僧侶伝

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奈良時代以前の僧侶

久米仙人

  1. 日本初の墜落事故者。
    • 修行して仙術でお空を飛べるようになるも、川で洗濯している女性の美白の足に萌えてしまい、墜落。
      • アフガン航空相撲?
      • これが却って親しみやすさを生んだのか、日本画や浮世絵の題材としてしばしば描かれる。
    • でもその後、再び飛べるようになり、高市に遷都の際、大量の材料を運んだと言うことで天皇に免田(年貢免除の田)をもらって久米寺を建てたと伝えられる。

鑑真

  1. の僧侶で、本国でも尊敬されていたが、歴史人物としてはやはり日本史の中の人物でしょう。唐招提寺の開祖。
  2. それまで仏像や経典など目に見える形だけのものだった日本仏教に、戒律をもたらした。
    • ハードウェアとマニュアルしか無かったところにソフトウェアを導入したということ。これによってようやく日本の仏教が一人前になった。
  3. 唐朝からは出国禁止をくらい、密航しようとしても善意の密告者に妨害されたりしてなかなか来日できなかったが、艱難辛苦の果てにようやく日本に渡る。来た時には長年の苦労のため失明していたそうな。
    • この情熱は、一種の宣教師とも呼べる。
  4. 非暴力不服従。
    • それはガンジー。あ、ツッコんじゃいけなかった?

道鏡

  1. 孝謙/称徳天皇に寵愛された僧。
    • 巨根伝説は濡れ衣のようだ。
      • 「道鏡座れば膝三つ」
      • 「道鏡に根まで入れろと詔」
      • 「道鏡に崩御崩御と(以下略)」
    • 孝謙上皇(淳仁天皇に譲位したあと)が病気の時に祈祷にあたり、以後深く信頼された。
    • 学識豊かな高僧だったので、政治顧問として相談を受けていたと思われる。
  2. 称徳天皇から皇位を譲られかけた。
    • 危ない危ない。
    • 本人にさほどの権勢欲は無かったようで、称徳天皇の没後はひたすらにその菩提を弔い続け、巻き返しを図ったりすることは無かった。

平安時代の僧侶

最澄

  1. 日本での天台宗の祖。比叡山に寺を造る。
    • 伝教大師ともいう。わりとそのまんまな大師号。
  2. に短期留学し、厖大な書物を購入して帰ってきたが、それらを整理する時間がとれないほど忙しい人だった。
    • 桓武天皇に寵愛されてちょくちょく呼ばれるし、奈良の旧仏教からは論争を挑まれるし、盟友と思っていた空海との間はぎくしゃくするし、常人ならテンパりまくること必定。
    • おかげで多くの仏典が未整理で残り、それがかえって後継者たちの創意工夫を育てた。法然も親鸞も道元も日蓮も、一度は叡山に僧籍を置いて勉強している。
  3. 論争最長!
  4. 「比叡山に奈良東大寺と同じ受戒(僧侶の資格認定)の権利をください。格式も東大寺と同じで」という無茶をこく。国家公務員の任命権を民間企業にくれと言うようなもの。
    • 「くれなきゃ怨霊になって祟ります」と言い残して死去。結局祟りを恐れて要求を認めることになる。
    • しかし国際的には認められず、後の円仁らは東大寺で受戒したと嘘ついている。

空海

  1. 真言宗の祖。高野山に寺を造る。
    • 弘法大師の名のほうがよく知られている。大師号はいろんな坊さんに与えられているが、単に「お大師さん」といえば空海のこと。
  2. ただの僧侶ではなく、漢詩や書道はでも驚かれるほどの腕前だし、戯曲は書くし、建築や水利にも詳しいし、万能の巨人と言っても言い過ぎではない。
    • 香川の満濃池の堤防は空海が造ったといわれている。
    • いろは歌や讃岐うどんなど様々な物の由来に関与したことにされている。
      • 変わったところだと「日本での男色の開祖」(江戸時代の伝承)や「石油・石炭の利用法を教えた人物」(出典:川崎大師公式HP)という言い伝えもある。
  3. に留学し、密教を学ぶ。
    • 20年分の学費を持って行ったが、それをわずか2年で全部使い果たして、しかも密教の奥義まで授けられて帰ってきた。
      • しかもその2年のうち、密教の伝承者である恵果のもとへは、1年近く行っていない。だから恵果のもとで修行したのは1年ちょっと。
        • 長安の社交界で空海の名が知られるようになり、密教を学びに来たことも公言していたので、むしろ恵果のほうが「あの日本の僧はまだウチに来ないのか」と気にしていたとか。
        • セルフプロデュースの巧みな空海としては、「恵果に待たれる形」を作ったのも意図的な演出だったろう。
    • 実は日本に居るうちにほとんど奥義に達しており、最終的な口伝の部分だけ長安で恵果に教われば充分だったらしい。
      • とはいえ、何十年も自分の下で修行している弟子たちをさしおいて、わずかな期間だけ身を寄せた異国の青年にすべてを託してしまった恵果の決断には驚かされる。
  4. 最澄と違って、奈良仏教とはケンカしなかった。
    • むしろ奈良仏教側が、最澄との論戦のために空海に頼った感じ。
    • 最澄とは最初良好な関係だったが、やがて訣別。密教に対する考え方の相違が深刻なものになったらしい。
      • 空海のもとに出張してきていた最澄の弟子(泰範)が、空海に私淑してしまって帰らなくなったりしたこともあった。
      • 密教を極めたければ、自分の弟子になるのが筋だと最澄に通告したのがきっかけ。言っていること自体は空海の方が正論なのだが、そんなことは最澄の立場上出来るわけがないことは空海も承知していたはずであり、底意地の悪さを感じるのは自分だけだろうか。
  5. 真言宗の中では、まだ生きていることになっている。
    • 金剛峯寺のお堂にこもって瞑想しているとか。
    • 高野山では、空海に食膳を運ぶ儀式が毎朝行われている。
      • 3時のおやつもある。
  6. 現代風に一言で言うと宗教起業家。彼の興した事業の大半が今も続いていることを思えば、その卓越っぷりが理解できる。
  7. 唐では「五筆和尚」というあだ名があった。
    • 両手・両足・口に筆をとって字が書けたから「五筆」……と言われているが、さすがに嘘だろう。
    • 篆・隷・楷・行・草の五書体を完璧にマスターしていたからだろうという説が妥当。
      • 雑体書と呼ばれる呪術めいた表現を駆使した作品もある。
        • 人魂や一反木綿のような奇っ怪な文字を見ると、ほんとにこの人一般に言われているような聖人かと疑いたくなる。
    • 日本では最高の能書家とされる。友人だった嵯峨天皇・橘逸勢と共に「日本三筆」と呼ばれる。
      • 「弘法筆を選ばず」「弘法も筆の誤り」とコトワザにもなっている。
        • 都の門に掲げる額に点を1つ書き忘れるも、筆を額に投げつけて点を打つ。「弘法大師流石だな」と大ウケ。
  8. 何か食うかい?

円仁

  1. 最澄の高弟。3代目の天台座主で、慈覚大師という大師号を貰った。
  2. に留学し、9年間ほど滞在してあちこち大旅行。
    • 本当は短期留学の「還学生」だったが、あの手この手でごまかして長期滞在した。
      • 日程的な問題で、希望した天台山での修学が許可されなかったためらしい。
      • 長期滞在のはずがたった2年で帰ってきた空海と逆。
      • 身分をごまかすために、新羅人に成りすましたりした。
    • 筆まめな人で、詳細な旅行記を書いた(『入唐求法巡礼礼記』)。日本初の本格的旅行記。
      • 晩唐期の中国の様子もこれでよくわかるらしい。
      • 例によってこの書物の史料的価値を評価したのは欧米人が先。ライシャワーさんが紹介して世界的に有名になった。
  3. 上項から窺われる意思の強靱さとはうらはらに、人格円満で誰にでも親切な人だったらしい。

文覚

  1. 平家打倒に暗躍した真言宗の坊さん。
    • 源頼朝のところへ行ってシャレコウベを見せ、「これはお父上義朝卿の無念のシャレコウベですぞ」と強弁したりして、半ば強引に挙兵をうながした。
      • 落語では頼朝が「父上のシャレコウベにしては小さいようだが……」と疑い、文覚は「さもあらん、何しろ義朝卿8歳のみぎりのシャレコウベなるがゆえ」と言い張る。
  2. もともとは朝廷に仕える北面の武士だった。
    • 他人の妻に懸想し、夫を殺して自分の物にしようとしたところ間違えて妻のほうを殺してしまい、無常観にかられて出家したという、けっこう手前勝手な男。
      • そのころの話は芥川龍之介や菊池寛が短編小説にしている。
      • 小説ではそれなりに思い悩むキャラになっているが、上記の事件の結果出家したのが19歳の時ということを考えると、単なるDQNだった可能性も高い。

西行

  1. 願わくば 花の下にて 春死なん の句で知られる。
    • ここでは花=桜。この句が桜と死の連想に一役買っている気がする。
  2. 元・北面の武士だったけれど妻子を捨てて出家した。
    • 妻子を捨てて、である。残される妻子のことは何も考えていなかったらしい。
      • 残された妻子は西行を追って高野山へ行ったが、高野山は女人禁制なので近くに庵をむすんだという話もある。
      • 実際は、実家が大金持ちだったので、妻子は別に生活に困窮したわけではないらしい。
  3. 源頼朝から銀細工の猫を貰った。
    • 頼朝の館から出ると、そこらで遊んでいた子供にやってしまったそうな。
    • ちなみにこの猫は謝礼として貰ったもの。頼朝に兵法を講義した謝礼だったという。

法然

  1. 浄土宗の祖。
  2. 「念仏だけ唱えていれば救われる」という専修念仏の教義を、楽だと勘違いした人々がたくさん帰依したので、比叡山から睨まれる。
    • 本当はそんなに簡単なものではないんだけどね。
  3. 親鸞の先生。
    • のち親鸞が始めた宗派を浄土真宗と呼ぶが、そのおかげで法然の宗派は「真」でないみたいに見えてしまった。さすがに法然もムッとしてたりして。
  4. 「全ての人間が救われるためにはどうしたらいいか」という、常人なら絵空事として笑い飛ばしそうなことを20年以上も考え続け、革新的な答えを導きだした偉人。
    • 読んでない仏典ないほど経典を何度も読み漁り、民衆に近い位置にいる遁世聖らと交わり、悩み抜いた末に念仏を唱えるだけという、単純な答えを得る。
    • 院政期は仏像を大量に作ったり、「平家納経」など華麗な写経をすることで救いを求めたが、法然はそれらを全否定する。
      • 法然の著『選択本願念仏集』を読むと、貴族や金持ち、知識がある人だけが救われるのはおかしい! そんなモノは仏の慈悲の名に値しない!という法然の今日から見てもビビットな問題意識が伝わってくる。
      • 反面、この時代以降から仏教美術が衰退していく。無論、教化の道具として以後も仏具は作られ続けるし、個々別々に見ればまだまだ優品は多いが、平安時代のように金に糸目を付けずにとにかく最高の物を作ろうという意欲は無くなっていく。
  5. 百人一首にも採用された女流歌人・式子内親王と恋仲だったとする説もある。
    • 不運で薄幸の姫巫女と、何処までも救いを求める求道的僧侶の、身分と宗教との壁を隔てた禁断の恋。部屋の中でローリングしたくなるほど萌えるな!
    • やや眉唾な説だが萌えるから問題ない。

鎌倉時代の僧侶

親鸞

  1. 浄土真宗の祖。
  2. 坊さんが肉食・妻帯できるようになったのはこの人のおかげ。
    • もっとも親鸞自身は、自分は僧侶ではなく、半僧半俗であると称していた。その後の肉食妻帯している坊さんたちは、どういう理屈をつけているのだろう。
      • でも今の坊さんは俗世にも普通に関係しなければ生きていけないし、半僧半俗といえるんじゃないかな。
  3. プロテスタントの考え方に非常に近い。
    • 人間それぞれの善悪や営みに関係なく、阿弥陀如来はすべての人を救おうとしているというのが親鸞の思想。
      • 師匠の法然に既にそうした発想があり、親鸞はそれを徹底化させた。法然をルターとすると、親鸞はカルヴァンにあたるだろう。
    • プロテスタントでは、人間が自分のケチな考えで善行をしたり悪行をしたりしても、神の最後の審判には影響がないと考える。
    • 「ビジネス」とか「近代社会」というのは、こういう考え方の上にしか成立しないという論もある。
  4. 寺は持たない主義だったが、8代目の孫・蓮如が本願寺を造り、戦国時代には一大勢力となる。
  5. 「善人が往生できるなら悪人ならなおさら」なんて逆説的なことを言ったばっかりに、「んじゃ悪いことした方がいいじゃん」とか言い訳するDQNに悩まされる。
    • 法然のほうが先に言っており、親鸞もそのことを別に隠してないのだが、いつの間にか親鸞の思想とされてしまった。
  6. 『鸞』の字が難しすぎる。親乱でいいじゃん。
    • 上人なので悪い意味の漢字は使えないだろう。もっとも「らん」で華やかでも悪くもない意味の漢字ってあったっけ?
      • 『蘭』とか『♪』とかはどうだろう?
    • 覚え方:いとし いとしと 言ふ鳥(元ネタは「いとし(愛し) いとしと 言う心」で戀の字、恋の旧字体)

栄西

  1. 日本の臨済宗の祖。
  2. 臨済宗は上級武士や公家に流行し、室町時代には五山文化などを生み出したが、難解すぎるせいか庶民への普及はイマイチ。
    • いま見ても、いかにも知識人向けの宗派だという気がする。
    • アニメ「一休さん」で有名になった「そもさん?」「せっぱ!」で始まる「禅問答」は臨済宗の特徴。同じ禅宗でも、曹洞宗ではあんまりやらない。
  3. 一般には、お茶をもたらした人として知られる。
    • 栄西がはじめて持ってきたわけでもなかろうが、お茶の効能を記した「喫茶養生記」という本を書いたので、有名になった。
      • 今の健康本のハシリ。
    • 将軍が病気の際にもお茶を薬として献上したそうだ。
  4. ヒューマンヘルスケア。

道元

  1. 日本の曹洞宗の祖。
  2. 同じ禅宗でも、先発の臨済宗と違い、下級武士や庶民に受け入れられた。
    • 「清規」という形で、基本的なエチケットや立ち居振る舞いの訓練が含まれていたからかも。
    • 不立文字の考え方がより徹底していて、読み書きができない人々でも修行ができたのも大きかったろう。
  3. 騒動宗ではない。

日蓮

  1. 法華宗の祖。
    • 日蓮宗とも言う。考えてみれば日本の仏教諸派で、創始者の名前が冠されているのはこれだけかも(新興宗教は別ですが)。
  2. 日本人には珍しく非妥協的な男だった。
    • 「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」などと他宗を誹謗中傷。あんまり好き勝手言っているので鎌倉幕府に睨まれ、流罪となる。
      • 本当は死罪になるところ落雷があって死刑を執行できず、罪一等を減ぜられたといういわゆる「龍ノ口の法難」の話は少々眉唾。
      • これを「宗教弾圧」と言う人が居るが、疑わしい。たぶん誹謗中傷を咎められただけの話。
  3. 蒙古襲来を予言。
    • ぶっちゃけ論拠は牽強付会で元寇以外は外れまくりなのだが、その辺はスルー。
  4. 柄に数珠を巻いたことから数珠丸という名がある、立派な日本刀を所持。現在、重要文化財で天下五剣のひとつ。
    • 僧侶が日本刀を持つのは違和感があるが、絵巻物でも描かれている例があり、当時はそれほど奇異なことではなかったらしい。
    • たぶん今、最高の日本刀を5つ選べ、と言われたら天下五剣のなかで真先に外れそうではある。
    • 残念ながらこの剣にまつわる逸話はないようだが、様々な伝説が残る日蓮ならこの剣を使って何らかの奇跡を起こしたんじゃないか、という妄想がひろがりんぐ。
  5. 法、法華経

一遍

  1. 時宗の祖。「ときむね」ではなく「じしゅう」と読みます。
  2. 「捨て聖」とも呼ばれる。一切を捨てろというのは仏教の根本教義と言って良いが、そのもっとも極端な形が時宗。
    • そのため、もともと無一物な庶民の間で大流行。
    • 一遍自身も、一生寺を持たず、説法の旅を続けて、その途上で死んだ。
  3. 時宗の徒は、「同志」というほどの意味合いでお互い「阿弥陀」号をつけて呼ぶようになった。
    • そのうち最後の「陀」が抜けて「阿弥」だけになった。鎌倉時代末期から戦国時代までよく現れる「○阿弥」という名前の人は、ほぼ間違いなく時宗の信徒。「世阿弥」なんかもそう。

南北朝・室町時代の僧侶

文観

  1. 南朝の黒幕……と言って悪ければスポンサー。
    • 後醍醐天皇はよく見ると文観の人脈に頼り切っている。楠木正成も名和長年も児嶋高徳も、実は文観に連なる寺社系の人物らしい。
  2. 文殊菩薩と観音菩薩を合わせた、大それた僧名を名乗っている。
    • 「殊音」という異名もあるので、間違いなく両菩薩からとった名前。

一休

  1. とんちで有名な臨済宗の坊さん。
    • 僧名は「宗純」。「一休」は号である。
    • アニメの「一休さん」では小坊主だったが、「一休」は成人してからの号で、小坊主時代の名前は「周建」だったらしい。
  2. 後小松天皇の皇子であったという噂。
    • 母・伊予の局が南朝遺臣の娘だったので、警戒されて僧籍に入れられたと言われる。
    • ただの貴種流離の作り話だと断じるセンセイも居るが、後花園天皇の即位に一休の推輓があったという話もあるから、皇室と全く無関係ではなかっただろう。
  3. 臨済宗だが公然と肉食妻帯。
    • こそこそと肉食妻帯している他の坊主どもを批判していた。
    • でも男色も好きだった。
    • これだけならただの生臭坊主だが、こうした人間臭さと宗教的境地が高いレベルで一体化しているのが一休の凄さだと思う。
      • それまで相反すると考えられていた世俗性と宗教性が両立することを、自身の生き方そのもので示す。この事が中世までの宗教に縛られていた人の心を開放し、近世への道を切り開く切っ掛けになった。
  4. 政所代の蜷川親当とは親友。
    • アニメの新右衛門さんのモデル。本当は一休のほうが年上らしい。
  5. みんながめでたがってる正月に「正月は死への一里塚」とかどくろを持ちながら言っていた、という話があるが、いやまて、一里塚が出来たのは江戸時代だ。
  6. 最期の言葉は「死にとうない。」だった。

蓮如

  1. 本願寺の開祖。親鸞の8世の孫。
  2. 布教にあたっては、なかなかの戦略家ぶりを発揮。
    • 村々の地主・庄屋クラスに的を絞って布教し、彼らの下の小作人や村人を根こそぎ帰依させた。
    • 先に村人たちを帰服させてしまうので、その村にある他宗の寺が浮き上がってしまう。そこで住職を説き、寺ごと改宗させてしまうという荒技も。
  3. メールマガジンの発明者でもある。
    • 各地の信者に、講話を綴った手紙を定期的に出しまくった。まさにメルマガ。
  4. 坊さんなので一夫一妻だが、子供が二十数人いる子沢山。側室がいた人を除けばきっと日本記録保持者。
    • ちなみに妻とは4回死別し、最後5人目はなんと50歳年下の妻で7人産ませた。一番上の子と下の子の年齢差は56歳!尊敬に値する。

戦国・江戸時代以降の僧侶

太原雪斎

太原雪斎

快川紹喜

  1. 武田信玄に迎えられて恵林寺の住職になった臨済宗の坊さん。
  2. 織田信長に従わずに六角承禎をかくまったため、寺ごと焼き殺された。
    • 「心頭滅却すれば火もまた涼し」の名言を残して死んだそうな。誰が聞いてたんだろう?
      • この名言、実は経文か禅問答の一節だそうな。まぁそういう場で引用してこれる余裕と知識が充分すごいわけですが。

恵瓊

  1. 毛利元就・輝元に仕えて外交の辣腕をふるった坊さん。
    • 住職をしていた寺の名をとって「安国寺恵瓊」と呼ばれることが多い。
  2. 坊さんのくせに豊臣秀吉から領地を貰って大名になってしまった。
  3. もとは安芸の守護だった武田氏の遺族。武田氏は毛利元就に亡ぼされたが、それを遺恨に思った気配はなく、死ぬまで毛利家に尽くし続けた。
    • 関ヶ原の戦いの時、石田三成と謀議を尽くして毛利家を動かす。西軍が敗れると、総大将に担ぎ上げられていた毛利家を救うべく、一切の責任をひっかぶって処刑された。
      • 忠臣と言うべきだが、後世の小説などでは口のうまい佞臣みたいな描かれかたが多い。
  4. 織田信長の絶頂期に使僧として接触し、信長の没落と秀吉の擡頭を予言したという先見の明の持ち主。
    • 「信長は5年10年のうちに高転びに仰向けに倒れることでしょう。木下藤吉郎は大変な男です」と毛利家への手紙に書いている。
      • もっとも、予言と言うほどではなく、信長政権に対して当時の人が普通に抱いていた危うさみたいなものを代弁しただけのような気もする。秀吉についても、直接折衝した相手として褒めているだけで、後年信長に取って代わるところまで予見していたかどうか。
      • 大河ドラマ「秀吉」ではなぜかこの手紙の内容を秀吉も信長も知っていることになっていた。無茶な設定はよせ竹○洋!
  5. 暗黒JK。

天海

  1. 徳川家康・秀忠に仕えて暗躍した坊さん。
  2. 明智光秀の後身という噂がある。小来栖で落ち武者狩りに殺されたのは影武者なんだと。
    • だとすると120歳くらいまで生きたことになるらしい。
  3. 太正時代に復活して帝都を恐怖に陥れた。

崇伝

  1. 徳川家康・秀忠に仕えて暗躍した坊さん。
  2. 家康が「国家安康 君臣豊楽」の銘で豊臣家をとがめた、いわゆる方広寺の鐘銘事件は、崇伝の私怨からはじまったらしい。
    • 崇伝は方広寺の僧と仲が悪く、銘を問題にしてその僧を陥れようとしたのだが、林羅山がさらに大問題化して豊臣家そのものの罪ということにしてしまったという。
  3. 天海とも仲が悪かった。
    • 家康の神号のことで大喧嘩。「明神」号を推す崇伝に対して、天海は「権現」号を推し、結局天海に押し切られる。

沢庵

  1. 日本を代表する漬け物と、その漬け物を作る時の道具に名前を残す坊さん。
    • ただし、沢庵漬けが本当に沢庵の発明したものであるかどうかは微妙らしい。
  2. 「沢庵」は庵号。僧名は「宗彭」。
  3. 歴史人物としては、「紫衣事件」に巻き込まれたことで有名。
    • 要するに後水尾天皇と徳川秀忠との間の確執。
  4. 宮本武蔵にいろいろ助言したというのは吉川英治のフィクション。

良寛

  1. 子供たちに大人気だったそうだが、いまいち何をした人なのかわからない。
  2. 書家としても有名。地元の旧家にはこの人作の掛軸があることが多いとか。
    • 一見稚拙に見えるが、実際に真似て書いたり字を指でなぞってみたりすると、空筆が大きく文字に含まれた情報量が圧倒的で、のんびり書いてるようでいて実際には相当に力を使って押さえ込みつつ書いているのがわかる。
      • 江戸時代の流麗だがズラズラ、時にダラダラ書き連ねた作品が多く、和様・唐様の違いはあっても流儀にはまったの書とは全く表現の次元が異なる。

隆慶

  1. 生類哀れみの令の元兇となった坊さん。
    • 徳川綱吉の生母である桂昌院に取り入り、「上様にお世継ぎができないのは前世で殺生をした報いでございます」等々と吹き込んだ。
      • 隆慶の言葉だけで生類哀れみの令ができたわけではあるまいが、綱吉の心を大きく動かしたのは確か。
  2. 一郎を付けると、戦国一の傾奇者の作者。

武田物外

  1. 近藤勇とサシで喧嘩して勝った。