの、同年9月に家庭の事情により休養しチームを離脱、オリックスに逆転優勝を許す形になってしまった。
#*仮に優勝していたらこの年の日本シリーズは同じく東京ドームを本拠地とする巨人との対決になっていただろう。


=== 海軍 ===
;江川卓
*さいたま型ミサイル駆逐艦(通称:戦艦「さいたま」)
#度重なるドラフト拒否、空白の一日でアンチ巨人を増やし、阪神に入団からのトレードで厳密には生え抜きにはならない。
**全長:190.0m
#数字だけなら安定していたが若くして引退。
**全幅:20.0m
**吃水:11.0m
**排水量:14,000t


=== 空軍 ===
;緒方孝市
*F-15ST戦闘機(国産)
#詳しくは'''[https://wikiwiki.jp/livejupiter/%E7%B7%92%E6%96%B9%E4%BC%9D%E8%AA%AC こちら]'''を参照。
**F-15Jをベースに開発された。
*F-15J戦闘機
*F-2攻撃機


== 経済 ==
;小川博
=== 主要企業グループ ===
#引退後の2004年に強盗殺人事件を起こし、無期懲役の判決を受けてしまった。
*あいかわ=なんぶべいこくこんつぇるん
#この影響で、あの10.19の第1試合が半封印状態になってしまった。
*さいたまみつびしこんつぇるん
#*小川は第1試合の先発投手だった。
*えす・てぃ・てぃ(STT)
#*現役時代に付けていた背番号の「26」も事実上の永久欠番に。その理由は「ベンチ入りの25人の選手に次ぐファンの番号」としているが、ファンもこんな曰く付き物件いらんだろう…。
**NTT関東がさいたま帝国民族資本に買収されて成立。
*こくど・せいぶ・ぷりんすこんつぇるん
*せぶんあんどあいほーるでぃんぐすひゃっかてんぶもん


== 産業 ==
==か行==
*十万石饅頭
;梶本隆夫
*そうか煎餅
#阪急ブレーブスの左腕エースとして、米田哲也と共に「ヨネカジ」として活躍するも、チームが長らく低迷していたこともあってか通算254勝255敗と通算200勝以上した投手の中で唯一の負け越し投手になってしまった。
*ソフト麺
#*さらにルーキーイヤーには20勝を挙げるも、南海ホークスの宅和本司が26勝を挙げたため新人王を逃した。現在でも20勝して新人王になれなかったのは梶本だけ。
*ほうとう
#1957年7月23日の南海戦で9連続奪三振を達成したが、9人目を三振に奪った時に捕手の山下健に「カジ、これ新記録やで」と言われ急に記録を意識しだし、10人目の打者の皆川睦男(投手)にセンターフライを打たれ記録が途絶えた。
*五家宝
#*後に梶本は「皆川を三振に取っていたら20は行ったんじゃないかな」と語っている。
*いもけんぴ
#投手の主要タイトルを遂に獲得できなかった。
*雛人形
#*あるシーズンの終盤、梶本に最多勝のタイトルを獲らせるために勝ち試合でのリリーフを監督から促されたことがあったが、梶本は「他人の勝ち星を奪うようなことは勘弁してください」と登板を断った。
*足袋
*鯉のぼり


=== 農業 ===
;加藤哲郎
*ブロッコリー
#1989年日本シリーズ第3戦終了後の例の失言により、近鉄悲願の日本一を逃したA級戦犯として大きな非難を浴びてしまった。
*さやま茶
#*加藤は第3戦の試合後のヒーローインタビューで「別に、とりあえずフォアボールだけ出さなかったらね、まぁ、打たれそうな気ぃしなかったんで。ええ、たいしたことなかったですね。シーズンの方がよっぽどしんどかったですからね、相手も強いし」と発言したが、これがいつの間にか「巨人はロッテより弱い」という発言になってしまった。
**漢字廃止により「人間」と間違えられる心配もなくなったので、主産地の名をとって「いるま茶」に改名しようとの動きもある。
#**加藤は第7戦に再び先発したが、2回表に駒田徳広に先制ソロホームランを打たれ、駒田に「バーカ!」と近鉄ベンチに向かって叫ばれるなど、3回3分の1を投げて3失点で降板。近鉄は悲願の日本一を逃してしまった。
*紫さつまいも
#**該当のインタビューでは<s>当時のパ・リーグらしい</s>まあまあ舐めた態度で受け答えをしていたので、むしろ被害者一辺倒の扱いになったのは幸せじゃないだろうか。
*ホウレン草
#その後は右肩の故障で成績が低迷。1993年に近鉄を自由契約となり、1994年は広島、1995年はダイエーでプレーしたが、結局1995年限りで現役を引退。
*ふかや葱
#引退後は朝日放送で解説者をしていたり、俳優をしたり、焼肉店をしていたが倒産。
*小松菜
#*(2019年)現在は大阪の天満橋で麻雀教室を開いている。
*落花生(旧千葉県領)


== 宗教 ==
;金村義明
国民の90%がさいたま教徒である。
#日本一に縁が無かった。
=== さいたま教 ===
#*1989年(近鉄)、1997年・1998年(西武)と日本シリーズには3回出場したが…。
さいたま人の間に自然発生的に生まれ、太陽が唯一の神であると信じる宗教。
#**1989年はチームメイトの加藤哲郎の失言騒動もあり3連勝からの4連敗で日本一を逃す。
*太陽が最も高く昇る南中時に、両手を上げて「さいたまー!」と三度叫ぶ(さいたま三唱)。
#***1998年は西武の最後のバッターとなってしまった。
#引退試合(1999年9月30日・千葉ロッテ戦)もJCOの臨界事故・中日のリーグ優勝・山本和範の引退試合と被ってしまった。
#*金村は引退後にラジオ番組で「これまでの選手生活を思い出すと涙が溢れ、ボールが見えづらかった。にもかかわらず、先発の薮田(安彦)は容赦なくフォークを投げてきた。空気を読んで欲しかった。」と語っている。


== スポーツ ==
;金本知憲
さいたま帝国では伝統的にサッカーの人気がある。政治とも深く関わっている。その為、政治家による審判買収などの八百長事件が度々起き、社会問題になっている。
#連続試合出場の世界記録を更新するなど阪神の主力として活躍したものの、年齢には勝てずだんだんプレーにミスが出るようになった。
#*そのため2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)では彼を揶揄する大量のあだ名がつけられてしまった。
#試合中にベンチでタバコを吸っている姿がテレビに映ってしまったことがある。
#*そのためファンからはアニキならぬ「ヤニキ」というあだ名がついてしまうことに。
#引退後は阪神の監督になったものの謎采配や若手や投手陣の失速で2018年にはリーグ最下位に終わり、わずか2年でやめた。


=== Sりーぐ ===
;亀山努
*2008年 - Sりーぐ発足。
#現役時代はヘッドスライディングの名手として新庄とともにフィーバーを巻き起こしたのだが・・・。
**Jリーグに参加していたうらわとおおみやに、新規6チームを加えた8チームでスタートする。
#*そのヘッドスライディングが原因で怪我をしてしまう。
*2009年 - Sりーぐ開幕。
#*その後ヘッドスライディング由来のけがは回復したのだが、今度は守備の際に別の選手とぶつかって頸椎を骨折し、結果1997年には戦力外通告を受けた。
*2010年 - 新たに2チームが加入して10チームとなる。
#*戦力外通告後、当時の近鉄の監督だった佐々木恭介が獲得を考えたが、フロントから反対され引退を余儀なくされた。
*2011年 - おおみやによる八百長事件が発覚。
#引退後に激太りしてしまったのも残念。
*2013年 - 外地のクラブもリーグ加盟を認める。外地2チームが加入して12チームとなる。
#*一時期体重は135kgまで達していた。今はその頃よりは痩せてはいるもののそれでも100㎏を超えている。
*2015年 - よのFCが経営難の為、おおみやアルディージャに吸収される形で消滅する。
#*努が選手だった時は弟の忍の方が太っていたが、忍はその後痩せたのに対し努は太ってしまったため今では逆転している。
**いるまを代わりに追加。
*2016年 - うらわによる八百長事件が発覚。
*2017年 - 旧千葉県領であるかしわレイソルが優勝した為、うらわ市で暴動が起きる。
*2018年 - この年からディビジョン1(S1)12チームとディビジョン2(S2)8チームによる2部制に移行。入れ替え戦が行われる。


==== クラブチーム ====
;菊池雄星
===== S1 =====
#もの凄く、ソフトバンクに弱かった。初めて、ソフトバンクに勝ったのは2018年9月28日だった。
*うらわレッドダイアモンズ
#*2018年は残念なことだらけ。5月は左肩の張りで一軍登録を抹消され、勝率は規定投球回以上では1位になったが、規定により最高勝率はロッテのボルシンガーに譲って、タイトルを逃し、完投が1回だけで完封は0だった。
*おおみやアルディージャ
*よのFC(消滅)
*ところざわライオンズ
**サッカーにも参入。
*ひがしまつやまネーブルス
**[http://www.city.higashimatsuyama.saitama.jp/out/heso/heso.htm へそ]を意味する。
*ふかやオニオンズ
*そうかセンベーズ
*かすかべクレヨンズ
**のはら国防相が会長。
*いわつきドールス(2010年加盟)
*ウマスギールぎょうだ(2010年加盟)
**スポンサーは十万石まんじゅう。
*サンシャインいけぶくろ(2013年加盟)
*かしわレイソル(2013年加盟)
*いるまヒューマンズ(2015年追加加盟)


===== S2 =====
;小久保裕紀
*みぬまドロンコス(2018年加盟)
#1997年脱税騒動を起こしてしまう。
**見沼はドロドロしたイメージらしい。
#巨人への無償トレードが大騒動になった。
*レアルあさか(2018年加盟)
#引退後2013年に日本代表監督を務めるがプレミア12、WBCで優勝を逃した。
**朝霞が皇族の名前に由来することから「レアル」の称号が付く。
#*特にプレミア12では激しく叩かれた。
*わらびワラビーズ(2018年加盟)
#しかも監督退任後次のプレミア12で日本代表は優勝したため黒歴史扱いに。
*かぞカープ(2018年加盟)
#引退試合でノーヒットノーランを達成させてしまった。
**応援時に鯉のぼりを振る。
#*しかしその時の相手の投手を日本代表に選出していて、良く言えば本人はそのノーノーを評価しているのが分かる。
*ふじみフェニックス(2018年加盟)
**「不死身」なので。
**ふじみ市とふじみの市のダブルフランチャイズ。
*さやまティーズ(2018年加盟)
*ちちぶセメンツ(2018年加盟)
*おおたきジャイアンツ(2018年加盟)


==== 歴代優勝クラブ ====
==さ行==
*2009年 - うらわレッズ
;佐々木信也
*2010年 - うらわレッズ
#湘南高校から慶應義塾大学を経て、1956年に高橋ユニオンズに入団。
*2011年 - うらわレッズ(おおみやの八百長により繰り上がり優勝)
#*1年目から154試合(当時)フルイニング出場・ベストナインにも選出されたが、新人王は21勝・防御率1.06を記録した稲尾和久(西鉄)が獲得。
*2012年 - うらわレッズ
#その後高橋の大映との合併(正確には解散)、大映・毎日の対等合併後の大毎でもプレーしたが、1959年限りで現役を引退。
*2013年 - ところざわライオンズ
#*巨人からのオファーもあったが、佐々木本人が断った。
*2014年 - うらわレッズ
#引退の(表向きの)理由は、その年のオフに監督に就任した西本幸雄が「身長の低い選手はいらない」という考えを打ち出し、身長169cmの佐々木も戦力外通告の対象になってしまった、というものだが…。
*2015年 - おおみやアルディージャ
#*後に佐々木が「プロ野球ニュース」で西本に「なぜ僕はクビになったんですか?」と問いただしたところ、実は西本が監督就任した時期に佐々木は結婚しており、その相手が資産家の令嬢と聞いていた西本が「チーム事情で内野手を整理する必要があり、仮にクビになっても生活に困らない者」として佐々木をリストアップしていたというのが真相だった。
*2016年 - ひがしまつやまネーブルス(うらわの八百長により繰り上がり優勝)
*2017年 - かしわレイソル


== 歴史 ==
;G.G.佐藤
(書き込みの際は、[[ノート:さいたま帝国#参謀本部|'''ノート''']]の議論を参考にして下さい。)
#北京オリンピック野球日本代表に選ばれたが、本番では痛恨のエラーを連発したため、メダルを逃したA級戦犯として大きな非難を浴びてしまった。
===2000年===
*4月 - ★大宮・与野・浦和市の合併での新市名が「さいたま市」に決定。


===2001年===
;新庄剛志
*5月1日 - ★浦和市、大宮市、与野市が合併してさいたま市が誕生。
#2012年度の野球殿堂入りの候補者に上がったが、わずか5票しか得られずそれ以降は候補者リストから外された。
**ここで上尾市と伊奈町奪取を企む。しかし上尾がいち早く逃げたため失敗。
#1999年6月に巨人の槙原寛己から敬遠球をサヨナラ打。その時お立ち台で決め台詞として「明日も勝つ!」と言い放ったが、その発言から一週間後に阪神は首位陥落。
#*さらに、1999年9月に新庄が8回裏に巨人のバルビーノから決勝ソロ本塁打、お立ち台で再び「明日も勝つ!」発言。ところが翌日から阪神は球団ワーストタイ記録の12連敗を喫し、最終的には2年連続最下位という散々な結果に…。
#引退後には彼の金銭管理不足を露呈するように、現役時代の財産を預けていた関係者に奪われてしまった。
#*これがバリ島に渡った理由の一つと言われている。


===2002年===
;菅野智之
*11月 - ★政令指定都市後の新区名発表。区名を巡り一部で暴動が起きる。
#入団からわずか6年間で最優秀防御率4度、最多勝2度、最多奪三振2度を経験した紛れもない巨人の、いや日本球界を代表するエースである。
#しかし2011年のドラフト会議で日本ハムに指名されて引き当てられた際にこれを拒否。そのせいで翌年巨人に入団した時には既にイメージは悪かった。
#とにかく無援護で有名で、2015年は防御率1.91なのに10勝11敗と負け越し。しかもこの防御率で最優秀防御率になれなかった(広島のジョンソンが1.85)。
#*2016年も2.01で最優秀防御率なのに9勝6敗。ちなみに同じ9勝6敗だった内海哲也の防御率は3.94。
#**そのせいで実況パワフルプロ野球で「負け運」と言う特性が付いてしまった。
#***しかしアップデートでそのマイナス特性は消滅。パワプロ2018でも負け運は無くなっており本人は喜んでいた・・・が当時のチームメイトだったメルセデスに負け運がついた。
#****その後のアップデートで「勝ち運」というプラス特性がついたが、その代償として別のマイナス特性がついたり全体的に能力を下げられることになってしまった。
#「フェアリーファンタジア」と言うソーシャルゲームに登録・課金していたと思われ、そこに「スガーヌォーグ」なるキャラクターが登場。菅野がモデル説がある。
#*しかもそれが明らかになってから成績が低下しており某板ではバレて動揺したとかこのゲームで中指を酷使して傷めた<!--(このゲームの配信元がDMMの時点まぁお察しを・・・。)-->とか言われていた。
#*そして当の「スガーヌォーグ」も公式ではシュガー(Sugar)とノーグ(Noog)の合成語とされているが、某板では菅野+G→SUGANOG→スガーヌォーグではないかという説が長らく支持されていた。
#**なお公式も把握していたのかスポーツコスチュームを纏ったバージョンのスガーヌォーグも実装されていた。もちろんその衣装は言うまでもなく・・・。


===2003年===
==た行==
*4月1日 - ★政令指定都市に指定される。
;大豊泰昭
#とにかく優勝に縁がなかった。
#*1994年のリーグ優勝がかかった最終試合(10.8決戦)で巨人に破れ、リーグ優勝を逃す。
#*1998年に阪神に移籍するも、在籍した3年間は全て最下位。その阪神も彼が引退した翌年の2003年までリーグ優勝&Aクラスから遠ざかっていた。
#*そして中日に逆戻りしたのに優勝を経験できず引退。なお、中日は彼が引退した翌々年の2004年にリーグ優勝を果たしている。
#中日時代は一本足打法だったが、阪神時代の野村克也監督が一本足打法の本家の王貞治を嫌いな為すり足打法に矯正された。
#*年齢的なピークが過ぎる以前に、そのフォーム変更と阪神の本拠地甲子園球場の広さに適応できなかったのが重なって阪神時代は不本意なシーズン続きだった。
#*2000年オフに阪神側から年俸の大幅ダウンを提示され、自ら自由契約を申し入れて阪神を退団。
#*大豊は後年、「(野村監督とは)対話も少なかったし、誤解も生じた。でも、それは人生であり得ること。今は阪神と中日、両方を体験できてよかった」と振り返っている。


===2005年===
;高木守道
*4月1日 - ★岩槻市を併合。
#日本一に縁が無かった。
#*1974年(中日現役時代)、1982年(中日コーチ時代)とリーグ優勝を2回も経験したが…。
#**1974年はロッテ、1982年は西武にそれぞれ2勝4敗で敗れ、日本一を逃す。
#中日監督時代の1994年・2012年は最後の最後で日本シリーズ進出を逃してしまった(1994年は勝った方が優勝の10.8決戦で敗戦、2012年はCS3連勝から王手をかけるもそこから4連敗)。
#*しかも両年とも対戦相手は1974年にその中日にV10を阻止された巨人である。
#2013年は中日が12年ぶりのBクラスの4位に終わり、セ・リーグ5球団に負け越す結果となってしまう。そして高木はその責任を取るために退任。
#*そして、この頃から現在まで続く中日の暗黒時代が再来したので、チームを弱くした元凶とも言われやすい。


===2006年===
;高橋由伸
*7月20日 - ★千葉県柏市・松戸市等の関係者が周辺都市(埼玉に隣接するとんがった部分全域)を含めた合併によりさいたま市を超える大都市(政令都市)を目指していることが発覚('''これは事実です''')
#チームの都合で強制引退させられて監督に押し込まれた時点でざんねん。
**さいたま市に危機感広がる。
#そして指導者経験一切無しで監督をやらされたため、戦術にもざんねんなところが多かった。
#最後はその成績がざんねん過ぎて監督を退任。結局この前と後に監督をやって優勝を経験した原監督の噛ませという評価を喰らう事に。
#あくまでもざんねんだったのは監督時代のみ、選手の時はとても良い選手だった。
#すぐ怪我をして離脱する。後年にはその怪我で規定打席にすら立てなくなる始末。
#*特にボールが良く飛んでいた2000年代前半に離脱が多かったため、そこで通算成績をかなり損したと思われる。
#*フェンス際の捕球が特に苦手だった。


=== 2007年 ===
;多田野数人
*8月4日 - さいたま市議会が埼玉県庁を占拠。さいたま市の独立を求める。(''さいたま革命'')
#'''説明不要。'''
**日本政府がさいたま市の政令都市の指定を解除する。
#*{{あきまへん}}なビデオに出演しなければどれ程活躍していたことか...。
*8月10日 - 上尾・桶川・北本・鴻巣・伊奈町に侵攻。
*8月14日 - 鴻巣・行田・東松山・吉見町に侵攻。
**この頃別働隊は東部(草加・越谷・春日部・三郷・吉川など)を制圧。千葉県側に工作員を送り込む。
***当初は政令市実現妨害が目的だったが、後に合併させて丸ごと乗っ取る方針に転換。
*8月20日 - 熊谷市に侵攻。しかし暑過ぎるので撤退。
*8月23日 - 和光・朝霞・志木・富士見・ふじみ野・川越・鶴ヶ島・坂戸・滑川町・小川町・寄居町が合併。東上市を名乗りさいたまと全面対決へ。埼玉県庁を川越に移転。
*8月29日 - 入間・狭山・所沢・飯能・日高・秩父・横瀬町が合併。『西武市』を名乗りさいたまと全面対決の姿勢を示す。
*西武市と東上市、『西埼玉連合』を設立。
*9月2日 - 入間基地から発進した航空自衛隊機、さいたまを初空襲。朝霞からは陸上自衛隊がさいたま市内に侵攻。どさくさにまぎれて練馬区を併合。
*9月8日 - 西埼玉連合対さいたま市最大の激戦となる荒川の戦いが行われる。西埼玉連合、さいたま軍に押し戻される。
*9月11日 - さいたま、荒川を渡り川越に侵攻。西埼玉連合・東上市崩壊。埼玉県庁は所沢に移動。
*9月13日 - 川越から新宿線沿いに西武市内に侵攻。これが俗に言う『西武新宿戦線』。
*9月14日 - 所沢市域に侵攻。入間市に県庁を移転。
*9月15日 - 入間市域に侵攻。埼玉県・西武市は最後の望みを賭け、元大滝村役場に県庁を移転。俗に言う『秩父大本営』
*9月17日 - 秩父市域を完全に占領。西武市は消滅。
*9月18日 - 埼玉県が降伏。これにより、埼玉県がさいたま市の支配下となる。
*同9月18日 - 唯一生き残ってた熊谷に、敗走した議員団による埼玉県臨時議会が成立。
*9月19日 - '''日本国からの独立を宣言'''。土屋義彦を皇帝とする帝国が成立。
**同時にさいたま市の合併を解消。
*9月26日 - 熊谷が東京都に編入される。
*10月1日 - 涼しくなってきたので熊谷の臨時議会を攻撃。しかし富岡清率いる熊谷軍の戦術に苦戦し赤城おろしの風で多くの戦死者を出し併合失敗。未だ熊谷市生き残る。
*10月2日 - 地名を全てひらがなにする。
*10月14日 - 首都をうらわ市に制定。
**おおみや市がこれに反発。
*10月27日 - 漢字を全て廃止する法律ができる。
*12月28日 - 東京都が熊谷編入を断念。熊谷自治区とする。


=== 2008年 ===
;田淵幸一
*5月4日 - さいたま政府は東京都に対し池袋地方の割譲を要求。
#阪神時代は「天才ホームランアーチスト」として名をはせるも・・・。
**東京都はこれを拒否。日本政府は遺憾の意を表明する。
#西武時代は、あの名作「がんばれタブチくん!」の主人公として名をはせることに。
*5月9日 - 池袋を奇襲攻撃。
#*その影響で、絶対に不可能なことを意味する「タブラン(タブチのランニングホームラン)」という言葉が生まれる始末。
*5月18日 - 豊島区と北区を併合する。
#山本浩二同様、同級生で実績が上のはずなのに「星野仙一の舎弟」感が強い。
*7月 - 千葉県で松戸・柏・流山・野田・我孫子・鎌ヶ谷の6市議会において相次いで合併決議可決。10月17日の合併を目指し市名の公募が始まる。
**「東葛市」「東葛飾市」「東かつしか市」の3つが候補として残る。最初の案は旧柏市の名称だったとして松戸側が猛反対、後2者が決選投票にかけられた。勿論最後のはさいたまのスパイ(ひらがな工作員)の陰謀であった。
*10月16日 - 僅差で「東かつしか市」が採択された。しかし、市名の賛否をめぐり大混乱に・・・・
*10月17日 - 「東かつしか市」発足。人口137万人。発足したばかりの市内では至るところでデモが発生。
**「平仮名反対」vs 「ひらがなだいさんせい。さいたまへんにゅうしじ」
*10月18日 - 千葉県知事が「さいたま人は漢字も読めない馬鹿」と発言。<br>東かつしか市に人口で抜かれて逆上していた千葉市長も県知事の発言を受け「東かつしか市民はは漢字も読めない『'''ばか'''つしか』」と発言。
*同10月18日 - つちや皇帝は千葉県知事・千葉市長の発言に激怒。「ちょうばつこうい」と称して千葉県に宣戦布告。(''玉千戦争'')
*10月21日 - 千葉県に侵攻。柏をさいたまに取られるのをよしとしない茨城人も加わって大乱戦となる。
*10月24日 - さいたまに隣接するとんがってる地域、すなわち東かつしか市を占領。
*10月29日 - 東かつしか市がさいたま側に寝返る。さいたま軍と共闘する。
*11月3日 - 千葉市陥落。千葉県が降伏する。東かつしか市は即日「ひがしさいたま市」に改称。
*11月4日 - さいたま・よの市(しんとしん)においてさいたま帝国と千葉県代表による講和会議が始まる
**講和会議の最中、さいたまありーなに落雷。これにより時空の裂け目が生じ、異なる2つの未来が生じた。
***<small>'''もう1つの世界'''に飛びたい方は・・・・[[大さいたま帝国#2008年|大さいたま帝国]]へどうぞ。</small>
**こちらの世界では強硬派のちょうえつ(超越)将軍が落雷死。穏健派のどうじく(動軸)将軍は一命を取り留め、病床より会議を指揮。
*11月11日 - 千葉県はよの講和条約を受諾。これにより、さいたま帝国に隣接する「ひがしさいたま市」及び、沿岸部の領土を全てさいたま帝国に譲渡。千葉県は海を失う。
**ひがしさいたま市で捕虜になった茨城人たちは「ちちぶ」へと連行・抑留されることになる。
***勿論これは、訛りのひどい(失礼)茨城を攻略するためのふるさと工作員養成のためであった。
**念願だった海を手に入れ、さいたま国民は大喜び。11月11日を「海の日」に制定する。
**[[東京ディズニーリゾート]](TDR)は'''さいたまディズニーリゾート'''(SDR)に改名させられた。
*11月23日 - 戦艦「さいたま」の進水式。その様子は国営放送のテレビさいたまで全国生中継され、初めての海に国民は皆感動、胸を躍らせた。
*同日-しかし、何を血迷ったのか現○重工に発注していたため、進水と同時に浸水して沈没。


=== 2009年 ===
;多村仁志
*6月23日 - さいたまの語源となった聖地・多摩に侵攻。つちや皇帝が「これはせいせんである」と声明。(''玉多摩聖戦''
#''スペランカー''とまで称される怪我の多さとあり得ない怪我の理由に最後まで悩まされ続けていた。
**「埼玉(さきたま)古墳説」を完全否定。
#スペ体質すら無ければ…と言われる選手筆頭である。
*7月14日 - 奥多摩町・桧原村を占領。
*7月25日 - 青梅市・あきる野市・日の出町を占領。
*8月1日 - 福生市・羽村市・瑞穂町を占領。西多摩郡全土を併合する。


=== 2010年 ===
;辻内崇伸
*1月7日 - '''反さいたま同盟「23区隊」'''が(区から市になりたがっていた千代田区と、先に占領された、練馬区、豊島区と北区を除く19区によって)結成される。
#大阪桐蔭時代に甲子園を大いに沸かせ、ドラフトの目玉として注目を集める中で巨人に1位指名され入団するが、度重なる怪我のため一軍登板はないまま引退。
*1月12日 - さいたま帝国は、「23区隊」に唯一参加していない、東京・千代田区(特にアキバ)に侵攻。しかし「何の役にも立たない上に、意外にわがまま」でお馴染みのオタクが、だれにとっても意味不明な猛反発を起こし、撤退を余儀なくされる。みんな頭の上に「?マーク」が出るが「それがオタク」の一言で、とりあえず後回しにされる。識者は「スイスの独自性と同じ原理」と指摘するが、みんなとてもイヤ~な気持ちになる。
#*大阪桐蔭を卒業する頃には既に肩がボロボロだったという。
*1月20日 - いつの間にか「バチカン衛兵と同じ真の聖戦士」とまで思い上がっていたオタクに「ゲド戦記は失敗だったね。やっぱり世襲制は・・・」と、痛い所を突付くと各個に自爆した。
*1月23日 - 日本国側は「東京が奪われる!!」と思い、再び京都が首都に
**人口の問題だと名古屋・大阪が反発。
**これにより東京都知事、石原慎太郎が「首都じゃなくなったなら、もういいや。飽きた。」といって突然辞任。これにより23区隊は大混乱。
**すぐに次の知事がドクター中松に決定する。戦線になぞの発明品が投入される。
*1月31日 - あいかわ首相の提案により、23区隊対策として、鉄道の輸送力を生かした戦術の採用が決定。
*2月7日 - JR高崎線を確保する為に上野まで侵攻。
**赤羽、東十条、王子、田端、西日暮里、鶯谷では23区隊の守備隊が激しい抵抗を見せたが、指揮系統の不統一と、ドクター中松知事の発明品がほとんど何の役にも立たなかった事により、わずか一日で上野まで制圧される。
*同2月7日 - さいたま本隊の動きに合わせて、さいたま帝国の千葉県部隊が江戸川を渡河しようとするものの、23区隊に全ての橋を爆破されてしまい、千葉県から東京都への直接の侵攻を断念。<!--また、東京の26市・5町・8村による連合部隊も23区への攻撃を開始。主に杉並区・中野区の制圧を目指す。-->
*2月8日 - さいたまを経由して千葉県部隊が葛飾区・柴又に侵攻。(''葛飾柴又の戦い'')
**激戦の末、さいたま軍が勝利。
**この戦いで葛飾の英雄、両津勘吉が戦死する。
**さいたま帝国は両津勘吉の驚異的な身体能力を調査する為、遺体を本国へ持ち帰る。
**実は影武者であったことが判明。本物はいまだ逃走中。
*9月1日 - 古河・結城・下妻・五霞町・境町・八千代町が合併し、「こが市」となる。
*10月26日 - こが市で「さいたま帝国編入条例」が可決される。
**元々この地域の人たちはさいたまに編入されたかったようだ。
*12月11日 - こが市がさいたま帝国に編入される。


=== 2011年 ===
;辻発彦
*4月2日 - 群馬県でさいたま帝国への編入合併を望む、'''群馬・さいたま党'''(通称:ぐんたま党)が結成される。
#西武の監督として2018年・2019年にリーグ優勝を果たすも、CSファイナルではいずれもソフトバンクに敗れている。
**しかしその実態は、さいたま帝国への懐柔工作する組織であった。(ふるさと工作員)
*9月半ば - 群馬県南部で「さいたま編入論」が高まる。
*12月10日 - 群馬県南部の市町村で「さいたま帝国編入条例」がことごとく可決される。
*12月12日 - 前橋市が「さいたま帝国編入条例」を巡って市議会が対立。前橋市は南北に分裂する。
*12月18日 - 併合を阻止したい群馬県は、北部を中心に'''反さいたま同盟「北毛隊」'''を結成する。
**しかし、みなかみ町までもが「さいたまにへいごうされたい」と言い出し、北毛隊が困惑する。
*12月25日 - 群馬県が南部に北毛隊を投入。
*12月26日 - 各市町村で北毛隊と親さいたま派が衝突する。(~31日)
*12月27日 - 群馬・さいたま党は「しんこくなじんけんしんがいだ」と声明、群馬県庁を非難する。
*12月31日 - 北毛隊、群馬県南部の各市役所・役場を占拠。多くの親さいたま派が逮捕される。


=== 2012年 ===
;中村剛也
*1月3日 - 群馬・さいたま党、密かにさいたま政府に応援を要請。
#日本を代表するスラッガーのひとりだが、怪我が多いため侍ジャパンには2015年プレミア12の1回しか選ばれていない。
*1月6日 - さいたま政府、親さいたま派の釈放を要求。
**群馬県は内政干渉としてそれを拒否。
*1月12日 - 同志の保護を理由にさいたま軍が群馬県に進軍。
*1月13日 - さいたま軍が北毛隊と衝突。北毛隊が北前橋市に撤退。
*1月20日 - 北毛隊に占拠されていた市役所・役場を解放。
*1月26日 - さいたま軍、北前橋市に一斉に砲撃を開始。
**北毛隊は北部に撤退。
*1月27日 - 群馬県、県庁をみなかみ町に移転することを発表。
**しかし、みなかみ町議会が拒絶。
*1月30日 - 草津町・嬬恋村・長野原村・六合村を合併し「九合市(くにし)」と名乗る。群馬県庁を九合市に移転。
*2月2日 - 南部が北毛隊に対抗して'''親さいたま南群馬同盟「南毛隊」'''を結成。
**さいたま軍と軍事同盟を結ぶ。さいたま政府、南毛隊に50億円の軍事援助を決定。
*2月9日 - さいたま軍が北進を始める。
*2月13日 - 渋川市・吉岡町・富士見村に侵攻。
*2月19日 - 榛東村に侵攻。さいたま軍、相馬原駐屯地を爆撃。
**陸上自衛隊第12旅団が激しい抵抗を見せる。しかし一部がさいたま軍に寝返ってしまう。
*2月25日 - 榛東村陥落。
*2月26日 - 渋川市・吉岡町・富士見村が陥落。
*2月28日 - 南毛隊、沼田市に侵攻。北毛隊と交戦。
*3月5日 - さいたま政府、兵力の増員を発表。


== 関連項目 ==
==な行==
*[[さいたまていこく|さいたま語版さいたま帝国]]
;長嶋茂雄
*[[大さいたま帝国]]
#初めて監督に就任した年(1975)は後述に書かれているようにセリーグ最下位、その後の1976年と1977年はリーグ優勝を果たすも、日本シリーズではいずれも阪急に敗れている。
*[[埼玉共和国熊谷臨時政府]]
#*1996年も当時リーグ史上最大の11.5ゲーム差をはね返してリーグ優勝(いわゆる「メークドラマ」)を果たすも、今度は阪急から改名したオリックスに敗れている。
*[[埼玉]]
#**なお、長嶋監督時代に日本一になったのは第2次監督時代の1994年・2000年の2回である。
*[[さいたま市]]
#2004年アテネ五輪を目指す日本代表監督にも就任したが、脳梗塞を患い五輪本番では指揮を執れず。
[[Category:勝手に国づくり|さいたまていこく]]
#また、日常生活での残念エピソードの宝庫でもある。
[[category:さいたま帝国|*さいたまていこく]]
#*球場に、息子の一茂を置き忘れたことは伝説。
 
;長嶋一茂
#ミスタープロ野球・長嶋茂雄の長男として、鳴り物入りでヤクルトスワローズにドラフト一位で入団。プロ初安打をホームランで飾り、『ミスター二世』として注目を集めた。
#*しかし、プロ3年目に就任した野村克也監督の「ID野球」に全くなじむことができず、シーズン中に目立った活躍はなく、池山などにいじられる光景などがオフの番組を飾るくらい。
#1993年、父・茂雄が監督に就任した読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍。しかし、そこでも目立った活躍はなく、3年後に父の介錯を受ける形で巨人をクビとなり、そのまま引退した。
#*その巨人時代、当時の総合守備コーチ・土井正三から2時間のバント練習をさせられたことに対して「いらねぇよ!あんな奴!!」と暴言を吐き、罰金50万円と二軍降格に加え、しばらくの出場停止処分を受けたことがある。
 
;二岡智宏
#2008年に巨人軍の選手会長に指名されたが、その年の開幕戦の試合中にふくらはぎの肉離れを起こして二軍調整、7月11日に一軍復帰の予定だったが直前に某女性アナとの五反田の9800円のホテルでの不倫が発覚し延期となってしまう。
#*7月20日に復帰するも正遊撃手の座を坂本勇人に取られ三塁手に。さらに打席に立つたびに不倫相手をもじった名前や「五反田」「9800円」とヤジられる始末であった。
#追い打ちをかけるように9月に足首の捻挫で二軍落ち。そのままシーズンを終え、その年の11月に日本ハムへトレードされてしまう。
#*選手会長になってわずか1年の解任と選手会長がトレードされるというのは異例のケースであり。不倫騒動が原因でトレードされたのではと言われていた。
 
;西本幸雄
#監督として日本シリーズに8度出場しながらも優勝できなかった 「悲運の名将」 。
#*このうち5回は巨人のV9時代 (1967~1969・1971・1972) に重なっている。
#**但し西本本人は「もし私が本当に悲運なら戦争で死んでいるし、復員してから野球に再会できたり、大毎・阪急・近鉄の3チームで素晴らしい選手に巡り合えて、8度も日本シリーズに出場などできない。『悲運の名将』なんておこがましい。敢えて言うなら『幸運な凡将』ですね」と1980年のインタビューで語っている。
 
;根本陸夫
#広島・西武・ダイエーのフロントを歴任し、黄金期の土台を築いたが、監督としてはAクラスが広島時代に1回 (1968年) のみで、それ以外はすべてBクラスである。
#そしてダイエー(として)の初優勝を見ることなく1999年4月にこの世を去った。
#[[ざんねんな野球チーム事典#福岡ソフトバンクホークス|球団の項目]]のダイエーホークスにも書いたが、フロントとしての手腕がエグい。強くなったチームにとっては残念も何もないだろうが、西武が裏金でドラフト指名権を剥奪された土壌を作った原因かもしれない。
 
;野川拓斗
#横浜DeNAベイスターズに在籍していたがわずか2年で戦力外通告を受けた投手。
#*最終年は背番号を変えられてしまったが挽回できなかった。
#なんと言っても「おたくと」と呼ばれるほどのアニメ、ゲーム好きであることが有名だった。
#*DeNA繋がりということでハッカドールの刺繍を入れたグラブを使用していた。
#**因果関係は不明だが戦力外通告の翌年にハッカドールはサービスを終了した。
#*最初の登場曲は自身がこよなく愛するらしいあるアニメの主題歌だった。
#**そのアニメはベイスターズの先代親会社である某局で放送されたのだが作画崩壊で有名でセールスでも結果が出なかった。
#**2018年のみ使用した登場曲もヒットとは言い難いアニメの主題歌だった…。
 
;野村克也
#大阪スタヂアムの跡地に建てられたなんばパークスの「南海ホークスメモリアルギャラリー」では様々な理由で野村本人に関する展示が全く行われていない。
#妻・サッチーのおかげで、監督をクビになったことがある。それも二回。
#*1回目は1977年(南海)。当時まだ愛人関係だったサッチーの「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で、野村を大事にしていた南海の川勝傳オーナーの耳に入り解任。
#**野村の解任に反対していた柏原純一と江夏豊はそれぞれ日本ハム、広島に移籍。打撃コーチの高畠康真(78年からは導宏)も南海を退団し、野村と共にロッテに移籍した。
#***この年を最後に南海はAクラスに入ることなく1989年にダイエーに身売りされた。
#****また、ホークスの連続Bクラスも1997年まで20年続いた。
#*2回目は2001年(阪神)。一度は留任も発表され秋季キャンプも指揮を執ったが、サッチーが脱税容疑で逮捕された日に辞任。
#**野村本人はサッチーが逮捕されるまで、脱税行為をしているとは知らなかったという。
 
==は行==
;平松政次
#「カミソリシュート」と言われた速く切れ味鋭いシュートを武器に大洋ホエールズのエースとして通算201勝を挙げ、巨人キラーとしても有名だが、チームが弱かったせいもあって一度もリーグ優勝を経験できないまま引退した。
 
;福本豊
#1988年の本拠地最終戦で、当時の阪急監督である上田監督がうっかり失言してしまったせいで引退させられてしまった。
#*上田監督「去る山田、そして福本」
#国民栄誉賞を辞退したのは、有名。
#*表向きは「立ちションベンもできんようになるがな」という理由だったが、実際は「王さんのように野球人の手本になれる自信がなかったから」と週刊ポストの記事でコメントしている。
#引退後は、ABCやサンテレビの解説が主な活動。
#*しかし、必ず脱線することから「居酒屋中継」と呼ばれるように。
#**スコアボードに0が並ぶのを「たこ焼きみたいや」とか、延長戦突入で「加古川の人、帰られへんで」などに代表される、いわゆる「福本語録」が関西芸人のネタにされる始末。
#「世界の盗塁王」として有名だが・・・
#*西宮球場で、本物の競走馬と100メートル走対決をしたことがある。
#**因みにこのイベント、当初福本は断るつもりでいたが球団社長から「公表した以上取り止めるわけにはいかない。西宮球場に来てくれるファンのためにも…」と頼まれたため、「一晩悩んだ末に仕方なく」受諾した。
 
;藤川球児
#阪神のクローザーとして圧倒的な実績を持つ・・・が、その実績のせいでシーズン終盤になるにつれ酷使されるようになっていった。
#*その結果終盤の肝心な試合で炎上してしまいそれがもとで試合を落とすことが多々あった。
#2007年9月には10連投の疲労が抜けないなか3試合連続で登板しすべて炎上してしまった。
#*その炎上による敗戦で8連敗を招いてしまった。
#2010年9月30日の対横浜戦では優勝に向けて落とせない試合でありなおかつ矢野燿大の引退試合という大事な試合で2点リードの9回表にクローザーを任せられるも・・・。
#*制球に苦しみノーアウト1・2塁に、次のバッターである村田修一にスリーランホームランを被弾。逆転を許してしまう。
#**この試合を中継していたサンテレビのアナウンサーの'''「行くな!行くな!越えるな!」'''の絶叫からの沈黙、そして十数秒の沈黙のうちに絞り出された'''「悪夢のような現実がそこには待っていました」'''は今も阪神ファンの記憶に刻まれている。
#その結果出る予定だった矢野は引退試合に出られなくなり試合終了。引退セレモニーのみに出たがその時に花束を渡したのは村田だった。
#この試合以降、某所ではクローザーで炎上した投手のことを「○川○児」と揶揄するようになった。
#メジャーにも挑戦したが、何度も故障者リスト入りしたためまともな活躍ができなかった。
 
;星野仙一
#2008年の北京オリンピックの野球競技・日本代表で監督を務めるも、メダルなしの4位に終わった。
#2013年の楽天で達成するまで、3度(中日で2度阪神で1度)日本シリーズに挑戦して日本一になれなかった。
#*1988年・1999年・2003年の3回。その時の対戦チームは88年のみ西武で、他はいずれもダイエーだった。
 
;堀内恒夫
#巨人のV9時代のエースだったが、監督としては1年目の2004年は3位、翌2005年は5位に終わっている。
#*そのため巨人の球団史上初の胴上げ未経験監督となってしまった。
#2005年の本拠地最終戦では堀内監督にブーイングが飛び、最終戦セレモニーが中止になった。
#巨人がレギュラーシーズンで目の前で相手チームの胴上げを許した試合が(2019年現在)5回あったが不運にもそれらを全て現地で立ち会っている。
#*1975年の広島(後楽園/当時巨人投手)、1995年のヤクルト(神宮/当時巨人投手コーチ)2005年の阪神(甲子園/当時巨人監督)、2006年の中日、2016年の広島(東京ドーム/日本テレビ解説者)
 
==ま~わ行==
;村山実
#かの有名な「天覧試合」で、長島茂雄に打たれたホームランを「あれはファールだった」と、ずーーーっと言い続けていたのはあまりにも有名。
#芦屋市のマンションを自ら購入して自分自身の会社の本社にしたが、その自宅マンションが1995年の阪神・淡路大震災で被災し、しばらく自家用車で寝泊りをする生活を強いられていたというエピソードもかなり有名。
 
;森祇晶
#横浜ベイスターズ監督時代は成績不振に喘ぎ、特に2002年は勝率3割台と落ち込み、シーズン終了まで14試合を残したところで解任された。
#*なお、森監督のBクラスは2002年のみである。
#**この頃から暗黒時代が再来したので、チームを弱くした元凶とも言われやすい。
 
;山崎康晃
#自分でタイブレークを作ってしまうことが多い。
#ネットで太ってしまったことが話題になってしまった。
 
;山本浩二
#2013年のWBCで3連覇を目指す侍ジャパンの監督を務めるも、ベスト4で終わった。
#同級生で実績が上のはずなのに「星野仙一の舎弟」感が強い。
 
;湯浅禎夫
#初代日本シリーズ優勝監督であるが、前述の平和台事件の元凶になってしまい、責任を取って辞任することになった。
#*プロアマ両方で功績を残したにもかかわらず野球殿堂入りを果たしていないのは、平和台事件の影響だと言われている。
 
;渡辺久信
#西武黄金時代のエースとして工藤公康と共に優勝に貢献。最多勝3度記録、ノーヒットノーランも達成、さらに女性人気も非常に高かったのだが……
#*93年以降成績が下降、2つ年上の工藤がその後7回も二ケタ勝利を上げたのに対しこちらはゼロだった。結果勝ち星で99勝(台湾除く)もの差がついてしまう事に。
#20代半ばごろからかなり頭が薄くなっていた。<small>その点でも工藤や秋山幸二と差が付いてしまった</small>
#最後の三年間は台湾に渡り指導者兼選手として活躍したが、そこで屋台飯にはまって太ってしまった。
#2008年に西武監督に就任。初年度に日本一になるがその後はいわゆる「俺達」が蔓延、その後西武は日本シリーズに一度も出場できていない。
 
==関連項目==
*[[ざんねんな野球選手事典/外国人]]
*[[幸運なスポーツ事典]]
[[Category:ざんねんなスポーツ事典|やきゆうせんしゆにほん]]
[[Category:プロ野球|さんねんなせんしゆにほん]]

2020年1月18日 (土) 20:58時点における版

※編集される方は「Chakuwiki:お願い/ざんねんなモノ事典」をご覧ください。

  • 「選手」とありますが監督としてざんねんだった方も含みます。

あ行

相川亮二
  1. 2006年のWBC優勝メンバーであるが、リーグ戦では優勝に縁がなかった。
    • 最初に所属した横浜は1998年に優勝しているが、彼の1軍デビューはその翌年だった。
    • 2009年にヤクルトに移籍するも、彼が巨人に移籍した翌年の2015年まで優勝から遠ざかっていた。
    • そしてもっと優勝できそうな巨人に移籍したのに優勝を経験できず引退。
井川慶
  1. 日本では沢村賞を受賞するなど大活躍を見せた。
  2. その後、ヤンキースでもプレーしたが、「ヤンキース史上最悪のFA補強」に選ばれてしまった。
  3. 阪神時代、何年も虎風荘から出たがらなかった。
    • 追い出されるように出て行った後もホテル暮らしだった。
  4. 阪神でバッテリーを組んでいた矢野輝弘から「言うことを聞いてくれない」と言われるほどワガママが強かった。
宇野勝
  1. 例の「ヘディング事件」以来、珍プレー番組の常連となる。
    • 中京ローカルのお米屋さんのCMに出たことがある。しかし、「ヘディング事件」をネタに、米袋をヘディングする内容だった。
石井浩郎
  1. 巨人移籍もファーストが飽和状態、ロッテに放出、横浜であと一歩で全球団本塁打を逃す、優勝経験なし、岡村孝子夫人と離婚。
  2. その後地元秋田で参議院議員選挙に自民党から立候補し当選したが、党員獲得数でワースト10になったことがある。
伊東勤
  1. 西武監督時代の2007年に怪我人が相次ぎ、交流戦で10連敗を喫し、26年ぶりのBクラス (5位) に終わったことにより監督を辞任。
  2. その後WBC日本代表総合コーチ→韓国・斗山ベアーズヘッドコーチを経て2013年に千葉ロッテの監督に就任。3位→4位→3位→3位と来て、最後の2017年は最下位で監督を辞任。
    • 伊東自身にとって選手、監督通して31年目にして初の最下位だった。
伊良部秀輝
  1. ロッテで最優秀防御率、最多奪三振のタイトルを獲得し、ヤンキース時代もMLBでアジア人で初のワールドシリーズ制覇を果たしただけでなく2回も果たすなど輝かしい実績を残したが…。
  2. メジャー移籍時パドレスを拒否しピンストライプのユニフォームを着たいとヤンキース移籍に固執したことで騒動となる。
    • ロッテのファン感謝デーで「ニューヨークに行ってくれ」と掲示されたが早く出てけという真意だったらしい。
    • さらに俺はミケランジェロ発言で大顰蹙を買う。
  3. ヤンキース1年目はアジア人初の初登板初先発初勝利を達成したのだが…。
    • その後調子を落としまくりブーイングするファンにツバを吐く愚行をしてしまう。
    • 3年目のキャンプで「太ったヒキガエル」と酷評される。
    • そのワールドシリーズでは登板が一切無かった。
  4. その後モントリオール・エクスポズに移籍したが「エクスポズもピンストライプで良かった」とマスコミに皮肉られる。
    • 度重なる怪我で活躍できなかっただけでなく泥酔で意識不明になったのが原因で解雇されてしまう。
  5. レンジャーズを経て阪神と契約し日本球界に復帰してリーグ優勝に貢献したが翌年は不振で戦力外通告となり一度目の引退を表明。
  6. 引退の原因になった膝の痛みが消えたこともあって現役復帰し日米の独立リーグでプレーしたが腱鞘炎で2度目の引退。
  7. 2011年首吊り自殺してしまうが、その後もさらに悲惨なことになってしまった。
上田利治
  1. 選手時代は広島に在籍したものの、怪我で活躍できず早々と引退。
  2. ヤクルトとの1978日本シリーズ第7戦で6回裏一死からヤクルトの大杉勝男が左翼線に放った本塁打をファウルだと抗議し、そのためにシリーズ史上最長の1時間19分の中断を余儀なくされた。
    • その後試合は再開したものの、マニエルと再度大杉に本塁打を打たれた結果、阪急はヤクルト初の日本一を献上する形になり、上田はこの日本シリーズでの混乱の責任を取るため退任した。
  3. 1988年10月23日、阪急ブレーブスとしての西宮球場最終戦終了後の挨拶で「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、最終的に福本の引退に繋がってしまった。
  4. 1996年にはオリックスと熾烈な優勝争いを繰り広げたものの、同年9月に家庭の事情により休養しチームを離脱、オリックスに逆転優勝を許す形になってしまった。
    • 仮に優勝していたらこの年の日本シリーズは同じく東京ドームを本拠地とする巨人との対決になっていただろう。
江川卓
  1. 度重なるドラフト拒否、空白の一日でアンチ巨人を増やし、阪神に入団からのトレードで厳密には生え抜きにはならない。
  2. 数字だけなら安定していたが若くして引退。
緒方孝市
  1. 詳しくはこちらを参照。
小川博
  1. 引退後の2004年に強盗殺人事件を起こし、無期懲役の判決を受けてしまった。
  2. この影響で、あの10.19の第1試合が半封印状態になってしまった。
    • 小川は第1試合の先発投手だった。
    • 現役時代に付けていた背番号の「26」も事実上の永久欠番に。その理由は「ベンチ入りの25人の選手に次ぐファンの番号」としているが、ファンもこんな曰く付き物件いらんだろう…。

か行

梶本隆夫
  1. 阪急ブレーブスの左腕エースとして、米田哲也と共に「ヨネカジ」として活躍するも、チームが長らく低迷していたこともあってか通算254勝255敗と通算200勝以上した投手の中で唯一の負け越し投手になってしまった。
    • さらにルーキーイヤーには20勝を挙げるも、南海ホークスの宅和本司が26勝を挙げたため新人王を逃した。現在でも20勝して新人王になれなかったのは梶本だけ。
  2. 1957年7月23日の南海戦で9連続奪三振を達成したが、9人目を三振に奪った時に捕手の山下健に「カジ、これ新記録やで」と言われ急に記録を意識しだし、10人目の打者の皆川睦男(投手)にセンターフライを打たれ記録が途絶えた。
    • 後に梶本は「皆川を三振に取っていたら20は行ったんじゃないかな」と語っている。
  3. 投手の主要タイトルを遂に獲得できなかった。
    • あるシーズンの終盤、梶本に最多勝のタイトルを獲らせるために勝ち試合でのリリーフを監督から促されたことがあったが、梶本は「他人の勝ち星を奪うようなことは勘弁してください」と登板を断った。
加藤哲郎
  1. 1989年日本シリーズ第3戦終了後の例の失言により、近鉄悲願の日本一を逃したA級戦犯として大きな非難を浴びてしまった。
    • 加藤は第3戦の試合後のヒーローインタビューで「別に、とりあえずフォアボールだけ出さなかったらね、まぁ、打たれそうな気ぃしなかったんで。ええ、たいしたことなかったですね。シーズンの方がよっぽどしんどかったですからね、相手も強いし」と発言したが、これがいつの間にか「巨人はロッテより弱い」という発言になってしまった。
      • 加藤は第7戦に再び先発したが、2回表に駒田徳広に先制ソロホームランを打たれ、駒田に「バーカ!」と近鉄ベンチに向かって叫ばれるなど、3回3分の1を投げて3失点で降板。近鉄は悲願の日本一を逃してしまった。
      • 該当のインタビューでは当時のパ・リーグらしいまあまあ舐めた態度で受け答えをしていたので、むしろ被害者一辺倒の扱いになったのは幸せじゃないだろうか。
  2. その後は右肩の故障で成績が低迷。1993年に近鉄を自由契約となり、1994年は広島、1995年はダイエーでプレーしたが、結局1995年限りで現役を引退。
  3. 引退後は朝日放送で解説者をしていたり、俳優をしたり、焼肉店をしていたが倒産。
    • (2019年)現在は大阪の天満橋で麻雀教室を開いている。
金村義明
  1. 日本一に縁が無かった。
    • 1989年(近鉄)、1997年・1998年(西武)と日本シリーズには3回出場したが…。
      • 1989年はチームメイトの加藤哲郎の失言騒動もあり3連勝からの4連敗で日本一を逃す。
        • 1998年は西武の最後のバッターとなってしまった。
  2. 引退試合(1999年9月30日・千葉ロッテ戦)もJCOの臨界事故・中日のリーグ優勝・山本和範の引退試合と被ってしまった。
    • 金村は引退後にラジオ番組で「これまでの選手生活を思い出すと涙が溢れ、ボールが見えづらかった。にもかかわらず、先発の薮田(安彦)は容赦なくフォークを投げてきた。空気を読んで欲しかった。」と語っている。
金本知憲
  1. 連続試合出場の世界記録を更新するなど阪神の主力として活躍したものの、年齢には勝てずだんだんプレーにミスが出るようになった。
    • そのため2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)では彼を揶揄する大量のあだ名がつけられてしまった。
  2. 試合中にベンチでタバコを吸っている姿がテレビに映ってしまったことがある。
    • そのためファンからはアニキならぬ「ヤニキ」というあだ名がついてしまうことに。
  3. 引退後は阪神の監督になったものの謎采配や若手や投手陣の失速で2018年にはリーグ最下位に終わり、わずか2年でやめた。
亀山努
  1. 現役時代はヘッドスライディングの名手として新庄とともにフィーバーを巻き起こしたのだが・・・。
    • そのヘッドスライディングが原因で怪我をしてしまう。
    • その後ヘッドスライディング由来のけがは回復したのだが、今度は守備の際に別の選手とぶつかって頸椎を骨折し、結果1997年には戦力外通告を受けた。
    • 戦力外通告後、当時の近鉄の監督だった佐々木恭介が獲得を考えたが、フロントから反対され引退を余儀なくされた。
  2. 引退後に激太りしてしまったのも残念。
    • 一時期体重は135kgまで達していた。今はその頃よりは痩せてはいるもののそれでも100㎏を超えている。
    • 努が選手だった時は弟の忍の方が太っていたが、忍はその後痩せたのに対し努は太ってしまったため今では逆転している。
菊池雄星
  1. もの凄く、ソフトバンクに弱かった。初めて、ソフトバンクに勝ったのは2018年9月28日だった。
    • 2018年は残念なことだらけ。5月は左肩の張りで一軍登録を抹消され、勝率は規定投球回以上では1位になったが、規定により最高勝率はロッテのボルシンガーに譲って、タイトルを逃し、完投が1回だけで完封は0だった。
小久保裕紀
  1. 1997年脱税騒動を起こしてしまう。
  2. 巨人への無償トレードが大騒動になった。
  3. 引退後2013年に日本代表監督を務めるがプレミア12、WBCで優勝を逃した。
    • 特にプレミア12では激しく叩かれた。
  4. しかも監督退任後次のプレミア12で日本代表は優勝したため黒歴史扱いに。
  5. 引退試合でノーヒットノーランを達成させてしまった。
    • しかしその時の相手の投手を日本代表に選出していて、良く言えば本人はそのノーノーを評価しているのが分かる。

さ行

佐々木信也
  1. 湘南高校から慶應義塾大学を経て、1956年に高橋ユニオンズに入団。
    • 1年目から154試合(当時)フルイニング出場・ベストナインにも選出されたが、新人王は21勝・防御率1.06を記録した稲尾和久(西鉄)が獲得。
  2. その後高橋の大映との合併(正確には解散)、大映・毎日の対等合併後の大毎でもプレーしたが、1959年限りで現役を引退。
    • 巨人からのオファーもあったが、佐々木本人が断った。
  3. 引退の(表向きの)理由は、その年のオフに監督に就任した西本幸雄が「身長の低い選手はいらない」という考えを打ち出し、身長169cmの佐々木も戦力外通告の対象になってしまった、というものだが…。
    • 後に佐々木が「プロ野球ニュース」で西本に「なぜ僕はクビになったんですか?」と問いただしたところ、実は西本が監督就任した時期に佐々木は結婚しており、その相手が資産家の令嬢と聞いていた西本が「チーム事情で内野手を整理する必要があり、仮にクビになっても生活に困らない者」として佐々木をリストアップしていたというのが真相だった。
G.G.佐藤
  1. 北京オリンピック野球日本代表に選ばれたが、本番では痛恨のエラーを連発したため、メダルを逃したA級戦犯として大きな非難を浴びてしまった。
新庄剛志
  1. 2012年度の野球殿堂入りの候補者に上がったが、わずか5票しか得られずそれ以降は候補者リストから外された。
  2. 1999年6月に巨人の槙原寛己から敬遠球をサヨナラ打。その時お立ち台で決め台詞として「明日も勝つ!」と言い放ったが、その発言から一週間後に阪神は首位陥落。
    • さらに、1999年9月に新庄が8回裏に巨人のバルビーノから決勝ソロ本塁打、お立ち台で再び「明日も勝つ!」発言。ところが翌日から阪神は球団ワーストタイ記録の12連敗を喫し、最終的には2年連続最下位という散々な結果に…。
  3. 引退後には彼の金銭管理不足を露呈するように、現役時代の財産を預けていた関係者に奪われてしまった。
    • これがバリ島に渡った理由の一つと言われている。
菅野智之
  1. 入団からわずか6年間で最優秀防御率4度、最多勝2度、最多奪三振2度を経験した紛れもない巨人の、いや日本球界を代表するエースである。
  2. しかし2011年のドラフト会議で日本ハムに指名されて引き当てられた際にこれを拒否。そのせいで翌年巨人に入団した時には既にイメージは悪かった。
  3. とにかく無援護で有名で、2015年は防御率1.91なのに10勝11敗と負け越し。しかもこの防御率で最優秀防御率になれなかった(広島のジョンソンが1.85)。
    • 2016年も2.01で最優秀防御率なのに9勝6敗。ちなみに同じ9勝6敗だった内海哲也の防御率は3.94。
      • そのせいで実況パワフルプロ野球で「負け運」と言う特性が付いてしまった。
        • しかしアップデートでそのマイナス特性は消滅。パワプロ2018でも負け運は無くなっており本人は喜んでいた・・・が当時のチームメイトだったメルセデスに負け運がついた。
          • その後のアップデートで「勝ち運」というプラス特性がついたが、その代償として別のマイナス特性がついたり全体的に能力を下げられることになってしまった。
  4. 「フェアリーファンタジア」と言うソーシャルゲームに登録・課金していたと思われ、そこに「スガーヌォーグ」なるキャラクターが登場。菅野がモデル説がある。
    • しかもそれが明らかになってから成績が低下しており某板ではバレて動揺したとかこのゲームで中指を酷使して傷めたとか言われていた。
    • そして当の「スガーヌォーグ」も公式ではシュガー(Sugar)とノーグ(Noog)の合成語とされているが、某板では菅野+G→SUGANOG→スガーヌォーグではないかという説が長らく支持されていた。
      • なお公式も把握していたのかスポーツコスチュームを纏ったバージョンのスガーヌォーグも実装されていた。もちろんその衣装は言うまでもなく・・・。

た行

大豊泰昭
  1. とにかく優勝に縁がなかった。
    • 1994年のリーグ優勝がかかった最終試合(10.8決戦)で巨人に破れ、リーグ優勝を逃す。
    • 1998年に阪神に移籍するも、在籍した3年間は全て最下位。その阪神も彼が引退した翌年の2003年までリーグ優勝&Aクラスから遠ざかっていた。
    • そして中日に逆戻りしたのに優勝を経験できず引退。なお、中日は彼が引退した翌々年の2004年にリーグ優勝を果たしている。
  2. 中日時代は一本足打法だったが、阪神時代の野村克也監督が一本足打法の本家の王貞治を嫌いな為すり足打法に矯正された。
    • 年齢的なピークが過ぎる以前に、そのフォーム変更と阪神の本拠地甲子園球場の広さに適応できなかったのが重なって阪神時代は不本意なシーズン続きだった。
    • 2000年オフに阪神側から年俸の大幅ダウンを提示され、自ら自由契約を申し入れて阪神を退団。
    • 大豊は後年、「(野村監督とは)対話も少なかったし、誤解も生じた。でも、それは人生であり得ること。今は阪神と中日、両方を体験できてよかった」と振り返っている。
高木守道
  1. 日本一に縁が無かった。
    • 1974年(中日現役時代)、1982年(中日コーチ時代)とリーグ優勝を2回も経験したが…。
      • 1974年はロッテ、1982年は西武にそれぞれ2勝4敗で敗れ、日本一を逃す。
  2. 中日監督時代の1994年・2012年は最後の最後で日本シリーズ進出を逃してしまった(1994年は勝った方が優勝の10.8決戦で敗戦、2012年はCS3連勝から王手をかけるもそこから4連敗)。
    • しかも両年とも対戦相手は1974年にその中日にV10を阻止された巨人である。
  3. 2013年は中日が12年ぶりのBクラスの4位に終わり、セ・リーグ5球団に負け越す結果となってしまう。そして高木はその責任を取るために退任。
    • そして、この頃から現在まで続く中日の暗黒時代が再来したので、チームを弱くした元凶とも言われやすい。
高橋由伸
  1. チームの都合で強制引退させられて監督に押し込まれた時点でざんねん。
  2. そして指導者経験一切無しで監督をやらされたため、戦術にもざんねんなところが多かった。
  3. 最後はその成績がざんねん過ぎて監督を退任。結局この前と後に監督をやって優勝を経験した原監督の噛ませという評価を喰らう事に。
  4. あくまでもざんねんだったのは監督時代のみ、選手の時はとても良い選手だった。
  5. すぐ怪我をして離脱する。後年にはその怪我で規定打席にすら立てなくなる始末。
    • 特にボールが良く飛んでいた2000年代前半に離脱が多かったため、そこで通算成績をかなり損したと思われる。
    • フェンス際の捕球が特に苦手だった。
多田野数人
  1. 説明不要。
    • ×××××なビデオに出演しなければどれ程活躍していたことか...。
田淵幸一
  1. 阪神時代は「天才ホームランアーチスト」として名をはせるも・・・。
  2. 西武時代は、あの名作「がんばれタブチくん!」の主人公として名をはせることに。
    • その影響で、絶対に不可能なことを意味する「タブラン(タブチのランニングホームラン)」という言葉が生まれる始末。
  3. 山本浩二同様、同級生で実績が上のはずなのに「星野仙一の舎弟」感が強い。
多村仁志
  1. スペランカーとまで称される怪我の多さとあり得ない怪我の理由に最後まで悩まされ続けていた。
  2. スペ体質すら無ければ…と言われる選手筆頭である。
辻内崇伸
  1. 大阪桐蔭時代に甲子園を大いに沸かせ、ドラフトの目玉として注目を集める中で巨人に1位指名され入団するが、度重なる怪我のため一軍登板はないまま引退。
    • 大阪桐蔭を卒業する頃には既に肩がボロボロだったという。
辻発彦
  1. 西武の監督として2018年・2019年にリーグ優勝を果たすも、CSファイナルではいずれもソフトバンクに敗れている。
中村剛也
  1. 日本を代表するスラッガーのひとりだが、怪我が多いため侍ジャパンには2015年プレミア12の1回しか選ばれていない。

な行

長嶋茂雄
  1. 初めて監督に就任した年(1975)は後述に書かれているようにセリーグ最下位、その後の1976年と1977年はリーグ優勝を果たすも、日本シリーズではいずれも阪急に敗れている。
    • 1996年も当時リーグ史上最大の11.5ゲーム差をはね返してリーグ優勝(いわゆる「メークドラマ」)を果たすも、今度は阪急から改名したオリックスに敗れている。
      • なお、長嶋監督時代に日本一になったのは第2次監督時代の1994年・2000年の2回である。
  2. 2004年アテネ五輪を目指す日本代表監督にも就任したが、脳梗塞を患い五輪本番では指揮を執れず。
  3. また、日常生活での残念エピソードの宝庫でもある。
    • 球場に、息子の一茂を置き忘れたことは伝説。
長嶋一茂
  1. ミスタープロ野球・長嶋茂雄の長男として、鳴り物入りでヤクルトスワローズにドラフト一位で入団。プロ初安打をホームランで飾り、『ミスター二世』として注目を集めた。
    • しかし、プロ3年目に就任した野村克也監督の「ID野球」に全くなじむことができず、シーズン中に目立った活躍はなく、池山などにいじられる光景などがオフの番組を飾るくらい。
  2. 1993年、父・茂雄が監督に就任した読売ジャイアンツへ金銭トレードで移籍。しかし、そこでも目立った活躍はなく、3年後に父の介錯を受ける形で巨人をクビとなり、そのまま引退した。
    • その巨人時代、当時の総合守備コーチ・土井正三から2時間のバント練習をさせられたことに対して「いらねぇよ!あんな奴!!」と暴言を吐き、罰金50万円と二軍降格に加え、しばらくの出場停止処分を受けたことがある。
二岡智宏
  1. 2008年に巨人軍の選手会長に指名されたが、その年の開幕戦の試合中にふくらはぎの肉離れを起こして二軍調整、7月11日に一軍復帰の予定だったが直前に某女性アナとの五反田の9800円のホテルでの不倫が発覚し延期となってしまう。
    • 7月20日に復帰するも正遊撃手の座を坂本勇人に取られ三塁手に。さらに打席に立つたびに不倫相手をもじった名前や「五反田」「9800円」とヤジられる始末であった。
  2. 追い打ちをかけるように9月に足首の捻挫で二軍落ち。そのままシーズンを終え、その年の11月に日本ハムへトレードされてしまう。
    • 選手会長になってわずか1年の解任と選手会長がトレードされるというのは異例のケースであり。不倫騒動が原因でトレードされたのではと言われていた。
西本幸雄
  1. 監督として日本シリーズに8度出場しながらも優勝できなかった 「悲運の名将」 。
    • このうち5回は巨人のV9時代 (1967~1969・1971・1972) に重なっている。
      • 但し西本本人は「もし私が本当に悲運なら戦争で死んでいるし、復員してから野球に再会できたり、大毎・阪急・近鉄の3チームで素晴らしい選手に巡り合えて、8度も日本シリーズに出場などできない。『悲運の名将』なんておこがましい。敢えて言うなら『幸運な凡将』ですね」と1980年のインタビューで語っている。
根本陸夫
  1. 広島・西武・ダイエーのフロントを歴任し、黄金期の土台を築いたが、監督としてはAクラスが広島時代に1回 (1968年) のみで、それ以外はすべてBクラスである。
  2. そしてダイエー(として)の初優勝を見ることなく1999年4月にこの世を去った。
  3. 球団の項目のダイエーホークスにも書いたが、フロントとしての手腕がエグい。強くなったチームにとっては残念も何もないだろうが、西武が裏金でドラフト指名権を剥奪された土壌を作った原因かもしれない。
野川拓斗
  1. 横浜DeNAベイスターズに在籍していたがわずか2年で戦力外通告を受けた投手。
    • 最終年は背番号を変えられてしまったが挽回できなかった。
  2. なんと言っても「おたくと」と呼ばれるほどのアニメ、ゲーム好きであることが有名だった。
    • DeNA繋がりということでハッカドールの刺繍を入れたグラブを使用していた。
      • 因果関係は不明だが戦力外通告の翌年にハッカドールはサービスを終了した。
    • 最初の登場曲は自身がこよなく愛するらしいあるアニメの主題歌だった。
      • そのアニメはベイスターズの先代親会社である某局で放送されたのだが作画崩壊で有名でセールスでも結果が出なかった。
      • 2018年のみ使用した登場曲もヒットとは言い難いアニメの主題歌だった…。
野村克也
  1. 大阪スタヂアムの跡地に建てられたなんばパークスの「南海ホークスメモリアルギャラリー」では様々な理由で野村本人に関する展示が全く行われていない。
  2. 妻・サッチーのおかげで、監督をクビになったことがある。それも二回。
    • 1回目は1977年(南海)。当時まだ愛人関係だったサッチーの「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で、野村を大事にしていた南海の川勝傳オーナーの耳に入り解任。
      • 野村の解任に反対していた柏原純一と江夏豊はそれぞれ日本ハム、広島に移籍。打撃コーチの高畠康真(78年からは導宏)も南海を退団し、野村と共にロッテに移籍した。
        • この年を最後に南海はAクラスに入ることなく1989年にダイエーに身売りされた。
          • また、ホークスの連続Bクラスも1997年まで20年続いた。
    • 2回目は2001年(阪神)。一度は留任も発表され秋季キャンプも指揮を執ったが、サッチーが脱税容疑で逮捕された日に辞任。
      • 野村本人はサッチーが逮捕されるまで、脱税行為をしているとは知らなかったという。

は行

平松政次
  1. 「カミソリシュート」と言われた速く切れ味鋭いシュートを武器に大洋ホエールズのエースとして通算201勝を挙げ、巨人キラーとしても有名だが、チームが弱かったせいもあって一度もリーグ優勝を経験できないまま引退した。
福本豊
  1. 1988年の本拠地最終戦で、当時の阪急監督である上田監督がうっかり失言してしまったせいで引退させられてしまった。
    • 上田監督「去る山田、そして福本」
  2. 国民栄誉賞を辞退したのは、有名。
    • 表向きは「立ちションベンもできんようになるがな」という理由だったが、実際は「王さんのように野球人の手本になれる自信がなかったから」と週刊ポストの記事でコメントしている。
  3. 引退後は、ABCやサンテレビの解説が主な活動。
    • しかし、必ず脱線することから「居酒屋中継」と呼ばれるように。
      • スコアボードに0が並ぶのを「たこ焼きみたいや」とか、延長戦突入で「加古川の人、帰られへんで」などに代表される、いわゆる「福本語録」が関西芸人のネタにされる始末。
  4. 「世界の盗塁王」として有名だが・・・
    • 西宮球場で、本物の競走馬と100メートル走対決をしたことがある。
      • 因みにこのイベント、当初福本は断るつもりでいたが球団社長から「公表した以上取り止めるわけにはいかない。西宮球場に来てくれるファンのためにも…」と頼まれたため、「一晩悩んだ末に仕方なく」受諾した。
藤川球児
  1. 阪神のクローザーとして圧倒的な実績を持つ・・・が、その実績のせいでシーズン終盤になるにつれ酷使されるようになっていった。
    • その結果終盤の肝心な試合で炎上してしまいそれがもとで試合を落とすことが多々あった。
  2. 2007年9月には10連投の疲労が抜けないなか3試合連続で登板しすべて炎上してしまった。
    • その炎上による敗戦で8連敗を招いてしまった。
  3. 2010年9月30日の対横浜戦では優勝に向けて落とせない試合でありなおかつ矢野燿大の引退試合という大事な試合で2点リードの9回表にクローザーを任せられるも・・・。
    • 制球に苦しみノーアウト1・2塁に、次のバッターである村田修一にスリーランホームランを被弾。逆転を許してしまう。
      • この試合を中継していたサンテレビのアナウンサーの「行くな!行くな!越えるな!」の絶叫からの沈黙、そして十数秒の沈黙のうちに絞り出された「悪夢のような現実がそこには待っていました」は今も阪神ファンの記憶に刻まれている。
  4. その結果出る予定だった矢野は引退試合に出られなくなり試合終了。引退セレモニーのみに出たがその時に花束を渡したのは村田だった。
  5. この試合以降、某所ではクローザーで炎上した投手のことを「○川○児」と揶揄するようになった。
  6. メジャーにも挑戦したが、何度も故障者リスト入りしたためまともな活躍ができなかった。
星野仙一
  1. 2008年の北京オリンピックの野球競技・日本代表で監督を務めるも、メダルなしの4位に終わった。
  2. 2013年の楽天で達成するまで、3度(中日で2度阪神で1度)日本シリーズに挑戦して日本一になれなかった。
    • 1988年・1999年・2003年の3回。その時の対戦チームは88年のみ西武で、他はいずれもダイエーだった。
堀内恒夫
  1. 巨人のV9時代のエースだったが、監督としては1年目の2004年は3位、翌2005年は5位に終わっている。
    • そのため巨人の球団史上初の胴上げ未経験監督となってしまった。
  2. 2005年の本拠地最終戦では堀内監督にブーイングが飛び、最終戦セレモニーが中止になった。
  3. 巨人がレギュラーシーズンで目の前で相手チームの胴上げを許した試合が(2019年現在)5回あったが不運にもそれらを全て現地で立ち会っている。
    • 1975年の広島(後楽園/当時巨人投手)、1995年のヤクルト(神宮/当時巨人投手コーチ)2005年の阪神(甲子園/当時巨人監督)、2006年の中日、2016年の広島(東京ドーム/日本テレビ解説者)

ま~わ行

村山実
  1. かの有名な「天覧試合」で、長島茂雄に打たれたホームランを「あれはファールだった」と、ずーーーっと言い続けていたのはあまりにも有名。
  2. 芦屋市のマンションを自ら購入して自分自身の会社の本社にしたが、その自宅マンションが1995年の阪神・淡路大震災で被災し、しばらく自家用車で寝泊りをする生活を強いられていたというエピソードもかなり有名。
森祇晶
  1. 横浜ベイスターズ監督時代は成績不振に喘ぎ、特に2002年は勝率3割台と落ち込み、シーズン終了まで14試合を残したところで解任された。
    • なお、森監督のBクラスは2002年のみである。
      • この頃から暗黒時代が再来したので、チームを弱くした元凶とも言われやすい。
山崎康晃
  1. 自分でタイブレークを作ってしまうことが多い。
  2. ネットで太ってしまったことが話題になってしまった。
山本浩二
  1. 2013年のWBCで3連覇を目指す侍ジャパンの監督を務めるも、ベスト4で終わった。
  2. 同級生で実績が上のはずなのに「星野仙一の舎弟」感が強い。
湯浅禎夫
  1. 初代日本シリーズ優勝監督であるが、前述の平和台事件の元凶になってしまい、責任を取って辞任することになった。
    • プロアマ両方で功績を残したにもかかわらず野球殿堂入りを果たしていないのは、平和台事件の影響だと言われている。
渡辺久信
  1. 西武黄金時代のエースとして工藤公康と共に優勝に貢献。最多勝3度記録、ノーヒットノーランも達成、さらに女性人気も非常に高かったのだが……
    • 93年以降成績が下降、2つ年上の工藤がその後7回も二ケタ勝利を上げたのに対しこちらはゼロだった。結果勝ち星で99勝(台湾除く)もの差がついてしまう事に。
  2. 20代半ばごろからかなり頭が薄くなっていた。その点でも工藤や秋山幸二と差が付いてしまった
  3. 最後の三年間は台湾に渡り指導者兼選手として活躍したが、そこで屋台飯にはまって太ってしまった。
  4. 2008年に西武監督に就任。初年度に日本一になるがその後はいわゆる「俺達」が蔓延、その後西武は日本シリーズに一度も出場できていない。

関連項目