考えない技術

2005年12月10日 (土) 04:15時点における60.39.225.184 (トーク)による版
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考えない方が、かえってアイデアがでるのではないか?という仮説から、 「考えない技術」というテーマで適当に思いついたことを書き足していきやす。

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はじめに

物をはっきり見るには、辺りに光が多いほうがよい。しかしそれは本当だろうか? 例えば星は、明るい昼間にはかえって見えない。辺りが暗いほど、はっきり見える。「星も光ではないか」ということは、考えてはいけない。

物事に正しく対処するには、意識がはっきりしているほどいい。しかしそれも本当だろうか? うんたら

創造的な空間について

人が星空に星座を最初に思い描いた時、それは純粋な創造であった。というのは、星は星座を描く材料として、意図的に並べられたものではないことが明快だからだ。創造的でない場合は、最初に意図するものがあり、その意図をもとに材料をあらかじめ用意する。その結果、結果が意図を超えることはない。

星空が創造的な空間なのは、星という星座をつくるための材料が、意図を超えているからではないか。意図を超えたものに意図を見出そうとする結果、意図を超えたものが出てくる。

このことは、うんたらかんたら

電車の中

センスについて

センスとは、中心をみつける力ではないか?もっと言えば、意外なところに中心を見つける力ではないかと思う。言い換えれば、分散的な材料の中から、一定のまとまりを求める結果、意外なものが結果として創造される、なんのこっちゃ

モードについて

買い物をするとき、人は大きく二つのモードで商品を見ている。一つは、自分が欲しいものはなにかを探している状態。もう一つは、欲しいもののなかから、どれが良いかを比較している状態だ。後者の場合、対象を見ているが、前者の場合は、対象を見ながら、自分の内面を見ている。自分が何が欲しいかという中心を探っているのだ。 うんたら

夢について

夢の特徴は、脳の使い方が分散的であることだ。夢のなかで複数の人間が会話しているとき、どちらも自分が会話しているのだが、こんな分散的な使い方は目覚めている時には難しい。この分散的な脳の使い方が、夢の創造性に関係しているのではないか。うんたら

見出しは?

人が(夢でなく起きた状態で)お話をつくる時、そこに現れる登場人物は、全て作り手のフィルターを通したものである。例えば「男は街角を颯爽と歩き、すれ違い様女の首筋にさりげなくキスをした」という文章があるとして、しかしこれは実際は、作者以外の他者からみた場合のこの光景は、「街角を颯爽と歩いている”つもり”の男が、すれ違い様女の首筋にさりげない”つもり”でキスをした」となっている可能性もある。首筋にキスをした時に、前歯が当たってガガガ、いででいでで、みたいな風になっている可能性もある。ふたりの男女は”颯爽”の気取りでも、服装が何気なく肩パットがでかすぎませんか、という場合もある。しかし作者からすれば、それはみえない、みたくない、処理しきれないものなのかもしれない。夢の中の出来事は、「支離滅裂であった」という感想を残す展開が、よくある、いやほとんどそれである。目覚めている状態、「個」と言う物を突きつけられる状態、「公私」の存在を処理せねばいけない状態、人は「理想」をもち、みたいもの、みせたい物に度数を絞り、一見筋書きの立ったお話を、個人個人が演出しあうのかbyaa君 理解しなくていいから誤解しないで ましてや哲学など展開しないで わけがわからなくならないとわからないことがあるのよ そのおだやかさが人を責めるための 手段であるなら、やはり攻撃的な物でしかないわ という言葉を聞いた事がある。数日前の私からである。それはある文を読んだ翌朝である。今もう一度その文を読み直してみて、私は言葉を失う。「ああ、軽蔑されていたのか」と、今になって気づく。あからさまにしゃべっているように、聞こえたのかもしれない。続けたいのだが、言葉が出ない。しかし続けたい。もう一度冒頭の言葉に戻す。そして続ける。でもどうせあたしも誤解しちゃうから、思い切り誤解してあげる。おもいきり大きなお華を飾って 周りにプラスチックのリボンを散らして 銀紙を小さく刻んで やがてあの子のほっぺにものっかる様に 偶然を装って結び目にしこむのです。 さみしくならないように、ね、と過去思っていた。この世の事で、今私に確実にわかる事は、混沌である。混沌が、はっきりとわかる。夢も現実も、同じ頭から成り立ったものだ。目覚めた状態は他者がいるとはいえ、「夢=支離滅裂」をみた物同士だ。私たちが夢をわけわからんと判断できるのは、夢は短時間で終わるため、そう把握可能なのではないか。目覚めた状態、「現実」は、長過ぎて、それが支離滅裂という事すら把握できないのではないだろうか。そして私たちが「支離滅裂」と 称するものは、果たして?目覚めた状態で、私たちが「理路整然」と呼ぶものこそ、支離滅裂なのではないか。私はパラドックスや言葉遊びに興じてこの様な理屈を 展開しているのではない。少なくとも、「理路整然」と同列になる程のロジックが、「支離滅裂」にも存在している様に思う。映画真夜中の弥次喜多さんのラストシーンで、長瀬智也扮する弥次さんが、死の世界から奇跡的生還を遂げ、ぼろぼろになって喜多さんの前に現れる。弥次さんの足には犬がついている。ぬいぐるみ製の柴犬が、ダッコちゃんの様に弥次さんの足にくっついている。意味ない、必要ない、監督のトウーマッチな思い入れに後押しされた、不思議っ子(死語)の酔った演出の様にみえる。(私もこの方のは苦手な方である)だが、そうではない。これこそが、現実である。いつも私たちは、何かが欠けている。何かがふに落ちない。 何かが、「異質」な空間がある。これが消え去った事など一度たりとなく、喜劇ほどのわかりやすい落差であればまだ救われるのだが、混沌と、常に、正しいか正しくないかを語りかけるような、その現実のストーリーが充足してようとなかろうと、常に、すぐ隣に、あるいは一体と化して、その「異質」な物が、そこにある。 「意味」というものがある。この「意味」とは何だろうか。人が星空を見て星座を作った背景には、「わからない」事への不安があったからだという。まーきいたはなしですけどおーいきてなかったし。夜、自分の頭上を全面を覆う暗闇と、優しくも奇妙に黙ったそこに散らばった光。それを「星」と言わず、黙っていられようか、人間が。そういった畏怖の念が、そこに散らばる星を、自分たちの地上の見慣れた物と置き換え、愛着を演ずる事で、童謡に点す事で、まぎれたというのは、少なくとも私は理解できる。しかし、今、星を黙ってみたいと思う。その光を星とも思わず、光とも思わず、ああ限界だ、だが把握した気分になるよりはましだ。今夜また書きますbyaa君

インチキ瞑想法について

三段論法のように、物事を積み重ねて考える方法は、開放系の環境では役に立たない。 前提がくつがえされたり、他の要因が影響を与えることが多くなるから。

目が覚めているとき、頭は三段論法や論理といった単純なことを好むが、寝ているときは 逆に物語的な、奔放な発想といった、開放的な環境に役立つような頭の使い方をしてい るのではないか。

起きていてウトウトと眠りかけるとき、または寝ていてふと目が覚めたとき、やけにアイデ アがでる状態になっている時がある。ためしに、起きているときと寝ているときの二つの 状態が交差する状態を、頭をぼんやりさせて意図的に引き伸ばす努力をしてみた。

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今朝方、フランス人の大道芸人と殴り合っている夢を見た。 まったく意味がわからない。

しかし、意味がわからないと思うのは起きている状態で考えているからそう思うだけなのかもしれない。というのは、意識がはっきりしている状態のとき、記憶の中で意識が及ぶ範囲は狭く、少なくともフランス人の大道芸人は現れない。だから通常の意識を前提にして考えると、とても意味がわからない。

しかし、夢のようにぼんやりしている時、記憶の中で夢状態の意識が及ぶ範囲はとてつもなく広く感じる。この広さが、夢の創造性のベースになっているのだろうか。どうしても対象を絞ってしまう考えるという行為に対し、考えないメリットをもっと知りたいと思った。


memo

人が寝ている時、蚊が肌に止まった瞬間、無意識に手が蚊を叩くときがある。その手の動きは考えていないからなめらかで速い。