鎌倉時代
2007年11月26日 (月) 03:17時点における202.208.61.220 (トーク)による版
鎌倉時代の噂
- ハムができる。
- ツレヅレグサが刊行。
- ブログ書籍化ブームの始まり
- 「ヘーケ物語〜諸行無常の響き〜」で琵琶法師が大ブレイクし、全国弾き語りツアー開催。
- ジンギスカンの孫のフビライハンが日本に攻撃をしかける。
- 朝鮮も調子に乗ってモンゴルの尻馬に乗る。(マジモノ)
- つーか、朝鮮海軍が属国としてモンゴル力士を運んだけど揚陸艇がないのでDデイ敢行できずにカミカゼアタックにやられたんじゃなかったっけ。(うるうる覚え)
- ジンギスカンはヨシツネらしい。
- トンデモ学説。ジンギスカン(仁義好かん)の生没年も系図もハッキリしているし、第一、義経とジンギスカン(仁義好かん)では騎馬戦術に決定的な差異がある。マーだかモーだかいう雑誌しか唱えない珍説。
- 種本は末松謙澄(スエマツケンチョウ・後の逓信大臣、内務大臣)が1879年に英国人を装いつつ匿名で書いた論文。それを1885年に内田弥八が「義経再興記」と題し訳述・出版。さらに後の1924年、小谷部全一郎が「成吉思汗ハ源義経也」という題で発表し、大ベストセラーとなる。
- メーじゃなかったっけ?
- 「ワー」だよ
- とりあえずジンギスカンは料理の名前だって言っておくよ。(本当はチンギス・ハーン)
- 歌手グループのジンギスカンもいた。
- そのグループの歌「ジンギスカン」も有名。
- モンゴルの皇帝ことハーンは現代での呼び方で、当時はカンだったらしい
- 歌手グループのジンギスカンもいた。
- トンデモ学説。ジンギスカン(仁義好かん)の生没年も系図もハッキリしているし、第一、義経とジンギスカン(仁義好かん)では騎馬戦術に決定的な差異がある。マーだかモーだかいう雑誌しか唱えない珍説。
- フビライハンの好物エビフライ。
- 朝鮮も調子に乗ってモンゴルの尻馬に乗る。(マジモノ)
- ヨシツネが大陸に渡りヤブサメを伝える
- ↑ヨシツネは平安時代やぞ。
- 「鎌」と「倉」が大流行する。
- 「いざ鎌倉」が当時の流行語大賞に。武士の間で一大ムーブメントを巻き起こした。
- 終わりごろは「いざなまくら」
- 更に末期には「いざキャバクラ」
- 北海道、大阪と高知だけじゃね?
- 更に末期には「いざキャバクラ」
- 終わりごろは「いざなまくら」
- 頼家の実子を名乗る謎の人物公暁が現れる。将軍職就任を狙っているという噂が流れる。
- 北条泰時、反対派に説得され式目原案の条文から執権公選制を削除。
- 功績のあった歌人100名に送られる小倉賞が実施された。審査員代表は冷泉流家元・藤原定家氏。作品集はベストセラーとなるも、定家氏独自の世界観による授賞に一部の読者からは「どこがいいのか分からない」との声も。
- ひょっとして、JR小倉駅の周りを100人で1周した話のことかな?
- ↑それは「おぐら」ではなく「こくら」
- 京都の「JR小倉」駅の事では。
- ↑それは「おぐら」ではなく「こくら」
- ひょっとして、JR小倉駅の周りを100人で1周した話のことかな?
- 百人もいるのに首が一つしかない物の怪(もののけ)が、マッドサイエンティストのテイカ・フジワラによって作られる。フランケンシュタインの元祖?
- ゴダイゴがデビュー。正中の変・元弘の乱・メンバーの大麻使用などにより島流しにされる。その後、正成、尊氏、義貞らとともに活動再開。代表作「モンキー・マジック」「ポートピア」「ガンダーラ」
- メンバーには狐っぽい宣教師もいたから、キリスト教がすでに伝来していたものと思われる。
- 盆栽を燃やすパフォーマンスが注目を集める
- 西岸良平「鎌倉ものがたり」連載開始。
- 仏教系の新興宗教多数勃興。
- 「ナムアミダブツ」「ナムミョーホーレンゲキョー」など。特に後者の総帥「ニチレン」はよく幕府に逮捕された。
- 「イッペン」率いるストリートダンサー集団「ジシュー」が注目をあびた。爺(じじい)衆ではない。爺臭でもない。自習?
- 「リンザイ」「ソートー」という座禅集団も。
- 鎌倉の大仏完成。
- ついでに奈良の大仏も再建された。
- 政治は雪の中に掘った穴の中で行われた。また、大仏には雪で作った大仏殿があったが、氷河期が終わった現代では仏像のみが現存している。
- ヨシツネのいとこのナベツネが壇ノ浦の戦いから命からがら逃げてきて武蔵の国で言売売新聞のオーナーになる。
- 地球は温暖化していなかったので人々は雪で作った家で暮らしていた。
- お釈迦様(釈尊)が法華経などで予言されたとおりに、久遠元初の御本仏・日蓮大聖人様が御出現あそばされた。
- 平安時代から鎌倉時代にかけてが、末法時代の始まりの時期である。
- 北条氏が鎌倉幕府を買収
鎌倉幕府の将軍
源頼朝
- 弟二人、従弟とその息子など、身内を沢山殺して天下をとった人。
- ちょっとでも油断をすると、他の者を担がれて追い落とされてしまいかねないという状況だったので、やむを得ざるところもある。
- そうは言っても、義経はともかく範頼まで殺したのはなあ……
- 関東育ちの奥さんは一夫一婦制を主張。多妻多夫が常識の京都で育った頼朝はその概念も理解できず、夫婦の価値観の相違が深刻なものに。
- 死亡前後の記事が、どういうわけか公式記録「東鑑」からすっぽり抜け落ちている。大騒ぎで誰も記録をつけていなかったのか、何か外聞をはばかるヤバいことがあって抹消されたのか……
源頼家
- 妻の実家である比企氏を引き立て、北條氏を排除しようとしたため、修禅寺に押し込められて殺された。
- ……と言われているが、実際は逆。頼家の傅人(めのと)であった比企氏が、北條氏に取って代わろうとして頼家を担いだが、北條氏に逆襲されて亡ぼされた。頼家は比企氏の象徴として消されたのでした。
- 独裁的だったとも言われるけど、17歳で家督を継いで、22歳で死んでるわけですからねえ……どの程度の独裁ができたことやら。
源実朝
- 頼家の弟。
- 実朝の傅人は北條氏だったので、比企氏との権勢争いに勝った北條氏により将軍位につけられたわけ。
- 同族争いがいやになって外国へ逃げ出そうと大船を造るが、失敗。
- やっぱり同族に殺された。
- 下手人は頼家の息子の公暁。親父を殺させたのは実朝だと誰かに吹き込まれたらしい。
- その「誰か」は北條義時だろうと思われていたが、最近では三浦義村説が有力。公暁の傅人は三浦氏だったので、公暁を担いで北條氏を追い落とそうとしたと思われる。
- しかし公暁が北條義時を殺りそこねたので、三浦義村は口封じに公暁を殺害。かくて源氏嫡流の血は絶えた。
藤原頼経
- 頼朝の妹のひまご。
- 最初のうち北條氏の傀儡だったが、反対勢力に担がれそうになったので京都に追い返される。
藤原頼嗣
- 頼経の息子。
- 8歳で将軍位に就くが、17歳の時に謀反に連坐したとして京都に追い返される。
宗尊親王
- 後嵯峨天皇の皇子。母親の身分が低く、あまり出世しそうになかったので、鎌倉将軍にという話が来た時ホイホイと引き受けた。
- 将軍になってもすることがないので、歌会ばかり開いていた。
- しかしだんだん、不満分子の集まる会になってしまった。
- 危機感を持った北條氏により、京都に追い返される……ってまたかよ!
源惟康
- 宗尊親王の息子。3歳で将軍位に就く。
- 将軍位に就くと共に臣籍降下し、「源」姓を受ける。
- 別に謀反にも関わらず、不満分子を集めたりもしなかったが、京都に追い返される。もう何がなんだか。
- 追い返されてから親王宣下を受け、「惟康親王」となる。
久明親王
- 後深草天皇の皇子。何もエピソードを残さず、京都に追い返される。
守邦親王
- 久明親王の息子。8歳で将軍位に就く。
- もちろん何も実権は無かったが、鎌倉が新田義貞の攻撃で陥落すると律儀に出家し、間もなく死去。一応幕府のトップとしてのけじめをつけた形。
鎌倉幕府の執権
北條時政
- 娘が流人と駆け落ちしたばかりに天下の執権に成り上がった幸運な人。
- 年取ってからめとった若い後妻との間に生まれた娘の婿を将軍にしようとして、息子(義時)や娘(政子)からひんしゅくを買い、無理矢理隠居させられた。
北條義時
- 北條家の支配を確立した人。父・時政生前も、実際に動いたのは義時だったようだ。
- 実朝が暗殺された時、同行することになっていたが、気分が悪いと言って人に代わって貰い、危ういところで一緒に殺されるのを免れた。
- 本当に気分が悪かったのか、何か察していたのかは微妙なところ。
- 得宗と号した。この後、北條氏の中でも義時の家系を「得宗家」と呼んだ。
北條泰時
- 御成敗式目を発布。
- 書いてあることはわりと普通。その当時の常識を成文化しただけだったようだが、大事なことかもしれない。日本国憲法もかくありたい。
- 承久の乱では総大将として出陣、見事勝利を収める。
- その後、父・義時、伯母・政子、有力な補佐役・大江広元など、助言してくれそうな人々が相次いで死んでしまい、けっこうびびったと思われる。
- 義時の弟・義房を補佐役に任命し、なんとか事無きを得る。
北條経時
- 泰時の孫。
- 18歳の若さで執権になったので、北條一族の内部でもゴタゴタし、外部はそれに輪を掛けて動揺し、心労のあまり4年で死亡。
北條時頼
- 経時の弟。
- 執権引退後に、諸国漫遊したという噂が流れる。水戸黄門の大先輩。
- その途上、「鉢の木」の話が登場。
北條(極楽寺)長時
- 経時・時頼兄弟の父の従弟。
- 時頼が息子の時宗に執権職を譲るまでの中継ぎとして指名される。
- 実権は時頼が握っていた。この頃から「得宗家」の専制が始まる。
北條政村
- 長時の伯父、経時・時頼兄弟の大叔父。
- 執権に就任した時にはすでに時頼が死んだ後だったので、自分の時代が来たと思って舞い上がっていたが、おりしも蒙古からの国書が届き、高齢だけにどうしてよいかわからず、執権職を投げ出してしまった。
北條時宗
- 元寇を迎えて真っ向勝負。
- ほとんど元寇対策だけに追われ、弘安の役の3年後に34歳の若さで病没。
- 異母兄の時輔を内紛で攻め殺している。もっとも生きて逃げ延びたという説もある。
- でも時輔が大陸に渡ってクビライ・ハーンに仕えた後、赤マフラーを巻いて帰国したという話はあくまで大河ドラマだけの話ですからね。真に受けないように。
- 最初の元寇を撃退した後、元寇の拠点である高麗を逆に攻める計画を立てていた。
- 結局、半島に関わることを断念したのは好判断だったような……
北條貞時
- 父・時宗の死により12歳で執権となる。
- しばらくは、側近・平頼綱の言いなり。10年近く経ってようやく頼綱を誅殺して実権を取り戻した。
- 29歳で従弟の師時に執権職を譲るが、その後も実権を握り続けた。
北條師時
- 貞時に執権職を譲られたが、ずっと貞時に実権を握られ、奪回する前に死んでしまった影の薄い人。
北條(大仏)宗宣
- 義時の弟のひまご。
- 執権のそのまた執事とも言うべき「内管領」長崎高綱に実権を握られ、自分ではなんにもできないのに失望して、執権職を放り出して出家。間もなく死亡。
北條煕時
- 政村のひまご。
- やっぱり長崎高綱のせいでなんにもできなかった。
- 執権になる前は、嘉元の乱で叛乱を起こした北條宗方らを亡ぼすなど、なかなか活躍していたのだが……
北條(極楽寺)基時
- 長崎高綱とその子・高資が勝手し放題。
- いやけがさしたらしく、1年ほどで辞任、出家。
- それでも鎌倉陥落時には高時と一緒に自害してけじめをつけた。
北條高時
- 「最後の執権」と勘違いする人が多いが誤り。「最後の得宗家当主」である。
- 田楽好きで、天狗にたぶらかされる。
- 暗愚な執権という評価が大体固まっているが、本当はどうだったのかよくわからない。
- 長崎父子に好き勝手やらせていたという点だけでも、名君とは言えまい。ただし、人としてバカだったかどうかは不明。
- ともあれ、鎌倉陥落後の自害の作法は見事なものだったらしい。
- 歴史オタ、大河ドラマオタは、北條高時というと反射的に片岡鶴太郎の顔を思い浮かべる。
北條(金沢)貞顕
- 高時が出家してしまったあと、侃々諤々の末、とりあえずの中継ぎとして執権に就任。
- しかし反対派も多く、暗殺計画も耳に入ったりして針のムシロのようだったので、早々に引退、出家。
北條(赤橋)守時
- 最後の執権。足利尊氏の義兄でもある。
- そのため、尊氏が後醍醐天皇側に寝返って六波羅探題を亡ぼすと立場が悪くなり、謹慎させられる。
- 汚名返上のため、鎌倉に襲来した新田義貞軍と力戦し、戦死。
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