もしあの鉄道路線が別の年に開業していたら/関東
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JR
山手線
- ここでは営業上の山手線(環状運転区間)について扱います。
- 1890年代
- 東京駅ではなく丸ノ内駅と名乗っていたかも。
- 現実ほど巨大な駅舎になったかどうか怪しい。
- 都制化になる物も早まっていた?
- 都制は「大東亜戦争」という非常時だから反対を無視して実現できたという側面があるのでそれはない。
- 場合によっては赤羽駅まで通っていた可能性も。
- 1910年代
- 秋葉原駅ではなく万世橋駅に通っていたかも。
- この場合秋葉原駅は貨物駅のままだったかもしれない。
- 1940年代
- 恐らく戦災復興都市計画として開業だろう。
- 環状化の構想は関東大震災後の帝都復興計画などにも盛り込まれていたが諸般の事情により実現が大幅にずれ込んでいた。
- 1960年代
- こうなると東京オリンピックの再開発の一つになっていた。
- この時期に開通した区間は間違いなく地下線。
川越線
- 1890年代
- 史実の停車駅だと少ないので、秩父まで開業していた可能性も。
- 停車駅は大宮、川越、高麗、秩父大宮かも。
- 高麗から秩父に抜ける工事がかなりの難事業になりそうだが・・・
- 高麗ではなく飯能に通っていたかも。
- 川越線ではなく秩父線になっていた。
- もちろん西武秩父線は開業していない。秩父鉄道は微妙。
- 停車駅は大宮、川越、高麗、秩父大宮かも。
- 電化はもう少し早かった可能性も。
- 秩父の観光開発は史実通り行っていただろうか?
- 位置づけは「商都川越と現在の東北本線を結ぶ路線」。
- 戦時色が強くなり東京を迂回するルートの必要が出てくるまでは大宮-川越のみ。
- 西武大宮線など存在しなかった。
- 川越駅は現在の本川越駅あたりになっていた。
- 1980年代
- 開業当時から電化していた。
- 大宮駅-川越駅間の路線が埼京線になっていた。
- もともとは東京に用がない貨物列車を東京都心に入れないための路線のつもりだった。
- この場合は複線化もされているはず。
- となると史実の武蔵野線がさらに遠くにいったということか。東武野田線もJRに編入され、八高南線・相模線もセットになっていた。
京浜東北線
- 1880年代
- 運営は日本鉄道?
- 停車駅は上野-日暮里-田端-王子-赤羽-川口-蕨-浦和-与野-大宮か?(場合によっては上尾まで)
- 川口駅は「武蔵川口駅」に。
- 神奈川方面延長は国有化後。
八高線
- 1890年代
- 八王子-飯能-越生-小川-寄居-児玉-藤岡-高崎になっていたかも。
- 八高北線は電化されていたか?
- どう考えても貨物輸送がメイン。
- 主に上州の繭を絹織物産業が盛んだった八王子へ運ぶため。
- 横浜線との間にスイッチバックなしで直通できる短絡線が建設される。
- 主に上州の繭を絹織物産業が盛んだった八王子へ運ぶため。
埼京線
- 1890年代
- 停車駅は品川-大崎-目黒-恵比寿-渋谷-新宿-目白-池袋-板橋-赤羽-蕨-浦和-大宮かな。
- つまり上野駅がターミナルではなかったってこと?
- 要は高崎線が品川支線のルートで開業ってことか?
- 赤羽線は存在しない可能性も。
- 2chの殺人予告の「埼京線の上野駅」が実在していた可能性も。
- そもそもこの場合だと名実ともに東北本線になっている気がする。
- 1940年代
- 当然当時は新幹線は無いので新幹線併設在来線という言葉は無い。
- 東北本線の別線にはなっていない。あえて付けるとしたら「戸田線」とかか。
- 戸田駅が「武蔵戸田駅」になっていた。
- 川越線と直通するかは微妙な所。
- 私鉄による建設。
- あくまで東京-大宮・浦和で省線に対抗するため。
- 沿線地域は昭和30年代でも農村ばかりだった。
- 私鉄なら開発も積極的になされているのでは。
- 後々都営三田線への乗り入れ構想が浮上する。
- 要するにこの計画が実現していた場合である。
- 1960年代
- 東京五輪の競艇場アクセスに活躍。
- 車両は山手線や総武線から流れてきた旧型国電でスタート。
- 1970年代に新性能化されるが、おそらくラインカラーは現実と異なる。
- あるいは五方面作戦の一環(赤羽〜大宮間線増)として建設され、東北・高崎線の一部列車がここを経由したかも。
- 武蔵野線開業後、前橋~沼津間の普通列車が廃止されず、この路線を経由。
- おそらく8両編成以下(板橋・十条駅の当時のホーム長を考慮)。
- 武蔵野線開業後、前橋~沼津間の普通列車が廃止されず、この路線を経由。
- 新幹線の(予定)用地も同時に確保された。
武蔵野線
- 1890年代
- 路線名は「府中線」か「船橋線」辺りになっていた。
- 停車駅は府中-所沢-志久-浦和-越ヶ谷-松戸-船橋辺りになっていたかも。
- 志久ではなく志木では?
- 軍事上の必要性がかなり表に出されていた。
- 沿線に相当する地域にそこまでの旅客需要があったようには到底思えない。
- 現実より地平区間が多い。
- 車両にA基準が求められたり、水害で駅が崩壊することはなかった。
- 川越線は無かった(武蔵野線が東北本線と中央本線のバイパスとなったため。)
- その代わり国分寺ー所沢ー川越ー大宮の私設鉄道路線が開業していた。
- その後西武鉄道に買収され、西武大宮線として名づけられていた。
- その代わり国分寺ー所沢ー川越ー大宮の私設鉄道路線が開業していた。
- 武蔵野線の開通に合わせて都市開発が進んでいったため、史実より市街地の位置が大幅に変わっていた。
- 後発で開通した路線もそれに合わせていた。
- 国分寺で中央線、浦和で高崎宇都宮線、松戸で常磐線、船橋で総武線とそれぞれ直通していた。
- その後南武線が府中~川崎で開通。むろんダイレクトで直通していた。
- 武蔵野操車場はハンプヤードになっていなかった。
- 1990年代
- JRではなく首都圏新都市鉄道の一路線として開通していた。
- ルートは史実と違っていた可能性大。
- 下河原線は南武線の一支線として現在も残存していた。ただし東京競馬場駅は廃止になっていたかも。
京葉線
- 1890年代
- 日本鉄道運営か?
- むしろ行徳や浦安の有力者が誘致した軽便鉄道では。
- この場合は総武鉄道の東京府内の駅と船橋を結ぶ路線だった。
- 沿線で獲れた海産物の輸送も盛んだった。
- 当時の東京-千葉間に鉄道が2本も必要だったとは考えにくい。
- むしろ行徳や浦安の有力者が誘致した軽便鉄道では。
- ルートは史実の東西線に近いルートになっていた。
- なので史実の京葉線はりんかい線として開業していた可能性も。
- 都市政策案通り有楽町線が幕張まで伸びていたのでは。
- 1890年代だと京葉間の埋め立てが早くないと無理じゃないの?
- 夢の島がまだないからね……京葉貨物線まであるとすると、お台場に軍港が作られ、海軍の専用線として巨大な橋梁が並んでいた可能性
- 東武亀戸線の起点が越中島だったかもしれない。
- 千葉港駅の読み仮名が「ちばこう」だったかもしれない。
- 1970年代
- 内房線・外房線直通の優等列車は新宿発着以外こちらに移行。
- 総武線の複々線化は津田沼止まりだった。
- 越中島や千葉みなとあたりに貨物ターミナルが開設された。
- むしろ新木場〜東京間は建設されず、新木場以西は史実のりんかい線と同じルートだった(但し大崎ではなく大井に向かう)。
- 1990年代
- りんかい線の一部として開業していた?
- 一部として開業していたら第3期の東京駅-新木場駅間が開業した時になんか動きがあったかもしれない。
- この路線ができるまで東京ディズニーランド周辺では渋滞が深刻だった。
- 開業が遅れたとなると、幕張まで千葉都市モノレールが伸びていた可能性もゼロではない。
- 千葉みなと駅は最初からこの表記だった。
- 1980年代に全線開業していたら
- 内子線とともに国鉄最後の新線開業として注目された。
- 東京ディズニーランドへのアクセスがより便利になっていた。
成田新幹線
- 2010年
- 成田スカイアクセスは存在しない。
- 都心部や空港周辺の用地買収をやり直す羽目になる。
- 上野起点だったかもしれない。
- 2020年代
- 通常鉄道かリニア方式かで揉める。
- 後者ならJR東海管轄で起点も品川に。
- 東北新幹線・リニア中央新幹線のいずれかと直通運転。
- 史実より地下区間が多く、起終点駅も深い位置にある。
成田線(空港支線)
- 1970年代
なりたくうこう 成田空港 NARITA AIRPORT | |||
◢ | ◣ | ||
◥ | なりた NARITA |
◤ |
- 成田新幹線の計画があるので特急は乗り入れず、普通列車で運行。
- 暫定的に特急は走らせていたと思う。但し使われるのは183系。
- 本数は日2往復程度しかなく、空港関係者向けの輸送が中心。
- 空港第2ビル駅は後に開業。
- その代わり佐原方面の分岐点付近に土屋仮乗降場が存在した。
- こちらも民営化直前に駅に昇格する。
- その代わり佐原方面の分岐点付近に土屋仮乗降場が存在した。
- 乗務員の中に空港反対派がいるのか?
- 国鉄時代は度々ストライキが発生していた。
- 三里塚空港廃港とゲバ字で書かれた113系アジ電が入線して大顰蹙
- 浅草橋焼き討ち事件は史実より10年くらい早く起きてしまう
- 113系0番台初期車が幕張電車区に転入しなかった。
吾妻線(嬬恋線区間)
- 1920年代
- 上信鉱業専用軽便線という名前で開通していた。
- 戦後嬬恋線、または三原線としていた。
- 草軽電鉄と乗り入れをしていた。
- 結局現ルートで改軌電化が行われる。
- あるいは草軽電鉄に譲渡されていた。
- 1940年代に戦時下の突貫工事で事故起こしまくりながら温泉のど真ん中掘ってさらに延伸、全通し長電と相互直通運転してしまう。
上野東京ライン
- 1890年代
- 山手線・赤羽線は開業しなかった。
- 史実とは違い、国鉄は直通運転に積極的だったかもしれない。
- 秋葉原駅、日暮里駅に高崎線・宇都宮線の列車が止まっていた。
- 上野駅に地平ホームはなかったか、荷物・貨物専用として使われた。
- 1990年代
- そもそも上野東京ラインなんて名前にはなっていない。
- 単に「常磐線直通」「東北(→宇都宮)線直通」「高崎線直通」「東海道線直通」と案内される。
- あさまに東京発着が存在していたか。
- 京浜東北線の快速運転は実施されない。そのあおりで山手線が減便。
- 山手線は11両化されなかったかも。
- これでも高崎線・宇都宮線の新宿発着実施は史実通り。
- バブルの時代だから上野駅の地平ホームはつぶされて再開発される。
- 東北新幹線東京延伸と同時に開通していた。
- 当然、211系も上野東京ラインに乗り入れしてた。
- 415系電車も乗り入れていたかもしれない。
- 交通博物館で上野東京ラインの開業イベントが行われ、史実より入場者数は増えていたかもしれない
- 2000年代
- 651系電車が乗り入れていたのは当然ながら、E653系電車も乗り入れていた。
- E657系電車の登場は史実通り。
- 場合によっては、史実よりも早く登場していたかもしれない。
- E657系電車の登場は史実通り。
- 相鉄・JR直通線の開業は2015年頃に早まっていたかもしれない。
- その場合、相鉄・東急直通線の開業は2019年頃に早まっていた。
- 品川~上野~いわき~仙台間を結ぶ特急「ひたち」が運行されていた。
- 2011年の東日本大震災の影響により、同年4月までに運休となっていた。
- その代わりに、工事の方では、震災の影響を受けることはなかったので、工期は1年程短縮していたかもしれない。(史実では、開業までに7年の工期を費やした。)
- 211系電車が2019年3月頃までに当路線に乗り入れていたかもしれない。
- 2010年代には、特急「あかぎ」が品川までに乗り入れていたかもしれない。
- 2013年or2014年
当初の開業目標としていた年です。
- E657系電車が史実より多く増備されていた。
- 651系電車による代走はなかった。
- 常磐線直通列車の増備が2017年3月のダイヤ改正で実施されていた。
- 1980年頃
- 東京-上野間を通る中電の先頭・後方の行先種別表示器に「東海道線-常磐線」「東海道線-東北線」「東海道線-高崎線」と表示される。
- 常磐線・成田線成田~我孫子間発着の通勤電車は行先のみ表示される。
- 「SM分離」と同時期に開通したため「横須賀線-総武線」と比較される。
- 当初「浜松発黒磯行き(片道約420km)」などの長距離列車が存在した。
- 「大垣夜行」の走行距離よりも少し長いため鉄道ファンからネタにされた。
- 中には全区間乗り通すファンもいた。
- 「大垣夜行」の走行距離よりも少し長いため鉄道ファンからネタにされた。
- 東海道・常磐・東北・高崎線中電の側面方向幕使用開始が1970年代後半だった。
- 常磐線・成田線成田~我孫子間発着の通勤電車は行先のみ表示される。
- 神田付近は先に上部の列車線を建設しその後下部の新幹線の高架を建設したため史実ほど難工事にならなかった。
- 場合によっては'85年3月改正で東北・上越新幹線東京~大宮間が開通した(上野駅新幹線ホームも同時に設置)。
- それでも東海道~東北・上越新幹線の直通は実現しなかった。
- 場合によっては'85年3月改正で東北・上越新幹線東京~大宮間が開通した(上野駅新幹線ホームも同時に設置)。
- 東海道-東北・高崎線直通の中電は基本11両編成(グリーン車連結)+付属4両編成の組成、115系使用としたためサロ115が実現している。
- 115系1000代を東海道-東北・高崎線直通運用向けに多く投入する必要が生じ横須賀・総武線系統への新車導入数を減らしたため初期113系1000代の総武・横須賀地下線乗り入れが実現した。
- クハ115の新製数は史実より少ないはず。
- 静岡所の115系4連は東海道-東北・高崎線直通運用に入ることも多かった。
- クハ115の新製数は史実より少ないはず。
- 東海道線東京口運用の113系の多くは80系などの置き換え用に地方転用された。
- 211系の東海道-東北・高崎線直通運用編成は基本10両編成(G車連結)+付属5両編成に組成され付属5両編成はクモハ211が連結(将来の地方転用考慮)された。
- おそらく1000・3000代で0代は中京圏向けのみだった。
- むしろ首都圏向けに暖地向け211系が投入されたのでは(下記横須賀線ー総武線用の多く)?
- おそらく1000・3000代で0代は中京圏向けのみだった。
- クハ115の新製数は史実より多いのでは(113系を東海道線東京口から追い出し115系統一を図るため)?
- 常磐線中電の直通増加がつくば万博に合わせて実施された。
- 同線通勤電車の15両運行開始時期も早まっている。
- 横須賀線ー総武線中電の車両更新時期が早まっているの思われるので横須賀線ー総武線用211・213系が実現している。
- 静岡所115系4連は1984年2月改正で御殿場線運用を分離しJR化後先頭車へのATS-P設置やブレーキ力向上が行われ改番が実施され2006年頃まで活躍。
- 209系6ドア車はサハ208-951のみでE231系編入と共に廃形式に。
- 勿論京浜東北線の6ドア車はなかった。
- 上野→御徒町間が日本一の最混雑区間にならなかった。
- 勿論京浜東北線の6ドア車はなかった。
- 湘南新宿ラインは運行開始から全列車グリーン車連結だった(遅延防止と上述から211系グリーン車連結編成が2001年当時史実以上存在したと考えられるため115・215系の定期運用はなかった)。
- E217系の湘南新宿ライン定期運用と国府津へ転属する編成はなかった。
- 115系1000代を東海道-東北・高崎線直通運用向けに多く投入する必要が生じ横須賀・総武線系統への新車導入数を減らしたため初期113系1000代の総武・横須賀地下線乗り入れが実現した。
- 常磐・東北・高崎線方面の電車急行・電車特急、常磐線方面の普通・快速に当初から品川発着の列車が存在した(一部は復活)。
- 当初103・115・165・169・181・183・189・401・403・415・451・453・455・483・485・583系が営業列車で乗り入れた。
- その後185・211・E501・651・E653系も営業列車で乗り入れた。
- むしろ当初の計画通りに東京発着となり、2015年3月のダイヤ改正で品川発着となっていた。
- 国鉄はテコ入れのために上野発着の寝台特急と寝台急行が東京までに延長していた。
- 583系でないと難しいのでは?
- そのため東京発着の寝台特急・寝台急行は583系使用に。
- 583系でないと難しいのでは?
- クハ415-1901連結の編成は上野以南の営業運用に入らなかった。
- 上記の寝台急行・寝台特急は廃止まで電車運転だった。
- 「北斗星」「エルム」「カシオペア」は史実と同じ。
- '89年の「横浜博」に合わせて、日中常磐線から上野・東京経由で横浜まで乗り入れる列車が多かった(「横浜博アドベンチャー」号は上野・東京経由で運行)。
- 「つくば万博」へのアクセスのため「エキスポライナー」に神奈川県内発着の便が存在した。
- 横浜博は大成功した可能性も。
- 常磐線取手以北・東北線大宮以北・高崎線の沿線開発がバブル期にかなり進む。
- E501系の増備は2000年頃まで継続し403・415系0代(0'代ではない)を置き換えた。
- 増備途上で国産メーカー製IGBT-VVVF採用や1・10・11号車への車椅子対応トイレ設置、一部号車へのボックスシート配置が行われた。
- 初期車も機器更新時に上記の内容通りの改造が行われた。
- 増備途上で国産メーカー製IGBT-VVVF採用や1・10・11号車への車椅子対応トイレ設置、一部号車へのボックスシート配置が行われた。
- この場合E531系導入数が少し減っている。
- 増備完了からE531系導入開始まで朝のピーク時に上野以南発着の全列車に入った。
- 土浦以北・水戸線転用は史実と同じ。
- 増備完了からE531系導入開始まで朝のピーク時に上野以南発着の全列車に入った。
- 「ホームライナー鴻巣」「ホームライナー古河」は東京発着だった。
- 「ホームライナー土浦」を忘れずに。
- 白岡・鷲宮・栗橋町は2000年までに市制施行、菖蒲町は久喜市と合併しなかった。
- 藤代町は取手市と合併せず単独で市制したかも。
- E501系の増備は2000年頃まで継続し403・415系0代(0'代ではない)を置き換えた。
根岸線
- 1880年代
- 東海道本線の一部になっていた。
- 横浜駅(初代)でのスイッチバックはなかった。
- 戸塚経由のルートは貨物線として建設。
- 品鶴線と同時、遅くとも戦時中には開業していた。
- 1920年代
- 建設動機は関東大震災からの復興と京浜工業地帯の振興か。
- 桜木町事故は起きなかった。
- 山手線の読み仮名はずっと「やまのてせん」のままだった。
湘南新宿ライン
- 1960年代
- 路線案内では「山手線経由」と案内していた。
- 赤羽線は山手線各駅停車に乗り入れていた。
- 武蔵野線開業前なので貨物列車が多く本数は多くない。
- 品川発着・新宿経由の列車も運転していた。
- 東横線の特急誕生が40年早かった。
- 東急初代5000系のカットボディは特急のサボ付きで展示されていた。
- 1973年
- 東京-上野間回送線の廃止代替も兼ねて旅客化。前橋-沼津の普通列車は新宿経由で存続。
- サロ115が1968年頃に登場,以降115系の大量生産に切り替わる(111系・113系の多くは大阪万博輸送に備えて西日本地区へ転属)。111系・113系・153系から改造されたサロ115も多い。
- 新川崎駅がこのとき開業。上記列車の名残で北側は高崎線,南側は東海道線へ多く乗り入れるが,国鉄時代は日中の運転本数が少ない。
- 東京急行は対抗し東横線の特急運行を30年早める。国鉄との差別化のため,1本/毎時は営団日比谷線に乗り入れ。
- 73年に起きた上尾事件と多く結びつけられる。
- 上野駅を発着する急行の多くが新宿駅発着に移行。急行「日光」は同時に特急に格上げ,新宿発着に変更。2020年現在も存続。185系は存在せず,貫通路付きクハ183の生産が早期に再開される。183系が「新幹線リレー号」の多くに使用された。
- 1990年代
- ちなみに史実では、1988年に池袋駅までに乗り入れ、1995年に新宿駅までに乗り入れました。
- 早くても、1998年に開業していた。
- E231系電車の登場が史実より早まっていた。
- 2000年代には史実より多く増発され、高崎線の(籠原駅 - 高崎駅間)も15両編成で運行されていた。
鹿島線
- 1930年代
- 私鉄での開業後、戦時買収で国鉄線編入。
- 社名には「神宮」とか「参宮」などがついていた。
- 当時の法人格は現在の関東鉄道に吸収された。
- 鹿島神宮から鉾田まで開通できたかもしれない。
- 大洗・水戸方面も国鉄工事凍結寸前に駆け込みで開業できたかもしれない
- 鉄道利用が定着し、極端にバス利用に傾かず特急あやめが存続している…わけないと思う。
大手私鉄
京急空港線
- 1960年代前半
- 書類上はかつての休止区間の復活。
- 羽田空港駅と初代穴守駅が同一駅ということにされた。
- 開業時期は東京五輪が近づいてきた1963年11月1日。
- 史実ではこの日路線名が「穴守線」から「空港線」に変更された。
- 国際空港への路線ということで京急のショーウインドーとされた。
- 新車はまずこの路線へ真っ先に導入される。
- 地下鉄1号線は東京五輪までに泉岳寺まで完成した。同時に京浜急行本線泉岳寺-品川間も完成。押上-(普通)-泉岳寺-(急行)-京浜蒲田(のち京急蒲田)-(急行)-羽田空港の運転系統ができる。当初1時間に3本設定された。
- 新車はまずこの路線へ真っ先に導入される。
- 横浜方面からの列車も設定された。
- 京急蒲田駅の構造が史実とはやや異なっていたかもしれない。
- 最低でも2面4線になっている。間違っても2010年までのように2面3線で3番線1つで空港線発着列車をすべて捌くなんていう無理がある構造にはならない。
- その代わり10両編成以上で停車するのは,高架化の後にずれた。高架化自体が1990年頃だったかもしれない。
- 京急蒲田駅の構造が史実とはやや異なっていたかもしれない。
- 400形・500形は大師線で引退していた。
- 「蒲田とばし」は特に問題にならなかったかもしれない。
- 東京モノレールが大打撃を受けていた。
- 下手したら廃線になって90年代まで橋桁が残っていたかもしれない。
- 生き残れたとしても,途中駅の設置が早かったかもしれない。
- 下手したら廃線になって90年代まで橋桁が残っていたかもしれない。
京王相模原線
- 1910年代
- 史実の多摩川支線が最初から対岸に伸びた形で開業していた。
- 周辺状況を考えるとおそらく稲城までが初期開業区間になる。
- 稲田堤で南武鉄道と接続していた。
- 京王よみうりランド駅は矢野口駅(南武線の駅とは別)から改称される形で開業していた。
- 多摩ニュータウンの開発が始まるまでは全電車が調布駅で折り返し運転をしていたか、新宿からの乗り入れがあったとしても各駅停車のみだった。
- その後1970年代に調布駅は全面改修され、地下化ではなく高架化されていた。
- 最初から橋本まで延びていた場合は多摩ニュータウンの構想自体が大幅に変わっていた。
- 史実では未成に終わった城山延伸も実現していた。
- 1960年代後半
- 京王が「多摩高速鉄道」といった子会社を設立し、そこが京王多摩川以西の建設主体になった。
- 開業直前に京王に合併された。
- 最初の延伸区間は京王多摩川~稲城間に。
- この区間で、京王は独自に住宅開発を行った。
- 多摩センターまで延びたのは結局現実と同じ時期に。
東武鉄道
東武野田線
- 1890年代
- 運営は東武鉄道ではなかった。
- 当初は「北総鉄道」とも「総武鉄道」とも異なる社名を名乗っていた。
- 県庁所在地にならなかった岩槻市の圧力と見なされていた。
東武東上線(東上鉄道)
- 1890年代
- 予定通り長岡駅…いや新潟駅まで伸びていた可能性もある。
- そうなると国有化されてこの路線が名実ともに上越線になる。
- 川越線の電化も少し早まっていたか?
- 川越鉄道(国分寺〜本川越)はなかった。
- 西武新宿線の高田馬場〜小平を開通させたのは多摩湖鉄道だった。
東武熊谷線
- 1900年代
- 「熊谷と妻沼の連絡」が建設動機か。
- 社名は「妻沼鉄道」。
- 北武鉄道ともども秩父鉄道に合併され同社の「妻沼線」になっていた。
- そして電化。
- 1920年代
- 東武鉄道の本線系と東上線を接続するための路線として着工される。
- 東松山から西小泉まであまり間隔を置かずに全通していた。
- 開業当初から電化されている。
東急電鉄
東急田園都市線
- 1930年代
- もし玉川電気鉄道が普通鉄道として開通していたらそのまま西に延伸していた。
- 南町田は「玉電鶴間」駅として開業。
- 「新玉川線」という路線名はない。
- 史実通り玉電が軌道線だった場合は目黒蒲田電鉄が建設したかもしれない。
- 溝の口以西も「大井町線」となる。
- 中央林間都市の構想に影響を与えていた。
- 大東急時代に小田原線のいずれかの駅まで延長される。
- 渋谷~二子玉川間は地下ではなく地上線になっていた。
- 半蔵門線とは三軒茶屋あたりで合流。もしくは渋谷を通らないルートになっていた。
渋谷-二子玉川園(旧新玉川線区間)
- 1964年
東急新横浜線
- 1980年代
- おそらく菊名駅を起点として、新横浜を経由して西谷(または二俣川)までの路線になっている。
- 菊名駅は東横線が緩急接続するため東横線とは別のホームになり、同一ホームでは乗り換えできない。
- 二層式になってる。
- ただ東横線沿線から東急の運賃のみで新横浜に行ける便利な路線になっていた。
- 複々線が菊名まで延伸され目黒線と直通するようになっていた。
- 相鉄との直通は当初は行われなかった。
- 00年代くらいにスタートしている。
- 横浜線快速は現在でも菊名は通過。
- 2001年3月の東横特急新設まで存在した菊名駅の「横浜線、新幹線ご利用の方はお乗り換えです」という自動放送はなかった。
- その代わり「新横浜線、横浜線はお乗り換え」という似た路線名2つの案内になって少しややこしくなる。
- 路線名が変わっていたか?
- その代わり「新横浜線、横浜線はお乗り換え」という似た路線名2つの案内になって少しややこしくなる。
- 新横浜駅にのぞみが停まるのが遅くなっていた?
西武秩父線
- 昭和初期
- 池袋線との境界は吾野ではなく飯能だったかも。
- 通称「吾野線(飯能~吾野間)」を秩父に延長した後「秩父線」に改名。
- 現実よりトンネルが少ない。
- 武州鉄道汚職事件はなかった。
- ED60の西武バージョンが登場する。
- 武蔵野鉄道デハ5500形(開通時)の新製数が多い。
- デハ5550形・サハ5650形・サハニ5753形の事か。
- 開通時から秩父鉄道と直通している。
- 戦後小鹿野町経由で軽井沢に延伸。
- 西武5000系は601系ベース(電磁直通ブレーキと空気バネ台車を全車装備)で1963~64年に登場。
- 801系は1970年代まで大量生産された。
- 1989年
- ライオンズの選手が開業記念イベントに登場した。
- 貨物列車は運行されなかったか、史実より本数が少なかった。
京成成田空港線
- 1990年代
- =当初から成田新幹線代替のルートが北総線延伸案を採択した場合。
- JRや京成本線は成田空港に乗り入れていない。
- 一部ではJRの労組の組合員が三里塚闘争のシンパだったので建設させたくなかったという陰謀論がささやかれる。
- 京成本線との連絡線は史実通り開業していたんじゃないだろうか(船橋とか津田沼からのアクセスもあるし)。どのみち旧来の成田空港駅は東成田に改称されてそのまま放置。
- JRや京成本線は成田空港に乗り入れていない。
- 北総鉄道の運営になっていた。
- 当時はまだ小室以西を都市基盤整備公団が保有していたので、その辺りの調整に若干手間取っていたかもしれない。
- 当初の最高速度は100km程度か。
相鉄いずみ野線(いずみ野~湘南台)
- 1970年代
- その場合、1976年と同時に開業していたか、1978年~1980年あたりに開業していた。
- 1990年に香川駅まで開業し、1999年に平塚駅まで開業していた。
- 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの開設も史実より早まっていたかもしれない。
- 相模鉄道は1970年代もしくは、1980年代に大手私鉄としての認定を受けていた。
- 横浜市泉区の人口が史実より多くなっていた。
- 1990年代には、相鉄本線とともに特急が運行されていた。(史実では、2014年に運行され始めた。)
- 1990年
- 1999年に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス周辺までに延伸開業していた。
- その際、「藤沢遠藤」駅になっていた。
- 無論、横浜市泉区の人口が史実よりも多くなっていた。
- 相鉄の湘南台駅は高架駅になっていたかもしれない。
相鉄・JR直通線
- 史実では、2019年11月30日に開業しました。
- 国鉄時代
- 国鉄205系電車が乗り入れていた。
- 新横浜駅~羽沢横浜国大間の開業も史実よりも早まり、東急新横浜線の開業も早まっていた。
- 1990年代
- 池袋駅まで運行していた。
- 相鉄8000系電車が乗り入れ対応になっていた。
- 湘南新宿ラインの横須賀線直通か東海道線直通のどちらかが代わりに相鉄線直通になっていたかもしれない。
- 2000年代
- 湘南新宿ラインの開業が史実よりも早まっていたら、あり得た。
- 東急新横浜線も2019年頃に開業していた。
- 後で、計画が加わってできたものなので、史実通りに、2022年頃に開業していた可能性もあり得る。
- 2009年3月頃に開業していた場合、相鉄11000系電車が埼京線に乗り入れていた。
- 12000系電車の登場は史実通りだが、20000系電車の登場は史実よりも遅れて、登場していたかもしれない。
- 国鉄205系電車が相鉄線を走行する光景を見ることができた。
- 埼京線のE233系の導入は中央線と同じく2006年頃になっていたかもしれない。
- 2010年
- 相鉄11000系電車が埼京線に乗り入れ、史実よりも多く増備されていた。
- 2010年12月のダイヤ改正で開業していた。
- 翌年の東日本大震災の影響で一時的に直通運転を取りやめていた。
- 2014年3月のダイヤ改正or2015年3月のダイヤ改正で増発され、いずみ野線にも乗り入れていた。
- その際に相鉄12000系電車が登場していた。
- 後は2000年代に開業した場合と同じ。
- 2015年
- 12000系電車の登場が史実よりも早まっていた。
- 2017年3月or10月のダイヤ改正で増発していた。
- いずみ野線にも乗り入れていた。
- 埼京線新宿以北・川越線への乗り入れが日中でも実施していたどうかは怪しい。
- 東急新横浜線が2019年頃に開業していた。
- 2019年のラグビーワールドカップの開催に合わせて、開業していた可能性が高い。
- もしくは、予定通りに2022年頃に開業していた可能性もあり得る。
- 首都圏にとって、上野東京ラインの開通とともに、重大な出来事として注目されていた。
- 相鉄沿線の地価が高騰化していた可能性が高い。
- 2019年3月の場合
- 横浜国立大学へ通う学生にとって、便利になっていた。
地下鉄
東京メトロ副都心線
- 1960年代
- 西武の乗り入れはなかった。
- 箱根や軽井沢の開発競争を見ると絶対にあり得ない。
- さらに渋谷駅周辺の西武百貨店は西武鉄道とは全くの別会社のため。
- 東武の電車は全て渋谷止まり。東急の電車は全て池袋止まり。
- 東急の主張で車両は18m。
- 日比谷線同様東急の先見のなさとして語り継がれる。
- でも日比谷線ほどカーブがキツい訳ではないからあっさり20m化対応をしていたと思う。
- この場合東武は有楽町線開業時に直通を打ち切ったか。
- 日比谷線同様東急の先見のなさとして語り継がれる。
- 池袋東急が現存している。池袋東武が史実通りならば東急ハンズの位置に移転かもしれない。池袋丸物は池袋近鉄ではなく史実通りパルコになる。
- 1990年代
- ちなみに有楽町新線(現副都心線小竹向原-池袋間)の開業は1994年である。
- 東急9000系の乗り入れがあった。
- 当初から東武・西武両線乗り入れを考慮している。
- 発車音はブザーのみ。
- 池袋以南の壁面デザインも営団タイプのものになっていた。
- 初期の駅名標は南北線と同様のデザインになっていた。
- 池袋以南の壁面デザインも営団タイプのものになっていた。
- 池袋駅が「新線池袋」と呼ばれることはなかった。
- 要町・千川では最初から客扱いを行っていた。
- 埼京線の渋谷駅が山手線ホームに隣接していた。
- 森林公園始発や飯能始発などの桜木町行きが存在した。
- 当時の東急東横線のホーム有効長を考慮し、東武9050系(現実より多く製作されたと思われる)と西武6000系前期車に、8両固定編成が存在していた。
- 東武東上線の地上車完全10両編成化は行われない。
- E231系500番代の6ドア車は存在しなかった。
- 無論600・4600番代も同様。
- 山手線は2005年頃に全駅ホームゲート設置を完了している。
- 2000年代前半
- みなとみらい線開業と同時期に開業していた。
- 同時に東急東横線・みなとみらい線に直通運転していた。
- ダイヤに関しては現実とあまり変わらない。
- 営団地下鉄としては最後の新規路線となった。
- 1990年代と同じ東急9000系の乗り入れがあった。
- 時期によっては東急3000系も。
- この頃になると発車メロディもそれぞれの駅につけられるようになった。
- Fライナーも2006年頃には存在した。
東京メトロ丸ノ内線
- 昭和10年代
- 車両の大きさは銀座線と全く同じ。
- 池袋ではなく大塚が終点になっていたかもしれない。
- 営業列車でも銀座線直通があった。
- 車両は史実ほど派手な塗装ではない。
- 一部区間は防空壕としての使用も想定される。
- 東京高速鉄道の計画通りにこちらが「新宿線」を名乗った可能性もある。
東京メトロ南北線
- 1980年代
- 当初の答申通りなら有楽町線や半蔵門線より先に開業していた。
- ホームドア設置、ワンマン運転はなかった。
- 21世紀に入ってゲートタイプのホームドアが設置されワンマン化していた。
- 1984年以降開業なら最初からあったかもしれない。
- 開業時の車両は千代田線の6000系に準じた7000系だった。
- 21世紀に入って07系が導入される。
- 有楽町線車両は8000系・08系、半蔵門線車両は9000系・09系になっていた。
- 埼玉高速鉄道ももっと早く開業していた。
都営地下鉄大江戸線
- 1980年代
- 20m車8両編成で運転されていた。
- その分東京都交通局への負債も増加する。
- 浅草線ではなく三田線と規格を共通化していたかもしれない。
- 放射部よりも環状部が優先的に建設される。
- 下手をすると新宿以西は別路線か浅草線の泉岳寺-西馬込間のような状態になっていた。
- もしかしたら江古田から地上に出て西武池袋線に乗り入れをしていたのかもしれない。
- 下手をすると新宿以西は別路線か浅草線の泉岳寺-西馬込間のような状態になっていた。
- ほぼ間違いなく「大江戸線」という路線名にはなっていない。
- 「内都心線」だったりして。
- 1989年に練馬~光が丘間が開業した場合、当路線が日本初の鉄輪式リニアモーターミニ地下鉄になっていた。
- 1996年末までに練馬~新宿間が開業していた。
- 1990年代前半
- 1991年に練馬〜光が丘間で12号線として開業しましたが、もし同時期に全線開通していたら…
- 12-000形の白い塗装車は現実より遥かに多くなっていた。
- 1990年代後半ぐらいに増発された場合、非塗装車が製造されても現実より非塗装車の影は薄かった。
- 2008〜2009年頃には既に12-600形が存在し、2019年度内に12-000形は全部廃車になっていた。
- あるいは12-000形を大規模改造していた。
- 汐留駅も遅くとも1998〜1999年頃には開業していた。
- その場合、東新橋駅とかになっていたかもしれない。
- そのため、ゆりかもめの汐留駅も現実よりも早く開業していた。
- 浅草線のエアポート快特も最初から大門も停車していた。
- 「大江戸線」という名前になっていたかどうかは微妙。
- 一部の駅の名前が違ってたかもしれない。
埼玉高速鉄道
- 関連項目:もし武州鉄道が廃止されなかったら
- 1980年代
- バブル時代なので一気に蓮田駅まで開業していた。
- 今頃、羽生駅延長も計画していただろう。
- 浦和美園の開発も早まる。
- 浦和美園ではなく新浦和と名乗っていた可能性もゼロではない。
- ゼロでしょ。浦和から遠すぎるし・・・
- むしろ浦和市内に浦和が付かない駅が出来ていた可能性が高い。
- 浦和美園ではなく新浦和と名乗っていた可能性もゼロではない。
- 赤羽岩淵ではなく王子か池袋あたりが起点となっていた。
- 後者の場合は副都心線との直通を行っていた。
- 逆に営団が東川口まで造り、以北が埼玉高速鉄道という可能性もある。
- 1990年代
- 早くても、1992年頃に開業していた。
- 1991年11月に営団南北線(駒込~赤羽岩淵間)と同時に開業していた可能性が高い。
- 2001年に岩槻まで延伸開業していたかもしれない。
- 2002年のFIFAワールドカップに控え、埼玉スタジアム付近までに開業していた可能性もあり得る。
- 浦和美園駅周辺の開発は史実よりも進んでいた。
- 開業を機に、営団南北線は6両編成で運行されていた。
- 埼玉高速鉄道2000系電車は史実よりも多く製造されていた。
東葉高速鉄道
- 1960年代
- 営団地下鉄(東京メトロ)東西線と同時期に開通していたら?
- 営団地下鉄(東京メトロ)勝田台線として開通を果たし、今のような高額運賃になることはなかった。
- 京成電鉄のバイパス線としての役割を果たせていただろう。
- 1970年代後半
- 開業当時の車両は営団7000系の車体構造・走行機器類、京成3500形の内装を組み合わせた車両だった。
- 運賃は現実よりわずかに安い。
- 1990年代前半
- 当初の開業予定は1993年春に開業する予定でした。
- バブル期と重なっていたので、沿線における開発が史実よりも進んでいた。
- 東葉高速鉄道1000形電車の運用が史実よりも若干長く運用されていた。
横浜高速鉄道みなとみらい線
- 1980年代
- 1985年以降に開業していた。
- 1989年に開催された横浜博覧会を機に、臨時列車が運行されていた。
- 駅名は開業当時に「高島駅」「みなとみらい中央駅」「北仲駅」「県庁前駅」「元町駅」になっていた。
- 各駅のホームは、20m車10両分設置可能な空間が、建設時から確保される。
- みなとみらい中央以南は横浜ベイブリッジ開通後に建設。
- 横浜市営地下鉄3号線関内~山下町間建設(史実では中止)は、'73年9月に変更された予定ルートの本町通りが、横浜港へのトラックが多く通行し、3号線建設工事による渋滞が懸念され、ベイブリッジ開通まで着工が延期されたため。
- 遅くても1999年(横浜開港140周年)までに本牧まで延伸。
- 東急東横線菊名~横浜間は、みなとみらい線の開業と同時に保安装置がATCに移行。
- みなとみらい線の保安装置は開業当初からATC。
- 東急8090系は当初から先頭車に貫通扉が設置された(当初からATCの搭載を考慮)、8590系は存在しない。
- 8500系の後期車は8090系と同じ構造に。
- 開業当初自社保有の車両はそれと同型だった。
- 東急東横線ではなく、JR横浜線と直通運転をしていたかもしれない。
- 1990年代
- 駅名と路線名は史実通り。
- 横浜高速鉄道Y500系電車と東急5000系電車の登場が史実より早まっていた。
- 田園都市線への5000系電車の投入は予定通り250両となっていた。
- 田園都市線には、5050系電車が投入していた。
- その代わりに、2020系電車の投入はなかったか、もしくは、史実より遅れていた。
- 東急3000系は史実の300系が名乗った。
- 田園都市線への5000系電車の投入は予定通り250両となっていた。
- 1998年までに開業した場合、横浜ベイスターズの日本一で祝賀列車が運行されていた。
- みなとみらい線の各駅は、当初からユニバーサルデザインを考慮している。
- 横浜駅の横須賀線、湘南新宿ラインホームの拡張工事の完成が史実よりも早まっていた。
- 東急東横線の跡地に遊歩道が史実よりも早く出来上がっていた。
- 2001年
- 横浜高速鉄道Y500系電車と東急5000系電車の登場が2001年に早まっていた。
- 5000系電車は東横線で運用され、5050系電車は5050系電車で運用されていた。
- 時期的に埼玉高速鉄道の開業と重なった。
- 開業と同時に東横線の特急の運行が開始されたか、開業に見越して、1997年3月か1999年3月のダイヤ改正で運行が開始されていた。
横浜市営地下鉄ブルーライン
- あざみ野~新百合ヶ丘間が別の時期に開業していたら
史実では、2030年度に開業予定。
- 2000年代
- 3000S形が史実よりも多く製造されていた。
- 場合によっては、3000N形電車と3000R形電車が史実よりも多く製造されていた可能性もあり得る。
- 2008年に開業した場合、グリーンラインの開業と同時になっていた。
- グリーンラインの開業が2001年~2006年頃に早まっていた可能性もある。
- 快速運転の開始が史実よりも早まっていた可能性もあり得る。
- 2010年代
- 3000V形の登場が史実よりも早まっていた。
- ヨネッティー王禅寺付近を通る「東側ルート」で開業していた。
- 東急田園都市線の混雑がさらに激しくなっていたかもしれない。
- 1990年代
- 新横浜~あざみ野間の開業が史実よりも早まっていた。
- 横浜~新横浜間or上永谷~戸塚間の開業が史実よりも早まっていたかもしれない。
- 港北ニュータウンは史実よりも発展していた。
- モザイクモール港北、港北 TOKYU S.C.の開業が史実よりも早まっていた。
- 2002年におけるFIFAワールドカップ応援の企画はどうなっていたのであろうか?
- 上大岡~伊勢佐木長者町間が別の時期に開業していたら
1949年、横浜市が発表した「横浜市建設計画概要」の高速鉄道の建設で、横浜~高島町~桜木町~磯子~杉田~金沢~鎌倉~大船~戸塚~中山~綱島~市場町~生麦~横浜間の環状線と、桜木町~弘明寺間の分岐線の計画が盛り込まれた。
- 1959年
- 同年の横浜開港100周年・横浜市政70周年を機に、開業した。
- 市政ではなく市制。
- 当初の車両は営団(のちの東京メトロ)300・400・500形と似たもの。形式名は「2000形」辺り<既存の市電との兼ね合い,2000年(当時の近未来)を目指す意味合い>。
- 郊外私鉄との乗り入れは一切考えない。
- 1964年に新横浜~伊勢佐木長者町間、1960年代後半に上大岡~上永谷間が延伸開業する。
- 港北ニュータウンの開発が多摩ニュータウンと同時期になり、(あざみ野ではなく)たまプラーザ~新横浜間が1970年代前半に延伸開業。
- 上永谷~戸塚間は1970年代後半、新百合ヶ丘~たまプラーザ間は1980年代前半に延伸開業。
- 戸塚~湘南台間は1989年(横浜市制100周年、横浜開港130周年)に延伸開業(下飯田~湘南台間は当初から、相鉄いずみ野線の乗り入れを想定した構造)。
- グリーンラインは2000年頃に開通した。
横浜市営地下鉄グリーンライン
構想自体は1960年代からありました。
- 1980年代
- 2000形電車と同じタイプが運行されていた。
- 2000年代には、中山~元町・中華街間が開業していた。
- 2000年代前半
- 無論、東急目黒線の武蔵小杉~日吉間の開業が史実よりも早まっていた。
- センター北駅とセンター南駅周辺にある商業施設の開業が史実よりも早まっていた。
- 2002年までに開業した場合、FIFAワールドカップの開催によって、ラッピング列車が運行されていた。
- 2004年以降にブルーラインのあざみ野~新百合ヶ丘間が開業していた。
- 1990年代
- 港北ニュータウン計画の一環として、実施されていた。
- 東急目黒線の武蔵小杉~日吉間の開業が史実よりも早まっていた。
東京メトロ半蔵門線
当初の予定では、1975年9月に渋谷~三越前間が完成する予定でしたが、沿線の地権者による反対運動により、予定が大幅に遅れました。
- 渋谷~三越前が1970年代に開通していたら
- 営団08系電車が開通時に登場していた。
- 水天宮前までの延伸が1980年代に、押上までの延伸が1990年代に実現していた。
- 押上延伸と同時に東武伊勢崎線館林まで・日光線南栗橋までの相互直通運転が開始されていた。
- 半蔵門~三越前間の開業が1988年頃までに開業していたら
- 1987年までに開業していたら、営団車両による10両編成の運転が開業時に実施されていた。
- 当路線が平成で初めての鉄道路線の延伸となることはなかった。
- 押上までの延伸は1990年代に実現し、同時に東武伊勢崎線館林まで・日光線南栗橋までの相互直通運転が開始されていた。
- 水天宮前~押上間の開業が1990年代に開業していたら
- 北千住駅の改良工事が完成した1997年かそれ以降に開業していた。
- 営団08系電車と東武50000系電車の登場が史実よりも早まっていた。
- 場合によっては、50000系電車は東上線ではなく、本線に投入されていたかもしれない。
- 2000年代前半には、相互直通運転区間が久喜駅までに延長されていた。
- うまくいけば当初から伊勢崎線館林までの直通が実現していた可能性も。
- その場合久喜~館林間の沿線開発が史実以上に進行していた。
- うまくいけば当初から伊勢崎線館林までの直通が実現していた可能性も。
- 急行「しもつけ」、「ゆのさと」、「きりふり」への特急格上が史実よりも早まっていた。
- 水天宮前~押上間の開業が2000年か2001年に開業していたら
- 営団08系電車が2000年1月か2001年1月に運用開始していた。
- 2001年に開業した場合、東武伊勢崎線越谷~北越谷間高架複々線化の完成と同時期であった。
- 久喜駅までの乗り入れが2003年3月に早まっていたかもしれない。
- 開業と同時に乗り入れていたかしれない。
- 当時の久喜駅の配線の都合で開業と同時に館林まで直通していたか(館林分断も同時に)。
- そうなると久喜~館林間の沿線開発の進行が現実以上だった。
その他
つくばエクスプレス
- 1890年代
- 日本鉄道運営。
- 終点駅は秋葉原駅ではなく上野駅か日暮里駅。
- つくば(「竹園」?)から先は現実の筑波鉄道のルートで岩瀬まで伸びていた。
- 東京上野ラインの計画はこの列車も含まれていた。
- 要するに北千住-土浦付近の海岸線(現常磐線)のルートが変わっただけ。
- 当時はまだ平行線を走らせるほどの需要はなかったはず。
- 常総線と竜ヶ崎線は守谷が起点だった。
- 全区間踏切なし・全駅ホームドア付きの近代的な路線にならず、130km運転もなかったかも。
- 1970年代
- 車両は415系だったか?
- 直流区間はなぜか70系。
- むしろ101系や401系の溜まり場に。
- さすがに廃止対象にはなっていない(はず)。
- 常磐線と接続され特急や急行も走っていた。
- 上野駅などでは誤乗防止のため「筑波経由」「取手経由」などという案内がされていた。
- 筑波鉄道は史実より数年早く廃止された。
- 筑波以北は残っている気がする。
- 1980年代
- 車両は415系(といっても顔が211系のほう)。
- 113系を改造したものは無いだろう。
- ここじゃあるまいし。
- 113系を改造したものは無いだろう。
- 国鉄の緊縮財政で北千住止まり。
- 秋葉原延伸は民営化後。
- むしろ南千住まで複々線化用地を確保して打ち止めになる。
- 地下化するにしても史実のようなルートにはならないと思う。
- むしろ南千住まで複々線化用地を確保して打ち止めになる。
- 国鉄ではなく地元などが出資した3セク会社だった可能性もある。
- 秋葉原延伸は民営化後。
- 開業はつくば科学万博の直前。
- つくば科学万博のメインアクセス路線として大活躍し、入場者数も現実以上に多かった。
- 2000年代前半(2000年も含む)
当初の計画では2000年に開業予定でした。
- TX-1000系電車、TX-2000系電車の登場は史実通り。
- 2004年に放映された大河ドラマ「新選組」をきっかけに、流山市に訪れる人が史実より多かった。
- これを機にラッピング列車が運行されていたかもしれない。
- 2003年に開業した場合、圏央道の一部開通と同時期であった。
りんかい線
- 1960年代
- 東京オリンピックの開発になっていたか怪しい。
- 当時は何もないので明らかに貨物列車向けなので。
- トンネルはそんなに長くないような気がする。
- 京葉線の開業も早まる。(とは言っても貨物列車での開業)
- 臨海副都心は貨物駅跡地の再開発名目で建設されていた。
- というわけで史実通り旅客化される。
- 当然ながら国鉄線としての開業。
- 京葉線の一部になっていたか、そうでなければ「東京臨海線」といった名前になっていた。
- 1980年代
- 東京臨海高速鉄道として開業か、JRで開業する理由で揉めるのか?
- JRで開業していたら、埼京線か京葉線の路線になっていた。
- 開業当初は貨物列車が中心になる。
- 駅名も「13号地」などの無味乾燥としたものがメインになる(後に改称)。
- 南八潮→品川シーサイド、東品川→天王洲アイル、13号地→東京テレポート、10号地→国際展示場、11号地→東雲、新木場(当初から)か。
- 駅名も「13号地」などの無味乾燥としたものがメインになる(後に改称)。
- 埼京線は開業初期からりんかい線と直通運転してた。
- 車両は1980年代前半の場合は201系、1980年代半ばか後半の場合は205系をベースにして製造してた。
箱根登山鉄道
- 1870年代
- 東海道本線の支線になっていた。
- 1879年末の時点でも開業区間は新橋-横浜、京都-神戸しかなかったのでそれはない。
- 省線が箱根を直接経由しようとした準備云々としてならまだ可能性はあるんじゃないの?
- 1879年末の時点でも開業区間は新橋-横浜、京都-神戸しかなかったのでそれはない。
- 箱根の観光開発は史実よりも早く行っていたか。
- 当時の技術では建設できなかった公算が大きい。
- ヨーロッパの似たような地理的条件の登山鉄道ができたのは古くても19世紀末から20世紀初頭くらい。
- 本当に開業していたら「19世紀後半の特筆すべき鉄道技術の金字塔」などとして世界遺産に登録されるのは確実。
- 少なくとも箱根湯本までは作れると思うんだが・・・。
- ラックレール式鉄道の確立前になるから、箱根湯本から先はケーブルカーになっていた可能性が高い。
- 1930年代
- 小田原急行電鉄が建設していた。
- 場合によっては社名が「箱根急行電鉄」になっていた。
- 箱根湯本までは最初から狭軌の線路しか敷かれていない。
- 逆に小田急が標準軌で建設されていた場合は千代田線の直通相手が変わっていただろう。
鹿島臨海鉄道大洗鹿島線
- 1930年代
- 史実の鹿島線に相当する区間も同時に開業。
- 水戸-香取が1本の省線となっていた。
- 鉾田では鹿島参宮鉄道(のち鹿島鉄道)と乗り換えられた。
- 茨城交通水浜線の寿命は確実に縮まっている。
- 東京か両国-千葉-佐倉-鹿島神宮-水戸のルートに急行(のち特急)が運転された。
- 名称は「かしまなだ」か。
- 鹿島臨海工業地帯の計画内容が大きく変わっている。
- 神栖線も旅客化されていた。さらに銚子方面への延伸も検討される。
北総鉄道
- 1930年代
- ニュータウンがない変わりに印旛沼あたりに大浴場や野球場が存在した。
- 京成グループじゃなかったかもしれない。
- 自力で都心や山武方面に延伸していたかもしれない。
- さらに自力で成田まで延伸し、空港直通の輸送にも携わっていた。
- 下記同様、運賃はそこまで高くない。
- 1970年代前半
- 開業当初はリース車両のみの保有だった。
- 千葉ニュータウンへのアクセスが重要視されたため史実とは異なり京成高砂から開業していた。
- よって新京成との乗り入れはなかった。
- 最初から東京方面に直通していたため、運賃があそこまで高額になることはなかった。
- 成田空港への延伸は約20年後に実現。都営5200形は大量増備。地下鉄1号線の8両化が10年程早く進んだ。京浜急行を含む4社局乗り入れが70年代後半に実現。但し暫くは朝時間帯が殆ど。
- 成田空港まで延伸されても北総線のまま。空港第2ビル・成田空港両駅の中間改札は(京成グループ内)別会社のためにある,とされる。後に撤去されない。
- AE100形以降のスカイライナー車両は北総鉄道が所有。大規模な検査は宗吾工場で。
千葉急行電鉄
- 1960年代
- 小湊鉄道の路線として開業していた。
- 千葉駅まで乗り入れていた場合、史実の車両は一掃されている可能性が高い。
- 1970年代前半
- 市原ニュータウンの開発は進んでいた。
- 破綻することもなかったかもしれない。
- 1930年代
- 京成が「両総(上総と下総を結ぶ)急行鉄道」の様な子会社をつくり、そこが建設した。
- 開業当初の車両は京成200・210形と同型車両だった。
- 戦時統合で京成に吸収された、その際に路線名称が千葉線に統一。
- 途中白井村(現在の千葉市若葉区)を経由、旧白里町辺りが終点だった。
- 京成は海水浴輸送に注力した、戦前から京成上野~京成津田沼~京成千葉(現在の千葉中央駅)~白里間に急行が走った。
- 海士有木方面へは白井村で分岐していたかも。
- '30年代中に開業できていたら袖ヶ浦自動車と千葉郊外自動車の合併が実現している。
- 1980年代
- 中断することなく、真面目に工事を行っていたら、開通することができた。
- 1980年代後半に千葉中央~大森台間が開業し、1990年代前半に大森台~ちはら台間が開業していた可能性もあった。
- 大森台~ちはら台間が1991年3月に開業していたら、京成電鉄にとって、大規模なダイヤ改正になっていた。
- 京成3600形電車と京成3700形電車と京成3400形電車の投入が史実よりも早まっていた。
- 京成3700形電車と京成3400形電車が史実よりも多く製造されていたかもしれない。
- 開業が1988年以降になったら、京急から旧1000形電車をリリースしていた。
- 予定通りに、1997年4月に千葉中央~大森台間が複線化されて、2000年4月に大森台~ちはら台間が複線化されていたかもしれない。
- 千葉急行電鉄の経営状態は若干マシになっていたのかもしれないが、それでも、1998年10月に京成電鉄に譲渡されていた。
- それでも、海士有木への延伸計画は難航していたであろう。
- 辰巳台までの延伸は実現していたかもしれない。
ドリーム交通
- 1980年
- 日本跨座式モノレールの企画で開業されていた。
- ドリームランド周辺がドリームハイツ以外もニュータウン化されていた。
- ダイエーグループではなくかなちゅう、相鉄、小田急が出資していた。
- 大船〜ドリームランド間は小雀駅、相模原宿駅、相模深谷駅もできていた。
- 開業から数年後、長後や綾瀬市を経由したルートにて延伸開業が進んでいた。
- そうなれば並行する神奈中バスの路線も再編されていた。
多摩都市モノレール
上北台~箱根ヶ崎間
- 2019年
- 念願の鉄道が開業したことにより、武蔵村山市にとって、喜ばしい年であった。
- 遅くても、10月頃までに開業していた。
- 町田方面の延伸計画に力を注いでいた。
立川北~上北台間
- 1990年代前半
- 当初の開業予定でした。
- 時期的にファーレ立川の開業と重なっていた。
- 立川駅周辺における開発も史実よりも進んでいた。
- 2000年までに上北台~箱根ヶ崎間が開業していた。
立川南~多摩センター間
- 1970年代前半
- 多摩ニュータウン周辺の交通整備事業として建設された。
- 史実通り日本跨座式が採用された。
- 「東京都地下鉄建設」に相当する東京都系の企業が約20年早く設立され、社名が「東京都交通開発」辺りになる。
- 1970年代以降に建設された都営地下鉄の区間(新宿・大江戸線の全線)と日暮里・舎人ライナーはそこが建設主体に。
- 姫路モノレールのように東京都交通局の直営となった。
- おそらく「東京都交通局のモノレール構想」、「環5モノレール線」も実現していた。
- 東京都交通局は跨座式と懸垂式のモノレールを保有する珍しい交通事業者となった。
- 「立川南」駅は開業当初「立川」駅を名乗った。
- 現実より運賃は安くなっていたか。
千葉都市モノレール
- 1970年代
- 当初の車両は湘南モノレール300形ベースだった。
- 最初の開通区間はどうなっただろうか。
- 1号線は現実の千葉急行電鉄の代わりに、県庁前駅から千葉寺駅を経由、以降現実の千葉急行電鉄のルートで延長されていた。
- 株主に千葉中央バス・小湊鐵道(両社共に京成系列)も加わっている。
日暮里・舎人ライナー
※当初の予定では、1999年度、2002年度に開業する予定でしたが、諸事情により、2008年3月に伸びました。
- 1990年代
- 当初から建設と運営主体は東京都になっていた。
- 都営バス里48系統は廃止されていた。
- 330形電車は300形電車の置き換えとして、投入されていた。
- 2010年代末には埼玉県への延伸が実現していたかも。
- 2003年
- 300形電車が史実よりも多く製造されて、混雑が若干緩和されていた。
- 場合によっては、330形電車と320形電車が投入されることはなかったかもしれない。
宇都宮ライトレール
- 全般
- 開業時期によっては宇都宮市などの沿線自治体は経営に関わらなかった。
- 戦前に開業した場合戦時統合で他社と合併していた。
- 1900年代
- 開業当初の社名は「芳賀軌道」。
- 「日本鉄道(→省線)宇都宮駅と芳賀地域の連絡」が建設目的とされた。
- 当初は非電化だったが、昭和に入った頃に電化。
- のちに宝積寺と烏山を経由して大子まで延伸していたかも。
- この場合省線(現在のJR東日本)烏山線は存在しなかった。
- 戦時統合で関東自動車と合併し、合併会社が「栃木交通」を名乗った。
- この場合史実の「栃木交通バス」は別の社名を名乗る。
- 1930年代