バカ人物志/中国
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- 一応、清朝滅亡までとしましょうか。辛亥革命以後の近代史をからめるとややこしいので。
独立項目
- 皇帝伝
思想家伝
孔子
- 儒学の祖。礼楽の元締めとして多数の弟子を育てる。
- とはいえ、出自は貧乏な武士の子で、国家儀礼にタッチする機会は無さそうだったし、ちゃんとした先生から礼楽を教わった形跡もない。孔子の教えた礼楽は、民間習俗を独学と想像で練り上げた、思いっきりオリジナルなものだった可能性が高い。
- 弟子たちとの会話などをまとめたのが『論語』。
- 礼楽の書としてはともかく、世間智の書としてはなかなかよくできており、今でもファンが多い。
- マックス・ヴェーバーには「インディアンの酋長のおしゃべり」と酷評されたが……
- ちゃんとした諸侯に仕えて、自分の理想を実現してみたいと熱望していたが、結局誘いをかけてきたのは陽虎のようなヤバいヤツばっかり。
- 晩年、もう少しで斉の景公に仕えることができそうだったのだが、晏嬰に阻止される。
- リアリストの晏嬰は、孔子の言う空想的な礼楽を採り入れたらとんでもないことになると見抜いていたらしい。
- 晩年、もう少しで斉の景公に仕えることができそうだったのだが、晏嬰に阻止される。
- 魯の国の歴史書「魯国春秋」は孔子が編纂したと言われ、「春秋経」として大変な権威を持ったが、眉唾。
- 魯の高官でも史官でもなんでもなかった孔子が、国家事業である歴史書編纂に携われたとは考えられない。
荘子
- 老荘思想の第一人者。老子は実在がはっきりしていないので、荘子が祖と言っても良いかもしれない。
- 実存、実用などに関する荘子の考え方は、現代でも充分通用するものがあり、2500年近く前の人とはとても思えない。
- しかも、文章は非常に読みやすく、ユーモアにあふれている。作家・エッセイストとしても超一流。
- ちょくちょく文章の中に孔子やその弟子たちを登場させてはおちょくりまくっているのが笑える。
- 恵子という論敵が居たが、荘子の文章を読む限り、論敵と言っても飲み仲間みたいな感じ。しょっちゅう悪口を言い合う仲良しさんだったのだろう。
墨子
- 絶対平和主義の専守防衛主義者。
- しかし、決して非戦論者ではない。防衛のための兵器の開発に力を注ぎ、攻められている国へ出かけて行っては侵略者を撃退しまくっていた。
- MD兵器にさえ猛反対するどこかの党首にもぜひ見習って欲しい。
- 墨子が防衛にあたった城は必ず守り抜けたので、人々は彼の鉄壁の守備を「墨守」と呼んで讃えた。
- 「墨守」という言葉が、だんだん「融通の利かない」「旧態依然」というような悪い意味になって行ったのは残念。
孟子
- 儒家では孔子に次ぐ巨人。「亜聖」と呼ばれる。
- 母親が有名な教育ママ。
- 息子がろくでもない遊びばかりしているので、3度も引っ越しをした。
- 斉の臨淄で諸子百家の一員となるが、ひときわ態度がでかかった。
- 他の学者たちなど眼中になく、王様が自分だけを特別扱いしてくれないってんでヘソを曲げ、臨淄を出てしまう。
- 国境を越えるまで、王様が慰留の使者をよこすのではないかと後方を気にしており、弟子にからかわれる。もちろん、使者など来なかった。
韓非子
- 韓の国の王族だったらしい。法家の第一人者。
- 秦王・政(のちの始皇帝)が彼の著作の一部を読み、「この著者に会えたら死んでもいい!」と叫んだとか。
- 韓に兵を出し、講和の使節に韓非子を指名するというまわりくどい手段を用いて招聘。
- 政は喜び勇んで韓非子の講義を受ける。韓非子の教えは、のちの秦帝国の思想的バックボーンとなる。
- ただし、韓非子の厳密な法家思想では、王もまた法の下にあるものとしていたようだ。政はこの部分だけは断固拒否し、そのために体系に歪みが生じて、秦帝国を短命なものにしてしまったように思われる。
- 政は韓非子が他の国に利用されるのを怖れ、この恩師を殺してしまった。
- 政の側近で、韓非子と同門だった李斯が、自分の地位を脅かされるのを怖れて讒言し殺させた、というのが定説になっているが、疑わしい。やはり政が自分の意思で殺したと見るべきだろう。
- 極度のどもり症だったらしい。
- それだから余計、著作に熱がこもっていたのかもしれない。
叔孫通
- 漢の高祖に仕えた儒者。
- 儒者嫌いの高祖をうまく言いくるめて、儒礼による儀式を確立。その後の中華帝国の儀式の原型を作った。
- 高祖自身も行儀の悪い男だったが、家来たちのガラの悪さに辟易していたところ、叔孫通が「儀式を作りましょう」と申し出た。
- 「まあやってみるといいや。でも俺にできる程度のにしてくれよ」と高祖に言われ、叔孫通は本来の儒礼をかなり簡略化した儀式をプログラミングした。
- いよいよ儀式の日が来ると、あの乱暴者たちが一糸乱れぬ厳粛さで整列し、神妙な顔つきでうなだれているのを見て、高祖は驚愕。「俺は今日はじめて皇帝がどんだけ偉いかわかったよ」と述懐。儒者の使い道を納得したらしい。
- 一般には、権力者に迎合した日和見主義者と思われているが、彼が居なければ儒教は始皇帝の焚書坑儒で衰えたまま消えて行ったに違いない。少なくとも後世の儒者は叔孫通に感謝すべき。
朱熹
- 南宋時代の儒者。朱子学の祖。
- いま儒教と考えられている思想体系は大体この人が構築した。
- 国土の北半分を女真族の金に押さえられている時代の思想家だけに、異民族に対する敵愾心が強く表れた思想。ぶっちゃけていえば漢族至上主義。
- それまでは比較的グローバルな思想であった儒学を、ナショナリスティックな狭隘なものにした影響は大きい。しかし、それだけに思想体系としては精緻になっている。
- 万物の根源は「理」と「気」であるとする。このように、儒教を一種の宇宙理論化したあたりが斬新ではある。
- 当初は偽学として弾圧されたが、漢族至上主義を採る朱子学はもともと漢族にとって心地よいものではあり、ほどなく解禁され、しかも国学となった。
- 朱子学びいきの南宋第5代皇帝には「理宗」という宗廟名が贈られている。いうまでもなく万物の根源の片一方。
王陽明
- 明時代の儒者。陽明学の祖。
- 青白きインテリではなく、武将として叛乱軍討伐で功績を挙げたりもした行動派。
- そのため、陽明学では言行一致(知行合一)を重んじる。
- すでに国学として権威を持っていた朱子学をやんわり批判したりもしている。当時としては甚だ危険なこと。
- 中国より、江戸時代後期の日本で人気があった。
- 大塩平八郎など、陽明学を学んで過激な行動に出た人も多い。幕末志士の多くも陽明学の信奉者だった。
康有為
- 清末の儒者。
- 西太后の権勢に反対しつつ、立憲君主制を唱えたので、開明的な人物と思われがちだが、実は思想的にはガチガチの保守反動。
- 極端な孔子絶対主義を唱えた。
- それまでは、孔子以前に「先王の教え」があり、特に周公旦が重視されていたが、康有為は「『先王の教え』も『周公旦の教え』も、全部孔子が作ったものだ」と主張。それらは孔子が古代に仮託して述べたのである、とのこと。
- これによって「孔子神学」が完成されたと見る人も居る。が、間もなく「打倒孔家店」の運動が活発になって儒学そのものがはやらなくなった。掉尾の勇とはこのこと。
- 極端な孔子絶対主義を唱えた。
女子伝
妺喜
- 夏の桀王に愛された女性。
- 桀王に咎めを受けた「有施氏」の君主から献上されたとか。
- 最初の字は「いもうと」ではない。要注意。
- 絹の布を引き裂く音が好きという、変な趣味があった。
妲己
- 殷の紂王に愛された女性。
- 紂王の咎めを受けた「有蘇氏」の君主から献上されたとか。
- 狐が化けた美女だったという噂もある。
褒姒
- 西周の幽王に愛された女性。
- 黒竜の唾液から生まれたという噂もある。
- 「笑わずの姫」として有名。
- 何をどうされても笑顔を見せたことはなかったが、間違えて上げられた狼煙を見て集まった諸国の軍勢がうろたえているところを見た時だけ、なぜか笑い出したとか。
- レアな笑顔にいかれてしまった幽王は、褒姒を笑わせようと意味もなく狼煙を上げ続け、そのうち誰も集まらなくなってしまった。王宮が犬戎に攻められて本当にヤバいことになってからも誰も集まらず、西周は滅亡した。
- 何をどうされても笑顔を見せたことはなかったが、間違えて上げられた狼煙を見て集まった諸国の軍勢がうろたえているところを見た時だけ、なぜか笑い出したとか。
夏姫
- 春秋時代の鄭の国に生まれた美女。
- 何度も結婚したが、相手がみんな早死にしてしまう魔性の女でもあった。
- 成人した息子が居る齢になっても美貌は一向に衰えず、各国の王侯貴族を惑わしまくった。
- 最後の夫は楚の重臣だった巫臣。二人で晋の国に亡命し、その後は穏やかに余生を送った。
西施
- 越王勾践から呉王夫差に献上された美女。
- 夫差に敗戦し、屈辱の日々を送っていた勾践が、夫差を骨抜きにするべく送り込んだハニートラップである。
- もっとも、どの程度効果があったかは微妙。夫差が亡んだのは、中原の覇権争いに首をつっこんで足元がおろそかになったせいと考えられるし。
- しかめっ面が魅力的だったという不思議な美女。
- ちなみに「ひそみに倣う」という慣用句は、西施が胸を押さえて眉をひそめているのを見た不細工な女が、真似をしたという故事から生まれた。
呂后
→呂后
王昭君
- 漢の元帝の頃、匈奴との和平に際して贈られた女性。
- 野蛮人の国に売られた女性として、古来同情する人が多いが、大きなお世話かも。
- 漢の後宮に居るだけでは、一生皇帝に寵愛されることもなくむなしく老いてゆく可能性が高いが、匈奴に行けば皇后みたいな立場。女としてどっちが幸せかということです。
- 元帝は匈奴に贈る女性を選ぶために、後宮の女官の似顔絵を描かせたが、王昭君は絵師にワイロを渡さなかったので醜く描かれ、それで贈られるはめになってしまった。いよいよ出立の日、元帝がはじめてナマの彼女を見たところ、すごい美人だったので後悔し、絵師を処刑した……というような伝説があるが、きわめて疑わしい。
- 長年の強敵だった匈奴が和平を求めてきたのだから、腫れ物に触るような扱いだったはずで、わざわざ醜い女を選ぶはずがないし、似顔絵だけで決めるなんてこともあり得ない。いわば女性全権大使だから、才色兼備の美女が慎重に選ばれたと考えるのが妥当。
- 実際、匈奴に行ってからは、漢と匈奴の仲立ちとしてかなり活躍している。
王政君
- 漢の元帝の皇后。前漢末期のキーパーソン。
- 元帝にはあんまり愛されなかったらしい。
- 元帝が愛した女は、皇太子時代に病死。落ち込んでいるのを見かねて、母后が何人かの女と見合いさせた。元帝は全然その気になれなかったが、母の顔を立てるだけのためにひとり選んだ。これが王政君だった。
- もっとも、一応元帝の子供は産んでいる。そのため、元帝没後は皇太后、さらに太皇太后として朝廷に君臨することになる。
- 前漢を亡ぼして新を建てる王莽は彼女の甥。
- 王政君は血縁の者を次々に高官に取り立てたが、漢王朝を乗っ取ろうとは少しも思っておらず、王莽から伝国の玉璽を要求された時には激怒したらしい。
- 「そんなに欲しいなら自分で作ればいい! 莽の十八番じゃないの!」と言ったそうな。王莽に関する数々の奇瑞が、すべて王莽自身のでっち上げてだったことを、まるっとお見通しだったらしい。
- 王政君は血縁の者を次々に高官に取り立てたが、漢王朝を乗っ取ろうとは少しも思っておらず、王莽から伝国の玉璽を要求された時には激怒したらしい。
班昭
- 後漢前期の女流歴史家。
- 司馬遷の「史記」に続く正史「漢書」は、班昭と彼女の長兄・班固の共同執筆。こんなに堂々たる史観と知識と文才を併せ持った女性は、中国史上でも珍しい。
- しかも彼女の次兄は、西域の鬼傑として有名な班超将軍。すごい兄妹である。
貂蝉
- 三国志演義に出てくる美女。架空の人物らしい。
- 呂布が董卓のところの婢女とねんごろになったのは本当のようなので、それがモデルだろう。
- 演義では王允の養女で、董卓と呂布の間を裂くために送り込まれたハニートラップだということになっている。両者を手玉に取り、呂布に董卓を殺させる。
- その後の消息は明らかでない……いや、架空の人物なんだから消息も何も無いんだが。
- 呂布夫人として最後まで付き従ったが、関羽に見そめられたなんて話もある。
- 関羽が呂布の未亡人を欲しがったという話は一応噂としてあったらしい。上記の婢女とは別人だろうが。
- 呂布夫人として最後まで付き従ったが、関羽に見そめられたなんて話もある。
馮后
- 北魏の文成帝の皇后。夫が若死にした後、皇太后として献文帝・孝文帝を後見する。
- 後見というより、実質は彼女が皇帝みたいなものだったらしい。献文帝は彼女のお眼鏡にかなわず、6年で息子の孝文帝に譲位させられた。
- 専横をふるっていた丞相の乙渾を誅殺するなど果断なところもあるが、西太后のようなむちゃくちゃなオバハンではなく、政治を充分に心得た女性だった。
- 均田法、三長法などの革新的な政策を施行。孝文帝時代の北魏の全盛期を準備したと言える。
武則天
→武則天
楊貴妃
- 唐の玄宗皇帝に愛された美女。
- もともとは玄宗の息子の後宮に居たが、愛妾を失って落ち込んでいた玄宗に見そめられたらしい。
- 一旦後宮を出して女道士にし、あらためて還俗させて玄宗の後宮に入れるというややこしい手順をとった。
- 美女の代名詞みたいになっているが、現代の基準で美女と言えるかどうか。
- なにせまるまると肥っていた。玄宗の他の愛妾で、スレンダー型だった梅妃は、玄宗が楊貴妃のところに入り浸りなのを憎み、彼女を「肥婢!」と罵っている。「デブ女中め!」というところ。
- 本人は特に権勢好きの女というわけではなかったようだが、玄宗が彼女の機嫌をとるために、彼女の縁者を次々と取り立てた。宰相にまでなった楊国忠は彼女のイトコだが、街のばくち打ちだったとか。
- ライチが大好き。